とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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閑話 ブラックジャック 後編

閑話 ブラックジャック 後編

 

 

 

地下水路

 

 

 死んでしまえば、存在も思念も極めてあいまいになり、ただ散っていくだけ。

 それでも『声』はこびりつく。

 たとえば、事故現場に。

 たとえば、戦場跡に。

 たとえば、地下水道にも。

 

 

 影法師の映像を捉えた紙飛行機の一機が案内したのはテムズ川から地下水路。

 思いの外早く見つけた。

 季節の寒さとはまた別な、ひんやりと肌寒い闇の底。

 階段である。

 冷たい、石でできた階段だ。

 石段を這う空気の流れは、まるで生命をもつかのように独特の動きを示して、時折頼りないペンライトの光を揺らす。そのたび、両横にそそりたつ凸凹した壁でも、艶めかしい白色が波打つのであった。

 その建材が―――実は積み重なった人骨であると、誰が一目で見抜けよう。

 頭蓋骨、鎖骨、腕骨、腓骨、肋骨、大腿骨、脊髄、あらゆる部位を問わずに重ねられた骨の山が、その地下の壁を形成しているのだ。

 その闇の中、灯源を持つ詩歌が、目を細めた。

 

「ここは、地下墓地(カタコンベ)ですか?」

 

 少女が用心しいしい歩で下りているのは、ロンドンの地下を占める施設だったのだ。

 カタコンべ。

 名前だけなら、聞いたこともあるものもいるだろう。

 起源はローマが席巻していた時代、十字教の信者が集会所代わりにつくった避難所の名である。日本でいえば戦火から免れるために掘られた防空壕か。それが後世になり、世界各所における地下墓地や、死者を葬る洞窟の一般名称と化したものだ。

 とりわけ、ここのは規模はそれなりでも“密度”が濃かった

 何十万とも思われる人骨を積み上げている。ロンドンの地下坑道の一画なのだろうが、この構造を複雑化し、もはや異郷と言っても過言ではない域に達している

 あるいは奈落と。

 また、欧州で地下墓地は、政府に認可されて観光地化したものもあれば、ほとんど手つかずのものもある次第だ。

 ここは後者の、放置されたままの墓地であった。

 

「魔導師が工房を構えて引き籠るには、うってつけの場所なんでしょう。ここなら監視カメラも仕掛けられていない。それに……どうやらここもここ最近の地脈変動の影響を受けているようで、あちこちから聞こえる『声』も大きくなってる」

 

 詩歌の溜息が、冷たくこぼれた。

 あたかも壊れたオーディオのように、優れた霊能者や魔法使いにだけ聞こえるかすれた『声』が、その無念を響かせている。

 

(私の肌には、合いません)

 

 凝り固まり、長い年月を経た思念は、その土地を汚染するものとなりえる。

 こんな場所に惹かれてしまったら、自分の身体には特に影響が大きいだろう。

 

「『ブラックジャック』にやられた犠牲者は、5人。そのうち火織さんも含めて4人がイギリス清教所属の……」

 

 ふむ、と口元に指を添える。

 調査員を派遣したんだとしても、この数字は少しおかしい。

 まだ数が少なく、もしくは情報が入っていないだけなのかもしれないが、この英国は世界有数の結社が集う魔術大国で、イギリス清教でなくても魔女と修道女は多い。

 だというのに、4/5がイギリス清教だなんて、まだ結論が早すぎるかもしれないが、あの影法師はイギリス清教を狙って襲撃しているのか。

 

「グラビトン事件のときのように、イギリス清教に恨みを持った人間の犯行? にしては、いまだ解呪ができていないとはいえ、誰も殺されていない。ただ、記憶だけを塗潰す。火織さんを倒せるだけの手練れというのに……いや、あそこまで“あの火織さんがあっさりと”倒されるような相手―――まさか、『D545』というのは―――」

 

 瞬間、詩歌は息を止めた。

 石段が終わり、骨の壁ばかりが続く闇の向こう側。

 そこに、幽霊のように小柄な影法師が浮いていた。

 

「―――」

 

 そのままくるりと身を翻し、さらに奥へと走っていく。

 

「待って!」

 

 詩歌が、追った。

 異能への感覚を研ぎ澄ましながら、いかなる魔術を、いかなる技術のもとに運用させるのか、そして、ふと導き出されたありえない答えが正しいかを確かめようと、冷静に正体を見極めようとする。

 これもまた、幼少からあの愚兄に付き合い、ここ最近より磨かれつつある修羅場をくぐりぬけたが故の在り方。

 脳よりも身体に染みついている戦術。

 そう。

 どれほど綿密な術だろうと、今の賢妹が見落とすことは無かっただろう。

 だからこそ、ミてしまった。

 

「あれは……」

 

 影を追って、開けた空間……おそらくこの地下墓地の聖堂にあった“それ”。

 ひとつ骨ではなく石材でつくられた、いかにもいわくありげに打ち捨てられた墓地に、詩歌の目が細まる。

 

「墓の表面に刻んであるのは……ルーン。普通に使われるフサルクではなく、もっと古いオーディンの死者のルーン。それからヘブライ文字で月を刻んで、わざと魔力を反発させている?」

 

 地下墓地特有の、無秩序に澱み、溜まっていくはずの『死』の呪力が、地脈龍脈とともに吸い上げ、ここを支える動力源となっている。

 だとするなら、やはりここは何者かの工房だった。

 そして、この工房に魔術師がこもっているなら、すなわち城と呼んでも、砦と呼んでも、あるいはもっと無粋に研究所と呼んでもよい。

 おそらく、あの影法師の……

 

「つまり、死の象徴の月と、死者の象徴であるルーンの墓と掛け合わせることで、魔力を過剰供給させている。片方が月である以上、朝には鎮まる仕組みでしょうが、だから見つかりにくい。こんなにも早く私が見つけられたのも、幸運にもこの子が月と関わり深かったからでしょうね」

 

 既に元の携帯形状に戻った、月を属性とする<神の力>の眷族たる白い(コイン)を撫でる。

 と、気付く。

 

「ん―――でも、これ壊れてる―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 赤かった。世界は。

 黒かった。世界は。

 

 

 どちらも、死の色だ。世界は二色に塗りつぶされ、蹂躙され、陵辱され、破壊されていた。

 だから、目の前にあるのは、すべて死。

 数多の骨で埋もれる地下墓地は、死、で満たされている。ただただただただただ、死、しかない。

 人の死ではなく、動物の死ではなく、植物の死ではなく、生き物の死ではなく、もっと純粋なる――純潔なる『死』。

 

 

「何故、人は死ぬと思う」

 

 

 『声』が聞こえる。

 この空間に染み込んだ思念が定まる。

 

「殺されようと、事故だろうと、病気だろうと―――人が死ぬ理由はただ一つ。誰かに死を願われたから、だよ。そうならないとだめ」

 

 ならない、と。怖ささえ覚える言い分に聞こえたが、世界を二分する黒――影法師はいっそ冷たい怒りすら感じさせる言葉で死を語る。

 

「言われもなく病気になったり事故に遭ったり餓死したりする―――そんなのは理不尽だね。ある日突然何の前触れも抗いようもなく死が訪れるなんて、冗談じゃないよ。ナンセンスとすら思う。後悔もできないような死などクソ喰らえ。悔恨こそ生きた証」

 

 その低調でありながら良く通る声音は、暗がりに唸る梟を思わせる。古来、『梟《きょう》』の字は荒々しく残忍な人間を表すのに使われていた。梟悪、梟雄、と。

 

「でも、誰かに願われて死ぬのなら、まだ納得できる。自分が人に恨まれて死んだと思えば、それを避けられなかった自業自得と受け入れられる。運命なんてわけの解らないモノに死を強いられるよりかは、人間の意思にすり潰される方がずっと道理に適っている。

 故あって死ぬ―――故あって死ぬべき、人間は。だから、私が―――理由も、死を願われたから―――“殺されたから”。そういうこと」

 

 初めて聞く、独特な死生観。災難による死を徹底的に否定して、殺意にまつわる死にだけ尊厳を見出す。上条詩歌の知る限り、宗教やそれに準じる思想は死を自然の営みと見出して悟るものが多いように思っていたが、これは真逆だ。

 人殺しに救いを求める、不抜の殺意信仰。

 それは歪んでいるようでいて真っ直ぐなようでもあり、ブラックジャックという一見冷めきった存在の秘められた激しさの表れに思えた。

 

「だから、私を受け入れ―――「嫌だ」」

 

 と、叫んでいた。

 言葉ではない。魂魄に直接響く。いや、魂魄を直接ぶっ叩く言霊。

 

「私はもう、見たくない―――! お兄ちゃんの死ぬところなんて見たくない―――! だから私は―――」

 

 あまりに、強烈な絶叫。

 

「―――私は―――決めたんだ―――」

 

 その声に撃ち抜かれて。

 世界に『色』が戻っていった。

 

 

 

 今のは、厳密には魔術ではない。

 一言でいえば、認識の共有。

 昔の魔術結社では、弟子育成のため、よく実行されていた儀式だった。

 魔術を学ぶ師匠の認識を共有することで、実際の魔術の感覚をつかませていたのである。魔女の夜会(サバト)のイメージで、よく怪しげな薬が出てくるのはこれが起因している。そういった、理性を曖昧にする薬を使うことによって、互いの認識を共有しやすくしているのだ。

 だが。

 これらの儀式は、現在ではほとんど行われていない。

 他人と認識を共有することは、どうしても自我を失う危険を伴うのだ。

 それも今のは、“自我喪失”をも目的としている。

 他者の力場に影響されやすい体質であるが故に、不変の自我を確立した賢妹でなければ、引き込まれていたのかもしれない。

 

「誰かがこの墓を壊して、術式回路が半端に壊れてしまった。死者のルーンだけが壊れて、月を象徴している『死』と『狂気』だけが膨れ上がった」

 

 起き上ったその身を素早く沈める。刀を引き抜く力を全身に込める。鞘にはあらかじめ術式が施されており、それを発動するように、左手の中指と薬指と小指で、繰り返し、繰り返し、とんとん、ととんととん、と祝詞を書き込み、また唇こそ付けていないが、ふっふっ、ふふっふふっ、と魔術動作の基本である息吹と併用するので、まるでフルート演奏するよう。そして、鞘を速く走る術、強度を上げる術、斬ったものに洗礼を付与する術……と通常ではありえないほど多数の術を同時に起動して、短時間で全てを完成する。鞘内に聖水が満たされ木製の刀身が吸水し成長する。

 

「だから、完全にその幻想を殺す。―――<幻罰猟犬>!」

 

 飛び出し、白気をまとった木刀が、墓石に向かって抜き放った―――

 笹の葉や本のページが指を切るように、角度と速度さえ計算すれば竹光は物を斬れる。その道を極めたものならば、鉄の刀と変わりなく両断し、耐久性に難があるとしてもその鉄の十分の一以下の軽量は剣速ならば受けることをせずに切り刻めるであろう。

 同じ『月』を属性とする力は、相殺され、対象だけを無力化させた……

 

 そして。

 

「うん、それで正解だね。おかげで私も少しだけ狂気が薄れたんだよ」

 

 やや幼いが“聞き覚えのある”声が、聞こえた。

 それは、幻聴といっても差し支えのない、ここで聞こえるはずのない者の声音。

 

「でも、ここに一人で来たのは間違いかも」

 

 詩歌は、瞬きして、その音の方角を振り返ると、そこに……影法師が、いた。

 いつのまにか白骨で組み上がった地下聖堂は、その骨から溶け出したような白霧に包まれている。

 

「……当たってほしくない可能性だったのに」

 

 そのフードの暗闇の奥に見える翠瞳の双眸に、詩歌は覚えがある。

 それが確かならば、“戦いたくない相手”―――だが、戦闘は始まっており、影法師がアセイミーナイフを指揮棒のように振るっていた

 

「―――A A S B」

 

 横殴りの嵐のように魔風が切り裂く。

 地下墓地に眠る血塗れの凶器、骨を削って造られたナイフが、無節操に跳ぶ迅風。

 無論、先手必勝と考えたのは、影法師だけではない。

 得物(ナイフ)を出したと確認するが早いか、詩歌の手も風のごとき速やかさで裾の中に引っ込めた。

 

「ちっ―――!」

 

 一瞬の集中力。その鋭さと速度の兼ね合いこそ、少女が賢者たる所以。

 翻した和装の内側から、骨短刀と同数の何かが宙を舞った。

 この地下墓地に入る前に用意し待機させていた<幻想宝剣(レーヴァンティン・マーカー)>。

 主人の知能によりその操作性が増す不敗の剣は、上条詩歌の意思のまま、宝剣はアセイミーナイフに指揮される骨短刀を狙い過たず撃墜―――突破。

 よほどの防御魔術であっても、この速度、このタイミングならば防ぎようがないはずだった。

 しかし。

 その予想は、覆された。

 

「―――」

 

 影法師が何かを口ずさんだ途端、宝剣は、“くるりと反転したのだ”。

 主である上条詩歌へ向かって。

 

「―――、く!」

 

 さしもの詩歌が息を止め、ぎりぎりで軽重量の竹光の速断が間に合った。しかし、反転というあまりに予想外の現象には全部は対処切れず、賢妹の和装も腕や脇の一部が割かれていた。

 対魔術用に新調された品でなければ、重傷となっていたやもしれぬ。

 だが、今ので(パス)が通じた。

 

(まず―――ッ!?)

 

 影法師のナイフが、力任せに地面に転がっていた肋骨を叩く。触れてすらいないはずなのに、内臓を直接叩かれたような鋭く重い苦痛に蹲る。影法師が攻撃した肋骨と詩歌の胸郭にパスが結ばれ、翡翠石が埋め込まれた魔導のナイフが直接詩歌の骨をたわませ内臓を圧迫した。

 影法師は、容赦せずさらに攻め立て、地面を踏んだ。

 

「―――A A S B」

 

 ドンッ! と蹲りかけ体勢が崩れた賢妹の足元が震えた。

 白骨の粉末を散布したかのような乳白色の霧ごと、足元が下から突き上げられるように爆発した。体重40kgを超える詩歌の身体が、飛散する大量の砂塵ごと衝撃で宙を舞う。おもちゃのように空中にはね飛ばされ、高さ5m先の地下天井に衝突した詩歌は、白い花が咲くように余波で霧もまた大きく広がるのを見た。受け身を取り損ねて左肩から墜落する。

 

「がはっ、ごほっ……!?」

 

 痛みに耐えかねて、苦鳴がこぼれた。

 見えない巨人の手でもあるかのように、賢妹の身体は玩具に遊ばれ、服装に仕組んであった『身代わり』が軽減したおかげで、衝撃はその半分ほどだったが、でなければどこかの骨が折れるか、内臓が破裂していただろう。

 腰に手を回し、目当ての品を探り当てようとする。

 ―――花火が、炸裂する。

 先の神裂奪還の際に天草式が用いた――のに、少し詩歌が手を加えた――霊装が、照明弾代わりに地下墓地内の霧を一時だけだが裂き、その後、天井にでも張り付いたかのように月光の代わりに地下墓地全体を煌々と照らす。本当は救援のものだが、文句を言ってられる状況でもあるまい。

 

「まったく、不幸ですよホント」

 

 上条詩歌は知っている。

 宝剣の操縦権を奪ったのが、<強制詠唱(スペルインターセプト)>と呼ばれる口法であることを。

 彼女の<魔法名>が『“D”edicatus“545”(献身的な子羊は強者の知識を守る)』であることを。

 

「それで、『A A S B』という略したスペルは、『下にあるものは、上にあるものの如し(As above so below)』という錬金術の始祖が残した有名な句を表してるんですか?」

 

「うん。『三倍偉大なヘルメス』――オリンポス十二神のヘルメースと古代エジプトの知恵の神トートの威光を併せ持つとされる世界最古の錬金王ヘルメス=トリスメギストス。その彼が錬金術の基本原理を十二枚のエメラルドの板に数十行の寓意にまとめて記した奥義書<翡翠碑文(エメラルド・タブレット)>。かのパラケルススもそれを見て錬金術の基礎を学んだ叡智で、今のはその大宇宙と小宇宙の『相似』に関するところを抽出した呪だよ」

 

 カタチが似ているものに縁を見出す類感魔術にも似た、天使クラスの技術力を必要とする神業の魔術。

 相似するものを操作するこの錬金制御は、実際に動かす操作元に“小さい”物を使うことで、操作対象に大きさの比のぶん巨大な力をかけられる。たとえば影法師が刃渡り5cmのナイフを50cm動かせば、パスが繋がった長さ2mの大太刀は20mも動かされる。

 まだ頭がぐらぐらしながらも、今の解説で今の現象を確信する。最後の爆発の正体は、冷静になりさえすればすぐに理解できる。豆粒を置いた板を、その板の裏側からハンマーでぶったたけば、豆は跳ね上がる。同じように、超高速の大きな砂で、詩歌が立つ場を地下から突き上げた。これも相似の錬金操作。比を大きくすれば極大の力と引き換えに細かい制御を失うが、離れた場所でタテ移動させるだけなら自分を巻き込む心配もない。そうして影法師は詩歌を打ちあげたのだ。―――おそらく踏み込みで動かしたほどの動きと相似にして。

 

「非力さを補うためのアイデアなんでしょうが、参考になりますね」

 

「霊媒体質かなとは思ったけど、さっきのオーディンの古代ルーンも判別したし、<翡翠碑文>もたった三回で種を見破っちゃうなんて、あなたとっても博識でなかなかの観察眼の持ち主だね」

 

「そういう<幻想投影(体質)>なので……でも、あなたほどではありませんよ。―――“Index-Librorum-Prohibitorum”」

 

 フードに隠された面があらわになる。

 その髪こそ銀ではなく白ではあるが、その翡翠の瞳も、幼い表情も、上条詩歌が記憶するものと『相似』している。

 <禁書目録(インデックス)

 <必要悪の教会(ネセサリウス)>の『魔道図書館』で、10万3000冊の魔導書を記憶する魔女狩りの道具。

 神裂火織が倒されたのにも納得する……この薄幸の聖女は、被害に遭った魔女修道女とも仲間だった。

 そして……

 

「あなたの先生は、ヘルメス学派の世界最速と謳われた錬金術師で、ローマ正教の<穏秘記録官(カンセラリウス)>―――アウレオルス=イザード、で間違いないですね」

 

 数々の魔術の対抗書を書き上げた魔導師に知恵を授かり、あらゆる魔術の概念法則を知悉しているのならば、<禁呪>といった離れ業も可能であろう。

 

「へえ、私はあなたのことを知らないのに、随分物知りだね」

 

 と、聖女はこちらに笑いかけた。

 その仕草も、どこかしら違う点があるが、大部分は『相似』している。精神攻撃の疑いもあるが、それは無いと詩歌は見ている。

 かつて三沢塾事件で、詩歌は本物と相似した『アウレオルス=ダミー』という精巧な魔術人形と対峙した経験がある。

 

「だとしたら、あなたも本物の私と会ったことがあるのかな」

 

 ただ彼女は、自覚しているようだ。

 インデックス=ダミーは少し、自分の手の平を見やって、

 

「私は、幻想なんだね。この身体も<原典>が形作ったのかな?」

 

 幻想なのに、自分が幻想だとわかってしまうのは、これはなんとも皮肉だ。もう少しくらい愚者であった方が、生きやすかっただろう。

 でも、ここまでの話振りかして、暴走した動力源から断った今なら、狂気は薄れて、交渉も可能ではないかと……

 

「火織さん……あなたの親友であった仲間たちの記憶を元に戻してくれませんか」

 

「それは、できないかも」

 

 困ったように、否定される。

 

「彼女たちを狙ったのも記憶を消されたことに恨んでるわけじゃないよ。ただ、私の記憶に残されて、私を知っていてくれた方が、条件が良かっただけ。私は<原典>だから。その性質上、自己保存をしなくてはならない」

 

「“失敗作”だというのに?」

 

「そこまで分かっちゃってるんなら、止め方もわかるよね」

 

 と、インデックス=ダミーは賢妹を見つめて、うなずいた。

 

幻想(わたし)を、殺すしかない」

 

 聖女の笑みは、あくまで無垢で、それゆえに儚く映った。

 

 

バッキンガム宮殿

 

 

「アウレオルス=イザードは、<吸血鬼>にすることでインデックスさんの未来を救おうとしましたが、彼女と共に過ごした過去を掬うことも考えていた。

 今回の事件は、理屈じゃない。でも、彼の狂気ともいえる信念があったから、この突飛な事態を招いてしまった」

 

 早朝。

 待ち合わせ室で雑談に、彼女はこの事件の推理を話す。

 

「『松山鏡』という有名な落語があります。正確には落語などで有名な説話ですが、簡単に言えば………」

 

 越後の松山村に両親の墓参りを毎日欠かさず行ってきた感心な若者に、その土地の領主が褒美を与えようとした。若者は最初は、両親の墓参りは親孝行として当然の行いであると受け取ろうとはしなかったが、領主がどんな願いも叶えてやると言うとついに願いを口にした。

 

 ―――死んだ父の顔を見せてください。

 

 当然、その時代には写真など日本にない。

 けど、鏡があった。

 若者の父親が彼とそっくりな容貌であることを知った領主はそれならばと若者に鏡を贈った。

 松山村は物凄い田舎であり、鏡というものを知らなかった若者は、その鏡に映る自分自身の顔を親だと思って感激する。

 

「落語では、その後若者の女房がその鏡を覗き、そこに映った顔を旦那の浮気相手だと思いこんで痴話喧嘩を始めるんですが―――

 つまり、この『日記』は、自分の顔を親の顔と間違えた『松山鏡』の逆パターン。

 つまり、この『日記』に書かれた記述を全て、自分の実像だと思いこむ。そうさせる」

 

 それから、心理学のサブリミナル効果と科学サイドの解説を交えてくれたが、その辺は、完全記憶能力者の一件もあり、苦手だが、

 

「アウレオルス=イザードが試みたのはおそらく、記憶を失う前の人格の移植」

 

 そんなことが本当に可能なのか? そう疑問というより質問を意思表示するよう、目はゆったりと構える彼女に注ぐ。

 

「確かに普通の日記ならば、不可能でしょう。

 例えば『石』の実態を文字で伝えようとするのは思いのほか難しい。辞書では『岩よりも小さく砂よりも大きい鉱物』と記載されてますが、『岩』の項目では『石の大きなもの』と書かれている。つまり、石を見たり触ったりしたことのない人間が石の意味を知ることは無理難題。

 まして、それが『思い出』などというその個人、辞書でもその中身が定義化されない概念を受け継がせようなど不可能。

 ―――文字言葉というのは要するに、誰かが見聞きした物や概念を定義するものに過ぎない。伝えられるのは定義だけで実体は各自で取得するしかない、言葉だけで自分の経験の全てを伝達するのは、思考実験としてはともかく現実的にはできない」

 

 だったら無理ではないか―――といかける自分にかぶせるように続ける。

 

「だが、錬金術師はあきらめなかった

 この『日記』が鏡のようなのがその執念の証拠。

 『詩は絵のように』と言う言葉がある。

 古代ローマの人の考え方で、詩を作る時は絵を描くように描写を重ねて、徐々に像を作っていく。例えば、ある戦士を語る時は容色を述べ、体格を述べ、身につけてる鎧の様を述べ、携えた武器を述べる。順を追って情報を積み重ねる文章で、段階的に読み手の頭の中に像を結んでいく。

 ―――ならば、完全記憶能力の下、自分自身で自分自身を書き続けたのなら、もう絵ではなく、『日記は鏡のよう』だとも言える」

 

 そして、鏡に近しいのならば、『松山鏡』というような事態もあり得る。

 

「あの結界の霧は、完全に封じるこそしませんが、<禁呪>で『相手自身』を禁じようとしていた。不自然に感づかれない、曖昧になる程度に感覚が縛られていった。結果として、いつのまにか、平衡感覚を狂わせ、方向感覚を撹乱する。色彩も一色で麻痺させると徹底的。その全てが、自分の立ち位置、状況把握を阻害する。見当識をじわじわと蝕む……。

 イギリス清教の古参が狙われていたのも、禁じるのに良く知悉していた相手の方が<禁呪>の効果が高かったのもあるんでしょう。

 巫女は、強力な催眠や自己暗示の技術を持っていた。まじないの類を行使する際には必ず薬香などを用いても、トランスします。口寄せも、予め相手の情報を集めて思考をトレースすることで、相手がしたであろう行動をなぞったものです。

 だが、これは本人の意識とは無関係に、自己認識を不安定にし、『鏡』に見入りやすくしていた」

 

 つまり、条件付けで、

 まず、『インデックス』を知っている、そして、同姓である相手を探す。

 つぎに、術がかかりやすいように相手の自我を奪い、読者の感性を曖昧にする、記述と現実の混同を容易にするようにしてから、

 『自分自身の人格を保存した日記』を鏡にして、我を見失った相手に見せた。

 

「この場合の人格とは、意識、認識という意味です。そして、人間の定義を言語活動に求めるホモ・ロクエンスなどと言葉があるように人の認識は言葉ありきです。つまり言語とは事物に張り付けるレッテルではなく、個人の認識能力、心のカタチそのものと言えるでしょう。そして、

 

 人格が認識の形を言い、

 

 認識が言葉であり、

 

 言葉が書物に筆録でき、

 

 書物で自己認識を補填できれば、

 

 <原典>による人格の塗潰しは、可能です」

 

 いくらなんでもそれは机上の空論だ……と、実際にかかりかけていた自分が言える言葉ではない。

 テーブルの上に置かれた宝石で飾られた一冊の本を見る。

 本来、完全記憶能力者の彼女にはあまり必要が無かったはずの、日記。その内容は筆者そのもの。

 この日記の内容を見たが、書いたのは確かに、インデックス(あの子)だろう。それを後で改めて、“魔力を込めて魔道書として”執筆したのは彼女の先生役だった稀代の錬金術師。

 筆跡まで一致させるのは骨だったが、三日もあれば一冊の魔道書を作れた彼ならばできただろう。

 そして、<原典>がもつ自己保存の習性として、そこに書かれた知識言葉を読者の頭に刷り込ませようとする『自己保存』を利用すれば後は勝手に人格(知識)の伝承を行う……

 だが、そんな世界最高の錬金術師にも不可能なことがあった。

 

「それは、“インデックスさん自身の魔力までは写しきれなかったこと”。

 そして、アウレオルス=イザードには“どうしようもない欠陥”があった。

 ―――この日記は人格と同時に、呪いも受け継がせてしまう」

 

 それが、錬金術師が、この<禁書日記>を“失敗作”とした理由だ。

 

「『一年ごとに記憶を失う』、というタイムスケジュールをコピーしているんです」

 

 だから、犠牲者になった魔女修道女は、記憶を失ってしまう。

 

「人格の継承には、たとえ自分のものだったとしても別の意識に入り込み理解する素養がいります。言い換えれば、他人の影響を積極的に受け入れさせる必要がある。この<禁書日記>はそう誘導するように働く。

 だから、『一年ごとに記憶を失う』という印象や迷信が持たれれば、“そういう風に読者を規定してしまう”。

 それに、細大漏らさず筆録された魔力を持つ『日記』にも記憶を失うまでの悲嘆、苦痛、運命を何かにつけて叙述されなければならない。

 ―――だが、“そうでなければならない”。そうでなければ、アウレオルス=イザードが知るインデックスさんの日記にはならず、それを“改変する事は彼には絶対に許されない”」

 

 錬金術師は、『忘れたくない』と悲願する彼女の言葉までも、書き留めなければならなかった。けして、見逃すことはしてはならなかった。その筆圧に込められた想いの強さまで、書かなければ、ならない。

 

「そして噂や印象というものは、往々にして大袈裟に誇張されていく。

 例えば、レミングというネズミは集団移住の時に海や川で溺れる個体が見られたことから集団自殺する種族かと思われていましたが、実際は泳げて、溺死したのも全体数に比較すればごく少数に過ぎなかった。

 集団移住の習性上どうしても溺死する個体が出てしまう結果を、より劇的な解釈を求める人の欲が自殺種族と誤解を広めてしまったんでしょう。

 だったら、外道に踏み入るほどの欲で一切の言葉を見逃さずに書かれたものは………」

 

 口を、閉ざす。

 どれほどの、と言わずともわかる。

 あの頃は、記憶容量限界によって、あの子の脳が圧迫されていると信じられていた。

 どうしようもないものだと迷信が罷り通っていた。

 それをより悪化させかねない―――そう、あの子が記憶をなくし、この<禁書日記>を完成してしまった後に、気付いたんだろう。

 結局、一時でも思い出を取り戻すより、その悲しみを繰り返さないほうを選んだ。

 きっと『その記憶を忘れさせないように鏡の日記を見せる』と二人の約束だったはずの<禁書日記>をあの子に見せることはできず、

 

 アウレオルスは仮にも『インデックス』である<禁書日記>を“殺せなかった”。

 

 だから、工房であった地下墓地に封じていた。それしかなかった。

 

「……戦う前、『死』を見せられましたが、あれはようするに、殺人賛歌――その裏のメッセージ『私を殺して』、と日記を破棄してくれというものなんでしょう。だから、過去の同僚にそれをお願いしようと徘徊していた。ここ最近の龍脈の不活性化に、ひとりの魔女が地下墓地を荒らしたおかげで、眠ったままだったはずの彼女が完全に起きてしまえば、この『呪い』を街に広まる。

 <禁書目録>の記憶を辿らせると言うことは、つまり、<原典>の知毒で頭を侵すと言うことでもあります」

 

 幸い、今回の解決が早かったが、もし長引けば、ロンドンは死都となっていただろう。

 

 

 

「……だから、あなたは『この子』を“殺し”たんですか?」

 

 最後に、神裂火織は上条詩歌に問うた。

 わかっている。

 この<禁書日記>は、ひとりの狂気とひとりの悲嘆から生み出された、悪霊に等しき存在だ。どうあっても救われるという概念そのものがない。救いの手を差し伸べても、逆に引き摺りこまれて落ちてしまう。

 そして、<原典>から解放されていなければ、自分はやがては知毒で地獄の苦しみを味わっただろう。

 だが。

 それでも。

 私は――――

 

 

「それは、最後の裏表紙を見てください」

 

 

地下墓地

 

 

「あなたが殺す気がなくても、<原典(わたし)>は防衛反応(こうげき)するよ」

 

 詩歌を試すように、インデックス=ダミーが告げた。

 インデックス=ダミーは、本物と決定的に違う点がある。

 

「10万3000冊の魔道書を読取(記憶)した、あらゆる相手の攻略手段を組み立てる『魔道図書館』。魔術戦では分が悪い」

 

 魔力が自由に使えるか否か。

 魔力がなくても<聖人>から逃げおおせるほどの実力。それが今、<原典>として地脈から無尽蔵に魔力を精製できる。

 目の前にいる相手は、世界最高のパラケルススの末裔から師事され、世界最古のヘルメスの叡智を自在に振るう、世界すべての魔術を扱う<禁書目録>。

 夏休みの初め、封印された魔力が解放された<自動書記>のときは、<必要悪の教会>、<聖人>、そして、<幻想殺し>の3人掛かりでようやく対抗できた。

 一対一万でも甘く、一対一では愚の骨頂。

 世界的な魔術結社の手に、重要な技術や知識を守り抜くようにするために開発された最強の防衛装置を相手にするというのは、ひとつの戦争を迎えるのと同じこと。

 ならば―――その彼女を抑えられなければ、世界大戦は止められない。

 

「でも、私には、10万3000を超える能力者を投影(記憶)した『学生代表』の力がある」

 

 これまでの『色』を刻み続けてきたヘッドフォン<調色板(パレット)>をつける。

 インデックス=ダミーは、インデックスの過去で、上条詩歌を知らない。逆に、賢妹はこの修道女を知っている。これは大きいアトバンテージだ。

 

「あなたの記憶(辞書)にそれは載っていますか?」

 

 先手を打ったのは、インデックス=ダミー。

 開幕のあいさつは最初と同じく、避ける間もないほど大量の、骨の短刀。アセイミーナイフを振るい、地下墓地内にある同じ形の骨短刀を<翡翠碑文>の相似操作で連動させる。

 対し、詩歌がとったのも同じ行動だった。

 旋回させる<幻想宝剣>。

 聖堂の風が、裂けた。

 真っ向からたたき落とす、レーヴァンティンの剣。

 文字通り巨人をも降す剣威を前に、インデックス=ダミーは、臆さない。

 

「―――」

 

 <強制詠唱>。

 賢妹の守護衛星で、相似操作された地下墓地全てが巻き起こる骨短剣の乱舞は十分に弾き切れる。ただし、主人の意に従う宝剣は、その詠唱に割り込まれて、支配権を奪われれば、刃は主人に反逆す―――その制空圏は、無音。

 

『<強制詠唱>は暗号的な発声で魔力を使わずに相手に誤作動させる口術。私がそれに干渉しようとしても、その抵抗する意思さえも利用されるでしょう。ですが、『一定空間内の音を遮る』能力がある』

 

 いつのまに足元に落ちていた紙飛行機から、一方的な念話が聞こえる。

 <沈黙(サイレンス)>と呼ばれる音波を遮断する能力。

 基本<禁書目録>の武器は『助言』で、割り込みをかけて間違うように誘導するのが<強制詠唱>。かつて法の書事件で、ルチア率いるローマ正教シスター部隊が、万年筆で鼓膜を潰して、<魔滅の声>から免れたように、<魔滅の声>も<強制詠唱>も耳を貸さなければ防げるものだ。

 支配権を奪い取ろうにも、音を排した制空圏には声は届かず、骨短刀は悉く迎撃される。

 それでも、攻めに転じたとしても、その無音の制空圏を出れば、こちらの声も―――

 

 パァァン!! と。

 鋭い音が放たれると同時に、インデックス=ダミーの手から魔術刀が弾かれた。

 

 距離は、おそらく10mは離れていたはず。そして、賢妹が持っている竹光は1mにも満たないはず。

 だというのに、

 

「ッ!」

 

 慌てて手に取ったのは、『骨董商(キュリオディーラー)』の工房にあった切っ先に触れたものをすべて『純金』にかえる<瞬間黄金(リメン=マグナ)>の霊装。

 だが、追い打ちをかけるように、制空圏から一歩も動かず、詩歌は竹光をもう一度素振りした。たったそれだけで鋭い音が炸裂し、小ぶりのナイフほどあった黄金の鏃を落としてしまった。さらに他の霊装も手に取らせる前に、すべて弾かれて、時に粉砕されていく。

 

「―――A A S B」

 

 道具がなくても、知と術がある。

 いかに制空圏の防衛網が優れていても、その相手を直接狙った攻撃は、固めた守りを突破する。

 結んだパスから、相手に衝撃を相似させる、先ほど賢妹の肋骨に罅を入れた術。

 この理論上必中の攻撃も、感受性が異様な体質である上条詩歌には相性が悪すぎる呪いの感染魔術の一形態か。

 しかし、先ほどより強く叩いたはずなのに骨は折れなかった。

 

『『骨肉すべてをゴムのように柔軟性を高める』能力がある。あなたは『インデックス』を忠実に再現されてる。だから、満足に振るえるのがナイフくらいの腕力しかない。たった『相似』させた衝撃を伝えるだけなら余裕で受け切れる』

 

 『超人的な第七位の脚にしがみついた二人三脚のパートナー』の超能力。

 そして、人は呪えば穴二つ、と言われるよう、誰かをのろうというのはそれだけで結びつきを強くしてしまう。避けずに受け切られたことで、その縁から、こちらの位置を把握された。だが、その縁を撹乱する術も魔術は開発している。

 

「―――A A S B」

 

 ―――霧に塗れたその姿が、ぶれて、ふたりに増えた。

 

 霧の街(ロンドン)というが、これは霧の住人か。

 4人、8人、16人、32人、おそらく64人と、詩歌が動く間もなく、倍々に増えていく。『インデックス』と同じカタチ同じ背丈の霧像が天井に張り付いた照明弾の光を屈曲、反射されて、強くきらめきあるいは白骨を透かす。そして、おそらくどこかに混じっている本物のインデックス=ダミーの動きに合わせて、『相似させた分身』50体以上の儚い像が一斉に動き始めた。『相似』の(パス)は、無数に網の目状に結ばれ、魔術の起点たる本物の位置など見当もつかなくさせている。

 

『『水分子を操る』能力、『微粒子の衝撃の伝道する指向性を誘導する』能力。それらを応用すれば、この霧を利用することもできるし』

 

 『火星から採取したとされる細菌の塊と会話する乙女な博士』と『お嬢様学校に潜入した忍びの一族』の超能力。

 

『また霧を斬ることもできる』

 

 インデックス像の群舞。どの像も“似ている”から、激しく照明弾の光を反射する像の林を、影法師の修道女が眩惑するように何度も魔法的転移で位置を変える。まるで舞踏会の夢でも見ているように、ぐるぐると回る。

 だから、正確な位置はわからない。

 身体を限界まで捻り、勢い良く回転しながら、己の力を一閃させた。

 

「もしかして、魔を祓う神道術<雄結>も組み込んでる?」

 

 その呻きは、周囲のすべてを薙ぎ払うような一撃にちぎれた。

 そして、実際、本物を除いたすべての霧で構成された相似分身は、どろどろとドライアイスが煙に変ずるがごとく崩壊した。

 さらに浄化の衝撃は、感染するかのごとく霧の水粒子から水粒子へと伝達されていき、霧の結界は祓われていく。

 

『魔術と能力の組み合わせ、唯一無二の超魔術。<禁呪>で縛りきれますか?』

 

 <禁呪>はあらゆる概念を、その概念を知り尽くしているほど、封じることができる。

 たとえ、一人格だろうと、その人物を良く知っているのならば、その人格を真っ白にすることもできる

 逆に、<禁呪>をかけるには、対象の概念を知悉していなければならない。

 詩歌が教えるまで電子レンジの使い方もわからなかったほどの科学音痴の『インデックス』には、苦手分野。

 

 でも、と。

 才能を持ってしまった人間は、才能なきものが扱う魔術は使えないはずだ、ということは<禁書目録>の知識にもある。

 

 別の摂理をもった力が近づぎ過ぎれば、互いに反発しあう。

 だが、いつからか、魔術を知って、禁断の扉を開いた後、拒絶反応の痛みを、詩歌は覚えなくなっていた。

 

『見つけた』

 

 賢妹が、すぅっと指を差した先に、霧ではない白髪の聖女、インデックス=ダミーがいた。

 

『『衝撃を拡散させる減衰空間をつくる』能力と『空間を圧縮して噴射点を設置して飛ばす』能力』

 

 その指先から発射したのは、学校は違うが共に後輩の不可視の空球。

 <衝撃拡散(ショックアブソーバー)>と<空風飛弾(エアミサイル)>の複合能力は、霧の中に塗れようとしていたインデックス=ダミーを捕まえた。

 

「簡易的にだけど、これにも空間を隔離する<壺中天>の魔術が組み込まれてる―――ッ!?」

 

 ぽわん、と割れないシャボン玉に閉じ込められたかのように、その場に滞空するインデックス=ダミー。

 それでも、まだ、『日記』の翡翠の目は閉じていない。

 <禁書日記(インデックス=ダミー)>。

 その錬金魔導師には最良の素材たる翡翠の眼球からの視線を当てることで、『インデックスを映した鏡の日記』を読ます<翡翠碑文>の『相似』する<原典>の秘奥。

 たとえ、まだ出会っていない過去が、賢妹のことを知らずとも、条件不足を補ってあまるほどその異様な霊媒体質は『インデックス』を映す(移す)のに最高の適性がある対象だ。

 龍脈を燃料源とする<原典>が、その土地自体、地下墓地から隔離されたのを見て、制空圏から飛び出して、竹光を洗いながら接近する詩歌。

 それでも残存する魔力で十分、『日記』は賢妹の意識に乗り込むことができる―――

 その翡翠の眼光に目を合わせれば。

 

「―――ダメ! 私に近付いちゃったら、あなたも『インデックス(わたし)』に塗り潰されちゃう」

 

 狂気の暴走からすでに解かれているインデックス=ダミーはその目を閉じようとする。

 だが、<原典>の習性は、人が呼吸するのと同じくらいに自己保存を止めることはできない。

 その意志とは逆に、限界まで翡翠の双眸が開かれた。

 左右に6枚ずつ、計12枚の深緑の魔法陣が両目に宿る。

 こうなれば目を瞑ったとしても、翠光に目を射抜かれただけで“読んでしまう”。

 

 ―――竹光は、角度によって、人も切れる。

 

「いいえ、私を視た時点で、詰みです」

 

 賢妹はうつむき、清水で洗った竹の刀で――――――――彼女自身の両目を切り裂いた――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 真っ黒に乗っ取られた(ブラックジャック)

 

 

 血と嗚咽が、詩歌の顔から滴り落ちた。苦悶の声も頬を流れる温かく粘った液体も、両方賢妹のものだった。

 血拭するよう竹光の刃に右の人指しと中の二指を這わせ、指を舌で舐める。その絵は、思わず恍惚(ゾクリ)とするほど官能的。

 

「盲目の人間に、本を読ませることはできません」

 

 『ブラックジャック』が、現場にいて唯一取り逃がして存在を明らかにされたのは盲目の修道女だった、と詩歌はバードウェイから教えられていた。

 

 自ら目を潰した彼女は、翡翠の目――<禁書日記>を向けられようが、その光を見ることはない。

 

「なっ!?」

 

 ―――<禁書日記>もまた。

 翡翠の双眸に展開されていた左右六層の魔法陣に、一線が引かれていた。

 

「まさか、これって逆流して、私に<翡翠碑文>の『相似』で類感魔術をかけた!?」

 

 詩歌が両目を切ったと同時、インデックス=ダミーも視界は暗転していた。

 一度目は食らい、

 二度目は防ぎ、

 三度目は利用されていた。

 二度も縁を結んでの不可避の打撃相似を食らわせたのは、失敗だった。

 

「<黄金錬成(アルス=マグナ)>もそうでしたが、これもひどくイメージにこだわるものだから、術者は暗示にかかりやすい」

 

 相手の術に干渉するのが得意なのは、<禁書目録>だけの特権ではない。

 軟化させたのは上条詩歌の身体であったのに、インデックス=ダミー自身が叩いた骨も折れなかった。

 東洋の針治療で、確固たるイメージを補強した<黄金錬成>と同じ。

 だから、『相似』しようと強く視たのが、目を切った映像ならば、そのイメージを『相似』してしまう。

 

「ありとあらゆる攻撃手段が<禁書目録>にはあったはず。でも、これまでの傾向から察するに、アウレオルス=イザードの生徒時代だったあなたは錬金術を好む傾向があった」

 

「あなたはこんなバカなことする人じゃないと思ってたのに」

 

「あなたはまだ上条詩歌と、上条当麻という私の兄を知らない」

 

 チェックメイトを、かけられた。

 土地の魔力源から断たれ、自己保存の両目もつぶされた今、<禁書日記>は、非力の少女でしかない。

 しかし、このまま退治されることこそが、『インデックス』の望みだ。

 人々を害する魔女を狩る『必要悪』の人間として。

 しかしその期待は、またしても裏切られる。

 

 ―――カシャン、と音がした。

 

「だから、教えてあげます、上条兄妹がどんなものかを」

 

 それは、竹光が鞘に納刀された音。

 だけでなく、外した<調色板>のヘッドフォンを首にかけ、展開していた<筆記具>の宝剣も解除した。

 無手(武器なし)で十分とでも言うように。

 地下墓地に染みついていた音も、今は遮断されている。すべては暗黒と激痛の中にあり、距離もカタチも失われた。あるのは記憶だけだ。

 記憶していた詰め寄った時の間合いは、一足一手。

 それに、やることもただひとつだけなのだ。

 

「殺せという神の奇跡(ルール)なら―――」

 

 詩歌は視力を失ったまま迷いなく大きく踏み込む。

 地面から螺旋状に『力』をねじりあげ、膝を通し、腰を回し、胸を突き上げ、肩を転がし、肘を流して、右手に伸ばした二指の先に至るまでのあらゆる場所でそのエネルギーを増幅させる。

 内側から溢れる気さえ込めて、こちらを見つめたままの姿勢で固まってしまったインデックス=ダミーに、渾身の指突が貫いた。

 

「―――まずは、その幻想をぶち殺して、投影す(書き換え)る!!」

 

 指先が潜り込む。

 手首を返し、爪で掻く感触。

 インデックス=ダミーの内側へ。もっと内側へ。

 

 そして―――刻みつけた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 パシャパシャと水路を駆ける音が、高く響く。

 

 

 詩歌はその音で、天草式――五和がここまで来るのを察する。

 <聖人>の魔力を抑えきっていたとわかった時点で、今回の相手が、土地の龍脈と繋がった<荒御霊>に属するものではないかと予想していた

 だから、暴れる神裂火織を抑えると同時に、花火で合図を送るから、見えなくても反応を感じ取ったら、森の時と同じように、その土地の龍脈を抑えてくれと頼んでいた。

 

「……でも、足音が多い。これは、無事、呪いが解けたということですね」

 

 再び首にかけていた<調色板>を装着し、左手で目を押さえた。

 詩歌が自ら眼球を切り裂いた眼窩には溢れた血が溜まっていたが、ほんの数秒で、めしいたはずの目で、照明弾を透かす自身の手の平を見た。

 

「それも、科学の能力?」

 

「ええ、<肉体再生(オートリバース)>と言います」

 

「ふうん。思い切りが良過ぎるから騙されちゃったけど、なんか、しいかってとっても卑怯かも」

 

「ふふふ。でも、明確なイメージを伝えるために麻酔はしなかったので、切った時は痛みは本物で、視力を失うことも覚悟していました」

 

 激痛が鈍い疼きへと鎮火するころには、既に詩歌の両目は元に戻っていた。視力も変わっていない。

 そして、声がした方を視る。

 右手の人差し指と中指の爪は剥がれ、筆代わりと血をつけた指の骨は、秒をさらに刻む無理な動きを強いられて、砕けていたが、その手は一冊の本を握っていた。

 そう、これが<禁書日記>の本体。

 核を抜き取られたはずの幻影インデックス=ダミーは、呆れたようにその本体を見つめている。

 

 世界最高クラスの錬金術師にもできなかった。

 

 ―――だけど、幻想を投影する賢妹にはできる。

 

 ―――『一年ごとに記憶を失う』

 

 その結末の先、インデックス=ダミーの体内に在った核<禁書日記>の裏表紙に、

 

 ―――『けど、きっとすぐにその呪縛は解かれ、すべてを思い出す』

 

 豪快に日記の裏表紙に“インデックス=ダミーの魔力を”刻みつけた書だった。

 

「これは……?」

 

 ぽかん、と開いた口がようやく動き、問いの声を出した。

 

「日記の魔力で忘れられたら困るし、兄とは違って殺すのは専門外の詩歌さんの得意分野は投影というわけで、未来日記風に付け加えました」

 

 あっけからんと詩歌は言う。

 

「永年動力の『日記』の侵食に対抗するのが難しいなら、抵抗する必要のないものにする。暗示を受けさせる魔力を受けるのであれば、思い出さなければ嘘だ、って理屈になりますかと」

 

 最後に、全部ウソだった(オールフィクション)と結末に塗りかえられたよう。

 何と曖昧な力業だろうか。しかし確かに、上条詩歌の流麗な筆致が大きさと血文字の粗雑さで荒れたその文字には、独特な迫力があることも事実。じっと眺めてみれば、巨大な卵の殻に入った亀裂のようにも見えてくる。

 

「仮にも<原典>を書き換えるなんて、そんな無茶苦茶……ううん、改変するために、“ここ”まで手を伸ばすなんて」

 

 つまるところは、(パス)の結び方の問題だ。

 相手を呪うにしても、支配するにしても通常の技術的に外部から縁を結ぶ。

 ところが、上条詩歌はこともあろうにインデックス=ダミーの内側まで踏み込んで、その内側の『核』へ直接縁を結んだのだ。

 つまり、その瞬間、一体となっていた。

 

「我は全なり、全は我なり―――東洋の魔術思想だね」

 

「そこまで高尚なものじゃないです。言うなれば、詩歌さんのは、偽全です」

 

 結果として、<禁書日記>は殺されずに、無害に書き換えられた。

 だがそのために、賢妹はその一番根幹となる場所へ、手を伸ばしたのだから、危険な賭けには違いない。詩歌が一瞬でも躊躇していたならば、賢妹の意識は『日記』に取り込まれていただろう。

 それでも、最初にここに来た時点で、あのプロの魔導師も逃げ出した『死』をはねつけたのを考えれば、それも出来て当然と思えてしまう。

 

「……今のインデックス(わたし)は、きっと幸せなんだね」

 

「ええ、過去のインデックス(あなた)を縛っていた呪縛は、解かれています」

 

「だったら、日記に書かれたとおり、わたしはいつか忘れちゃったわたしを思い出すのかな」

 

 それに詩歌は、やわらかな聖母の微笑を向け、

 

「ええ、叶いますよ、きっと」

 

 その言葉を聞いて、影法師は消え、『日記』だけが残った。―――過去を閉じ込めていた霧は晴れた。

 

 

バッキンガム宮殿

 

 

 ―――と、ここまで事後報告な語りを、上条詩歌はほわんほわんな笑顔で締めくくった。

 

 

 ところで、

 

 

「馬ッッッ鹿じゃねぇのッッッ!!!!!!」

 

 

 バッキンガム宮殿を、女教皇の怒声が震撼する。

 かなりの大声を間近に受けたはずだが、詩歌は平然たるもの。ヌワラエリアの紅茶を一口飲み、優雅にうなずいて見せる。

 

「うん、やっと調子が出てきたみたいですね」

 

「ええ、ええっ! おかげさまで! 最後の最後の馬鹿な行動で疲れも吹っ飛びましたよ!」

 

 <禁書日記>の『相似』されたことによって、一時的に記憶を失っていた神裂火織はしばらく動けるような状態ではなかったが、こうしてぎりぎり動ける体で第二王女との会合に向かう詩歌に間に合わせたのだ。

 ただ、今は怒り狂ったおかげで、その疲れも吹っ飛んだ。

 

「自分で目を切った、って詩歌はもう! もっと他に賢いやり方はあったでしょうが! 魔術でなくてもそういう能力は無かったんです? あの子も馬鹿だというのも納得です!!」

 

「はっはっはー。そこらへんは兄に影響されましたね。それに、実際にインデックスさんを拳でぶち抜く映像は見たくなかったですし」

 

 確かに、途中でインデックス(あの子)かもしれないと勘ぐってしまい、その隙を突かれて呆気なくやられた者としては同意できるが……頭を抱えたくなる。

 

「ああ……っ! もう……っ! これだから、あなたは目が離せない……っ! ええ、この会談が終わったら病院に、そのあと呪的感染がないか専門の機関に是か非でも連れて行きますから」

 

「え……ほらほら、火織さん。詩歌さんのお目々ぱっちり見てくださいぃ……………

ぃぃぇ、なんでもありません、はい」

 

 途中、女教皇の額に二本の角があったという異常が見えたので、賢妹は大人しく首肯する。

 それに満足したのは、神裂は背中から立ち昇らせていた気炎を冷ますと、

 

「それで、今回の件、やはり、なかったことになりそうです」

 

 今回の連続襲撃事件は、まだニュースで発表されていなかったこともあって世間的には、『伝説的な猟奇殺人鬼切り裂きジャックの模倣犯をたまたま遭遇した天草式が撃退した』……となっている。

 それだと、そこの『学生代表』は何もしていなかったということになるのだが、

 

「このことが明るみになれば、もう覚えていないとはいえ過去に違反したことをインデックスさんが罰せられるかもしれないし、その責任はイギリス清教に及ぶでしょうしね。そうするのが一番です」

 

 気にしたこともないようにあっさりとうなづかれる。

 

「……仲間のひとりがあなたに心ない暴言を吐いた件で、切腹も辞さない覚悟で来ています」

 

「うーん、それは、なんだか顔を合わせづらいです。こちらも小娘の嘆願を聞き届けてくれましたし、ほら、今回の件はいろいろと無かったことになってるんですから、気にしないでくださいとお伝えください」

 

 変わらずほわんほわんな笑みを返される。

 ああ……と神裂は嘆き俯く。そう返されるとは思っていたが、思わず。

 事件は無くなろうが、神裂の中で、貸しは天井知らずに高まっている。

 

「ふふふ、詩歌さんも元気になった火織さんに付いてもらわないとイヤですからね」

 

「だったら、私に知らせず勝手にどこかへ行く放浪癖をなくしてもらいたいところですが―――それで、『日記』はどうするんですか?」

 

 神裂が指で裏表紙をなぞる机の上に置かれた日記。

 事件後、ステイルに物品を預けたが、もう霊装でも何でもない単なる日記となってしまったことで、どういうわけか発見者たる詩歌に返された。

 詩歌は、その最初の方のページを開いた。

 そこに書かれてたのは、まだ記憶で苦しむことのない、本当に幸せな日常で……

 

「うん、それは機会を見て、“持ち主”に返そうと思ってます。いつかきっと」

 

 と、雑談もそこで時間切れ。

 トントン、とノックされてから、騎士団長の声。

 

「―――失礼。先ほど何か大声が聞こえたが、キャーリサ様がご到着した」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 近頃の地脈の不活性化は、やはり、『墓所』の影響か。

 先日、というより、昨夜で解決された――『清教派』の『助言』でなかったことになったが――事件も、それが原因なのかもしれない。

 だから。

 本当ならば、自分の手で解決しようとした。

 そして、あの噂通り、あの錬金術師の遺産で<禁書目録>が起こした負債だというなら『清教派』に貸しが作れたかもしれなかった。

 そのために、昨日は予定を無理に変更させたが―――それするより早く、あの少女の手で………やはり、彼女は脅威だ。

 

「おはようございます、キャーリサさん」

 

 入室した『学生代表』に、第二王女は切り出した。

 

「<幻想投影>に扱えぬ霊装(もの)なしと聞くが。詩歌は、<カーテナ(この剣)>を使えるのか?」

 

 

 

つづく

 

 

 

ロンドン イギリス清教女子寮

 

 

 以前、彼女の女子寮の部屋で寝泊まりしたことがあったが、この仮初の宿も整理整頓が行き届いている。

 息を止めたインデックスを前に、シスター・オルソラはゆっくりと頬に手を添えた。

 懐かしむように。その悩ましい外見を見れば、十分以上に悩ましいパーツの組み合わせなのだろうが、このぽわんぽわんした雰囲気のせいで孫を出迎えるおばあちゃんみたいな図になっている。

 

「まあ、そのあと、女子寮のみんなで大掃除をして、アルバムを見つけてつい昔話に花が咲いたのでございますが、その日の夜のパーティもにぎやかで。この『日記』が彼女に書き加えられたおかげで犠牲者もすぐに快方に向かいましたのでございます。―――と、そこまでがわたくしが知りえる、ここに来てからの詩歌様のお話でございます」

 

 と、締めくくる。

 

「………」

 

 インデックスは、黙りこくっていた。

 イギリスで起きたクーデター――『ブリテン・ザ・ハロウィン』のあと。

 インデックスは、イギリス清教の女子寮……かつて、上条詩歌が滞在していた部屋で寝泊まりすることにして、その際、入寮を手伝ってくれたオルソラからここでの話を聞いたのだが、まさか自分が関わっているものとは思いもよらぬ。

 おかげで、この部屋に残されていた<禁書日記>を読むのにはまり、すると、

 

「ふふふ。それでは、夕食の時間になりましたら食堂に降りてきてくださいませ」

 

「あ、うん。ありがとなんだよオルソラ」

 

 と、しばらくひとりに、と気遣ったオルソラが退出。

 扉を閉じてからも、インデックスは日記を見る。

 記憶にはないが、そこにあるのは間違いなく自分の文字で、自分の言葉だとわかる。

 最初はどこか懐かしさも覚え、最後は悲しみで涙がこぼれ、最後の最期の裏表紙で笑顔をもらえた。

 

「……そっか。しいかはここでもしいかだったんだね」

 

 あの兄と同じで、どこに行っても変わらない彼女の有り様に、インデックスは想う。

 だから。

 インデックスは、日記を閉じる。懐かしむのはまた後でもできる。今の自分はそれだけの時間も惜しい。

 <禁書日記>と一緒にこの部屋で、見つけた二冊のノートファイル。

 一冊は、彼女がつけていた日記。

 そして、もう一冊は、きっと知れば、どの勢力も欲しがるだろう。

 

「これが、しいかの……」

 

 一般的な魔術書に書かれている仰々しい文字に対して、丸みあるタッチの柔らかな少女文字だったが、内容は魔術書の一線を画している。

 これまで彼女が視てきたものが、また見てきた有名所の魔術書が、このノートに的確なまとめで書かれている。しかも、単なる概要ではなく、彼女なりの考察・注釈までも添えられていた。

 間違った儀式陣には訂正され、科学の能力との違いについての論説が加えられていた。もともとの書物や神話の骨子(テーマ)には傷ひとつつけず、繊細に、かつ大胆にまったく新しい叡智に練り上げられていく。

 ―――これは、上条詩歌の<源典(オリジナル・グリモア)>であった。

 魔術とは、自分の中に世界(システム)を形成することに他ならない。流れる血、才能、特質、環境、個性――いくつもの因子の違いがあるのだから、他人の書いたものを吸収したり技を模倣するだけでは、魔術師とはいえないのである。

 故に、魔術師とは、自分なりのアレンジを加えられてこそ一人前で、一人前の魔導師は自分だけの魔術書を持つ。

 古き酒を自らの器へと汲み、時間をかけて醸造させる―――その行為によって、初めて魔術は魔術師へと根付くのだ。

 

「きっとここにしいかは自分の体質(イマジントレース)について書き記してるはず」

 

 でも……“読めない”。

 『魔道図書館』が解読できないなんて、それだけで一種のステータスになるが、この一冊の価値は、国一つ買ってもおつりがくるだろう。

 確かに未だに解読できていない<法の書>がある通り、多くの魔導書は、その秘奥を他所に漏らさないように暗号や隠し文字を使っているのが常道だ。

 だとしても、まさか、10万3000冊の魔導書を記憶している<禁書目録>が読めないとは考えられない。

 しかし、それもこの異例を前には仕方ない。

 この<源典>には、魔術だけでなく、『上条詩歌がこの十年で触れてきた全ての能力と科学の研究成果』についても記されているのだ。

 その量は、この一年にも満たない間に吸収してきた魔術の知識量の十倍は超えてる。

 魔術という古き酒に、能力という異端未知のものが混ざったカクテル。

 それでもわかる部分だけでも抽出して読解を試みたが、それではまるっきり初歩しか触れられない。

 あまりにも複雑すぎる。魔術と科学の両方に秀でた人間――それこそ、これを書いた上条詩歌くらいしか読み解けない。

 

「オルソラに手伝ってもらっても、やっぱり、専門の知識がないと解けないだろうし。う~ん……」

 

 ページをめくる手が止まってしまう。

 もう何周も読んでいるし、その内容は完全記憶され、頭の中の図書館に収められている。

 インデックスは、ときどき詩歌のアイデアに意見をしていたが、全容はわかってない。

 この額に付けられた<誠実の霊(ジブリール)>の記憶補助デバイスも、その“素材”からして―――

 

 

「―――あ、そうだ。あの人がいる!」

 

 

地下聖堂

 

 

 世界には、人種や民族の垣根を越えて仮面を被って儀式や祭祀を執り行うものが多数ある。

 仮面で己を隠せば、人間は、現実と幻想、神と人、生と死の境が曖昧になり己以外の何者かになると信じられていたからだ。

 ならば、それは逆に、“人でなくとも”、ひとりの少女の顔をもつ幻想は……?

 

 

 200人以上の兵士と魔術師の混合。とりわけ、三大宗派で『怪物殺し』を主とするロシア成教だ。

 ニコライは、自分が持てる限りの戦力で“歓迎”しようとした。

 もしも彼女を捕える事が出来たのならば、トップの座も夢ではないと思っていた。

 だが、それは、夢だった。

 

「―――では、これでよろしいですね?」

 

 

 そこに、白い“少女”がいた。

 

 

 いや、本当なら赤い少女と言うべきなのかもしれない。膝下まで伸びる長い髪と言い、上品なワンピースの上に羽織った着物と言い、彼女を彩るものはどこまでも黒に近い赤だった。所々に金のアクセントが入っているとはいえ、彼女を占める赤は、圧倒的だ。

 しかし、薄暗い地下聖堂で目立つのは、やはり彼女の肌の白さだった。透明感のある肌は暗がりで輪郭をぼやけさせ、一見、真っ暗闇に浮かび上がる鬼火のように見えた。

 そして―――美しい。綺麗だとか可愛いだとかそう言うのとは異なる、この奇跡のまま生まれ、このカタチのまま滅び去るひとつの幻想。

 自然死と言う結末幸福な完結は許されない、生まれながらに人間としての生を奪われた、この世ならざる命のあり方がそこにあった。洋服の上に和服を羽織るという破天荒も、現実離れした彼女の容姿にはむしろ相応しい。

 揃って言葉を失う彼らに、白面嬢は綺麗な辞儀をしてみせた。無知にしてお辞儀の本式な作法が知らないものでも、本物の礼なのだと悟らせる。

 

「……ゆ、…許してくれ……」

 

 『怪物殺し』の司教ニコライは、それだけ言うのが精いっぱいだった。

 『右方のフィアンマ』に乗せられたのもあったが、<総大主教>の陰で世界大戦の準備をしていた。ロシア成教がいち早く一番利益の出る勢力としてローマ正教に取り入り、尤も戦争後の旨味を得られるよう、早期に手を打っていたのはニコライだ。

 だから、今回の大決戦は、彼にとって予想外の事態だった。

 土地を貸すという名目で第三勢力に入れるだろうが、今更、ローマ正教から離れようがロシア成教は良くても、自分はトップに立てはしない。

 だから。

 この審判役で、自身の計画を台無しにした彼女を捕え、大決戦を自身の有利になるよう……

 

 なのに、会談は、“つつがなく”進行し、“何事もなく”終わっていた。

 

「それでは、また」

 

 代行者――香椎は、ニコライに背を向ける。

 それでもニコライは動けなかった。その無防備に晒した背中を刺そうとする気概もない。より厳密にいえば、“もう無理だと痛感させられるほど何度も試したことをしたくない”。

 

 アレは、殺せない。

 

 心ない少女は、何も敵意も向けず、誰も攻撃せず、ただただ、ニコライの心を折った。

 

 

 

 ……その少女一人も倒せなかった無様な会談を、陰で見ている者がいた。

 服装は黄色い色彩を基調としているが、デザインは中世の女性のもの。目元に派手な化粧を施し、顔中にたくさんのピアスが取り付けられている。意図的に人から嫌悪されることを望むような装い。

 『武器』は、用意していたが、使っていない。

 この会談であの聖者が来ると思っていたが、どうやらこのニコライとか言う司教は見捨てられたようだ。そして、もう折れた心では余計な介入はできないだろう。

 もう、ここに居る理由はない。

 地下聖堂を離れる彼女――『前方のヴェント』はどこかの誰かへ皮肉気に笑いながら、

 

 

「化け物、ねぇ。これが、あの愚兄が守りたかったものだとしたら、笑えるわね。彼女、守る必要があるワケ?」

 

 

 

つづく


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