東方先代録   作:パイマン

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妖々夢編その一。


妖々夢編
其の十「春雪異変」


 人が生きる上で、死というものに触れ、その実体を知るのは避けられないことだ。

 博麗霊夢が、それを知るに至った切欠はどんなものだっただろうか。

 道端で動物の屍を見た時か。

 母に連れられて、人里の葬式に顔を出した時か。

 本人も覚えてはいない。

 幼い子供の頃に経験した、そんなささやかな切欠だった。

 

 ――あれが、死ぬということ。

 

 記憶にもおぼろげなその時に、霊夢が感じたものは漠然とした『理解』だけだった。

 なるほど。あれが死か。

 でも、それが何だ?

 霊夢はただその現象をあるがままに受け止め、そこから繋がるはずの感情をその時は何も抱かなかった。

 いずれ自分に降りかかる死への恐怖も、命が失われたことへの悲しみも無い。

 人は死ぬ。

 ただ、そうとだけ理解した。

 博麗霊夢という人間の持つ、何ものにも囚われない特性が、彼女に死への感慨を何も抱かせなかった。

 死ぬことは恐ろしいことではないし、悲しいことでもない。

 もし、自分自身に絶対に避けられないその瞬間が訪れたとしても、自分はあるがままに受け入れるだろう。

 そう考えて、霊夢はその時直面した死という現実の前を通り過ぎた。

 

 そして、幾らかの月日が過ぎて、霊夢は改めて死と向かい合った。

 

 ある日の夜、霊夢は唐突に眠りから覚めた。

 別に何も特別ではない一日を過ごし、いつものように母の隣で寝床に就いた。

 何故その日だったのかは分からない。

 ただ、霊夢が死というものを理解してから過ごした日々の中で、その日その瞬間に何の脈絡も無く脳裏に浮かんだのだ。

 目を覚ました時、時間は当然のように夜中だった。

 博麗神社の周囲からわずかに聞こえる虫の声、風の音。自然の中にある夜の静寂。

 暗闇の中で開いた視界には、入り込むわずかな月明かりに照らされた天井しか映らない。

 霊夢は、急に孤独を感じた。

 襲い掛かってきた、と表現した方が正しいかもしれない。

 夜の静寂と闇が、まるで物理的な圧迫感を伴って全身に圧し掛かるような感覚。

 自分は今、独りだ。

 何の根拠も無くそう感じた。

 ワケが分からず、不可解だった。

 霊夢はその時、無自覚に小さな体を萎縮させていた。年相応の子供のように。

 無意識に体を傾け、隣で眠っている母を捜した。

 捜すまでもない。そこに母は眠っていた。

 いつもと同じように、一緒に床に就いたのだ。何処かへ出かけるわけもない。当然のことだった。

 しかし、母親の眠る姿を見て霊夢が感じたものは安心感などではなく、逆の不安だった。

 武術を極める母は、眠る時も姿勢正しく、息遣いは整っていて寝息も静かだ。

 まるでこの静寂の中に溶け込んでしまっているような静かな呼吸。動かない寝相。

 掛け布団に隠され、呼吸による胸の動きさえ分からない。

 霊夢は自身の動悸が激しくなるのを感じた。

 横たわって動かない母を見ていると、不安がどんどん大きくなる。

 溜まらず体を起こして、母の布団に手を掛けた。

 

「……かあさん」

 

 小さく呼び掛けたが、母は目を覚まさない。

 冷静に考えれば当然のことだった。霊夢の声はあまりに小さく、本当に囁くようなものだったのだ。

 得体の知れない感覚に全身を強張らせていた霊夢にとって、それが精一杯の呼び掛けだった。

 その声に母は応えない。

 耳を澄ませば寝息は聞こえるし、胸に手を当てれば動いていることが確認出来ただろう。

 しかし、霊夢は応えてくれない母の様子を見て、一気に不安を膨れ上がらせた。

 胸の中で大きくなったそれは肺を圧迫し、息苦しくなって、体から自由を奪った。

 霊夢がその時感じていたものは、間違いなく恐怖だった。

 

「かあさん、起きて」

 

 ――お願いだから。

 霊夢は知らず祈り、必死で声を絞り出していた。

 やはり小さな声だったが、眠っていても周囲の気配に敏感な母は、それを察知して目を覚ました。

 

「……ん? 霊夢か、どうした?」

 

 目を軽く擦りながら、体を起こす。

 動いている。

 生きている。

 あまりにもあっさりとしたその事実を確認すると、霊夢は安心すると同時に呆然とした。

 全身で感じていた得体の知れない恐怖は嘘のように消え去ったが、代わりに必死で堪えていたものが涙となって溢れ出した。

 理由など分からない。

 もう、何も分からない。

 ただ、頭の中は無茶苦茶で、様々な感情だけが激しく渦巻いていた。

 目を覚ました途端に、嗚咽を堪えて泣き出した霊夢を、母は慌てて抱き締めた。

 

「どうした? 何か怖い夢でも見たのか?」

 

 霊夢は腕の中で首を振った。

 それが否定なのか、それともただむずがっているだけなのか、本人にも分からなかった。

 自分で自分の考えていること、感じていることが分からない。

 霊夢にとって初めての経験だった。

 だからこそ、どうすることも出来なかった。

 ただ、縋るように母にしがみ付く手に力を込めた。

 

「よしよし……」

 

 何も説明することが出来ない霊夢に対して、母は全身で抱擁するように体を抱き寄せ、しゃくり上げる小さな背中を優しく叩いた。

 言葉を交わさなくても霊夢の中にある不安の正体が分かっているように、そうしているだけで少しずつ心が落ち着いた。

 ――今、自分は母を困らせている。

 わずかに戻った理性が、子供らしからぬ働きをして霊夢自身を責め立てた。

 母に説明しなければならない。

 自分が何故こんな夜中に起き出して泣いていたのか。意味などない愚かな理由を話して、そして謝らなければならない。

 そう考えているのに、霊夢の中では理性よりも感情が上回っていた。

 もう過ぎ去ったはずの恐怖の余韻から必死で逃れるように、母に抱きついたまま何も話すことが出来なかった。

 

「今日は一緒に寝ようか」

 

 霊夢の自責の念を拭い去るように、母の優しい声が耳元で聞こえた。

 抱き締められたまま布団の中に引き込まれ、母の体温と一つになって包まれる。

 この上ない安心感に包まれていた。

 しかし同時に、それだけしても心の奥底に消えない感情が残っていた。

 どんなに体を温めてもらっても、体の中に小さく冷たい何かが根付いてしまっている。

 怖かった。

 霊夢は初めて『死』というものに恐怖を感じていた。

 こうして抱き締められている安心感も、いつかは消える。

 人はいずれ死に、その中の一つとして目の前の母も死んで自分の前からいなくなってしまう。

 それはどうしようもない現実だった。

 どれだけ足掻いても、泣き喚いても覆しようが無い、いずれ来る現実なのだと理解出来てしまった。

 そして、理解するだけで受け止めることなど出来なかった。

 幼い心から溢れた感情が、霊夢の体を支配してあらゆる制御を奪っていた。

 霊夢はその日一晩中、母の体にしがみ付いて泣くことしか出来なかった。

 やがて、泣き疲れた幼子の心に訪れた眠りが慈悲深く幕を下ろした。

 

 次の日。目を覚ました霊夢は、自分が母に抱きついて眠っていることを自覚すると、途端に恥ずかしさを覚えて跳ね起きた。

 同じように起きた母が珍しくからかうような笑みを浮かべているのを見て、顔を真っ赤にしながら部屋を飛び出す。

 冷たい水で顔を洗い、気まずい朝の挨拶をして、ご飯を食べて――そして、いつものように当たり前の日常が過ぎていく。

 あの時感じた激しい感情のうねりは、今ではただ単に記憶として残るだけで、実感を持たないおぼろげなものとしてしか思い出せない。

 月日は過ぎ、霊夢は子供から少女へと成長した。

 あれ以来、霊夢が泣いたことは一度として無い。

 今日も博麗神社で一人目を覚まし、巫女としての日常をこなし、そして一人で眠りに就く。

 もう悲しいとも怖いとも感じなかった。

 

 ――だけど、あの夜感じたものと理解したものは、決して逃れられない、いずれ訪れる現実なのだ。

 

 

 

 

「……寒っ」

 

 季節は冬を過ぎ、暦の上では既に春に入っている筈の時期である。

 それにもかかわらず、吹き荒ぶ寒風と境内に未だ溶けずに残る白模様が季節の移り変わりを全く感じさせなかった。

 これで晴れ間でも見えていれば、まだ暖かなものを感じられたのだが、霊夢が見上げた先にあるのは寒々しい曇り空だった。

 

「やっぱり、異変よね」

 

 霊夢は諦めたように現実を受け入れた。

 前々からそうではないかと予感はしていたし、それを裏付けるこの異常気象も把握していた。

 今年は春の訪れが遅いのだろうと自分を納得させるのもそろそろ限界だ。

 寒さのせいで積極的に動く気を失っていたが、今度はその寒さが動かざるを得ない危機感を煽っている。

 

「さすがにずっとこの寒さが続くと拙いしね」

 

 今日まで寒い寒いとぼやくだけだった姿が嘘だったかのように、霊夢はしっかりとした足取りで部屋へ向かった。

 異変を予感しながら、日々それを無視して何もしてこなかったわけではない。

 火鉢の前でだらしなく暖を取りながらも、一切気を抜かずに力を込めて書き上げた何十枚もの霊符。

 清水で磨き上げた退魔針。

 そして、博麗の秘宝として伝わる『陰陽玉』二つ。

 博麗の巫女が異変解決に赴く為の完全武装を備えた霊夢は、刺すような冷たい空気の中、境内へと歩み出た。

 

「――さて、とりあえず何処へ向かいましょうか」

 

 当然ながら、霊夢にはこの異変解決のアテどころか原因さえ分からない。

 生来より授かったありがたい巫女の勘なるものに従って、流されるままに飛んでいくくらいしか考えがなかった。

 しかし、そんなぼんやりとした先行きとはまた別に頭に浮かんだ場所がある。

 

「ちょっと、人里行ってみようかな?」

 

 煮え切らない自分の判断に言い訳するように一人呟く。

 異変解決の為の行動ではなかった。

 この長引く寒さの中、不意に人里へ戻った母親の様子が気になったのだ。

 先代の足がもう動かないのだと霊夢が知ったのは、既に一月も前の話だ。

 看護する傍ら、ずっと傷が治れば全て元通りなのだと思っていた。

 日を追う毎にそれは不安へと変わり、包帯が取れてもまともに立ち上がれない母を見て確信してしまった。

 ショックを受けたし、落ち込みもした。

 心配ももちろんしていたが、結局足の不自由以外に怪我の後遺症も無く、先代は杖をつきながら、危うげな足取りではあったが人里へ自力で帰ってみせた。

 あれから幾日か過ぎ、人里での母の暮らしを無意味に案じることも減っていったが、忘れたわけではない。

 一月。そう、あれから一月だ。

 本来ならば、神社へ様子を見に来て、一晩泊まっていく決まりなのだ。

 じゃあ、動けない母に代わって娘が人里へ赴いても、なんらおかしな理屈ではない。

 霊夢は自らの正当性に納得すると、一つ頷いて進路を人里へと向けた。

 

「霊夢っ!」

 

 空へと上がり、寒風をモロに受けて顔を顰めていると、不意に声が掛かった。

 魔理沙が物凄い速さでこちらへと迫って来ていた。

 そのままぶつかるのではないかと思える程の勢いで霊夢に近づき、急停止する。

 明らかに何かに焦っている様子だった。

 

「霊夢! い、いいか……落ち着いて、聞いてくれ」

「あんたが落ち着きなさいよ」

「バカヤロウ、茶化してる場合か!?」

 

 どっちなんだ。

 落ち着けと言いながらも取り乱す魔理沙自身とは対照的に、霊夢はただ静かに呆れていた。

 この異変に関係する話かな、と軽い期待を抱きながら黙って話の先を促す。

 

「とにかく、大変なんだ。わたしと一緒に人里へ来てくれ」

「今から向かおうとしてたところだけど……何かあったの? この寒さの原因がそこにあるわけ?」

「違う! いいか、本当に落ち着いて聞いてくれよ……」

 

 魔理沙は逆に自分を落ち着かせるように深呼吸を一つ挟んで、ハッキリと告げた。

 

「お前のおふくろさんが亡くなった」

 

 

 

 

「……博麗霊夢か。よく来てくれたな」

 

 診療所へと入った二人を出迎えたのは、暗い顔をした慧音だった。

 霊夢も魔理沙も、慧音に対しては顔見知り程度の認識であって友人ではない。

 霊夢に至っては、母である先代巫女が彼女と同じ人里の有力者として交友があったからこそ知り合ったのだ。

 慧音に促され、霊夢は奥の私室へと入っていった。

 本来ならば、先代が寝食を過ごす生活の為の場所。

 そこに、霊夢の母は居た。

 

「今朝だ。先代の足が不自由だから、診療所が開く前に一度顔を出すのが日課だった」

 

 霊夢はしっかりとした足取りで、布団の上に横たわる先代の傍へ歩み寄った。

 魔理沙から報告を受けて、人里へ向かい、そして実際にこうして事態に直面しても、霊夢は言われた通り落ち着いていた。

 

「何者かが侵入した形跡は無い。この部屋も、診療所の方も荒らされてなどいなかった。だから原因は分からない」

 

 腰を下ろし、そっと首筋に手を添えた。

 冷たかった。体温など無い。

 呼吸も、鼓動も感じられない。

 それの意味することは一つだった。

 

「……何度、呼び掛けても起きなかった。眠っていると思ったのに」

 

 それこそ死人のような声で、慧音は事の詳細を伝えた。

 その話は霊夢の耳に入っていたが、頭の中に残ることはなかった。

 首から手を離し、そのまま胸の上に持って行く。

 軽く体を揺らしてみた。

 何の反応も返って来ない。

 

「……母さん」

 

 無意識に呼び掛けていた。かつて子供だった頃のように。

 しかし、違う。

 今はもう子供ではないのだ。

 霊夢は自分の行動が何の意味もない愚かなものだと自覚すると、再び口にしようとしていた骸への呼び掛けを噛み殺して、立ち上がった。

 

「れ、霊夢……」

 

 魔理沙は声を掛けたが、そこに意味のある言葉を持たせることが出来なかった。

 何を話せばいいのか分からないし、これからどうすればいいのかも分からない。

 そんな魔理沙を無視して、霊夢は慧音に歩み寄った。

 

「これからどうするの?」

「どう……とは?」

「死体の処理よ。どうするの?」

 

 霊夢の無造作な物言いに、慧音は焼け付くような怒りを覚えた。

 咄嗟に睨み付け、殴りつけようと手を上げて――自分を見つめる霊夢の瞳に一瞬で圧倒された。

 静かに、鬼気迫るものがそこに宿っていた。

 

「里の住人よりも先に、魔理沙を通じてあたしにまで知らせたんでしょ? これからどうするつもりなのよ」

「それは……私が、この事実を隠す。私の、能力を使って……この診療所ごと……」

 

 真実を見抜くような瞳に脅され、慧音は途切れ途切れになりながらも白状した。

 上白沢慧音には『歴史を食べる程度の能力』があり、それによって先代の死を周囲から隠蔽しようという考えだった。

 先代巫女は現役を引退してなお大きな影響力を持つ人物だ。

 その唐突な死を一時的にでも隠しておこうという考え方は、常識的な範囲として理解出来る。

 しかし、そうして隠蔽した後に何を以って今回の件を解決とするのか。

 慧音の能力は特定の場所、人物、事象に対しての認識を操作するものであって、『食べる』と形容されていてもそれ自体に干渉出来る力ではない。

 人間の死そのものを無かったことには出来ないのだ。

 そして、一体何時まで隠し続けるつもりなのか。

 そういった具体的な先の話を慧音はしなかったし、霊夢もあえて聞き出さなかった。

 ただ、そのまま黙り込む慧音の青褪めた顔をしばらくの間見つめていた。

 

「……そう、分かったわ」

 

 その瞳で一体どんな真実を捉えたのか、霊夢は一人納得すると、慧音の横をすり抜けて出口へと向かった。

 慌てて魔理沙が追いかける。

 

「おい、何処へ行くんだよ!?」

「霧の湖へ。ちょっと確かめに行ってくるわ」

「確かめに、って……何を!? っていうか、おふくろさん置いてく気かよ!」

「ついて来なくていいわよ」

「だから、ちょっと待……っ」

「霊夢!」

 

 追い縋る魔理沙を無視して、診療所を出ようと扉に手を掛けた霊夢を慧音が呼び止めた。

 振り返れば、追い詰められたような悲壮な表情を浮かべた慧音が見つめている。

 何かを訴えるような眼だった。

 霊夢にはその『何か』がなんとなく理解出来ていたが、その上で無視した。

 

「何?」

「お前は……知っていたのか? 私が……っ」

「あんたは隠し事には向かない性格だわ」

 

 霊夢は慧音の持つ能力を皮肉るように小さく笑った。

 半ば以上は勘だったが、慧音の様子に最初から違和感を感じてもいた。

 霊夢が上白沢慧音という半獣に関して知っていることは、先代巫女を慕っているという点くらいだ。

 しかし、そのただ一つハッキリとした点がこの場では違和感を生んでいた。

 原因も分からず、慕っていた人間が唐突に死んでいるのを見つけたという彼女が、何故あそこまで理性的に行動出来るというのか。

 深く悲しんでいることは分かる。

 しかし、混乱はしていなかった。

 状況を把握しきれず、困惑した様子の魔理沙を尻目に、二人は黙って見つめ合った。

 

「……お前は、母親の足のことに関して何も感じなかったのか?」

 

 慧音は嘆くように尋ねた。

 

「あの人は、この里の守護者であり気高い武人でもあった。私の知る限り最も高潔な人物だ。

 一体、どれほどの鍛錬の果てにあれだけの力と技を身に着けるに至ったのか……。本当に、敬意を抱かずにはいられない」

「ええ、知ってるわ。だから尊敬している」

「だったら……分かるだろう?

 あの人は、もう満足に歩くことも出来ないんだ。診療所へ様子を見に行くと、いつも椅子に座っている。そこから立ち上がることさえ億劫そうだ。外を出歩いて、何も無い所で足をもつれさせて転ぶのを何度も見たんだ!」

 

 慧音は唇を震わせ、眼を充血させて、慟哭するように叫んでいた。

 その涙は一体どんな感情から来るものなんだ、と。霊夢は冷静に見つめていた。

 

「――だから、何?」

 

 霊夢の返答は、慧音の熱くなった心に冷水を浴びせるようだった。

 

「その姿を見て、あんたは憐れだとでも感じたのかしら?

 以前とは見る影も無い姿に、眼を背けたくなったの?

 あの人の足の怪我が何かとても理不尽なもので、本来なら起こっていいはずが無い、修正されるべき歴史だとでも考えたのかしら?」

 

 霊夢の淡々とした言葉の一つ一つが深く突き刺さり、慧音は別の意味で顔を青褪めさせた。

 視線を上げることが出来ず、罪人のように頭を垂れ、口元を押さえて震えている。

 母親に対して犯した許されない罪を、その娘に見咎められてしまった。得体の知れない罪悪感が慧音を責め立てていた。

 

「あと五十年もすれば、あたしだって真っ直ぐに歩けなくなるわよ。歳を取って衰えていくのは、人間だったら当たり前のことでしょう。母さんだって、それを理解しているわ」

 

 それだけ告げると、霊夢は改めて踵を返し、診療所を出て行った。

 終始、口調は淡々としていて決して慧音を責めるようなものではなかったが、彼女自身には最後の言葉がまるで吐き捨てられたかのように重く響いていた。

 立ち去る霊夢の背中に、もはや何も語りかけることが出来ない。

 二人のやりとりの意味が分からず、困惑し通しだった魔理沙も、やがて意を決して霊夢の後を追って出て行った。

 そして、慧音だけがその場に残された。

 まるで取り残された子供のように、独りでそこに佇んでいた。

 

 

 

 

「なあ、霊夢。こうなったら一つだけでいい、答えてもらうぜ」

 

 人里を離れ、霊夢の後を追従しながら、その行き先が確かに事前に言った通り霧の湖へ向かうものだと確認すると、魔理沙は隣へ並行して尋ねた。

 何気なく訪れた人里で突きつけられた先代巫女の死から始まり、今まで。全く状況を理解出来ない流れだった。

 その中でかろうじて形となった結論を口にする。

 

「おふくろさんは死んでいない。そうだな?」

「いいえ、死んでいたわ。心臓も動いてなかったし、体温も感じなかった」

「じゃあ、どうして!?」

「でも違和感があったのは確かよ。体が冷たすぎた」

 

 混乱して取り乱しそうになる魔理沙を、霊夢の冷静な声が引き止めた。

 

「……それは一体どういう意味なんだ?」

「そのままよ。死んで体温を失ったというには、体が冷えすぎてたわ。まるで氷みたいだった」

「そうか、それで……!」

「ええ。……でも、違うわね」

 

 いつの間にか周囲が霧に満たされていた。

 地上を満足に見ることも出来ないが、おそらく湖の上空へ辿り着いたのだ。

 二人は同時に進むのを止めた。

 冷え切った空の空気を更に凍て付かせるような何かが、前方で冷気を発している。

 

「あんたにはあんな真似は出来ないわ、チルノ」

 

 初めて会った時とは比べ物にならない、周囲一帯を支配するほどの力を纏った氷の妖精がそこにいた。

 春が訪れない今回の異変を、チルノは完全に味方に付けていた。

 元々、自分自身で冷気を発生させる能力を備えていたが、既に冷え切った世界がそれを更に助長している。

 その顔付きも初見の印象を拭い去るかのように、子供らしい明るさを失って、鋭く研ぎ澄まされていた。

 

「……やっぱり来たわね、霊夢」

「あんたに気安く呼ばれるほど仲良かったかしら?」

「お前なんか大っ嫌いさ」

「そうよね。ま、話が早く済みそうでよかったわ」

 

 霊夢は自らの前に立ち塞がる障害に対して、どこまでも冷静だった。

 チルノの影響で、もはや痛みを感じる程冷え切った周囲の空気に対して、慌てて備える魔理沙を尻目に霊夢は既に事を済ませている。

 周囲を浮遊する二個の陰陽玉が、それだけで簡易結界となって冷気を遮断していた。

 

「先代巫女を――」

 

 霊夢は『母』という呼び名を使わなかった。

 その認識の切り替えがどんな意味を持つのか、傍で聞く魔理沙には気になって仕方が無かった。

 

「氷付けにしたのは、あんたじゃないわね。あれはそんな単純な代物じゃなかったわ。出て来なさいよ。近くにいるんでしょ?」

「話がややこしくなってきたわねぇ」

 

 断定する霊夢の言葉に応じる者があった。

 チルノの傍に、ゆっくりと現れる。

 途端に、冬の嵐が二つになったかのように冷風が吹き荒れた。

 魔法の障壁と防寒具を通しても刺すように伝わるその寒さに、魔理沙が盛大に顔を顰める。

 

「あの人間の遺体を冷凍保存して、私の仕事はお終いじゃあなかったの?」

 

 それは白い妖怪だった。

 チルノが自ら冷気を発するのならば、その妖怪は周囲の寒気を操る能力を持っているらしい。

 唐突に襲い掛かってきた、凍えるような空気の渦の中で、霊夢は相手を正確に分析していた。

 

「冬に関わる妖怪のようね。冷気そのものを操れるなら、四季を通して目立たないわけがないわ」

「ご名答。私は冬の妖怪『レティ・ホワイトロック』よ」

「先代巫女を凍らせたのはあんたね?」

「それも当たり。でも、勘違いしないで欲しいわ。私はこの妖精とだって初対面。取引をして、既に死んでいたあの人間の肉体を保存する為に力を使ったのよ」

「知ってるわ。あれは単純に冷やして凍らせたといったものじゃない。表面に霜さえ浮いてなかったしね。肉体を凍結させて『停止』させているような――少なくともそこの妖精には出来ない、複雑な芸当よ」

 

 霊夢の淡々とした説明にレティはわずかに眼を見開いたが、一番驚いていたのは傍らの魔理沙だった。

 こいつは、それだけのことを冷静に分析していたのか?

 自分の母親が、死んで横たわっている目の前で、動揺すら見せずに――。

 

「恐ろしいわね、博麗の巫女というのは」

 

 レティの呟きに、魔理沙はギクリとした。

 霊夢に対して一瞬抱いた疑念を、見抜かれたのかと思った。

 

「それで……あの状態から人間を解放しろというのならお断りよ。

 この妖精との契約で、報酬として夏の間は快適な住み場所を提供してもらうことになっているの。反故にはしたくないわ」

「このまま冬が続けば、夏の準備なんて必要ないんじゃないかしら?」

「ああ、それは素晴らしいわね。でも駄目だわ。季節は移り変わるものよ」

 

 レティが微笑むと、暴虐のように荒れ狂っていた風がピタリと止んだ。

 

「秋が終わらなければ冬は来ない。冬が終わらなければ、春が始まり、再び冬が訪れることもない。

 月日は流れ、四季は変わるもの。それは仕方の無いこと。自然の理なのよ。誰にも止める権利など無いわ。そうでしょう?」

 

 それまで沈黙を貫いていたチルノの肩に、レティはそっと手を乗せた。

 チルノは拒絶するようにその手を振り払った。

 

「何が言いたいんだよ!?」

「アナタには分かるはず。いいえ、分からなければいけないわ。チルノ、アナタも妖精ならば自然の理を理解しなさい」

「気安くあたいの名前を呼ぶな! 余計なことを言うな! けーやくでしょ、あたいとの約束でしょ!?」

 

 チルノは駄々っ子のように喚き散らした。

 しかし、幼子の癇癪と言うにはあまりにも凶悪な力がそこに備わってしまっている。

 より密度を増した冷気を受け、レティは困ったように微笑んで、視線を霊夢へと移した。

 

「……ごめんなさい。ご覧の通り、私にはもうどうすることも出来ないわ」

「別にいいわよ、元々こっちの問題だし。っていうか、あんたも妖怪なら妖精相手にそこまで親身になる必要ないんじゃない?」

「人間のクセに随分とドライな性格をしているわね。もうちょっと暖かみを持ちなさい」

「冬の妖怪が一体どんな皮肉よ、それ」

 

 霊夢のしかめっ面を見て苦笑すると、レティはチルノの拒絶に従うように、そっとその場から離れた。

 そして、霊夢とチルノが真正面から対峙する形となる。

 敵意を剥き出しにするチルノに対して、霊夢は微動だにせず応じていた。

 

「まあ、色々あるみたいだけれど、とりあえず手がかりはあんたの方ってことで決定ね。洗いざらい吐いてもらいましょうか?」

「うるさいっ、お前なんかやっつけてやる!」

「やっつけて、それから? ……なんて、聞いても無駄でしょうね。何より無意味だわ。あんたにあたしは倒せないんだから」

「倒せる! あたいはお前より強いんだ! お前よりずっと、ずっと強くなるんだ! お師匠が……ずっとあたいを鍛えてくれるんだから!!」

 

 スペルカードが掲げられ、決闘が始まった。

 やはり、初めて出会った時と今のチルノは何もかもが違う。

 以前は直接戦うことのなかった魔理沙の眼にも、はっきりと実力が向上していることが分かった。

 激しい弾幕が寒々しい空を更に凍りつかせるように広がり、霊夢を覆い尽くす。

 しかし、それに相対する霊夢もまた桁違いの実力だった。

 無数の氷弾を次々とすり抜けて行く。

 相変わらず、傍で見ていても全く当たる気がしないな。と、魔理沙は安心感や頼もしさと同時に諦めすら抱いていた。

 

「すごいわねー、あの巫女」

「ああ」

 

 何故か隣で一緒になって観戦しているレティを神妙な顔で一瞥する。

 

「……ところでお前って、この春が来ない異変の原因じゃないのか? 冬の妖怪らしいし、ちょっと白状してみろよ」

「くろまく~」

 

 レティは小さく舌を出して悪戯っぽく笑った。

 

 

 

 

 紅魔館では、主が直々に自らの従者の出立を見送っていた。

 自前のナイフに、美鈴から貰ったマフラー、パチュリーから授かった射撃補佐用の星型魔具、フランドールの激励、そして主の見送り――。

 紅魔館総出の厚意をありがたいと深く思う反面、何処か気恥ずかしくなって、赤くなる頬を隠すようにマフラーを口元まで引き上げた。

 

「では、お嬢様。行ってまいります」

「パチュリーから座標の方は聞いたわね? そこへ向かいなさい。敵は打ち倒し、味方は率いて、この異変の元凶を断つのよ」

「かしこまりました」

 

 咲夜の向かう先に在るものを見通しているかのようなレミリアの言葉。

 しかし、深く追求はせず、忠実なる従者はただ応える為に飛び立った。

 案じることなどしていないが、それでも咲夜の背中をしばらく見送ると、レミリアはパチュリーの待つバルコニーへと戻った。

 

「暖房の燃料が無くなる前に帰って来て欲しいわね」

「寒いのならわざわざ外へ出なくてもいいでしょう?」

「寒くはないわ。魔法使ってるし」

「さっさと図書館に戻りなさい。寒気は喘息の敵でしょ」

「最近、小悪魔のテンションが上がり過ぎてて近くにいると疲れるのよ。先代と悪魔の契約をするんだって、張り切っちゃって……」

「本当に腐ってるわね、あの汚物」

 

 疲れたようなため息を吐くパチュリーの向かいで、レミリアが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 先代巫女の足が不自由になったという事実は、彼女との関わりが深いこの紅魔館にも大きな影響を与えている。

 レミリアのように沈んだ気分になる程度ならば軽いもので、美鈴はそれを知って以来何処か仕事に身が入っていないし、フランドールはどう見ても空元気を必死に出して見せている。

 小悪魔に至ってはパチュリーの話のまま。仕事を与えておかなければ、こっそり抜け出して先代に悪魔の囁きという奴を仕掛けに行く気満々だった。

 先代を見舞いに行った時には、全員に何処か楽観があった。

 酷い怪我だ。でも、生きている。

 その事実だけが嬉しく、全ての疑念をただそれだけで拭い去ってしまった。

 人間と妖怪は違う。

 あの先代さえ例外ではないのだ。

 最も重要なその事実を、あの時はレミリアまで忘れていた。

 人間は時と共に栄え、そして衰えていく存在だ。

 それを彼女達が理解するにも、やはり時間が必要なのだろう。

 レミリアが特に美鈴とフランドールを、ただ静かに見守ろうと決めていた時に、今回の異変が起こった。

 そして、それとはまた別の事件も、レミリアは察知していた。

 

「スカーレット家の血筋に代々伝わる『運命を操る程度の能力』だったわね。使用されるのを見るのは、今回が初めてだわ。アナタの父は、この能力で紅魔館を栄えさせたと聞くけど」

「『操る』というのは、あの男が大げさに吹いていたのよ。運命というものがそこまで容易く動かせるわけないじゃない」

 

 レミリアは忌々しげに吐き捨てた。

 それが父親に対するものなのか、この受け継いだ能力そのものに対するものなのかは分からない。

 

「命一つで一本の糸。ならば、この世に存在する運命という名の糸は、それこそ無数に存在し、複雑に絡み合っているわ。

 例えば、一つの運命を最後まで見たとして、その途中で幾つもの別の糸が絡み、捻れ、果たして辿っていた糸はこれで正しいものか――」

「未来は変えるどころか、見通すことすら難しいということね」

「全く以って複雑怪奇。これなら破壊に特化しているとはいえ、壊すことで運命に干渉出来るフランの能力の方がよっぽど『操る』と言えるかもね」

「でも、今回の異変からアナタは何かを読み取ったんでしょう?」

 

 レミリアは迷いなく頷いた。

 

「ええ、先代の運命が見えたわ。今回の異変に何かしらの形で関わっている」

「咲夜に向かわせたけど、ソコに居るのなら関わるというより、もう中心にいるんじゃない?」

「いえ、それは少し違うわ。異変そのものと先代に降りかかった出来事は、また別のものに見えた。とにかく、二つの出来事が並んで起こっているのよ。あそこで」

 

 その眼に映る運命の糸を辿って、レミリアは雲に覆われた空を見上げた。

 幻想郷の『春』を司る成分のようなものが、雲を越えた先へと吸い込まれるように消えていくのが視える。

 そして、糸もまた同じように――。

 

「それが例え死であっても、再びこの世に舞い戻り、歩み始めるというのならば、それもまた運命の一部として続いていく。決して途切れはしない」

 

 レミリアは、未だ途切れることなく続く先代の運命をハッキリと見ていた。

 

 

 

 

 弾幕ごっこは霊夢の勝利で終わった。

 チルノは善戦したと言えるだろう。

 もし、自分があの場にいたら危なかったと思う時が、魔理沙には何度かあった。

 しかし、それすらも霊夢は何の問題にもしていない。

 敵無しだ。今日の霊夢は勘が冴えまくっていると感じた。

 墜落していくチルノを追って、真っ先にレティが駆けつけた。

 

「……やっぱりあんた、その妖精に入れ込んでるんじゃないの?」

「健気だとは思うわ。その辺のところ、アナタは考慮してくれないのかしら?」

「妖怪に人情を求められてもねぇ」

 

 優しく抱き止めたチルノを庇うような姿勢を取るレティに対して、霊夢は興味なさげに頭を掻いた。

 相変わらず異変となると無慈悲なやっちゃなー、とジト目で睨みながら魔理沙が隣に並ぶ。

 決着はついた。

 勝者から敗者への権利が行使される時間だった。

 

「それじゃあ、答えてもらいましょうか。あんたを唆したのは誰?」

 

 霊夢はそれこそ凍るような声で核心に切り込んだ。

 あれだけ先代巫女を慕っていたチルノが、その死に加担するような真似をするとは思えない。

 何者かが、チルノに何かを吹き込んだのだ。

 その『何』を全て知る必要があった。

 

「あたいは、騙されてなんかいない……っ!」

「じゃあ、あんたは望んで先代巫女を殺したっていうの?」

「ふざけんなっ! お師匠を殺したりなんかするもんか! お師匠は死んだりなんかしない、いつか目を覚ますんだ! あの足だって、いつかちゃんと治るんだ!!」

 

 ――やはり、そこか。

 霊夢はもちろん、魔理沙も納得する答えが返ってきた。

 先代の死は、怨恨や利害に関わるものではないと漠然と感じていたが、それはたった今はっきりとした。

 

「つまり、先代巫女はいつかあの状態から目を覚まして、足も治る。そう言いたいのね」

「そうだよ!」

「そんなわけないでしょう。あんたら妖精とは違うのよ。人間が生きていられるのは一度きり。一回休み、リセットしてコンティニューなんか出来ないわ」

「そんなこと……そんなことあるもんか! お師匠は、ずっと一緒に……っ!」

「目を覚ましなさいよ、クソガキ」

 

 湧き上がる怒りを無理矢理押し殺した結果そうなってしまったかのような、重い呟きと共に霊夢が退魔の札を振り上げた。

 咄嗟にレティが手を差し出して制止する。

 

「待って! 落ち着いて、私も知っていることを話すわ」

「……話しなさい」

「今、幻想郷に起こっている春が訪れない異変。これの原因を追いなさい。それが、アナタの疑問への答えになるはずよ」

「ここで答えることは出来ないの?」

「私にも、あの人間に関することで分かっていることは少ないわ。

 ただ、あそこには私達の他にも強力な妖怪がいた。そいつが、あの人間から魂を抜き取って殺したのよ。私は、その後の処理を任されただけ」

「魂を……確かね?」

「そうとしか見えなかったわ。外傷を何も与えず、眠らせるように死に至らしめた。恐ろしい妖怪だったわ」

 

 新たに明かされた事実に対して、魔理沙は息を呑んで、黙りこむ霊夢の横顔を見守った。

 きっと、彼女には自分が見えていないものが見えているはずだ。

 自分には、今の話から改めて先代が殺されたのだとしか理解出来なかった。

 事がそれほどに単純なら、これはただの悲劇で終わる。

 だから、どうか――。

 

「異変の原因を追え、というのは?」

「この異変は冬を何者かが長引かせているのではなく、春に移り変わる為に必要な幻想郷の『成分』を何者かが奪っているのよ。そして、その春が奪われ、消えて行く場所が……」

 

 レティは空の一角を指差した。

 魔理沙にはその先にあるものが単なる空にしか見えない。

 しかし、霊夢は違った。

 僅かに眼を見開き、傍らの魔理沙にも分からない程度の微笑を浮かべる。

 

「魂か……なるほどね」

 

 用は済んだとばかりに、霊夢はもはや脇目もふらず、レティの指差した方向へと飛び出した。

 普段と逆だなこりゃ、とぼやきながら、自発的に行動するはずの魔理沙が流されるように後を追う形になる。

 残されたレティは、ため息を吐いて腕の中のチルノを見下ろした。

 

「よしよし……」

「やめろ! あんたなんか……あんたなんかっ」

「そうね。ごめんなさい」

 

 言葉が形にならないまま、首を振って拒絶するチルノに困ったように笑いかける。

 悔し涙を流して歪んだその顔を隠すように、レティはそっと手で覆った。

 一方、霊夢に追いついた魔理沙は並行しながら再び事態の進行を尋ねる。

 

「どうなんだ? 何が分かった? あいつの指差した先には何があるんだ?」

「一度言ったけど、ついて来なくていいわよ。ここから先は、本当にヤバイわ」

「今思い出したんだけどさ、そもそもわたしが人里に来たのは今回の異変解決の為なんだよ。ほら、これ」

 

 魔理沙は懐から小さなビンを取り出して、ガラス越しにそれを見せた。

 桜の花びらが一枚収まっている。

 しかし、霊夢は一瞥するだけでそれが単なる花びらではないことを見抜いていた。

 

「現世(うつしよ)の物じゃないわね。何処にあった花びらよ?」

「……こいつの正体が分かるまで、わたしは丸一日研究したんだぜ。あっさり見抜きすぎだろ」

「空から降ってきたの?」

「ああ、近くに桜なんてなかったのにな。多分、こいつがレティって奴の言ってた『春』なんじゃないか?」

「きっとね。正しければ、これから行く先に山ほど降ってるわ」

「何処なんだ?」

「冥界」

 

 告げられた言葉に、魔理沙はギョッと眼を見開いた。

 幻想郷には幽霊や亡霊が存在する。

 それらは本来、現世を彷徨い、漂うようなものではなく、行くべき場所や留まるべき場所があるのだ。

 そのうちの一つが冥界であった。

 魔理沙も話には聞いたことがあった。

 死人が居るべき場所だ。生きた人間が行っていい場所ではない。

 薄ら寒いものが背筋を走り、ゴクリと生唾を飲み込むと、それでも意を決して尋ねた。

 

「そこに、おふくろさんの魂もあるってわけか?」

 

 魔理沙は自身の考え出した結論が、単なる楽観ではないことを祈った。

 

「そうよ。外傷を作らずに相手を殺す方法なんて、毒でも呪いでも複数あるわ。

 だけど、その妖怪は魂を奪ったと言っていた。生きた人間から霊魂を抜き取るのって、まともな手段じゃ無理なのよ。そもそも魂の抜けた体を保存する理由も分からないわ」

「チルノはいつか目覚めるって言ってたから……」

「多分、戻せるんでしょうね。奪った魂を、体に」

「よっしゃ、話が単純になってきたぜ! わたし好みだ!」

 

 魔理沙は思わず歓声を上げた。

 これまでどうすればいいのか分からず、ただ霊夢の後をついて行くだけだったが、今まさに道が見えた気分だ。

 しかも、一転して前向きな方向へ指し示された道が。

 

「手強い敵がいそうだけどね」

 

 霊夢は冷静に付け加えた。

 

「足が不自由になったとはいえ、最強の博麗と謳われた巫女を傷一つつけずに無力化出来る妖怪がどれだけいると思う? その妖怪に対して、油断していたと考えるのが普通ね」

 

 先代巫女が油断する――心を許す相手。しかも、強力な妖怪でありながら。

 そんな者は数が限られている。

 霊夢の顔付きは、見出した希望に対して緩むどころか、鋭さを増していた。

 その緊迫感に影響されるように、傍らの魔理沙も新たな不安を抱き始めていた。

 母親の死に直面しても一切心動かされたように見えず、冷徹なまでに行動したからこそ、今ここで希望を見出せた。

 しかし、その希望を見出した先に在ってもなお霊夢の心は動いているように見えない。

 淡々と動き、淡々とこなしていく。

 冥界へと向かう理由は二つあったが、そのどちらが今の霊夢を動かしているのか、魔理沙には分からなかった。

 

 ――なあ、霊夢。お前は今、おふくろさんを助けに行こうとしているんだよな?

 ――それとも、ただ博麗の巫女として異変を解決しに向かっているのか?

 

 魔理沙には、それを尋ねることなど出来なかった。

 やがて雲を抜け、その先には冥界へと通じる強大な結界が見え始めていた。

 この世のものではない桜の花びらが辺り一面に飛び、渦巻いている。

 まるでそこへ集う、多くの思惑まで飲み込むように――。




<元ネタ解説>

特になし。

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