とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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幻想御手編 兄妹の苦労

幻想御手編 兄妹の苦労

 

 

 

路地裏

 

 

 やっぱり、詩歌さんを怒らせるのは絶対しないようにしよう……

 

 

 もうそれに尽きると御坂美琴。

 ストーカーとか勝手に気を遣ったりしたがそれが無用だと思い知らされる一日であった。もう、そんなのは空が落ちてくることを心配する杞憂レベルだ。

 正直、キレた詩歌の相手をするのは絶対に避けたい。

 ツンツン頭の無能力者への制裁、そして、この大能力者への本気の一撃。

 寮監仕込みの痛みを感じる間もなく落とす首狩りも、あれはあれで優しさだったんだな……、と。

 いや、普段は温厚で、そんなに滅多やたらと怒る人じゃないんだけど、その分、キレたら怖いというか。

 Level5の自分でも一瞬で狩られてしまいそうだ。

 彼女を能力なしで止められるのは肉弾戦で互角な鬼塚陽菜と彼女の師匠である寮監くらいだ。

 

「……詩歌さんってこっちが素なんですか?」

 

 人質から解放された佐天が、決着と同時に安堵と共に言葉を漏らす。

 

「いや……そっちが素というわけじゃないんだけどね。どっちも素って言うか、なんていうか。ああなるのは本気でキレた時だけで……」

 

 ううっ、なんて言いにくいことを……

 確かに詩歌は怒れば、あのように乱暴な口調になる。

 しかし、本来、詩歌は敵にさえも同情できるお人好し。

 彼女の過去に何があったかは知らないが、昔から“不幸”を徹底的に憎んでいたと思う。

 時々、街を彷徨い、自身の夢を諦め絶望している能力者がいれば相談に乗り、導き、その才能を開花させる事で少しずつ“不幸”を失くしてきた。

 それ以外にも困った人がいれば誰であろうと助けてきた。

 そして、それは正義のためではなく己のために動いている。

 神の描いた“不幸(シナリオ)”に自身の甘い理想―――笑って皆が終えられるような幻想を投影したいから。

 あくまで本当に同情のしようもない下種が相手の時だけで、そんなに本気で暴力を振るう人ではない。

 でも、普段の口調は、おばさん、詩菜さんからの影響だとは思うけど……あのキレた時の口調は誰に学んだんだろう?

 昔、彼女が自分の知る中で最も強い者の真似事だとか言っていたような気がするが……

 

「ってことはやっぱり、詩歌さんってあの<狂乱の魔女>!?」

 

 上条詩歌は常盤台中学でお嫁さんにしたい女子生徒第1位で、迷える子羊達を導くと言われている常盤台中学の<微笑みの聖母>と崇められている。

 その<微笑みの聖母>という呼称については彼女の秘密結社のようなファンクラブの子達から発生したものだと言われる。

 

 ……表側では。

 

 しかし、裏側では、高位能力者も拳1つで叩きのめし、

 『常盤台の姫様(エース)』という学園都市の顔とも言える<超電磁砲(レールガン)>を従え、

 『常盤台の暴君(キング)』と言われる制御不能な狂暴な番長<鬼火(ウィルオウィスプ)>の手綱を握り、

 『常盤台の女王(クイーン)』である<心理掌握(メンタルアウト)>でさえも一目置き、

 『常盤台の騎士(ジャック)』と新入生最強の<水蛇(ヒュドラ)>からは師と仰がれる。

 

 にっこり笑って幻想をぶち殺す、知る人ぞ知る秘密兵器こと『常盤台の聖母(ジョーカー)』。

 

 <狂乱の魔女>は、昔ある抗争に参加していたH.Sという鼻にピアスをした<スキルアウト>から発生している。

 どちらも畏怖を集める存在ではあるが、その両方が同一人物であると知るものは少ない。

 

「あの<スキルアウト>を<赤鬼>と共に能力を使わずに素手で収めたと言われるあの都市伝説の<狂乱の魔女>! そうなんですか、御坂さん!!?」

 

「ちょ、佐天さん……落ち着いて」

 

 不味い。

 詩歌は、自身の力を秘匿しようとしている。それと同じく、あまり不名誉な呼び名も隠そうとしている

 あの抗争に関わったのは一度きりだか、大勢の<スキルアウト>を半殺しにさせたのは流石にやり過ぎた、と詩歌も反省しているも、<狂乱の魔女>にはあまり快くは思ってない。

 特に、ツンツン頭の頭の高校生に知られるのだけは絶対に避けたい、と考えている。

 なので、詩歌の前でそんなことを言ったら……

 

(たしかこの前、黒子がその禁句を詩歌さんの前で言っちゃった時、どこかに連れてかれ、部屋に戻ってきたらしばらく目の焦点が合わなくなってしまったんだっけ。しかも何かうわ言をしゃべっていたし)

 

 美琴はあの時の事を思い出す。

 

『絶対に、覗かないでくださいね』

 

 と、にっこりと影のかかった笑顔を浮かべながら詩歌は黒子を連れて誰もいない個室へ。

 あれは少しお話をしていただけだと言ってはいたが、実際に何をしていたのかは知らない。

 後で訊いたら、『ヒントはお野菜です』と教えられただけ。

 『鶴の恩返し』でお爺さんは鶴の警告を破り、部屋の中を覗いたが、美琴には、そこで何が起こっているのか、それを確認する勇気がなかった。

 それは、賢い選択だった。

 部屋から出てきた黒子は明らかに洗脳されていた。

 その日、うわ言のようにぶつぶつと呟くルームメイトと一夜を明かした美琴は、助けてあげられなくて申し訳なくも思いつつ、言いようのない恐怖を感じた。

 ただ分かったのはあれが禁句であるという事だけだった。

 

「佐天さんよく聞いて。詩歌さんの前でそれを言っちゃダ―――」

 

 美琴はあの惨劇の二の舞になるのを阻止するべく急いで声を掛ける。

 しかし、もう手遅れだった。

 ダメよ、と言う前に、美琴たちの後ろには影のある笑みを浮かべた魔女がいた。

 

「あらあら、先ほど何か耳障りな事が聞こえましたが。何か(おかしなことを)言いましたか?」

 

 屈託のない笑顔だ。

 しかし、その笑顔の端から漏れ出る黒いオーラに金縛りにあったみたいに固まってしまう。

 そんな中……

 

「詩歌さん! 詩歌さんってもしかしてあの<狂乱の魔女>なんですか?」

 

 佐天だけはそれに気づかなかった。

 詩歌の前でその禁句を口に出してしまった。

 

「ふふふ。佐天さん、少しこちらにいらっしゃい」

 

 だめ、向こうに言ったらだめ、と美琴は佐天に言いたかったがあまりの恐怖の前に喉が干上がり言葉で止めることができなかった。

 好奇心は猫を殺す。

 美琴はその猫を助けられなかった。

 その後、佐天は目の焦点が合わずに、何かうわ言を呟きながら帰ってきたのを、美琴は後輩一人を救えない自分の無力さに涙を零した。

 

 

セブンスミスト

 

 

「うっ!! 何かいきなり寒気がしましたの」

 

 ゾクッ、と。

 白井黒子はいきなりいやな悪寒を感じた。

 この感じは覚えがある。

 ああ、あれは……

 

『<狂乱の魔女>! お姉様の伴侶の証を奪うべく、あなたに勝負を挑みますの!』

 

『……ほう』

 

 と、まだ若かった自分。

 大人のランジェリーショップで購入した悩ましい装いをアピールしてもスルーされ、シャワールームやベッドで親睦を深めようと手荒く拒絶される。

 そんなときに、『常盤台の電撃姫は、自分より強い相手に惚れる』……なんて、噂を耳にした自分は、お姉様の幼馴染で姉気分の、教官を倒せばお姉様のそばにいる資格が、と―――無知にもほどがある、命知らずな結論に至った。

 常盤台中学に入る以前から知ってる教官の護身術は、<風紀委員>で訓練を受けた自分でも赤子のように簡単に捻られてしまうが、黒子だけのアドバンテージがあった。

 そう、<空間移動(テレポート)>。

 相手に触れただけで地面にうつ伏せに転移でき、汎用性に優れた力を使えば―――その頃は、同じ空間移動系能力者は<空間移動>できないことと、教官の本当の能力を知らず、能力無関係の素手の勝負になると予想できなかった。

 ……それで、青い自分は、教官が本気でかかって来るよう、あえてその禁句を口にして、勝負を吹っ掛けた……………他の子もいた学生寮の大広間で。

 

『辛いと幸せって字が似てるでしょう?』

 

 次に思い浮かんできたのは身も凍えるような冷笑。

 絞め落とされてから連れてこられた暗い部屋。

 お経のように感情の色のない声音。

 

 そして―――

 

 しかし、黒子の危険察知能力がこれ以上思い出すのは危険だと告げている。

 これは暗い思い出の森の奥にある檻に封印すべき記憶なのだと……

 

(何もありませんでしたわ。ええ、何も……)

 

 黒子は<風紀委員>の仕事に戻る。

 何であれまずはこの“不可解な現場”を解明しなければ。

 そのとき向こうから同僚の初春が女の子、硯舎佳茄を連れてやってきた。

 

「白井さーん」

 

「ああ、初春、無事だったようですわね」

 

 初春は今回の連続虚空爆破事件の犯人から予告されたセブンスミストに偶然近くにいた<風紀委員>だ。

 だが幸いにして、彼女はどこも怪我がなく無事だった。

 なぜなら、

 

「御坂さんのおかげです」

 

「トキワダイのおねーちゃんが助けてくれたの」

 

「「ねーーー」」

 

 2人は仲良く息を合わせる。

 そう、爆発が起きた時、黒子が尊敬するお姉様がその場にいたのだ。

 あの正義感の強い彼女なら超電磁砲の破壊力で2人を爆風から守れても不思議ではない。

 

「お姉様が……?」

 

 だが、黒子は首を捻る。

 この“不可解な現場”に。

 もうひとつの時限式爆弾に演算能力の大部分を割いて、こちらのものにはさほどの力は篭められていなかった。が、それでも人を傷つけるには十分な威力。

 実際、外の窓を突き破るほどの被害は出ていないが、この爆破付近にあった一店舗の周囲は荒れ果てている―――のに、“すぐ近くにいた初春達は全く無傷”。

 これは明らかに美琴の超電磁砲によるものではない、と黒子は見ている。

 もしも超電磁砲を放っていれば、二人は助かっただろうが、一店舗どころか、ワンフロアが改修工事しなければならない事態となっていたはず。

 

(……能力をどう使ったらこういう風になりますの?)

 

 白井黒子はただ首を捻る。

 

 

道中

 

 

 門限にはまだ余裕があるが、もう日が沈みかけて、空は夕日色に染まりかけている。

 事を収めた後、御坂美琴は自販機に身体を預けながら、携帯に残された“見知らぬアドレス”から呼びつけたある人物を待ち伏せしている。

 

(あの時、私の超電磁砲は間に合わなかった。……実際に初春さん達を救ったのは―――)

 

 初春たちは、あのときの目を眩む閃光は、美琴のものだと勘違いしているが、それは爆弾によるもので、そして真っ向から盾となり、さらに爆風の勢いに負けず前に突き進んで爆弾を握り潰し、被害を最小限にしたのも別人。

 『お客様のおかげで当店から怪我人も1人も出さずにすみました』と支配人から感謝されたが、そのお礼の言葉は自分が受け取るべきものではない。

 今日の事を振り返った時、ちょうど美琴の前に、

 

(―――コイツだ)

 

 目的の人物――上条当麻がやってきた。

 

「ゲ……待ち伏せ」

 

 美琴を見た瞬間、お目当てのツンツン頭の少年は心底嫌な顔をする。

 うわー、もう勘弁してくださいよー、って顔に書いてある。

 あれだけ喧嘩をふっかければそんな反応を見せられても仕方がない。

 それとも、妹の詩歌でなかったからか。

 今も美琴から視線を外して、キョロキョロと周囲を探り、妹の姿を捜している。

 前者なら少しくらいは謝ってもいいと思うが、後者だというなら、イラッ、と来るかもしれない。

 詩歌のことがなかったら、もしかしたら電撃を浴びせていたかもしれない。

 どちらにせよ、美琴が聞きたいのはそういうのじゃない。

 

「お帰りかしら? お生憎様、詩歌さんはちょっとした用事でここにいないわよ」

 

「そうかよ。言っとくけど、今からお前と相手する気力はねーぞ」

 

 当麻はこの店の支配人に先ほどまでこってりと絞られていた。

 一事件の『被害者』として。

 

「けど、こっちの呼出には応じてくれたってことは話をする気力くらいはあるんでしょ」

 

「……ったく、詩歌は兄の個人情報を……。あい、わかった。悩めるビリビリ女子中学生さん、お前の質問に三つだけ付き合ってやる」

 

 幼馴染に貸したゲコ太携帯が返されると、そこに美琴が打ったものではない送信メールが一件と初めて見るアドレスから受信メールが一件。

 それを見て、何故あの時、この愚兄が『爆弾魔が予告状を送ってきた』ことを知っていたのかという疑問が氷解した。

 そして、自分の携帯があるのに、わざわざ美琴の携帯を使って、それを消さずに履歴に残した理由も簡単に想像がつく。

 また、コイツと話ができるように……お節介な幼馴染の計らいか。

 

「いいの? 何か詩歌さん以外のみんなあの場を救ったのは私だって思ってるみたいだけど……今、名乗り出たらヒーローよ」

 

 本当は皆を守った『ヒーロー』であるはずなのに。

 Level5というネームバリューのせいで美琴が救ったと1人を除いて全員が勘違いしている。

 

『身内が世間に認められるのは嬉しい事だとは思いますが、まあ、当麻さんは名声とかに無関心ですからね。そんなどうでもいい事は気にしない方が良いですよ、美琴さん』

 

 唯一、事を正確に把握していた彼女はそう評し、

 

「? 何言ってんだ。……みんな無事だったんだからそれで何の問題もねーじゃんか。誰が助けたかなんてどうでもいいことだろ」

 

 評した通りに、上条当麻はまるで当たり前のことのように言い放った。

 自分の名誉なんてどうでもいいと。

 Level5ではあるが、美琴もそう言った名声なんて気にしない性質だ。

 しかし、本当にどうでもいいと言える彼に美琴はどことなく格の差というのを思い知らされたような気がし、妙に悔しい。

 

「ねえ……今日のこととは関係ないことだけど、いい?」

 

「ん? なんだよ?」

 

 美琴は一番聞きたかったことを質問した。

 

「アンタって幼い頃に詩歌さんを助けたことがあるの?」

 

「ああ、あれか……」

 

 当麻はそこで、何かを思い出すように店の外に見える夕日を細めで遠くに見つめる。

 あの時も、こんな夕日だったな、と。

 幼い頃の兄妹の深い思い出で、学園都市に行くきっかけとなったあの日。

 

「そうだな。……俺に巻き込まれたせいでもあったけど、詩歌は大切な妹だしな、助けるのは当然だろ」

 

 無傷で守ったのは良いが、結局は泣かせてしまった。

 ナイフに刺され、血塗れで地面に倒れる『疫病神』を抱きしめながら泣き続ける妹。

 怪我の痛みなんてとうの昔に忘れてしまったが、あの時の彼女の泣き顔だけは忘れてはいない。

 あれは間違いなく“苦い記憶”に分類されるものだ。

 もうあんな“苦い”モノを見たくないから、当麻は強くなろうとしたのだと思う。

 

「怖くなかったの? ……アンタそのときまだ子供だったんでしょ。それに今日のことだってあの爆弾が怖くなかったの?」

 

 過去を思い返す当麻に美琴は神妙な顔をしてもう一度問う。

 

「ああ、確かに怖かったな。けど『本当にそうしたいと思うなら、怖くても踏み出すべきだ』しな。……だから今回も俺はみんなを守りたかったから、たとえどんなに危険があったとしても助けようとしただけだ」

 

 自分がやりたいようにやる<偽善使い>。

 上条当麻はそれを貫くために力を付け、強くなった。

 勝ち負けのためではなく、

 目先の過程にしか過ぎない結果のためではなく、

 ただ己が大切だと思った本質を見失わないために。

 

(やっぱり、コイツが詩歌さんが言っていた……)

 

 美琴がぼぉーっと後ろ姿を誰よりも尊敬する姉と重ね合わせている間に、

 

「これで最後の質問は終わりだな。よし。それじゃ、じゃーな」

 

 当麻は帰って行った。

 振り向かず、ただ自分の進む道を真っ直ぐに。

 

 

 

「誰が助けたかなんてどうでもいい……」

 

 ぼそり、と。

 愚兄を見送る、美琴の口から言葉が漏れる。

 そして、ふつふつと湧き上がるこの激情が―――

 

「って、スカシてんじゃねぇー!! 思いっきりカッコ付けてんじゃないのよ!! だぁームカつく!! 私に貸しを作ったんだからちょっとはエラソーにしろ!!」

 

 噴火。

 大噴火。

 

「ちぇいさー!」

 

 胸の内からマグマのように溢れだす、この思いを自販機にぶつける。

 自慢ではないが姉を除いて、自分は誰にも貸しを作った事はない。

 頼れる人間ではあると、自覚し、それなりの誇りもあった。

 だが、その誇りを、しかも、最も貸しを作りたくない人間に……

 詩歌に聞かれれば呆れられるかもしれないが、それでも何となく負けた気がしてならない。

 でも。

 

 

 悔しいが、その後ろ姿だけは、兄妹。良く似ていた。

 

 

公園

 

 

 夕日色に染まる誰もいない公園。

 そこにズタぼろだが、それでもパンクなファッションの制服を着こなす少女が虚ろな目をした少女を連れて公園にやってきた。

 上条詩歌と佐天涙子。

 わざわざこの人気のない公園に詩歌が佐天を連れて来たのは、先ほど自分のせいで事件に巻き込まれたお礼をするため。

 最初に出会った時、もう少し“きちんと”対処していればこんな事にならなかったし、介旅初矢にだけ気を取られていなければ、捕まらずに済んだはず。

 それにお礼のためだけではなく、佐天自身にも少し用事がある。

 しかし……佐天の足取りは妙におかしい。

 

「カミジョウトウマトカミジョウシイカハダレモガウラヤムカップルデス。ワタクシコトサテンルイコハフタリノナカヲゼンメンテキニオウエンシテイキタイトオモイマス」

 

「おっと、うっかりでした。まだ暗示をかけっぱなしだしたね」

 

 と、詩歌、額を叩く。

 佐天さんは何かうわ言ばかり言っている。

 これは……余程躾が効き過ぎたのかもしれない。

 

(全くそんなことは誰もがわかることだというのに。だけど、それをわざわざ口に出して、しかも応援するなんて佐天さんはなんていい人なんでしょうか。これは私も頑張らないといけませんね、ふふふ……)

 

 その張本人はその様子に満足げな笑みを浮かべる。

 同じ常盤台中学に在籍する『常盤台の女王』のように人の精神を操れる能力なんてないはずなのに、物理的でここまで洗脳するとは……恐ろしい手腕である。

 だが、口惜しいがそろそろ正気に覚まさせなければ、

 

「はい、佐天さん。もう目覚めてもいいですよ」

 

 パンッ、と。

 佐天の目の前で手をたたく。

 

「―――ハッ!? あたしは一体何を? ……それにここは何処?」

 

 その音で佐天は意識が覚めた。

 目が覚めたら見知らぬ所。

 驚くのも無理はない。

 

「あっ、詩歌さん、あたしあれからどうしたんですか? 人質から解放された後の記憶が少し靄がかかってて……ッ!? なんだか思い出しちゃいけないような気がする……」

 

 急にうずくまり頭抱え始めたので、詩歌は心配した顔で、佐天の気を落ち着けるように横にしゃがみ背中を摩る。

 

「大丈夫、佐天さん?」

 

 が、

 

「ありがとうござ―――ひぃっ!!?」

 

 何故か佐天は詩歌の顔を見た瞬間、驚き、後ずさる。

 佐天は何かとても怖いものを見たかのように怯えている。

 人質にされてた時の事を思い出していたのだろうか?

 

「佐天さん、どうしたんですか!?」

 

 それとも、ここにいる名女優のせいか。

 彼女は心配している。

 本気で心配しているのだ。

 ……ただし、何が原因かは棚にあげて。

 

「急に驚いちゃってすみません。……あたし何だか詩歌さんの顔をみたら急に震えが止まらなくなっちゃって。はは、おかしいですよね、詩歌さんがあたしに何かしたわけではないのに……」

 

 そんな小刻みに震える佐天を見て、詩歌は丁寧に頭を撫でる。

 それだけで自然と徐々に震えが小さくなる

 

「いいえ、変ではないですよ。佐天さんはつい先ほどまで人質になってたんですから、震えてもおかしくはありません。……きっと安心して私の顔を見て、気が緩んでしまったんでしょう」

 

「あはは、そうですよね。……でもなんでだろう? これは人質になったことが原因ではない気がする……」

 

 と、再び頭を抱える前に《余計な事を思い出す前に》詩歌は佐天を強く抱きしめる。

 

「佐天さん、無理に思い出さなくてもいいんですよ。今は気を落ち着けるのが先決です」

 

 そして、再び気を落ち着かせるように(余計な事を思い出さないように念じながら)頭を撫で(脳天にある『直前の記憶を失う』経穴(ツボ)を押す)

 すると佐天さんは顔を赤くしたが特に抵抗せず、徐々に落ち着いてきた。

 

「詩歌さん、ありがとうございます。……もう落ち着きました」

 

「そうですか? よかったです。佐天さんが落ち着いてくれて」

 

 すっきりとした笑顔を浮かべる佐天。

 きっと余計な事を忘れたからなのだろう。

 世の中には知らない方がいい事もある。

 

(方向修正成功。よし、このまま……)

 

 うん、きっと知らない方がいい事があるのだ。

 

 

閑話休題

 

 

「それで詩歌さん、どうしてあたしはここに? みんなはどうしたんですか?」

 

 佐天は詩歌に質問する。

 どうやらだいぶ落ち着いてきたようだ…………色々と。

 

「初春さんは黒子さんと一緒に事件の処理と自首した介旅初矢さんの補導、美琴さんは用事があると1人でどこかに行ってしまいました。まあ、予想は付きますが。

 私は………佐天さんが気絶してしまったので、落ち着ける場所まで運び、目が覚めるまで公園で様子を見ていました」

 

 それに対して詩歌はあらかじめ考えておいた台詞を口にする。

 今、詩歌の言っている事は事実。

 事実なのだが、言葉が少しだけ足らず、真実が曲解されてしまうのかもしれない。

 しかし、これは佐天のため。

 世の中には知らないほうが幸せなこともある。

 

「そ、それはどうもありがとうございます」

 

 そう言うと佐天はすぐに頭を下げる。

 素直なのだろう。

 しかし、名女優上条詩歌の胸の辺りが何故かざわめく。

 

「頭を上げてください、佐天さん。……先輩が後輩の面倒を見るのは当然のことです。それに今回の件は私が原因で起きたようなものですから。私がもう少し丁寧に対応してればこんなことにはならなかったのに佐天さんに迷惑をかけてしまいました。すみません」

 

 詩歌は頭を上げさせ、佐天に頭を下げる。

 これ以上、謝罪をさせてしまったら、女優の詩歌でも流石に心苦しいというか、良心が疼く。

 

「いえそんな!? 詩歌さんのせいではないですよ!! ……悪いのはあの男のせいですし」

 

「ふぅ……それでは、おあいこですね、佐天さん。この件で謝るのはやめにしましょう」

 

「はい、詩歌さん」

 

 良かった。

 色々な意味で良かった。

 だが、その後、佐天は夢でうなされる日々が続いたそうな……

 聞いたところによると詩歌によく似た女性が微笑みながら襲ってくる夢らしい……

 そのことを聞いた詩歌の良心が針のむしろ状態になったのは言うまでもない。

 でも、とりあえず、今は問題ない。

 

 

 そして、詩歌は本題に入る。

 

 

「佐天さん、手を出してください」

 

「え、あ、はい」

 

 詩歌は差し出された佐天の手を握る。

 そして、そっと“探る”。

 

「佐天さん……あなたは自身が無能力者であることにコンプレックスを抱いてますね。今回の件、人質にされた時も自身にもし力があればと悔やんでいたはずです」

 

 佐天は何も言わず俯く。

 

「力が、欲しいですか?」

 

 その言葉に佐天は顔を上げ、何も口には出さないが、その目は訴える。

 力が欲しい、と。

 

「わかりました。……少し、手を貸してあげます」

 

 目を瞑る。

 『佐天涙子』の内面世界の海底へゆっくりと沈み込み、心の眼でそこに眠るモノを探り当てる。

 そこに意識を集中させると同時に、自分の彼女と同色になった波長を辺りに溶け込ませるように散らす。

 散らしてからは佐天を包みこむように集束させてゆき、少しずつゆっくりと、佐天の<自分だけの現実>を理解し………

 

(これですね)

 

 佐天の手を包み込むようにして取った両手を通し、今は薄く弱弱しいではあるが、彼女の中の『色』を見た。

 今度はその色に、同じ色に変化した自分の波長を混ぜ、少しずつ濃くしていきそのままその色を、海底から海面まで誘導させ――――覚醒させる。

 そして、詩歌は佐天の中に眠る色と同調する。

 すると、

 

「えっ? えっ? 何この感覚!? 一体何なの!!?」

 

 この内側からナニカが溢れだす感覚。

 未知の感覚だからか、なのに懐かしく思える不可思議な感覚だからか、佐天は急に慌てる。

 

「落ち着いてください、佐天さん。その感覚に集中して……そう、ゆっくりと」

 

 詩歌は呼吸を合わせながら、補助の演算式を組み立てる。

 無意識の力場の余波を繋ぎに、佐天は頭に未知の演算式が、勝手に計算され、自分でも無意識に解けるほど簡単になったそれを吸収していきながら、自分の身体がゆっくりと宙に浮かばせる。

 そう自分の意思で。

 すでに―――詩歌の手は―――離れている。

 

「どうして……あたしが宙に浮いてるの?」

 

 佐天涙子は、詩歌の頭がそのつま先と同じ高さに、浮いている。

 まるで手品の空中浮遊のようだが、これに種も仕掛けもない。

 あるのは、この胸にある何かだけ。

 自分の力で宙を舞う。

 佐天はそのあまりの感動にどう表現していいか分からない。

 今まで無理だと諦めていたものが、こんなにも簡単な事だったなんて。

 

「それは佐天さんが<空力使い(エアロハンド)>に準ずる能力者でその能力を使って自身を宙に浮かせているからですよ」

 

「う、嘘ですよ。……だってあたしはLevel0のはずですよ! そんなあたしが宙に浮けるわけがないですか!?」

 

「いいえ、本当です……」

 

 詩歌は少しだけ迷ったものの自身の能力<幻想投影>のことを説明する。

 

「もう、勘付いているでしょうが、詩歌さんは『Level3の発火系能力者』ではありません。<幻想投影>――簡単に言えば、相手の能力をコピーするものです。たとえそれが超能力でも」

 

「!」

 

 超能力でも扱える、なんて普通なら荒唐無稽だと思うが、佐天は、すとんと胸に落ちたようにその言葉を受け入れられる。

 <定温保存>も、<量子変速>も、<風力使い>も使いこなしていたのを実際に見た今ならば、むしろそんな能力でなければ納得できないというもの。

 

「そして―――私は今、佐天さんの<自分だけの現実>を解析、複製、同調し、過去の似たような能力者の経験と演算補助から佐天さんに能力の使い方を教えてあげただけです。最初は手助けしましたが、今は佐天さん自身の力で宙に浮いているんですよ」

 

 そのことを聞いた佐天はまるでクリスマスプレゼントを初めてもらった子供のように喜んだ顔を浮かべる。

 信じられないかもしれないが、今、こうして空を飛んでいるのは事実。幻想ではなく現実だ。

 そして、今、自然と組み上げていく計算が自分の無意識によるものだというのなら、

 

「これがあたしの能力……ッ!?」

 

 

 

 最初は、自分で組み立てた。

 今まで経験した能力から彼女にあった演算方法を組み立てた。

 そう、先生が初めて見る計算式のやり方を教える際、その生徒の前で例題を解くように、詩歌は佐天に自身の能力の使い方を導いた。

 細かな補助はしているものの佐天はその例題から自力で演算式を組み立ている。

 詩歌はしばらく自由に空を飛ばせてはいたが、

 

「うぐっ!?」

 

 不意に佐天が痛みが入ったかのように顔を歪める。

 それを確認し、詩歌はそろそろ頃合いだと察する。

 

「佐天さん、もう降りて来てください。限界です」

 

「あ、はい、詩歌さん」

 

 佐天は詩歌の指示に従い、すぐに降りて来る。

 

「普段してないことをしたので佐天さんの脳が疲れてしまったんでしょう。これ以上すると倒れてしまうかもしれません」

 

「え、でも……」

 

 あともう少し……、と詩歌を見る佐天の目が語る。

 ようやく手に入った力を手放したくない、と作る不満げな顔。

 自分だけの能力を求め、親元を離れてやってきた学園都市。

 その夢を―――

 

「ダメです。これ以上は危険です。もし納得しないようだったら………」

 

 にっこりと笑いながら、拳を見せつける。

 だったら………何だろう? なんて訊かない

 そんな、先ほど高位能力者を一発で仕留めた驚異の拳を、アピールするということは答えはひとつ。

 

「はい! わかりました、詩歌さん。母も健康が第一だと言っていたし、夢よりはまず自分の身を大切にしないといけませんよね!」

 

「うん、よろしい」

 

 ビシッと教えられてもいないのだが、すぐに軍隊式の起立礼。

 そして、未知の楽しさの名残惜しさが引くと、今度は強い興味が惹きつけられて、佐天は問うた。

 

「もう一度、訊いてもいいですか?」

 

「何を?」

 

「あたしにも、才能はあるんですか。初春や御坂さんみたいに」

 

「正直に言って、美琴さんや初春さんのような論理的な才能には長けてはいません」

 

 ですが、

 

「優秀な直勘は備えておいでのようです。今日一日ですが、佐天さんは、物事を正面から捉えず、斜めから見る癖があると私は見ます。でもそれは、初春さんのような論理的思考の不得意な部分を補える才能です。これは、美琴さんもそうですが、ガチガチな科学脳の彼女は何でもかんでも論理的に当て嵌めようとして、落とし穴に嵌まることがありますから。おかげで恋愛ごとも苦手です。

 そんなときに手を差し伸べられるのは、佐天さんのような人です」

 

「タイプが違うってことですか?」

 

「ええ。もし佐天さんがそれを鍛えるのなら、

 思考の対象を無作為に広げる。

 願望に身を委ねて想像に浸る。

 類似した別のモノの成り立ちを考え根源に共通点を見出す。

 他の概念から応用する。

 常識を疑い批判する前提で検証する。

 以上。これまで無意識に行っていた思考の順序を今度から意識的に自覚するんです。

 それは能力においても助けになる。

 細やかな操作には論理的思考と演算能力が高くないといけませんが、能力(PSY)を感知する、どれほど能力を現実(リアル)に感じ取れる感性(センス)があるかによって、影響力も強くなります。

 今は能力が身についてないだけで、もし能力を手に入れれば、その発想力は人の裏を掛けるくらいに上手に使いこなせると私は見ています」

 

 無能ではないと。

 その証拠に、自身の持ってる長所を教えてくれる。

 Level0――と結果が出た後、熱心に声をかけなくなった教師とは違う。

 まるでシンデレラに出てくる夢を叶える魔法使いのよう。

 もし騙されても信じようと、そして学ぶのならこの人の元に付きたいと思わせる。

 

「あたしも、人の役に立つ能力者になれるんですか?」

 

「それは、意識的な努力あるのみでしょう」

 

 詩歌はじっと見つめてきた。

 

「よろしいですか。世のいかなる芸術家も、最初は素人で、美琴さんもLevel1から始まったのです。進達する人は夢と希望を、怠情な人は不平不満を口にします。あなたに目指すべきものがあるのなら、前者であるべきです」

 

 自分次第だと、言われた佐天は、気を込めて頷いた。

 

「今、私が佐天さんを手助けしてあげたのは佐天さんにLevel0だからといって自身の可能性をあきらめて欲しくなかったからです。力の無さに絶望し努力をしなくなってしまい、困難から逃げてしまう。……今日の佐天さんのこと見ていたらそんなこと思っちゃっいましてね。私は一友人として、そうなってほしくないから少しだけ手を貸しました」

 

 図星を突かれたのか佐天は顔を俯けるが、詩歌は彼女の顔を優しく手を添えて目を合わせ優しく語りかける。

 

「でもね、佐天さん。……本当の力は意思の強さ、それは自身の信念によるもの。これだけは忘れないでください。もしこれを忘れてしまったらあの男のように平気で傷つけるようになってしまう。私は佐天さんがそうなってほしくない―――だから約束して……」

 

 一呼吸間を置き小指を差し出す。

 

「たとえ、どんなに怖くても自分の信念を貫き、そして、自分の力の怖さを忘れないでください」

 

 学園都市に来る者の誰もが未知の力を望む。

 だが、それは本来は人が扱えきれぬ力であるはず。

 もしそれが強大であればある程扱いが難しく、今回の件のように他人を“不幸”に貶めるために使えばその被害は計り知れない。

 能力は、能力者に染まり、己を貫くための力となる。

 しかし、その怖さを理解できなければ、ただの暴力でしかない。

 詩歌は、能力の可能性を単に暴力だけに終わらせたくはない。

 だから、約束する。

 ちっぽけな口約束なのかもしれないが、それでも信じている。

 自身の確かな目で見た佐天涙子を信じよう。

 きっといつか自分では投影できない彼女の可能性を、

 

「はい、詩歌さん……」

 

 佐天は詩歌の小指に自身の小指を絡め約束する。

 あたりに穏やかな風が吹いた気がする。

 そのことを確認した満足気に頷き、

 

「よろしくお願いします」

 

「ふふふ、わかりました。ああ、もし約束してくれなかったら今回のことを“物理的”に記憶から削除するところでした」

 

「え、本気ですか……!?」

 

 先ほどまでの雰囲気は何処に行ってしまったのか、佐天は唖然とするも、

 

「ええ、本気です。あとそれと<幻想投影>のことは内緒にしてくださいね。もし誰かに喋ったら……その人にも記憶を物理的に削除しなくてはいけなくなりますので」

 

 佐天は青褪めながらも頷く。

 あの一撃は本気で洒落にならない。

 

「それさえ約束してくれれば都合があったとき明日からでも、佐天さんの『能力開発』に付き合ってあげます」

 

「あ、ありがとうございます、詩歌さん」

 

「ふふふ、美琴さんもLevel1からLevel5に成れました。その彼女の『能力開発』に付き合った私が付いていますから、佐天さんも諦めなければいつか高位能力者になれますよ」

 

「はい、詩歌先生、よろしくお願いします」

 

「あらあら」

 

 先生――その言葉に詩歌は、昔、母、詩菜のことを先生と呼んでいたことを思い出し顔がにやける。

 もっとも、今では結ばれる野望のための最後の難関なのだが。

 こうして、詩歌と佐天はお互いの寮へと帰って行く途中で、佐天はひとつ訊いた

 

 

 

「それで、もしかして詩歌さんが『レベルアッパー』の正体なんですか?」

 

「いや、違うと思います。その噂が流れたのはここ最近のことでしょうが私はかれこれ十年近くこうしてますし、これまで付き合ってきた子でもこの能力を知るのは一握り、皆さん口は固いですから。『レベルアッパー』なんて噂されるなんてこと、あまり考えられません」

 

 けれども、上条詩歌は自問する。

 佐天が言ったことは、実は白井黒子からも訊かれていた。

 この一ヶ月で自分が関わって急激にレベルを上げた学生はいないか、と。

 言われたが、詩歌の記憶の限りはないと、答えた。

 でも、もしもここ最近の急激にレベルの上がった能力者が起こした事件と、自分と関わりがあるなら………確かめてみる必要はある。

 

 

繁華街

 

 

 男は急いでいた。

 目が覚めると病院でカエル顔の医者から、派手に気絶したようだけどほとんど怪我はないね? と言われ、<警備員>が事情聴取にと引き継がれようと―――したところで、病院から抜け出した。相手も気を失っていたことで油断していたのだろう。

 そして、この夜になろうと人の多いこの場所で紛れながら、自身の寮へと急ぐ。

 長点上機学園は、秘密主義が強く、<警備員>に<風紀委員>向けに公開されている資料においても、通常であれば記載されている個人の能力についてさえ非公開となっている。

 だから、現行犯でもなければ、捕まらない。

 今までは、事件を起こそうが、学内に入れば、<警備員>であっても追ってこれなくなる。

 しかし、今日は……一度、もう捕まってしまってる

 

「このままってわけにはいかねぇよなぁ……」

 

 ここで捕まれば、第十学区の少年院行きは間違いない。

 そこで数ヶ月は出られなくかもしれない。

 ―――そんなに待っていられるか!

 

「ああ、無能力者を離すまでは俺が勝ってた。そうだ、ヤツには無能力者の兄がいると言ってたな。だったら、今度はそいつを人質にとれば……」

 

 

 それは完全に、想定外のことだった。

 

 

 擦れ違った、という認識が彼の意識の届いたときには、既に、

 彼の身体は、

 通りすがりの男子高校生に路地裏に引っ張り込まれ、右手に顔を掴まれ壁に押し付けられていた。

 頭を挟み打つ衝撃に苦悶する。

 だが、そんなものは男子学生の耳に届いても、彼の意思には届かない。

 一切の手加減なく放射される冷たい何かが、思考を止め、意識を静寂に塗り替える。

 これは、唯一許せない『本気』の発露。

 

「……よお、奇遇だな。こっちも病院を抜け出したって聞いて、テメェのこと捜してたところだ」

 

 苦悶が上がったのは、鷲掴みにする握力の締め付けを強めた結果の、生理的な反応か。

 万力に固定された大能力者は、苦痛に呻きながらも、視界を塞ぐ掌の向こうにいる人物が放つ鬼気に、歯の根が合わず、歯を鳴らすこともできず、口元と頬を痙攣させていた。

 

「どうせ、お前程度が何度挑もうが返り討ちに遭うだけだろうし、<警備員>に捕まるんだろうが、最も大事な人間を不幸にするとかほざいて、この俺が二度も見逃してやるようなお人好しと思ったか? だとすりゃとんだ傑作だ」

 

 そんなことを言われても、その人物が何者かも把握できていない以上はわけがわからない。

 だが同時に、何もわからないままでも、理解せずにいられなかった。

 その手の平から感じるものは、圧倒的な無力感。それは皮膚を貫通して脳髄へ至り、脊髄を滑り落ちて全身に浸透した。

 一方的な暴行を受けている大能力者は、けして触れてはならない“竜の逆鱗”に触れてしまったのだと。

 

「っっっっっ!」

 

「ああ。痛すぎると声も出ないんだったな。悪いな、妹と違って加減は苦手なんだ」

 

 その右手の握力は、100kgを超えてから測っていない。

 

「だけど、こっちは怒りのあまりに涙すら出そうだ」

 

 ビキリ……と外からではなく内から直接軋む音が聞こえる。

 それでも、少し、緩めたおかげでか、ようやく声が絞り出せた。

 

「お前は……誰だ?」

 

「わからないのか? 無能力者の兄で、

 

 

 お前の、能力を殺す者だ」

 

 

 ……その右腕は、人間ではなく本能のまま動く獣のようだ。がっちりと顔を捉える五指は力任せには解けない。能力が使えない状況で、下手に身体を揺らして反撃しようものなら、この獣は反射的に頭を潰してしまうかもしれない。

 

「わ、わかった。お前たちに近づかない。関わらない!?」

 

「今更なに無駄口ほざいてんだ。お前が何と言おうとこれはもう決定事項だ。例え、今この瞬間に改心してもな。もう諦めろ」

 

「あ、が……!! ふざけるな、そんな、そんなこと、許されるとでも……!!」

 

「言っただろ。

 テメェは触れてはならないものに二度も手を出した。そして、懲りずに三度目と来た。

 お前は俺の逆鱗に触れた。

 以上だ。

 最初で最後のチャンスで懲りなかったお前が悪い」

 

 世の中で最も恐ろしいのは、何を考えているかも不明な未知の存在。

 愚兄は、それを意図的に演出する。

 

「お願い、です。やめ……力を、失いたくは……」

 

「言っただろ。

 俺もお前を、本気で、不幸にしてやろうかと捜してた。

 “半殺しまでしかできない”妹に代わって。

 可能性を完全に潰すために、

 ちゃんと俺の手でやらないと、な?」

 

 躊躇いがない。

 出会ってしまった時点で、終わっている。

 そして、ようやく指の隙間から見えたのは、笑ってる、と思っていたが、こちらの存在のすべてを否定するかのような、無機質な瞳、

 

「や、『疫病神』!」

 

 最後に精一杯の罵声を浴びせたが、結局、嘲笑を誘うだけに終わる。

 

「ああ、『疫病神』で良かったと思えるのはお前のような奴らのおかげだよ。それだけは感謝してる」

 

 薄く、自嘲気味に愚兄は笑う。声だけ。やはり視界が映す現実は、無表情。

 幻聴じみた笑い声は夜風に紛れ、それに替わる冷酷な声が、絶望だけを残すセリフを紡ぐ。

 

「じゃあ、その幻想をぶち殺す」

 

 罵倒も、侮蔑も、嘲笑も、何一つ与えない。

 ただ黙って、大能力者に迫る実感させるようにして、小指、薬指、中指、人差し指、親指と順々に爪を立ててる。

 その指先を、貪欲な牙のように大能力者の頭に食い込ませる。

 大口を開けた右手が、捕まえた男を頭からゆっくりと呑み込むように更に圧が高まる。

 それを見ているものがいれば、目を逸らすことができずに同じことを想像する。

 この少年の指は、この哀れな獲物の頭蓋骨を容易く圧搾し、脳髄を潰し、血だまりの中に無慈悲な裁きを執り行うだろう。

 

「――――」

 

 これ以上の現実が受けれいられなくて、男は、勝手に気を失った。

 

 

 

 ―――<幻想投影(イマジントレース)

 それは神すら造る母体。

 『神の子』という人々の形なき願いを形にし、ひとつの世界の基盤を作ったとされる、『生神女』。

 

 単に異能が使えるだけではない。その力が本当ならば、ひとつの世界をも内包をする、異能の『すべて』を写し取る。

 

 異能の快楽を、異能の激怒を、異能の悲哀を、その痛みをも我が事のように、すべて触れあっただけで宿してしまうと。

 だが、同時にその危険性もカエル顔の医者から訴えられてる。

 もしこれがオカルトならば、神をも宿す素体は、悪魔をも惹きつけ、その精神を蝕む。

 皮肉なことだが、賢妹にとってはこの能力者の街は、『伝染病』だらけと見てもいい。

 

「……とりあえず、<警備員>に引き渡されたし、ちゃんと脅したから、もう俺たちにかかわってくることはないだろ」

 

 この右手、<幻想殺し(イマジンブレイカー)>は触れただけで異能を打ち消すが、無能力者にするなんて真似は出来ない。

 だから、あれは本当に何でもない脅し。

 ただし、それが冗談だと思っているのは愚兄だけ。

 だけど、能力がその人間の意思によるものならば、徹底的にトラウマが刻まれた精神は、スランプに陥らせるだろう。

 それこそ、あの大能力者は風ひとつ吹かすこともできなくなるかもしれない。

 しかし、愚兄にしては、そんなことはどうでもいい。

 ほどなくして<警備員>の車両がやってきて、運んで行ったが、もう上条当麻の興味はない。

 

「けど、あれはやっぱり詩歌じゃなかった」

 

 『能力のレベルを上げる』という噂。

 それを聞いて最初に思い浮かんだのは、賢妹のことだ。

 いくら賢妹が注意しようと、不幸は予想しえない方向から来る。

 だから、秘密を破って広めてしまった者がいるかもしれない―――なんて、ここ最近、賢妹の後を付け回そうとしたら、あのビリビリに捕まったというわけだが。

 

「ま、これは勝手にしてることなんだがな」

 

 でも、この街に連れてきてしまったのは、愚兄の責任だ。

 だから、正義の味方よりも、彼女の味方であろうとする。

 上条当麻は、忘れない。

 賢妹の記憶にはない、愚兄しか知らない。

 幼き日の“神懸った”<幻想投影>の暴走を。

 

 そして、この右手で、殺してしまった幻想(ナニカ)を。

 

 ―――もう絶対に、あのときの二の舞は絶対に阻止する。

 そのためには、<幻想投影>でも投影できない、<幻想殺し>の他、二つの例外のもうひとつ、“<幻想投影>自身”を賢妹に完全に理解してもらわなければ……

 

 

「ホント、手の焼ける妹ですよ」

 

 

 

つづく


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