とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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英国騒乱編 秘話 ヒメゴト

英国騒乱編 秘話 ヒメゴト

 

 

ファミレス

 

 

 問答無用の午前中授業だ!!

 なので、学園都市の五本の指(トップファイブ)の名門校のエースである御坂美琴はファミレスにいた。

 現時刻はお昼時にはまだちょっと早い午前11時前で店内は空いている。

 午後にはオープンキャンパスに文化祭を複合させた、<大覇星祭>に並ぶ学園都市最大のイベント<一端覧祭>の準備手伝いがあるため、ここらで早めの昼食を食べたら再び学校に戻る予定である。

 

(……それにしても、陽菜さんから勧められてきたんだけど)

 

 鉄板の上に一口サイズに細かく切り分けたデカいハンバーグからは、嗅覚だけでも肉感を味わせるほどジューシーな匂い。

 何でもこのファミレスは夏休みに一度大火事にあったそうで、命名『ファイヤーハンバーグ』である。

 で、その学校の先輩がこの店をバイト先に決めた理由は……空気が、よさそうなのだ。

 

「ったく、上条当麻は。ここ最近真面目になったと思ったのに、この<一端覧祭>で忙しい時期に昨日今日と学校をサボって一体どこほっつき歩いてんのよ」

 

 向かいの席に座る胸のサイズを特筆することはないが、巫女装束を着たら似合いそうな同級生と食事する長い黒髪におでこな巨乳セーラー。

 他にも緑ジャージの胸部の伸縮性をこれでもかと発揮させている爆乳の体育教師に、窓際にひっそりと佇む、眼鏡で巨乳の……立体映像、おそらく能力を利用したホログラムか?

 それに店員のウェイトレスも胸を強調するデザインの制服を着こなしているなど、全員がこんなにも分かりやすい身体的特徴の持ち主である。

 

『いやー、頭のいい人と同じ空気を吸ったら賢くなりそうってよく言うでしょ。だからさ、この空間にいるだけでプラシボー(+脂肪)的な効果がありそうな気がするんよ』

 

 ……感じているのは、劣等感にも似た仲間外れ感なんですが。

 正直、ここにいる連中に負けないものをおもちの幼馴染と長年同室な時点で、その論理は破綻している気がしてならない。

 しかし、この店の食事には乳を大きくさせる成分が含まれているかもなノーベル賞的な発見がないと決まったわけではない。あの能天気な馬鹿母のいうとおり、大きくなるにはたくさん食べるのが一番である。

 そんな感じでポジティブ思考に、せっせとアツアツのハンバーグを口に運びながら、片手間で美琴は携帯をいじる。

 

(それで、ロンドンの様子はどうなってんのかしら?)

 

 通信関連に謎の電波障害が起き、ロンドンで何らかの事件が起きているらしいということはわかっているのだが、どうもその詳細は不明。

 心配になって、今ロンドンにいるであろう幼馴染に何度も電話をかけているのだが、通じない。

 その幼馴染の兄であるあの馬鹿にも話を訊こうと、通りそうなルートに待ち伏せてみたが来なかった。さっきのセーラ服の高校生の話からして、昨日は学校にも来なかったらしい。

 

(……まさか。この前もいつの間にかデモ中のフランスに行ってたし、今イギリスにいるのかしら……? それで、何か……いや、それはないわよね流石に)

 

 一瞬、不吉な予感に囚われた美琴だが、慌てて首を振って否定。

 そうそう海外出張があってたまるか。

 美琴も能力研修で海外に行ったことがあるが、その際にどれだけ学園都市の『外』に出るための手続きが大変だったか。

 とにかくどんな些細なニュースも、と電撃系能力者(エレクトロマスター)としての能力もいかんなく発揮し……とそこで主に都市伝説的なゴシップを扱うネットの海賊ラジオが報じる初のLIVE映像を見つけた。

 それに何気なくタッチすると寝具以外はほとんど何もない部屋に、美琴がよくよく知っている、短くなった髪にリボンを結んだ少女が映り、

 

<すみません。今日は連絡が遅くなっちゃっいました>

 

 びっくりするようないい笑顔で、携帯テレビの中で幼馴染が、男――美琴の直感的にあの馬鹿にしがみついていた。

 

「ええええええええええ!」

 

 

イギリス清教 拠点 一室

 

 

 上条当麻の顔は引きつりきっていた。

 午前二時ごろ。イギリスの、壁のない吹きさらしの屋外では、もう冬に近い異国の風が冷たいことだろう。だが、ここは室内。むしろ、当麻の左腕にしがみついているあたたかくて、やわらかいもののせいだった。

 『地図』――<縮図巡礼>に、<神の力>の<天使の力(テレズマ)>を通し、『伝令』で『鎖国』し英国の情報を封鎖する。

 その影響下でも、『学生代表』というのは無視できない。

 何かあれば帰還するように命じられるだろう。ので、

 

『なあ、学生代表の権限でも使って学園都市に応援を呼んじゃダメなのか?』

 

『ダメですね。学園都市の応援は呼べない。ではなく、呼んではいけないんです。決して、この世界大戦以外で共闘するのはしてはならない』

 

 このイギリスが内部で混乱しているのは、外敵からすれば、攻め込まれ易い好機―――それは、同盟を結んでいる学園都市にとっても変わらない。

 もしも、キャリーサの変革がどちらに転ぶにせよ早期に決着がつかなければ、魔術サイドの同盟国の内乱を止めるため、という“名目”を得た科学サイドの学園都市が緊密な協力を結び、“線引を超えて”介入するだろう。それは侵略とは変わらない。

 そして、都合がいいように『対等の同盟から傘下に落ちた英国』は学園都市に首脳部の利権を毟り取るであろう。

 対魔術師のスペシャリストである魔術大国が、科学サイドの一員になれば、魔術と科学のバランスに大きな影響を与える。

 この情勢不安定な時期に、またも火種をばら撒き、さらに戦争を激化する。

 そして戦争が終わったとしても、世界のバランスは崩壊しているだろう。もし、この戦争でローマ正教・ロシア成教に勝てば、イギリス清教を取り込んだ学園都市が世界から三大宗派――魔術は根絶され、科学が全てを支配する世界になりかねない。

 もちろん、これは学園都市にとってみれば魔術の神秘を取り込めるチャンスであり、それを現地で把握していながら報告せずに黙っていることは、裏切りに他ならない。

 

『それでも先のことを考えるのなら、キャーリサさんの変革は英国内で蹴りをつけるのがいいんです。戦争の勝ち負けではなく、その先で答えを出すためには』

 

『あれだけ苦労してなったのに、つくづく助けにならない学生代表権限だな』

 

『いいえ、色々と動きやすくなりましたよ。こうして学園都市の外にいれるのがその証拠。元々、権限を得たのも使うのは私ではないですから。それに孤軍奮闘しなければならないのもいつものことですしね。……まあ、美琴さん達に黙っているのは悪いですが』

 

 と妹は学園都市上層部を裏切るよりも、街にいる皆を想い申し訳なさそうに目を伏せた。

 しかし、定期的な連絡で無事だと伝え、かつ、イギリスの混乱は伏せるという困難なミッションなのだが、

 

<それで今どこにいるんですか? せめて情報が入ってこない英国の様子を、窓から周りの景色をカメラに写してくださいませんか>

 

 既成事実を作って押し切る方法は、当麻の腕にしがみついている詩歌に学んだ。

 だが、その味方であるはずの賢妹が、愚兄を危機に陥れていた。

 

「私達は、今お忍びで、ちょっとアブナイ事をしてるんです」

 

 お姫様な詩歌が、ベットの上から身を乗り出し、置物のようにカチンコチンにベット脇の椅子に座っている当麻に不必要なほど引っ付き過ぎているのだ。

 回線を通してインタビュアーの女性も、微妙な表情をしているだろう。ラインが途絶えた英国からの『学生代表』の会見の筈が、別な方向にニュース沙汰になりそうだからだ。

 ぎりぎり目線は入れていないアングル角度なのだそうだが、野郎の当麻に、今をときめくアイドル的な詩歌が頬を染めてしがみつく画像が、今、ネットのライブ映像から世界中で中継されている。コメント欄で、延々と野郎(じぶん)に向けて呪詛が書かれているだろう、もしこれがバレたら、当麻の人生も焦土と化すだろう気がした。

 

<お忍びでアブナイ事というのは、もしかしてこの宿で>

 

 通信が繋がっている女性インタビュアーの音声が、心地よいのかついに当麻の脇腹に顔を押し当てだした詩歌に訊く。病に伏せって外を出られない詩歌を世話をする看護役という手はずだったのに、これではもはや一種の放送事故だった。

 

「彼は私に、“俺に任せろ”、と。“もう体はくたくたな私に”、“泣いたって許さない”と言って、危ないところに突っ込んでいくんですよ。でも、終わった後はこうやって甘えさせてくれるんです」

 

 追い詰められているどころか、社会的に飛び込み心中である。全身にびっしょり汗をかいていた。

 全部、ただ状況説明の言葉が足りないだけで一応は事実なところが、余計に立ち悪い。

 

「他の人に見られたり聞かれたりしないように、この部屋でふたりっきりで、いっぱい優しくしてもらいました。ふふふ、愛を感じちゃいます」

 

「愛といっても、こう、男女のものじゃなくて、家族的なものです!」

 

 声を出したいが、出しちゃってバレたらまずいので、必死に地声を抑えた小声で注釈する。

 上条詩歌は人にからかわれるより人をからかう方が好きなタイプ、そして、女教皇様が心配になるほど色んな意味で性格がよくなっている。だから、世間様的に断崖から落ちかけそうになっている顔出しNGから顔出しKILLな兄を、瀬戸際で楽しめる余裕があり。あと先など全く考えていないことはないと信じたいが、今後の学生生活に止めが刺されてしまいそう。

 

「ええ、家族、ですね。もう、私だけの身体じゃありませんし」

 

 妖精じみて繊細な少女の顔が、真っ赤だ。恥じらいながらも嬉しく――まだ夕食を食べておらず空腹を覚えたので――お腹を撫でる姿は母性的。ただ、今は別なことを連想されてしまいそうで……

 

「ただ父母的に子供を心配するような意味でね! 飲み物や、毛布を用意したり、疲労が溜まっていた彼女を看護しただけでございますよー!」

 

 悲劇は、阿呆が混じると、しばしば喜劇に色を変える。少女が“面白い”機会をただでこなすなどありえなかったのだ。

 

「この先、大丈夫でしょうか?」

 

 これから先――第二王女キャーリサの変革――を思って憂う眼差しは、悲愴に。ベットから起きた少女は、冷たい手に、いつも通りに握ってあたためてと甘えるように、息を吹きかけた。

 微妙な空気が流れているだろう。当麻は我に返って、わけのわからない動悸を抱えながら、なりふり構わず主張する。

 

「インタビューの人、ちがうからな、そういうのじゃないから!」

 

 学園都市に帰れないかもしれない。この騒乱を解決しても、あの学生寮では暮らせない。街に戻ったら<警備員>に逮捕されるんじゃないかと、頭の中でぐるぐる駆け巡る。すでに知り合いに囲まれて尋問される自分まで想像した。

 この名前と顔出ししてない状況なら、きっと向こうで情報処理を担当しているであろう協力者の土御門が……………駄目だ。ものすっごく信用できない。

 やっとこちら側にきたのかカミやん! とかいって大々的に歓迎されそうだ。

 

(よし落ち着こう。これは信憑性の低いゴシップで、知るぞと知る知名度のマイナーな海賊放送だし、当麻さんの左半身だけで特定できるような知り合いが見てる確率も少ないはず。後で深く世間をお騒がせしましたとかであとで正式会見的な事をすれば問題ない。頭を切り替えよう)

 

 のらりくらりとインタビュアーの質問に応答しているのを他所に、当麻は自分で自分に無理矢理ポジティブな方向へと持っていこうとする。

 も、そこでポケットが震えている。この身体の震えとは別に。

 映像外の半身を上手に使って、映らないようにその振動源の着信中の携帯を器用に抜き出し右手だけで開くと、小さな画面に表示された名前を見て、ああ、と天を仰ぎたくなる。

 妹の幼馴染のビリビリ。

 携帯の画面をそっと閉じる。

 何で? 今情報の行き来は封鎖されてるんじゃなかったの? もしかしてビリビリパワーが詩歌が敷いた封鎖網を突破しちゃったの?

 いや、それよりバレてないと信じたいが、このタイミングでかけてくるということはまさか高確率で見ているのか。

 いや、偶然だ。だって今多分向こうは授業中の筈だし、名門お嬢様学校の授業中に携帯を見るような輩はいない。

 そうして祈るように沈黙を貫いていると、一旦着信がぱたりとまり、安心したのも束の間で、また振動する。今度はメールだ。まるで感情の昂りが発する電気が電波に乗って伝ったように、一瞬だが携帯に電流が走ったイメージが見えた。

 おそるおそるメールを見た。

 フォルダの一番上、つまり最新のメールを開く。

 

 差出人:ビリビリ。

 題名『見てるわよ』

 本文『電話に出なさい』

 

「どうしたんです? 散歩中に雷が頭上に落ちてきたような顔して」

 

「それ死ぬだろう普通……ああ、帰りたくない」

 

 あとで詩歌に頼んで誤解を解いてもらうつもりだが、ダメだったら、もう、このままイギリスに住もうか。

 そんな当麻の思考を読み取ったように、

 

「それとも逃避行でもします?」

 

「ああ、それもいいかもなー……って違う! 今のは―――」

 

 通話が繋がっている協力者のレポーター――へそ出しカチューシャさんが、ライブ中継が始まる前とは温度の違う、冷たい声音で、

 

<そろそろ、『学生代表』の心温まる“看病”について、詳しくお聞かせしてほしいんだけど?>

 

 

 

 して、同時にいろいろなものもおわったかもしれないLIVE中継生会見が終わった後、詩歌はこっちが泣きたくなるほど、良い笑顔だった。

 

「よし。これで一日くらいは時間を稼げるでしょう」

 

「詩歌。お前、本当に怖いものなしだな……」

 

「いいえー、詩歌さんは熱いお茶が怖いですよー。ちょうど喉が渇きましたし」

 

「面の皮の厚さは凄いでせうな」

 

 ストーンヘンジで啖呵を切った以上に、精神HPがごっそりと削られた当麻はがっくりと肩を落とす。

 

「そういう、当麻さんは馬鹿ですね」

 

「馬鹿は、ひどくね」

 

「馬鹿で足りなかったら、大馬鹿でも何でも、当麻さんのお望み通りに言ってあげますが」

 

 詩歌は、小さく唇を尖らせた。

 こちらも、いろいろと文句を溜めこんでいたようで、ジロリと半眼で、

 

「決闘はあくまでフリですよ? なのに、どうして引き離すだけで良い、あの騎士達と戦ってはいけないと言い含めたはずなのに、人間砲弾(ロケットダイブ)みたいな真似をやったんですか」

 

 あー……と視線を逸らしたくなる。

 やはり、侮れないと思っていたが、最後の捨て身の展開もあてられるとはあまりにも侮れなさすぎる。

 

「いや、あの、戦闘馬鹿なトールが勝手に、逃げるのは性に合わねーからっつうから」

 

「嘘ですね。トールさんに全部擦り付けようとしてもダメです。大方、トールさんと逃げてる間に視線とかで『やるか?』『妹のお願いを無視しても良いのかねお兄ちゃん』『ここで逃げっ放しなんてできるはずがねーだろ。で、やるのか』『やるやる』って意気投合しちゃったんでしょうね」

 

「うん……すっごく正解してんだけど、なんでわかっちゃったの?」

 

「何故かと言えば、それは詩歌さんが当麻さんの妹だからです」

 

「あんまり理由になってない気がするが、実際に正解してるし、普段の実績もあるから、ドヤ顔されても反論できん……っ」

 

「ふふふ、当麻さんのことはちゃんとしっかり見てますよ」

 

「ん。ちょっと待て。良く考えたら心の会話まで聞こえるはずがないぞ?」

 

「安心してください当麻さん。こっそり先生に頼んで手術中の当麻さんの頭に読心盗聴チップなんて埋め込んでいませんから」

 

「途端に不安になってきた! 全然安心できんぞこら。まさかとは思うが、マッドなサイエンティストになっちゃったの? お兄ちゃんは情けないぞ」

 

「ですから仕掛けてませんって。そういう身体の部品を作る工場がありますが、常識があって空気が読める、信頼と安心の詩歌さんですよ。それくらいの信用はあると思ってたんですが」

 

「いやまあ、信用はあるんだが、だったらどうやってわかったんだよ。力も使わずに、アイコンタクトの内容まで悟っちゃうのはできんだろ普通」

 

「こちらから言わせてもらえば、トールさんと見つめ合っちゃうだけで通じるなんて、トキメキ展開になっちゃったのかと詩歌さんは心配です。時々、舞夏さんと話してるんですが、土御門さんとも異様に仲がいいですし」

 

「ねぇよ! どんな心配をしてんだよ! 大体その時のトールは『香椎』だったんだぞ」

 

「あ、え、ええ、そうでしたね。うん……これは、微妙です。何せトールさんの変装は完璧ですし、つまりこれは詩歌さんの顔だから……ごにょごにょ」

 

「ああ、だから、当麻さんは土御門とは違って、妹にときめくような変態じゃねーから、『香椎(トール)』にときめくはずがねーだろ」

 

「………前にも言った気がしますが、簡単な話です。顔に書いてあります。だから、顔を見れば分かります。以上」

 

「いや、簡単な話じゃないぞ。達人クラスのスキルだと思うぞ。っつか、いきなり機嫌が悪くなってません?」

 

「もう説明が面倒なので省きたいんですが、それをいえば、そういう当麻さんも、“最初から変装に勘づいていたのに”、あそこで英国女王につっかかるなんて、本気で命知らずです。おかげで、騎士団長が止める前に、詩歌さんが割って入らなきゃ危なかったんですよ」

 

 ああ、勘付かれたことに勘付いていたのかと。

 『香椎』は一流の魔術師を欺くための変装――つまりは、一流でも何でもない当麻ならば関係がない。

 ロンドンに到着時からずっと上条当麻とインデックスは監視されていたが故にも正体を隠さなければならなかったのだが。

 <神の力>の情報操作で第六感さえも改竄していても、当麻は人を見るときに、そこまで己の勘任せにしていない。

 それに、以前の電話で、<吸血鬼>に対決の苦言に『勘だけに頼ると痛い目に合う』と呈されたのだ

 

「いや、でもちゃんとネタバレされてなかったし、別人だったら恥ずかしかったじゃねぇか」

 

「本人の前であれだけ言う方が恥ずかしいです。演技過剰です。いや、あれ半分以上本気だったでしょう」

 

 詩歌はうんうんと自分で相槌を打つ。

 当麻は困ったように頬を掻いて、訊き返した。

 

「俺だって、何も教えてくれなかったから、ずっと半分くらい疑ってたんだぞ」

 

「うん。言わずとも半分も信じてくれると思ってました」

 

 賢妹の眉が、微かに哀しげな皺を寄せる。

 

 

「……無様で勝手な私の、無茶ぶりでも、当麻さんが、期待に応えてくれなかったことがないです」

 

 

 少し、間があった。

 当麻が、一言ずつ区切って訊いた。

 

「……どうして、無様だって、言うんだ?」

 

「どうあっても兄の手を焼かせるから」

 

 たとえ室内でも周囲の風景を悟らせぬように、おぼろげな燐光に満たされる中で、その影は溶けてしまいそうで、その瞳が潤む。

 『泣いても許さない』といった手前、慰めるのはバツ悪く、ハンカチを取り出して、とりあえず握らせる。

 

「ほら、泣きやめ。笑顔が一番だ」

 

「当麻さんはドSですね。今にも泣きそうな妹に笑えとか」

 

「うっ、すま―――」

 

「すまないと思ったのなら、ほっぺたペロペロしてもいいんですよ?」

 

「……………」

 

「ぺ―――「するか!」」

 

 ハンカチを取り上げて頬を拭いた。というか、ゴシゴシ擦った。

 

「あう……あぉぅっ……」

 

 詩歌が逃げようとするが逃がさない。

 

「ちょっと、いたい、ですよ」

 

「我慢しろ。これが兄の痛みだ」

 

「意味が分かりません」

 

「こんなときだというのにリクエスト通りやろうかどうしようか迷った兄の胃の痛みだ。詩歌、頼むからもうちょい真剣度を持続してくれ」

 

「ペロッと舐めてくれた方が綺麗に収まると思います」

 

「んなわけあるか。野生動物じゃあるまいし」

 

「究極の愛は野生動物に行き着くんじゃないでしょうか」

 

 などと一見納得できそうなことを言っているが、実は単に言葉を受けて反射的に返しているだけだ―――に全額を賭けてもいい。

 

「その目は信じていない目ですね」

 

「その通りだとも」

 

 そんな久しぶりな会話がテンポよくラリーが続くと、詩歌は落ち着いたようで。

 

「ああ、まったく、手を焼かせる妹だ」

 

「そういう兄は、足を引っ張りますが。だから、ちょうどいいんでしょうね」

 

 と、ベットの上で、椅子に腰かける当麻から背を向け、フォークダンスの相手を所望するように詩歌は右手を肩の上、頭の高さまで持っていく。

 

「では、『枷』を強めます。当麻さんが触れても問題ないように」

 

「了解。……握っても、いいんだな」

 

「ええ、当麻さんの右手はいわば麻酔ですから。だから、一度握ったら終わるまで離さないで」

 

 こくり、と頷かれたのを見て、右手で、触れた。

 

「―――」

 

 心臓が爆発するほど強く打った。前兆をまったく感じさせず、途端に何かが膨れ上がった。妹だと脳が認識するまでの一瞬で、当麻は反射的に握る力を強めた。実験で最強の第一位の一方通行と、海で大天使のミーシャ=クロイツェフと、そして、ストーンヘンジで選定剣をもったキャーリサと邂逅してきた時と同等か、それ以上の圧力だ。

 だから、いつも通りの表情を取り繕うのにも痩せ我慢が必要で、

 言いかえれば。

 なのに、平常を保つのに気を引き締めるだけで震えが止まった、

 

「手を、離さないでくださいね」

 

 そう言って、当麻と手を繋いだまま片手で器用に、詩歌は上着の裾に手をかけ、恥ずかしそうにしながらも脱いでいく。

 

「おい!」

 

「と、と、止めないで!」

 

 律儀にお願いを聞いたのか、それとも単に硬直しただけなのか手を離して逃げるような真似はしなかったが、それでも思わず突っ込んだ当麻を前に、少女の耳が先端まで赤くなる。

 熱するリンゴの早回しみたいな、見事なまでの紅潮ぶりだったのだが、肝心の妹はそのまま頑として止まらない。ついに最終防衛ラインだった上の下着も外す。

 瞬間、解放されて弾むように動く……気配がした。見てない、見ないようにしているも空気的な振動を肌が覚えた。

 

「必要なことなんです。分かりなさい。分かってください。力を扱うにはまず自分の制御できるトコまで落とすのが一番なんです」

 

「ん、お……おお!」

 

「でも、これは良い機会です。この羞恥の炎で夜の復讐を……」

 

「え? 何か詩歌さんからやけっぱちで捨て身なオーラを感じるんですが、何かしたか?」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『ヘナ・タトゥ』。旧約聖書にも記載され、古代エジプトでファラオやクレオパトラが髪や爪を染めるために使っていたと言われる化粧。

 ヘナとは、ハーブの宝庫とも称されるインドで5000年前から伝承される世界最古の伝統医学アーユルヴェーダに古くから使われる薬草の一種。その枝、葉、実ともに薬や染料として身近に用いられ、インドの美と幸運の女神ラクシュミーが好む植物として有名。

 今でも日常的な美容化粧の他に、マニキュアや刺青とは違って剥がせることからボディペイントとしても親しまれ、科学的に、ヘナには体を冷やす効果があることからも夏場には重宝され、そして魔術的にも、祝福や魔除けの効果があると信仰がある。

 

「ウレアパディーさんとソーズディさんが言うには、伝統医学アーユルヴェーダは、病気を治す医学だけでなく、心と体のバランスを整える生命科学でもあるそうです。カリーやチャイでもわかる通り、インドの薬草学は奥が深いですね」

 

 背中をさらすように、黒髪のリボンを肩に乗せて前に垂らす。

 それから、『ヘナ・タトゥ』に使う、その白い肌よりもなお(しろ)い軟膏――淡く発光している――を左手の指ですくい、背中に回して、すっと肌に滑らせる。その五指が独自に動き、かつ見ずとも正確に。複雑な図形だった。指は2秒間に10を超える図形を完成させた。さしもの当麻が軽い目眩を感じた時、半分が終わった。背中の左半分。後の右半分には、流石に体の柔らかい彼女でも手が届かない。

 無論、当麻に右手を取られているため、前方が無防備で、この状況から目をそらすためにも、話題を捜す。

 

「紋様には何の意味があるんだ?」

 

「これは、私が自分でつけた『枷』。<妖精>を基本としたオリジナルに編んだ、『存在の階梯を落とす』もの。……<正体不明(カウンターストップ)>の風斬氷華さんから少し齧った<虚数学区・五行機関>の原理に、夏休み、父さんが偶然起こしたあの<御使堕し(エンゼルフォール)>の方式を参考にした、言うなれば<妖精堕し(フェアリーダウン)>です」

 

「それって……」

 

 言葉を、飲み込む。

 この部屋には、詩歌を除いては当麻しかおらず、四方に厳重に封がされている。

 

「当麻さんの予想通り。これは色々とマズいものだと思います。<御使堕し>は奇蹟のような偶然の産物で、この術式を組める者は“いない”ことになってますから。ほんのさわりとはいえ、誰かに知られるのはますます封印指定に。完全記憶能力のインデックスさんには見せられない禁呪の類です」

 

 それでも、それに頼らねばならない。

 少女の言葉は、哀切とも悲嘆とも違う複雑な感情を帯びて、室内の空気を震わす。

 

「私は、たくさんの人に迷惑をかけてしまう。大きな負債(マイナス)をかかえているんです。だから、これはその場しのぎ。“その場しのぎにしなくちゃいけない”。この負債を誰かが肩代わりするような事態は避けないといけないんです。もう、私は私のために幸せを投げ捨てるようなことはしたくない」

 

「………」

 

 愚兄は、すぐには口を開かない。

 賢妹の想いを、否定しようと言い返すことをしない。

 もし存在だけで皆の幸せを奪うような疫病神だから、より大きな善行のために上条詩歌が犠牲にならないといけないのだとしても、それを知って見過ごせない、それでも上条詩歌が大事だと言える人間がいないとは限らない。確実に、ひとりいる。

 それが嫌なのだと詩歌は言う。それに当麻も同感できる。

 

「だから、当麻さんは、もっと賢く生きるべきです」

 

 悪戯っぽい瞳でこちらに流し目を送ると、こめかみのあたりに人差し指をくるくる回して、賢妹は記憶を反芻した。

 

「『余計か。悪いが、こっちは余裕なんて計算できるほど賢くねぇし、妹をこんなところに預けっぱなしで大人しくしてられるほど』―――最後まではさせませんでしたが、あそこまで英国女王に言い返した大馬鹿はいません」

 

「……う……あ、それは」

 

 当麻が口ごもる。

 目の前で、しかもご丁寧に声まで変えて復唱されると気恥ずかしいどころではない。

 こほんこほんと噎せかえった愚兄を好もしげに見やって、詩歌はもう一度溜息がついた。賢妹の身体からこぼれた空気は、恥じらうように世界に溶けた。

 

「……お兄ちゃんの、せいですよ」

 

 かすかに俯き、困ったように囁いた。

 

「お兄ちゃんのせいで、私は弱いんです。今こそ皆から離れないといけないのに、それができなくなった。これが無様でなくてなんです。これが勝手でなくてなんです?」

 

「悪い」

 

 これは真面目に、当麻も返した。

 あわよくば、実兄が問題を起こしたことで、詩歌に『学生代表』を辞めさせてもらおうとも考えていたこともあって強くは言えないが、それでも、愚兄はここにきて、賢妹がここにいてくれて、良かったと思う。かつて天草式を出奔した神裂火織が危惧した通りにならず。

 この未練とも言うべき絆が楔の役目をはたしてくれて、本当に良かった。

 

「本当です」

 

 愚兄の右手を、ぎゅっと少女の柔らかな右手が握った。

 電流が、走ったみたいだった。

 退いたら負けだとか、わけのわからないことで頭がいっぱいになって、少年の呼吸が止まる。かあっと上ってきた熱で、妹に負けないぐらい顔が真っ赤になり、平常時の倍に高鳴る心臓を嫌というほど意識した。

 

「と、当麻さんが、私をこうしてしまったんですから、ちゃんと責任を取ってくださいね?」

 

「、 、責任?」

 

 思わぬ単語に、瞬きして、何故だか喉が干上がってしまい、言い淀んだ当麻の顔を、むっと賢妹が覗き込む。

 

「本当なら、前夜の所業についても責任を取ってもらいたいところなんですよ」

 

 とがめる口調と共に、皓いヘナを手渡し、

 

「あと、半分、お願いします。詩歌さんが描いたのを見本に、なるべく対称になるように」

 

「あ、や、その、おろ、ば、ふわわ!」

 

「それ、私の台詞です」

 

 内心そのままに、舌までもつれだす。

 心臓どころか、顔が直接鼓動してるみたいに熱くなってきた。背中を向けていてくれて助かった。……言わずとも見ずとも知れる、また右手首の脈拍からすでに知れてるだろう賢妹に対してはあまり意味がない気がするが。

 きゅうっと上がってきた血圧に耐えかねて、思わず左片手で目のあたりを覆う。

 

「どんな無茶ぶりにもお兄ちゃん、応えるつもりだったが、流石にこれはキツイでせう」

 

「……まったく、お兄ちゃんは、えっちですね」

 

「なっ、に……を……」

 

「普通、妹の身体なんて兄から見たら路傍の石のようなものだと聞きます。それなのに、うちの当麻さんときたら……でも、そんな当麻さんだから丁寧に塗ってくれそうだと思いつつ、詩歌さんは背中を差し出すのです。例え変態でも」

 

「詩歌さんは、兄を変態という事にしたいのでせうか?」

 

「したいというか……もう」

 

「確定だとでも!?」

 

「ごめんなさい」

 

「そこで真顔で申し訳なさそうな顔になるなよ!」

 

 直視だけでも難しいというのに、肌に触るだと……何故彼女はこんなにも自分に試練を与えるんだと言いたい。

 

「とにかく、変態かどうかはさておき、塗ってくれないと作用しないで役に立たないかもしれません。なので、ささっと美術で裸婦をスケッチするように」

 

「これは裸婦“で”スケッチだ。あー……今当麻さんの頭は軸が大きくブレながら回っててな、理解するまであと3分考えさせて」

 

「いいですけど……いつまでも背中晒して当麻さんの前にいたら、昨夜の……恥ずかしさのあまり当麻さんに折檻されたかのような錯覚に陥ってしまいかねません」

 

「それは紛れもなく事実無根の錯覚だからな!」

 

「まったく、普段は鈍感でさばさばしてるのに、変なところであれやこれやと考えてうだうだしますねー、当麻さんは」

 

「いや、別にうだうだしてねーと思うが」

 

「じゃあ、うにゃうにゃ?」

 

「うん可愛い。だが、お兄ちゃんを舐めてませんかマイシスター?」

 

「ん? まさかこの誘導は、詩歌さんに仔猫っぽくペロペロしろと? そのお代を払わないと兄は要求に従ってやらんぞ、と?」

 

「ストップストップ。斜め上に突き抜け過ぎだ。きちんと意思疎通を図ろうか。その話はもうやめにしたはずだぞ」

 

「どうしても気になるなら、牛さんのサーロイン肉だと思えばいいんです」

 

「詩歌を牛扱いにするなんて俺にはできない……」

 

「それは……喜んでいいのか微妙です」

 

 何事もないただの戯言の応酬だが、やはり落ち着く。こう見計らったように挟んでくれる気遣いは助かる。……それならからかうのもやめてくれと言いたいが。

 

「本当は最初から描いて欲しかったんですけど、見本がないと当麻さんが困るだろうから半分は頑張ったんですよ。久しぶりなんですから、多めに甘やかしてもいいと思います」

 

「……う」

 

 そんな事を、どこか拗ねた顔で口にするものだから、当麻も言い返せずに口ごもってしまった。

 ただ、ぼそ、とだけ呟く。

 

「……わかった。同じように塗ればいいんだな」

 

「はい!」

 

 声は小さかったが、成果は満面の笑みでかえされる。

 考えたら負けだ。母親のような気分で、淡々と。

 皓を左手の人指し中指ですくい取る。妹がさらしてくれた背中が、すぐそこで触れられるのを待っている。

 そして、世界のどの宝物よりも丁寧に、触れた。

 

「か、かゆいところ、ありませんかー?」

 

「ふふふ、なんですかそれ」

 

「いや、そういうこというんじゃないかぁ、と思って……」

 

「当麻さんにそういう仕事は、向いてなさそうです」

 

「ほっとけ」

 

「ぁ……」

 

「あ、悪い。痛かったか?」

 

「ううん、ちょっと。自分でやるのと誰かにやってもらうのは感覚が違うなって」

 

「そ、そうか」

 

「はぁ、んっ……ぁ、んんっ……」

 

「……………」

 

「ん? どうしたんです?」

 

「いや? なんでも……」

 

 詩歌の格好と、ときどき漏れる小さな吐息。

 ……妙に艶めかしく聞こえるのは気のせいだろうか。

 

「本当に痛くないのか?」

 

「大丈夫です。ちょっと、くすぐったいだけ」

 

「お、おう。力を入れ過ぎたみたいだな」

 

 一糸纏わぬ賢妹の背中を見ないようにしたいのだが、紋様を参考にするためにも視線を逸らすことは許されず、

 

「……………」

 

 裸といっても上半身だけなのだが、それは問題として大差ない。

 紋様を記すためとは言え、賢妹がすぐそこで裸だと考えると、心臓がおかしなことになってしまう。

 極力視界に入っても気にしないようにしているが。

 

「ひゃっ、んっ……」

 

 ズレることのないよう動かないように努めるよう身をよじるのも我慢し、されど両手で口を塞げず噛み殺せない声が漏れる。

 こちらも、なるだけ見ないようにしているせいで、妙な想像力が働いてしまうというか、脳が勝手に音を拾って保管してしまうというか……

 

「はぁ、はぁ……あぅ、んっ、ぁ……はんっ」

 

 俺の耳はおかしくなってるのか? なんか、こう真剣にやってるのに、別のことをしているように聞こえる。

 そうして、無我の境地に至ったところで、つい、訊いてしまった。

 

「きつくないのか?」

 

 当麻が尋ねたのは、過度な<幻想投影>の使用は、詩歌に負担がかかると、“記憶ではなく知識で”、覚えているからだ。

 事あるごとに倒れてしまうのは、妹の身体が弱いからではなく、精神的負荷が大きいからだと知っている。

 だから、口にしてから愚兄は己の間抜けさ加減を思い知る。

 

「なんとか。でも、それほどひどくありません。本当にひどかったら、倒れてるでしょうから」

 

 と、当麻が自分の発言に早くも後悔する前に、詩歌が小さく微笑した。

 言葉ほど余裕のある表情ではなかった。もともと苦痛を表に出さない妹であることを思えば、今までどれほどの衝動に耐えていたものか。

 

「でも、倒れてからじゃ遅いだろ。お前はよく我慢する奴だからな。当麻さんじゃ見てもどんな症状か良くわからんから……」

 

「大切なものは目には見えないものです」

 

「いきなり哲学的表現に飛ぶな!?」

 

 詩歌は苦笑いを浮かべ、

 

「だから、鍵は当麻さんに。言葉通り、背中を預けるというやつですね」

 

 その言葉が頭に染み通ると、冷静になってくる。

 ここまでもどれほど愚兄に合わせてくれて、適度に緊張感を保って説明をしている、

 それではダメだ。

 少なくとも、詩歌が冷静なままでいるのなら、こちらも同じか、それ以上に冷静でなければ。

 そうしなければ、会話が成立することもかなわない。

 愚兄は深呼吸して、茹だった頭を冷やし、気を落ち着かせる。

 今できることは何か? ―――それは、詩歌を問い詰めることではない。

 賢妹を、信じることだろう。

 何も救う知恵も情報も持ち得ないなら、詩歌の言う事を信じるしかない。

 

「ん。兄が慌てると妹は落ち着けません。ドーンと構えてもらいませんと。でも、妹を束縛する兄は嫌われますけどね」

 

「……へいへい」

 

 精一杯意識して、顔に出ないように装う。

 

「わかったよ。ちゃんと、やる。やってやりますよー」

 

「うん、よろしい。あんまり過保護過ぎると、逆にどんどん体が弱っていきますからね」

 

「何だよ、その病は気から見たいな言いかた」

 

「はい、まさしくその通りです」

 

「それもそうだな」

 

 得意げに笑う賢妹に、ツッコミを入れないことにする。

 こうやって、明るくやり取りができることが、きっと今は嬉しいのだ。

 同時に、ほっとしたからこそ、不安にもなる。

 これは制御にするための封印――つまりは対症療法にすぎず、御し切れなくなり、暴走する可能性が高い。

 その時に冷静でいられるか、ではない、冷静でなくてはならない。

 だから、この頼みに、逃げることも冗談にして誤魔化すこともできなかったのだ。

 背を、向けられない。

 すれば、きっと上条当麻は自分を許せない。

 その過酷な重荷を受け止めるにはあまりに小さい体を感じるたび、何度でもこの胸はしめつけられる。けれど本当は、彼女が今ここにいることが一番大事で、この手に感じる確かさより重い事実などたぶん何もないのだ。

 

「でも、傷。無くてよかったよ」

 

「そうですか」

 

「詩歌は、綺麗だからな。当麻さんの自慢です」

 

 この身体に、傷がないことを慰めに、当麻は心底安心した。

 詩歌が照れたように頬を染めてうつむく。

 

「当麻さんはけっこう傷が残ってますね。勝手に戦ったりするからです。今度、当麻さん専用の傷薬を作りましょうか?」

 

「いいよ、んなの」

 

「そんなの、ではないです。私は、当麻さんが傷つくのは嫌なんですよ」

 

 そっ、と胸から左手が首に巻くように回り、白い指がこちらの頬に触れ、そこにある切傷をなぞる。

 甘い香りがした。

 上気していて、柔らかくて、とても優しい指だった。

 その触れ方だけで、相手がこちらをどれほど大切に思ってくれているか、わかってしまいそうだった。

 だから、

 

「―――ばぁか。大丈夫に決まってんだろ。俺のは良いんだ。バカやった痕だから、いちいち消すより残ってた方が反省を忘れずに済むからな」

 

「それなら、私も、これで反省を忘れないようにしましょう。兄姉の真似をしたがるのは弟妹の習性ですから」

 

「悪いところは真似しないで良いんだよ。ったく、でも、背中は、意外と男前なんじゃないか?」

 

「だったら、今、しっかり見てください。これから、あんまり人前には出せないと事になるでしょうから」

 

 当然だ。嫁入り前の娘がそう肌をさらすもんじゃありませんよー……と口にするつもりだったが、少し、会話が止まって、

 

「……なあ、これしか、ないのか」

 

「私が、考えられる限りは、ないですね」

 

 この『方式』なしに実体化するような何か。それを扱えるよう、上条詩歌という器に収まっても、弾けて砕けないように調律(セッティング)する。

 そう、飼い慣らさなければならないのだ。

 

「<冥土帰し(先生)>でも、相手ができるのは“人間まで”。CTなり手術なり体を切り刻むことのできないものに西洋医学は弱いし、専門外ですから。まあ、女性お悩みの不定愁訴のようなものだと思ってくれていいです」

 

 それでも、目の前の少女が、当麻達とは“違う”のだと示す、禁呪。もう見なくても引ける最後の一画で、指が固まったように動かなくなる。心身が乖離するような相反する衝動に、心臓が情けないくらい激しく胸の中で暴れる。

 俯く愚兄に、こつん、と後ろにそらした賢妹の後頭部がぶつかる。

 ふたりとも喋らなかった。

 頭と頭を触れ合わせたまま、その温度で語り合っているかのようだった。どくんどくんと、心臓がまた高鳴りだすのを――胸の中の何かが溢れてしまいそうになるのを――相手の体温で我慢してるみたいだった。

 時間が止まったかとさえ、思えた。

 少し、して。

 

「お兄ちゃん」

 

 囁くように、肌から骨を伝い、脳に届いて聞こえる声。

 ひどく昔から、柔らかな声音で呼ばれた、その言葉。

 今日一日は鳴りやまないんじゃないかと思われた少年の鼓動が、それでゆっくりおさまっていた。

 まるで、魔法のようだった。

 

「仕上げて」

 

 今度こそ、優しい声に促されるように、指先でそっとなぞった。

 目が熱くなった。悲しいのか、つらいのか、目の前にいない何者かへと怒っているのかも分からなかった。ただ、こんなものに頼らなければいいのにと

 妹が己の全部を懸けて戦わなければならない時点でも最悪だというのに、もしこれが利用されて踏み潰されて報われないのだとすれば、本当の地獄だ。

 

 

 

「はい、これでばっちりです。当麻さんもやればできるんですから……」

 

 上着を羽織ると、くるりと回って椅子の背もたれと見立てたように当麻を背に詩歌は体を休める。

 詩歌は久しぶりに甘えた反動からか、触れ合うことはないが、表情が見えないからか街にいたより距離が近かった。

 賢妹が当麻にもたれかかるように体を寄せた。健康的な弾力のある詩歌の体の、触れるか触れないかの感触が、どうもこそばゆかった。

 ただ、衝動よりもずっと切実に、もどかしくなるくらいにこの距離を埋めたくて、この肺は酸欠になったように優しさを求めていた。

 

「なあ……詩歌、その」

 

「何ですか? 当麻さんがそんなまごまごしてるのは似合いませんよ?」

 

「それは状況によりけりだ……でな」

 

 言ってがっかりされたらまだいいが、拒絶されるのが、少し怖い。

 

「大丈夫です、言うだけ言ってみてくださいな。どんな発言でも詩歌先生は怒りませんよ」

 

「それは、絶対に怒る時の反応だろーが」

 

「ふふふ、そうなるかは当麻さん次第ですかねぇ」

 

「結局、怒らない可能性は否定されなかったが―――詩歌、抱きしめても良いか?」

 

「んんっ!? ちょっとまさか!?」

 

「ちゃんと確認したいんだ。……頼む」

 

「………」

 

 顔だけこちらに向けて目が合う。

 詩歌は俯いて、考え込む。顔からは笑顔がなくなり、代わりに真剣な表情が浮かぶ。

 詩歌がどんな返答をしようとも、聞くつもりでいる。

 決してせかすような真似をせず答えを待った。

 

「ん……いいです、よ。でも、まだ浸透してないので、背中には触れないでくださいね」

 

「わかった、気をつける。ありがとな」

 

「いいえ、当麻さんが真剣なのはわかりますから」

 

 ふっと笑って、詩歌は前を向き直る。

 あっという間に口の中が乾いていく。

 自分からお願いしたことだが、腕が震え出しそうだ。

 正面ではなく、背後にいるから、そのような無様は見られないが、悟られているかもしれない。

 だからか、彼女が何かを言う前に、愚兄は後ろから腕を回し詩歌のことを抱きしめた。

 掴んだ腕越しに、詩歌の体の感触が手のひらに伝わる。詩歌の手が包むように、手の甲に触れる。

 反射的に、当麻は息を吸い―――鼻先を、やわらかな詩歌の黒髪がくすぐった。

 胸のあたりに手が触れた時、詩歌はほんの少しだけ逃げる素振りをしたが、すぐにおとなしくなる。

 

「んぅ……」

 

 手は、ほんの少しだけ力を籠めて。

 その度に、詩歌の身体は反応する。

 胸のあたりにおいた愚兄の手が、柔らかく沈む。

 詩歌はくすぐったそうにするも逃げずに、愚兄の、乾いた血と汗で薄赤色のワイシャツの肩に顔をうずめる。今日久しく嗅いだ、わすれられないにおいが、彼女がここにいることを伝えてくれた。

 今この確認作業が、普段ならば絶対にやらない個人的なわがままだと、分かっているのだろう。

 自分は何者なのか。自分にとってこの少女は何なのか。

 それが知りたくて、愚兄の腕に力がこもっていく。

 すると、詩歌の身体の線がはっきりわかる。それは……妹ではなく、女の子のもので……決して、右手で消えたりするような幻想ではない。

 そのやわらかさと匂いに、くらくらしてくるも、体を抱きしめて離すことはしない。

 至極当然のように、離したいと思わない。誰かに見られるかもしれなくても、ずっとこうしていたい―――

 

「当麻さん、ちょっとキツい」

 

 声に、愚兄は反射的に腕の力を緩めた。

 

「わ、わりぃ!」

 

 腕は回したままだが、距離は開く。

 逆を言えば、距離は開けたが、腕は回している。

 

「もう、満足しました?」

 

「あ、ああ」

 

 なんだか間の抜けた返事をしてしまう。

 腹八分といったところだが、満足はしている意味もある。

 言外に、もう終わりにしようという意味だったと読み取ってしまい、いつもの鈍感はどうしたと恨みたくなる。格好悪い、みっともないかもしれないが、これ以上の距離はとりたくなくて、口が動いた。

 

「あ、そういや、御坂、詩歌に会えなくて寂しがってたぞ。いつも通りに振る舞っているようにしてんだろうけど、帰りにしょっちゅう愚痴を聞かされて、ゲージにビリビリが溜まっててなー」

 

「うんうん……」

 

「インデックスの奴もなー。詩歌がいなくなってから自立心が芽生えたのか。率先して家事をするようになってな。このまえも……あ、これは内緒だったな」

 

「ふふふ……」

 

「なあ、帰ったらさ……」

 

 会って話したいネタはたくさんあったのに、言葉が出なくなる。

 もっと帰ったらのことを上条当麻は話したかった。

 それを感じ取った賢妹は付き合う。これがはなすのに良い時であると。

 

「そういえば……まだ、インデックスさんに記憶の件を話してないようですね?」

 

 突然、ではないだろう。

 話は当麻も聞いている。

 今頃、居候の修道女が、記憶を思い出している頃だろう。

 ステイルや神裂が、その『上条当麻に役目を奪われてしまった』という“失敗”を『上条詩歌の補助で挽回している』はずだ。

 あとを頼まれた―――その“前の上条当麻”との約束を、今ようやく果たしたのだ。

 それについて、“今の上条当麻”も文句はないし、正しいと認めている。同じ状況ならきっと同じ事を頼むだろうと思う。“自分のせいで不幸になるのはイヤだ”と上条当麻もそう思う。例えそれが“別れの機会を作ってしまう”ことでも、インデックスに選ばせるのが正しいのだ。

 これまでも上条詩歌は、上条当麻にもできないような、後始末(アフターフォロー)――終わった後に取り返せるものは取り返す機会(チャンス)を創ってきたのだ。

 きっと、これも、そうだ。

 

「きっと、私がいない間に、言うと思ってました」

 

 確かに。チャンスはいくらでもあっただろう。それでも“現状で何とかなっているのだから”なるべく考えないように考えてきた。

 

「ああ、詩歌はすごいよ。俺なんかじゃできないことをやってのけるんだもんな。ああ、よくやったよ。これできっとインデックスもみんなも幸せになれる」

 

 褒める。

 無意識のうちの窮余の策なんだろうが、お世辞でも追従でもない。本音でいくらでも褒められる。

 それでも、誤魔化されない。

 

「話を逸らさないで……インデックスさんは、ステイルさん、火織さんとの思い出を拾い戻しました。だから、“またイギリスで彼らと一緒に暮らしたい”と思ってもごく自然なことです。―――インデックスさんが、私達のもとからいなくなるかもしれないんです」

 

 少し、反応が遅れた。

 何せ、記憶を失ってから、インデックスがそこにいるが当然のように暮らしてきたのだから、生活の変化を受け入れるのは、二の足を踏んで当然だ。

 

「……でも、それが正解なんじゃねーのか。学園都市じゃなくてみんなと一緒にイギリスにいるのが。まあ、これで一生会えなくなるわけでもないし、こんな風にイギリスに来れれば一緒に遊べるだろ」

 

 今の今までが“反則”だったのだ。

 インデックスは、ステイルやアウレオルスのことを忘れて、彼らとの絆を知らずに、誰とも無縁だと思い込んで、だから自分達に懐いていた。

 しかし、思い出した以上、彼らの方が大事ならば、彼女はそちらに帰らなければならない。

 

「いつまでボケているつもりですか?」

 

 詩歌は、どこか焦るように、急かした早口で、

 

「当麻さん、インデックスさんが決断する前に、話さないとダメです。今のまま嘘をつき続けるのは無理です。インデックスさんが私達といることを望んでも、彼女だけが何も知らないままじゃすぐに限界が来ちゃいます。そしてそれは誰も望んでいないことです。当麻さんだって、それが自分にしか納得できない自己満足だってのはわかってるはずです。そして、インデックスさんがいなくなったとなれば、このチャンスを見送ってしまえば、当麻さんはきっと生涯その嘘を秘密に持ち続けます」

 

 真剣で、全く退こうとする気配を感じさせない。

 驚きと戸惑いを覚え―――そして、性急なのだろうがその通りだろうと納得する。

 これまでも嘘をついて上手くやってきたのだから、“インデックスに何の罪悪も抱かせずに”。

 こんな背水の陣のような崖っぷちの状況を演出されなければ、考えもしなかった。

 でも、それなのに、賢妹は開けなくても良かったパンドラの箱とも言うべきインデックスの思い出を明けてしまったのだ。

 それなのに、賢妹はインデックスを不幸にしろというのだ。

 

「こんな事、言っても仕方ないだろ。言ったって、インデックスが傷つくだけじゃねーか」

 

 “初対面”の時、当麻は『インデックスを救うために『死んだ』』と真実を告げれば、きっとこの少女は傷つくと予想できた。

 その決断は今も変わっていない。

 

「ええ、きっと気に病むでしょう。これも私の自己満足に過ぎない。でも、病で一番怖いのは無痛なものです。手遅れになるまで気づかないことです」

 

 迷った末に決断したような顔で、言い辛そうに頬を掻きながら、

 

「私から約束を反故にするつもりはありません。これは自分勝手に事を進めて、提案したことですから、こんな事を言うのは筋違いでしょうけど、インデックスさんと、ちゃんと付き合いたいです」

 

 蔑みの色こそはないが、今の愚兄にそこまで考えられる余裕がなかった。

 ただ、賢妹は笑顔ではなく、困ったように眉をハの字にさせているのを見て、不安になる。

 

「でもな」

 

 これは自意識過剰ではない。

 

「思い出を取り戻してくれた、その姉も同然の人の“最も大事な人間”を『殺し』たのが、“自分だって”事を知っちまうんだぞ。こんなの最悪じゃねーか。詩歌は、インデックスが嫌いなのかよ」

 

 言ってから、また失言だと気づいた。

 賢妹はさっき言ったではないか『自分のために自分のせいで誰かの幸せを投げ捨てるような真似はしたくない』と。

 そして、愚兄の嘘で騙してきたのはインデックスだが、一番無理をしていたのは、賢妹だ。

 

「―――大好きに決まってます。でも、このままじゃ胸を張っていけない。そのままじゃ当麻さんもインデックスさんも幸せになれないじゃないですか」

 

 大好きだから、ちゃんと触れたい。

 大切な人形はガラスのケースの中に収めるのではなく、例え汚れることになっても一緒のベットに眠って、その感触を覚えたい。

 大事な人だから、喧嘩してでもぶつかり合いたい。

 傷つくことになろうと、隠したままでは赦すこともできない。触れなければ、傷を治すこともできない。

 そう、自分が自分のままでいられる間に……

 “あと”から知ったのでは、インデックスは一生(ゆる)せない。誰が何と言おうとその幸せを投げ捨てる。

 

「私は思い出は綺麗なままに取っておくんじゃなくて、何度でも思い出せる親しみやすい笑い話になるような熱のあるものにしたいんです」

 

「だから」

 

 どうにもならない怒りが腹の底からつきあげて、当麻はもう自分が何を言いたいのか解らなかった。

 

「どうして、そんな“先”のことばかりを気にするんだ。どうして、こんなに“急いで”いるんだ。いつもの詩歌ならもっと慎重に……!」

 

 これもまた失言だ。口にしてからすぐにわかるのに訊いてしまっている。腹の中に留めておけない、我慢できないのだ。

 愚兄は、賢妹がどれだけの布石を打っているかはわからない。

 それでも、<幻想殺し(イマジンブレイカー)>という右手を持つ以上―――いいや、たとえそんなものがなくても、上条当麻に上条詩歌の状態が分からないはずがない。

 これが“終わった後の”ことを考えたものだとわかる。後悔しないように“もしも”のことまで気にし始める賢妹を見るのが不安だったなんて、愚兄の身勝手だ。どれだけ、どれだけ希望を持つことが辛くとも、不安と闘ってきた、今も全力で戦っているのだ。それでも後始末をするのは、後始末をしないとかえって不安だからに決まっているのだ。

 だから、賭けでも良いからその望みを繋ぎたかった。もしも100人が必死にやって報われるのが精々10人だとしても、不幸な兄とは違って幸運な妹なら、その10人の側に違いないと。

 それでもこの怒りはどうしようもない。不甲斐ない自分に、妹をこんな体にした巡り合わせに、この不幸な世界に、あまりにも多くなものに。

 ひどく苦しそうに顔を歪めて、石から水を絞り出すみたいに愚兄は続けた。

 

「そんな、すぐに死ぬわけがないだろ。もっと幸せにならなくちゃいけねーのに、こんなところで死ぬわけがないだろ」

 

 腕の中の幻想を抱き締める強さが、また強くなる。

 空気に、ふたりの吐息がこぼれた。明かりに照らされて、ふたりの影は交わっていた。自分達の方に、自分達よりも遥かに重いものを載せてきたふたりであった。

 ああ。

 だから、隠し事はない。

 世界を揺るがしている少女とは思えぬ、年相応の声が寄り添う耳元に落ちた。

 

 

 生きたいに決まってるじゃないですか、と。

 

 

 バカですね、と呆れるように。

 

「私は、もう人事は尽くしてます。ちゃんと手を抜いてません。だから、急いてるつもりもないけど、先のことを考える余裕があるんですよ。私は生きたい。そして、幸せになるために全力です」

 

 それが、詩歌の結論なのか。

 生きたい、と言ってくれたことは嬉しい。

 それはただの願望であっても、そう願ってくれていることが嬉しい。

 

「なので、詩歌さんの心配はしなくて大丈夫です」

 

 ほら、といきなり振り返った詩歌に右手を取られ―――その対正面にあるふくよかな左胸にぎゅっと押し付けられてしまう。

 この誰よりも愛おしそうに握られていた手が埋まってしまいそうなほどの柔らかな感触に包まれる。例えお伽噺のお姫様であっても、これほど優しく、これほど心を籠めて触れられたことはなかろうと思われた。

 

「凄くドキドキしてるでしょう?」

 

「こっちも心臓がおかしくなりそうなだが……詩歌、一体何にやってんだ……?」

 

「だから、詩歌さんがちゃんとここにいるって証明を―――」

 

 詩歌はパッと心の鼓動に近い胸から愚兄の手を離して、けれど、その両手は握ったまま、ベットから立ち上がる。

 

「今のは決して変な意味はありませんから勘違いしないでよね。っと、ツンデレ担当の美琴さんの台詞を取っちゃいました」

 

「しねーよ。っつか、さりげなく御坂に失礼なこと言ったな」

 

 息を吸って、吐く。深呼吸。

 

「すーはー、すーはー…………ふう。もう大丈夫です」

 

「それはよかった」

 

「言うまでもないですが、当麻さん」

 

 詩歌が真剣な目を向けてくる。

 

「誰にでもこういうことはしません」

 

「当然だ。誰にでもするなんて思うわけないだろ」

 

「当麻さん以外は、可愛い子限定です」

 

「まあ、それくらいなら許す」

 

「ちゃんとその右手で触れます」

 

「ああ、……そう、だな」

 

「詩歌さんは、ちゃんと生きています。全力で」

 

「当然、だ」

 

「なので、当麻さんも全力で生きないとダメです。やるべきことがわかってるのに、妹を理由に立ち止まっちゃう当麻さんはあまり格好良くない―――いえ、もっと素直に言い直すなら。そういう当麻さんは、詩歌さん、ちょっと嫌いです」

 

 愚兄が、沈黙した。

 うつむいて、賢妹の手を握ったままの愚兄へ、詩歌は控えめに頭を下げる。

 

「でも、当麻さんの心の整理を付けずに、インデックスさんの件で生意気を言ってごめんなさい。だけど、これは私の本心です。本心だから当麻さんにぶつけたかったんです。このままだとこの先、後悔しそうなので、あえて言いました。ごめんなさい」

 

「………」

 

 それでも、愚兄は反応しなかった。

 まるで陸に上がった魚のようだった。もう、彼女といるだけで何度も呼吸の仕方を忘れてしまっていることだろうか。もう片方の手でシャツの胸を握り締めていた。今はまだ残り香のあるシャツに何本もの皺が寄り、蜘蛛の巣にも似て広がった。

 

「だから、ゆっくりでいいから、自分の足で立って?」

 

 賢妹の声が、はたして届いたのかどうか。

 石像の如く硬直していた愚兄は、握り締めたシャツの皺を更に増やして、ぽつり、と。

 

「………わかった」

 

「うん」

 

「ありがとな。言いたくないことを言わせちまって悪かったよ。いつまでも騙し続けることなんてできねーんだ。だから……キャーリサを止めたらさ、言うよ」

 

「うん」

 

 

 

 

 

「そして、詩歌を、助けさせてくれ」

 

 話は終わりと、離れようとするその小さな手を捕まえる。まだ終わりではない。ここで、離してはいけない。

 

「詩歌が本気でインデックスのことを思ってるのはわかってる。だったら、こんな“自分の今の話からそらすように使っちゃ駄目だろ”。そんなつもりがなくともやってるのはそれとかわらねーんだよ」

 

 こっからは愚兄(おれ)説教(ターン)だ、と唇を舌で濡らす。

 

「お前がどこにいるのか、関係ない。俺は、お前を助けてやりたいんだ」

 

「もう十分助けてもらってますよ」

 

「いいや、これじゃあ満足できない。こんな“お手伝い”がしたくて、俺はイギリスに来たんじゃない」

 

「……過保護、というより勝手ですね」

 

 学園都市で学生生活を送っていては、守ろうにも、詩歌がどこで戦うのか分からない。だから、これから先、愚兄が上条詩歌を助けてやるには、本人からどこでどうするのか聞くしかないのだ。

 当麻は、不意に起こった泣き笑いの発作に屈しそうになった。それでも言い切ってやらねばならなかった。

 

「俺はお前を、助けてやる。俺が詩歌の兄だからじゃなくて、俺が俺だから助けてやる。詩歌が俺の妹だからじゃなくて、詩歌が詩歌だから助けてやるんだ」

 

 未だに屈服しない挑戦者を向かえるように、少女が豊かな胸に手を当て、当麻を見た。

 

「そんなに、詩歌さんのそばにいたいんですか?」

 

「当たり前だろ。当麻さんは、学校で話をしたり、みんなで飯食ったり、家に帰ると誰かいたり、明日もそんな日がまた来る気がしたりする暮らしを取り返したいんだ。だから、インデックスだけじゃなく、詩歌がいないと困るんだ」

 

 当麻は自分がしているのは所詮偽善だと知っていた。

 だから、守る相手がいないと自分を理由に戦えない愚兄は迷宮に嵌り込んでしまう。

 当麻は、組織には属さないし、人を率いる長ではないが、人の繋がりを切り離されては戦えない。

 詩歌が、じっと愚兄の表情を窺っていた。それは、兄を見上げる妹の視線ではなく、一人の彼自身に訴えかける少女のまなざしだった。

 

「いいえ、それでは当麻さんは自由になれない―――」

 

 透明色のうるんだ大きな瞳を前にして、当麻は、薄明かりの中、詩歌の髪を綺麗だと思った。

 

「―――当麻さんは、正しいとか、守ってやりたい誰かとかのために簡単に命を賭けますが、それが本当に賢いやり方だと思うんですか」

 

「そうだな。俺は、そんなに強いわけじゃない。俺がいろんな決意をしてきたのだって、たぶん弱いからだ。一度逃げたら上条当麻が終わるってわかってるから身捨てられねーんだろうな。でも、だから何とか不幸と向き合えてきた」

 

「そういうところが当麻さんは馬鹿ですね。……それできっと不幸から逃げられるのに、どうして私をそこまで弱くさせようとするんですか」

 

 少女が、当麻を甘くなじった。

 

「決まってるだろ。それじゃあ幸せになれないんだ。さっきも言ったが、俺は詩歌が幸せになってもらわないと嫌なんだ」

 

 当麻が彼女に執着しているくらい、詩歌も彼との繋がりに未練を持っていた。

 

「当麻さんは勝手です!」

 

「詩歌だって勝手だ!」

 

「大体当麻さんが決闘を申し込んだんだぞ! 手袋投げつけてな!」

 

「それは詩歌さんの指示ですし! 向こうだって本気と取ってません! すぐに逃げたでしょうが!」

 

「それも詩歌さんの指示だったじゃねーか!」

 

「じゃあ、今度も詩歌さんの指示に従ってくださいよ!」

 

「やだね! 絶対に詩歌から離れねーぞ! カーテナとか、ミカエルとか良く知らねーが、夏の海に出てきたような天使の親玉を相手にするようなもんなんだろ!」

 

「ミーシャさんは私と火織さんで相手しましたが、その時、当麻さんはまるでついていけなかったじゃないですか!」

 

「詩歌だって最後は危なかっただろうが! お前はいっつも最後は無茶するから目が離せねーんだよ!」

 

「それはこっちもです! 吸血鬼や騎士団に喧嘩を売ってはボロボロになりますし! 当麻は無茶過ぎて、ハッキリ言って足手まといにしかなりません!」

 

「手を焼かせる妹は危ないところに突っ込むからな! 存分に引っ張らせてもらう!」

 

「自信満々に言わないで! そうやっていつまでも妹離れできないから、心配なんです!」

 

「それはこっちの台詞だ! 心配させるようなことばっかりやってるから離れらんねーんだろ!」

 

「私は、全力でやってます! インデックスさんに本当のことを言えない兄とは違って!」

 

「詩歌もそうだろ! 見せるのが危険だからって、アイツの『知識』を借りようとしてねーだろ! そんなんで生きるのに全力だって言えんのか!」

 

「当麻さんは馬鹿だからそんな簡単に言える! ヘタレな嘘を暴露するのとはレベルが違うんですよ! 当麻さんが馬鹿じゃなかったら見せませんでした!」

 

「関係ねぇよ! 詩歌は難しく考え過ぎだ! そうやって正しいとか、守ってやりたいからとか、簡単に命をかけてっけど、それが本当に賢いやり方じゃねーだろ! そういったじゃねーか!」

 

「詩歌さんは、『学生代表』なんだから、責任や立場ってものがあるんです! 宿題を忘れててた兄と違って、ちゃんと計画を立ててやってますから、舐めないでください!」

 

「そういう詩歌もさっきはペロペロとかふざけてたんじゃん!」

 

「詩歌さんはいつも真剣です!」

 

「余計にたちが悪いぞ! っつか、今はその情報封鎖までして裏切ってんだろーが! あとな当麻さんにだって兄としての義務と権利があんだよ!」

 

「束縛し過ぎる兄は嫌いです! 放っておいてください!」

 

「ムリだっつってんだろ! ひとりでイギリスに行ってからどれだけ寂しい想いをしたと思ってんだ! お前がいないと生きてけねーんだよ!」

 

「だ、だから、そういうことをしれっと言わないで!」

 

 そして、詩歌が当麻に言う説得は、全部自分に跳ね返ってくるのだ。

 結局、兄と同じ彼女も自分のためには戦えない愚者だから、自己否定で首を絞めるのと変わらない。

 インデックスの記憶を甦らせて、“上条当麻の記憶を諦めることを認めた”のは、彼女自身のけじめなんだろうが、“後始末”には都合が良かったのだ。

 何せ思い出せば、きっと賢妹がいなくなったらその過ごしてきた思い出の長さだけ愚兄の傷も深くなるだろうと“自分のことのように”わかるのだから。

 だが、それは残念ながら、夏休みからだけでも致命傷になるので手遅れだ。

 

「―――ああもう!」

「―――とにかく!」

 

 ふたりの声が、重なり合う。

 部屋のドアの向こうがばたばたと揺れる。詩歌が厳重に封をしたとはいえ、すでにその封の効果は切れかかっており、ドアに耳を張り付ければ物音や喧噪は聞こえるだろう。

 しかし、ふたりの兄妹は気にすることなく、バンと同時にドアを叩くように開ける―――と、そこに、まるで逃げ遅れたかのように床に尻もちをつくエプロン装備の少女、五和が、何故か両の手の平をこちらに向けたままぶるぶると何か『私は止めようとしたんです、けど……』とアピールのように振りつつ、

 

 

「ご、ご飯の用意、できました」

 

 

 インデックスの記憶復元の祝いの件も兼ねた、燃料補給の戦前の宴会を、五和ら天草式やオルソラら女子寮の家事が得意なメンバーが準備をしていたのだ。

 それで、『凄教派』の面々も集合してきたので、そろそろ呼びに行こうかとしたら、部屋の前に男衆が……しかし、上条兄弟は特に気にせず、五和に気づいて、それぞれが礼を言うと、

 

『飯だ!』

 

 どちらともなく叫び、ぽかーん、とする五和を、当麻が左、詩歌が右、と手を取って起こすと、そのまま手を繋いだまま、二人三脚とばかりに足並みを揃えて宴会会場へと向かった。

 

 

???

 

 

『二重の意味でピンチだ。というわけで、ここで手を打っておきたいけど』

 

 声のみの回線。

 『彼女』が暗部を解体したが、それでもこういう話は自分に舞いこんでくる。

 

『そこで私から君に依頼だけど』

 

 まだ一月も経ってないが、随分と久しく感じる。暗部の面倒事も、結構だ。

 

「第1位は?」

 

『彼は子供の面倒をみているからな。それに君が知っての通り制限があるけど。第4位は反対派だし、こちらから協力を求め貸しを作るのは避けたいけど。第6位も同様。第5位は嫌いだ。第3位はお姫様に怒られるだろう。第7位は制御不能で何が起こるか予測できん。―――そういうわけで、私が“遠慮なく切れるカード”は第2位だけど』

 

 電話の声は、淡々と答える。

 

「なるほど、予備(サブプラン)は使い捨てても構わないってことか」

 

『私はな』

 

 第1位や第4位とは違って、守るべき何かを持たなかった。生粋の暗部。

 だから、どこかの道端で倒れても、誰も気に病まない。もっと言えば、あの日、死ぬはずだった。その一度学園都市の転覆を謀った反乱分子は、上層部が心痛むことなく戦場へ送りだすことができ、誰にも助けてはもらえないだろう。

 しかしそれは暗部にいた時と何ら変わらない。

 

「俺にメリットはあるのか?」

 

『多額の報酬をお支払いするけど。現金以外にも、法的に入手困難なアイテムの提供も物次第で考えても良いけど。ただ、こちらができるサポートは最低限しかできない』

 

「クソッたれな仕事だ。その程度の取引材料で釣られると思ってんならますますムカつくな」

 

『切る前に仕事内容くらいは聞いてほしいけど』

 

 と電話の声は言った。雲川芹亜――あの後調べた小賢しい上層部のブレインの問答は、毒と同じであると知っている。付き合う義理も義務もなく、次の文句でこの暇つぶしは終わりにする、つもりであった。

 

『“お姫様”の保護をしてほしい』

 

 ピクリ、と反応した。

 回線を切る指が、興味を持ったと悟らせないよう音もなく戻される。心音も息遣いも平常値だ。

 それでも面倒ならば通話機ごと破壊するなり打ち切れば良かったのだ。だから、沈黙は先を促しているのと同じだった。

 

『今英国内でこの大戦に関わる何らかの災難が起きていると思われるけど、それに“お姫様”が巻き込まれないはずがないよなぁ』

 

 交渉のテーブルで喰いつかせようとしたのは、報酬ではなく、仕事の話か。

 

「……俺は、帰ってくるまで大人しくしていろと言われたが」

 

『君が人の言う事を聞くような人間とは思えないけど。<幻想投影>の奥にまで手を伸ばし手痛いしっぺ返しを食らった記念日の影響で、能力が不安定になっていると聞いてるけど?』

 

「不愉快だぜ。知ったような口で、勝手に分析する気に喰わねぇ相手から乞われても俺は動く気にはならねぇ。だいたい、俺でなくとも、守る人間がいるだろう。―――貴様も肩入れしているのは、損得勘定できるような目的だけじゃねぇことくらいわかってんだぜ」

 

『いいや、私は今回の件でお姫様を助けるつもりはないけど。もっと言えば、誰にも英国の問題にかかわらせるつもりはない』

 

 しかし、電話の声は否定した。

 

『“お姫様”はどうも学園都市を関わらせたくないそうでな。本腰を入れるのはしばらく様子を見てからにするけど』

 

「貴様こそが大人しく言う事をきくようなタマには思えねぇな」

 

『私は、私が手の届く限り、それも向こうから手を伸ばさなければ決して救済しようとは思わない。例え、見殺しすることになっても、だ。これが、私が“お姫様”の先輩であるために、彼女と結んだ契約だけど』

 

「……ひでぇ先輩がいたもんだ」

 

 チッ、と舌を鳴らす。

 自分は助けるつもりはない、と宣告された。

 守れるかどうかは自分次第という、仕事の取引どころか脅しを持ちかけてきたのだ。

 チャンスを与えられているのは、お前の方だと。

 お姫様すら、人質交渉の道具として扱う―――どこまでも図々しい、あの口先の魔女の本性であり本領。彼女はその立場にいるからこそ、冷静な判断を下せる。そも主導権を握られたのは、内心のありようではなく、純粋な判断力の問題だ。自身のコンディションが悪い時に、騙されても悔いのない相手の言葉の他は一切聞くべきではない。

 

『だから、第2位垣根帝督が受けなければ、これまでの全てが崩壊するかもなぁ』

 

 して、忌々しい事に、その相貌には、これまでの渇仰を糧に炎を燃やされた。

 

「俺に何をさせようっつうんだ」

 

 雲川芹亜はその耳に流し込むように毒の杯を傾ける。

 同情といい、共感といい、納得できると錯覚できる『小さな願い』でいい。

 

『さっき言った通りだけど。学園都市に余計な介入をさせるな――――』

 

 こうして、少女に知られることなく、檻の中の虎を野に放った。

 それが何を示すのか分からずとも、配置された駒は盤面をひっくり返す。

 

 

???

 

 

「―――では、Level6もそろそろ“刈り時”です。<新入生>の皆さん、準備は出来てますね? 今の暗部は、第1位も第2位も動かせませんからね。学生代表の“親衛隊”に選ばれた<新入生>の皆さんに頑張ってもらいましょう。アピールチャンスですよ、皆さん」

 

 集められたメンバーは4人。

 指揮する女性はそれぞれを『トランプ』にあてはめたコードネームで呼ぶ。

 

「ハッ、一方通行はすっかり腑抜けになっちまったからなァ。今なら私でもプチッと潰せそーダ」

 

 『実験』の際、貴重な第零位に勝利した、その第一位の『攻撃性(パターン)』が脳に組み込まれた高位能力者『ダイヤ』

 

「『ダイヤ』はやる気十分ですねぇ。『クローバー』、『Equ.DarkMatter』の調子はどうですか?」

 

『問題はない。『FIVE_over』の調整も終わっている』

 

 第零位の能力干渉に影響されない、対能力者最新兵器のエキスパート『クローバー』

 

「『スペード』もそのスーツは?」

 

「問題ないけど。ぶっちゃけ、ミサカは気乗りしないだけどねぇ……」

 

 精神的に与える負荷が大きい、第零位が相手をしたくない実験的存在『スペード』

 

「大丈夫。私が一人いれば十分です」

 

「流石、統括理事会の人員でも一体しか生産できない大金食いの『ハート』は頼もしいですね。ですが、『ジョーカー』の相手は難しいですよ。何せ私と同じ<木原>としての資質も持ち合わせておりますから」

 

 反乱を想定し、超能力者が束になっても鎮圧できる戦闘力の持ち主である上層部の最終防衛(セーフティ)『ハート』

 

「これまでの実績でも、9月30日に学園都市を襲った無人兵器も、アビニョンで<神の右席>も、そして、第1位と第2位も全てが『ジョーカー』には勝てませんでした。―――ただし、それは彼女がひとりのとき」

 

 彼女らは、とある少女の『学生代表(ジョーカー)』就任を“祝って”組織された彼女のための親衛隊である。

 

 

「今は都合のいい事に“足手纏い”がついていますから」

 

 

???

 

 

 聖者が、静かにしかし威厳に満ちて口を開く。

 

 

『―――俺様の右手で救ってやろう』

 

 

 賢妹の前に立つ聖者は――――体の、もう動かない彼女の体の、荒れ地に横たわる体の、呪いに侵されて眠りについている体の、愚兄の右手では救えない体の、そして―――――愚兄は、空っぽになった体の前で――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

 

 

つづく


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