東方先代録   作:パイマン

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妖々夢編後日談。


幕間「妖々先代録」

【上白沢慧音の葛藤】

 

 八雲紫からの依頼で出掛けていたあの人が、人里に戻ってきて数日が経った。

 私、上白沢慧音は普段通りの生活を営んでいる。

 少なくとも表向きは。

 事前に博麗霊夢からあの人の容態について聞き及んでいたはずだが、未だに私の中には動揺が残っているらしい。

 今もこうして、あの人が杖を突きながら不自然な足取りで歩いていた姿を思い出すだけで、汗が滲んで鼓動が早くなる。

 この感情は何なのだろうか?

 不安と焦燥が入り混じっているような、初めての感覚だ。

 得体の知れない衝動が、苛立ちとなって矛先を探している。

 八雲紫――。

 あの妖怪を目の敵にしたところで、何の解決にもならないし、理不尽であることは自覚している。

 しかし、決して見当違いではないはずだ。

 あいつが、あの人に用事など頼まなければ――そう恨めしく思わずにはいられない。

 普段からあの人の傍に容易く佇む奴に対する個人的な負の感情もそれを手伝っていた。

 私は奴が気に入らないのだ。

 

 

 

 今日、衝撃的な光景を目にした。

 外を出歩いていた時のことだ。

 なんということはない、ただ買い物とちょっとした用事を済ませようと家を出た。

 ただそれだけの、何の変哲も無い外出だった。

 途中であの人を見かけた。

 人里に戻ってきて以来、怪我の後遺症で何かと不便だろうと気にかけていたから、用事があるなら手伝おうと、なければ少し一緒に歩こうと……そう思って声を掛けようとした。

 私の目の前で、あの人は転んだ。

 躓く物など何もない人里の往来で、だ。

 たまに隣を歩く時。道で偶然出会った時。横から見ても、向かい合っても、凛とした姿勢と静かな足運びが美しいといつも思っていた。

 それが、今はもう見る影も無い。

 足をもつれさせて転んだあの人は、杖に手を伸ばし、不自然な姿勢で立ち上がろうとして、当然のように再び倒れ込んだ。

 明らかにおかしい。あんな姿勢で立ち上がれるわけがない。

 そんなこと、理屈でなくても分かるはずだ。

 バランスを取って立ち上がることなど子供でも出来る。

 なのに、しない。

 出来ない。

 あの人には、もう正しく立ち上がることさえ出来ないのだ。

 私はその光景に衝撃を受けて、しばらくの間呆然としていた。

 何処か、それを現実として受け入れたくないと思っていたのかもしれない。

 周りの人間も同じだったのだろうか。

 あの人はその場でもがくように、立ち上がり、また倒れる行為を繰り返していた。

 我に返った私は慌てて駆け寄った。

 走りながら、何故だか涙が溢れ出た。

 理由は分からない。あの人に対する憐れみでないことは確かだ。

 肩を貸したあの人は、土で汚れた格好で何でもないことのように礼を言った。

 その姿に、不自由を抱える者の卑屈さなど欠片もなかった。いつものような凛然とした態度だった。

 だがその言葉を聞く余裕が、私の方になかったのだ。

 ただ必死に、胸の奥で荒れ狂う激情が涙となって目から溢れるのを堪えていた。

 ――まただ。

 また、あの感覚が襲ってくる。

 分からない。しかし、確実に大きくなっていく。

 不安と焦燥――いや、そうか。

 これは、恐怖だ。

 私は……怖いのだ。

 

 

 

 あの人は人間。私は妖怪。

 種族の違いは理解していたはずだった。

 しかし、それを現実として受け入れることが、どうやら私には全く出来ていなかったらしい。

 あの人が大怪我を負ったと聞いた時は、すでに治療が終わり、一命を取り留めた後だった。

 私はもちろん心配し、不安に思い、あの人をそんな状態に陥らせたあらゆる要因を思い浮かべて意味のない憤慨を抱いた。

 そしてその後、あの人が怪我の後遺症で足に不自由を残してしまったと聞いた時は、思った以上に元気な姿で帰ってくる前日だった。

 私はもちろん世の不条理を嘆き、今後のあの人の生活の変化を手助けしようと固く決意した。

 いずれも、私の認識を甘くする要因があった。

 あの人が生きて、無事帰ってくるという事実だけを受け入れて、先のことを楽観していた。

 心の何処かで、私は直面した現実から逃避していたのかもしれない。

 だが、希薄な現実感はもはや消え去った。

 あの人が傷つき、衰えた姿が目に焼きついて離れない。

 人間の守護者として。また高潔な武人として。常に揺ぎ無く在ったあの人は、しかしやはり人間だったのだ。

 例え怪我が原因でなくても、人間が時と共に衰え、歩くことも立ち上がることさえままならなくなるのは、ごく自然なことだろう。

 何もおかしなことはない。

 だが――。

 ああ、そうだ。認めよう。私はその自然の理が、今や何よりも恐ろしい。

 あの人は人間。私は妖怪。

 お互いに従うべき、縛られる理が違うということを嫌というほど理解し、そしてそれがとてつもなく恐ろしいのだと私は自覚した。

 考えたくない。

 言葉にして表現することさえしたくない。

 だがしかし、避けられない。

 

 ――あの人は、私よりも先に死ぬ。

 

 先送りにし、忘れ、誤魔化し、あらゆる方法で遠ざけていた結論が今目の前に突きつけられていた。

 もう目を逸らすことは出来ない。

 あの人の動かなくなった足を見るたびに、私は思い出さなければならなくなったのだ。

 自覚して以来、怖くて眠れない夜が続いた。

 まるで幼子のようだ。情けないと自嘲する。だけど夜、一人で布団に入るとどうしても体の震えが止まらないのだ。

 真夜中の静寂が孤独感を煽る。

 朝、目を覚ませば自分が一人だけ取り残されているのではないのかと根拠も無く不安になる。

 一日経つごとに、あの人の死が、あの人との別れが迫っているような気がして、恐怖が重なっていく。

 いつか訪れる結末。

 避けようもない現実なのだと理解しているだけに、私自身にはどうしようもなかった。

 心の整理がつかぬまま、寝不足でろくに働かない頭を抱えて、ただ不安を消す為に朝早くあの人の様子を伺いに診療所へ足を運んだ。

 当たり前のように出迎えてくれるあの人の声を聞いて、ようやく心が落ち着く。

 何気ない挨拶をして――あの人がまだ生きていることを確認して――かりそめの安堵を得る。

 そして夜が来て、また怯える。

 私は、あと何度これを繰り返すのだろう。

 あと何度……繰り返すことが出来るのだろう。

 あの人は人間。私は妖怪。

 いずれ、あの人は私の前からいなくなる。

 私は、それが何よりも怖い。

 

 

 

 今日、八雲紫が来た。

 

 

 

 

【人里の悲喜交々】

 

 人里の夜の闇は深い。

 外の世界とは違い、道に街灯や深夜営業の店など存在しないのだから、光源は月か星の明かり程度のものだった。

 その深い闇の中へ、好んで出て歩く者などいない。

 人を遠ざける闇には必然的に静寂が満ち、そうした空間には人ならざる者が潜む。

 だから、夜は人が出歩かない――。

 何処から先に始まったものか、夜の闇の深さと静けさはそうやって形作られていた。

 その闇の中を、月明かりすら避けて動く者があった。

 三人の男だ。

 いずれも間違いなく人間である。

 しかし、この闇の中に迷い出てしまった間抜けか憐れのどちらでもない人種だった。

 彼らは気配を殺し、足音を消すことに長けていた。

 この夜の闇を味方につけることの出来る者達だった。

 夜に活動する妖怪達の目すら欺くように、彼らは静かに目的の場所へと向かって行く。

 人目を忍んでどんなやましい行いを目的として動いているのか。彼らの着いた先は、あろうことか単なる人里の診療所だった。

 ただ、そこが先代巫女の営む店であるということ以外は、全く何の変哲も無い場所だ。

 ――彼らの目的は、先代巫女そのものだった。彼女を『暗殺』する為に来たのだ。

 三人の足が止まる。

 顔を見合わせるが言葉は交わさない。

 しかし、互いの瞳には僅かに困惑の色が映っていた。

 予想外の出来事にぶつかった。

 本来なら、ほとんどの人間が眠りに就く深夜の時間帯にも関わらず、診療所には明かりが点っていたのだ。

 事前に下調べは済んでいた。この時間帯、先代巫女は他の住人と同じように就寝しているはずである。

 それがどんな不運か、今日に限って起きている。

 三人共が、どうするべきか迷っているようだった。

 目標である先代巫女が、現在足に不自由を抱えているのは変わりがない。就寝中を狙ったのは、更に慎重を期すためだ。

 このまま目的を実行するか、大事を取って今夜は退くか。さて――。

 

「動くな」

 

 思案している間に、彼らの選択肢は全て消え失せた。

 

「お前達の仕事は失敗に終わった。退くな。進むな。一切の行動を許さない」

 

 三人の男の前に、たった一人で立ち塞がった門番妖怪はただ静かに威圧した。

 夜の闇に映える赤い髪である。

 しかし、彼らは声を掛けられるその瞬間まで美鈴の接近に気付かなかった。

 自分達をはるかに凌ぐ、人外の域にまで達した完璧な陰行だ。

 そこから感じられる実力差を理解出来ないほど、彼らも未熟ではない。

 だからこそ、彼らはすぐさま撤退を選び――己の危機感が全く足りていないことを次の瞬間実感した。

 

「阿呆」

 

 文字通り、瞬く間だった。

 三対一の状況で、戦っても勝てないと理解していたが、逃走すら不可能だったことまで考えが至らなかった。

 一呼吸の間に美鈴が三人の元へ接近し、二呼吸を終える前に全員を叩き伏せていた。

 自分達がどんなタイミングでどんな攻撃を受けたのかすら理解出来ないまま、地面に倒れる。

 

「ば、馬鹿な……!」

「馬鹿はお前達だ。幾ら掴まされたのか知らないが、金銭の報酬で地獄を渡ろうとするなど」

 

 男の呻き声に、美鈴は氷のように冷たく応じた。

 彼女は妖怪でありながら鍛錬を積み重ねた稀有な存在である。しかも、その鍛えた期間の長さと密度は人間の比ではない。

 人間であり、並の鍛え方と並の修羅場を潜った程度の相手など、彼女にとって塵に等しいものだった。

 

「お前達のような者が、あの人の身を脅かすことなど万に一つも在り得ない」

「まあ、それでも目障りではあるわけよ」

「いやー、しっかし驚くほど興味が湧かない人達ですねー。これで先代様への私怨の一つも混じってれば、まだ笑えるんですが。身なりからして、完全にその道の仕事人ですよ」

「ふーん。よく分からないけど、こんな変なことを仕事にしてる人間もいるんだね」

 

 美鈴に続いて闇の中から現れたのは、パチュリー、小悪魔、フランドールだった。

 面識の無い男達にとっては、地獄に迷い込んだ光景にしか思えなかった。

 一体、何の間違いで前触れも無くこんな死地へ踏み込んでしまったのか。

 自身の常識を容易く超えた状況に、彼らは言葉を失った。

 

「確かに、暗殺者というのも今の人里で果たして需要のある仕事なのか疑問が残るわね」

 

 パチュリーがさして興味も無さそうに呟くと、更に現れた新しい人物が答えた。

 

「一昔前までは、人里の治安も今ほど安定していなかったんだ。

 霧雨店が台頭し、互助会を築いて人里の店をまとめるまでは、水面下での競争や真っ当ではない手法の商業などで随分と荒れていた。彼らはそんな時代の裏で生きていた住人だよ」

 

 慧音だった。

 吸血鬼、魔女――妖怪達と並びながら男達を見下ろす彼女の瞳には、わずかに痛ましいものが浮かんでいるが、それ以上に冷たさがあった。

 

「そして、その不毛の争いを終わらせる切欠となったのが、当時霧雨店の店主と交流のあった先代巫女だ。

 あの人の体の不自由を知り、かつての恨みを持つ者が差し向けたのだろう。今でもあの人は、人里の不正に対する抑止力になっているからな」

 

 紅魔館の者達と違和感無く並ぶ人里の守護者の姿に何を察したのか、あるいは誤解したのか。

 慧音を見上げる男の顔が嫌悪で歪む。

 

「所詮は獣の血を混ぜた半人か……!」

 

 侮蔑するように吐き捨てる。

 それに対して、慧音はわずかに眉を動かすだけの反応に留めた。

 

「なるほど。アナタが一部の人間にどのように認識されているか、理解出来るわね」

「こいつら、完全に自分を棚に上げてますよね。パチュリー様、一人残して後は殺していいですか?」

「やめてくれ。先代を狙ったことは私も許せないが、だからこそあの人の周りに余計なものを残したくない」

 

 普段の穏やかな気質からは想像も出来ないような提案をする美鈴に、慧音が言った。

 美鈴が肩を竦めてあっさり引き下がる。

 こだわるつもりはなかった。目の前の人間達は、美鈴にとってその程度の認識でしかない。

 入れ替わるように、フランドールとパチュリーが男達に近づいた。

 

「よかったね、アナタ達はここでは殺さないよ。でも、次に小母様を狙ったら許さないからね?」

 

 フランドールはにっこりと笑って、三人の暗殺者達一人一人の顔を覗き込んだ。

 無邪気そのものといった表情からは、しかし闇の稼業に浸って長い彼らを心の底から恐怖させるほどのおぞましさが放たれていた。

 意識と関係なく、全身から汗を吹き出し、ガタガタと体を震わせる男達の様子を確認して、パチュリーが仕上げに掛かる。

 

「恐怖を刻み込んだようね。結構。それを忘れないようにしておくことね、アナタ達の命を守る為の安全弁になるわ」

 

 今回のような愚かな行為に出ることが今度は死に直結することを警告し、パチュリーは男達の額に指をかざした。

 一言の呪文すら必要ない。

 ただその仕草だけで魔法が発動し、途端に男達の瞳から理性と知性が消え失せる。

 茫然自失といった様子に陥った彼らは、のろのろと体を起こして、そのまま意思の感じられない足取りで夜の闇へと消えて行った。

 

「今のは?」

 

 慧音が若干不安そうに尋ねる。

 

「軽い呪いよ。妹様が植え付けた恐怖の感情を利用して、少し心を壊させてもらったわ。一週間ほどは白痴状態ね」

「野垂れ死になんてことには……」

「安心しなさい、完全に思考を奪ったわけではないわ。彼らはおぼろげな記憶のまま、帰巣本能のように雇い主の所へ戻ったのよ。

 その後は自発的に動くことも出来ないでしょうけどね。雇った暗殺者が戻って来たことで、その誰かさんは計画の失敗を悟るし、警告とも受け取る。やましい事を隠す為に、彼らを匿う必要も出てくる。穏便な対処よ」

「……そうだな。十分だ」

 

 ――雇い主が、証拠隠滅と彼らを世話する手間を省く為に殺す可能性もある。

 しかし、パチュリーはその可能性を、目の前の善良な半人半獣に話すつもりはなかった。

 余計な心労を負わせる必要は無いという考えもあったが、それ以上にあの暗殺者達にそこまで配慮をする気がなかったからだ。

 死ぬのなら、死ねばいい。

 パチュリーにとって、自分自身や身の回りの者に害を為す存在など、その程度の認識だった。

 当然のことだ。

 

「しかし、本当にいいタイミングで先代の見舞いに来てくれたな。

 吸血鬼が夜に活動するからとはいえ、まさかこうも綺麗に奴らの活動時間と訪問時間が一致するとは」

 

 完全に暗殺者達の姿が見えなくなると、慧音が重苦しい雰囲気を振り払うように気軽に言った。

 

「実は、日時を指定したのはレミリアお嬢様なんですよね。ひょっとしたら、今夜のことを見抜いた上で言ったのかも」

「あー、あの胡散臭い能力ですか。予知とか予言って、なんか信じられないんですよね。しかも『運命(笑)』とか。単なる偶然じゃないですか?」

「……アンタ、悪魔なのにそういうこと言っちゃう?」

「いや、悪魔の予言とかって大抵でまかせか自作自演ですから。あと、やっぱり運命は自分で切り開くものでしょう!」

「うわー、小悪魔が言うと良い台詞が台無しだー」

 

 和気藹々とした四人のやりとりを眺めて、慧音は苦笑を浮かべた。

 人里を守る者として、外部の勢力は当然ながら警戒の対象である。

 最近異変を起こした紅魔館は、その代表たるもののはずだった。

 しかし、実際に出会ってみれば、彼女達は先代巫女を慕い、彼女を狙った不穏な人間に対しても無闇な殺生を行うことなく穏便に済ませてみせた。

 先ほど、あの男達が自分に向けた敵意を思い出し、慧音は複雑な感情を抱いた。

 人間に嫌悪され、拒絶され、受け入れられ。

 同じように妖怪から受け入れられ、拒絶され、嫌悪もされる。

 かつては人間で、今は妖怪。後天的に半人半獣の妖怪となったことで、常に自分は二つの種族の間で翻弄されてきた。

 これからも、こうして迷うことは多くあるのだろう。

 どちらかに傾いてしまえば、少なくとも苦悩の一つはなくなるのかもしれない。

 

「……馬鹿な。答えは、ずっと昔に出ているだろう」

 

 慧音は自分に言い聞かせるように呟いた。

 脳裏には、かつて見たものと同じ先代巫女の背中が映っている。

 

 ――しかし、あの人がいなくなった後はどうだ?

 

 不意に、解決したはずの疑念が再び浮かび上がった。

 理解し、後悔し、納得したはずの事柄だ。

 それなのに、未だに心の何処かに残っている。

 結局、自分に出来るのは理屈を理解することだけで、受け入れることなど出来ないのだろうか。

 いずれまた同じ過ちを繰り返すかもしれない。そんな弱い性根と器の小ささこそが自分の全てなのだろうか。

 慧音は揺らぎ続ける決心を抱えた自分に嫌悪しながらも、縋るように診療所の明かりを見つめた。

 その視線に何を察したのか、フランドールが顔を覗き込んでくる。

 

「えーと……けーね先生?」

「あ、うん。先生……か。私をそう呼ぶのか?」

「うん、小母様からけーねは『先生だ』って聞いたもん」

 

 フランドールは自信満々に微笑んだ。

 その笑顔に、寺子屋で教えている人間の子供達の顔が重なる。

 長い年月狂気を抱え、今でも外出には制限が掛けられているというこの悪魔の妹は、しかし慧音の見る限り何処までも純粋で無垢な少女にしか思えなかった。

 先ほど暗殺者達を恐怖させた吸血鬼としての威圧感も薄れてしまうフランドールの純真さに、慧音は自然と微笑み返していた。

 

「けーね先生も、よかったら一緒に小母様の所へ行かない?」

「私も、か? しかし……何故だ?」

「うーん。よく分からないけど、会いたそうな顔してたから」

「……そうか」

 

 純粋な心の目こそ、建前や取り繕った外面に惑わされずに本心を見抜くのだろうか。

 慧音はフランドールの指摘を抵抗無く受け入れた。

 

「そうかもしれないな」

「じゃあ、一緒に行こうよ。小母様と仲良しなんでしょ?」

「ああ……多分。そうだと良いが」

「あれ、自信ないの?」

 

 フランドールの言葉は遠慮が無く、慧音の不安を的確に突いていた。

 少し前の出来事を思い出す。

 心の底から敬愛していたはずの先代を、擬似的にとはいえ死に至らしめることに関わった自分の愚かさを思い出す。

 

「……どうかな? 不安になってしまうくらい、あの人に悪いことをしてしまったんだ」

 

 何を言っている、自業自得だろうが。

 慧音は心の中で自虐の言葉を吐き捨てた。

 あの日、先代が目を覚ました時。涙が出るほどの喜びと安堵を感じながら、それ以上の後悔と懺悔の気持ちを抱いていた。

 もちろん、その場で謝罪し、先代もまたそれを何でもないことのように許したが、未だに慧音の中で後を引いている。

 きっとこれは、あの人と向き合う上で一生引き摺る負い目なのだろう。

 

「大丈夫!」

 

 暗い表情で俯く慧音を見つめ、フランドールは言った。

 

「小母様は、悪いことをしたらちゃんと怒ってくれる人だもの」

 

 その短く、当たり前の言葉を受けて、慧音は意表を突かれたような表情を浮かべた。

 

「それからね、反省して謝ったら、ちゃんと褒めてくれるの」

 

 フランドールの裏表の無い言葉は、慧音の心を熱く奮わせた。

 目の前を覆っていた、憶測や理屈、それらから来る不安といった靄のようなものが消え失せ、視界が開けた気分だった。

 自分は、いつだって迷っている。

 しかし、いつだってその時の答えを出してきたのだ。

 これまで積み重ねてきたその事実に、慧音は今気付いたのだった。

 

「……ありがとう」

 

 慧音は吸血鬼の少女に深い感謝を抱き、それを素直に口にした。

 フランドールがにっこりと微笑む。

 

「話は、纏まったようですね」

「いやぁ、いい話ですねぇ。でも、私の前ではこういう話はやめて欲しいですねぇ。鳥肌立ちますから」

「小悪魔。私の世話は美鈴だけでいいから、やっぱり館に戻りなさい。っていうか帰れ」

 

 傍で見守っていた美鈴達も加わり、慧音とフランドールは一緒に歩き出した。

 夜の闇は深い。

 しかし、彼女達の向かう先では、診療所の明かりが照らす入り口の前で、訪問の遅れている彼女達を心配して待っている先代巫女の姿があった。

 

 

 

 

【霧雨魔理沙の挑戦】

 

「スペルカード・ブレイク、だぜ。どうだ!」

「ど、どうだって……そんなボロボロの姿で胸張られても」

「うるさいぜ!」

 

 弾幕ごっこに見事勝利を収めた魔理沙は、地面に墜落した橙を見下ろしていた。

 ゼェゼェと肩で息をしながら、勝者の笑みというよりも引き攣って口の端が釣り上がっているだけの表情を浮かべている。

 お互いに弾幕のダメージを刻みながら、呆れたように見上げる橙の方がむしろ余裕があった。

 傍から見れば、勝敗が分かりにくい構図だ。

 

「わたしの勝利には間違いないぜ。文句はないだろ!?」

「いや、そりゃあ無いけど……。とりあえず、降りてきなよ。その怪我を治療しなくちゃ」

「……おう」

 

 魔理沙はフラフラと力無く地面に降り立った。

 マヨヒガの屋敷の中に駆け込んだ橙が医療品を片手に戻って来ると、縁側に座り込んだ魔理沙が礼を言った。

 

「ありがたいんだが……いいのか? お前、妖怪だろ?」

「そうだけど、あんたはわたしに勝ったじゃない。勝ったんだから、負けた奴は従わなきゃ駄目でしょ」

「弱ってるんだから、食っちまえばいいじゃないか。

 お前以外にも何匹かの妖怪と決闘したけどさ、中には勝負の結果を無視して襲ってくる奴もいたぜ」

 

 それを時には撃退し、時には逃げ延びた魔理沙には、しっかりと敗北を認める橙が珍しく映った。

 スペルカード・ルールに直接的な強制力がないとはいえ、それを破ることでどんな末路が待っているのかも想像できない思慮の浅さが弱い妖怪にはある。

 その点を踏まえれば、橙は実力はともかく妖怪として一段上の存在だった。

 

「へんっ、わたしをその辺の野良妖怪と一緒にしちゃ困るね。そんな狡い真似なんか絶対にやらないよ」

 

 一見して幼い少女の外見と雰囲気を持つこの化け猫には、しっかりとした信念やこだわりがあるらしい。

 治療を受けながら、魔理沙はバツの悪そうに頭を掻いた。

 元々、最初に弾幕ごっこを仕掛けたのは魔理沙の方だった。

 しかも、相手が悪さをしていたとか大きな理由があってのことではない。

 この如何にも人間の住む気配からかけ離れた屋敷がたまたま目に付き、そこにいた化け猫と出会ったことで始まったのだ。

 威勢良く勝負を挑んだ魔理沙に対して、橙もまた堂々と応じた為に疑念など抱かなかったが、形からすればただ単に魔理沙が喧嘩を売ったに過ぎない状況だった。

 

「なんというか……すまん。お前からしたら災難な話だよな」

「ああっ、妖怪相手に同情してるなぁ? そういう反応って逆に傷つくし、腹立つよ。人間のクセに!」

 

 謝罪に対して、橙はむしろ不快そうに睨み返してきた。

 

「本当は妖怪が勝って当たり前なんだからね! わたしは未熟だから負けちゃったけど、妖怪は人間よりも強いものなの!

 だから、人間は理不尽に襲われても仕方ないし、妖怪は退治されても仕方ない――そう教わったよ。人間が妖怪に気を遣うなんて逆だよ。妖怪は恐れられなきゃいけないんだから」

「……そいつはなんとも、英才教育を受けてるもんだな」

 

 自分には理解出来ない人外の価値観に、曖昧な笑みを浮かべる。

 妖怪とは、より強い力を持つに従って弱い者への意識に差をつけるらしい。特に人間に対するそれは顕著だった。

 脳裏に、あの八雲紫に従っていた狐の妖怪の姿が浮かび上がる。

 まさに格上の相手だった。

 自分は徹底的に見下されていた。

 橙の語る妖怪の価値観にピタリと当て嵌まる構図が、今の自分とあの狐妖怪との関係であり、奴にとって自分は有象無象の人間と同等でしかないのだ。

 それを自覚することで、魔理沙の中で燻っていた何かが再び熱を持ち始めた。

 今回のような『出会った妖怪と片っ端から弾幕ごっこをする』という武者修行染みた行動を起こさせる切欠となった、あの日以来胸の奥に根付く熱い『何か』だった。

 

「言っとくけど、わたしに勝ったからって勘違いしちゃ駄目だよ?

 本物の妖怪っていうのは、もっともぉーっと強いものなんだからね。それこそ、わたしのご主人様みたいにね」

「身に染みて分かってるよ」

「へえ、じゃああんたはそういう妖怪に負けたことあるんだ?」

「ああ、文字通り歯牙にもかけられなかったって奴さ。ボロ負けだよ」

「それでいて、まだわたしみたいな他の妖怪に喧嘩を売ってくるんだから、懲りないっていうか、人間らしくないっていうか」

「人間らしいから、意地になるんだぜ。強くなって、いずれあいつを見返してやる」

「……やっぱり人間らしくないよ」

 

 橙は呆れたようにため息を吐いた。

 目の前の人間の存在は、彼女の教わった内容に反している。

 人間は妖怪を恐れなければならない――その常識に、魔理沙は真っ向から反逆しているのだ。

 こういう奴もいるんだな、と物珍しさ半分に魔理沙の横顔を眺めながら、橙は最後の包帯を巻き終えた。

 

「はい、これで治療完了」

「おお、助かったぜ。本当に悪いな」

「だから、良いって。負けたわたしが悪いんだしね。魔理沙はこのまま、他の妖怪と勝負を続けるの?」

「そうだなー。そろそろ体力も限界だし、帰るとするかな」

 

 橙は自然と魔理沙の名前を呼び、魔理沙もまたそれを当たり前のように受け入れた。

 お互いに自覚はない。

 しかし、弾幕ごっこという勝負とその結果を通すことで、人間と妖怪としての第一印象を互いに改めていた。

 

「気をつけてね」

 

 橙は自分が人間の身を案じる言葉を使ったことに違和感を感じなかった。

 

「おう。また今度勝負しようぜ。あと、お前のご主人様って奴ともやってみたいな」

「次は負けないし、あんたなんかが藍様に勝てるなんて絶対にないからね」

「ははっ、そいつは楽しみ――」

 

 負けず嫌いな性格は、似たような魔理沙自身にも共感出来た。

 幼い見た目ではどうしても感じてしまう微笑ましさに笑いかけ、しかしそれは途中で止まる。

 橙の背後に現れた別の妖怪の存在に気付いたのだ。

 魔理沙は、その姿を見て完全に意識が移っていた。

 

「なんだ、何者かと思えばお前か」

「お前……」

 

 九本の尾を優雅になびかせ、魔性の美貌を持つ狐の妖怪は魔理沙の前に降り立った。

 最初の頃と全く同じ、冷ややかな視線が見下ろしている。

 単純な身長の差以外の意味が、そこに込められていた。

 

「藍様!」

 

 振り返った橙の顔が満面の笑みに輝く。

 どうやら、彼女のご主人様とはこの『藍』と呼ばれる妖怪だったらしい。

 奇妙なめぐり合わせに苦笑を浮かべようとして、魔理沙は失敗した。

 あまりに唐突に果たされた再会が、複雑な感情と思考の混乱を起こしている。

 苦々しげに睨み付ける魔理沙の存在を完全に無視し、藍は駆け寄る橙に優しく微笑みかけた。

 

「橙、良い子にしていたかい?」

「はいっ! 今日はマヨヒガのお掃除をしていました!」

「うん、ちゃんと与えられた仕事をこなしているようだね。偉いぞ。ここは普段は使わないが、使う時にはいつも重要な用件の時なんだ。しっかりと管理しなさい」

「はい、分かっています!」

「よろしい。では、次にそこの人間のことだが……」

 

 話を変えながらも、その話題の対象である魔理沙には一瞥すらくれずに藍は笑顔のまま橙の頬に手を添えた。

 

「そいつと勝負をしたね。結果はどうだった?」

 

 橙は気まずげに目を逸らすことしか出来なかった。

 しかし、聡い藍にとってその反応は答えも同然である。

 

「負けたな」

「……はい。ごめんなさい」

 

 力無く項垂れる橙に対して、藍は表情を引き締めた。

 言葉にはしない叱責の気配がハッキリと表れている。

 藍は、黙り込んだ橙の頬を強く叩いた。

 思わず口を出そうとした魔理沙だったが、藍の厳しくはあるが決して罵るようなものではない真剣な目付きを見て、ぐっと堪えた。

 きっと、これは部外者が口を挟んでいいものではないのだ。

 そう自然と理解出来た。

 冥界で、霊夢と先代巫女が向き合っていた時の光景が思い出されたのだ。

 

「橙。お前は私の式神、ひいては八雲紫の式の式なのだ。その自覚と自負を忘れないようにしなさい」

「はい……ごめんなさい、藍様」

「謝るな。弱い態度は癖になる。ただ、自分の中で誓いなさい。もう負けることなどないように、強く在るんだ」

「わかりました」

 

 目に涙を溜めながらも、最後は真っ直ぐに藍の顔を見返して、橙は答えた。

 藍は満足気に頷き、再び笑みを浮かべる。

 魔理沙が抱いていた印象を崩すような、藍の意外な一面を見てしまった。

 厳格であり優しくもある。

 おそらく身内にだけしか向けられない、真摯な態度だ。

 人間である自分には絶対に向けられることはないものだな、と納得しながらも魔理沙は藍への悪印象を改めていた。

 

「ムカつくだけの奴だと思ってたんだけどな……」

「ああ、まだいたのか人間。とっとと消えろ」

 

 あ、やっぱムカつくだけだわ。

 魔理沙は額に青筋を浮かべて睨み付けた。

 

「わたしは霧雨魔理沙っていう名前なんだぜ?」

「そんなことは記憶しているが」

「じゃあ、名前呼べよ。それと、名乗ったんだからお前も名乗り返すのが礼儀だろ」

 

 魔理沙は二人の会話から『藍』という名前を聞き取っていたが、同時にそれを絶対に口にしないでおこうと決めていた。

 藍本人から直接名乗らせて、初めてこちらから名前を呼んでやるつもりだった。

 単なる意地でしかない決意だったが、それは固かった。

 そんな魔理沙の決意を鼻で笑うかのように、藍は全く変わらない冷ややかな視線で応える。

 

「お前など、名乗るに値しない」

 

 ただ淡々と事実だけを断言するような返答だった。

 藍が魔理沙の名前を、単なる記号として記憶しているだけなのは明確だ。

 

「へっ、相変わらずの格上様な台詞だな。いつか、絶対にわたしの存在を認めさせてやるぜ。具体的にはお前に勝って、な」

「不可能だ」

 

 彼女にとって、魔理沙だけが例外ではなく、全ての人間が対等には値しない存在だった。

 

「お前達人間の力が、時として妖怪のそれを上回ることは認めよう。中には博麗の巫女のような例外も存在する。

 しかし、人間という種そのものが私にとって記憶することすら値しないのだ。どれ程の力と栄華を手にしようと、百年も経てば自身を含む全てを失い、同じだけの時を経て私の記憶から消えていく。

 そんなことの繰り返しだ。お前達、人間という短い存在は。私を脅かすことも、揺るがすことも無い。ただ、時と共に過ぎ去っていく儚い存在なのだ。そしてお前は、そんな中で特に脆弱でちっぽけな存在でしかない」

 

 自分にとって、魔理沙が如何に無価値で興味を抱かないものなのかを、静かに丁寧に――そして何の感慨も無く藍は語って聞かせた。

 

「せいぜい、そうやってわたしのことを雑魚だって侮っておくんだな」

「雑魚? それは敵対する者への認識だ。お前など、せいぜい煩わしい羽虫程度さ」

 

 冷笑を浮かべる藍に対して、しかし魔理沙は我が意を得たりとばかりに不敵な笑みで応えた。

 

「いいねぇ……少なくとも眼にも留めない石ころじゃなく、視界に映る羽虫程度には認識を改めてくれたわけだ。橙に勝った成果かな?」

 

 決闘を経て通じ合った橙を出汁にすることは魔理沙にとっても抵抗のある行為だったが、その挑発は初めて藍に効果を発揮した。

 僅かに。本当に僅かに、藍の顔に不快の色が浮かぶ。

 目元を細め、敵意を滲ませて魔理沙を見下ろす。

 そのまま、まさに虫を払うように彼女が力を振るえば、魔理沙は抵抗する術も無く吹き飛ばされるだろう。

 しかし、そうなった結果がどちらにとって敗北であり勝利であるのか、藍と魔理沙は互いに自然と理解し合っていた。

 

「……口だけは減らない人間だ」

 

 結局、藍は静かにそれだけ言葉を返した。

 あとは何も語らず、魔理沙を無視するように背を向けて立ち去る。

 二人のやりとりを見守っていた橙が、躊躇いがちに魔理沙の方を見ながらも、慌ててそれに続いた。

 魔理沙は、遠ざかるその背中をじっと睨み付けていた。

 遠く、高い存在だ。

 今はこうして見上げるしかない。

 しかし、待っていろ。

 いずれは――。

 

「お前の名前を呼ぶぜ。そして、わたしの名前を呼ばせるぜ」

 

 絶対に。

 己の意志を確かめるように、魔理沙は呟いた。

 

「……って言っても、今のままじゃ厳しいか。

 ああ、やっぱり独学じゃ限界があるのかな。でも、パチュリーにこれ以上教わるっていうのもなぁ」

 

 師事する相手として適切な魔法使いの先達がいることを理解しながら、それでも悩んでしまうのは余裕などではなく、単なる小さな意地だった。

 

「なんか、譲られてるっていうか、見守られてるっていうか……居心地悪いんだよな。もっと、互いに利益が絡んだドライな関係で師事できる相手が欲しいぜ。いないかな?」

 

 しかし、その意地こそが魔理沙の不屈の闘志を支える根っこである。

 彼女は未だ未熟であり、若かった。

 それこそが強みであることさえ、自覚していない。

 

 

 

 

【魂魄妖夢の迷走】

 

 

 妖夢が人里を訪れるのは、これが初めてではなかった。

 とはいえ、何年も前から定期的に訪れているわけでもない。

 妖夢の住む冥界は、結界によって地上と隔絶されている。

 同じ幻想郷にあっても、更にそこから生者の住む場所と死者の留まる場所に分けられ、長年隔てられてきたのだ。

 その結界が、最近になって破壊された。

 言うまでも無く、今や『春雪異変』と呼ばれている異変の時である。

 あの時、霊夢の破壊した冥界の結界は、今も有耶無耶の中で修復されぬまま、冥界と地上の境界を曖昧にしている。

 主人である幽々子が、妖夢にその冥界の出入り口を通って地上へのおつかいを頼むようになったのは、その異変が終結してしばらくのことだった。

 名目は、様々である。

 基本的には文字通りの『おつかい』だ。主に人里の店を訪れ、菓子や書物などの嗜好品の類を買いに行かせる。

 そのあまり必要性の感じられない命令が、何よりも自分自身の為のものであると妖夢は最近理解し始めていた。

 妖夢はあの異変以来――正確には、霊夢に決定的な敗北感を味わって以来、何処か様子がおかしかった。

 庭師としての仕事をこなし、稽古も毎日続けている。

 しかし、いずれも身に入っているという気がしない。

 自分の中の歯車のようなものが止まったままだと、そんな漠然とした違和感を抱えたまま日々を過ごしていた。

 その捉えようのない違和感は、少しずつ表にも出始めている。

 今日も、おつかいを済ませて人里を歩く妖夢の顔は俯き加減で、何処か暗かった。

 

「……あれ? ここ、端っこの方だ」

 

 ふと我に返った妖夢は、自分が人里の外れを歩いていることに気が付いた。

 何をやっているんだ私は、と。半ば無意識に歩いていた自分を戒める。

 そもそも、多くの店は人里の中心に集中している。

 一体、何をどうすればこんな主だったルートから外れた場所まで来れるのか。

 ――いや、理解はしていた。

 幽々子から買い物を命じられる店は、いつも違う。

 無作為に選んでいるのではないかと思うほど、常に違う場所で違う物を買ってくるように頼まれた。

 まるで、人里の中を広く歩かせることが目的であるかのように。

 そんな予想がつくようになったのは何回目の『おつかい』の時だったか。

 人里の住人や、店の店員と触れ合い、地上の多くの情報を自然と得る内に妖夢は自分が無意識に避けようとしている事柄があることをいつしか自覚していった。

 この人里には、先代博麗の巫女が勤める診療所が存在する。

 先代――すなわち、あの霊夢の母親である。

 そして、霊夢は度々人里を訪れ、その母親に会っていくことがあるらしい。

 それを知って以来、妖夢はわざわざ遠回りをしてでも診療所のある場所を避け、息を潜めるように人里を去るようになった。

 理由は明白だ。

 会いたくなかった。あの博麗霊夢とその縁者に。

 

「腑抜けすぎだ……私」

 

 妖夢は自嘲のため息を吐いた。

 何度も自問したが、いつも答えは一つ。

 要は、霊夢に会うのが怖いのだ。

 もはや彼女とは敵対関係ではないが、一度経験した完全な敗北が妖夢の霊夢に対する感情に深い闇を落としていた。

 屈辱や、それによる反骨心すら存在しない。ただ絶望感と、二度と相対したくない恐怖だけがあった。

 今、霊夢と会えば、表向きは単なる知人としての会話程度なら成り立つかもしれない。

 しかし、内側では自分は常に彼女に無条件で降伏しているような状態になる。

 格上の相手に、犬が仰向けになって腹を晒すような有様になってしまう。

 そんな惨めな気持ちは御免だった。

 これまでの日々で培ってきた力と信念が、その自覚と自負が、妖夢の心を完全な負け犬へ堕とすことを許さなかった。

 霊夢に敵わないと悟ったからこそ、何度もその事実を突き付けられるのに耐えられなかったのだ。

 初めて経験した実戦の結果は、鍛え上げた己の力による使命の達成に燃えていた若き剣士を、単なる臆病者へと変えてしまっていた。

 

「…………このまま、逃げ続けるのか?」

 

 帰路を進む足はすっかり止まり、妖夢は何度繰り返したか分からない自問を呟いた。

 そして、いつも同じ答えで決まる。

 

 ――挑んでも、勝てる訳が無い。

 

 手も足も出なかった。

 自分勝手な言い訳に縋りつき、それさえも粉砕された。

 妖夢は、もう一度ため息を吐くと、歩みを再開した。

 このまま白玉楼へ帰り、屋敷の中の仕事をこなし、意味のあるかも分からない日々の鍛錬を繰り返し、そして――あと何度眠れぬ夜を過ごすのだろう?

 妖夢は唇を噛み締めた。小さく切れ、血が流れた。

 

 こうして苦悶し続ける妖夢の姿を見ていた幽々子は、何らかの変化を期待して彼女に地上へのおつかいを命じていたのだ。

 新しい出会いや、未知との遭遇。何でもいい。

 そして今日、ようやくその期待は応えられた。

 

 それは、人里を出てすぐのことだった。

 交通が混乱するので、人里内での飛行は禁止されている。

 人気の無くなった所で妖夢は白玉楼へ向かって飛ぼうとした。

 しかし、その時近づいて来る獣臭に気が付いた。

 加えて、血の臭い。

 それらを放ちながら歩み寄って来る者が、単なる獣ではなくボロボロの外套を頭から被った大柄な男であることが妖夢に強い警戒心を抱かせた。

 まず間違いなく妖怪だ。

 しかも、こいつは人か動物か、何らかの生物を大量に殺している。

 鼻を突く生臭さに、妖夢は不穏な空気が混ざっているのを敏感に感じ取った。

 

「……止まれ」

 

 相手の事情は知らない。このまま何事も無く自分を通り過ぎるのかもしれない。

 しかし、男の進む先には人里があった。

 妖夢は立ち塞がり、腰の刀に手を掛けながら声を発していた。

 

「ここから先は人里だ。血の臭いを纏って、あそこへ入るつもりか?」

 

 男は答えない。

 ただ、顔を覆う外套の影の中で人間離れした異様な眼光が二つ輝いた。

 妖夢は咄嗟に横に跳んだ。

 一瞬遅れて、つい先ほどまで妖夢の居た場所を男の爪が引き裂いた。

 外套から伸びる男の腕は体毛に覆われ、爪は刃のように鋭く、長い。

 

「スペルカード・ルールはどうした!?」

 

 叫びながら、妖夢は自分が悠長なことを口走っていると後悔した。

 奴は戦いを仕掛けてきた。

 どんな形にせよ、それを迎撃しなければならない。

 妖夢は刀に手を掛けたまま、敵となった男を観察した。

 意表を突くほどに素早い身のこなしによって、外套が捲れ上がり、男の全貌があらわになる。

 その腕と同じように、全身に体毛を生やした体は大きく、筋肉が盛り上がっている。

 肝心の顔は、人間の物ではなかった。

 突き出した鼻面と、ズラリと並ぶ牙は犬か狼のそれである。

 男の正体は人狼だった。

 

「ミ……コ……」

 

 かろうじて言葉らしきものが口から漏れる。しかし、それは獣の唸り声混じりだ。

 その眼球に知性の色は感じられない。

 

「ハクレイ……ミコ……ッ!!」

「何、博麗……!?」

 

 漲る殺意の乗せられた言葉は、妖夢にとって意外なものだった。

 彼女は知らない。

 この人狼の指す博麗の巫女が、当代の霊夢ではなく、彼の仕える主を滅ぼした先代の博麗であることを――。

 かつて在った理性を長い年月で磨り減らした後に残った、ただ一つの妄執に突き動かされ、彼は幻想郷を彷徨っていた。

 一体何処で耳にしたものか。先代巫女の負傷を知り、僅かな知性が導くままに此処へやって来た。

 そして今、人狼は立ち塞がる障害の一つとして妖夢に狙いを定めていた。

 人外の瞬発力により、再び襲い掛かる。

 

「速い……っ!」

 

 二度目の実戦は、霊夢の時とはまた勝手が違っていた。

 理性の無い人狼はスペルカード・ルールなど完全に無視して、単なる暴力を行使して来る。

 それは命を賭けた戦いだった。

 もちろん、その事実に怯むような妖夢ではない。

 彼女は何かを殺める為に作り出された刀という武器を使いこなす鍛錬を続けてきたのだ。

 妖夢は、技術など何もない獣そのものである敵の動きを冷静に見極めて、斬りかかろうとした。

 しかし、刀を抜けない。

 正確には、刀を抜く決意が出来なかった。

 

 ――斬る。

 

 敵の攻撃を回避し、見事な足捌きで隙だらけの背後まで回り込む。

 

 ――今だ、斬る。

 

 敵が振り返ろうとする。

 刀が抜けない。

 

 ――何している。斬れ。早く。躊躇わず。斬れ。斬る。斬れ。斬って。

 

 敵が完全に振り返った。

 再び繰り出された爪の一撃を、慌ててかわす。

 先ほどよりも僅かに反応が遅れていた。

 

 ――斬って……本当に斬れるのか?

 

 戦闘が始まって以来、無視し続けていた疑念が大きくなり始めていた。

 どうしても、自分が敵を斬るイメージを浮かべることが出来ないのだ。

 抜き放った刀が、敵の装甲に等しい分厚い筋肉と体毛に遮られ、次の瞬間反撃を受けて自分の方が殺されるイメージばかりが鮮明に脳裏に浮かび上がる。

 敵に攻撃が通じないのだという、根拠の無い不安が消えなかった。

 それを否定する材料を必死に探そうとして、肯定する要素ばかりが目に付く。

 妖夢が今、腰に挿している刀は受け継いだ二振りの名刀ではない。

 ナマクラとまでは言わないが、無銘の刀に過ぎなかった。

 霊夢に言われたあからさま挑発の言葉さえ心に残り、剣の力に頼ることを半ば意地になって拒んでいた結果がこれだった。

 そして、今ではその刀が妖夢の不安を後押ししている。

 こんな刀で、こんな腕前で、本当にあの敵を斬れると思っているのか――?

 際限なく膨れ上がる不安と疑念は、妖夢の動きからも精彩さを失わせていった。

 高い身体能力に頼ったデタラメな人狼の連続攻撃に、妖夢は徐々に対応し切れなくなっていく。

 ついに、敵の爪が妖夢の頬を浅く裂いた。

 視界に自分の血が飛び散るのが映る。

 次の一撃は、きっと首に届くだろう。そう意味もなく確信した。

 刀は、抜けない。

 斬れない。

 勝てない。

 死ぬ。

 

「嫌……」

 

 追い詰められた妖夢の中で、何かが外れた。

 それは異変の日より溜め込んできた不安や屈辱などの鬱屈した感情を解き放つ枷だったのかもしれない。

 妖夢はソレを解き放った。

 

「ゃぁぁああああああああああああああああああああっ!!!」

 

 絶叫と共に、刀を抜く。

 剣の才能の有無を問うならば、妖夢は確実に天性の才を備えていた。

 窮地に追い詰められた時、彼女の中に眠る潜在能力が無意識の内に発揮されたのだ。

 その瞬間に至るまでの葛藤や苦悩を一切合財纏めて切り払うように、妖夢の放った剣撃は文字通り一閃となって敵の腕を切断した。

 妖夢の手に凄まじい手応えが伝わり、決して斬れないと思い込んでいた人狼の太い腕が枯れ木のように宙を舞う。

 切断面から吹き出す血が妖夢の顔を汚し、遅れて敵の甲高い悲鳴が響き渡った。

 

「……斬れる」

 

 視界に映る光景を半ば呆然と見つめ、妖夢はようやく現実を受け入れた。

 

「私は、コイツを斬れる!」

 

 返す刀がもう片方の腕を斬り飛ばす。

 もはや疑いようもなかった。

 目の前の人狼は、妖夢にとって敵ではない。

 剣閃が幾筋も瞬いた。

 いっそ嬲り殺しではないかと思えるほど、眼前の敵を妖夢は徹底的に切り刻んだ。

 三回目で既に絶命していた人狼は、四肢をバラバラになるまで切断された後、最期には慈悲を思い出したかのように首を刎ねられて、ようやく地面に倒れた。

 いや、落ちたと表現した方が正しいかもしれない。

 血と人体に似たパーツが地面に散らばっていた。

 

「はっ……はっ……」

 

 疲労ではなく興奮で息を荒げ、妖夢は刀を構えたまま、しばらく自分の生み出した惨状を見下ろしていた。

 斬ることだけに意識を奪われ、返り血すらまともに避けられなかった妖夢は未熟である。

 しかし、如何なる形とはいえ二回目の実戦は間違いなく勝利に終わった。

 誰も覆すことのない事実であった。

 

「はっ……ははっ……は、ははははっ」

 

 上気した顔に、引き攣ったような笑みが浮かぶ。

 妖夢の心の中では様々な感情が入り乱れ、それは正も負も交えて混沌としていたが、中でもただ一つ大きな思いが際立っていた。

 それは、達成感だった。

 

「なんだ、私……勝てるんだ……」

 

 噛み締めるように呟くと、その実感が全身に染み渡って安堵となった。

 霊夢に敗北して以来、ずっと感じていた苦悩が綺麗さっぱり無くなっていた。

 勝手に、自分は勝てないのだと思い込んでいた。

 このまま一生負け犬のままなのだと。

 しかし、それらは錯覚だった。

 実際に刀を抜いてみればなんということはない、あっさりと判明した事実だった。

 

「勝ち負けなんて、戦ってみるまで分からない。悩む必要なんてない。余分なことは考えなくていい。相手が強いか、私が強いかなんて――」

 

 がらりと変わった、確信と自信に満ちた口調で虚空に向けて断言する。

 

「斬れば、分かる」

 

 

 その日、白玉楼に帰った妖夢は気配を殺して屋敷を移動し、血塗れの体と服を幽々子の目に付かせずに処理することに成功した。

 何食わぬ顔で、改めて帰宅を装い、普段と同じように仕事と日課に取り掛かった。

 幽々子は、そんな妖夢の様子から彼女の中でこれまでとは違う決定的な何かが変わったのだと根拠もなく確信した。

 一抹の不安と共に――。

 

 

 

 

【今日の先代】

 

 ――話は聞かせてもらった。幻想郷は滅亡する!

 

 な、なんだってー!? って感じに一人ノリツッコミ。

 いや、でも紫から今回の異変の経緯やら発端やら理由やら、ついでに紫自身の懺悔まで聞いた私の出来る反応はそれくらいのものだった。

 まず『春雪異変』と呼ばれるようになった冥界の異変だが、これは聞くまでもなく原作通り幽々子主催のものだったので特に思うところはない。

 まあ、強いて言えば『うちの霊夢すげー』ってところか。

 異変解決に乗り出して最短距離を最速で突っ切り、弾幕ごっこまでパーフェクトに勝ち抜いて私の目の前で幽々子まで打ち負かしたのだ。

 あとの活躍は、わざわざ語られるまでもないよね。

 ビデオカメラ持ってたら確実に録画してるレベルだった。

 そして、肝心の私自身に関する事件。

 ずっと疑問だった紫が私の魂を引き抜いて亡霊にしてしまった理由なのだが――。

 悲痛な覚悟をみたいなものを決めた表情で謝罪された私は、どうすればいいのか分からなかった。

 具体的に言うと、紫を責める理由なんぞ見当たらん。

 確かに不意打ち喰らったり、その結果魂抜かれるという擬似的な殺人行為をやられてしまった事実に思うところがないわけではないが、それら全ては悪意によるものではないと分かったのだ。

 聞けば、不自由になった私の足の治療の為って言うじゃない。

 まー、あれだね。外の世界にもあった、治療方法が確立するまで冷凍睡眠で待つ、みたいな処置と同じなわけだ。

 もちろん、それで次に眼が覚めた時自分の知っている人間がいないくらい時間が流れてたーみたいなオチと同じような可能性があったことにはちょっと冷や汗が出てしまうが。

 それでも、紫は私の身を案じて行動を起こしてくれたのだ。

 何らかの制裁や、実は長年隠していた悪意によるものかもしれないという、最悪の予想が外れた私にとって、紫の告白は歓迎すべきものだった。

 だから、気にしてないよーって軽い感じに許したつもりだったんだが……。

 駄目だね。

 去り際の紫の表情を見る限り、紫自身がすごい気にしてるっぽい。

 うーん、気遣いとかじゃなくて私の本心なんだけどなぁ。

 素直に受け止めてくれないだろうか?

 紫以外にも、慧音やらチルノやら。今回の件に関わったらしい人達から謝罪をされ、それを私は受け入れ、話し合ったり一緒に食事をしたりして、少しずつ和解していった。

 諍いしてるわけじゃないから、こちらとしては和解もクソもないんだけどね。

 あっ、あと生き返った時にはもういなかったけど幽香も来てたらしい。

 この足だとお礼に行くのも一苦労だから、一筆したためてチルノに手紙を頼んだら、受け取ったその場で読んだ直後に目の前で燃やされたらしい。

 チルノは笑顔でそう報告してくれた。

 私も笑顔で応えた。

 二人で思うことは一つ!

 

 ――ちゃんと読むんだ。

 

 ゆうかりんマジツンデレ。

 そんな感じに日々が過ぎ、気が付けば今回の件とは関係のないフラン達紅魔館のメンバーまで再度お見舞いに来てくれるし、期せずして生き返った私の快気祝いみたいになっていた。

 もちろん、私が一度死んで亡霊になったことは、事件の関係者以外に知られていない。

 だから、残す問題は未だに自責の念があるらしい紫との関係なんだよね。

 言葉を幾ら重ねても、彼女には上手く伝わらないだろう。

 私も上手い言葉なんて思い浮かばない。

 よって、私はあの日の朝に紫とやり損ねていたことの続きをすることにしたのだった。

 

 

「……それで、今朝はこいつが居るわけね」

「ああ、朝食に誘った」

「……お邪魔しているわ」

 

 本来なら私一人用の食卓を霊夢と紫の二人を加えて、三人で囲んでいる。

 少しばかり狭いが、なんとかなったな。

 考えてみれば、こうして紫と同じ食卓を囲むのは初めてのことだ。

 紫も相変わらず私に負い目を感じているせいか、食事にちょっと強引に誘ったらあっさりOKしてくれた。

 霊夢と紫の仲も変わらずだが、心なしか以前よりも親しく見える。気のせいかしらん?

 あの異変で何かあったと思うだが……まあ、その辺の推測は後回しでいいな。

 

「何故、貴女が人里の診療所にいるのかしら? 神社はどうしたの?」

「食事が済んだらちゃんと戻るわよ。慧音と交代でたまに母さんの様子を見に来てるの」

「あの異変以来、随分と変わった印象を受けるわね。どんな切欠があったのかしら?」

「あの時言わなかった? あんたには教えてやんない」

 

 こうした軽口の応酬も相変わらずだ。

 しかし、やっぱり以前よりも険のようなものが取れている気がする。

 もちろん、良いことなんだけどね。

 さあ、とりあえず朝食にしよう。

 同じ釜の飯を食えば、紫も私に対する変なわだかまりもなくなるって!

 

「この食事は、先代が作ったのかしら?」

 

 いただきますの合掌をした後で、箸を手にしたまま尋ねてきた紫に私は頷いて応えた。

 実際は霊夢も手伝ってくれてるんだけどね。基本は私が作りました。

 手料理を食べてもらう、というのも仲直りをする上で大きな意味を持つからね。

 うん、味も良好。

 この大根の煮物なんて味が染みてる染みてる。

 

「……生きているというのは、体にものをいれていくということなんだな」

 

 ふと、私はそんなことを呟いていた。

 食事をじっくりと味わっていたせいか。ゴローちゃん的な名言をつい口走ってしまった。

 でも、この言葉って真理だなぁとしみじみ感じるよねぇ。

 ――と、そんな風に感動しながら食べていると、霊夢と紫がこちらを注目しているのに気が付いた。

 

「……そうね。生きるというのは、そんな当たり前のことなのよね」

 

 そして、何やら納得したような穏やかな笑みを浮かべる紫。

 このパターン久しぶりじゃね?

 私の何気なく呟いた言葉から、一体どんな意味を見出したのか、紫は先ほどまで私との間に作っていた距離をいつの間にか無くしていた。

 なんつーか、こう精神的なバリヤーみたいなものがなくなったように感じる。完全に感覚だけど。

 私が見つめ返す先で、紫は同じように大根を一口齧ると、ゆっくりと咀嚼して味わった。

 ……美人は食事の仕方一つとっても様になるなぁ。

 

「美味しいわ」

「ありがとう」

 

 紫の微笑みに、作った本人である私は微笑みで応えた。

 うんっ。なんか分からんが、とにかく私の考えは合っていたらしい。

 一緒に美味いものを食べれば、心も豊かになって和解も容易いのだ。

 私達は笑顔で食事を続けた。

 

「このお味噌汁も絶品ね」

「あ、それ作ったのあたし」

 

 紫の言葉に霊夢が何気なく答え――そして、食事が停止した。

 

「……ごめんなさい。よく味わったら、これちょっと味が濃いわ」

 

 一変して、紫は口元を押さえながらお椀を置いた。

 霊夢の眉が僅かに跳ね上がる。

 

「あ、そう。ごめんね、年寄りの薄い味付けに出来なくて」

「気にしなくていいのよ。貴女が未熟なのは知ってるから」

「食べ終えたらとっとと帰ってね。食器が片付かないから」

「あら、食後の一服くらいは許して欲しいわ。先代は足が不自由なのだから、後片付けの方は貴女にお任せするわね」

 

 あれれー? なんか静かながらも穏やかな食事風景が急に殺伐とし始めたぞー?

 本来の調子を取り戻したかと思った途端に霊夢との関係も戻ってしまう紫。

 異変を経て、二人の仲が少しは改善したかと思ったが別にそんなことはなかったぜ!

 とりあえずこの状況、普段なら私は口も挟めずに見守るしかないが、食事中となったら話は別だ。

 私が一睨みすると、子供の頃一緒に暮らしていた霊夢は視線の意味を察して、慌てて黙り込んだ。

 紫に対しては、最初に霊夢の料理にケチを付けて喧嘩を仕掛けた元凶なので、厳しくいく。

 食事中のマナーには、私はうるさいのだ。

 

「えっ? あっ、先代ちょっと待って……。わ、悪かったわ、悪ノリが過ぎててててっ、痛い痛い!」

 

 私の表情に真剣さを感じ取ったか、慌てて取り繕う紫の腕を捻り上げる。

 即ち、アームロックの形だ。

 この怒りの表現を見れば分かるとおり、私の食事に対して払う敬意はゴローちゃんに感化されてのものである。

 

「モノを食べる時はな、誰にも邪魔されず、自由で。なんというか、救われてなきゃあ駄目なんだ……」

「母さんって食事中に話すのはいいんだけど、悪ふざけするのは許せない性質らしいのよね」

「そ、それを先に言いなさい! ごめっ、許して頂戴! 悪かったから、もうしないからっ。イタタタ……!?」

 

 ふと、途中で思いついた私は、しばらくアームロックで紫を痛がらせておいた。

 この制裁を以って、紫の気にしていた異変の時のことも清算としておこう。

 うん、我ながら筋を通した良い考えだ。

 

 結局、この後更に涙目の紫がお詫びの為、一つだけ言うことを聞くという約束も取り付けて、今回の件は完全に終了となった。

 ま、もちろん無茶な要求なんかするつもりはないけどね。

 そうだな……こんな機会でも無い限り、紫の力を借りることなんて出来ないし、今度地底世界へ訪問する為にスキマを使わせてもらうとしよう。

 さとりにも会いたいしね。

 お空と仲良くなったみたいだし、チルノも連れて行こうかな?

 

「……ねえ、『さとり』って誰? 地底とか、あたし知らないんだけど」

「……詳しくは後で話すわ。簡単に言うと、先代と特別親しくなった地底の大物妖怪よ」

「……へえ」

 

 今後の予定を考える私の耳に、何やらこっそり話している霊夢と紫の会話の内容は入って来なかった。

 やっぱり、意外と二人って仲良しなんじゃない?




<元ネタ解説>

「アームロック」

コミック「孤独のグルメ」で主人公が使った関節技。それ以上いけない。

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