東方先代録   作:パイマン

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過去編ラスト。


其の十七「風神少女」

 私は、この世界が『ゲーム』ではなく『現実』であると、改めて実感していた。

 目の前に在るのは道筋の定められた『ストーリー』や『展開』、あるいは『お約束』などといったものではない。

 れっきとした現実なのだ。

 物語を盛り上げる為の理不尽な展開など無く、道理が通れば、その先には不変の結果しか存在しないのだ。

 

 ――つまり、何が言いたいかというと『百式観音』無双状態だった。

 

 いや、理屈は分かるよ?

 この技は動作の無駄を限りなく省き、相手に感知されない程『静かな攻撃』である点がミソなのだ。

 何かしらの前動作や溜めが必要な必殺技とは正反対に位置する技だ。

 まさに私の切り札であり、だからこそ椛との戦いでは出し惜しみしていた。

 まあ、その結果。使うべき機を逃して、結局追い詰められてしまったのだから、私の判断ミスとしか言いようがない。

 切り札だからこそ、いざという時のために温存するという考え方が間違っていたのだ。

 だから、駆けつけた三人の哨戒天狗との戦闘に入った時には、その反省を活かして最初から全力を出すことに決めた。

 三対一という、単純に数の上で不利な状況だ。

 とにかく数を減らす為に素早く倒さなければならないと考え、形振り構わずに初撃から切り札を切った。

 

 ――そしたら、三発で勝負が決まった件について。

 

 繰り出した百式観音に、何も対抗出来ず、敵は順番に吹き飛んでいった。

 最初の一人が初見の技に対応出来なかったのは当然として。

 攻撃の正体を掴めず、いきなり吹き飛んだ仲間の様子に驚愕する二人目の横っ面へ二発目が直撃。

 さすがに三人目は間隔を置いたので対応しようと行動を起こしたが、距離を取ろうと空を飛んだ瞬間に三発目の衝撃波で打ち落とした。

 この間、わずか三秒ッッ!!

 ……いや、マジでそれぐらい瞬殺だった。

 追い詰められていた為、とにかく敵を倒すことに集中していた私も、この結果には逆に呆然としてしまうくらいだ。

 敵が雑魚だった、などと根拠の無い評価を下すつもりはない。

 むしろ、椛と同じ仕事に就く仲間なのだから、戦闘に関しては同じプロフェッショナルなはずだ。

 それがまともに戦うこともなく、倒されてしまったのだ。

 強すぎだろ、この技……。

 自分で習得しておきながら驚く。っつーかむしろドン引きである。

 修行自体に重きを置いていたので、技の性能にはそれほど関心がなかったが、ここまで優秀だとは思わなかった。いや、凶悪と表現した方がいいか。

 こういう切り札的な技って、多用するとすぐに対抗策を使われてしまうのが漫画のお約束だが、現実の前にはそんなフラグなんて何の意味も無いね。

 発動できれば対抗どころか、反応すら許さない。

 苦戦必至の戦闘を全部省略だ。

 相手に感知出来ない攻撃を、真っ先にぶっ放す。格闘ゲームで言う『開幕ぶっぱ』という奴だが、どうやらこれはかなり有効な戦法らしい。

 人間であり、戦闘経験も乏しい私が妖怪とガチンコしたら不利なのは、椛との戦闘で実感したから『相手の実力を封じて勝つ』というのは身に染みて分かる理屈だ。

 というか、これは対妖怪戦の鉄則だな。

 覚えておこう。

 とにかく、予想外の結果になったが、これはむしろ良い方向へ転んだ結果だ。

 私の目的はあくまで『攫われた子供の救出』であり、戦闘は極力避けるか、時間を掛けないようにしたい。

 無駄な消耗も御免だ。

 他にも天狗の応援が駆けつけないとも限らないので、これ幸いとばかりに私はさっさとこの場から離れることにした。

 その時。

 

「これなるは天狗の領域、無断で立ち入るとは不届き千万!」

「うぉ――ッ!?」

 

 突如、横殴りの突風に吹き飛ばされた。

 いや、風と言うより、もうほとんど衝撃波のレベルである圧力に、体ごと木に叩きつけられる。

 明らかにまともな風じゃない。直前までほとんど無風状態だったってのに!

 打ちつけた背中も痛いが、その衝撃が伝わって右腕の傷がズキンズキン言ってるのを内心涙目で堪えながら、私は風の吹いた方向へ視線を走らせた。

 

「おや? ……おやおや、これは何たることでしょう。侵入者の正体が、博麗の巫女様であったとは!」

 

 やべえ。想像する限り、最悪の事態になってしまった。

 上空から私を見下ろして驚いているのは射命丸文だった。

 手には先ほどの風を起こした時に使ったと思われる天狗の扇。首からは、何気に私も幻想郷で初めて見る文明の利器であるカメラを下げていた。

 この格好からイメージ出来るように、鴉天狗である射命丸は記者みたいな役職に就いている。

 椛みたいに侵入者と戦うような仕事はしてないと思うんだが、だからといって見逃してくれそうにはないな。この反応からして。

 ……妙に大げさなリアクションに見えるけど、気のせい?

 

「いけませんねぇ、巫女様。理由は存じませんが、哨戒天狗の者らまで手に掛けたその蛮行、大いに問題となりますよぉ?」

 

 理由は存じません、の辺りのアクセントを妙に強めた言い方だ。

 その強調がどういう意味を持つのかは分からないが、この台詞自体が私を威圧しているものだというのは分かる。

 射命丸は嫌らしい笑みを浮かべながら、私の弁明を待つように見下ろしていた。

 いや、悪いのは勝手に入り込んだ私なんだから『嫌らしい』とか思っちゃ駄目でしょ。

 彼女からすれば、私が椛を含む仲間の天狗をボコって、勝手に自分達の領域に入り込もうとしている不愉快な状況なワケだ。

 そりゃ、良い感情を持つはずがない。嫌味の一つも言いたくなるだろう。

 

「……すまない」

 

 私は頭を下げて謝罪した。

 射命丸とはここで初めて会ったわけではない。

 博麗の巫女として就任したすぐ後に、彼女は神社へ取材に来た。

 実はその時の出会いが、私にとって東方キャラとの二回目の邂逅だったりする。

 最初に出会った紫の次に会う可能性が高いはずの八雲藍とは、博麗の巫女としての修行や職務に慣れ始めた頃にようやく顔を合わせたのだ。

 それに反して、射命丸は私が博麗の巫女になって、それが人里に発表された数日後には神社へやって来ている。

 同じ人間同士でも情報が十分に広まっていない時期だったというのに、一体どうやって掴んだものか、謎だった。

 情報早すぎだろ。

 ひょっとして、私って意外と注目されてる? なんて冗談半分に自惚れた考えが浮かんだ程だ。

 もちろん、そんな筈もなく。むしろ取材されて射命丸が記事にしてくれたはずなのに、未だに人里以外の集落とかでは私の認知度は余りよろしくないくらいである。

 まあ、その辺は博麗の巫女自体が、ゲームみたいに絶大な存在じゃないこともあると思うけどね。

 それに肝心の私が記事になった新聞を、私自身はこれまで一度も見たことがない。

 紫なら新聞を見ているかと思って、たまにそれとなく尋ねてみるが、毎回はぐらかされるし……何て書かれてるのか微妙に気になります。

 とにかく、私と射命丸は知り合いだった。

 ただ、本当に『知り合い』なだけであって、悲しいことに親しい間柄では全然無い。

 むしろ、取材の受け答え以外に雑談や世間話などのまともな会話すら交えたことがない。

 ほとんど一方的に写真を撮って、質問というより確認のように何かを尋ねて、それに私が答えたらサヨナラって感じで毎回足早に去ってしまっている。

 私としては、もちろん積極的に仲良くなっていきたい相手ではあるのだが、実際の仲は『他人よりマシ』って程度なのだ。

 当然、気心知れた者同士の馴れ合いなど不可能であるから、私はただ真摯に頭を下げることしか出来なかった。

 心情的にはもちろん、実力的にも射命丸とは対立したくない。

 

「謝罪の言葉が薄く感じますねぇ。私の大切な部下を、無残な姿で地面に転がしてくれたのは貴女なのでしょう?」

 

 射命丸の指す先には、気絶した椛の姿だった。

 やっぱり、二次設定通り椛は射命丸にとって大切な位置にいるキャラなのね。

 ううっ……相手の怒りが正当すぎて何も言えない。

 このまま怒って『ここから出てけ』と言われたら、どうしよう?

 素直に退くことは出来ないが、非は私の方にある。

 開き直って、こっちの要求を無理矢理通すことなんて出来ない。

 私はもう一度『すまない』と謝ると、おこがましさを自覚しながらも決意を固めて射命丸を見上げた。

 

「貴女の力を借りたい。頼む、助けてくれ」

「……はあ?」

 

 先ほどまでの見下すような笑みが消え、射命丸は呆けたような声を上げた。

 まあ、当然か。

 私としても恥知らずな話だとは思うが、何より今は時間が無いのだ。

 子供が手遅れになる前に何とかしたい。

 天狗の中でも大物である射命丸が相手ならば、話がどっちに転がっても事態は大きく進展する。

 話が拗れれば問題は一気に膨れ上がるが、逆に協力を得られれば一気に好転するのだ。

 

「他の天狗に話を通して欲しい。こちらの問題が片付いたら、そちらの望む処罰は必ず受ける。償いもする」

 

 私の要求に対して、射命丸は何やら複雑そうな表情を浮かべて黙り込んでしまった。

 その胸中でどんなことを思い、考えているかは分からない。

 やっぱし……呆れてるかな?

 それでも何とか受け入れて欲しい。

 一笑されることなく、考えに入れてくれている時点で僥倖ではあるんだけどね。

 やがて、考えが纏まったのか、射命丸は再び笑顔を浮かべた。

 ――やはり、そこに浮かぶのは何か悪いことを企んでいるような印象を受ける、嫌らしい笑みだった。

 

「よろしい! そちらに何かしら事情があることは分かりました。恥を忍んだ、その意を汲んであげましょう!

 ただし――私も立場上、ただで人間如きの要求を受け入れるわけにはいきませぬ。その実力をもって、己の意を通してみせなさい。

 噂に聞こえし博麗の巫女の力、果たして天狗を従えるに足るか否か? この身で試させていただきましょう。

 さあ、手加減してあげるから本気で掛かってきなさい!」

 

 なるほど。結局、射命丸との対決自体は避けられないってことですね。分かります。

 ……私って、毎回このオチばっかりじゃないですか! やだー!

 

 

 

 

 博麗の巫女が助けを求めた時、文は一瞬言葉に詰まった。

 元より、彼女の事情は把握しているし、ここに至るまでの経緯もしっかり見ている。

 チョッカイを掛けたのは、戯れと気まぐれ、そして愉悦交じりの悪意からだった。

 言い分など最初から聞くつもりはない。適当にからかうだけのつもりだった。

 しかし、文はその時一瞬とはいえ考えてしまった。

 

 ――ちょっと待て、考えるって何をよ?

 

 自問し、文は我に返った。

 何に対して悩んだのかは自分でも分からない。

 ただ確かに、自分は迷った。

 目の前の少女の助けを乞う声を聞いて、一瞬とはいえ葛藤した。

 

 ――駄目ね。やっぱり、この巫女相手だと調子が狂うわ。

 

 自分自身にも分からない不可解な思考と、それに対する疑念を頭の隅に無理矢理押し込める。

 まともに相手をするな。当初の予定通り、目の前の人間で軽く遊んでやればいい。どうせ、こいつは新聞のネタだ。

 そう気を取り直して、文はすぐさま笑顔の仮面を嵌め直した。

 相手の頼みを聞き入れるように見せかけ、戦う状況へと話を持っていく。

 

「噂に聞こえし博麗の巫女の力、果たして天狗を従えるに足るか否か? この身で試させていただきましょう」

 

 適当な建前で飾った言い方だが、文の真意からも余り外れた内容ではなかった。

 あの無力だった子供が成長し、大きく力をつけたことは知っている。

 何より、文は先ほどの戦闘までしっかりと見ていたのだ。

 あの椛との勝負――いや、命を賭けた戦闘を制しただけでも大したものだ。

 その実力の限界を見たいという興味が、文の胸には湧いていた。

 また、同時にそれを捻じ伏せてやろうとも考えていた。

 椛相手に勝ったとはいえ、辛勝であったことを含めれば、次に始まった三対一の戦いでは苦戦か、あるいは敗北も在り得ると予想していた。

 しかし、実際は一方的な巫女の勝利。

 下っ端天狗とはいえ、三人を瞬殺である。

 さすがにあれは予想外だった。

 正直、傍で見ていた文でさえ、あの時の攻撃の正体は見極められなかった。

 あの人間に関わって、驚いたことや意表を突かれたことは幾つもある。

 だが、今回のそれは悪い意味であった。

 

 ――調子に乗られても困るのよねぇ。

 

 他の妖怪ならばいざ知らず、天狗相手に人間如きが格上などと、一部であっても在ってはならない道理なのだ。

 このまま放置しても、いずれ身の程を知ることになるだろうが、それを待つ理由もない。

 文は扇を仕舞うと、その場に降り立って巫女と同じ地に足をつけた。

 最初の一撃のように、上空から風による攻撃を行えば一方的に嬲ることも容易い。

 しかし、それは文のプライドが許さなかった。

 あの正体を掴めない攻撃に対して、自分が一瞬『脅威を感じたこと』を否定するように。

 目の前の取るに足らない人間に対して、よもや『警戒している』などという事実を笑い飛ばすように。

 文は、強者としての自負と余裕を持って、博麗の巫女と対峙したのだった。

 

「さあ、手加減してあげるから本気で掛かってきなさい!」

 

 無造作に、戦闘開始の合図を告げる。

 目の前の巫女は、構えもせずに佇んでいる。

 この体勢から瞬く間に三人を打ち倒したのだから、当然油断は出来ない。

 油断は出来ない――が、文はあえて油断した。

 全身をリラックスさせて、あまつさえ両手はカメラを持ち上げてみせた。

 最初の宣言の通り、文は自分から攻撃を仕掛けるような無粋な真似はせず――。

 

 次の瞬間、予備動作を全く悟らせずに放たれた一撃が、文の頭部目掛けて飛来した。

 そして、それは虚しく空を切った。

 

 

 

 

「なん……だと……?」

 

 思わずバトル漫画では有名な『戦闘時の驚愕の台詞』を口走ってしまっていた。

 でも、これネタじゃなくて本気で度肝抜かれた状態なんですけど。

 

 ――『百式観音』が、かわされた。

 

 実戦で学んだ先手必勝の鉄則に倣い、今回も初撃から全力全開の一撃を放ったのだが、あろうことか文はそれを回避してしまったのだ。

 オイ……どういうことだ、切り札がいきなり効かないって分かっちゃったぞ!

 このまま戦闘続けろってか、なんやその無理ゲー!

 半ば錯乱気味の内心を抑えきれず、私は目を見開いて、目の前の現実に冷や汗を流した。

 この技を実戦で使ったのは、もちろんさっきが初めてではない。

 切り札として温存はしていたが、実際の威力などを試す為に何度か使ってみたりした。

 その結果、いずれも例外なく一撃で敵を葬っている。

 少なくとも、回避はもちろん相手に反応さえ許さず、一撃の下に戦いを終わらせることが出来た。

 参考にした漫画に描かれていた通り、この技はそういう性質と威力を持っているのだ。

 だからこそ、私も切り札としていたわけなのだが。

 まさか、それをかわされるとは……。

 

「どうしました、呆けてしまって。ひょっとして、先ほどの一撃が全力でしたか?」

 

 ほんの僅かだけ掠っていたらしい、軽く火傷したような頬の痕を撫でて、文が余裕たっぷりに笑っていた。

 慌てて構えを取るが、正直これが単なるブラフだと見抜かれているか不安で仕方が無い。

 相手の台詞の通り、さっきの攻撃こそがこれ以上無い私の全力だったのだ。

 本来、攻撃の動作を悟られずに行う百式観音は、事前の構えを必要としない。

 こうして構えを取っている時点で、最大の切り札を使えないと公言しているようなものなのだ。

 もちろん、あの技はまだ何度でも使える。

 拳だけでなく衝撃波みたいなのも発生させて射程を延ばしているが、別にそれでMP的なものを大量に消費しているわけじゃないしね。

 ただ、もう一度使っても、かわされてしまうのでは意味がないのだ。

 っつーか、二度目ともなれば初見以上に見切られやすいだろうしね。

 だからといって、あれ以上の技が今の私には無いのも事実だ。

 戦闘開始早々だが、私は正直お手上げ状態だった。

 

「なかなか鋭い攻撃でしたが、天狗を捉えるにはまだまだ速さが足りませんね」

 

 早くも不利な状況となってしまったが、当然のように戦いは始まったばかりだ。

 お返しとばかりに文が攻撃の構えを見せる。

 と、言っても両手は未だにカメラを保持したままで、軽く前屈みになっただけの状態だ。

 視線はこちらを捉えているので、おそらく何かしらの攻撃をするつもりなのは分かる。

 射命丸文といえば、ゲームの設定でもスピードを強調されていた強力な天狗だ。

 彼女の攻撃に反応出来るかどうかが戦闘の鍵になる。

 遠距離から弾幕とかで蜂の巣にされるようなら本当にどうしようもないが、接近戦を挑むつもりならまだまだ勝機を失っちゃいない。

 多分、状況から判断して『蹴り』が来るだろうと予測し、私は最大限に集中した。

 

 次の瞬間、凄まじい衝撃に顔面を横殴りにされて、私は地面に叩きつけられた。

 

 文字通り『衝撃』だった。

 その衝撃の正体が何なのか、食らう直前の肉眼では全く捉えられなかった。

 半ば飛びかけていた意識のまま、咄嗟に地面を転がって距離を取りながら立ち上がり、文の持ち上げられた右脚を見てようやくそれが、やはり『蹴り』であったと確認出来た。

 ……うん、まあアレだね。

 油断とか気の緩みとか、隙になりそうなことは全然やってないはずなんだけど、何事にも限界ってあるよね。

 どうしようもない状況、とでも言おうか。

 とにかく集中してれば、最低でも攻撃の残像くらいは捉えられると思ってたんだが――。

 

 全っ然、反応出来ねえぇーーーっ!!

 

 

 

 

 ――な……なんとか、かわせたぁ……!

 

 驚愕に引き攣った顔が、相手には不敵な笑みに見えていることを文は願った。

 弱みを見せるわけにはいかない。

 あの一瞬、本気で『死を感じた』などと。

 全くの無動作で放たれた一撃。

 おそらく拳を使ったと思われる――それさえハッキリとしない――攻撃を文が回避出来たのは、一重に彼女自身の能力のおかげだった。

 射命丸文だからこそ対応出来たのであり、他の者があの不可避の攻撃にどう対処すればいいのかは、文自身見当もつかない。

 事前に、博麗の巫女が持つ得体の知れない攻撃を知っていたことが大きく影響した。

 文自身は否定していたが、それによって目の前の人間を『脅威』として『警戒』していたことが、油断や慢心を無意識に薄れさせていたのだ。

 力と歳を重ねた強大な妖怪には自然と根付く自尊心以上に、自覚の無い小心な性根が彼女を救った。

 そして、文は武術家ではない。

 気配察知や動きの先読みなどといった技術は持たず、純粋に優れた感覚のみで敵を捉えている。

 そこに加えて、保有する能力の応用から『風の動き』を察知することが出来た。より正確には『空気の動き』だ。

 触覚による感知ではない。

 理屈ではなく、能力によって感じ取れるのだ。第六の感覚と言っても良かった。

 その感性が、肉眼や予測でさえ追いつかない巫女の微細な動きを察知していた。

 巫女の動きに合わせて周囲の空気がほんの僅かに乱れ、それを無意識に集中していた文は敏感に感じ取り、心の中に消えずに残っていた警戒心が反射的に体を動かした。

 結果、文は博麗の巫女が放つ不可避の一撃を避け得たのである。

 

「なかなか鋭い攻撃でしたが、天狗を捉えるにはまだまだ速さが足りませんね」

 

 ほとんど偶然の産物である結果を、そうと悟らせぬよう余裕を持った台詞を吐く。

 本当は予想外の緊張に、鼓動が早まっていた。

 しかし同時に、天狗である自分を脅かす人間の存在に強い怒りも湧いていた。

 

 ――昔はあんなに弱っちかったくせに。

 

 確かに将来を見込んではいたが、対等な存在だとまでは認めていない。

 まして、自分をわずかでも脅かす存在になるなどと。

 あの時、あの子供は庇護される立場だったのだ。

 たった五年でその関係が変わるはずなど無い。

 文は、あの子供が自分の下を離れてから過ごした五年間を完全に否定した。

 

 ――調子に乗るなよ、小娘。年季の違いを教えてやる!

 

 天狗としてのプライドをもって、文は巫女に襲い掛かった。

 真正面から相手の目の前まで踏み込み、薙ぎ払うような蹴りを放った。

 何の策も無い、単純な攻撃だった。

 しかし、とにかく速い。

 巫女は成す術も無く蹴り飛ばされた。

 回避はもちろん、防御すら間に合っていない。

 文は右脚に感じる十分な手応えに、内心の緊張を緩ませた。

 蹴り足を伸ばした片足立ちの状態のまま、立ち上がった巫女に向けてシャッターを切る。

 

「いーい表情です。取り繕った顔なんて要りませんよ、私が素の表情を引き出してあげます!」

 

 その強い意志を現すような鉄面皮が崩れ、驚愕をあらわにする巫女を見て、ようやく余裕が戻ってくる。

 自分と相手の力の差を再確認し、互いの関係が何も変わっていないことを確信した。

 私が上、お前が下だ。

 カメラから両手を離さず、文は再び蹴り技を繰り出した。

 いや、技という程のものではない。

 無造作に薙ぎ払うか、突き出す、といった大雑把な動きだ。

 しかし、それらがまるで鞭のようにしなり、鋭さと重さを備えて連続で襲い掛かってくる。

 巫女は防御を固めて耐えることしか出来なかった。

 蹴り足のスピードが速すぎて捉えられないのだ。

 回避はもちろん、払い落とすことも押さえ込むことも出来ない。

 天狗の速さに剛力まで備わっていないことが幸いした。でなければ、防御する腕ごと体の骨をへし折られてお終いだっただろう。

 両腕で頭を覆うように守っていると、隙間を通すように、正面から直蹴りが鳩尾に叩き込まれた。

 空気と胃液を吐瀉しながら、体が背後に吹き飛ぶ。

 骨を砕く程の威力は無いが、それでも人外の脚力は常軌を逸していた。

 

「ハァイ。顔を上げて、こっちを見てー?」

 

 腹を押さえて蹲る巫女に近づきつつ、文が挑発を繰り返す。

 俯いていた顔を僅かに上げた時、巫女の瞳に鋭い眼光が宿っていた。

 ギリギリまで引き付け、素早く踏み込んで正拳突きを放った。

 鍛え抜かれた鉄拳が、しかし音を立てて空を切る。

 

「おお、こわいこわい」

 

 文は既に背後にまで回り込んでいた。

 一瞬、驚愕で目を見開きながらも、巫女は咄嗟に竜巻のような後ろ回し蹴りを繰り出した。

 それを文の回し蹴りが迎撃する。

 生身同士とは思えぬ激突音が響いた。

 威力は互角。

 一方が人間であることを考えれば、驚くべき結果だ。

 だが、これが勝負である以上そんな称賛は互いに何の意味も持たない。

 文は片足で器用にバランスを取りながら、ぶつかり合った足を、太ももとふくらはぎの間に挟んで押さえ込んだ。

 相手の動きを封じたのを良いことに、その体勢のままカメラを近づける。

 

「笑って笑って~?」

 

 文は完全に普段の調子を取り戻していた。

 人間からも天狗からも悪名高く知られる、性根の悪さと実力の高さを大いに発揮し始めたのだ。

 カシャッと更に一枚。

 ファインダーに映る巫女の顔は、鋭くこちらを睨み付けている。

 しかし、そこには苛立ちや怒りといったものは含まれていない。ただ戦闘者としての厳しさがあった。

 押さえ込む文の足をへし折ろうと、拳が振り下ろされた。

 当然のように、文はすぐさま足を解放して距離を取る。

 一呼吸も置かずに地を蹴り、速すぎるヒット&アウェイが実行された。

 迫り来る文の姿を、今回はかろうじて捉えていた。

 接近する標的に向けて、合わせるように拳を突き出す。

 まともに攻撃しては当たらないと悟った巫女は、カウンターを狙っていたのだ。

 

「読み読みです」

「――ッ!?」

 

 渾身のカウンターは、これまでと同じ結果に終わった。

 攻撃かと思われた文の突進は、そのまま巫女の傍らを通り過ぎるだけの軌道だった。

 カウンターを行う動作を見て、それから行動を変えたのだ。恐るべき反応速度だった。

 拳は虚しく空振りし、攻撃を振り抜いた無防備な巫女の体を遅れて衝撃波が叩いた。

 風を纏った超高速の移動が、ただそれだけで凄まじい余波を発生させたのだ。

 巫女の体が、文字通り風に舞う木の葉のように吹き飛び、地面に叩きつけられた。

 優雅にUターンをして、ボロボロになった彼女を文が笑って見下ろす。

 

「はい、それでは記念にもう一枚」

 

 カシャッとシャッターが切られた。

 全身に痣を浮かべ、額と右腕から血を流しながらも立ち上がる巫女の姿が、フィルムに焼き付けられる。

 戦況は、もはや明らかに一方に傾きつつあった。

 

「力の差を自覚しましたか?」

 

 椛との戦闘の負傷が痛むのか、巫女は脇腹を押さえながら荒い呼吸を繰り返すだけだった。

 もはや万策尽きたか、と文はほくそ笑む。

 決着はついたようなものだ。

 

「私が手加減していたことは、十分に理解しているでしょう?

 これが人間と天狗の差です。博麗の巫女とはいえ、貴女の力が届く領域などこの程度なのですよ。

 さあ、理解出来たのなら帰りなさい。自分の領域、人間の領域へ戻り、今後は領分というものを弁えながら活動するのですね」

 

 文は言葉では諭すように、しかし表情は全く嘲るような笑みを浮かべて語りかけた。

 内心では、この話に込めた本気が半分。残り半分は、今後もこういった騒動を『適度に』起こして欲しいと考えている。

 根底にある天狗社会の基盤を壊すことなく、新しい風や刺激が欲しい。

 天狗の中では珍しい、止めることの出来ない探究心と好奇心を持ちながら、同時に帰属する社会の崩壊までは望むことの出来ない小心な性根を摺り合わせた結果の答えだった。

 しかし、既に自分の中で勝負を終わらせてしまっている文の心境とは裏腹に、巫女の瞳からは戦意が全く消えていなかった。

 呼吸を鎮めるように、一度だけゆっくりと息を吸い、吐き。

 そして、その場に正座をした。

 

「……何の真似ですかぁ?」

 

 意図を理解出来ず、文は訝しげな表情を浮かべた。

 居直ったか? とも思ったが、様子がおかしい。

 腰を下ろしながらも、巫女の顔付きは未だ戦闘中のそれのまま、鋭く標的を睨み据えている。

 正座の仕方も膝を閉じず、僅かに開き、立ち上がりやすいように尻の下で足の親指を重ねていない。居合道で行われる正座の仕方だった。

 詰まる所、目の前の巫女はまだ何らかの方法で戦うつもりなのだった。

 

「罠ですか。見え見えですね」

 

 文は図星を突くように嘲笑した。

 実に分かりやすい。

 座り込んだ時点で、待ちの構えなのだと簡単に理解出来る。いや、それしか手段が無いのだ。

 先ほどの戦闘で、人間が天狗の動きについて来れないことは完全に証明された。

 一見して、攻撃体勢とは思えない正座の状態を晒すことで、逆に攻撃を誘い、それに何かしらの罠を仕掛ける――こんなところだろう。

 最も重要な『何かしらの罠』の部分を、文は深く考察はしなかった。

 ただ、あれこれ予測するのが面倒になっただけだ。

 

「さて、この場から風を起こして吹き飛ばしてしまいましょうか? それとも空を飛んで真上からでも強襲する?」

 

 文はニヤニヤと笑いながら、その作戦の粗を突いた。

 今言った方法を実行すれば、巫女は成す術無く打ち倒されてしまうだろう。

 結局、追い詰められた敵の悪あがきなのだ。

 文が真剣な思考を放棄してしまうのも仕方ないことだった。油断ではなく、余裕だった。

 しかし、同時に口にした手段を自分が取れないことも自覚している。

 己の自負心と、既に決着が就いたと確信している勝負に対して、ほんの僅かでも疑念や警戒を抱くような弱い考え方など持ってはいない。

 そんな考えを持つことを、自分自身が許さないのだ。

 強大な妖怪が持つ――特に天狗という種族にはより顕著な――特有の力のパラドックスだった。

 

「……いいえ、真正面から蹴り抜いて、人里まで吹き飛ばしてあげましょう!」

 

 文は言葉の通り、真正面から巫女に最後の攻撃を仕掛けた。

 あるいは、これは目の前の人間の小賢しい駆け引きに引っ掛かったことになるのかもしれない。

 しかし、そんな些細なことは本当の勝敗には関係の無いことだとすぐに証明される。

 確信を持って、文は最速の蹴りを巫女の横っ面目掛けて薙ぎ払った。

 

 

 

 

 あの白く美しいおみ足に踏まれたいと思う奴は多いんだろうなぁ、と襲い掛かる強烈な蹴りの嵐を受けながら現実逃避。

 我々の業界ではご褒美です! とか茶化す余裕も無い。っつーか、そんな性癖も無いしね。

 食らってみれば分かる、そのシャレにならない威力の高さが。

 あの柔らかそうな肉付きに反して、まるで鋼鉄の鞭でぶっ叩かれているかのような衝撃と痛みだった。

 特に負傷した右腕は防御する度に千切れそうな激痛ですマジで。

 

 ――分かってたことだけど、射命丸強すぎワロタ。

 だいたい戦力比として、かろうじて勝てた椛がナッパだとするなら射命丸はべジータだと想定していた私は正しかった。

 文字通り手も足も出ない。

 明確な差は、やはりスピードだった。

 相手の攻撃は全く捉えられず、こちらの攻撃は掠りもしない。

 これで射命丸の方は本気じゃないっていうんだから、勝負にすらなっていないのは私でも理解出来た。

 かろうじて戦いになっているのは、相手がこっちの土俵で戦ってくれているからだ。

 カウンターを狙った時に気付いたが、射命丸が本気で動けば、その移動手段だけで私なんかゴミみたいに吹っ飛ばされてしまう。

 何アレ、ソニックブーム?

 真面目に攻撃なんかしなくても、ああやって近くを行ったり来たりするだけで相手をボロクズに出来るんじゃね?

 加えてあの時全身を襲った衝撃で、負傷が悪化したらしい。

 右腕は激痛を通り越して徐々に痛みが引いている。つまり、感覚が無くなってきている。

 代わりに折れた肋骨の痛みが酷くなってきて、とうとう呼吸まで阻害し始めた。一呼吸の度にズキズキ痛んで、疲労しているのに思いっきり息を吸うことさえ出来ない。

 しかし、椛との戦闘で負った傷と疲労など、追い詰められている現状の要因としてはほとんど意味がない。

 完全な実力差だった。

 どうしよう……正直、ここまで来ると笑うしかないんですけど。

 

「これが人間と天狗の差です。博麗の巫女とはいえ、貴女の力が届く領域などこの程度なのですよ。

 さあ、理解出来たのなら帰りなさい。自分の領域、人間の領域へ戻り、今後は領分というものを弁えながら活動するのですね」

 

 もう射命丸の言葉に全面的に同意して、土下座しながらすごすご帰ってしまいたい欲求に駆られる。

 未だに博麗の巫女としての使命感やあの母親との約束が私の中の戦意を支えていたが、目の前の圧倒的な現実がそれ以上の圧力となって私に諦めを覚えさせていた。

 戦力差は圧倒的だ。

 まともに戦ったら、百回勝負したところで一度の間違いも無く私が百回負けるだろう。

 

 ――『だが』『しかし』

 

 私は納得のいく理屈に対して、そう考えてしまうのだった。

 難儀な話である。自分事だけど。

 この諦めの悪さは何処から来るのだろう。

 我ながら度し難く、理解し辛い。

 ただ、戦う力を残しながら諦めを受け入れることが、私にはどうしても出来なかった。

 この考えが、使命感や他人への情などを根底としたものでないことだけは分かっている。

 多分、私の根っこの部分に出来上がってしまっているのだ。

 

 ――この妖怪の山で生き抜いた日々が、前のめりで死ぬことを望んでいる。

 

 幸運と偶然によって命を拾い続けた日々だった。

 あの無茶苦茶な子供時代を過ごしたからこそ、理屈で悟る諦めを受け入れることなど出来なかった。

 無理。

 無謀。

 限界。

 全て、あの日々の中で何度も越えていることじゃないか。

 状況や状態、現状のあらゆるものを無視して私は決意した。

 腹は括っている。かつて、この妖怪の山で一度死のうとしたあの時、既にだ。

 へへっ、死ぬ気の覚悟って持ってるとこういう時は楽でいいね。

 

「罠ですか。見え見えですね」

 

 忠告に逆らって取った私の行動に対して、射命丸はズバリ言い当ててきた。

 まあ、分かりやすいよね。

 私がその場で正座をしたのは、もちろん相手の攻撃を誘い込む為だった。

 攻撃はもちろん、動きさえ追いつけない射命丸に対しては、もはや待ちの戦法を取って向こうから近寄ってもらうしか手段が無い。

 それで何故『正座』なのか、というと――実はそこまで高度な駆け引きは考えてなかったりする。

 いや、さっき『笑うしかない』って言ったのは誇張抜きで本音だったし。

 今の私には起死回生の策や新たな力の覚醒など望めるはずも無かった。

 だからこそ、私は結局偉大なる先人に倣う方法しか残されていなかったのだ。

 待ちの戦法とは言っても、カウンターが成立しないことは先ほどの戦闘で実感した。

 射命丸の攻撃に対してカウンターを合わせても、その動きに対してさえ先んじて反応されてしまうのだ。

 そもそも実際の速さから反応速度まで差がありすぎる。

 相手が接近を始めてから動かないと私の方は間に合わないが、射命丸は私が動いてから判断しても十分間に合う。

 攻撃を中断して、こちらの攻撃の軌道を避けつつすれ違うだけで回避成功だ。おまけに本気を出した移動なら、その余波だけで逆にこっちがダメージを負う始末。

 

 ――相手の攻撃に対応するカウンターでは当たらない。

 ――相手の攻撃を受けながら、あるいは受けた直後に反撃しなければならない。

 

 つまり直撃前提。

 うん、これ考えた奴バカじゃねーの。自分だけど。

 しかし、これくらいしなければ射命丸の動きを捉えられないのは十分に実感したことだった。

 攻撃する瞬間の隙を見極める、とか悠長なことは言ってられない。

 攻撃している間の無防備な状態を、文字通り『捕らえる』という、掴みから関節技への流れしか勝機はない。

 もちろん、これは理屈の上での可能性であって、実際に行うのは至難の業だ。

 やはり射命丸の速さが問題になってくる。

 戦闘開始からここに至るまで、私の動体視力は彼女の動きに全く追従出来ず、今もそれは変わらない。

 ただ、何度も攻撃に晒されることである程度の慣れを体が覚えていた。

 彼女の攻撃は速いが、それは単調な速さだ。リズムが一定なのである。

 これは完全に私を見縊っているからだろう。こちらが反応出来ないからこそ、攻撃に変化をつけることをしないのだ。

 この不確定な攻撃のタイミングを計り、それを勘で補正して何とか見切るしかない。

 正座の姿勢を取ったのも、その瞬間に自分の体をどのように動かせばいいのか、漫画で描かれていてイメージがしやすいからだった。

 攻撃手段を限定し、自らも背水の陣での防御、ギリギリでの返し技――強烈な印象のあるシーンだ。あんな風に私も出来ればいいんだけど。

 あの漫画と違うのは、眼では見切れないという点だ。

 当然、分の悪い賭けだった。

 この追い詰められた状況で、破れかぶれになっても仕方の無い勝機の薄さだった。

 しかし、私にはたった一つ、誰よりも優れていることがある。

 

 ――分の悪い賭けは嫌いじゃない。

 

 それは私の心には、多くの先人様のカッチョイイ雄姿が刻まれているということだ!

 この逆境……逆に燃えるっ!

 燃え上がれ、俺のコスモ!!

 追い詰められた状況に反して、むしろ極限まで高まる自身の集中力。

 

「真正面から蹴り抜いて、人里まで吹き飛ばしてあげましょう!」

 

 来た。ここまでは予想通り。

 さすがに何も考えず漫画を真似するだけで正座したのではない。ある程度駆け引きもあった。

 射命丸が実力を発揮し、少しでも戦法を使えば、私を瞬殺出来ることは実感済みだ。

 それをしない理由は、現実として証明され続けている互いの実力差など様々な揺ぎ無い事実から来る、余裕や遊び心によるものだろう。

 彼女は格下を相手に遊んでいるに過ぎない。

 こちらが何をやっても勝てないと考えているのだから、分かりやすい誘いに対しても真正面から臨むと、私は読んでいた。

 そして、それは的中した。

 射命丸が動く。

 正確には動く前動作。そこまでなら私の眼でも捉えられる。

 相変わらずカメラを両手に持っている。これまでと同じように蹴りで来るのだ。ここも予想通り。

 速さはどうか? 先ほどまでの攻撃より、蹴り足の速度が上がっていても下がっていてもタイミングがズレる。確認のしようはない。

 狙う箇所は何処か? 頭だ。正座した私と立っている射命丸の高低差からして、そこが一番蹴りやすい。そう誘導した。真正直にそこを狙うよう祈るしかない。

 眼で見て反応していては間に合わない。

 視覚はあくまで補助。体で覚えた感覚だけで、動くタイミングを計る。

 研ぎ澄ますべき感覚があるとすれば触覚の方だ。蹴りが当たった瞬間を肌で感じ取って、少しは反応出来るかもしれない。

 無茶な理屈。しかし、今の私はそれに対する疑念を挟まない。

 頭の中で出来上がっている一連の流れをただ忠実に行うことしか考えない。

 視界に映る射命丸の姿が消えた。

 来る。

 今。

 

 

 ――ここだっ!!

 

 

 

 

 蹴り足を振り抜いた瞬間、鈍い音と衝撃が響き渡った。

 異様な手応えだった。

 右脚のつま先が相手の頬にメリ込む感触までハッキリと分かったが、次の瞬間足全体に震えるような衝撃が走った。

 文は一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 我に返った時、自分が地面に伏していることにようやく気付いた。

 まさか、攻撃をしくじったのか。

 蹴りの勢いのまま、転んでしまったのかと思った。

 違和感のある右脚に視線を移す。

 膝の関節部分から真横にへし折られていた。

 

「――は?」

 

 文は呆けたようにそれを眺めて、ゆっくりと自分の置かれている状況を理解した。

 確かに蹴りは当たったのだろう。頬に赤い痕を残し、口から盛大に血を流す巫女の顔があった。

 しかし、文の蹴りを受けて吹き飛ぶはずの意識は鋭い眼光と共に瞳の中に残っている。

 巫女は文の蹴り足を掴んで、彼女を組み伏せていた。

 蹴りが直撃する瞬間、右手で足首を掴み取り、左手を膝に添えて、そのままへし折ったのだ。

 

「あ……」

 

 破壊された関節から脳へと、ようやく痛みが伝わった。

 

「ぁ……が、あっ、ぁああああ゛……っ!」

 

 押し寄せる激痛が、あっさりと文の理性と思考を飲み込んだ。

 脂汗が噴き出し、言葉は形を成さず、ただ意味の分からない悲鳴を途切れ途切れに漏らすことしか出来なかった。

 歯を食い縛ることも出来ず、まるでこの激痛を吐き出せば少しでも楽になると信じているかのように、開いた口を下に向けて文は喘いだ。

 完全に予想だにしていない結末だった。

 既に自分の中で勝負を終わらせていた文には、現状を正確に理解することすら出来ない。

 反撃はもちろん、抵抗さえしない文に対して、巫女は間髪入れず追撃を仕掛けた。

 あっという間にマウントポジションを取り、絶対的優位な体勢を確保して、拳を振り上げる。

 状況は完全に逆転した。

 巫女が拳を頭に向けて打ち出すだけで、勝負は決まる。

 いや、彼女の攻撃力ならば命を奪うことすら出来るのだ。

 

「あ……へぁ……?」

 

 涙と涎を垂れ流した文も、僅かに残った理性と冷静な思考によってようやく現状を把握した。

 把握しただけで理解は出来なかった。

 どうしてこうなった? という疑問で頭は埋め尽くされている。

 戦いを終わらせる為に攻撃した次の瞬間に激痛に襲われ、そこから我に返ってみれば自身の生命の危機なのだ。

 混乱と恐怖だけが胸の内に溢れ返っていた。

 

「……」

「ぇ……いや……その……」

 

 拳を振り上げ、トドメを刺す寸前のまま止まった巫女の意図が読めず、動揺は更に増していった。

 ……どうした?

 そのまま振り下ろして殺すつもりじゃないのか?

 あるいは、今自分を殺すと拙いと考えているのかもしれない。

 博麗の巫女にも立場がある。天狗という種族との対立を考慮しているとかなんとか。糞、痛い。推測することすら億劫だ。分からない。しかし、チャンスだった。

 汗が止まらず、心臓が早鐘を打つ。それに合わせて疼く膝が堪らなく痛かった。

 全ての疑念を棚上げにして、文は今この状況を如何にして切り抜けるかに思考を集中させた。

 打破ではない。

 足を折られ、あと一手で死ぬという追い詰められた状況で、逆襲を考えるような不屈の心を文は持っていなかった。

 小心な性根が、ただ生き残る為に最善の選択を迫る。

 

 ――どうする、何て言えばいい?

 

 全ての動きを封じられた自分が、今可能なのは唯一話すことだけだ。

 最後の一撃を躊躇する巫女の心境を、上手く有利な方向へ傾ける為の言葉が必要だった。

 一言か二言。それで結果が決まると文は考えていた。

 考えに考え抜いた結果――。

 

 ――な……何て言えば、上手くいくの?

 

 この土壇場で、何も気の利いた台詞を思いつけなかった。

 

「お……」

 

 完全に萎縮してしまった文は、引き攣った笑いを浮かべながら、それでも何とか声を絞り出した。

 

「御見事……です」

 

 そんな間の抜けた賛辞だけが、ポツリとこぼれた。

 終わった、と文は内心で全てを諦めた。

 現実から逃避する勇気さえなく、恐る恐る巫女の顔をもう一度見上げる。

 驚いたような、呆けたような表情がそこに浮かんでいた。

 如何なる苦境であっても鋭さを失わなかった眼光は消え失せ、子供のように目を丸くした巫女がじっと文を見つめている。

 それに釣られて文自身も呆けてしまった。

 奇妙な空気が、二人の間に流れた。

 張り詰めた闘争の気配は、いつの間にか存在しない。

 巫女がゆっくりと拳を解き、体を持ち上げた。

 一転二転する状況に思考が追いつかず、自由を取り戻しながらも文は呆然と巫女を見上げることしか出来なかった。

 完全に戦意を失った巫女は、文の言葉を吟味するようにしばしの間を置いた後、ゆっくりと口を開いた。

 

「ありがとう」

 

 一度も見たことの無いような柔らかい微笑を浮かべる彼女に、文は全てを忘れて見惚れていた。

 

 

 

 

 呆然とした射命丸を置いて、私は妖怪の山を更に進んでいた。

 負傷した彼女を置いていくのは心苦しいが、敵対関係なんだから今更な話か。

 なんというか、私の通った後って死屍累々だな。一人も殺してないけど。

 決して意図してやってるわけじゃないんだけどね。

 行き当たりばったりな状況のせいですよ。

 

 こうして窮地を脱し、冷静になってみれば先ほどまでの状況が、今更現実感を持って脳裏に浮かび上がる。

 果たしてあれを勝負と言っていいものかは分からないが、とりあえず私は勝負に勝ったと言えるだろう。

 あそこで倒れることなく、目的の為に行動を続けることが出来ているのだ。

 相手の油断など、様々な要因に助けられた結果とはいえ、決着には違いない。

 もしも――はない。

 餓狼伝でも言われてたしね。

 しかし、あの刹那の勝負を制したことは、正直自分でも信じられない

 イメージ通りではなく、それ以上の結果だった。

 本来ならば蹴りをまともに食らうつもりだったが、あの攻撃が当たる一瞬、私は反応出来たのだ。

 錯覚かもしれないが、つま先が頬に触れた感触を感じ取り、それに合わせて首を捻って威力を殺した。

 そうでなければ、今こうして立ち上がり、歩くことすら出来ていなかっただろう。

 顎を砕かれ、最悪反撃すら出来ずに気絶していたかもしれない。

 今も頬は真っ赤に腫れ上がり、口の中は折れた歯で盛大に切ってズタズタだ。つか、さっきから血反吐が止まらん。

 戦闘の緊張が抜けたせいか、右腕と脇腹の痛みがより酷くなってきた。

 正直、腕の出血のせいか意識も朦朧としている。

 ダメージは深く、疲労も大きい。

 かつてない実戦を連続で経験した結果か――。

 

 そんな目的もまだ半ばにして限界が近い状態だが、不思議と気分は晴れやかだった。

 射命丸文という強敵に勝った達成感や爽快感、ではない。

 と、思う。

 近い気はするが、やっぱりちょっと違うな。

 私の胸には、あの時言われた言葉がいつまでも残っていた。

 

『御見事……です』

 

 自分でも唖然とするくらい作戦が上手くいき、咄嗟に追撃を仕掛けながらも、我に返って停止した私に、彼女はそう言った。

 全力で拳を振り下ろす冷徹さは無く、手加減したり、無傷のまま解放した結果反撃を受ける不安もあって、次にどう行動するべきか迷っていた。

 そんな軽い混乱状態だった私の心に、その言葉は奇妙なほど浸透していった。

 あれが苦し紛れの台詞だというのは、さすがの私にも分かる。

 射命丸からすれば追い詰められた状況なのだ。

 何とか今の状態から逃れる為に無理矢理口に出した、そんな意味の篭もらない言葉だったのだろう。

 しかし、何故だろう?

 あの時、私は確かに嬉しかった。

 椛に褒められた時と同じような暖かい感じを覚えた。

 いや、あれよりももっと強く感じたかもしれない。

 思わず顔がニヤけてしまう程に。

 ……なんでだろ? 射命丸の方がキャラとしては有名で思い入れも強いから?

 だからって、たった一言で落ちるとか、やっぱり私チョロすぎじゃね?

 なんだろーなぁー……自分でも意外というか、よく分からん。

 得体の知れない感情を持て余しながらも、思い出す度に顔がニヤけてしまうのを止められない。

 体は疲労しているはずなのに、足取りは妙に軽く、私は先へと進んでいった。

 さて、進むとはいっても忘れてはいけない。私の目的は攫われた子供を捜すことなのだ。明確な目的地は存在しない。

 そういえば、勝負に勝ったら文に手助けしてもらう約束だったんだよね。今更思い出した。

 でも、勝負の結果とはいえ、自分で足をへし折った相手に『約束どおり協力してね。ほら、早く立ちなよ』とか流石に言えないし……。

 残りの体力は厳しいが、このまま山を手当たり次第に探索するか、誰か協力者を捜すか。

 これらの中から現実的な手段は、さて――?

 

「止まれ、博麗の巫女よ」

 

 考えに没頭していたせいもあるが、やはり疲労が影響しているらしい。

 私はそいつらの接近に気付くことが出来なかった。

 

「集落を守る哨戒天狗を墜とし、それなりの地位に在る射命丸文を下したお前の行為は、もはや無視できぬ大きな問題となった」

 

 白狼天狗の椛や鴉天狗の射命丸とも違う、大仰な格好をした天狗五人が前に立ち塞がっている。

 全員が只者ではないことは一目で分かった。

 今の私の心境を正確に表現出来る比喩があったのは、ちょっとした幸運だな。うん。

 

「ついて来い。我らが天狗の長、天魔様がお前に直接会われるそうだ」

 

 ――崖の上からメタルクウラの大群が現れた時の絶望感。

 もう、どーにでもなぁーれっ!

 

 

 

 

 ――ほう。

 

 博麗の巫女を前にした天魔は、内心で感嘆を洩らした。

 歴代の巫女達は全て知り得ていたが、その中でも自分と実際に顔を合わせた者は少ない。

 大抵は、天魔の方が下界の情報として一方的に知り得ており、妖怪の感覚ではごく短い時間で代替わりしてしまう。

 よって、博麗の巫女個人に対する印象は酷く薄かった。

 しかし、今こうして向かい合う歴代の中でも珍しい巫女は、天魔の認識を変えてしまう程の印象強さを持っていた。

 まず、こうして天狗の長である自分と対等に向かい合うこと自体、驚きだった。

 上下関係が力を持つ天狗社会の性質もあるだろうが、同じ天狗でさえ、その長と一つの部屋で向かい合う状況では萎縮してしまう。

 その点、この巫女は並の天狗以上に肝が据わっていた。

 加えて、彼女にとっては敵に囲まれたに等しいこの状況で、全く恐れ怯まない様子にも感心を抱く。

 哨戒天狗の報告から始まり、射命丸文が接触したことで天魔の耳に届く事態となり、挙句その射命丸を倒してしまったという事実が話を大きくした。

 博麗の巫女が如何なる目的で妖怪の山を訪れたのかはまだ分からないが、起こした行動自体が既に問題となっているのだ。

 使いに出した天狗達に従うまま、こうして集落まで大人しくついて来たことから戦力差は十分に理解しているだろう。

 今、天魔と博麗の巫女は二人だけで対面しているが、それは天魔自身が戯れに興味を抱いたからに過ぎない。

 部屋の外はもちろん、天魔の屋敷の周辺には既に天狗兵の精鋭達が配置されている。

 どうあっても、巫女にとっては絶望的な状況のはずだった。

 それを理解した上で、既にボロボロの状態にもかかわらず怯えた仕草一つ見せない彼女の姿に、天魔は感心させられたのだった。

 

「噂に違わぬ剛の者よ……」

 

 小さな呟きだったが、それは天狗の長から人間に対する最大の称賛だった。

 当代の巫女が、歴代の博麗でも頭一つ飛び抜けていることは聞き及んでいる。

 それは複数の意味を持っていたが、天魔はそれらの情報を今実感として、改めて理解していた。

 

「しかし、此度の件。少々、己の領分を越えすぎたな」

 

 天魔は声色を変え、巫女を睨み据えた。

 明らかな威嚇であった。

 しかも、それを行うのが天狗の中でも随一の実力者であれば、発揮される効果は倍増する。

 物理的な力を持っているのかと錯覚するほどの圧力が、周囲一帯を吹き抜けた。

 襖越しに待機していた天狗達の方が萎縮してしまうような威圧感だった。

 巫女は僅かに表情を険しくさせた。

 それだけだった。

 

「……おぬしも退けぬか」

 

 なんという意志の強さか。

 天魔は表情と言葉に出さず、感嘆するばかりだった。

 

「この場でおぬしを処断することは容易い。天狗の領域を侵し、同胞を墜としたのだ。名分もある。

 しかし、我らには互いに立場がある。今日まで築いてきた互いの種族の関係を崩さぬよう、極端な決断は出来ぬのだ。それはおぬしも分かっているだろう」

 

 それでも、退けないのだろう。

 巫女の一貫して頑なな視線を受けていれば、理解出来ることだった。

 博麗の巫女という重要な任を任せられた人間だ。物の道理が分からないはずはない。

 彼女は、全てを踏まえた上で己の意志を通そうとしているのだろう。

 若かった。

 そして、それ故に好ましかった。

 子供に対する親が抱くように、天魔は目の前の人間のひたむきさに愛おしさすら感じていた。

 しかし、天魔には立場があった。

 安易な個人的な判断を、その自覚が許さなかった。

 

「ここは退け。人里へ戻れ。

 此度の問題、不問には出来ぬがこちらも幾らか譲歩しよう。それが今の関係を保つ、適当な落とし所だ」

 

 天魔は口調厳しくも、意外なほど優しい言葉で、巫女を諭した。

 他の天狗達は不満を持つだろうが、これが一番穏便な処置だと判断した。

 理屈の分からぬ、感情で動く馬鹿とも思えない。

 巫女もこれで引き下がるだろう。

 天魔は、未だ頑なな表情を変えない巫女が乱れた心の内を処理するまで待つ為に、そっと瞑目した。

 ――ここで一つの大きな相違があるとするならば、それはお互いの持つ『前提』だった。

 すぐ傍に、凄まじい脅威が突如出現したことを感じ取り、天魔は思わず眼を見開いた。

 

「何……っ!?」

 

 視線の先には、現れたのではなく、依然変わりなく佇み続ける博麗の巫女だけが在った。

 姿形が変貌したわけでもなく、何か行動を起こしたわけでもない。

 ただ、彼女から感じられる印象だけが完全に塗り変わっていた。

 若く、未熟な博麗の巫女。

 人間の中では飛び抜けた猛者。

 一目置くに値する存在。

 それら全ての称賛に至る為の『前提』が、今や完全に崩れ去っていた。

 

 ――違う。こやつは……っ。

 

 天魔の諭すような言葉には、全て余裕があった。

 自身が強者であり、目の前の人間は弱者である。

 自身が与え、目の前の人間は受ける。

 導き、導かれる。

 その全ての前提となる認識が、ようやく間違いだと悟った。

 

 ――『敵』か!

 

 気付いた時には遅かった。

 巫女の肉体から瞬間的に力が噴き出し、異様なまでに赤く充血した眼がギラリと光る。

 粛々と続く天魔の話の間。一切を意に介さず、己の内側で力を練り上げ、束ねていた渾身の一撃を巫女は解き放った。

 

 

 

 

 天狗の長である天魔様。

 対面した時には、なるほどさすがの威圧感だと驚嘆した。

 ゲームでは登場していない設定だけの存在だから印象薄かったけど、これは確かに射命丸文の上司なのだと認めざる得ない。

 だって、なんつーかその姿形を固有名詞で例えるなら『男塾三号生筆頭・大豪院邪鬼先輩』って感じだったからだ。もしくは世紀末覇者拳王。

 ホント、凄いよ威圧感――物理的にも。

 東方キャラの原則に沿って大人な美女を僅かに期待していたのだが、実際は男。しかも座っているのに見上げるような巨体だった。

 マジで対比的に、私では北斗の拳の一般キャラとラオウ様くらいの差。

 この人が天狗の長って、マジで説得力ありすぎるわ。

 射命丸とは別の意味で格上の相手だと悟ってしまった。

 いや、戦うことを前提に分析すること自体間違っているのだろうが、状況的に仕方がなかった。

 私をここに連れて来た天狗の皆さんは、全員無言ながら殺気を飛ばしてくるし、初めて訪れた天狗の集落では感動する余裕も失う程敵意の視線に晒されていた。

 ここは私にとって完全に敵中だ。

 もちろん、万が一ここの天狗相手に戦闘にでもなったら勝ち目どころか生き残る可能性すら皆無だと分かる。

 だからといって、穏便な結末はどう考えても周囲が許さないだろう。

 そして、私の本来の目的もこのままでは絶対に達成出来ない。

 天狗の長が直接会うというので、そこでの話し合いに一抹の望みを賭けてはみたが――この有様である。

 うん、詰んだわ。

 さすがに確信する。

 天狗側が譲歩する理由なんて欠片も無いけど、私を指先一つでこの世から消し飛ばす理由と実力は十分過ぎるほどある。

 おまけに、いよいよ本格的に意識が朦朧とし始めていた。

 視界はぼやけ、耳もよく聞こえない。傷の痛みだけがハッキリとしていて、むしろそれが全ての感覚を鈍らせていた。

 こんな状態でまともに戦えるはずがない。

 ましてや、この相手じゃあ尚更だ。勝負にすらならないだろう。

 

 ――じゃあ、諦めるのか?

 

 否、である。

 頼もしいのかアホらしいのか分からないが、こんな状況に至っても私の中に根付く何かが諦めを否定し続けていた。

 あるいはこれは意地なのかもしれない。

 仮にとはいえ、私はあの射命丸文に勝った。

 そして、認められた。

 その事実が、私に一つの自覚と自負を刻み込んでいた。

 

 ――こんな所で、あっさりと倒れてたまるか。

 

 例え設定上は上司だろうが、原作では出番の無いモブなんかに負けてられるかってんだ。

 なんか自分でも無茶苦茶なこと考えてるなと何処かで自覚しながらも、その意地を支えに、私は最後の力を振り絞った。

 向かい合った天魔が何か厳かに喋り、凄まじい威圧感をぶつけて来るが、意識を集中して耐え抜く。

 感覚が鈍っていることが幸いした。

 体の痛みが萎えそうな意識を叩き起こしてくれる。

 どうせ、まともには戦えないんだ。

 天狗の長というくらいだから、普通に戦ってもラスボス染みた能力や技を持っているに決まっている。

 でも、残念でした。こちとら、もう真面目に戦り合うつもりはありません。

 一発だけ。

 開幕ぶっぱに、今残された己の全てを賭ける!

 後はどうなろうと知るか。不発だろうが、かわされようが、あるいは効果が無かろうが、結果は変わりない。

 だったら、今この瞬間に……ありったけをっ!!

 うおっしゃああああ! リミッター解除ぉぉ! ――気持ちだけ。

 そんな感じに気持ちだけは際限無く高めていたら、ドクンッと心臓が異様な鼓動を立てたような気がした。

 

『何……っ!?』

 

 気付かれたか。ええい、南無三!

 限界を超えた(感じのする)私は、かつてない程の力を込めた『百式観音』を天魔に向けて放った。

 

 渾身の一撃が当たったか否か。

 それすらも確認できぬまま、私は前のめりに倒れて、気を失ったのだった。

 

 

 

 

「如何なされました!?」

 

 大天狗を先頭として、謁見の間へと雪崩れ込んだ者達が見たものは絶句するような光景だった。

 明らかに戦闘のそれと分かる轟音と衝撃が屋敷全体を揺るがしたのだ。

 当然、何かしら戦いの跡が刻まれていると予想していた。

 右腕があらぬ方向に曲がった状態で、倒れ伏した博麗の巫女。それを見た時、誰もが『やはりか』と思った。

 この人間は制裁を受けるだけの問題を起こしたのだ。

 長は話し合いを望んでいたが、結局言葉では終わらなかったのだろう、と納得した。

 しかし、もう一つの光景には誰もが眼を疑った。

 巫女と相対する位置に、同じように気を失った天魔の姿があったのだ。

 その巨体は壁に深くめり込み、胴体には拳の痕がくっきりと刻まれている。

 この状況を正確に理解できぬ程、駆けつけた天狗の精鋭達は愚かではなかった。

 到底信じられる事実ではない。

 しかし、紛れも無く現実だった。

 天狗の長が、人間に敗れたのだ。

 

「……こ、殺せ」

 

 いち早く我に返った大天狗は、かろうじて言葉を搾り出した。

 

「そやつを……博麗の巫女を、早く殺せ! 息の根を止めろっ! 屍は千に刻んで、川に流してしまえ! 決して残すな!!」

 

 鬼気迫る表情だった。

 まるで巫女の存在そのものを否定するように叫んでいた。

 命令を受け、慌てて周囲の兵士達が動き出す。

 倒れたままピクリとも動かない巫女を取り囲み、太刀を抜き放った。

 

「殺せぇ!!」

 

 大天狗が悲鳴のように叫び、それに部下が応えるより早く、カシャッという聞き慣れない音が室内に響いた。

 全員が、音の方向へと視線を集中させた。

 

「――スクープ」

 

 視線の先。開いた窓の淵に腰掛ける者が在った。

 カメラを片手に構え、背中には何故か人間の子供を背負っている。

 子供は自分達を睨みつける天狗の迫力に萎縮し、顔をおぶられた背中に埋めた。

 

「意味知ってます? この外の世界の言葉」

「姫海棠はたて!」

 

 名前を呼ばれたことに満足し、はたては微笑した。

 

「大天狗様に名前を覚えていただいているとは、なんとも恐悦至極」

「……貴様、何の真似だ?」

「あら、このカラクリのこと知りませんか? カメラと言って――」

「フィルムをこちらに寄越せ!」

 

 はたての軽口を無視して、大天狗は強く命じた。

 状況が不穏な方向へと傾きつつあることを感じ取った部下の天狗達が、標的をはたてに変えて刀を構える。

 天狗としての常識を持つ者ならば、これが如何に危険な状況かを理解出来ているはずだった。

 天狗の長の屋敷で、直属の部下である大天狗の敵意を向けられ、実際にこうして兵士に囲まれているのだ。

 次の瞬間、この場が処刑場へと変化してもおかしくない。

 天狗社会に生きる者として、それを十分に理解しながら、はたては涼しい顔で窓から降り立った。

 本来、天魔の屋敷への立ち入りは権威のある者以外許可が必要である。はたてはもちろんそれを知っていた。

 

「不敬が過ぎるぞ、姫海棠はたて!」

「な……何をやってんのよ、はたて!?」

 

 大天狗以外にも、はたての蛮行を咎める声があった。

 はたての降り立ったすぐ隣の窓から、文が顔を覗かせている。

 その傍らには、足を負傷した彼女を支えるように椛が連れ添っていた。

 彼女自身も巫女にやられた傷が残っているが、その負担をおくびにも出していない。

 

「しゃ、射命丸文! 貴様まで……っ!」

 

 睨みつける大天狗の顔に、隠しきれない焦りが浮かび上がった。

 はたてと文。二人の名前を知っていた理由は至極明快だ。

 天狗の中で、彼女達の存在が目につくからである。

 それは文のような評判から来る理由もあるが――何よりも一匹の妖怪としての実力へと向けられる注目だった。

 彼女達自身にどれほど自覚があるものか。

 少なくとも、大天狗にとって現状は単なる下っ端天狗の乱心などと楽観出来ないものとなっていた。

 

「はへ!? あ……いいい、いや違います! 何か誤解されていますよ、大天狗様!?」

 

 頭がおかしくなったとしか思えない友人の行動に気を取られていたところで、今度は上司から睨みつけられ、文はますます顔を青くした。

 巫女に負けた後しばらくして、椛と人間の子供を伴ったはたてが駆けつけ、文を治療していた。

 人間にやられた無様な姿で何を言われるものかと警戒しまくっていた文を尻目に、はたては集落へと向かい、そのまま迷いも無く天魔の屋敷へと飛んだ。

 子供の方はともかく、椛の方は何か事情を聞いているのか黙ってはたてについて行く。

 自然と、支えられる文もついて行く形となり、だんだんと嫌な予感がしてきたところで、先ほどのはたての狂った言動である。

 視界には、殺気立つ大天狗に、倒れ伏した博麗の巫女と、同じく気を失った天狗の長――脳の処理容量を超えるような光景だった。

 挙句、ワケの分からない内に事態に巻き込まれようとしている。

 文の混乱はピークに達していた。

 

「博麗の巫女の目的は、この子供です」

 

 纏まらない言い訳を口走る文とは対照的に、はたては奇妙なほど落ち着き払って話を始めた。

 

「里から妖怪によって攫われた子供を助ける為に、山へと侵入したのです。最初に対応した犬走椛が、本人から聞いています」

 

 話を振られた椛が、肯定するように黙って頷いた。

 こちらも天狗の権威を前にして全く動揺していない。

 そんな二人に挟まれた文の当たり前の反応が、逆に奇妙なことのように思えてしまう光景だった。

 

「つい先ほど、子供を救出したところです。問題を起こした妖怪は捕らえてあります」

「……だから、何じゃ? そのまま巫女と共に里へ返せとでも申すつもりか」

 

 はたての真意を知り、心を落ち着けた大天狗は一変して本来の威厳を取り戻した。

 天魔に次ぐ存在として恥じぬ、強烈な威圧感がはたて達に襲い掛かる。

 並の天狗ならば、へたり込んでしまっても不思議ではない。

 それだけの積み重ねられた権威と地力があった。

 

「ならぬ。ここに至る事情など知らぬわ、問題は今よ。巫女は殺す。その餓鬼も殺す。何も残さぬ」

 

 大天狗の殺気に中てられて、背中の子供が一層縮こまった。

 それでも気を失っていないのは、はたてが守るように気を放っているからだった。

 状況の拙さを理解している文でさえ萎縮してしまう中、当事者のはたては堂々とした不敵な態度で、笑みを崩さなかった。

 下っ端天狗にすら命令出来ない胆の小さな姿は影もなく、文にはむしろ普段よりも活き活きとしているようにさえ見える。

 友人の意外すぎる一面を垣間見て、文は驚くよりも先に恐怖していた。

 なんだ、こんなに危ない奴だったのか?

 

「消せませんよ」

「何?」

「目撃者を皆殺しにしようが、記録を一つ残らず抹消しようが、事実は消せません。

 天狗の長たる天魔様が、人間に過ぎない博麗の巫女に打ち倒された事実。どうにも申し開きは出来ません」

「黙れっ! 不敬を働いた罪を罰するだけのこと、この巫女は天魔様の厚意を足蹴にしたのじゃ!」

「事情など知らぬ、のでは? 今目の前にある現実を、どう言い繕っても誤魔化せるものですか。

 天魔様に戦う意思は無かったので。不意を突かれたので。備えていなかったので。相手の巫女が悪いので――だから、人間如きに倒されてしまいました。そう言い訳しましょうか?」

「き、貴様も……死ぬるかっ!?」

 

 はたての信じられない程不遜な物言いに、大天狗の顔が怒りで赤く染まった。

 椛を除く、全ての天狗が一様に眼を剥いてしまうような言動だった。

 

「このように、どれだけ取り繕おうとも事実を世間に知られれば天狗の権威は地に落ちます。

 もはや避けられない、妖怪の山を支配する『絶対の権威』への綻び。小さく治めるか、より大きく拗らせるか。選んでいただきたいですね」

 

 これ見よがしにカメラを掲げ、はたては選択を迫った。

 事実を知る巫女を生かせば、今回の出来事は外にも知られる。だが、博麗の巫女である以上幻想郷全体の乱れは望むまい。天狗を勢力の一端として正確に理解する八雲紫も、背後にいるのだ。

 今回の件を知られるにしても、話は小さく治まるかもしれない。

 しかし、より確実な方法として巫女を殺すのならば、自らこの事実を世間へばら撒くとはたては脅しているのだった。

 天狗が自らの長の敗北を、自ら認め、自ら公表する――最悪の事態になることは明白だった。

 

「貴様も、同じ天狗であろうに……っ!」

 

 大天狗は理解し難いものを見るように、はたてを睨み付けた。

 

「手塩にかけた子供は、血が繋がっていなくても可愛いものですよ」

 

 意味深げな答えに、事情を知らない者達が訝しげな表情を浮かべる。

 一方で、はたてが何を口走ろうとしているのか鋭く察した文は慌てた。

 

「ちょっと、待……っ」

「この巫女は、かつて私達が育てていました」

「何じゃと!?」

 

 大天狗を中心に、周囲から驚愕の声が上がった。

 元凶となった人間を、育てたのがよりにもよって天狗なのだ。

 天狗の中での様々な常識を覆し、尚且つ禁忌に触れた真実に、かつてない動揺が駆け抜ける。

 平然とした表情を浮かべるのは、はたてと椛。

 もはや顔色が死人のそれになっているのは、文だった。

 

「最初に妖怪の山でこの子を見つけたのは文で、彼女を中心に私達は、博麗の巫女となるまでの数年間密かに育てていたのです」

「ちょっ、ちょっ、ちょぉぉぉっとぉ!? そこで私を持ち出す!? あんた、何の恨みがあんの――」

「やはり、貴様もかぁ! 射命丸文ぁぁっ!!」

「ひぃっ!?」

 

 憎しみの視線を移され、もはや言い逃れの出来ない状況に陥ったことを悟った文は絶望に涙を浮かべた。

 

 ――終わった……天狗としての生活、全部終わった!

 

 脳裏には、最悪の光景しか浮かばない。

 集落からの追放。もしくは、このまま処刑である。

 しかし、文の考えとは裏腹に、執行者である大天狗は内心で不安を抱えていた。

 はたてと並び、射命丸文までが敵に回ることは、彼にとっても最悪の事態だったのだ。

 

「い……犬走、その二人を捕らえよ!」

 

 文自身が意図せぬまま拮抗してしまった状況を崩すべく、苦し紛れに大天狗は椛へと命令を放った。

 この場で彼女だけが、脅威として認識されていない。

 一介の哨戒天狗ならば、大天狗の権威には絶対に逆らえないはず。

 何より、白狼天狗は大天狗に敬意を払う者達ばかりだった。

 

「――お断りいたします」

 

 静かに返された言葉に、またもや周囲が絶句した。

 傍らのはたてと一度だけ視線を交わし、椛はそれまで支えていた文の体をそっと離した。

 顔を近づけ、真っ直ぐに眼を見つめながら、文にだけ聞こえるように囁く。

 

「必ずお守りします」

「……は? え、何? 誰を?」

 

 文が、その言葉の真意を確かめる前に、椛は大天狗達と相対するように一歩踏み出ていた。

 視界の先にいる者は、全員椛にとって格上の相手ばかり。従うべき上司しかいない。

 それらに向けて、椛は躊躇なく抜刀した。

 

「貴様まで……」

 

 前代未聞の出来事に、もはや大天狗は言葉も無い。

 

「命令も聞けぬ駄犬風情が……っ。剣を構えて何とする? 畜生の剣如き、例え一太刀でも我が首に届くとでも思うてか!?」

 

 吹き飛ばされそうな殺気がぶつけられた。

 しかし、所詮は殺気である。

 腹の据わった者には何の影響も無い。

 既に椛は覚悟を決めていた。

 今日、ここで死ぬ覚悟を。

 

「――ならば、腕一本か」

「何?」

「あるいは、指一本か」

「む……っ」

「命を賭けた一太刀にて、御身の一部を貰い受けまする。お試しあれ」

 

 正気とは思えぬ程頑なな決意を宿した眼光が、大天狗を射抜く。

 

「う……むぅ……っ」

 

 一瞬、大天狗は気圧されていた。

 手を噛まれるには、あまりに危険な犬であると悟ったのだった。

 下っ端天狗一人が、大天狗を含む全員と拮抗するという恐るべき状況の中で、もはや半ば思考を放棄していた文は肩を叩かれた。

 我に返った文の視界に映ったのは、この状況の元凶たるはたてだった。

 目の前の友人だと思っていた何者かに対して、かつてない怒りと殺意が漲る。

 

「あ、あんたはぁ……っ」

「まあ、こうしてどう頑張っても逃げ場の無い状況へと嵌ってしまったわけなんだけどね」

 

 はたては他人事のように告げた。

 

「文、あんたはどうする?」

「死ね! とりあえず、あんた死ね!」

「このままだと確実に死ぬわね。あんたと一緒に」

「そうしたのは、あんた自身でしょうが!」

「そうね。でも、これは『あんたの為』よ」

「ど……っ!」

 

 ――どの口が言うかぁぁぁーーーっ!!

 

 腹の底から怒鳴り散らしたかったが、怒りが大きすぎて詰まってしまったのか、文は口をパクパクと動かすことしか出来なかった。

 同じ追い詰められた状況にいるとは思えないほど、落ち着き払った様子ではたては微笑んだ。

 そこには優しさが含まれているとすら感じた。

 

「あたしはここまで事実しか話してないわよ。

 あの子を見つけたのも、育てたのもあんた。あたしと椛は、自分の意思でそれに協力した。後悔なんて、何一つしてない」

 

 話が繋がってない、と遮ろうとして、文は言葉に詰まった。

 はたては場違いなほど穏やかな笑顔を浮かべていた。

 

「あの子を含めた、この場の全員が助かる方法。文なら、もう思いついてるはずよね?」

「いや……それは、無理……っ」

「逃げ場は無いわよ」

「ぅ……む……」

「何故、問答無用で殺されないのか。自分の立場と実力は弁えてるんでしょう? あと必要なのは腹を括ることね」

「上司を、脅せと……!」

「大丈夫よ」

 

 苦悩する文を、はたては優しく諭した。

 

「地獄に堕ちるのも一緒だから」

「あんた一人で堕ちろぉぉぉーーー!!」

 

 文の絶叫が、緊迫する空気を無理矢理ぶち壊した。

 全員の視線が集中する中、涙を流しながら笑い狂うという奇怪な姿で、天を指差す。

 注目の意味だった。

 

「どーも、皆様! 清く正しい射命丸です!」

 

 やけくそ気味に声を張り上げる。

 

 

 

「この博麗の巫女は、私が育てたっ!!!」

 

 

 

 

 

 最後の台詞を一語一句間違えずに言い終え、文は先代の過去にまつわる話を締め括った。

 あれから果たしてどうなったのか?

 現在が全てを物語っている。

 話を聞き終え、もはや堪えきれぬとばかりに、勇儀が吹き出した。

 どうやら鬼様は、この昔話をお気に召したらしい。

 文は上手くいったことへの安堵と共に、何故か妙な気恥ずかしさを感じて、誤魔化すように笑った。

 

 その日。地霊殿からは、これまで聞いたことのないほど愉快そうな鬼の笑い声が、盛大に響いたという――。




<元ネタ解説>

「正座からの反撃」
餓狼伝で使われた技とその一連の流れ。

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