診療所の中で、慧音は椅子に腰掛けて俯いていた。
まるでこの世の中から、たった一人取り残されたかのような有様だった。
入り口の戸が開く音が聞こえ、慧音は憔悴した顔を上げた。
「お前達は……」
チルノとレティ。慧音にとっては初対面の妖精と妖怪がそこにいた。
「ここは、先代巫女の診療所で合っているかしら?」
「ああ……そうか、お前達が『あの妖怪』が言っていた協力者か」
「ええ、先代巫女の遺体を保存した者よ。名前はレティ。こっちはチルノ」
愛想よく微笑むレティに対して、慧音はさして興味を示さず、チルノに至っては口をへの字に結んだ頑なな表情のまま一言も話さない。
チルノは黙って診療所の奥へと進んでいった。
「博麗の巫女が、あの子に会いに来たわ。弾幕ごっこをして、負けた。いろいろ言われもしたわね」
チルノの行動を止めようかどうか迷う慧音に対して、レティが簡潔に事情を説明する。
「それで、無性に先代巫女に会いたくなったらしくてね」
「……そうか」
その言葉に、慧音はチルノを止める気を完全に失っていた。
あの人に無性に会いたい――それは慧音も同じだった。
声を聞きたかった。
今回のことに関して、全てを告白し、許しを乞いたかった。
あるいは、叱責を受けても構わなかった。
今はただ、あの人の言葉を聞きたい。
その意思を知りたい。
しかし、それを拒んだのは他の誰でもない。自分自身なのだ。
「……お師匠」
横たわる先代を見下ろし、チルノは小さく名前を呼んだ。
当然のように、魂を抜かれた先代は物言わぬ抜け殻として、ただ静かにそこに在るだけだ。
チルノの胸の内から不安と恐怖が湧き上がり、視界が滲んで、鼻の奥がツンと痛くなった。
歯を食い縛り、必死でそれを堪える。
溢れてしまえば、もう抑えが効かないと思った。
ずっと自分に言い聞かせていた、先代が目を覚まして足も治って、そして何もかも元通りになってずっと一緒にいられるという夢想が消え失せ、眼を背け続けていた現実と摩り替わってしまうのが怖かった。
本当は、チルノも理解していた。
先代の足が動かないと知った時、時間と共に少しずつ動かなくなっていく人間――その死という終着点が、自分との別れになると察していたのだ。
今、目の前に横たわっているものがその現実なのではないのか。
「違う……ぢがう゛も゛ん……っ!」
チルノは必死に否定しようとしたが、涙はどんどん溢れて止まらなかった。
部屋から聞こえる嗚咽に、レティは眼を伏せ、慧音は再び顔を俯かせる。
特に慧音にはチルノの気持ちが痛いほどよく分かった。
診療所の中は静かだった。
外からは人々の生活の音が不自然なほど聞こえない。
レティ達がここへ来れたということは、慧音自身が今この時まで診療所の歴史を隠していなかったからだ。茫然自失としていた。
それなのに、他にも客の一人も訪れないというのはおかしいのではないか?
慧音はふと疑問に思い、何気なく診療所の入り口を見つめた。
ちょうどその時だった。
診療所に人が寄り付かない原因が顔を出した。
「あら、その様子だと事はもう済んでいるようね」
「……風見幽香」
見知らぬ妖怪を無視し、暗い表情の慧音を一瞥すると、幽香は嘲笑を浮かべた。
「結局、貴女はあの妖怪の誘いを受けたのね」
「ああ……」
「そして、後悔している」
「…………ああ」
見透かすような視線と馬鹿にするような笑みを受けて、慧音は力なく頷くことしか出来なかった。
先代巫女に関する今回の件。
自分は関わることを選び、同じく誘いを受けたはずの幽香は拒否した。
その根元にある感情の善し悪しは別として、先代巫女への執着は幽香の方が強いはずなのに。
二人にはそういう立場の違いがあった。
そしてその結果、慧音は敵意さえ抱いていた幽香に対して逆に負い目を感じるほどの後悔に苛まれている。
「私が、間違っていたよ……」
慧音は懺悔するように幽香に呟いた。
当然のようにそれは鼻で笑われる。
しかし、それ以上何か責め立てられることもなかった。
「幽香……?」
「チルノもいるのね。あらあら、なんて顔してんのよ?」
奥から出て来た、涙と鼻水でぐちゃぐちゃのチルノの顔を見て、幽香は苦笑した。
普段のチルノならば、馬鹿にされていると単純に怒っていただろうが、今はただ縋りつくものを見つけたかのように幽香に向かって駆け出した。
「うわぁぁああん! 幽香ぁーっ!」
「あら、もう。泣き虫ね」
幽香は微笑みながら駆け寄るチルノに対して両手を広げて迎え入れ、そして、そのまま足を引っ掛けて床に投げ捨てた。
「うげっ!?」
「甘ったれちゃ駄目よ、このハナタレ」
うふふ、と笑う幽香を慧音とレティが絶句して見つめた。
「な、なにすんだよ!?」
「そういう優しい抱擁はあんたのお師匠様にやってもらいなさいな。
あっ、そうね。ごめんなさい。そのお師匠様を凍り漬けにしちゃったのは、他でもないあんた自身だったわね」
「うっ……ごめんなさい」
「私に謝ってどうすんのよ。そもそも、何を後悔しているの? これが望みだったんでしょう」
「だ、だって……」
幽香の容赦の無い問い掛けに対して、チルノは上手く言葉に出来ず、言い淀んだ。
後悔しているのは確かだった。
自分のやったことが間違ったことなのだと、なんとなく分かってしまったのだ。
しかし、ではどうすればよかったのか? など、その正しい答えも出ない。
それを知っているかもしれない幽香を縋るように見上げる。
「お前は、何故あの妖怪の誘いを断ったんだ?」
慧音もまた同じように幽香に尋ねていた。
幽香は思案するように視線を彷徨わせ――別に答えに悩んだのではなく、少しはぐらかしてからかってやろうか迷っただけだが――小さく笑うと、仕方なしに答えた。
「今回の切欠になった先代の怪我の件、私も何も思わなかったわけではないわ。
あいつが人間であることは十分理解していた。いずれ私の望む戦いが出来なくなる程に衰えてしまう。足が不自由になったことで、その懸念が具体的な形として表れてしまった」
幽香は、まさに慧音とチルノの抱いていた不安の原因を言い当てていた。
人間が死に至る過程。
不安が現実となって現れた形を、二人は見せ付けられ、そして怖くなったのだ。
「私達妖怪と人間は違う。あいつも例外ではなく、簡単に何かを失い、それが取り返しのつかないことになってしまう」
「……ああ。だが、それを取り戻せるのだと、あの妖怪は私達に言った」
「そうね。実際に、それは可能なんでしょうよ。あの胡散臭い奴の姦計なのだから。
だけど、私はそれを良しとしない。何故なら、そんな欠けたパーツを埋め合わせて生き永らえることが可能になってしまったら、もう先代は人間ではなくなるからよ」
幽香は笑みを浮かべながらも、真剣な目つきで慧音とチルノを交互に見つめた。
「脆弱で壊れやすく、寿命も短い人間。そんな儚い存在でありながら、先代巫女は強さの極みと言える領域にまで己を鍛え上げた。
私には人間の幸福など理解できないし興味もないけれど、もっと利口で有意義な生き方もあったでしょう。それを一体何を考えて、短い人生の大半を使い潰してまであんなに力を求めたのか――」
呆れたように肩を竦め、ため息を吐く。
「本当に、その馬鹿げた姿勢には私も……ほんの少しだけど敬意を払うわ」
幽香は『ほんの少し』という部分を強調しながらも、ハッキリとそう言った。
風見幽香という妖怪の傲慢さ、不遜さを最も知る慧音は、その発言に驚いていた。
先代巫女に対して、敵意と殺意しか抱いていないと思っていた彼女が、僅かとはいえそんな感情を持っているなど全くの予想外だった。
「様々な意味で限りのある生の中で手に入れた人間の強さ。昔の私なら鼻で笑ったでしょうけど、今なら認めてやれるわ。
だからこそ、私はあいつにこだわる。脆弱な人間の分際で私に土をつけたからこそ、その屈辱はこの心に刻み込むほど深いものとなった。
先代巫女は人間でなければならない。あいつの強さはそこから来ている。例え足を失おうが、あいつにとってそれは人生の過程の一つにしか過ぎないでしょう。更にその先を目指すはずよ」
「……お前の口から、あの人への信頼の言葉が出てくるとはな」
「あら、意外かしら? でも、認めもしない相手を敵だとは思わないわ。
それに、勘違いしないで欲しいわね。私はお前達とは違って、あいつに馴れ合いの感情を抱いたことは一度もない。
私が今一番気にかけているのはね、先代の力が最も高まる時期を見極めること。精神論だけでは避けられない肉体的なピークと月日の積み重ねで得る経験や技術が合わさった最盛期に、最高のタイミングで横合いから殴りかかりたいのよ」
そう断言して、獰猛な笑みを浮かべる幽香の全くブレない姿勢を見つめ、慧音はそれこそある種の敬意を抱いた。
彼女の先代に対する態度は変わっていないのに、不思議と今は嫌悪感を感じない。
先代への信頼と理解という点において、少なくとも今の自分よりも上に居るのだと恥じる気持ちだった。
「……難しい話は、よく分かんなかったけど」
幽香の話の意味を、必死に考えていたチルノはおもむろに俯いていた顔を上げた。
「足が動かなくなったことも合わせて、お師匠は生きているんだ。だから、あたい達が邪魔しちゃ駄目なんだ」
チルノは未だ消えない悲しみの涙を残したまま、それでも自分自身に言い聞かせるようにハッキリと言葉にした。
もうその瞳に苦悩はなかった。
「お馬鹿ちゃんにしては、よく理解出来たわね」
幽香は何処か満足そうに微笑んだ。
結局、人間と人間ではない者の違い、種族の差による別れとその悲しみは解決出来ないものとして残った。
しかし、それらは残された者の心の中で決着を付けるしかないのだ。去り行く者を巻き込むことは出来ない。
短い命を生き抜く人間の尊さに、妖怪などが手を加えてはいけない。
チルノは漠然とそれを理解し、受け入れたのだ、と。傍で聞いていた慧音は胸を打たれた。
幽香はハンカチを取り出すと、チルノの顔を拭ってやった。
「えへへっ、ありがと」
「もう、あんな見苦しい顔はしないことね。ただでさえ弱っちいのに、もっと情けなく見えるわ」
「うんっ。ねえ、いろいろ難しいこと言ってたけど、つまり幽香もお師匠のことが大好きだってことなんだよね?」
「うふふ」
幽香は優しく微笑むと、チルノの体を掴み、再び床に投げた。
「いてえ!? なにすんのさー!」
「全然理解していない上に寝ぼけたことを抜かすからよ、この馬鹿」
一変して幽香に突っかかるチルノの喧騒が静かだった診療所を満たす。
もう先程までの重苦しい雰囲気はなくなっていた。
チルノほど単純に物事を整理出来ない慧音も、ただ自責の念だけが残っていた表情をわずかに綻ばせている。
「そういえば、ここに来る前に博麗の巫女が飛んで行くのを見たわ」
両腕をぶんぶん回すチルノの突進を、頭を押さえて止めながら、幽香が何気なく言った。
「ああ、きっと先代の魂がある冥界へ向かったんだろう」
「今回の異変の原因もそこにあるようね。ついでにそれも解決してくれるとありがたいわね」
「ついで、か。お前は、先代の魂が戻ってくると信じているんだな」
「信じるとか、そういう表現はして欲しくないんだけど……まあ、あいつのことだからあっさりと帰ってくるでしょうよ。貴女達の考えなんて簡単に抜け出してね」
「ああ、そうだな……きっとそうだ」
慧音は納得し、何か憑き物が落ちたかのように清々しい笑みを浮かべた。
「……ところで、私って完全に部外者みたいだから、もう帰っていいかしら?」
「あんた誰?」
「レティ・ホワイトロックと言います。単なる冬の妖怪なので、そんな無意味に殺気飛ばすのやめてもらえないかしら」
「ああ、先代を凍結させる役目の妖怪ね。いいわ、ここに残りなさい」
「いや、話聞いてる? 帰りたいんだけど……」
「ええ、却下よ。どうせ、すぐに先代の体を元に戻してもらうことになるわ。そのままここにいなさい」
「……帰りたい」
◆
冥界の白玉楼。
その大きな屋敷は、更に広大な敷地の一角に建っていた。
庭先からは一本の桜の木が見える。
並の大きさではない。もはや巨木とも呼べる、化け物染みた桜だった。
実際に、その桜は現世には在り得ざるもの。この冥界に生きた存在は、植物も含めて一つも存在しないのだから。
その桜を覆うように張り巡らされた結界が、封じられるべき物であることを示していた。
「七分咲き、といったところかしらね」
花見というにはあまりに異様な桜を縁側で眺め、白玉楼の主である西行寺幽々子は状況の進行を確認した。
傍らには、屋敷の庭師であり幽々子の従者でもある魂魄妖夢が控えている。
たった二人の主従が、この広大な屋敷の住人だった。
「地上からは順調に『春』を回収しています。もうじき、あの桜も満開になるでしょう」
「結構よ。地上からの妨害は? 『春』を奪った影響が、そろそろ色濃く出始めているはずだわ」
「今のところはありません」
「今のところは、ね」
「例え妨害が現れたとしても、何も問題はありません」
絶対の自信を持って断言する妖夢に対して、幽々子は曖昧に微笑むだけで応えた。
この生真面目な少女は、物事に対して真剣に向き合いすぎるきらいがある。
少々危ういと感じていた。
彼女の自信は実力に裏づけされたものというよりも、己の責任感で支えているような部分が大きい。
あの桜を咲かせることを、絶対遵守の命令であるかのように遂行しようとしている。
幽々子自身に、そこまで重いこだわりはなかった。
花の美しさに、そんな重苦しいものを纏わせるなど無粋な話だ。
あの桜に花が満ちるところを見てみたい。そして、その先に在る物を――ただそれだけの純粋な好奇心から動いたのだ。
「ええ、そうね。任せるわ、妖夢」
「はいっ」
しかし、幽々子 は結局それだけを言葉にして伝えた。
意気込む自らの従者を愛おしいと感じる。悪い言い方をすれば、その未熟さ故の必死な姿勢を見て愉しんでいた。
もちろん、嘲るような気持ちは欠片もない。
これも愛情の内よね、と勝手に納得して、幽々子はのんきに微笑んだ。
「そういえば、あの巫女はまだあそこにいるのかしら?」
ふと、つい先日この白玉楼の居候となった一人の亡霊を幽々子は思い出した。
「はい。あの桜の前で、座禅を組んだまま全く動きません」
わずかに警戒をあらわにしながら、妖夢は答えた。
突如として現れ、素性も分からないままこの屋敷の住人となって、今後自分が世話をしなければならないかもしれない相手だというだけでも気に入らない。
加えてその行動まで不可解だった。
「何かに集中していることは分かりますが、一体何を考えているのか全く理解出来ません。怪しすぎます」
「こらこら、最後のは貴女の勝手な思い込みでしょう?」
「しかし、いくら幽々子様の御友人の頼みとはいえ、得体の知れない者をこの大事な時期に迎え入れるなど危険です。今回の件の要である、あの桜に執着する様も見ていて怪しい」
「彼女は何か知っているのかしらねぇ……いえ、そんなはずはないか」
幽々子は軽く首を振って、その懸念を打ち消した。
「どんな形であれ、彼女は一度死んで亡霊となった身。生前のことなど覚えていないはず」
この自分と同じように。
「実害がない以上は、好きにさせておきましょう。生前にどんな力を持っていたかは分からないけれど、亡霊となったばかりの身では巫女の力もほとんど使えないでしょうしね」
「例え肉体を失ったとしても、あの身のこなしは只者ではないと思いますが……」
「ならば、なおのことよ。武人であるのならば、霊体であることは一番の枷であるはず。それとも、妖夢はあの巫女に敵わないと思っているのかしら?」
「まさか! 如何なる相手であっても、我が剣は断ってみせます!」
幽々子のあからさまな話の誘導に、妖夢はあっさりとはぐらかされてしまった。
二人の会話は、だいたいいつもこんな流れである。
その時、妖夢と幽々子は同時に異変を感じ取った。
「……侵入者です」
「そのようね。妨害の登場だわ」
「まさか、いきなり結界を破って来るとは思いませんでした」
「厄介な相手になりそうね」
幽々子は頷き、妖夢の対応に任せるまま頷いた。
春が奪われるという出来事は地上にとって異変であり、そういった出来事には博麗の巫女が解決に乗り出すと聞いている。
幻想郷の管理者であるという巫女の実力は、どうやら本物であるらしかった。
「行って参ります」
「いってらっしゃい。幻想郷の新しいルールを忘れては駄目よ」
「はい」
内心の『妖夢にはまだ荷の重い相手かもしれない』という考えを表に出さず、幽々子は笑顔で見送った。
妖夢自身はまるで討伐に乗り出す刺客のような威容だったが、幽々子には気楽さがあった。
「こんな感じでいいのよね、紫?」
「ええ、貴女の思うように楽しめばいいわ。異変とはそういうものよ」
背後の虚空に投げ掛けた質問に、次元の裂け目が発生して答えた。
スキマから上半身だけを乗り出した紫が、立ち去った妖夢に代わって幽々子の傍らに並ぶ。
「しかし、冥界のお姫様はやることがいちいち豪勢ね。単なる花見の為に、幻想郷中を巻き込んで春を略奪しようというんだもの」
「あら、たった一晩の慎ましいお花見をするだけよ。次の日には元に戻っているわ」
「慎ましい、ねえ。そもそもあの化け物桜で花見を楽しもうと思うこと自体が、何処か飛んでいるわ」
幻想郷の管理者と亡霊の姫。
その他愛ない会話は、他者が聞けばそれこそ別次元の話だった。
幽々子はふと言葉を区切り、じっと紫を見つめた。
「……ねえ、紫。これは本当にただ花を咲かせるだけで終わらせられる話なのかしら?」
その問いを受けて走った動揺を、紫はかろうじて内心に抑え込むことに成功した。
「あら、貴女はそういうつもりなのでしょう? それとも、他にも何か企んでいるの?」
「そうかもしれないわね。ただ、いずれにせよ……なんだか、あの桜を満開にするのは、してはいけないことなんじゃないかと思って」
「何故、そう思うのかしら?」
「……あの巫女よ」
幽々子の口から出る言葉は、紫をどんどん落ち着かない気分にさせていった。
今回の異変は、幽々子の興味本位によるもののはずだ。
単なる花見以外の目的があるにしても、あの桜に関する最も重要な秘密を知り得ているはずはない。
しかし、ひょっとして彼女は自分の隠している様々な事柄を、本当は全部見抜いてしまっているのではないか?
本来ならば考えもしない、根拠のない不安が湧いてくる。
紫は普段通りではない、どこか不安定に揺らいでいる今の自分を自覚した。
「不思議な人間ね。貴女がこだわる気持ちも、なんとなく分かる気がするわ」
「……彼女が、何か言っていたのかしら?」
「いいえ。……あら、なんて顔しているのよ」
自分の顔を見て笑う幽々子の反応に対して、咄嗟に両手で表情の動きを探る。
「不安そうな表情だったわ。珍しいわね、そんな可愛い反応をするなんて」
「からかわないで頂戴……」
「ふふ、親友としてちょっと妬けちゃうわ。
そうね、それで貴女の御執心の巫女さんなんだけど、何も話してはいないわ。それも当然よね、亡霊となって生前の記憶なんて失っているんだから」
「ええ、そうね」
「でも、だからこそ不思議だったわ。
ここが何処で、私が何者なのかも聞かなかった。辺りを見回して、あの桜に眼を留めると、そのまま何も言わずに座り込んでずっと何かに集中している」
「そう……」
「あの桜のこと、自分のすべきことを、何もかも見抜いているような……そんな不思議な巫女だと思ったわ」
幽々子の話を聞き、紫は複雑な気持ちを抱きながら眼を閉じた。
自らが為したことへの疑念と後悔。
――間違っていたのか?
そんな自問を、あえて心の隅へ押し込んだ。
いずれにせよ、答えはこの異変の決着と共に、もうじき出るはずなのだ。
「ねえ、紫。貴女が連れてきたあの亡霊は、一体誰なのかしら?
何も言わずに此処へ住まわせてくれと、貴女は頼んできたわね。貴女の頼みならいつまででも預かってあげるけれど、理由くらいは知っておきたいわ」
「……そうね」
ここから見える巨大な桜――『西行妖』と、向かい合ってその根元に座る巫女の背中に紫の意識は移っていた。
様々な感情と考えが湧いて、入り混じっている。
焦がれるような気持ちと共に、顔向け出来ないような後ろめたさが紫の心を占めていた。
「ここを訪れる博麗の巫女が、きっと教えてくれるわ」
自らもまた多くの疑念への答えを望むように、そう曖昧に答えた。
◆
「……なあ、霊夢。わたしには結界のことはよく分からないんだけどさ、あの世とこの世を隔ててた物をぶっ壊すのは絶対にマズイんじゃあないかと思うんだ」
空に穴が開く――その奇妙な表現が当て嵌まるような光景が魔理沙の目の前にあった。
霊夢の後をついて飛び続けていた先に、魔法の障壁にも似た術式を感じ取り、これが現世と冥界を隔てる境界なのかと感慨を抱く間すら無く、霊夢がそれを破壊してしまったのだ。
「仕方ないでしょう。生きた人間が冥界まで行くには、その境界を曖昧にしないといけないのよ」
「そりゃ分かるけどさぁ……せめて、帰る時にはちゃんと直して帰ろうぜ。死人が地上に迷い出ちまう」
「自分がいるべき場所くらい分かるでしょ」
霊夢は気にした様子も無く、あの世の境界を踏み切った。
冥界へと続く道。上へと昇っていく道筋のはずなのにまるで地底へ潜るように闇が深く広がっている。
地上で感じていた寒さとはまた違う、背筋をなぞられるような薄ら寒さを魔理沙は感じた。
当たり前のように感じていた『生きる者の気配』
ここでは、それらが存在しない違和感をハッキリと捉えられる。
ここは別世界だ。
そう実感する魔理沙の視線の先に、まさにそれを確定付けるように空には在り得ない長く巨大な石段が姿を現した。
「天国に繋がる階段か?」
「階段を登るだけで極楽に行けるなら、死者も苦労しないでしょうね。冥界は正確には『霊魂が一時的に留まる場所』であって、天国や地獄の類ではないわ」
「じゃあ、この先に閻魔様が待ち構えているわけじゃないんだな。安心したぜ」
「あたしもこの先は知らないけれど、少なくともこの異変の首謀者は待ち構えているでしょうよ」
胸の内に根付く怖気を誤魔化すように、霊夢と軽口を交わしながら進んでいく。
全く怯んだ様子を見せない、普段通りののんきな姿を見て、魔理沙は頼もしさを感じていた。
同時に、こいつは怖いものがないのかという呆れも湧いてくる。
それこそ、母親の死さえ――。
いや、今更何を考えているんだ。辺りの警戒に集中しろ。と、魔理沙は自分に言い聞かせた。
霊夢に対して一体何をそんなに不安に感じているのか、自分でも分からなかった。
そんな苦悩を強制的に打ち切るように、石段に沿って飛んでいた二人の前に立ち塞がる者が現れた。
「そこで止まれ、人間。ここから先にある白玉楼は死者しか歓迎しない」
刀を抜き放ち、朗々と響き渡る声で妖夢が宣告する。
「お前達の持つなけなしの春を置いて、とっとと失せなさい」
「こいつはいいぜ。誰だか知らんが、分かりやすい敵が出てきやがった」
「本当にありがたいわね。情報を絞れるだけ絞って、あとは叩きのめせば障害排除も出来て丁度いいわ」
並の人間ならばすくみ上がるような鋭い剣気を放つ妖夢に対して、しかし相対する二人は並の人間など比べ物にならない程太い肝を持っていた。
あまり気の長い方ではない妖夢の額に青筋が浮かぶ。
「ふざけた奴らだ。決闘のルールなどなければ、直に斬り捨ててやるのに」
「あら、冥界にもちゃんとスペルカード・ルールは伝わってるのね。感心感心」
「例え真剣勝負でなくとも、私の太刀筋は鈍りはしない。さあ、どっちから倒されたい?」
妖夢の挑発に、意気揚々とカードを取り出そうとした魔理沙を制して霊夢が進み出た。
「なんだ、お前がやるのか?」
「あんたじゃ時間が掛かりすぎるわ」
「実力不足って言わないのは、お前の優しさなのかね」
「卑屈にならなくていいわよ。勝機はあると思うけど、この際勝ち負けは関係ない。ああいう生真面目な奴って、決着がついても後々しつこいのよね」
霊夢は初対面の印象と勘で勝手に判断していたが、それは的を射ていた。
主に尽くす忠義の侍――少なくとも、妖夢の目指す心構えはそうであったし、己の責務を重く受け止めている。
何人たりともここを通すつもりはなかった。
如何なる相手にも喰らい付く覚悟があった。
その執着が酷く面倒だと、霊夢は判断したのだ。
「やるなら手早く、とことんやらないとね」
何気なく呟く霊夢の横顔を見て、魔理沙は寒気を感じた。
チルノとの決闘でも見た、異変に乗り出した時の博麗の巫女としての顔だ。
そこには一切の容赦も慈悲も存在しない。
露骨な殺気や敵意などは抱かないが、だからこそ淡々とした恐ろしさがある。
弾幕ごっこを腕比べと捉えている魔理沙とは違い、今の霊夢にとって戦いは『作業』の一部に過ぎなかった。
「じゃあ、始めましょうか。名乗った方がいい? あたしは博麗霊夢。異変解決にやって来た、博麗の巫女よ」
「巫女……お前『も』か」
その言葉を聞き、霊夢の瞳が僅かに揺れた。
「……ああ、そう。やっぱり。分かったわ、勝負の後に改めて聞き出しましょう」
「何を勝手に納得しているのか知らないが、勝ったつもりで話を進めないことね。
私は白玉楼の庭師、半人半霊の魂魄妖夢! 妖怪が鍛えたこの楼観剣に斬れぬものなど、あんまり無い!」
言うや否や、手に持つ刀で虚空を薙ぎ払った。
弧を描く太刀筋から発射された変則的な弾幕が霊夢に襲い掛かる。
本来、弾幕ごっこは殺傷を目的としたものではない調整された力で行われている筈だが、妖夢の弾幕は実際の威力はともかく、込められた剣気によって威圧されるような鋭さを備えていた。
相対すれば、直撃が死に繋がるような錯覚に囚われ、思わず足も竦んでしまう。
しかし、今回の相手は博麗霊夢だった。
あらゆる重圧に囚われない霊夢は、迫り来る弾幕を宙を舞う木の葉のように、ゆるやかに淀み無くかわしていく。
自らの放った弾幕がまだ第一波でしかないと自覚しながらも、一連の動作を見た妖夢に戦慄が走った。
只者ではない。
緊張により張り詰めた精神が更なる攻勢を訴えかける。
妖夢は容赦なく弾幕を畳み掛けた。
自らが誇る名刀を振るうたび、速度に緩急を付け、縦横無尽に弾幕が乱れ飛ぶ。
覆い尽くすような物量の一方で、正確無比に狙い定めた一太刀が放たれる。
以前の紅霧異変で戦ったレミリアとはまた違い、単なる暴虐の嵐ではなく、技術によって洗練された弾幕だった。
しかし、それでも――。
「本当に、今日の霊夢は勘が冴えてるな……」
何処か自身にも余裕があったチルノの時とは違う。敵対しているわけでもないのに魔理沙は戦慄を感じていた。
あの妖夢という奴は強敵だ。
少なくとも、自分にとっては勝てるかどうか分からない相手だと、この弾幕を見て悟った。
だというのに、今の霊夢にとってはそれすらも敵ではないらしい。
踊るような、といった表現が相応しいキレのある動きで、霊夢は弾幕をすり抜けていった。
加えて、意図してのことなのか全く反撃をしていない。
「く……っ! 貴様、舐めているのか!?」
一枚目のスペルカードを撃ち終わり、結局当てるどころか反撃すらされなかった事実に怒りを抱いた妖夢が激昂した。
冷めた視線で霊夢が応える。
「いや、いい攻撃だったんじゃない?」
他人事のように語る姿が、妖夢の神経を更に逆撫でする。
「ところで、自慢するだけあっていい剣ね」
「……どういう意味だ?」
「あんたの強さって『剣術』なの? それともその『剣』なの?」
あからさまだがあまりにも遠慮の無い挑発に、魔理沙は思わずあちゃーと手で顔を覆った。
神経に障るどころか深く切り込むような台詞だ。
案の定、妖夢の瞳に殺気が漲った。
頭に昇った血が、一気に理性の枷までぶっちぎったような凄い形相だ。
「貴っ様ぁぁーーー!!」
怒号と共に、湧き上がる激情を形にしたかのような弾幕が霊夢に押し寄せた。
それをまた氷のように冷静に捌いていく。
「……そういうことか」
魔理沙は霊夢の狙いを読み、冷や汗を流しながら呟いた。
――あいつ、心を折りにいってやがる。
霊夢の『手早く、とことん』という言葉の意味は、相手に完全な敗北を刻み込むということだったのだ。
勝敗の後に、追い縋る気概すら残さないよう徹底的に打ちのめすつもりなのだった。
残酷さなど攻撃的な意思は含んでいないだろうが、そこには恐ろしいほどの無慈悲さがあった。
何故そこまで障害の排除に徹底し、それを急ぐのか。
異変解決の為の、それが博麗の巫女としてごく普通の姿勢なのか。
それとも、他に何か理由があるのか――。
いずれにせよ、この勝負は無残な結果を残すことになってしまうだろう。
腕の立つ奴ほど実力差には敏感だ。
弱いからこそ形振り構わず突っかかっていく単純な自分とは違う。
霊夢は相手にスペルカードを最後の一枚まで使わせるつもりなどない。
自分が負けることを確信してしまった勝負を、一体何処まで続けられるというのか。
相手が悪すぎる。
徐々に必死さが見え始めた妖夢の表情を読み取り、魔理沙は同情した。
◆
スキマ越しに観戦していた紫は、小さくため息を吐いた。
「貴女のところの従者、負けてしまいそうだわ」
「あら、そう」
視線を桜の方へ向けたまま、幽々子が微笑んで返す。
「冷たい反応ね」
「妖夢は今回が初めての実戦なのよ。稽古は人一倍していると思うけれど、相手がいなかったからね。ここには幽霊しかいないし、人の形を持った亡霊は私だけだったもの」
「負けることもいい経験になるってこと?」
「勝ってもいい経験になると思ったけれど、そう上手くはいかないわよねぇ」
答える幽々子はのんきな態度だったが、彼女なりの思いやりがあるらしい。
主従というよりは母と娘といった関係だと見て、紫は微笑ましく感じると同時に脳裏を掠めた二人の巫女の関係を想い、再び憂鬱な気分になった。
もう何度繰り返したか分からない。視線を桜の前の巫女の背中に向ける。
自分の娘が近づいて来ていることを、彼女は知り得ているのだろうか?
もちろん、分かるはずがないし、娘のことだって覚えているはずがないのだ。
しかし、彼女に底知れぬ部分があることは紫も分かっていた。
自らの迷いも加わり、今すぐにでも彼女に駆け寄って話をしたい気持ちと彼女に瞳を覗き込まれることへの恐れがせめぎ合っている。
「……貴女の従者が突破された時は、まず私が彼女達を迎えるわ」
紫は苦悩から逃げるように、そう提案した。
幽々子が不思議そうな顔で見つめる。
「あら、紫はどちらかというと異変を解決する側だと思っていたわ」
「私はどちらでもないわ。ただ、今回は博麗の巫女の方と少し話す必要があるからよ」
「こちらとしては助かるから別にいいけど……」
「じゃあ、ちょっと行ってくるわね」
顔を背け、スキマの中に身を沈めていく。
ふと、動きを止め、幽々子の方を見ぬまま独白するように告げた。
「どんな結果になるかは分からないけど、今回の件が終わったら少し話を聞いて欲しいわ」
返答を聞かず、紫はそのままスキマを閉じた。
今回の件というのが異変のことなのか、話とは一体何に関することなのか、何一つとして明確にしなかったが、幽々子はただ笑顔のまま友人の頼みを聞き入れていた。
従者も親友もいなくなった屋敷から離れ、無数の花びらが舞う西行妖の下へと静かに近寄る。
根元で座禅を組み、ずっと動かないままの巫女の傍らに佇んだ。
見上げるような巨木と向かい合い、全く微動だにしない姿はまるでこの妖怪桜を警戒し、見張っているかのようだった。
そっと顔を覗き込むが、その眼は閉ざされ、幽々子の存在にも気を留めていない。
視線を移し、枝を鳴らして騒ぎ立てる西行妖を見上げると、物言わず不動である巨木の印象が一体どちらに相応しいのか分からなくなった。
「この桜とタメを張るなんて、大した貫禄ね」
苦笑しながら、返事を期待せずに呟く。
「貴女は何者? 何を考え、何を想って今ここに居るのかしら?」
幽々子は自身の問い掛けが、誰に向けているのか曖昧なものだと自覚していた。
視線は西行妖の根元に向けたまま、応える者のいない言葉を続けていく。
「私は生前の記憶も無いまま、随分と長いことこの白玉楼に留まってきた。
穏やかで何の疑問もない日々だけれど、時折空虚に感じることがあるの。私には存在することに執着する為の根っこが無い。亡霊なのだから、当たり前かしらね」
自問と自答によって完結した独白を、それでも誰かが答えてくれることを何処かで期待しながら紡ぐ。
西行妖の根元。その奥に眠るものへ向けていた視線を、自分と同じ亡霊へと向けた。
「貴女も、私と同じ気持ちなのかしら?」
何気ないその問いに対して、巫女は唐突に口を開いた。
「我、生きずして死すこと無し。
理想の器、満つらざるとも屈せず。
これ、後悔と共に死すこと無し――」
謳いあげるような言葉が朗々と響き渡り、それを聞いた幽々子は目を見開いた。
かつてない衝撃が、胸を打っていた。
空虚など、とんでもない。
死して亡霊となったはずの目の前の巫女から放たれたものは、紛れもない生きた言葉であり力ある言霊だったのだ。
幽々子は震え、知らず涙を流していた。
この涙が一体どんな感情から溢れたものなのか、自分にも分からない。
亡霊となって初めてかもしれない、心が揺れ動く感覚を味わっていた。
冥界において決して聞くことの出来ない、生き足掻く者の尊さを感じさせる言葉に感動を抱いていた。
肉体を失い、その魂を冥府へ導かれたとしても、彼女は未だ死者ではない。
彼女の心は、まだ終わってはいないのだ。
「……そう」
涙を拭い、再び西行妖を見上げる。
「貴女は、私とは違うのね。まだ亡霊になるべきではない。為すべきこと、還るべき場所があるんだわ……」
一人、納得するように呟く。
具体的なことは何一つ分からなかったが、紫が苦悩し、迷っていることを幽々子はぼんやりと理解していた。
その原因がこの巫女にあることも。
そして今、やはりただ直感的なものだったが、紫の持つ迷いへの答えをハッキリと見出していた。
――この巫女を、ここへ連れて来たことは間違いよ。紫。
異変の解決と共に、紫自身の言う『結果』とやらがすぐそこまで迫っている。
幽々子はそう確信した。
◇
私は今、混乱の中にいた。
雑念を払い、自らの内なる部分を探り出す為に、こうして座禅を組んで集中しているが、未だに大した効果は得られない。
――分からない。
――思い出せない。
どれだけ自問自答を繰り返しても、私の記憶はおぼろげで、そこからハッキリとしたものを掴み取ることが出来なかった。
焦燥が募る。
私は、思い出さなければならない。
このまま忘れたままではいけない、と。それだけはハッキリと分かる。
分かっているのに思い出せない。
思考は堂々巡りを続ける。
大切なことのはずなのに。
駄目だ、思い出せない……。
――診療所で紫に魂みたいなものを引っこ抜かれた辺りまでしか思い出せんっ!
そして、気が付いたら白玉楼にいる件について。
分からん。
もう、全然状況が分からん。
本当に、混乱しすぎて『ありのまま今起こったことを話すぜ』って口走りそうになっちゃったよ。自重したけど。
まず、切欠となった紫の行動の理由が分からないし、その後私がこの冥界は白玉楼に居候することになった過程も分かりません。
ホント誰か教えて欲しい。
目を覚ましたらいきなり西行寺幽々子が現れて、文字通り花が咲くような微笑みと共に『これから一緒に住むのよ。よろしくね、お仲間さん』って歓迎の言葉っぽいものを掛けられたのだ。
状況を全く理解出来ない私は返事も忘れて、内心でシェーとなっていた。
お仲間さんって、つまり今の私は同じ亡霊ってこと?
やっぱりあの時私は紫に殺されちゃったの?
次々と湧き上がる疑問とショックで頭の中がグチャグチャになってきたので、ほとんど夢遊病者のようにフラフラと外に出た。
幽々子とは因縁のある桜の木を見つけて、ふと思い立ち、その近くに座って状況整理の為に普段やっている瞑想を始めた。
これってかなり便利なんだよね。
最初に始めた頃はただ単に形から入っただけだったが、この姿勢が一番集中力が高まるし、何回も繰り返している内に自分の中の力の流れみたいなものを感じ取ったり、コントロールするのに最適な状態だと分かったのだ。
体調や呼吸を整えるのにすごく重宝している。
そんなわけで、混乱している自分を落ち着かせる為に座禅を組んで動揺を鎮めつつ、記憶を整理してみたりしたのだが――。
うん、駄目だ。
疑問は山ほど湧くのに何も答えが出ない。
私が覚えている限り、朝早くに紫がやってきて、朝食を誘ったところまではハッキリしているのだ。
その後、私が背を向けた時に紫が何か――多分、境界操作――を行ったのを察知した途端、意識が朦朧として、消えた。
あの時、後ろに引っ張られるような感覚があって、一瞬私の視界に私自身の後ろ姿が見えたんだよね。
錯覚かと思っていたが、あれって顧みるに幽体離脱みたいな状態だったんだろうな。
だったら、私が幽々子の言う『お仲間さん』――つまり亡霊になってしまったという状況も説明がつく。
……いや、説明がついたとしても、全然受け入れたくない事実だけどね。
そもそも、紫に攻撃されたっていうか殺されたという事実が信じられない。
私、何か紫の殺人動機になるようなことしたかなぁ……?
正直、殺されたこと自体よりも、その辺の理由の方が超気になる。
あれか? やっぱり以前地底で暴れたことが後々になって大問題になってしまったとかか?
それで事件の発端である私に制裁、と……何気に在り得そうで怖い。
うわぁ……本当にそれが理由だったらどうしよう?
謝って済む問題じゃないよね。
何とかさとりに連絡が取れれば、とりなしてもらえるかも。でもどうやって? ああっ、もう! 助けて、さとりん!
ただ、制裁にしても、私の魂を抜いた後、亡霊になってここに住むっていう展開がよく分からないんだよね。
うーん、とにかく紫と一度会って話し合った方がいいな。詳しい事情を説明してもらう必要もあるし。
そして、実際問題としてこれから私はどうなるのか、という点だ。
多分、地上では私の死亡事件として大騒ぎになっていることだろう。
怪我が治り、人里での暮らしに戻ってからの生活は何かと不便な点が増えた。
まあ、霖之助のお墨付きで杖を使えば歩けるようになると言われてはいるが、当然そうなるまでには慣れがいる。
しばらくはまともに立つことも出来ないから診察の時は座りっぱなしだったし、訓練の為に外を積極的に出歩くようにしていたが、これがまた何度も転んでしまうのだ。
もちろん、こんなものは若い頃のアホ修行の日々に比べたら全く苦でもないんだけど、そんな私を見守ってくれる慧音達に気を遣わせてしまうのが、なんとも心苦しかった。
本当に最初の頃、転んでも上手く起き上がれずにもがいていたら、見かねたのか慧音が肩を貸してくれた。
さすがにちょっと恥ずかしかったので『失敗しちゃった。てへぺろ』って誤魔化そうかと思ったんだけど、なんか慧音がマジ泣きしそうな顔だったので自粛した。
いやー、そこまで心配されてたとは思わんかったわ。
それ以来、診療所が開く前に異常が無いか様子を見に来てもくれるし、本当に慧音には気を遣わせっぱなしだった。
だからこそ、こんな状況になって更に心労を掛けることになってしまうのがたまらなく申し訳ないと思う。
あと、毎朝来てくれるってことは、必然的に私の死体第一発見者になっちゃうってことじゃない。二重の意味で申し訳ないわ。
それに霊夢がこれ知ったらどう思うだろうなぁ。
きっと悲しませちゃうよ。
もちろん、この幻想郷では冥界さえ行き来できる場所だから、原作で幽々子と交流があったように、死んでこれっきりということにはならない。
しかし、それが一体何の慰めになるというんだろう。
私は霊夢の母親なのだから、霊夢より先に死ぬのは当たり前だ。
だけど、それはあの子の成長を放って、無責任に何処かへ行ってしまうという意味では決して無い。
あの子が大人になるのを見送った後で、親としての役割を終えてから逝くことこそが私の望む大往生ってやつなのだ。
亡霊となって存在し続けることが人生の一部だなんて思えない。
亡霊は亡霊。死んだ後の存在だ。
生きて、それから死ぬのだ。
私は、まだ生きなきゃいけない。
――よって、ここまで考えて出た今後の行動方針は『紫と話し合って、可能ならば生き返る』というなかなかぶっ飛んだ結論だった。
しかし、ここは幻想郷。死人が生き返るくらい意外とアリなんじゃないかと思ってしまう。
すごいね、幻想。
とりあえず、私自身のことに関してはそういった結論で落ち着いたわけだが、ここで次なる問題に移る。
私自身のことではなく、たった今私がいる状況に関することだ。
目の前で、多分『西行妖』っていう名前だと思う馬鹿でかい桜の木が、もう七分咲きくらいになっている件について。
地上にいた頃も、暦では春に入っているはずなのにやけに寒いから予想はしてたが……これって『東方妖々夢』だね、どう見ても。
春になっても咲かない妖怪桜を満開にしようという幽々子の思いつきから始まったこの異変は、幻想郷の春の成分を奪うことで冬を長引かせ、その結果霊夢達が解決に動くという流れのはずだ。
つまり、近々この白玉楼に霊夢が来るということになる。
それ自体は私にとってむしろ好都合なんだけど、同時にタイムリミットも迫りつつあった。
――この桜の木には秘密が隠されているのだ。
幽々子がこの桜を咲かせようとした切欠に、古い書物からこの桜の木の下に何者かが封印されていること、西行妖が咲かないのはその封印のせいであることを知ったというのがある。
つまり、幽々子はこの桜を咲かせ、その結果封印を解こうとしているのだ。
そして、ここから重要かつ前世の記憶を持つ私だからこそ知ることだが――封印されている何者か、とは実は幽々子自身の遺体なのである。
元々、この桜は咲く度に人を死に誘う凶悪な妖怪桜だったのだが、その影響で同じ人を殺す為の能力を得てしまった生前の幽々子は嘆き悲しみ、桜の木の下で自害した。
そして再び転生して苦しまないよう、肉体を鍵としてこの木を封印したのだ。
西行寺幽々子と西行妖には、そんな関係と過去があったのである。
故に、この桜の木は決して満開にしてはいけないし、原作では異変解決が結果的にそれを防ぐこととなった。
――と、ここまでが私のゲームの知識。
そして今、私の目の前では現在進行形で西行妖の封印が解けつつある。
原作通りの流れ、と言いたいが、正直それだけで安心出来るほど私は楽観的ではない。
何かの間違いで霊夢達が間に合わず、西行妖が満開になるという事態が在り得ないわけではないのだ。
その『何かの間違い』が十分に起こり得るのが現実ってやつである。
何より、こうして直に西行妖という奴と対面してみてハッキリと実感したことがある。
――こいつは……ヤバイ!
なんかもう、全然具体的に表現出来てないけど、本当にヤバイとしか言えないくらいヤバイと感じる。
人を死に誘うという話も決して大げさではないようだ。
私が今、亡霊の状態だから分かるのかもしれないが、桃色の花びらが舞う美しい全容とは裏腹に、放たれる雰囲気は瘴気にも似た重苦しさと禍々しさに満ちている。
こんな物は生きた人間が楽しむのはもちろん、見ていいものですらない。
崖の下や底の見えない穴を覗き込む時、落ちれば死ぬと分かっているのに吸い込まれそうな気分になる時がある。
それを何倍にも強くした衝動を、この桜を見ていると感じるのだ。
この桜は生きる者を殺す。
私は無条件にそう確信した。
幽々子のことを抜きにしても、こんな化け物の封印を解くわけには絶対にいかない。
そう決意し、私は木の根元に陣取って座禅を組んだまま、微動だにしていないのだ。
……それ以外に出来ることがない、とも言うけどね。
肉体を失ってしまったせいか、どうにも体の動きに違和感を感じる。
足の不自由はなくなったが、まるで肉体の方へ置いてきてしまったかのようにあらゆる技が使えそうにないのだ。
まあ、私の技といったらガチンコの格闘術だったり、自分でもどんなパワーを使っているのか分からない他の漫画の技ばかりだから、ある意味納得出来るんだけどね。
実際に、さっきから試しているがこの状態では波紋も練れないようだ。
何より私は博麗の巫女としては才能がなかったので、封印や結界といった方面の技術には非常に疎いのだ。
例え私が生前と変わらない力を発揮出来たとしても、封印の解かれそうな西行妖に対して出来ることといったら、蹴り倒すか切り倒すか殴り折るか――どっちにしろ、ぶち壊す以外手段がないじゃねーか。
体内の力の動きをいろいろ試したみたところ、霊力だけは運用出来るようなので、とにかく瞑想に瞑想を重ねてその力を溜め込み、何か役立ちそうな場面で解放する瞬間を見極める程度のことしか出来なかった。
こんな無力な状態で、化け物桜と向かい合うなんて正直怖い。
だからといって、眼を離すのもやっぱり怖い。地上が時期的に春に近づいているせいか、それに比例するように西行妖の咲く早さが上がっているように思えるし、不規則なタイマーが付いた時限爆弾を見ているような気分だ。
結果、私は白玉楼で目を覚ましてからずっと、こうして西行妖と睨み合うかのように座り続けているのだった。
れ、霊夢ーっ! 早く来てくれぇー!! と内心ではクリリンばりに叫んでいる私。
そんな風に誰にも分からないところでテンパっていると、緊迫した状況を理解しているのかいないのか、幽々子がのんびりとした仕草で傍にやって来た。
ううっ、真実を語って異変を止めてもらいたいという気持ちが湧いてくるが、自分の遺体を見たら亡霊って消滅するらしいからなぁ……。
余計なことを口走らないように固く口を閉ざし、西行妖の方に意識を集中させる。
「貴女は何者? 何を考え、何を想って今ここに居るのかしら?」
しがない巫女です。この異変を無事に乗り切り、家に帰って娘を抱き締めたいです。
あとは、貴女とお近づきになりたいです。
今はそんな状況じゃないけど、ゆゆ様とお茶でも飲みながらのんびり話とかしてみたいね。
「私は生前の記憶も無いまま、随分と長いことこの白玉楼に留まってきた。
穏やかで何の疑問もない日々だけれど、時折空虚に感じることがあるの。私には存在することに執着する為の根っこが無い。亡霊なのだから、当たり前かしらね」
幽々子から感じられる気配は、どこか儚げなものだと私は感じた。
何故、彼女は初対面も同然な私にそんなことを語るのだろう。
私は自分が亡霊であることを受け入れてはいないし、そうなった境遇も幽々子とは違う。
彼女にはそれこそ悲劇的な経緯があって、長い年月亡霊として在り続けていたのだ。
私がそのことに関して、知ったようなふりや憶測で何かを語るわけにはいかないし、出来るとも思わない。
ただ、幽々子が西行妖の封印を解こうと思った根本的な動機。無意識のうちに生前の自分を求め、今の自分を変えてその空虚を埋めたいという欲求があったのではないかと私は思った。
「貴女も、私と同じ気持ちなのかしら?」
何気なく尋ねられたそれに、私はもちろん否定を表したい。
私にはまだ生きる理由があるんだからね。亡霊になるにはまだ早い。
その辺の決意の固さを、幽々子にも知ってもらおうと――そして、あわよくば紫と話す時にフォローしてもらっちゃおうと思い、私は偉大なる名言に肖らせてもらうことにした。
「我、生きずして死すこと無し。
理想の器、満つらざるとも屈せず。
これ、後悔と共に死すこと無し――」
……自分で口にして、自分の心にまで響くわぁ。
単純にかっこいいだけではない。あらゆる決意の詰まった言葉だ。
決死の行動への覚悟を表す言葉でもあり、生きることへの足掻きとも取れる。私にとっては後者の方が大きい。
幽々子に聞かせる為の台詞だったが、毎度のことながら私自身も影響を受けて、なんか覚悟完了してしまったようだ。
先程までの弱気は失せ、徐々に圧力を増す西行妖の威容に対して、私は改めて向かい合った。
霊夢はきっと来る。
そして、決戦の時は近い。
私は臆することなく、ただ静かに待つ。
――霊夢の勇気が幻想郷を救うと信じて!
…………間違ったことは言ってないつもりだが、なんか投げやりっぽいな。これ。
<元ネタ解説>
「我、生きずして~」
シューティングゲーム「斑鳩」の作中の一文。