【鬼どもの宴】
「これが最初に貰った一撃。未だに痕が消えない。
油断してたとはいえ、全然見えなかったねぇ。あれは何を喰らったんだろう? とにかく脳天まで響いたな」
「おおっ」
「そして……ほれがきをうひにゃったほきのあひょ。
砕けた歯がまだ生え揃ってない。関節技の一種みたいだったけど、とんでもない威力だった。足がこう、虎の顎みたいに襲い掛かってきてね。右肩も砕かれて、最近ようやく盃持てる程度には回復出来た」
「す、すげー」
「そして、最後がこいつ! 見ろ、この胸の傷を。喰らった時は背中までぶち抜かれてたよ。
いやぁ、あの時は本当に死ぬと思ったね。しかも、こっちの奥義を真正面から迎え撃って、そいつを破ったってんだ。そりゃ負けを認めるしかないだろう?」
「いいなー……いいなぁー!」
旧都。木材に囲まれた建築途中の建物の傍で、鬼が二匹酒盛りをしていた。
服を捲くり上げ、生々しい傷跡を見せ付けながら誇らしげに語るのは星熊勇儀。
それを見て、瞳を輝かせて見入っているのはもう一匹の鬼、伊吹萃香だった。
「あと、もう治っちまったけど体中に痣やら何やら。
とにかくもうボッコボコに殴りまくりやがって、しかもそれが滅茶苦茶効くんだ。どっちが鬼だってんだよ、ホントに」
勇儀は自身が先代巫女と戦った時のことを、事細かに萃香へと語って聞かせていた。
言葉とは裏腹に、その顔は喜色満面である。
負け勝負を語る身でありながら、まるで自慢話をするかのように誇らしげだった。
そして、それを聞く萃香もまた目を輝かせ、ワクワクと胸を弾ませている。
「わたしの留守中にそんな人間が地底に来てたなんて……クソッ、暇つぶしなんて思いつくんじゃなかった!」
「確か、天界まで霧になって昇ってたんだっけか?
地上との取り決めを無視してまで、刺激を求めて行ってみたんだろう。何か面白いことあったかい?」
「全っ然。死ぬほどつまらない場所だったし、天人ってのも死ぬほどつまらない奴らだった」
だからって、引き篭もってたアンタが何でそんな楽しい目に遭ってんのさー! と、萃香はやつ当たり気味に食って掛かる。
地上への期待が肩透かしに終わり、戻って来て見れば何やら楽しげな祭りの後。
理不尽を嘆くのも無理ならぬことだった。
半日ほど前――鬼のねぐらである地底へと戻って来た萃香は、ボロボロの勇儀が同じくボロボロの旧都の修理に勤しんでいるのを見て、好奇心を大いに刺激された。
そもそも強大な妖怪である鬼が重傷を負うという事態が既に大それたことである。
何かがあった。
しかも、特大の何かが。
そう確信した萃香は、勇儀の手伝いをしがてらに地底で起こった鬼と人間の前代未聞の死闘を聞いたのである。
「それにしても……嘘みたいに楽しい話を語りやがって、ちくしょー」
「嘘じゃあないさ」
「鬼なんだからそれくらい分かるよ。だから、余計に悔しいってんでしょうが!
ああっ、わたしもその人間と勝負してみたかった。せめて、どんな奴なのか一目見てみたかったなーもぉー!」
幼い容姿に合った駄々っ子のような癇癪を起こし、それを酒と共に飲み下す。
一方で、勇儀はあの時の勝負を思い出すだけで満たされる至福の気持ちと、萃香の反応を見て感じる優越感と共に、優雅に盃を呷った。
「体ん中、まだズタズタのクセにまた旨そうに飲みやがって……」
「いやぁ、旨い旨い。この焼けるような痛みもまた、あの勝負の余熱みたいなもんだ。幾らでも名残りを楽しめる。酒の肴には最高ってもんさね」
「こっちは自棄酒だい!」
萃香はすっかり拗ねた様子だったが、それでも好奇心は消せないのか、勇儀に話の続きをせびった。
「――それで、その人間ってのはどんな奴だった?」
「女。若く見えるが、娘がいるらしい。そっちは地上で巫女をやっていて、本人は先代って話だ。
鬼のように強いくせに、綺麗な顔をしている。だが、顔付きに甘さはない。武人特有の鋭さがあった。
背丈は女にしてはデカイが、鍛え込まれた身体つきと合っている。長くて艶のある黒髪が美しかった。鍛錬の跡が刻み込まれている、傷だらけの両腕。寡黙。代わりに何よりも雄弁な拳……」
心地よい酩酊も手伝い、勇儀はまるで焦がれるようにその巫女を熱く饒舌に語った。
鬼が人間のことを想って、ここまで感慨深く語ることなど久しく無かった。
昔は仲間の鬼が手強い人間に挑まれた時、あるいはそんな人間に討伐された時、喜びと悲しみを分け合うように宴の中で語り尽くしたものだ。
本当に、もう随分と昔の話だった。
だからこそ、勇儀がその戦いの中で感じた多くのものを少しでも共感してみたいと。萃香も目を瞑って自分の中に先代巫女の姿を思い描いた。
「いいなあ」
萃香はしんみりと呟いた。
「そういう奴、最高……」
「あれは、良い女だぞ。攫っちまいたかったよ」
「で、手酷くふられた結果がこれなわけだ」
「本当になぁ……差し出した首も突っ返されちまったし。だってのに、こうして生き長らえる理由まで持たせられちまったんだから。手強い相手だよ」
「勇儀にそこまで言わせるたぁね。
やっぱり、一回直に会ってみたい。んで、実際に人間の身でどれだけやれるもんなのか腕試ししてみたいな」
「お前は鬼の『格』にこだわってるところがあるからな。話だけじゃあ、納得はいかないかい?」
「いや、だからこそさ。
鬼は強い。他の妖怪や人間とは格が違う。鬼にとっての勝負ってのは、相手に勝ちを譲れるか譲れないかってことだと思ってる。
だからこそ、俄然興味が惹かれるじゃないか。そんな鬼を同等の位置まで引き摺り下ろして、本当の真剣勝負に持ち込んだ上に勝ってみせた人間に!」
先程までの純粋な憧れと喜びに緩んだ顔つきから一変して、萃香は獰猛に笑った。
話は話。実際に自身が体験するものとはまた違う。
伊吹萃香が先代巫女と出会った時の対応が、この酒盛りでの語らいとは全く違った苛烈で凄惨なものとなることは明白だった。
それが鬼の性分なのである。
勇儀には萃香の意気込みがよく分かった。
同じ鬼なのだから、自分も立場が逆ならきっと同じように思っただろう。
「と、いうわけで。わたし、ちょっと地上へ行ってくる」
「はっはっはっ、駄目だ」
サッと手を挙げて別れの挨拶をする萃香の頭を勇儀が鷲掴みにした。
「は、離せこんにゃろー! そんな話聞かされて我慢出来るか、わたしもそいつと勝負するんだい!」
「これ以上地上との取り決めを疎かにしちまったら、地底の沽券に関わるだろうが。しばらく自粛しな」
「天界に行ったことならバレてないって!」
「地上では新しい決闘のルールが敷かれたらしい。この地底でも適応され始めている。せめて、そいつを覚えるまではお前を外に出すわけにはいかないね」
「ええっ!? それじゃあ、何処でやってもその人間と真剣勝負が出来ないじゃあないか!」
「どうしてもやりたいってんなら、あいつと親しくなって個人的に交渉するところまで持って行くんだねぇ。
とにかく、ルールも知らないお前を地上にやったら無駄な混乱を起こしちまう。それじゃあ、あの巫女に私の面目が立たないってもんだ。だから駄目」
その説明に、萃香はぐっと口を引き結んで文句を堪えた。
そういった義理は人間相手に通し、鬼として重んじる流儀として捉えられている。
敗北した身である勇儀の潔さに泥を塗る行為など、同じ鬼である萃香には出来ないのだった。
「……分かった。その新しいルールって奴をまず覚えるよ。
親しくなれったって、鬼が人間と分かり合うのに戦い以外あるかってんだ。まずは一発喧嘩してみなきゃあ始まらない。
ルールの上での決闘を申し込んで、そいつとの理解と交流を深めた後で、改めて真剣勝負を頼み込む。これでいいだろう? さあ、さっさと教えてくれ。時間が勿体無い」
「ああ、あとな。あいつ、私と戦ったから重傷だぞ。人間なんだから完治にはまだ時間が掛かるだろうよ」
「て、てめっ……分かってて、わたしに話したな!? 自分だけ最高の条件で喧嘩して、挙句それを自慢するだけってどんだけ調子に乗ってんだ!!」
「ぎゃはははっ! いやあ、もう誰かに自慢したくって自慢したくって……本当にいいタイミングで戻って来てくれたよ、お前さん!」
「お前、酔うと性格悪くなるの直せよ! だから、わたし以外の飲み友達がいないんだっ!」
「私だってこれまで自重してたんだよ? ただ、今回ばっかりは本当に浮かれちまってねぇ。あーあ、楽しかったなぁあの喧嘩は」
「ぐぐぐ……っ! せ、せめてその人間の名前を教えてよ!」
「ああ、名乗りは決闘の華だものなぁ……」
「そう。それくらい、いいだろう?」
「はは、断る」
「死ねコラァ!」
見た目の体格的には倍以上も差がある勇儀を萃香の怒りの鉄拳が吹き飛ばした。
建設途中だった建物が巻き込まれて再び倒壊する。
「勿体ないから教えてやれないねぇ。私だって死ぬ思いして聞き出せたんだ、お前もそうするこったな!」
周囲から旧都の住人達の悲鳴が上がる中、勇儀は血を吐きながら尚も笑って応じた。
「わたしだってきっちり喧嘩して自分で聞き出したいよ! それを邪魔してんのはお前でしょーが!」
「おうっ! あいつへの大事な義理立てだ。傷ついたあいつとその娘の居る地上へ騒動の種を出すわけにはいかん」
「一人で心底満足しやがって、ずるいんだよこのヤロー! だったら、お前ぶっ飛ばしてから地上へ出るっ!!」
「よっしゃ、来い! 今の私は絶好調だ、やれるもんならやってみろ!」
「やらいでか!」
盛大な音と衝撃が旧都の中心から響き渡り、地底を揺るがした。
鬼の四天王同士の激突が始まる。
喧嘩は旧都の華。それに偽りなく、この日一際大きな華が地底に咲いた。
その後の被害の甚大さと事後処理の大変さに、さとりが卒倒しそうになるのは、少し後の話――。
◆
【博麗神社の人妖模様】
魔理沙が博麗神社に辿り着くと、勝手知ったる玄関には所狭しと靴が並べてあった。
奥の方から騒がしい声も聞こえる。
こりゃあ大所帯だな、と苦笑しながら一声掛けて中へ入った。
「おーお、こいつはまさに人外魔境だぜ」
寝室の襖を開けると、大して広くもない空間に人間と妖怪がひしめている。
呆れ顔の霊夢と部屋の隅に正座して待機している咲夜。
美鈴は門番の仕事を放り出してまでやって来たらしい。
まだ日も昇っている時間だというのに、スカーレット姉妹が慣れない畳の上に座っていた。
そして、それらの喧騒の中心にいるのは、布団の中で上半身を起こした先代巫女だった。
「これ、皆お見舞いか?」
「暇つぶしなんじゃないの?」
霊夢が投げやりに答えた。
むっとした表情でフランドールが食って掛かる。
「違うもん、お見舞いだもん!
小母様が大怪我をしたって聞いて、急いで来たんだから!」
「吸血鬼が巫女の見舞いに来るってどうなのよ?」
「先代には借りがあるからね。
そうでなくても、うちには怪我の件を知って大騒ぎしたのが二人もいるわ」
「あはは……いや、あの八雲紫が伝えに来るなんてよほどのことかと思いまして」
レミリアの皮肉に美鈴は苦笑いを浮かべた。
先代巫女が重傷を負ったことは人里にも広く伝えられているが、事の詳細まで知る者はほとんどいない。
また、知る者も断片的な情報のみしか持っていなかった。
先代に与えられた八雲紫からの頼み事や、封じられた地底のことを大々的に広めない為である。
つまり、紅魔館の当主とその妹を中心とした彼女達は、大した事情も知らぬまま先代の下へ駆けつけたのであった。
「人望って言えばいいのかねぇ……」
怪我人の先代を気遣いながらも傍にくっついて離れようとしないフランドールに、その様子を微笑ましげに見守る姉。更にそれを見守る従者達、と。
場所的な意味以外にも入り込む隙間の無さそうな状況を眺めて、魔理沙は頬を掻いた。
右手に下げた袋が所在無さげに揺れている。
「魔理沙も見舞いに来てくれたのか?」
何処か嬉しそうにも見える微笑を浮かべる先代に、魔理沙は頷いた。
普段の巫女装束ではなく、白い寝巻きとその下に巻かれた包帯のせいで随分と違った印象だ。
「ああ、わたしは霊夢から聞いたんだが……こいつ酷いんだぜ? 買出しの片手間におふくろさんが怪我したって、さらっと言ってくれちゃってさ」
「別に言い広めるような内容じゃないでしょ」
「もうちょっと詳しく話せっての。思ったよりも酷そうな怪我じゃないか」
「大分落ち着いたよ」
「絶対安静だけどね。ねっ、母さん?」
「はいはい」
釘を刺すようにジロリと睨む霊夢に対して、先代は肩を竦めて頷いた。
微笑ましい光景に見えるが、その裏には念を押さねばならないほど重い怪我であったという事実が存在する。
霊夢の対応は、そのまま心配に繋がっているのだ。
枕元にあった、濡れた手拭いと水の入った桶を手に取ると、霊夢は魔理沙を伴って台所へと向かった。
「熱があったのか?」
「寝てる間は熱と汗が酷くて、うなされてたわ。今は、確かに大分落ち着いてるのよ」
「まだまだ油断ならないってことか」
「この程度で死ぬような人じゃないけどね」
霊夢は素っ気無く応じたが、魔理沙はその背中を眺めながら暖かな笑みが浮かぶのを止められなかった。
そうして落ち着くまで、彼女は母親を案じてずっと看護を続けていたのだろう。
人里で買出しの時に会ったと言ったが、あの時手早く会話を切り上げられてしまった理由も今はっきりと分かった。
博麗霊夢という少女には、こんな健気な部分が隠されていたのだ。
魔理沙は密かに感動を抱かずにはいられなかった。
「レミリア達はケーキを持ってきたんだけど、あんたはどんなお見舞い品を持ってきてくれたの?」
「果物を適当に。あまり重いもん食えない状態かと思ってさ」
「そうね。ありがたいわ」
二人で台所に並ぶと、息の合った調子で作業を分担しながら、持って来たリンゴやみかんの皮を剥いて皿に盛り付けていく。
「おふくろさんのこと、やっぱり冬の間はここで世話するのか?」
「診療所では一人暮らしだしね。近所の手助けにも限界はあるし、ましてや雪が降ったりするとね」
「怪我人なだけに危ないってか。あの人にそんな心配要らないってイメージあるんだけどな」
「母さんだって人間だもの。治療は済んでたとはいえ、あのスキマ妖怪がここへ運び込んだのを見た時はさすがに焦ったわ」
「……悪い。不謹慎だった」
「別にいいわよ」
魔理沙の謝罪に、霊夢は普段通りと変わらず素っ気無く返した。
こいつのこういうところが、親友をやっている上でありがたい部分だな、と魔理沙は思った。
時として冷たく、薄情にも感じてしまう淡白な反応が妙に頼もしくも感じるのだ。
霊夢に任せておけば、あの人のことは大丈夫だろう。
「それに、母さんが重傷を負ったって知られると、人里だと色々危ないのよ」
急に上がった不穏な話題に、魔理沙は眉を顰めた。
「危ないって……何だ? おふくろさんの命を狙ってる奴らでもいるのか?」
「いるのよね、それが。現役時代に色々恨みを買ったらしくて」
「人里まで襲ってくる妖怪なんているのかよ?」
「妖怪もそうだけど、人間もいるのよ。母さんに昔叩きのめされた奴ら。当然、悪党ばっかりだけど」
「おいおい……人里の守護者を私怨で襲うってか。世も末、馬鹿の極みだぜ、そいつら」
「昔は妖怪の被害も多くて、しかも内容が直接的で、人里も何かと不穏でゴタゴタしてたらしいわ。それらの問題を片っ端から解決していったのが母さん。当然、慕われると同時に恨まれもするってわけ」
「妖怪退治の次は世直しかよ。すごいぜ、おふくろさん。どう思うよ? 現役の博麗の巫女様」
「あたし向きの仕事じゃないわ」
「ああ、まあな。被害者も被疑者も両方シバいて終わりだもんな」
「まあね」
「いや、そこは否定しろよ」
軽口を交わしながらも、手早く準備を完了させた。
お互いが持つ皿の中身を、示し合わせたわけでもないのに同時につまみ食いして、何食わぬ顔で部屋へと運ぶ。
「紅魔館にはスキマ妖怪が母さんのことを知らせたらしいけど、案外アイツもそういう状況を案じていたのかもしれないわね」
「大物の吸血鬼が居座ってれば、ビビッてちょっかい掛ける人間なんていないってか」
「少し冷静になれば、何かと強力な妖怪に因縁がある先代巫女に手を出そうなんて考える馬鹿は人間にも妖怪にもいないでしょ」
「そういえば、おふくろさんって人気あるよな。主に強い妖怪に」
「昨日はどういう経緯で知り合ったのか、湖に住んでる氷精が見舞いに来たわ。チルノっていう名前の」
「それって、お前が異変の時に倒したやたらと強い妖精じゃないか?」
「いや、覚えてないけど」
「覚えとけよ……」
「まあ、とにかく手ぶらだったそいつには氷を作らせてからとっとと帰らせて」
「帰らすなよ……一応、見舞いだろ」
「あと、風見幽香とかいう妖怪から預かったってお見舞いの品を置いていったわ」
「おおっ、そいつなら知ってるぜ。太陽の畑にいるっていう大妖怪だ。うわぁ……あんな奴とも知り合ってたのかよ、おふくろさん」
「花のない草が生えた鉢植えだったわ」
「嫌がらせかよ……怪我悪化するぞ」
「でも、引っこ抜いたら根の部分が薬になる薬草だったわ」
「なんだよもー分かりづらいよ! どんだけ捻くれてるんだよ、そいつ。むしろ、どんな関係なんだよ」
魔理沙は投げやりに呟いた。
好奇心と同時に脱力感も伴うような話だ。
とにかく、たった一人の人間の怪我がここまで周囲に影響を及ぼすものなのかと感心してしまうことだけは確かだった。
そこまで会話して、魔理沙はふと気付いた。
「大妖怪っていえば、八雲紫は見舞いに来てないのか? なんか付き合いが深そうだったけど」
「んー、母さんを運び込んだ時はすぐに追い出したし、その後は何も音沙汰がないわね」
「追い出したって……紅魔館で顔合わせた時も思ったけど、お前あいつ嫌いなのか?」
その質問に、霊夢は珍しく露骨な嫌悪を顔に表した。
「あんな胡散臭い奴、好きになれるわけないでしょうが」
「まあ、不気味ではあったけど、おふくろさんとは親しそうだったぜ。それから、一緒に霊夢を教育してたって……」
「魔理沙。虫唾が走るからそれ以上言わないで頂戴」
突然、霊夢から本気の怒気を感じ取り、魔理沙は続く言葉と共に息を呑んだ。
どうやら地雷を踏んだらしい。
単なる相性の違い以上の溝を、霊夢はあの八雲紫に対して作っているらしかった。
「勘なんだけどね、ハッキリと分かるのよ」
虚空を睨みつける霊夢の視線の先には、おそらく八雲紫が映っているのだろう。
「あの妖怪とは考えが合いそうにないわ。特に、母さんに関わることに対してはね」
霊夢は吐き捨てるように断言した。
◆
【森近霖之助の追想】
人妖と共に喧騒が去り、夜も更けた頃に遅れて博麗神社を訪れたのは一人の男だった。
見知った顔であることを確認すると、霊夢が意外そうな表情で迎え入れる。
「……霖之助さんって、あの店から外に出られたのね」
「僕があの店の中でしか生きられない生態だとでも思っていたのかい?」
「とんでもない出不精だとは思ってたわ」
もっともな指摘に、霖之助は黙り込むことしか出来なかった。
歓迎など期待していないし、霊夢の性格はよく知っている。
慣れ親しんだ仕草で霖之助は肩を竦めた。
「お見舞いに遅れたのは謝るよ。騒がしい時には来たくなくってね」
「来てくれただけでも、相手が霖之助さんならどれだけありがたいことなのかよく分かるわ」
「……そこまで僕は薄情に思えるかい?」
「淡白には見える。さ、上がって。きっと、母さんも待ってたわ」
「どうかな? 彼女も僕に負けず劣らず淡白な女性(ひと)さ」
霖之助は先代巫女とは古い付き合いだった。
かつての彼女と現在の彼女の両方を知るからこそ、霊夢にそう答える。
彼女がまだ現役の博麗の巫女だった頃、霖之助は友人というより相棒といった立場にいた。
今の霊夢が着ている物もそうだが、博麗の巫女装束を作ったのは霖之助であり、当時の妖怪退治で負傷と衣服の破損が絶えない先代を世話していたこともあった。
今日もまた、ボロボロになった巫女装束の代わりを持参している。
決して浅い付き合いではなかったが、彼女が巫女を引退してからは、会う理由が無いというだけで長い間顔を合わせていない。
薄情、淡白というのなら、それは両者の性分のせいなのだろう。
もちろん、相手のことをどうでもいいと思っているわけではなく、昔から続く奇妙な信頼関係のせいだった。
便りが無いのが良い便り、を素で信じているのである。
やはり二人の性分なのだった。
「やあ、お見舞いに来たよ」
「……霖か。よく来たな」
「その名で呼ばれるのも久しぶりだ。相変わらずだね」
部屋に通された霖之助は、先代の意外そうな顔と懐かしい呼び名に思わず苦笑した。
気安い呼ばれ方だが、それを許す程度に親しみを感じている。
二人の間に積み重ねられたものを知らない霊夢は少々憮然としていた。
「そう言えばあたし、二人が会って話してるの見たことないわ」
「そうだったかい?」
霖之助は手荷物を置いて、自身も先代の傍らに座り込んだ。
二人の並んだ光景が酷く馴染んで見える。
「君は霊夢に昔の事を語って聞かせたりはしないのかな」
「博麗の巫女だった頃に世話になったことは話したさ。だから、あの子にもお前を頼るように言った」
「霊夢がウチに来るようになった切欠はそれか……」
「世話になっているようだな?」
「君、霊夢の所業を分かってて言ってないかい?」
「いい子だろう」
「君の娘だよ。間違いなく」
二人の会話を聞き、霊夢はなんだかむず痒いような、違和感と自然さを同時に感じているような形容し難い気分になっていた。
程度の差はあれど、自分が敬意を払う相手という点で二人は共通している。
そんな二人が自分のことについて話し、子供扱いしているというのは、話題の当人としては複雑な心境だ。
加えて、母が男と親しげに話しているという状況がなんとも落ち着かない気持ちにさせていた。
そんな関係に至るまでの経緯が霊夢には想像すら出来ないことも、それに拍車を掛けている。
そもそも『霖』などと他人をあだ名で呼ぶところなど初めて聞いた。
一体、母は何を思って彼をそう呼ぶに至り、そこにどんな思いを込めているのだろう。
考えれば考えるほど持て余してしまう。
二人と一緒の空間にいると、妙に居心地が悪かった。
普段は超然とした霊夢だが、それは父親を知らない少女だからこその苦悩だった。
「霊夢、少し席を外してくれないか?」
そんな霊夢の心を見抜いたかのように、先代が告げる。
霖之助が荷物の中から診療器具を取り出していた。
「……霖之助さんって、医者だったの?」
「いいや、単なる道具屋の店主さ。
ただ、うちで扱っている結界の外から来る品の中には医療に関する物もあってね。古い医学書を読むうちに自然とそういう知識が身についたんだ」
「私が現役の頃は、その知識を元に治療を受けていた」
不意打ちで衝撃の真実が明らかになり、霊夢は目を丸くした。
当時の妖怪退治では死にそうな目に遭ったことも多かったと聞いている。
そうして傷ついた母を救っていた命の恩人が、実は霖之助だったのだ。
世話になっていたとは聞いていたが、そこまで深く関わっていたのかと、感謝よりも驚愕が勝った。
「しかし、何で君は素直に本職の世話にならないのかね。知識だけの素人みたいなものだよ、僕は」
「だが、もう慣れたものだろう」
「おかげさまでね」
唖然とする霊夢を尻目に、霖之助の前で先代はごく自然に寝巻きを脱いだ。
「ちょ……っ、母さん!?」
「ん? ああ、別に見ていて面白いものでもないぞ」
「体を冷やすだろうから、暖かいお茶でも用意しておいてくれるかい? 出来れば僕の分もあるとありがたいね」
今、この場で動揺しているのは霊夢だけだった。
霖之助は先代の素肌を見ても何ら変わった様子はないし、先代はこの状況を自然なものとして受け入れている。
完全に自分だけ蚊帳の外にいるんだな、と霊夢は実感した。
疲れたようなため息が漏れる。
「……霖之助さん。母さんに妙な真似したら、タダじゃおかないからね」
「そういう色気のある関係になる可能性があったなら、とっくの昔になっているよ」
淡白に応じる霖之助に対して、むしろ霊夢自身の方が自分の言葉に恥ずかしさを感じて頬を赤くしてしまった。
二人の視線から逃げるように部屋を出る。
残された霖之助と先代は、やはりなんら変わらぬ様子で淡々と診る者と診られる者として事務的な応答のみを交わした。
古傷に混じる、新しい傷とその治療の痕を診察していく。
「怪我をした理由は、やっぱり戦闘かい? 君にここまで深手を負わせる相手が、まだいたとはね」
「鬼だ」
「鬼? 御伽噺の中でしか出てこないはずだが」
「ああ。実在した」
先代はあっさりと真実を話した。
二人にはそういうことが許されるだけの付き合いがあった。
霖之助は責めるというより呆れた口調で言った。
「無茶をする。そういうところも、昔と変わっていないな」
「止むを得ない事情があった」
「ああ、だから変わっていないと言ったんだ。現役を退いた身で、よくよく問題に巻き込まれる」
「……昔から、そうだったか?」
「自覚ないのかい?」
「……」
「君は、何かと騒動の中心にいるような気がするよ」
こんなやりとりを、昔もやったような気がする。
霖之助は懐かしさと同時に哀愁も感じていた。
人間が昔を懐かしむのは、老いた時だけだ。
霖之助は人間と妖怪のハーフであり、桁違いに長い寿命を持っている。常に若く、常に年老いた身なのだ。
先代巫女にとって、自分が現役だった頃の記憶は既に遠い過去のものとして頭の片隅に置かれているのだろう。
霊夢という娘を得て、戦いから退いた身となって新たな生活を得ている。
変わらないのは、そんな変化し続ける世界を見る霖之助の方だった。
「――診察終了だ」
しばしの沈黙の後、霖之助は道具を片付けながら厳かに告げた。
その通り、声には隠し切れない厳しさがあった。
「傷はどうだった?」
「酷いものさ。完治は丁度冬が過ぎたあたりになるだろう。まあ、君の場合回復の度合いを一般的な範疇では測れないがね」
「足は?」
先代の具体的な質問に、霖之助は一瞬息を呑んだ。
「……やはり、察していたかい?」
「自分の体だ。よく分かってるさ」
それで、お前の見立ては? と、先代は霖之助の内心の動揺を無視するように尋ねた。
これではどっちがショックを受けているのか分からないな、と少し呆れながらも、決意を固めてハッキリと告げる。
「もう、動かすことは出来ないだろう」
静寂に包まれた部屋の中で、その宣告が染み渡るように響いた。
「腰までなら大丈夫だが、膝や足首が全く動かせていない。多分、傷が治っても動かないと思う。
杖などの補助を得てバランスを取り、腰や股関節の動く箇所を上手く使えば、歩く程度なら出来る。
だが、自力で足が動かせない以上立ち上がることさえ難しいし、激しい運動や戦うなんてことは不可能だ。
治療は、少なくとも僕にはお手上げだよ。それこそ、神掛かった腕の名医にでもかからない限り、望みは無いね」
霖之助は淀みなく説明した。
躊躇いや同情は挟まなかった。
そういった感慨とは無縁の性分でもあったが、それ以上に付き合いの長い目の前の人物に下手な気遣いなど無用であることを十分に理解していた。
今、まさにそれが証明されている。
自身に降りかかった悲劇的な真実に対して、先代は『そうか』と一つ頷くだけで全ての感想を済ませていた。
「……治す見込みでもあるのかい?」
「ん? いや、特にないが」
「君は精神的に強いのか鈍いのか、どっちなんだろうね」
「何だ、急に失礼な奴だな」
先代は憮然とした表情で霖之助を軽く睨んでいた。
その様子や仕草に普段と何ら変わったところなど見られない。
もはやほぼ確定した自分の両足の不能を受け入れ、しかし動揺など欠片も感じていないように見えるのだ。
霖之助がそんな先代に対して思うことは、言葉にした通りのものだった。
女性が脆い存在だとは思わないが、心身共に性別はもちろん人間という枠組みを超越した屈強さを備えている気がする。
彼女の持つ不屈さは一体何処から来ているのだろうか?
それは昔から霖之助が疑問に思い、呆れ、感嘆し続けている事柄だった。
いずれにせよ、彼女が自分の想像など及びもしない程強い人間であることに違いはない。
こんな時に、少しでも弱みを見せる儚さを持った女性だったなら、男である自分の抱く感情も変わっていたのだろうか、と他愛もない想像が浮かんだ。
それこそ、霊夢に言ったように二人の関係が変わる切欠となっただろう。
しかし、そうはならなかった。
先代は、本当に呆れるほど昔のままだった。
妙な安心感を抱いた霖之助は、その想いを自覚して一人苦笑を浮かべた。
「……本当に何なんだ?」
「いや、すまない。本当に、なんというか昔のまま……男らしい有様だと思ってね」
嫌味ではないが意地の悪い言い方に、先代はにっこりと笑って返した。
「褒め言葉だ」
霖之助は珍しく声を上げて笑った。
本当に、相も変らぬ男らしさだと思った。
◇
【今日の先代】
風邪をひいた時とか、むしろワクワクすることない?
お母さんとかに手厚く看病されちゃったり、学校休んじゃったり。挙句、普段食べないような物食べられちゃったりして。
自分が病人だからってチヤホヤされるのがたまらんわけですよ。
ねー? あるある!
……いや、修行で死に掛けた時とか別に誰も看護してくれないし、自業自得だから当たり前だって話だからね。そんな経験全然ありませんけど、私。
手当てを受けたことは何度もあるが、その後は大抵自力で治しちゃうしね。若さの力だった。
はい、生前の記憶からそんなことがあるらしいって語ってみただけです……。
……が、しかし!
今の私は違う。
リアルタイムでそんな体験をしているのだ。
地底から運び出され、これでもう何度目かになる紫の住処で緊急治療を受けた私は、その後博麗神社で世話を受けることになった。
考えてみれば、暦の上ではもう冬の入りだ。
冷え込んだり、雪が降ったりと、健康な時でも何かと苦労の多い冬をこんな重傷の状態で越せるわけがない。
診療所に放置されたら最悪凍死体で見つかるかもしれない危機を察して、紫は霊夢に世話をしてもらうよう言ったのだった。
申し訳なさもあるが、それ以上に私はありがたかった。
どの道、冬になったら診療所も基本閉店状態になるのは毎年のことだしね。
私の治療はツボやマッサージによるものだから、薄着や裸の状態で診察する。文明の利器である暖房器具が充実してない診療所では、冬場はちと辛い。
そんなわけで家に誰も立ち寄ることのないこの期間、私は博麗神社で霊夢の看護を受けながら生活しているのだが……。
――母さん、水飲む?
――母さん、体拭くわね。
――母さん、何か欲しい物ある?
なにこれ。
霊夢、甲斐甲斐しすぎじゃね?
っていうか、私の娘いい子すぎじゃね?
むしろ、天使じゃね?
当初は熱で毎夜ウンウンうなされるような重体だったにも関わらず、目を覚ましている間はそんなことばっかり考えている私である。余裕持ちすぎ。
でも、本当に嬉しいやらありがたいやらで内心ではテンション上がりまくっていたのだ。
普段の霊夢が冷たいだなんて欠片も思ったことはないけれど、まさかここまで健気なところがあったなんてお母さん初めて知りましたよ。
可能な限り自重したが、体を拭いてもらったり、最初のうちはご飯まで食べさせてもらったりと、仕方ないとはいえ随分と甘えてしまった。
でも、実際にすごく嬉しい。
しかも、お見舞いまでたくさん来てくれた。
なんというか、外は寒いのに本当に暖かい感じがする。
加えて、夜には意外な人物まで来てくれた。
「やあ、お見舞いに来たよ」
霖ちゃんじゃなぁーい。
ちなみにこの『霖ちゃん』という発音は『勘弁してよ、工藤ちゃぁーん』みたいな、おっさんがおっさんを気安く呼ぶような感じで。
まあ、要はこの森近霖之助とは昔私が現役だった頃に仕事の相棒として色々手助けしてくれた間柄なのだ。
出会いは結構古く、霖之助が大手道具屋の霧雨店に勤めて修行中の身だった頃にはもう顔を合わせている。
そのまま付き合いは長く続き、お互い妙に気安い関係となった。
仮にも性別的に男と女でありながら、ちょっと淡白すぎじゃないかと思ったり、周りに思われたりもしているが、私達の距離感は特に変わることもなく今日まで続いている。
やっぱりこれも前世が影響しているんだろうか。まるで同性の友達のような感覚になるんだよね。
もしくは『コンビ』という呼び方でもしっくりくる。
昔は人里も今ほど治安が良くなかったから、お節介で色々と事件に首を突っ込んだもんだ。
妖怪退治ほど単純な問題ではないので、基本脳筋な私に代わって頭脳労働をやってくれたのが霖之助だった。
映画のデコボココンビみたいなノリだったなーあの時は。もちろん、私が面白黒人役で。
その他にも、修行や妖怪退治で大怪我した時なんかは、よく治療をしてもらった。
もちろん人里などにも医者はおり、彼らが怪しげな祈祷師などではなく、れっきとした技術を持った専門家であることは理解していたが、個人的に任せられるだけの安心感が違うのだ。
霖之助が持つ技術や知識は現代のそれであり、前世の影響を受ける私にはどうしてもそっちの方が頼れるものと感じ取れてしまうのである。
この辺、神や仏よりも科学を信仰する現代人の感性なんだなぁと実感する。
現役を引退してからはそんな世話にも随分となっていなかったが、今回大怪我をして、見舞いがてらに自然と診療してもらう流れとなった。
それで、まあ大体予想はついてたけど――。
「もう、動かすことは出来ないだろう」
案の定、私の両足はもう駄目らしい。
熱がひき、意識もはっきりしてくれば、自分の体の状態くらい把握出来る。
足が全然動かないのだ。
下半身不随という程ではないが、太ももから下が動かないし、感覚もほとんど無い。
霖之助の言うとおり、これは傷が治っても歩くだけで精一杯になるだろう。
「……治す見込みでもあるのかい?」
「ん? いや、特にないが」
「君は精神的に強いのか鈍いのか、どっちなんだろうね」
急に失礼な奴だなぁ、もう。
正直な話、ショックはもちろんある。
自分の足が動かなくなったのだ。悲しくないわけがない。
ただ、だからといって絶望のあまり両手で顔を覆ってシクシク泣き伏せるほどかというと、そこまででもないのだ。
まず冷静に考えて、私の身体能力が激落ちしたからといって、今のところそこまで困るわけではない。
これが現役の巫女時代だったら、さすがに仕事に支障が出まくるのでかなり深刻な話になるのだが、私はもう元巫女。仕事も里の診療所勤めだしね。
日常生活に多少の不便は出るだろうが、それもやっぱり『多少』で済む話だ。
あと、治す見込みは無いといったが、可能性自体が無いわけではない。
なんせ、ここは非常識のまかり通る幻想郷。素敵パワーが降り注いだり、あるいは自分から発生したりして『すごいね、人体』って具合に治っちゃうかもしれない。
まあ、その辺はちょっと希望的観測すぎると自分でも思うけど。
でもゼロじゃないしね。希望があるだけで全然余裕が違う。
あと、霖之助が言ってくれたけど『名医』ってのにも一応心当たりあるんだよね。
でも、どうかなぁ……今の段階じゃ接点すら無いし、知識でしか知らないから実際にどんな人物なのか把握出来ていない。
小さな可能性の一つとして、頭の片隅に置いておこう。
そして、これが何よりの理由なのだが――私は、こんな逆境でも挫けない人達をたくさん知っている。
だからこそ、私自身もそれを倣って自分を奮い立たせることが出来るのだ。
そう、漫画の中のキャラ達は、足が動かなくどころか、下半身不随になったり盲目になったり腕がぶっちぎれちゃったりしても、不屈の心で立ち上がってきた。
私もそれを見習って、強く在らねばならないと思うのだ。
――でも、それって架空の話だよね? と、冷静になれば当然の疑問も湧く。
しかし、今の私は違う。
地底でさとりとこの世界について話した私は、知識では創作物だと認識していた東方の世界が確固たる現実として存在することを改めて実感した。
だからこそ思うのだ。
他の漫画やアニメの世界が、何処かで現実として存在する可能性だって否定出来ない、と。
物語の中の凄惨な状況や圧倒的不利な窮地を乗り越えた。そして、それを見て私の憧れた者達が、確かに存在して生き抜いている可能性――それを思うだけで、心が燃え上がる。
後ろ向きな考えなんて吹っ飛んで、どんな不利な状況にだって負けられないという気持ちが湧いてくる。
飛行機があれだけ高く飛べるのは、凄まじいばかりの空気の抵抗があるからなのだ! ……って、この名言を言ったキャラも実際に生きてそれを証明してみせていると思うと俄然重みが増してくるね。
そんなわけで、私は強がりでも何でもない、平常通りの態度で霖之助の質問に答えることが出来た。
むしろ逆に燃え上がってるかもしれない。
動かなくなった足を補うのではなく、それをバネにして更に超えてしまうような修行を始めよう。
となると、やっぱり新しい修行は地底でヒントを掴んだ『黄金の回転』に関することかな。
あれを扱う主人公の一人も下半身不随のハンデを背負って、そこから更に成長しているし。
とりあえず、しばらくは単純に怪我の影響で動くことも厳しいので、安静にしながら物を回転させる練習と外の景色とかから『黄金の長方形』を見つけ出す修行から始めるとしよう。
……やべ、新しい修行への挑戦とか久しぶりだからちょっとワクワクしてきた。
重傷なのに前向きすぎだろ、私。
命を賭けた戦いで大怪我をして痛い目に遭おうが、色んな人に心配されて幸せな気分になろうが、結局私という人間の根っこは変わらないのだと実感した。
やれやれ、我ながら全く度し難いね。
でも、それが私だからね。
貫いてみせましょう、最期まで。
――ところで、お見舞いの品々を確認していて、一つ思い出したことがある。
幽香って私との真剣勝負にかなりこだわってたよね。
今回のお見舞い品も『早く怪我治して殺し合おうぜ』みたいな意図がモリモリ含まれてるような気がするんだ。
私の足が動かないって知ったら、どんな反応するんだろう?
うん……超考えたくねー。
きっと怒りまくるよ。問答無用で殺しに来るかもしれない。
実はこの新しい修行の成果が、私の今後の生死に深く関わってくるんじゃないだろうか。
とりあえず足の治療に関しては、どんなに可能性が小さくても全部試すだけ試してみた方がいいのかもしんない。
◆
【生者必滅の理】
「――そう。大事が無くて何よりだわ」
「パチェも来ればよかったのに」
「そこまであの巫女に入れ込んでいるわけではないわ」
「どちらかと言えば、あの魔法使いの方に、かしら?」
「邪推ね」
軽く睨みつけるパチュリーの視線を受けて、レミリアは楽しそうに笑った。
咲夜と小悪魔。互いの従者を傍らに控えさせて、二人は図書館の一角で親友同士の語らいを交わしていた。
「それに、私は行かない方がよかったでしょう。余計なものまでついて来ることになるし」
「あららぁ、それって私のことですかぁ?」
小悪魔が嫌らしい笑顔を浮かべながらわざとらしく惚けた。
「その糞みたいな性格の悪魔、今度は先代を狙っているのかしら?」
「ええ、少し前までは妹様にちょっかいを掛けていたわね」
「でもその先代様に救済されちゃったじゃないですか。お嬢様にも度々ボッコボコにされてますし、もう妹様には何もしませんよぉ」
レミリアの鋭い視線を受けても、小悪魔はヘラヘラと笑っている。
仕方のないことだった。これが悪魔というものの性分であり性質なのだ。
なんとも頭を悩ませる存在だったが、パチュリーの補佐として有能であることに変わりは無い。
実益と実害のバランスを見る限り、この紅魔館に置いていても良いという結論に至るのだった。
あるいは、そこまで計算しているのかもしれない。
いずれにせよ、レミリアにとってこの小悪魔という存在は苦手な相手であった。
「それで、その妹様はもうお休みですか?」
「……昨日はあまり眠れなかったみたいだしね。先代に会って、安心したようだわ」
「妹様ってば、可愛らしくなりましたねぇ。なんというか、ウフフって感じですね。以前とはまた違った意味で魅力的ですよ」
「お嬢様、やはりこいつは滅ぼしておいた方がいいのでは?」
「いいから、まともに相手にするのはやめなさい咲夜」
意味深げな視線をチラチラと送る小悪魔の挑発に乗りそうになる咲夜をレミリアが制する。
最近の小悪魔は絶好調だった。
もちろん、それは周りにとって悪い意味しか持たない。
先代巫女という新たな獲物に執念を燃やす小悪魔は、仕事に置いて更なる有能さを発揮しているが、同時にこうした日常でばら撒く悪意も増している。
久方ぶりの親友との談話だったが、しばらくは従者を伴わずにひっそりとやった方がいいか、と。レミリアは紅魔館の主でありながら、妙に肩身の狭い思いをしていた。
今回も早めに切り上げてしまおうと、レミリアはティーカップの中身を一息で飲み干した。
その時、勢いよく図書館のドアが開かれた。
「……フラン?」
「おねえ……さま……っ」
寝巻き姿のフランドールが、何故か泣きながら佇んでいた。
何かを堪えるように、片腕には先代から貰ったぬいぐるみをきつく握り締め、肩を震わせている。
レミリアは慌てて様子のおかしい妹の下へと駆け寄った。
「どうしたの? 何か怖い夢でも見たのかしら?」
「ちが……違うのっ。眠ろうとしたの……でも、小母様を……思い出して」
「先代を? 今日、お見舞いに行ったでしょう。怪我は酷かったけれど、何も心配することはないわ。冬を越える頃には治るわよ」
動揺しているフランドールに、ゆっくりと言い聞かせるようにレミリアは話しかけた。
何も大げさに慰めようとしているわけではない。
語って聞かせた内容は、全て真実だ。
しかし、フランドールは否定するように首を振った。
「分かってる……でも、分からないの。
あの時は、小母様と会って、すごく安心出来たのに……一人になったら、なんだかすごく悲しくなって……っ。分からない、どうしてなの? お姉さま……!」
フランドールの話は全く要領を得ないものだった。
しかし、レミリアには妹の抱く感情に共感するものがあった。
なんとなくだが、フランドールの抱える悲しみの正体を理解出来たのだ。
その気持ちを、レミリア自身も経験している。
「そう……私には分かるわ。多分、アナタの感じている不安を、私は知っている」
「どうすればいいの? なんだかすごく悲しくて、涙が止まらないの。どうすれば、これを止められるの?」
「それを理屈で止めることは出来ないわ。どうすることも出来ない。
些細な切欠で、急に頭の中を過ぎるの。そして、どうしようもなく悲しくなるのよ。
眠りなさい、フラン。今夜は私が傍にいてあげる。眠って、目が覚めれば、きっと何が悲しかったのかも忘れてしまえるわ」
そう言い聞かせながら、レミリアはフランドールをしっかりと抱き締めた。
自分の中の理解出来ない感情のうねりを覆い隠すように、フランドールも姉に縋りついた。
そんな二人の様子を伺う者の中で、不可解な表情を浮かべているのは咲夜だけだった。
パチュリーはフランドールの動揺を憂いを帯びた瞳で見つめ、小悪魔は相変わらずの笑顔で、しかし何処か微笑ましげなものを見るような視線を向けている。
「咲夜、今夜はフランと眠るわ。寝室の用意はしなくていいわよ」
「あ、はい……」
思わず生返事をしてしまった咲夜を咎めることもなく、レミリアはフランに付き添って図書館を出て行った。
残された咲夜は、やはり分からないといった疑問の表情でパチュリーを見た。
「妹様は、一体どうなされたのでしょう? お嬢様は何か分かっておいでのようでしたが」
「咲夜さんにはきっと分からないことですよ」
「お前には聞いてないわ」
訳知り顔で告げた小悪魔を睨みつける。
パチュリーは二人を制するように軽く手を上げ、咲夜を見つめた。
「小悪魔の言葉もある意味当たっているわ。アナタには理解することは難しいでしょう」
「パチュリー様まで……」
「仕方の無いことなのよ。当人か、レミィに任せておきなさい。
それと、今日は美鈴の所へ行かないようにしなさい。彼女も泣いているかもしれないわ」
「……それは、妹様と同じ理由なのでしょうか?」
「きっとね」
――では、パチュリー様は?
そう尋ねることは、咲夜には出来なかった。
一体、何があんなにも悲しかったのだろう?
咲夜にはフランドールの涙の理由が、どれだけ考えても分からなかった。
今、この場で自分だけが理解出来ない状況を省みて、なんとなくだがそこに種族の違いが関わってくることだけは察することが出来た。
人ならざる者が涙を流す理由など、人には到底理解出来ないものなのかもしれない――。
<元ネタ解説>
「黄金の回転」
コミック「スティール・ボール・ラン」で登場する回転の技術の極意。無限のパワーを得られる。