とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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第15章
世界決戦編 前夜の除外者


世界決戦編 前夜の除外者

 

 

 

日本からの電話

 

 

 ………君からの話を聞く限り、彼女はやはり、テロメア短縮―――わかりやすく言い換えれば、老化現象。

 そういう体質だね?

 テロメアというのは遺伝子染色体の4つの端にあるものでね? 細胞分裂のたびに短くなっていくんだね? これが短くなりすぎると、もう細胞はそれ以上分裂できない。生物の寿命が決まっているのはこの仕組みのせいだ。

 ……君の妹さんの力は、テロメアを異常に短くする、もっといえば消費する。燃焼する、といってもいいね?

 わかりやすく言い換えるとね。彼女はもともと人と触れ合っていては長生きできない種類の人間だ。

 何をやらせてもうまくいく天才だったんじゃないかね? テロメアが短い人間にはよくあることだそうだよ?

 老化するというのはつまりその分成長するということだ。命を燃やして、人は生きている。

 

 ―――うん。治療法は? 再生治療とか、学園都市の科学技術とかでどうにかならないのか! とね。

 

 残念だけど、たとえ全身を機械化にしようと、脳が死ぬ。

 確かに、<妹達>に過ぎた成長を調整するためにテロメア抑制剤を投与したことで寿命の問題は改善されたが、彼女の場合は、まずその体質自体を改善しなければ根本的な解決はできないね。

 ………ただ、方法がないわけではない。

 

 技術的に可能な方法があるよ? 倫理的、いや哲学的な問題が生じるけどね。

 彼女の問題は、<幻想投影>……つまり周囲の影響を受け易い体質だ。そういう問題だね。それさえなければ、<妹達>にしたようテロメア抑制剤で寿命を調整できる。彼女に今与えている薬剤投与で十分治療は可能だ。

 つまりは、身体を入れ替えるんだね?

 その治療を行う上でさけて通れないのが継続性の問題だ。

 

 重い病のAという人物がいるとする。

 Aの細胞を育てて大きくして、クローンのBを作りだした。

 オリジナルであるAの記憶をBにコピーしようと試みる。

 Bが健康であること以外、2人の見分けは全くつかない。

 さて、BはAと同じ人物だろうか?

 

 答えは、違う。

 

 第三者から見分けがつかなくても、これまで生きてきたのはAだ。

 その存在を継続していないから、BはAとは別人である。

 たとえ記憶が同一でも、同じ記憶を持った別人ということになる。

 

 さて、今度はAとBの脳を取り替えたとする。

 Bの身体にAの脳。

 これは誰だろうか?

 

 この答えは、科学的には、Aとなる。

 

 人間の主体は、脳にあると考えられている。

 脳が記憶を持ち、意思・人格を持つと考えられている

 脳以外がすべて別のものでも、脳さえAならば、身体がどうであれ、それはAなのだ。

 理論上は、このように身体を取り替えることで、ほとんどの病人を救うことが可能となる。

 ……Bがどうなるのかという倫理的な問題は残るがね。

 

 しかし、彼女の場合はこのやり方では助からない。

 問題が全身に及ぶ体質だから、脳も置き替えないといけないね?

 

 先程の例で、AとB二人の脳をほんの一部だけ交換したらどうなるだろうか?

 

 実を言うと、そもそも脳の細胞は健康な普通の人間でも、毎日少しずつ置き換わっていっているんだね

 だから、交換したのがほんの少しなら二人とも自分の記憶はそのままで意思・人格ともに継続すると考えられている。

 100分の1ずつ、100回の手術で少しずつ、二人の脳を取り替える。

 すると、最終的にAとBの脳は完全に取り替わってしまった。

 さて、今度の場合もAの脳がBの身体にある。

 これは一体だれか?

 

 どちらでもない。

 

 しかし、今はBと仮定しよう。

 今回の場合、取り替えが少しずつ進行したために、最終的には先ほどと同じ状態だというのに結論は逆となった。

 脳が取り替わったのにかかわらず、記憶・意思・人格すべての点でAとBは“継続している”。

 つまり、元の人間のままだと考えられるんだね。

 学園都市には、自身の身体の部品(パーツ)を<瓶詰工房(マイクロコスモス)>に小分けしているものもいる。

 

 これはあくまで理論上の話でね。現実には多くの問題がある。まず、切断した脳の接続がきちんとできるのか。たとえ少しだけの交換であっても、本当に本来の記憶・意思・人格に影響を与えないのか。次にクローンといえど、遺伝子操作しその体質を改善させた身体は本当に彼女の身体とはいえない。遺伝子的に君の妹ではなくなる。最後に、脳をいじるということが倫理的に許されるのか。

 

 ―――ただし、科学的な問題は僕の手なら絶対に成功できる。それは約束しよう。

 

 けど、

 

 君は、以前言ったね?

 どこに『インデックス(あの子)を泣かしてはいけない』と覚えていたか、それは心にだと。

 頭や脳ではない

 この胸の心が覚えていた。

 この手術が成功して、君の妹の命は助かったとしよう。

 しかし、成功しても生き残った人間はもはや君の妹じゃないかもしれない。

 科学的にいまだ解明できない魂や心の在処というのは、果たしてこれで取り替えることができるのだろうか。

 それは僕にもわからない。

 

 ……………

 

 ……ただ、テロメアを燃焼している体質は常人より50倍以上寿命を削るというのに、不思議なことに彼女は異様に若い、と僕は思っている。

 それこそ人の5倍。500年くらいもとの寿命がなければおかしい計算となるほどに。

 まるで500年を周期に生まれ変わる不死鳥のようだね?

 まったく情けない話だが、僕は人以外のモノは助けられない。もちろん、君の妹が人じゃないと言ってるわけじゃないが、十年以上も診てきたのに、彼女は謎なんだ……

 

 とにもかくにも。

 医者は目の前にいる患者しか救えない。

 もしも僕に僕の戦場に立てる機会をくれるというのなら、一秒でも早く彼女の命だけでも連れ戻してきてくれ。

 

 ……………

 

 自分が知る限りの、最高の医者がそう語る。

 

 この右手と言う基準点に戻れなくなるほど、遠くに行ってしまったのだと。

 

 もしそうだとするなら、その彼女自身はいったいどのように考えていたのだろうか。

 

 

宿屋

 

 

「さあさあ、お楽しみの夜の時間です。早速、ベビードールに着替えてくるのでベットの上でお待ちください、お兄ちゃん」

 

「………」

 

「ん~? きちんとあなたの要望通りの妹プレイですが、反応なし」

 

「ねぇ」

 

「ふむふむ、一体何が悪かったんでしょうか? ああ! お兄様、の方が良かったんですね?」

 

「ねぇ、ちょっと! そこの小悪魔コスプレ尻尾女!」

 

「はい? 何です?」

 

「何です? って、こっちのセリフよ!? もうチャンスが明日だっつうのに、いきなり何しようとしてんのよッ!」

 

「何って、そりゃあナニですよ。多少卑猥な意味が含まれてる」

 

「私よりもお子様なガキがマセてんじゃないわよ!!」

 

「おやあ? 私は小四でブラを付け始めて学校の最年少記録を塗り替えたりしたんですが、思うに一年と経っていないかと」

 

「うっ!?」

 

「はっはー図星ですね。ですが恥じることはありません。こういうのは初心のネンネには刺激が強過ぎて理解できないでしょう! 本番前に英気を養うための、一人前の男となるための殿方の儀式。まあ、体力的に少しお疲れになるかもしれません」

 

「わかったわ。基本的な思考回路がそっちにセットされてんのねアンタは!?」

 

「そういうわけで、とっとと出て行ってくれません。ここ、二人部屋なので」

 

「ふ ざ け ん じゃ な い わ よ!!! 今は夜、外はいったい何度だと思ってんの?」

 

「そんな大声出さないでください。夜中ですよ。そもそもあなたに私たちのしっぽりお楽しみタイムを邪魔する権利があるんです? 恋人ってわけじゃないですし、妹の後輩ポジションでしょ確か」

 

「あ、あるわよっ。その愚兄は、ちょっとでも学園都市を裏切ると処罰対象になるんだから。DNA情報を外に漏らすのだって大問題。そう、髪の毛一本やせい―――~~~~っ!?!?」

 

 

「…………………なあ、血も繋がってないし兄妹でもないから無視してたけどそこらへんでガールズトークはやめて、真剣に話し合いません?」

 

 参加していなかったのに、どんより疲れた顔でつぶやく。

 モクモクと栄養補給のハンバーガーとポテトを口にしつつ色々とひとりで頑張って考察していたのだが、もうレッサーと御坂美琴の対話が無視できる限界突破で騒がしくなってきたので、この火中に入りに行く上条当麻。

 この独立国に来て早々に取った宿屋の部屋。何日かかるかわからないので、とりあえず確保した拠点。なのだが、このたび非行(飛行)少女らを迎え入れたせいで男女比が変動したためか、少々手狭に感じる。それ以上に、彼女たちの一切触れたくなかった会話のせいで逆にこちらが部屋を出て行きたくなったほどだ。お願いだから、やめてほしい。

 

「アンタらがこの部屋で変なことをおっぱじめようとしたからこうなったんでしょうが! このド変態シスコン野郎!」

 

「あのな。押しかけてきたのはお前らで、当麻さんは完全に了承した訳じゃないし。このままだと二つあるベッドは占領されて残るはバス。当麻さんは遠い異国の地でも寝床が風呂場となるような呪いでもう掛けられてるんでせうかっ? そもそもお前ら年頃の男のこの部屋と一緒にするのに抵抗ゼロってとこ棚上げしてませんかねー?」

 

「なな―――っ!?!?」

 

「おぉっとお嬢様ストーップ!」

 

「わ、私はアンタが変なことをしないように仕方なくっ!!」

 

「わかった! わかったよ! わかりましたっ! それでいいから! 抵抗力ゼロってとこも撤回するから室内でビリビリはマジで勘弁してくれ! 備品壊しちまったら弁償代で所持金が更にぶっ飛ぶ!」

 

「でしたら、身体で支払いましょう! 泊めていただくお礼にお兄ちゃんにご奉仕! 本当の妹では倫理的にアウトなことでもノープロブレムとか全世界全男性の遠き理想ですよ!」

 

「反省してねぇなテメェ! その疑似妹プレイをするようなら即刻追い出すと最初に言ったはずだぞレッサー! 仏の顔も三度までもあと一ポイントだ」

 

「またまた照れちゃって」

 

「ねぇよ! 人生のちょっぴり先輩から言わせてもらうが、エロい言葉を笑顔で口走ってるようだけどな、意味がわかってねーだろ。ヤバイこと言ってるんだからね! もう、ホントに本格的なカウンセラーにお願いしないといけないレベルで。いい加減にしないとそこの非行少女のように自爆すんぞ!!」

 

「しないわよっ!」

 

「にしては。まだ一人部屋(シングル)に空きがあったのに、わざわざ二人部屋(ダブル)にしたんですから、てっきり、そのつもりなんじゃないかとおもって、女として期待に応えようとしたんですけど……」

 

「アンタ、私が来なかったら……」

 

「だから、ビリビリはやめてくれっ! さっきの会話聞いてれば、端っから、レッサーと一緒に泊まるつもりはなかったってわかんだろっ?」

 

「でも、お金がないのに二人部屋にしたんだから、それなりに理由があるんでしょ。……どうせまた道中で引っかけた女が他に……」

 

「『どうせまた』、ってお前の中の当麻さん像ってどうなってんの?」

 

「何ですと!? 英国からおはようからおやすみまでずっと監視してたのですが、女の影はなかったはずなのに!」

 

「何で君たちは女性一択なんでせう? 男の可能性はゼロですか?」

 

「……じゃあ、誰よ? どんな人よ言ってみなさい?」

 

「え、あ、いや、そのー……そろそろ、話を戻して議題に入りませんか?」

 

「だったら、その“子”もいた方がいいんじゃない? あら、間違ったわ。その人もいた方がいいんじゃない?」

 

「み、御坂さん……」

 

 ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、という嫌な効果音の幻聴がする。

 年下の後輩なのに、『さん』付けしたくなるようなプレッシャー。こちらを刺す据わった目。暗い影のオーラを全身に纏い、ほとんど唇を動かさずに追及される。もしそれが『笑顔』であればより恐怖ポイント高めであったが、まだそこまでの域には至っていない模様。いや、十五なのに、あの自然と土下座したくなる貫禄の方が異常というべきか。『ふむ。ここは私も作戦変更……いや、ここは後で慰める方がポイントが……』などと計算高いもう一人の少女は助けに入る気はない様子。お前ら、当麻さんを手伝いに来たんじゃないの? などと確認を取りたいところである。

 まあ、別に隠すことじゃねーし、一時の恥なら……

 愚兄は、渋々といった調子でそれを取り出す。

 

「む、何か女の匂いがしますね……」

 

「なにそれ? 財布? どこかで見たことがあるような……あっ」

 

 と、流石の幼馴染はすぐに気付き。

 

「それ、詩歌さんの財布?」

 

 ご名答。

 

「何でアンタがそれ持ってんのよ? まさか……」

 

「言い訳させてもらうとですね。何の援助もない当麻さんは、ここに来るまで自費でやりくりしないといけなかったわけでっ。それだとわたくしめだけの資本金では色々と心許無いといいますかっ。それで、ちょうど預かった詩歌さんの所持品の中に財布がありましてっ。何かいろんな国のお金が揃ってたしっ」

 

 へぇ、そう……と、溜飲は下がったが、下がり過ぎて、今度は居た堪れなくなってきた。

 

「上条家のお小遣いは、親の仕送りと奨学金諸々を全部妹が受け取って、それから兄に配布されるのでありましてねっ。つまり、勝手ながら前借をっ……いや、ちゃんと返すぞっ? ま、まあ、まだ返しきれてないツケもいくらかあるけど、家族で変に遠慮するのはあれですよねっ? ねっ?」

 

「うん、そうね……」

 

 ダメな兄がデキる妹のヒモになっている図と思われているのだろうが、それは間違いだ。この我が家独特のシステムが面倒な構造となってるのは、深いわけがあるのだ。まず物欲もないし無駄遣いをすることはないが愚兄の不幸体質で銀行ATMのカードを無くしたりしてる過去があって、また上条家は女尊男卑というわけではけしてないが女性が権利的に強い立場で、男は財布のひもを握られるのが夫婦円満、兄妹仲良の秘訣であると。兄として何かと世話を焼こうと買い物の荷物持ちなど力仕事を進んで請け負ったり、妹も世話された分だけ報いろうとボーナスなどという形で感謝を示すことができる。それに台所事情を掌握してる人間が食費を管理するのは何かと都合が良い。実際、それは上手くいってるし、小遣いの額も愚兄と同じLevel0の一般学生と比較すれば相当貰っている。

 

「ええ、まあ、そういった事情なら仕方ないんじゃない。詩歌さんもそれで別に怒りはしないと思うし……」

 

 しかし、『妹の財布から金を抜き出す兄という構図は、ちょっとアレよね』と目が語ってる。賛同を求めても、世の中はなかなか理解が得られないのである。

 

「つまり、妹さんのお金を自分だけに使うのはなんだか悪い気がするから、わざわざ二人部屋を取ったって言うわけですか」

 

 というわけなのだが、あっちは世界各地を飛び回っているし、こっちと共同戦線を取るとは一切言われてない。このロシアに来ればもしかすると、なんて淡い期待をしていたが、ものの見事に空振っているのがひとりで二人部屋を取っちゃったなんていう現状。

 

「ふぅん……。私は直接会ったことがないから知らないけど、その香椎――詩歌さんの偽者?」

 

「俺たちの知ってる詩歌とは違うが、あいつも詩歌だ」

 

 偽者ではない、と当麻は訂正する。

 

「ややこしいわね。まあ、その辺は実際にあったら、わかるんでしょ? それで、香椎、さんは、味方なの?」

 

 美琴は問うたが、当麻は口を閉ざした。

 『偽者ではない』、と言い切るが、『自分は心ない』と自分から宣告した彼女を、まだ読み切れていない。

 愚兄にはどうも言い難いことを、代わりにレッサーが答える。

 

「微妙、っといったところですかね。正直、私からしても何を考えてるかわからない相手で、まあ、あれから一度もコンタクトは取ってませんし、完全に無視されてる状況だから仕方ないんですけど」

 

「こいつを、無視……?」

 

 本当に? と目で問われ、当麻は頷く。隠れて会ったりもしてない。時々、インデックスには連絡を取り合ったりもしているが、彼女とは本当に英国で一度きりだ。

 

「でも、俺の方は、味方でありたいと思う」

 

 それだけは、言い切った。

 所信表明として。他の人間がどう答えを出すかは、その人次第。だから、上条当麻の答えも誰にも変えさせない。

 それに美琴は息を吐いて、レッサーは肩をすくめ、

 

 

「そういえば、英国にいる仲間からの情報が入ったんですが、その本体(賞品)の『上条詩歌(肉体)』はつい先ほどこちらに移動されたそうですよ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『学園都市の『外』のセキュリティレベルでは、超能力者(わたし)からすれば金魚の網と同じであってないようなものよ』、と御坂美琴はあの子の様子を見るついでに、この国の電子情報を探りに行き、

 『英国担当のフロリス、それ以外のベイロープ、ランシスとも情報交換してきますね』、とレッサーも部屋を出て行った。

 各自に情報を集める中で、まだ怪我の具合からして本調子とはいえない上条当麻はひとりになった部屋のベッドの上で体を休めつつ。

 

「よし……」

 

 目を閉じる。と、ともに再び布に巻かれた左腕に意識を集中させる。

 瞑目した闇に、四方八方から光が流れ込んでくる。それらが洪水のように勢いを増し、渦を巻いて、中心へと収束する。

 今、上条当麻の脳内で構築されるそれらの映像は、ただのイメージではない。この左腕に貸された、賢妹が生まれながらにして身に着けていた特殊な感覚が視せるもの。

 

『それって、共感覚性ね』

 

 妹の幼馴染はそう推論する。

 

『視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触角といった五感のうち、二つ以上の感覚が同時に働く知覚現象――青色を見て寒さを覚えたりするのが、共感覚性。音楽だけで五感を刺激させる<幻想御手(レベルアッパー)>も共感覚性を利用してるのよ』

 

 その複数の感覚が入り混じり、絡み合った感性は、文字や時間単位、さらには人の性格や容姿にも色が見えたり、音や味に手触りを覚え、指で触れられた感触や刺激から、脳に映像を浮かび上がらせる。よく言う『黄色い声』などという喩のように、共感覚を持つ人間は、味や形を数字や文字を色で表現することもできるという。

 さらに、本人には全くの初見であっても、例えばその文章の中に隠されている暗号を一目で見抜ける。目で得られる情報だけでははかりかねる何らかの法則性を、他の感覚の解析回路を用いることによって、理屈ではなく“感覚として”理解できてしまう。

 そして、科学において、全ての人間に、赤ん坊のころにはそういった能力が備わっているという説もあり、成長に従い感覚が各自に独立していくので、大人になればもう五感は分離、よってその特殊な感性は喪失している。

 

 ただ稀に共感覚を残したまま成人する例もある。

 

『学園都市で開発された発電系能力者(エレクトロマスター)は、無意識に放ってる電磁波に接触した対象が『視』えるけど、詩歌さんの共感覚(それ)先天性(生まれつき)で、特異(並じゃない)。昔にこっそり後をつけようと監視カメラをハッキングしたこともあったけど、カメラに捉えただけですぐにバレちゃったわね』

 

 第三者がその対象に触れているのを目視するだけで、自身も対象に触れているのと同じ触感を覚えたり、

 逆に第三者が対象に触れられているのを見て自身も対象に触られているのと同じ触感を覚えたりする、

 『ミラータッチ』と呼ばれる特殊な共感覚。

 思えば、『人の痛みに敏感過ぎる』のはそんな感性の持ち主であったからか。いや、あの英国の地下墓地で『この土地が痛い痛いと泣いている』などと人間以外にも言っていたことから察するに、幼馴染の言うとおり、“並じゃない”。

 五感だけでなく、その五感だけでは捉えられぬ幻想(ナニカ)を覚える第六感をも含めた六つがひとつに束ねられて、それらが取得した情報を解析した結果もひとくくりにして、我が事のように視取ってしまうし、触れてしまえば我が事として投影してしまう。

 さながら、絶対音感を持つ奏者が世界の物音すべてを音楽として認識できてしまうのならば、集中すれば世界すべてと共感覚で認識できてしまうそれは『絶対共感』なんて呼ぶべきか。

 

『それがどうしてあんたにもできるようになったかは知らないけど』

 

 いいや、鈍感な自分がそんなものを身に付けられるはずがない。

 これは、<幻想片影(イマジンシャドウ)>、とこの愚兄に使い魔となった恩恵。限定されて、限界が設定されて、限度がある。いつも通りのお小遣いと同じである。

 自分が絶対共感覚者になった、ではなく、自分に絶対共感覚者が教えてくれている、が正しいだろう。

 だから、どういう原理? なんてことはあまり気にしていない。

 どういう意図? とあのときの眠る最後の意思が、知りたい。

 

 もし………限りある、諦めの悪い自分のために別れまでの心の整理にと託した、なんても―――

 

 ―――いいや、借りてるものだから、返す。

 兄妹だろうと、貸し借りはきちんとすべきだろう。

 余計なことは考えず、一念に集中。

 今、熱のイメージに変換されて、愚兄の内部になだれ込んでくる映像は、すべてが左腕の得ている情報である。中心部に収束されていく光が、解き放たれて拡散されていく。その波紋状に広がっていく感知網、常人には感知できない抽象的な、だけど、決定的なナニカを引き寄せるよう―――左腕は掴み、

 

「!」

 

 目を見開いた当麻は、逡巡もなく部屋の扉の向こう側、宿の外へと駆けた。

 もう夜で道も暗い。まだ慣れていない異国の土地。入っていた路地の道幅が狭い上に通路のあちこちが分岐しており、まるで迷路のように入り組んでいた。だけど、当麻はまったく迷う様子もなく走り抜けていく。

 

(この『色』は……!)

 

 たとえば視覚で見えているかもしれない痕跡、たとえば聴覚で捉えているかもしれない共鳴、たとえば空気を撹拌していたかもしれないその体温や残り香、たとえば世界に浸透していたかもしれない覚えのある甘さ。そういった全ての情報が束縄となって、愚兄に答えまでの道を示している。アリアドネの糸を手繰ることで、迷宮を抜け出したように。

 赤色がこぼれ出した横道へと入った。すると辺りが急に開ける。

 そこで―――

 

 

エリザリーナ独立国

 

 

 ―――上条当麻は舞に行き合った。

 

 

 最初、空気が舞っているのかと思った。朱に栄える闇が意思をもって、濃淡をさわさわと蠢かせている。そんな風に見えた。

 しかし今吹雪くは白。

 そして、それにしては繊細な指先が風花のようにちらついている。はらはらと揺らめく、『雪』を渦巻かせる赤黒の流れ―――縁の柳髪の間から、人形のような横顔がのぞいている。そう気づくと、動く闇か揺らめく炎だと思っていたものは暗がりの暗紅に染められた着物でしかなかった。

 だから、それは舞だ。どういう種類のものかは解らないが、身体全体でゆっくりと円を描くような動きだった。それほど速い動作ではないが腕の使い方が独特で、大極拳の型のような意味で習得が難しい。そう、これを前に一度見た時に模倣しようとした愚兄にはできなかった。

 

「詩歌……?」

 

 呼ばわりは、知らない内に発せられていた。喉を働かせた自覚(おぼえ)はない。意識は全きを以て目の前の舞踏に奪われていた。

 揺れて、遊んで、遠ざかる、ふわふわと浮き出すような動き。その様は妖精の宴と、現実と幻想の境界線に映る鏡のよう。

 夜陰の異郷で不思議な舞を踊る………妹の影、香椎の姿に見惚れていた。

 その存在が人間ではないことは知識として承知していたが、今のこれは格別なものがある。彼女は非常識の住人であると、感覚が理性を圧倒して思い知らされる。

 しかしその忘我の時も、自身の言で仕舞いを迎えた。香椎は愚兄の声にピタリと動きを止め、うっすらと上気した頬を引き締めるよう………けれども、良く見ればやはり無表情であるとわかってしまう。

 そして、『雪』の正体が、あの英国でもいた科学サイドの白い兵隊、学園都市の第二位から生まれた存在だと、ようやく気付く。

 

「………」

 

 始めから注視していなかったかのように、息を呑む間に十数の兵との戦闘を終わらせていた香椎は当麻から視線を外す。夜の青い空気の中で見ると、月の色の肌をしていると思った。美しくて、神秘的で―――遠い。

 

「彼らは、私を調査するためにあなたの付近に派遣されたものでしょう」

 

 まるですれ違った知り合いを紹介するかのように、自身に差し向けられた刺客をこちらに語る。

 緊張を解かず、当麻は唾を飲み込む。

 解かずというより、自分でも緊張を解けないようでもあった。訊きたいことは山ほどあったのにどれも口から出てこない。

 本当に彼女は、<禁書目録>が言うような、『鏡の向こう』から抜け出して来たような<取り替え児(チェンジリング)>なのか。

 10万と3000冊の魔導書を記憶した居候が彼女の正体の予想する中のひとつ、欧州の古い伝承にある<取り替え児(チェンジリング)>。

 この世のものならざる妖精に誘われて、“あちら側”へ行ってしまったもの。

 帰ってきたものたちは普通に“こちら側”に馴染めるはずもなく、一度でもあちら側を触れてしまったものは、必ずその影響を残している。

 たとえば、身体(からだ)に。

 たとえば、頭脳(きおく)に。

 たとえば、精神(こころ)に。

 たとえば―――異能(ちから)に。

 後天的な突然変異であるが故に、存在するだけで世界の大前提を揺るがしてしまうもので、“人ではなくなってしまう”。

 そう、これだけ似ているのに、やはりどこか違うと思わされてしまう。

 そして、その外界と接する肌がこの右手には淡雪の脆弱さであれば、上条当麻には交わることも難しい。

 あの完全敗北した『右方のフィアンマ』などよりも、相対することを恐れてしまう。

 香椎は、そんな当麻の顔を一度見てから、流し目に伏せて。まるでもう一目で“いつもどおりに”こちらの考えが分かってしまったかのように。

 

「『鏡』とはどのようなものでしょうか?」

 

「どのような……って、普通に自分を映すための道具じゃねーのか」

 

 それにさして間を開けずに答えられたのは、ひとえにこのような問答に慣れているからだろう。

 そう、どこか違うとわかっているのに、やはり似ているのだ。

 その静かに頷くさまも、どうしても愚兄には既視感(デジャビュ)を与えてくるのだ。

 

「それも正解です。しかし、『鏡』という言葉の意味は一つではありません。あなたの答えた『道具としての鏡』は、第二義。第一は、光を反射して対面にある実体を映す、『現象としての鏡』」

 

 この鏡の歴史は人類よりも古い。何故ならば、鉱物金属を加工するまでもなく、水鏡と言うものが自然界に存在したからだ。

 原始人であっても、水面に映る顔が自分自身だと認識できたのだという。

 そこまでその意味は分かったが、何故それを語るその意図は分からない。

 香椎の言葉は続いた。

 

「言い換えれば、人間は種族として発祥したその時から、鏡像を自分の姿だと認知する生物だったということです。

 鏡映認知と呼ばれる能力で、類人類をはじめ一部の哺乳類に認められている。自己認識の第一歩であるとされ、人間が『自分』と言うものを客観的に認識する儀式。

 そして、それは同時に『他人』を作ること。人間と言う群れがあったとして、『自分』という区切りが無ければ『他人』を定義することはできません」

 

 考えたことはなかったが、言われてみるとなるほど。ときたま三毛子猫スフィンクスが鏡を見ても自身の姿だとは気付かず威嚇することもあったが、あれは“自分を知らないから”間違える。

 つまり―――そこまで、考えさせて、途端に雰囲気は一変する。

 

「私という鏡はあなたを映さない……なのに、どうして、私を見ようとするんです」

 

 その視線には敵意すら含まれている。

 深い瞳にはどんな嘘も通用しない。

 宵闇の街路は一転して、生死を分かつ法廷になっていた。

 嘘も、つまらない答えも許さない。

 何を口にしようと心臓を貫かれそうな雰囲気の中、当麻が抱いた感情は恐れより痛みだった。

 香椎の声は冷たく、また、回答を拒絶している。

 愚兄は漠然と、親鳥が床を温める巣から地面に落ちても独り立ちしようとする雛を連想した。

 一縷の希望を待ちながら、その希望の在処を憎む、持ち得なかったモノの喘ぎ。

 いずれは縊り殺されて死に至らなければならない小鳥にその手を伸ばそうとする、無知で浅ましい、小さな善性が香椎には茨のようにいとわしかった。

 

「あなたを受け入れることはない」

 

 『鏡の国のアリス』の冒頭で、アリスは『鏡の家では左右があべこべになっている』とだけを想像して鏡の世界に入っていく。ところが鏡の世界に入ってみると、元の世界で鏡に映っていた範囲は左右逆であったが、鏡の死角になっていた部分は現実とはかけ離れていた。時計が老人の顔であったり、暖炉の中でチェスの駒が動いていたり。

 鏡というのは物を映す道具であると同時に、世界をほしいままに切り刻むもの。その身に宿す像は真実だとしても、それは何者かによってデザインされた枠組みに制御されたもの。

 アリスは自身が理解していない深層心理の果て、鏡という枠組みの外にある不視の世界に幻想を観た。そして、恐怖を覚えた。

 人は鏡を見て表明された現実を把握するが、その鏡に映らない死角に住まう理解できない、その人の未知を具現化した謎の怪物(ジャバウォック)を常に畏れる。

 

 だから、香椎は上条当麻を受け入れることを許さない。

 

「……別に、認めてもらう、なんて考えてねーよ」

 

 必死の思いで、当麻はそういった。

 一体、どう説得すれば正しいのか。思えば、英国で遭遇していた時点で、それは表面張力で瀬戸際にとどめていたような状態で、今、これまでこぼれないように懸命に保ってきたコップの喫水線が、ついに超えられてしまった気分だった。

 だが、ここで踏ん張らねば、全てが崩れるとも思った。

 自分の願いが、終わってしまうと思った。

 だから、拳を握った。

 爪を掌に食い込ませて、耐えた。

 

「ずっと俺のことを嫌ってくれても構わない。けど、どうあっても俺はお前のことが嫌いになれないし、こうして一緒にいることを我慢してもらってるだけ十分だよ」

 

「言い換えます。あなたを受け入れるには無理がある。

 ギリシャ神話にベットのサイズに合わせて寝る者の体を切り刻む、『プロクルステスの寝台』の喩であるよう。これまであなたの右手で『人間としての規格』に押し込めようとしても、どこかで無理や犠牲が出るに決まっていた」

 

 それまでの真正面から繰り出すパンチにも似た拒絶から、背後からゆるゆると真綿で首を絞めていくように、喩に言い回しを用いて暗に隠して絞っていく。

 理解した時点で、もう手遅れとなるような語り。

 

「浦島太郎のバリエーションに、玉手箱の中身が煙ではなく、鏡だったという説もあります」

 

「それは、初めて聞くな……」

 

「その場合、竜宮城から帰ってきた浦島太郎は玉手箱を開けて、中の鏡を見たことで自分が白髪だらけの老人であることに“気づいた”。

 煙から『時』を返されたのではなく、浦島太郎は竜宮城で過ごす間も普通に歳を取っていた。ただ、それに気づいていなかっただけ。それが、鏡を見て自分自身の真実を観測することで“老い”という『異常』を自覚する。

 それと同じ。いくら逃げようとも、ある日突然、あなたで言えば“不幸にも”、玉手箱の鏡のように、逃れようなく、自分の正体を認知させられる日が来る。―――“私のように”」

 

 その先の言葉を、予期できた。

 その先の言葉を、阻止したかった。

 だけど、無情にもその被虐にも似た口は止められない。

 

「そして、真実を知れば、どうなるか?

 善意で助けた浦島太郎の物語の結末など参考してみればいかがでしょう?

 では、訊きます。

 もし、幻想(ゆめ)を殺し、無事に起こしたとしても」

 

 まるでギヤマン。

 華奢な硝子(ギヤマン)か、金剛のダイアモンド(ギヤマン)の鏡は、その映した御魂を引きずりだして、さらけ出す。

 

 

「―――あなたは、まっとうに『上条詩歌』が幸せになれると、思いますか?」

 

 

「―――っ!」

 

 愚兄は、絶句した。

 この影は、何を訊くのか。

 無意識にも答えを出すことを避けていたが、それこそは、当麻が叶えたい願いであり、ここまで来させ、日常から非日常への決戦に参加すると踏みださせた活動源であった。

 愚兄の、核ともいえた。

 “まずい”。

 膝から、力が抜けそうになるのがわかる。学園都市最強の刺客を退けてからも張り詰めていた精神(こころ)が、音を立てて崩れ出しているのを、当麻は直感した。

 ただ単に、妹と同じ顔で自分の信念を確認されただけなのに、それだけで震えだしてしまうのがわかった。

 どうしてだろう。

 どうして、こんなにも自分は怯えてしまうのだろう。

 

「思って、る」

 

 それでも、顔を下げることはしない。

 

「思ってないわけがねーだろ! 全世界を敵に回そうが、俺が、俺が幸せにさせる!」

 

 叫び、自分の胸にあるものをそのままに、叩きつける。心にともっている炎の熱を、そのままに吐き出しぶつける。

 しかし、

 

「……“そんな力が、あなたにあるとでも”?」

 

 香椎の言葉は、その心臓まで徹底的に凍らせにくる。

 

「今、見えざる手に背中を後押しされている気分になっているかもしれない。正しい選択をした自分には正しい力が宿っているとでも勘違いしているかもしれない。でも、それは所詮は『幻想』。このまま死地に飛び込んだとして、後ろを振り返っても誰もいないし、都合良く助けが来るわけもない。先も視えない。幻想は空虚な妄念。

 それを、理解しているのですか」

 

「それでも、俺はここに立ってる。偶然だろうが必然だろうが。今、ここにいる。どれだけ弱小でも、舞台に上がれば『大局』に影響を及ぼせる。その可能性があると教えたのは紛れもなくお前だ」

 

「どうやら、ここまで言って、あなたはまだご理解が及んでいないようですね。

 小器用な人間は賢い選択ばかりをして、失敗とは無縁に生きられるのでしょうけど、世の中には賢くない選択の方が心地よい時もある。

 だから、あなたみたいに身近でバカをやる相手が、本体にはありがたかったんでしょう。それであなたは、頼られると犬のように喜ぶ性分」

 

 ですが、と粘質な視線が、愚兄の影を突き刺し、

 

「私には無用。そして、このまま進めば、あなたは十中八九死亡する。無意味に。それを予見しながら見逃すのは、もはや見殺しとは呼べない最低の冒涜……

 だから、私は、もうあなたがここにいることが気に食わない」

 

 

 ―――あなたを、盤上から、除外する。

 

 

「ここへ連れてきてしまったのは、私のせい。だから、私の手で処理をする」

 

 ここは、“行き止まり”だ。

 疫災を遮断する道祖の<賽の神>のごとき存在が、ただいるだけで予定調和が狂う疫病神なイレギュラーの前にいる。

 

「いや、俺は自分の意思でここに来た。だから

 

 

「いいえ、もう終わり」

 

 

 一歩も、動けなかった。

 ガクン!! と愚兄の膝が折れる。

 両足から感覚が抜き取られたように、力の入れ方を忘れてしまったかのように。最初の一歩を踏んで、前に進むはずだった愚兄は、ストンと真下に落ちた。

 それでも上条当麻の右手は、異常を戻そうと自分の身体を右手で触れた―――しかし、身体は自由とならない。

 

「な……」

 

 驚きとともに、この現象に対する疑問を込めた視線を向けようと………だが、それもできない。カチカチカチカチカチ、と歯が鳴るばかりで、身体もとにかく空気との接触面を減らそうと丸まるばかり。

 寒い。冷気で凍えさせようとしているのか。

 だけど、異常ならばすべて打ち消す右手が触れているはずなのに。

 

「……冬のロシアは、場所によっては氷点下50度に達することもあります。独立国の主エリザリーナは、国全体に極寒の環境から民を守るために保護を掛けていた」

 

 すぅ、と音もなく細める両目で、聴き取り易いようゆっくりとした口調で言う。

 

「……この夜、この広場は先の戦闘から人払いが張られ、“環境保護の術式が解かれている”。……鈍感なあなたは、私があなたに体温を下げないよう<定温保存(サーマルハンド)>を掛けていたことも……そして、先の会話の途中から体感を麻痺させる<感覚遮断(センスパラライズ)>の能力だけに切り替えていたことも気付いてなかった」

 

 だから、この寒さは右手じゃ消せない。

 学園都市製の学生福は『対応できる環境の幅』が広めに作られているが、流石に限度がある。

 彼女はずっと、妹の姿を見ただけで飛びだしてきてしまった間抜けな自分が極寒に凍えぬよう、細心の注意を払っていたのだ。

 これまで上条当麻が敵対し相手してきたのは、どうやってこの天敵ともいえる右手を持つ自分を倒すかに腐心し、労力を使ってきた。だが、これは逆だ。“死なないようにしてきた”。幻想で守ってきた。こんな相手は初めてだ。こんな理論的にはありえても現実的には考えられないようなことを思いついて実行できるのは、古今東西どこを探しても彼女しかいない。

 そして、それは、“いつもと同じように妹に助けられていた”事と―――

 

「あなたは自分の身も守れない、と自覚しましたか……?」

 

 ―――“こんな状況になっても助けてもらえることを当たり前に甘受してしまってる自分自身”を思い知らされた。

 そして、冷えていくのは精神的だけでなく、肉体面も。

 体温が30度を下回れば、人の生命はほぼ100%失われる。右手ではどうしようもない現実。

 温感を干渉していた能力が解けても、頭で感じる状態が変わらないということは、痺れが限界を迎えて感覚が消えているのと同じように、もう一線を越えているような段階。

 視界が揺らいでくる。ぼやけてくる。この茫漠とした暗闇に堕ちていく。

 前後左右の区別もつかなくなり、目の前にいる香椎が、ピンボケした赤光としか映らなくなる。

 こんな相手のことも見えない状態では、勝てはしない。

 

 

「だったら、私が助けてやるわよ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 凄まじい衝撃が、街を揺るがした。

 濛々と積もった寒国の雪が塵埃となって世界を覆い尽くし、すり鉢状に抉られた広場に、少女の人影が舞い降りる。

 

「ったく、ちょっと目を離したすきにどこ迷い込んだと思ったら……!」

 

 それは、落雷に等しき一撃。

 意識を集中させた前髪から、青白い火花とともに、電撃の槍をそのすぐ眼前の真下に撃ち落としたのだ。その標的が小柄な少女ならば衝撃波だけで飛ばされよう。

 電圧十億Vの一撃――“この程度”でやられるような相手ではないと見ているが、牽制にはなる。

 この初撃で怯んだ間に、愚兄を回収避難させる。

 初めて(まみ)えたが、彼女は顔だけでなく、風格までも似ており、こちらの緊張度をいやでも高めてくれるのが幸いして、初手から本気で打ちこめた。

 だから、御坂美琴は、けして気を抜いたりはしていないし、油断していなかった。

 

「なっ―――」

 

 だが、雪煙の中から香椎の手がこちらへ伸ばしたと思った瞬間、

 

 

 美琴の視界には

             空が急速に近づき

   そして急速に遠のいていった。

 

 

「痛ぅっ!!」

 

 背中から腰が、雪化粧された道路にしたたかに叩きつけられる。

 “私は投げられたのだ”という理解が数秒経ってから頭に巡ってきた。

 

「何をされたかわからなかった、という顔ですね。偽物でも私は『上条詩歌』なんです。口先だけではなく、審判役を務めるだけの実力はあるつもりです。そしてあなたに戦い方を教えたのは誰か」

 

「けほっ……」

 

 咳き込みそうになるのは最小限で堪えて、息を整えながら立ち上がる。

 戦い方を指導した相手が誰かなんてのはわかってる。細かな癖の情報も知られている。だが、私は今、どうやって投げられた?

 

「……っ、似てるのは顔だけじゃないよーね」

 

「<幻想擬体(AIMクローン)>。あなたがこれまで記憶する中で参考にする対象で言えば、レベルアッパー事件の<幻想猛獣(AIMビースト)>、0930事件の<正体不明(カウンターストップ)>……ああ、それから、<大覇星祭>の<幽体拡散(ディフュージョンゴースト)>もあります。それら現象に実体を持たせ、『上条詩歌』をモデルとした自律思考を投影された……。

 ―――科学(それ)だけで、理解できるような代物ではないでしょうが、戦うのはやはり本分じゃない。大人しく引いてくれると、助かるのですが?」

 

 いくつかパターンを考えるがしかし……ここで彼女を倒すしかない。

 それに幼馴染のカギを握っているのが、彼女だ。

 この貴重な機会を逃すなんて、無駄遣いもいいとこだ。

 

「聞きなさい、御坂美琴」

 

 こちらが諦めていないことを察したのだろう。香椎が口を開いた。

 

「この大決戦は、私の本体――『上条詩歌』が望んだもの。この世界のために必要なもの。世界大戦を止めた今、それを果たすことで初めて、『上条詩歌』の犠牲は価値があったものになる。

 そこの愚者に付き合って、その計画を破滅させようなどと、言語道断だとは思わないのですか?」

 

「ふざけんな」

 

「………ほう?」

 

「アンタの言うとおり、上条詩歌が望んで犠牲になることで私たちの世界を守ろうとしているのかもしれない。だけどね、私は納得できないのよ! お姉ちゃんが犠牲になった世界なんて、私には笑えるほどの価値もない! だったら、この馬鹿に付き合ってぶち壊したほうが百倍ましよ!」

 

「……感化されてしまったようですね。それでなにか? あなたは邪魔して、今後の世界の行く末に責任を持つとでも言うんですか? 超能力者ごときが本当に責任を背負えるとでも?

 やめておきなさい。到底あなたが背負えるような重さのものではない。これはあなたのためを思って言っているんですよ」

 

「いや……私は『上条詩歌』の代役にはなれないし、なりたくもない。なりたいのは今は幼馴染の妹分で十分よ。だから、姉が大変な時なら、そばにいて、支える。私の時みたいに。そして―――今の私は、この馬鹿の味方よ。だったら、なおさらでしょう」

 

 前髪から、その身体から紫電が迸る。

 学園都市の第三位、最高の発電系能力者。

 対し、赤い代行者は動かない。何もしない。ただ、ぼんやりと相手を見つめている。

 そしてそれに、美琴は、警戒を解かず、相手の一挙一動を、その神経電流の動きまで見切るよう。

 

「私がそんな戯言を許すとでも?」

 

「アンタに許してもらう必要はないッ!!」

 

 電撃の槍を繰り出し、その隙間を埋める砂鉄の剣の並列思考の起動演算。

 超能力者の美琴が本気になれば、同時に十数もの並列演算を平然と成し遂げる。限界を意識したことはないが、脳への負担を意に介さなければ三桁まで届くだろうか。

 無意識に放出してる電磁波(レーダー)に察知させずに潜り込まれた怪異を、こちらの想像を超えた機動力にあると――白井黒子(ルームメイト)の<空間移動(テレポート)>のような――そこまで考慮しての選択だった。

 しかし。

 

「選択は良いですね」

 

 走り抜けた砂鉄の剣は香椎を狙ったはずだが、その挟まれた空域内の大気を焦がす閃熱。

 一帯を<超電磁砲>の膨大なAIM拡散力場に支配された空間を、『赤信号』は“まっすぐに突っ切って”きて、避けもしなかった。代わりに、電撃の槍と砂鉄の剣の方が“相手を避けた”。

 

「一撃を受けただけでそういう選択ができるのは、それなりの心構えができている証拠。だけど、知識不足、勘違いしたままでは正しい判断はできません」

 

 特異な機動力ではない。

 点から点へ跳び越えているわけでもない。御坂美琴にしてみれば確実に当てる距離にいる。

 なのに、当たらぬ。外してしまう。

 御坂美琴の繰り出す雷撃はあさっての方向へ飛んでいく。

 

(こ……れは―――っ!?)

 

 背筋に、ぞっと嫌な予感が走った。

 いったい何が起きたのか、最初はわからなかった。

 だが、すぐに理解する。思い出した。

 昔に似たような経験をしている。

 今、彼女がしたのはこちらの能力に干渉した。美琴と同じ電撃能力で。だがそれは、美琴のよりも速いわけでも、抑えきれるほど強力なものでもなかった。ただ、遣う場所が巧い。

 会話をしながら、途中、途中でこちらに感じ取れない程度にAIM拡散力場に――数式記号の+を×に変えるよう――干渉を挟みこみ、美琴が展開しようとしていた演算式に、定期介入していた。

 能力の発動が、美琴の予想のつかない方に失敗させるように。

 <幻想投影>は、明らかに周囲の力場をも制御していた。彼女の感覚網で捉われる力は、弱体を余儀なくされる。

 

(でも、それでも、この電撃の中をまっすぐに……!?)

 

 しかし、こうも完全にやられているのは初めてだ。幼馴染が本気を一度も自分に見せていないかもしれない。だが、<幻想投影>の『干渉』は、<幻想殺し>と同じく処理限界があり、超能力者の制御力を強引に奪えるようなものではないのだ。

 だが、起こりえない筈の誤作動が起こってる。この世界の現実は、こうも自分だけの現実(パーソナルリアリティ)を裏切ってくる。

 まさか、『干渉』と同時に、木山春生の<多才能力(マルチスキル)>の応用で対発電系能力者(アンチエレクトロマスター)として組み立てた『避雷針』を使ってる? それとも発電系能力を封じる念動力<気力絶縁(インシュレーション)>を再現してる? だけど、そのどれもは、今のような本気の御坂美琴を抑え込めたか?

 もう一種の嵐雷の中ともいえる、電撃の火花の飛び散る中を踏破して。

 干渉(邪魔)されても絶対の自信のある攻撃で、余波だけでも十分にひるませるのに。

 

「だけど、この程度で驚いてなんかいられないわよっ!」

 

 美琴の指が、動く。

 咄嗟の制御には、身体で指揮した方が、イメージが掴み易く、作業精度と操作速度が上がるのだ。あの木原那由他に絡まれた時もそう。例え干渉されようがそれ以上の制御力があれば、振り切れる、はず……

 

 だが、ここで先の一手が枷となる。

 

「焦って余裕をなくして制御すれば自滅するし―――隙も大きくなる」

 

 制御に集中して、自身が掌握できる限界以上の力を発揮しても―――少し式を違わされれば、自爆を免れない。電撃の槍は超高位の発電系能力者の美琴は耐えられるかもしれないが、超高速で微振動している砂鉄の剣を受ければタダでは済まない。

 それができると彼女は証明している。

 よって、自身の周囲に敷いた無意識の防衛範囲を広く取ってしまうし、既にこちらの予想を上回ってそこまで踏み込まれている。

 蛇なる砂鉄の剣が迎え撃とうとするが、やはり触れられずに素通りするのみ。あさっての方向を殴った砂鉄の剣が、地面を抉った。

 

「無駄。科学で全てが計算できると信じてる、<自分だけの現実>が頑固過ぎるあなたにはこの結果は割り出せない」

 

 つい、と滑るようにその足は最後の間合いを軽く潰す。

 

「―――!」

 

 意識の空白という針の穴を通る。速度ではなく、『相手の流れを読んでそれを利用する』<木原>の得意とする『間合いを盗む』とも呼ばれる純粋な技術だ。

 目の前に、赤い偽姉の姿が肉薄。現れたかと思う間も与えず、次の瞬間、

 

 

 視界が回転する。

 

 

「くぅっ!!」

 

 また宙に飛ばされ、凄まじい衝撃が少女の身体を撃ち抜く―――も、ワンバウンドしても今度は磁力の反発を巧みに操り、四つん這いの四点着地ですぐに体勢を立て直す。

 

「力任せに抑えようなど単純すぎる。強いだけでは勝てない。それが現実」

 

「ペラペラ説教なんて余裕ね!」

 

 付近の瓦礫を浮遊させ、弾丸として飛ばす電撃姫。だが同じことの繰り返しで、巨大な破片を代行者はすり抜けたように躱して、彼女の後方に跳ねる。あらゆる攻撃が通じない……?

 そして、顔を上げた時には眼前に手の平が、

 

「私から言わせれば、あなたの方がよっぽど驕ってる」

 

「あぐぅっ!!」

 

 またも地面に叩きつけられる。

 幼馴染の体術はそれだけでも、高位能力者を相手取れる。

 だけど、今のは触られていないはず……

 

「さて、『上条詩歌』が能力査定において特例を受けることとなった理由とは、一体何だろうか?」

 

 思考を読まれたようにその声は美琴の耳を通って脳に滑り込む。

 

「常盤台中学の首席だから? それとも、統括理事会に推薦されたから? それとも―――」

 

 立ち上がろうとする美琴に、香椎の手が伸びてきた。

 とっさに身を翻してその手を避けようとしたが、一瞬体重が軽くなったような感覚がしたかと思うと、次の瞬間にはまた地面に叩きつけられていた。

 

「くぅっ! ……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

「触れたものの重力を自在に操る<重力変動(グラビテーション)>という能力があります。―――まぁ、今その能力を使ったとは言いませんが」

 

 能力を使った攻撃は読まれる。

 美琴は立ち上がるフリだけして立ち上がらず、虚を突いて香椎に“足払い”をしかける。

 

「“足払い”」

 

「えっ!?」

 

 香椎はそう呟き、美琴の右で足払いを縄跳びの際の軽い跳躍で、完璧に躱した。

 

「未来を予知する能力、<未来予知(プレコグニション)>。思考を読み取る能力、<読心能力(リーディング)>……

 いいえ、この程度の浅慮な発想、上条詩歌ならば予測できて当然。未来を予測する必要も、思考を読む必要もない。まして、それが御坂美琴(幼馴染)の行動パターンならば」

 

 くっ……こうなったら……

 

 動揺するな、と自分で自分に言い聞かせる。そう、香椎自身が言うとおり、この程度のことなら『上条詩歌』なら予測できて当然。

 姉でも美琴の全力は抑えつけられなかったはず。そこに、賭けるしかない。

 投げられるより早く、電撃の牽制を放ちながら至近から転ぶように距離を取り、アウトドア対応のレジャー靴の左足踵へ手を伸ばす。ストラップに留められていた物を勢い良く引き抜く。まるで特殊部隊のナイフのように取り出されたのは、長さ10cm程度のプラスチック製の拳銃にマガジンにも似た、コインホルダーから一枚―――

 

 

「そしてあなたはこう考える。『こうなったら、『上条詩歌』でも抑えられなかった全力の超電磁砲しかない』」

 

 

 ―――ゲームセンターのメダルを握った美琴の手ごと掴まれた。狙いを定めようと振り向いた時点で迫れていた。またも電磁波に感知させず(ステルスに)間合いを盗まれて―――攻撃(コイン)も盗られた。

 もぎとられて、投げられたのだ。

 

 かつて、その能力開発に長く付き合った木原数多という研究者が、あらゆる対抗策を用意して最強の能力者である第一位を圧倒した体験が、この第三位も再現されている。

 

「ま、だ……まだ……ァ!」

 

 下が雪原とはいえ、何度も投げられ、また行動を潰され。

 まだガクガクと震える膝を必死に叱咤して、立ち上がる御坂美琴は、その幼馴染の赤い影を睨みつける。

 様々な能力を扱う相手をやり合うのは初めてではない。

 レベルアッパー事件でも、<多才能力(マルチスキル)>の木山春生を圧倒した。

 ただ、それは多過ぎる選択に生じた迷いを突いた結果であり、今回の相手は。その多様性を使いこなしてはいなかった研究者とは違う。

 使える、のではなく、使いこなせる才能。

 <多重能力(デュアルスキル)>だから上条詩歌が強い、ではなく、上条詩歌が<多重能力>を使うから強い。

 そして、その多様性は能力だけに留まらない。

 

「つくづく甘い。“こんな初歩的な術”に引っ掛かっている時点で失格だというのに」

 

「っ、舐めんじゃ―――」

 

 これまで、美琴を転ぶように“誘導していた”正体は、『人払い』を応用した呼吸投げ。

 無意識に働く危機回避反射能力を逆手にとって、体を崩すように誘導しただけ。

 しかし、ひらりと手の内に隠し持っていた札を指に挟むが、御坂美琴はそれに気付かない。

 投げ転ばされた地点が、歩法による陣形成<禹歩>で戦闘の合間に踏み固められた中心だということも。

 

「科学的に未分類の植物や昆虫を混ぜて作り出された『薬』をあなたは『混ぜられた植物や昆虫が薬学的に効果を発揮する』ように解釈してしまう。この複雑に意味を入り組んだ文様の『符』でさえ『記号や暗号による精神学的な催眠暗示をかける』と解答するでしょうね。

 まさか、こんな勉強不足で、この地に来るなんて、そこの愚者と同じく除外させる必要があります」

 

 『人払い』は、魔術耐性のない科学の住人には効果的だろう。ただ、それを武器に使うというのは聞いたことがないが。しかも、古今東西の『雷避け』の(まじな)いをも組み込んでいる。

 しかし、

 

「愚者愚者って……!」

 

 幼馴染の畏怖も相まった言い知れぬ危機感に美琴は後逸して距離を取ったが、

 

「その愚兄に、誰よりも……っ! 、感化されてんのはっ! あなたじゃなかったですかっ!!」

 

 それでも背を見せることはなく、闘志も損なっていない。

 

「……………直接叩き込まないと理解できない、と判断します」

 

 香椎はまっすぐに天を指差して、宣告した。

 

 

「―――<超電磁砲(レールガン)>方式<九天応元雷声普化天尊>」

 

 

 それは、道教に存在する、その名自体にも唱えるだけで災厄を退けるだけの威がある、最高位の神格をもった雷帝。

 九天とはその名の通り、天の全方位を九に区分したものであり、そして<仙人>において、『三』は聖数―――その聖数を二乗にかけ合わせた『九』とは至上の格である。

 その神力は雷神の範囲を大きく超え、万物の師ともいえるもので、善と悪を裁く『雷』を天から落とすのだ。

 

「―――」

 

 空を、見上げる時間も与えられなかった。

 絶縁破壊の轟く音も聴こえず、発光現象の何も視えなかった。それは、御坂美琴の頭上と月を隠す暗雲とを結んだ黄金の雷線。美琴はその光を視ていない。その天から撃たれた黄金の雷線は、“ひとつではない”。

 『鈞天』――中央、

 『蒼点』――東方、

 『昊天』――西方、

 『炎天』――南方、

 『玄天』――北方、

 『変天』――東北方、

 『幽天』――西北方、

 『陽天』――東南方、

 『朱天』――西南法。

 計九つの雷線が、御坂美琴を座標軸に、頂上から一斉に集中した。

 

「ガンマナイフの原理と同じです。201の座標から照射された『線』は通過する細胞を傷つけませんが、それらを結ぶ点のみにダメージを与え、対象を除去する医療技術。

 雷帝は、善に慈悲深く一切傷つけることなく、悪を裁く。

 雷の一発二発であなたが倒れることはないでしょうが、

 浸透系の雷線(ライン)を九発、その裡を狙って同時のタイミングで一点(ポイント)に重ねて飛躍的に増大したその威力には耐えられません」

 

 <超電磁砲>の全力を以てすれば、天候をも操作できる。

 だが、それは歪に屈折した自然の稲妻ではなく、無駄に折れ曲がらずに最短距離で、その対象だけをピンポイントに絞って狙い撃つ、レーザーライトのような線で落ち、さらには地上に焦げ跡も残さない。

 それは、自身では落とすことしかできない強大な力を、完全に掌握していることの証。

 そして、身体の芯から貫いたその光が焦点で重なったときに、裡で轟く怒涛の雷声で、落雷が落ちたのだとようやく悟る。

 

「…………………ぇ……ぁぃ?」

 

 かすかな痛みも、覚えなかった。

 五感が麻痺し、平衡感覚が喪失。

 何時の間に美琴は倒れていて、それがどれほど経ったのか、時間の感覚すらも吹っ飛んでいる。

 その全力に触れただけで同系統の能力者が気絶する超高位の発電系能力者という“電撃には絶対の耐性のある”はずなのに……その自分が気を失った。

 御坂美琴が、“感電”により自由を失ったのだ。

 

「私は、本体とは違って、“器”がない。だが、だからこそ枷のある本体以上に、

 境界を無視して、

 限界を超えて、

 世界を発揮ができる」

 

 身体は、動かせない。歯軋りもできないし、舌は満足に言語を発せられない。

 細かな雷の残滓が、全身をパチパチと弾けて、自由を縛っている。

 この帯電は、元は自分の力だと直観的に理解はして、今は自分の力とは別物だということも思い知らされている。御坂美琴が規定している『普通の物理法則』の枠を超えて、『不可思議な法則』をも包括している。その第三位の超能力を、さらに二乗した九天の雷撃は、御坂美琴にそれを実感させた。

 

「後は夢の中で語ります。まだ残る微かな意識も、落として差し上げm」

 

 動けぬ美琴の眼前に手を翳そうと―――そこへ、動く黒い影。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 それは、冷徹な挙動。

 標的が、獲物を仕留めた瞬間を狙う狩人。

 音もなく一瞬で這い寄ると、後ろがお留守ですよ―――なんて無駄な親切なんて言わず、『手袋』の長物を断頭刃(ギロチン)の如く、勢い良く振り下ろした。躱され、止まらず続けて、単純な槍とも異なる、もっと鋭い、四本指の刃の一閃が走り―――て、仕留めそこなったが、香椎を御坂美琴から離れさせた。

 

「……あなたは、イギリス(こちら)側の人間だと思っていましたが」

 

 不意打ちに驚いたというより、攻撃されたことを遺憾に問うて、奇襲者はようやく口を開いた。

 

「でも、代理人の配下ではありません。ま、ここらでお兄さんのポイントを稼いどくのも悪くないかな、って」

 

 レッサーは『尻尾』を揺らして遊びながら、おどけた調子で言う。

 しかし、その目は笑ってない。

 単騎で戦争級の人材と評価されている超能力者が善戦することすらできなかった、何もできずに倒された―――その事実は、異なる世界の住人であるレッサーにも容易に受け入れられるものではないのだ。

 

「それに、上条当麻の行動は害を及ぼさないかぎり阻害しない、と英国は決定しています。それはあなたも認めた筈では?」

 

「そこの男があまりに愚かなので、気が変わった、とでもいいましょうか。ええ、これは私の独断専行です」

 

「なら、止めても構いませんよね?」

 

「それよりも、そこの愚か者を止めるべきだと私は判断しています」

 

 そこに、先にはないイラつきが滲んで見えた。

 ここまで淡々と心なく処理してきたはずだが―――その赤瞳には、微量の感情さえ宿っているようだった。

 やはり、とレッサー。ロンドンから一定の調子で平坦で希薄だった香椎という存在の人間性は、この<幻想殺し>の少年に関することだけは活性化されるようだ。

 ならば、そこを刺激すれば本意とやらが窺い知れるか?

 

「それとも、あなた達は本体に続いて、また無用な犠牲を作るつもりですか」

 

 それは同じ陣営の同士を見る目ではなく、広義における味方に対して向ける視線でもない。ただ排除する障害と視定めた相手を射抜くだけの刃をもった眼差しであった。

 思えば、最後の最後で奇襲と仕掛けなければならなかったのも、あれが第三位との戦闘中も隠れているこちらから注意を外さなかったからだ。

 もしかすると、英国、イギリス清教らの修道女らが割って入ることすら想定内としているのかもしれない。

 レッサーは、これ以上の問答で避けられるような相手ではなく、また逃げられるような状況だと、諦観に似た静かな決意で、<鋼の手袋>の術式を起動させる。

 

「人の人生は、その人が選ぶべきでしょう。当人が命を賭けると決めたなら、他人に止める権利はないんじゃないんですか」

 

 適当な口調であるが、それに慣れるだけの命のやり取りをレッサーは経験してる。

 超能力者と組んで、二人がかりで相手をしなかったのは、隙を狙うだけでなく、連携の問題から実力と、敵か味方を見極めるという考えもあった。

 そして、冷静になって考えれば、英国が仕切る国の命運をかけた一世一代の大行事に、イレギュラーな分子を残さずに除去する代行者が正しいと判断している。

 それでも、

 

「ま、もう手を出しちゃいましたからね。お叱りなら後で受けましょう」

 

 <幻想投影>の攻略法は、一撃必殺。

 一度でも視られてしまえば、二度目からは成功率が確実に下がる。科学の超能力者だろうと関係なく、研究されてしまう。ああいったタイプには、対応されない新技で一気にやるしかない。

 『指』の開いた『手袋』の先端から、照射される赤のレーザーポインタ。

 これは、英国騒乱のクーデター『ブリテン・ザ・ハロウィン』までの<鋼の手袋>をレッサーが更に改造したもの。

 愚兄には話したが、彼女はまだ知らない未見。

 直接触れなくても、レーサー光が当たれば、それだけで対象を『掌握』できる。

 <鋼の手袋>を前に突き出した構え――と見せかけて、レッサーは照準を……

 

「―――ああ、“遠隔で『掌握』できるように”したんですか」

 

 『上条詩歌』の師は、上位の能力者を初見でも大まかに予想がつけるような洞察力の持ち主で、元より絶対共感の観察力はずば抜けている。

 一度も触れさせていなくても、晒している時点で見破られる。

 その推理を口に出して、その相手の瞳孔の反応から、さらに確証を得た。

 

(なんっつう理解の早さ!? だったら、これ以上視られる前にッ!)

 

 その右手を振るえば、如何なる障害をも力業で打破する聖者の絶対勝利な力量とは似て異なる、その鏡瞳に写せば、障害を最小限で封殺できるまでの攻略法を編み出す賢技の完全勝利な技量。

 そんな怪物に、下手な無駄撃ちも、秒の無駄も許されない。

 レッサーは香椎が動くより早く、光が、香椎目がけて放たれて……

 

「ですが、その<鋼の手袋>には、弱点(あな)がある、と見ました」

 

「なん……っ!?」

 

 しかし、<鋼の手袋>から直進した赤のレーザーは直前で折れ曲がった。

 能力に予備動作はない。

 光で照準を合わせるものならば、その光をすらす。

 学園都市の能力がひとつ、<偏光能力(トリックアート)>。

 自身の周囲の光を屈折させることで、実際とは異なる位置に像を結ばせる能力で、光事態に影響を及ぼすため、肉眼だけでなく光線などにも影響を与える。

 座標線を目標に物体を掌握する術式だが、改造された<鋼の手袋>のレーザーポインタが景色ごと歪曲されて逸らされてしまえば、簡単に外れる。

 

(レッサースペシャルカスタムをこんなあっさりと攻略するなんて……!? 噂に違わぬ怪物っぷりですね!)

 

 実像と現在位置の異なる相手に光を照準とした遠隔掌握は諦め、ならば、すぐに直接の掌握に切り替える。

 

怪力の帯(メギンギョルズ)破壊の棍(グリーザルヴォルル)鉄の手袋(ヤールングレイブ)を複合させた霊装は、まさしく何もかもを掴む蛮神の手」

 

 香椎の解説とともに、複数の影が盛り上がった。

 

「北欧神話の蛮神トールが、片足しか持ち上げることができなかった例外がある。それは、猫―――」

 

 猫が―――いや、猫の形をした影が増えていく。

 1匹や2匹ではない。至る所にある街の陰から猫を模した影が現れ、レッサーの周囲を埋めていくのだ。

 

「何ですかこの子猫ちゃんは!?」

 

 触られてはまずい相手だ、と判断してるレッサーはその猫の大群から逃げ、そして、払おうとするが―――すり抜けた!

 北欧神話のトールの属性を帯びるものならば、猫の特攻を防ぐことはできないのか。

 

(猫の形成で、<鋼の手袋>の術から免れようなんて、そんな簡単に

 

 

「『馬鹿っ! それは三次元投影(ホログラム)よ!』」

 

 

 第三位の忠告が飛ぶ。

 彼女の同級生に、光を物質化させて幻を産む<擬態光景(トリックフィールド)>と言う能力がある。それは惑わすには最適の能力であるが、物理的な干渉は雲の様で、全くの無害。

 だが、それより。

 <偏光能力>が展開されているのなら、視界に映っている相手の位置はズレている。

 

「『アンタの後ろに―――ッ!』」

 

 だがその声が耳に届いた瞬間、<鋼の手袋>が消えていた。

 そして香椎が、霊装の持ち主の後ろに立っている。レッサーの<鋼の手袋>を持って、その刃の付いた指を首筋に当てている。

 一歩も動けなかった。それは彼女の動きが速かったからではない。

 雷神が持ち上げられなかったのは、猫―――に見せかけた、ミドガルズの大蛇ヨルムンガンド。

 巨人ウートガルザロキの幻覚に、最強の戦闘神だったトールはあっさりと手玉に取られたのだ。

 

「っ! 聴き入ってしまった! ベイロープも同じ手にやられたというのにっ!」

 

 解説は気を引くための話術で、幻像も所詮は騙し。

 そしてこちらに覚らせないほど、幻像の出し入れと陰行の移動がスムーズだった。ゆったり進み、ゆっくり回りこみ、こちらの得物を擦り取った。

 

「―――なんて、こうなるとは思ってましたよ!」

 

 得物が奪われ、自由となったレッサーの両手には針金。

 そして、足元には雪に隠して忍ばせていた拘束術式<封の足枷(ドローミ)>。

 

「いくら幻術でも、この肌に感じる気配までは惑わせませんよね!」

 

 香椎の右足と左足をひとつずつ円で囲う∞の図を描くように。

 先の会話の最中に、『尻尾』を遊ばせながら、仕組んでいた『罠』。

 レッサーが前に転がりながら思い切り手を引くと、香椎の両足が縛ろうと一気に縮まる。

 

「あなたは英国にとって益のある人材。初めから殺す気なんてゼロ。と言うわけで、貴重な拘束霊装<封の足枷>で大人しくしてもらいますかね」

 

 足首に巻きつく針金は、全身の動きを阻害する効果がある―――と、だが、搦め捕ることができずに“またも”すり抜けた。空を、切った。

 

 

「ちが、う……さっきのは、…私、じゃない……」

 

 

 未だ舌は自由を取り戻せず、途切れ途切れの声だが、それはレッサーの耳に届いた。

 第三位は、雷に撃たれて、舌先までも満足に動かせないほど痺れていた。なのに、“すぐ大声でこちらに忠告が飛ばせるものだろうか?”

 冷静になれば、そんなことは考えられないはずなのに、油断ならない相手に集中して、超能力者の状態を把握できないほど視野が狭まっていた。溺れる者が藁を掴むよう、追い詰められて助言を信じてしまうほど、余裕もなかった。

 だから。

 まさか。

 声さえも模倣したのか。『上条詩歌』が真似れるのは、何も異能に限った話ではなく、一種の才能で声帯模写も得意であった。

 それで、『後ろ』だなんて、間違った方向に意識を誘導させられて……まんまと奥の手を晒してしまったのか。

 

「いいえ、肌で感知する気配をも似せる影を操作する能力があります」

 

 光幻の塗装が剥がれて現れたのは、自身の影を実体化させ、気配さえも誤魔化す<影絵人形(トリッキードールズ)>が創った精巧な偽物(ドッペルゲンガー)

 

「そして、あなたは益のある人材。こちらも命を奪うつもりは一切ありませんので、大人しくしてもらえませんか?」

 

 レッサーの背中に赤い光点が浮かび、その先を見れば、猫の横に本物が現れた。

 現れた、としか形容できぬ。

 ぺろりと空間を剥がしたかのような、出現の仕方。

 そして、開いた『指』は握りこむ。

 骨肉を握り潰さぬ、だけれど、全身を圧迫されて身動きができない絶妙な力加減。

 初めて扱ったはずの得物なのに、こうも上手く……!

 

(ベイロープめ。何が虚言に惑わされずに最初から油断しなければ勝てた、なんて、見誤ってますよ!? 過小評価じゃないですか!?)

 

 ―――と、仲間に頭の中で愚痴った時、拘束が外れた。

 

 その<鋼の手袋>を避雷針に、電撃の槍が撃たれたのだ。

 虚像で誤魔化そうにも、電磁波(レーダー)がその位置を正確にとらえている。

 かろうじてでも、意識して喋れるようになったということは、思考ができる。演算ができる。能力が使える。

 全身の自由はまだだが、頭だけでも働かせるのなら、立ち上がることだって可能だ。

 

「……全身の運動神経に走る電気信号を直接能力で制御して、傀儡(くぐつ)のように強制的に身体を動かす。間違えれば酷い激痛を味わう羽目となりますが、良く制御されています」

 

「そう、ね。……昔…詩歌、さん…に…開発……付き合ってもらったわ」

 

 筋ジストロフィーの治療のためにも、磨いたこの技術。

 腱が切れようと、骨が折れようと、発電系能力ならば、関係ない。

 だが、それは制御が困難な技術であり、それを打ちのめされた今の状態で扱えるとは……

 

「少し、見誤っていたようです」

 

 火事場の馬鹿力にでも目覚めたのか、普段以上の発電量が空間全体を満たして、大気を鳴かせている。

 それを一点に絞り込んで、コインを弾く。

 それは、第三位の代名詞ともなった<超電磁砲(レールガン)>。

 この一発で、目を覚まさせてやる。

 だが、

 

(どうして、何もしないの!?)

 

 的になったつもりか棒立ちのままの姿に、美琴は迷う。

 人に向けていいのかというのではない。

 この感覚は、愚兄や第一位に向けて攻撃を放つような―――通じない、という確信がよぎるのだ。

 空城の計みたいに、何もしないことで戸惑わせようとでも言うのだろうか。

 それとも……―――脳裏に、言葉がよぎった。

 

 ―――『一撃を受けただけでそういう選択ができるのは、それなりの心構えができている証拠。だけど、知識不足、勘違いしたままでは正しい判断はできません』

 

 昔に、その思考パターンの幼馴染(オリジナル)が口にした“教師の特権”をも懐かしむ余裕などないはずなのに、思い出す。

 その直感が、彼女に別の思考を促したのだ。

 

(勘違い……?)

 

 だとするなら、一体何を勘違いしている。

 

「まさか―――」

 

 そのまま、美琴は、弾いたコインを、地面に落とした。

 

 

 

 雪の中に、コインは吸い込まれる。

 そして、緊張の糸と一緒に身体を動かしていた電気線も切れたのか、美琴は崩れ落ちた。

 

「何やってんですか!?」

 

 最初で最後のチャンスを不意にした美琴に、倒れたままレッサーが叱責する。しかし、香椎は目を細めて、

 

「ほう……200のプロが囲んでも気付かなかったこの種に勘付くとは―――ますます放置できません」

 

 香椎が、その手に巻き寄せるのは、レッサーが捕縛をしようとして押収した針金の拘束霊装<封の足枷《ドローミ》>。

 

「北欧神話の主神殺しの魔物(フェンリル)を捉えたのは、革の戒め(レーシング)でも筋の戒め(ドローミ)でもない。<黒小人>が作った魔法の紐《グレイプニル》」

 

 『オーディン』を食い殺した『フェンリル』を縛ったものは、普段は良くしなり、良く伸びるのに、一度縛ってしまえばどれほど強大な、たとえ世界を飲み込むほどの力でもけして引き千切ることができなかった。

 

「その素材は、猫の足音、山の根、女性のひげ、鳥の唾、熊の腱、魚の息。しかし各項目に意味はなく、これはただ『この世に存在しない素材で作られている』という暗喩です」

 

「そんな伝説の物品(アーティファクト)が貴女の手元にあるとでも?」

 

「いいえ。ですが、同じく『この世に存在しない素材』なら」

 

 かつて、処刑塔を始めとする『凶悪な魔術師を幽閉するための魔術施設』で『凶悪の魔術師を封殺してきた器具』を生産していた、<必要悪の教会>と契約を結んでいた拘束職人エーラソーンは、この伝説の素材を、当時の北欧神話圏に製造技術の伝わっていなかったものと当てはめて、『魔術的に複雑な熱加工処理を施した鋼』で『魔法の紐』を編み出した。

 ならば、

 

「学園都市超能力者の第二位<未元物質>が、条件に当てはまります」

 

 香椎は、上条当麻が広場に来る前に、学園都市から送られてきた『Equ.DarkMatter』の装備一式で身を固めた白兵を相手にしていた。

 

 その証拠は、この広場に、残骸となって落ちている。

 

 材料はある。そして、空想の理論を現実にできるだけの能力は?

 元より、即興で<竜>を縛り上げる<賽の神>を造り上げた才覚は、<黒小人>にも匹敵しよう。

 それは、科学に愛されたとある一族から陰で『進化』を司るモノだと言われ、敵から奪った道具を、戦いの場でさらに改良するだけの力がある。

 その手には、北欧神話どころか、才能のなきものに与えられた魔術とは対極の、才能のある科学の住人の力で、生産された『この世に存在しない素材』。

 返り討ちにされて回収された<未元物質(ダークマター)>の装甲が、その手に触れた途端、融解して伸び、飴細工に似た細い糸状になって、<封の足枷>の針金が、三つ編みのように絡まり合う。

 

 

「―――<未元物質(ダークマター)>方式<魔法の紐(グレイプニル)>」

 

 

 天草式の鋼糸術で飛ばす、七つの方向から迫り来る針金、

 

 ザンッ!!と鋭い音が響き渡った。

 

 八分割以上に細断されたと思ったレッサーと美琴だが、予想に反して身体はバラバラにされていない。

 真に鋭い斬撃は、相手に切られたことすらも感じさせないというが、それでもない。

 逆だ。七つの針金は全身を一気に切断する軌道だったにも拘らず、不思議とすり抜けたのだ。

 ……だけど、本当に切られてしまったかのように、感覚がない。

 見れば、すり抜けたところをなぞるように、白色の素材の輪が生じてた。両腕両足首胸腹の七ヶ所に生じた白輪は、肉体ではなく、もっと根源を封殺されたかのように脱力させて地面に転ばされる。

 

「そして、あくまで人の規格であるあなたを抑えるなら、『魔法の紐』だなんて特別強力なものは必要ない」

 

 その手が雪に隠れた地面のコンクリートの石畳を、“掴んで撓ませる”と、パン生地の様に伸びた。

 <表層融解(フラックスコート)>と呼ばれる『物質の粘度を自在に操作する』、Level2~3程度の能力(けして超能力などではない)

 思い切り腕を引いて放した石畳がそのまま、最後まで動けなかった一人に、波となって迫り、それから新体操のリボンが回す螺旋の渦に呑み込ませるように肩から手の指先まで、その右腕に絡みついた。

 細く線で繋がった地面から、ぽきっ、と折れて切り離された石の手袋に引っ張られて、その者は崩れるように倒れた。

 一瞬のことだ。呆気なく。

 それで、終わり。

 これまでのこの少年を知る者が見たら、そう思ったことだろう。

 誰も、何も言わない。

 硬さが取れて自在に駆けたコンクリートは、宿った生命が息絶えるかのように、粘度は失われている。

 そこにあるのは、世界を食らう怪物の大口さえ縛る魔法の紐でも、異常性の欠片もない。ただ実感を持った、この右手でも触れる、このようにしっかりと存在する、人の手では砕けない石材であった。

 

「そんな……」

 

 <表層融解>は、『粘度を制御する』もので、『特殊な物質を生成』しているわけではない。

 砂鉄の剣が、その右手に触れただけで元の砂鉄に戻るよう、あくまでその作用した効果(異常)のみを打ち消し、物体を破壊することはできないのだから、ゼリーのように柔らかくなったものは、元の堅いコンクリートに戻る。つまり、粘度を操作してぶつければ、勝手にその右手に巻きついた状態で固まるのだ。もしも、それが普通の腕ならば粘土のように抜け出せただろうに。

 また、この右手の力を逆手に取られた。

 消去できる効果圏を覆えるほど分厚く、持ち上げるにも苦労する重い枷が当麻の右手にはめられた。

 

 

 この時点で、上条当麻らの敗北は決定した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 かつて、『上条詩歌』の偽者ならば、<吸血鬼>を倒したことがある。

 

 

 ここまで、特別強力な術も力も使っていない。

 どころか、初歩的で、将棋で、ほとんど歩だけで確実の駒得しながら王を追い詰めるようなもの。

 それでもその道のエリートとプロを圧倒している。

 ただただ暴威を振るうしかしなかった、いわば現象的な存在であった<吸血鬼>とは決定的に違い、観察し、思考し、行動している。

 強いのではなく、賢い。卓越した戦術平衡(ゲームバランス)に力の使いどころが巧く、相手に応じて攻略法を組み立ている。

 それが、自分がどうしても敵わない、妹の何よりの強みであって。

 

 そして、何より、上条当麻が涙をこぼさせたのは……

 

「何で、だ……!」

 

 腕が重たい。ほんの少し、動かせるが、まだ身体は凍えてる。

 そんな身体で、このどうしようもない震えを殺して、どうしてもこれだけは言わねばならない。

 ここで余計な熱を放出させてしまうよりも自分の意思を伝える方が重大で。

 死などより、この機会を見逃してしまうことの方が、ずっとずっと恐ろしいというように。

 

「……何で……こんなにも―――」

 

 口を動かす。

 叫ぶ。

 吼える。

 これ以上に口が挟まれる隙を与えずに、素直な感情の発露をぶつける。

 

「……………」

 

 相手は、ただ、一言もなく。

 こちらの顔を覗き込むように屈みこみ、その細い二本の腕をこちらへ伸ばしてくる。身をよじって避けようともしない。

 寒さに凍えているからではなく、もはや心が体を動かそうとしなかった。

 

 その愚兄に。

 容赦も遠慮も躊躇もなく。

 まるで鶏を絞めるような挙動で。

 

 

 上条当麻の視界は真っ暗となった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『鏡』の向こうの未知(ジャバウォック)を、攻略できる手段はたったひとつ。

 

 

「あなたの戦い(やり)方を見るのは初めてだけど、聞きしに勝る怪物ぶりね」

 

 金髪の女性。

 随分と痩せており、瞳も少し落ち窪んでいる。その肌は人に見せるには色香よりも体調を心配させてしまう細さで、その周囲に侍らしている男たちは、緑色の軍服を着こんでいなければ、国境警備隊ではなく、その者の介護人と誤解されるかもしれない

 

「ええ、終わりました、エリザリーナ国家元首」

 

 そう、彼女こそがこの独立国同盟の名の由来ともなった聖女。

 表で複数の国家を結びつけて政治的・経済的に独立しようと基盤を整える革命家でありながら、裏ではロシア対立との妨害を企む成教派の魔術師たちを片っ端から追い返すほどの実力を持った魔術師。

 

「国家元首だなんて、呼ばないで頂戴。私はただいくつかの手続きの提案して、その手伝いをしただけ。『フランスの姉さん』と比べればまだまだよ」

 

 エリザリーナは、必要以上に自身への評価を高く持ち上げることを嫌う。

 それは、相手への評価にも適用される。自身の国を掛ける相手ならなおさら。

 

「その『フランスの姉さん』とやり合えたあなたの本体でも、『右方のフィアンマ』には敵わなかった。厳密に言えば、引き分けた。実際、魔術師の技量の問題からして、この国にある全てをかき集めても、彼ひとりを倒すことはできないでしょうね。

 ―――あなたは、我が国を、民の命をも脅かす重要人物を撃破することはできるのかしら?」

 

 問うたエリザリーナの顔は、その蒼白い肌よりもなお冷たい色を隠していない。

 協力者、という立場であるが、けして、仲間、ではない。ただ互いに利用し合っている関係。

 彼女にとって、独立国同盟の住民の命は最も重要で、悪戯にそれを失わせるわけには絶対にいかない。既にロシア成教の工作員をその手自ら払ってくれたとしても、その利がなければ、最悪、敵にさえ回ることも考慮している。

 

「あなたの国と、その民の命の安全は保証します」

 

 無情に、だがそれが決定事項であると確かな言葉でエリザリーナに返す。

 エリザリーナは目を伏せて、

 

「……そうね。“あなたが支払っているもの”が何なのかを忘れてるわけではないわ」

 

 この少女の表情から全く感情が読み取れない。あまりに気配の絶えているその身体は、ひょっとすると心臓さえ脈打っていないのではないか。

 ―――直接ではないが以前に(まみ)えた時は。こうではなかった。

 香椎という少女が、本来の名で、ただその少年の妹であった時は。

 そのせいか、あれだけ親しみを持てた美貌は、今は恐ろしく。温かな微笑ではなく、無感情な、仮面のような冷ややかさを湛えていた。

 

「ただ、デリケートな事態だから確認をしたかっただけ。全を守るためなら、その一を使い潰せる私は、冷たい人間なのよ」

 

「それで、構いません」

 

 香椎の言葉は、変わらず平坦だった。

 たとえ相手がこの独立国同盟の代表であろうとこの護衛の兵士だろうと分別なく接している。この少年少女らを相手にした時の激情は、もはや片鱗も残っていない。あの一幕が夢だったと言われても納得するだろう。それほどに当たり前のことであって。

 逆に、先ほどのあの戦闘で表した多弁を聴き、これまで無駄に戯言を吐かなかった彼女が隠していたことに、目を剥いたほどだ。

 最後に、あの少年の言葉がこの場に残響してたかのように蘇る。

 

『こんなにも―――“優しい”のに……! どうして……自分(テメェ)には“厳しい”んだよ……!』

 

 なるほど、とその言葉に少しばかりの安堵をおぼえて、その時のエリザリーナの顔は笑みに緩んだ。

 ひとりの少女に、“未知の術”を実感させ、

 またもう一人に、“異郷の学”を披露して、

 そして、その少年には――――

 だけど、エリザリーナは、その“優しさ”を利用しよう。

 ともあれ。

 

「それで、その子たちはどうするのかしら?」

 

「レッサーは、イギリスに預けましょう」

 

「第三位らは? 学園都市へ帰すの?」

 

「いいえ。彼女らは英国ではなく科学サイドの人間。約を破って中立に手を出した身です。これまでと同じように決戦後に返還します。それまでは、そのまま、拘束を解かずにエリザリーナが預かっていてください。しばらく目覚めることはないでしょうが」

 

「では」

 

 その石枷で包まれた右側は二人がかりの計三人の部下たちが両脇から抱え上げる少年を目線で指し、

 

「<幻想殺し(イマジンブレイカー)>は?」

 

「宣告通りに」

 

 エリザリーナの誘導を追うことなく、敗北した上条当麻の顔を見ずに香椎は簡潔に。

 

 

盤上(ここ)から、追放します」

 

 

 

つづく


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