とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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英国騒乱編 秘話 カイソウ

英国騒乱編 秘話 カイソウ

 

 

病院

 

 

 いいかい?

 自分のことだから、わかってるかと思うけど? とっくの昔に気づいていると思うけど?

 よく僕の話を聞くんだ。そして、誓ってほしい。

 その力は負担が大きい、特にこの前の――9月30日のような使い方は寿命を削る。

 あらゆるAIM拡散力場、いやそれ以外のものさえ模倣できる能力は万能で可能性を探すには便利だが、その変化は君の精神を蝕むよ?

 精神の癌化とでもいうべきかね?

 この能力者の街で常に、君の心は削られているが、それ以上の再生力でもっているのが君の現状だよ?

 わかってるね? 死んだり生かしたりを繰り返す不死鳥のような君でも限度がある。

 そして………悔しいが、世界でも君にしか発症しないであろう心癌は、僕の手にも負えない。このまま進行が進むと何が起こるのかさえ分からない。

 大事なことだから二度言うね?

 どうか誓ってほしい。使うなとは言わない、君があれからずっと探し求めているのも、僕は知ってる。僕が負けを認めてしまったものを、君は諦めていないことを。

 だけど、決して限界を超えるような無茶な真似は絶対にしてはいけない。

 お願いだから、この僕に生涯で二度目の黒星をつけさせないでくれ。

 

 

常盤台学生寮

 

 

 あれから、私は知識を得ることに没頭していた。

 身体の無茶にも躊躇わなくなったのもいつからだろうか。

 誰にも話してはならない秘密。

 救いたいもの。

 だが、その道標があるわけではない。

 それでも未知導(みちしるべ)になる力を、私は持っていて、この街は未知の宝庫だ。

 先生にも協力してもらってはいるがこれは個人的なものだ。

 手伝う傍らで様々な人の力を参考にできないかと考え、新説のレポートを見てはなにか応用できないと模索し続けた。

 それでも簡単なものではない。

 ひとつ考えてはひとつ消え。

 またひとつ考えては、また消える。

 暗い闇の中を手探りで進む感触。

 だが、立ち止まっては辿り着くことはできない。

 このミチシルベを頼りに、己の力を信じよう。

 堂々巡りの集大成が積み上げられつつある。

 だが、結局、これは幻想でしかない。

 

『だめだ、これじゃ……』

 

 

 

 放課後、予定よりも長くなった病院での検診が終わり、学生達の流れとは外れた場所へまわり道をしてから学生寮へ帰った上条詩歌は、自分の部屋に痩躯長身な同居人とは違う、小さな人影がいることに気づいた。

 

「しいか!」

 

「……インデックスさん」

 

 ここにはいないはずの、いたらまずい、そして、今朝方は来れず、今日初めて見る人物。別に知人を部屋に招いても問題はないが、もうすぐ学生は外出禁止時刻である。この小さな少女が<警備員>に補導され、学生IDに記録されてないとわかると大変面倒。ついでに今日は空模様が怪しいのだ。まだ完全に夜でもないのに濁った空の下の街は薄暗い。

 いいや、それより兄の部屋で寝泊まりしている彼女がここにいるということは何か事件が―――

 そんなこちらの心配は露知らず、修道服を着こなす少女は笑顔で詩歌を出迎え、

 

「おかえりなさい!」

 

「ただいま。それでインデックスさん、何があったんです? また魔術師が部屋に、それとも何か能力的な事件に巻き込まれて、はたまた、当麻さんが何か変なことを?」

 

「違うよ!? そんな問題なんて起きてないんだよ」

 

「ふふふ、てっきり誰かに襲われてここに避難してきたのかと。でも、無事なら良かったです」

 

「もう、しいかは心配し過ぎ。あ、でも、とうまに……」

 

「ちょっと待ってください。今、当麻さんの携帯に詳しくお話を」

 

 と、携帯を取り出し、某都市伝説の少女のように『今、当麻さんの部屋の前にいるの』と死の宣告をする前にインデックスは説明してくれた。

 

「とうまのとこから家出してきたんだよ! もー!」

 

 浜に打ち上げられた魚のようにバタバタ。単にベットの上で暴れているだけのリアクションだが言葉すればそんなところである。

 

 今朝方、何やら愚兄と喧嘩したインデックスは、もう顔を見たくない、とプンスカしながら、たまたま義兄がいる学生寮まで出張していた土御門舞夏に愚痴ると、

 

『それなら詩歌の部屋に泊まったらどうだー?』 と提案。

 

 常盤台の学生寮に勤務しているとはいえ、メイドが無断に学生の部屋に案内するのはいかがなものか。特にここには詩歌が師と崇める寮監が厳しく学生生活を取り締まっている。知人であろうと寝泊りさせるのは厳禁。兄の学生寮とは違うのだ。

 

『うん! それだよ、まいか! 私、今日からしいかの部屋でお世話になるんだよ!』

 

 おそらく舞夏は冗談で言ってみたのだろうが、即了承したインデックスの瞳から期待のキラキラワクワク光線に負け、とりあえずはだめもとで寮の玄関口にまで連れて行き、寮監にキツいお叱りをもらって諦めてもらおうと、したのだが……生憎彼女は用事で寮を離れていて、

 

『おりょりょ~? まいかっちにインデックスっちじゃん。こんなところで、どったの? 外寒いんだし、中にはいっちゃいなよ』

 

 出迎えてくれた人物がまた悪かった。

 部屋の鍵を持っているルームメイトは、寮監に最もきつくお叱りを受けている身であるが、所詮は馬の耳に念仏か。インデックスの身の上について説明していないので、仕方がなくもある。それに、彼女らの気持ちもわからないではない。このインデックスと言う少女は、何となく助けてやりたくなるような、そんな雰囲気がある。弱いから助けたいのではなく、彼女の強い思いを実現するように、手助けしてやりたくなる。

 というわけで、気をきかせたのか何なのか『今日は帰ってこないから、ってひなが』と自分がいないところで話が終着結論まで流されてしまった次第で、今現状。

 とりあえず、今頃心配しているであろう兄に連絡して……と、考え込んだのがいけなかったのか、インデックスはおずおずと、

 

「やっぱり、迷惑だった?」

 

 <禁書目録>の管理人としては、ここはインデックスを叱るべき。

 愚兄の部屋に寝泊まりをすると決めた際に、彼女にはここにきてはいけないと言いつけたはずなのだから。

 しかしながら、今にも雨が降りそうな外の状態で帰すわけにはいかない。

 

「別に構いませんよ。ただし、今日一日だけですからね」

 

「うん! ありがとう、しいか!」

 

 と言いながら、詩歌はメモ帳を一枚ちぎって壁に貼り、この部屋にだけ局所的に小規模な『人払い』を張る。

 これで一応外泊する同居人は帰ってきても部屋に近づけなるが、まあいいだろう。

 それから、外泊の許可が出てほっとしたインデックスはきょろきょろと周りを見て、詩歌は、その意味を理解。

 

「ねぇ、しいか。ここってしいかの工房なの?」

 

「まあ、RFOにもおかせてもらってますし、生活もどちらかと言えば当麻さんの部屋ですから、ここは寝泊りする以外は、個人的な趣味の部屋です」

 

 主が戻るまではと大人しくしていたインデックスだが、この初めて詩歌の部屋に上がり、興味津々なのだろう。早速気になる机の椅子に座って待機している。

 年頃の女の子の部屋と言うには、些か妙なものが多過ぎる。

 部屋半分を境に互いの領土不可侵条約をとりつけてた一室は、片方は漫画雑誌に娯楽品、非常用食料にお菓子の山が、インデックスにも見慣れた男子生徒の部屋に近しい化粧っ気のないが、一応整理整頓されている、いや、見るに見かねてされたというべきか。

 もう片方はと言うと、そこかしこに観葉植物が植わっており、インデックスの背よりも高く科学で品種改良された新種の葉を広げたり、仄かに甘く香らせる花を開いたりしていて、まるで花畑の庭園のごとく。

 絡みあった葉と花の間には、多くのコンピュータやモニターに埋もれている。

 最新のコンピューターと花畑を思わせる草木とが、この場所ではひとつに融け合って、共生しているかのようであった。

 そして、

 

(魔術と科学の二重に鍵を付けた引き棚は、開けられてない、か)

 

一角には棚に収められた書物やメモらしい紙片、机の上には学校のテキストや文房具にノートパソコンと、小型化された高性能ミシンに布切れにボタンと糸、薬をかき混ぜるための乳鉢に、顕微鏡、解体された電子機器などとそれぞれの分野用途にわかれてガラスケースに収納され―――インデックスはもうひとつの一面を見つけていた。

 

「これって、見たことがないけど魔術的な紋様だよね?」

 

 机の上にレポートとは別にまとめられた紙束――<筆記具>に、まだ未完成な木彫り細工も。触れただけで打ち消してしまう右手を持つ主の部屋にはおけないような。魔術の品と言うのは、インデックスの嗅覚が感じ取るその臭いですぐわかった。

 研究者の、でもあり、魔導師のプライベートな工房。

 

「どういう意味? ね、ね、どんなの!?」

 

「うーん、<木霊>はまだ未完なんですが」

 

 急かされた詩歌はドアのかぎを閉めると、パン、と起動暗証代わりの柏手を打つ。

 すると椅子に座るインデックスが指した木彫り細工が机の上で、カチャカチャと立ち上がり、インデックスの胸元へ歩き始めた。サッカーチームでゴールを決めた選手に駆け寄るチームメイトのようでもあり、ご主人様の帰宅を出迎えるペットのようでもあった。

 

「うわぁ!!」

 

 次には色がついた。

 机上という庭で小鳥や蝶、猫と見た目がつく、生体の瑞々しさを感じさせるシルエットの木細工が踊るように遊ぶ。

 ぱっと、笑顔を輝かせるインデックスはまるで一輪の花が咲いたよう。

 

「木を基盤とした使い魔、ううん、自律思考生物(ホムンクルス)だね。知能がついて自立して動けるようにしてる。まるで生きてるよう」

 

「前にお話ししてくれた<クロウリーの書(ムーンチャイルド)>の動物的なホムンクルスとは違いますが、同じ生物、植物的なものです。インデックスさんの言うとおり、木行は、妖怪や幽霊、変則ですが西洋で言えば、妖精に関する属性ですから、依り代とするのは相性がいいです」

 

 ぱたぱたと羽ばたく小鳥の木細工<木霊>を指にとまらせると詩歌はインデックスに差し出すように目の前に、彼女の指に渡らせる。

 

「欲しかったらおひとつどうぞ」

 

「いいの?」

 

「ええ。他の方の来年度<学究会>の発表論文の手伝いの作品見本もありますが、ここのものは私個人のものですから。他にも……」

 

 近くの電脳樹木に触れると、インデックスの目の前の空間に文字情報が現れる。

 

「うわっ!? しいか、いきなり何か出てきたんだよ!」

 

「この部屋限定ですが、眼鏡型機器(フレームデバイス)の未着でも、三次元投影するシステムを敷いてるんです。今はこの()たちの状態データを映してますね」

 

 宙空に展開された三次元投影されたエアキーに指を走らせ、変わった。

 

「このように記録した過去の映像に切り替えれば、模様替えすることもできます」

 

 部屋の洋装だった空間が、ベットの高さまで背を伸ばした花弁たちの列が、はるか地平線まで続くほど遠く、いくつもの種が絢爛と咲き誇る百花庭園へと。 天井はなく、かわりに星空の天蓋が。

 

「これが、幻―――!?」

 

 頬を撫でるそよ風や、酩酊するような花の香りまでも、インデックスは感じる取ることができた。

 一枚の花弁を摘まむと、そのしっとりとした感触も指先に伝わる。先の色づけされた小鳥に蝶の飛びまわるので、本当にここが外ではないかと錯覚させられる。

 

「ほら、水着モデルの時にも見たでしょう? その簡易版です」

 

 すっと指を走らせる。

 その様は『使いこなしている』よりも『使い倒している』が相応しいのかもしれない。

 次の瞬間、インデックスの周りは先程の常盤台の洋装に戻っていた。摘まんだはずの花弁も見事に消え失せている。

 魔術の眩惑に似ているが、魔力の気配はなく、魔術神秘の類とは別の、科学技術の賜物なのだろう。

 分野が違えど、インデックスは目を輝かせていた。

 ベットから落ちないようにだが、乗り出したまま、幻花のあったところを空を泳ぐように手を出す。

 

「すごい。すごいねしいか」

 

 子供みたいに、何度も口にする。

 その姿が眩しくて、詩歌ははにかむみたいにほほをかく。

 

「ん。そうですか」

 

「うん、すごい。だって、これらって特別な力がなくても使えるものだよね」

 

 一生懸命にインデックスは言葉を紡ぐ。

 これが10万3000冊の魔道書を記憶した魔道図書館の素顔であると言っても、正体を知らなければ普通は信じられないだろう。

 

「ええ、ここにあるのは全て、魔術も能力も扱えない人でも使えるもの。……母さんが最先端な技術に興味があるので時々見せて欲しいとせがまれることがあるんですよ」

 

 魔術も科学も知らない、詩歌の母親のような一般人にも扱えるように、補助具をつくり、手順は簡潔にマニュアル化し、難しい論文を編集し直している。<木霊>もエネルギー源補給の問題があるが、大地の生命力である地脈龍脈を利用できる。

 個人では思考パターンが固定されるため、開発者としての力を発揮できる期間は限られている。目処が立てば、技術を秘匿独占することなく解放し、人的資源(マンパワー)で有効に扱ってもらうつもりである。

 

「どんなに才能があっても、新しい事ができる開発者寿命には旬がある。なのに個人で独占したら、新しく出る目を積む既得権益になっちゃいますよ。もちろん、知らない方がいい知識もあるでしょうが、それも使いようによっては、きっと私でも考えつかないような発展があるかもしれません」

 

 それは、なにか夢のようで―――同時に、自分では達成できないなにかの諦めとインデックスは聞こえた。

 彼女は、結局、満たされるほど完璧ではない。

 それは、あの低いところを這いずり回ってきた少年がよくわかっているだろう。

 完全に満ち足りた人間は、人生全てをかけるような強い夢は見ない。それは、もっと泥臭い何かの表れなのだ。

 その中指に見つけた小さなペンだこが、その証。才能を磨く果てに力を手に入れた―――それにふと、懐かしさを覚え。

 

「……私の中にはね。たくさんの魔道書()があふれてて、どこの国の術式だって、千年前の魔術だって、話すことできるよ。でも、新しいものは創れないし、考えられない。だから、やっぱりしいかはすごいんだよ」

 

 ―――魔術の対策指南の魔道書を、速記で書き続けてきた錬金術師。

 ―――新たなる文字を開発し、魔道の可能性を模索し続けた魔術師。

 そのどちらも大切なものを救おうとして――――かなわなかった。

 

 

 そうして、食堂から詩歌が持ってきた食事を部屋で一緒に食べ、シャワーで汗を流すと、

 

 

「―――えへへへへ」

 

 ぶかぶか借り物のナイトガウン姿のインデックスが、にへらっと相好を崩した。

 ベットの上である。

 ぎゅうっと枕を抱きしめている。

 当麻の部屋では考えられない、ほとんど天国みたいな柔らかさの毛布に、自分の体に羽織るように被される。そんな柔らかさと温かさを以てしても、全く眠気はやってきそうになく、今日は話し相手がいてくれる。

 

「しいか、しいか、今日は久々にジョシカイをやるんだよ」

 

「ちゃんと、あとで歯磨きをさせますからね」

 

 一応、今日留守にしてる同居人のベットが空いているが、野暮なことは言わない。

 ぽんぽんと枕を叩いて、こちらに期待の眼差しを向ける銀髪の少女は、あまりにもその顔が嬉し過ぎて、もはや表情の体をなしていない。

 左右に二分して真ん中にスペースが開けられ、ベットの両側に用意されたサイドテーブルの上にそれぞれジュースの入ったグラスが置いてあり、結構高級品っぽいのだが、かなりぞんざいに紙コップぐらいの扱いを受けている。

 

「それじゃ、内緒話の準備っと」

 

 詩歌が片手でそこにピアノの鍵盤があるかのように空間を指で叩くと、部屋の照明が消え、音波相殺制御(ノイズ・コントロール)が作動する。

 一部の音楽ホールやノイズキャンセリング・イヤホンなどで使われる、逆位相の音波によって減音する機能だ。

 続いて月明かりのみの薄闇に蛍火のように浮遊する木彫細工が、キャンドルライトの役割を果たす。

 

「あとは夜食のおつまみ」

 

 双子枕山に挟まれる、中央スペースにお菓子を載せたお盆を。

 その品書きは、お隣から拝借したポテトチップスなどのジャンクフードと、頂き物のマカロンにチョコレート、それからカマンベールやゴルゴンゾーラのチーズ盛り合わせ、と統一感はさっぱりない。

 とりあえず食堂から軽くあるもの仕立ての夕食で満足しないであろうシスターの腹具合を見て量を優先した組み合わせである。

 おかれて早速、手を伸ばすインデックスは、ブルーチーズにパッパと黒胡椒を散らして食べて、ん~と小鼻のあたりに皺をつくる。

 そうして、詩歌がベットに加わると会話が始まり、しばし、何のお題も決めずに日常会話に歓談。

 

「………それで、何で喧嘩したんですか?」

 

 この投げられた直球に、インデックスは崩れた。

 

「だって! 私はそんなに悪くないのに、とうまが怒るんだもんっ」

 

「ふうん」

 

 詩歌が顔を横に傾けるとあわせて、揺れるポニーテイル。

 いつもより高めの頭頂部にまとめられた黒髪は、さしずめ悪戯な尻尾のよう。

 もむもむとチーズをさらにほおばる修道女に向けられる賢妹の瞳が、柔らかな夜光を受けて、猫みたいに煌めいた。

 

「当麻さんが、嫌い?」

 

 意地悪してそう訊くと、今まで――総計で結構な量を食べたが食欲が衰えることのない――休ませなかったインデックスの口が噤んで初めて止まり、俯いてしまった。

 分かっている。インデックスが愚兄に反発するのは、認めてくれないからだ。

 それは、別の気持ちの、裏返し。

 

「……しいかのいじわる」

 

 詩歌は噴き出した。笑われて、インデックスは赤くなる。

 今回、インデックスが家出した口論のもととなったのは、家事の失敗。

 留守番中、冷蔵庫に貯蓄された料理を台無しどころかボヤ騒ぎを起こし、風呂場掃除も洗剤の使い所を間違えて、壊れて修理屋を呼ぶ事態に。

 

「でもね、当麻さんには叱る資格はありますよ。詩歌さんがいないときは、お料理をするのは当麻さん、お掃除をしたりお洗濯したりお風呂の用意をするのもみんな当麻さんです」

 

「それは、そう……だから、手伝おうとしたのにっ」

 

 ぷくーっとふくれるインデックスに詩歌は自分も学園都市に行きたいと母に駄々をこねた頃の昔を思い出す。

 

「残念ながら、詩歌さんの目でもひとりでお料理しようとするインデックスさんは見ていて危なっかしいです。インデックスさんが家事方面では実力不足なのは事実。足を引っ張るんだと自覚しないとお話になりません」

 

「む、むぅ、しいかが厳しいかもー!」

 

「もちろんです。家事については母さんにみっちり花嫁修業させられましたから。妥協はできません」

 

「うん。わかったよ。しいか、花嫁修業に付き合って」

 

「ふふふ、覚悟はバッチリのようですね。それで、インデックスさんの家事レベルは自己評価でどれくらいで? 教会では、何を教えてもらいましたか?」

 

 何気ない会話の流れだったのだろう。

 インデックスは何気なく、

 

「んー……私、生まれはロンドンで聖ジョージ大聖堂の中で育ってきたらしいんだけど、最初に路地裏で目を覚ました時は自分のこともわからなかった。とにかく逃げなくちゃって思った」

 

 だから、今日まで詩歌に教わったこと以外は何もわからない、と明るい笑顔で言う。

 昨日の晩ご飯も思い出せないのに、魔術師や頭の中に<原典>の危険性だけは残っていて、本当に怖かったに違いない。

 そうして、最初に味方になってくれたのが、偶然にも、詩歌の兄、上条当麻だった。

 だから、インデックスは間射し、同時に疑問に思う。

 

「当麻さんも、世界が敵だったという時期があります」

 

 修道女の過去を引き出してしまった自責からか、それとも彼女に知ってほしかったからか。

 本人にさえ語りたくなかった思い出を、開陳する。

 詩歌は瞑目して、紡ぐ。

 

「……だから、たとえ今はもう忘れていたとしても、きっとインデックスさんが見過ごせない。世界から自分が全否定されるような――自分は絶対に誰からも愛されないと思えるような経験を味わったからか、絶望には敏感で、そんな鬱々とした顔をした子がいると、全く知らない人でも無遠慮に絡んでしまうんです」

 

「それはしいかも同じだと思うよ」

 

「詩歌さんのは単なる真似です。幼いころから兄の背中を見て育ってきましたから、きっと心の強さというのが測れるのなら、当麻さんにはかないません。今も、昔も……」

 

 技能で言えば、賢妹の方が遥かに優秀だろう。

 上条詩歌は決して自分を甘やかさない。学業も、能力も、魔術も、戦闘技術も、日常も、この“趣味”にだって、全てに手を抜かず、徹底的に磨き上げているつもりだ。だが、それは決して苦痛ではなかった。

 なぜなら、詩歌は愚兄が信じて誇る自分の才能を疑っていない。磨けば伸びる。鍛えれば強くなる。その確信があり、報われてきた努力なのだから、さほど苦にはならない。

 だが、上条当麻は違う。能力も、魔術もその右手の力で扱えず、詩歌でさえもその右手の可能性は伸ばせず、努力も空回りしている。自分のせいで、無能な劣等生と影で蔑まれてきたのも、想像がつく。

 もし賢妹にその右手があったのならば、ここまで来られたか疑問に思う。

 それでも、愚直なまでに努力を、詩歌は知っている。そして、詩歌よりも当麻がこの少女の地獄に踏みいれた。

 だからこそ、尊敬するし、この兄を幸せにしたいのだ。その努力が報われてほしいのだ。

 きっとそれは自分のこと以上に喜ばしいことで―――けど、そこで躊躇してしまった詩歌は、やはり単なる真似で―――

 

「違うんじゃないかな?」

 

 キャンデーやマカロンなどを掻き集めつつ、インデックスは傾げる。滅多にないことだがインデックスが詩歌に異を唱えた。

 

「ひとつ聞くけど、しいかは、後悔してるの?」

 

「賢いやり方ではないと、常々思ってますけど……後悔したことだけは、ないです。どんなことになったって<偽善使い(兄の真似)>をすることに後悔はしません。きっと―――これから先も、私は当麻さんを尊敬してます」

 

「―――そう。それじゃあ、しいかは単なる真似(にせもの)じゃないよ」

 

 あっさりとお菓子を頬張りながら修道女は認める。

 そして、当たり前のことを言い聞かせるように、

 

「真似なんかする前から、しいかはしいかだったよ。世界が敵になっても、しいかはとうまの味方だったんでしょ。だったら、きっと『苦しい時に誰かに助けてもらう』って感動は忘れてないと思う。『自分も不幸だったから』なんて後ろめたい理由だけじゃなくて、それが誰かにも教えたいくらいにうれしかったんだね」

 

 ……そう。

 あの時、救われたのは、詩歌だけじゃない。

 それは、上条当麻を『ヒーロー』と神格化し憧れる詩歌には気づけない。兄妹両方に地獄から救ってくれた修道女は笑って言う。

 幼いころからあこがれ続けたモノのために、あこがれ続けたモノになろうとしたのは、詩歌だけじゃない。

 ナイフを突き付けられ、それでも我が身を傷つく不幸にも躊躇わずに助けてくれた兄を見て、『誰かを助けたい』という願いが綺麗なものだと憧れて。

 不幸な時に、親にさえ反対し、世界を敵に回そうとも側にいてくれ心を救ってくれた妹を見て『誰かに助けられた』という喜びが温かいものだと理解して。

 

「結局、兄妹の馬鹿はどっちもだね。卵が先か鶏が先かなんて話になっちゃうけど、しいかもとうまに影響を与えてるに違いないんだよ」

 

 だから、

 

「しいかが後悔しないなら、きっととうまも後悔しないんじゃないかな」

 

 

 ―――約束守れなくてごめんな。“あとは頼んだ”、詩歌―――

 

 

 と、頼まれごとを思い出す。

 未達成のまま『上条当麻』のお願い事を。

 ゲームクリアができても、高得点を狙えない愚兄の、やり残したこと。いつも『上条詩歌』がしてきたこと。

 

(ああ、そうか……)

 

 兄の嘘を本当にしたくて、この少女を嫌いたくなくて、その“ミス”を挽回したくて。

 自分は無茶してきたのかもしれない。

 でも、その“あとは頼んだ”は趣味(それ)とは違くて、でもその趣味が役立てそうで―――そして、それを達成できたら、きっと兄の手を借りずに自分で自分に向き合えるかもしれない。

 

「インデックスさんって、シスターだったんですね」

 

「む、それはしいかでも聞き捨てならないかも」

 

「ふふふ、冗談です」

 

 パクッと詩歌の指でつまんだマカロンをインデックスのお口に入れる。

 

「……世の中には、知らない方がいいこともあります。隠していることが悪いこととは限りません。でも、それはやっぱり違うんですね。だから、その時が来たら……受け入れてくれると、詩歌さんは、嬉しいです」

 

「? 何を言ってるのしいか?」

 

「詩歌さんの口からは内緒です。でも、これだけは覚えておいて、インデックスさんと出会ったことを、私は、後悔しません」

 

 

当麻の部屋

 

 

 ―――ちーん。

 

 

 放課後、いつものトラブルに巻き込まれて遅くなった帰り玄関を開け居間に入るとちょうど、電子レンジの音が響いた。

 

「あ、おかえり、とうま」

 

「ただいま、インデックス、って、それはこっちの台詞なんだが家出娘。で何やってんだ?」

 

 ぱたぱたとお皿を持ってインデックスが台所から出てきた。きちんとエプロン装備で、髪の毛が入らないようひとつにまとめ結ばれてる。

 テーブルにはたこのうま煮となすの肉詰め、カブの漬物、そして小松菜と油揚げが彩りよく並んでいた。当麻が何だ何だと台所を見てみると、盛り直したサラダと焼きうどんが置いてあった。

 

「買ってきたお惣菜も、ちゃんとあたためて盛り付け直したら立派な料理なるんだよ。今日一緒に買い物した時、主婦は楽をすることを覚えるのも重要です、ってしいかが言ってた」

 

「そりゃ当然だなー。一般的な家庭の味と置き換えても良いと思うぞ。でもな、焼きうどんをおかずにご飯を食べるのか」

 

「お買い得ってシールが貼ってあったんだよ。ちゃんとしいかが設定した予算内に収まるよう計算したんだよ。お好み焼きをおかずに白米を頂く関西方式(ジャパニーズウエスタン)があるのをとうまは知らないの?」

 

 インデックスが膝立ちで身を乗り出し、大盛りになっているサラダに豪快にドレッシングをかける。

 

「このお野菜は、私が切って足したんだけどね! 今日の半分は私がやったも同じなんだよ」

 

「つまりはお総菜はお前が選んだっつうことか」

 

 修道女が得意げに胸を張っていた。

 

「いいとうま? この一手間をかけるのもまたポイントだよ。これはできるのと“そうじゃないの”と分かれ目になるんだよ」

 

 当麻の分の取り皿も合わせて、2人分の食器がちゃぶ台に並んだ。

 

「何だこの敗北感は……何故当麻さんはインデックスに説教されてるんだ」

 

「とうま、ご飯の準備ができたんだから、早く荷物降ろして着替えてほしいんだけど」

 

 インデックスは、横顔に落ちかかった髪を気にしながら、コンロに火を付けた。どうやら汁物は味噌汁ではなく、吸い物仕立ての煮麺である。

 どうやら、献立を見る限り、冷めてもおいしいもの工夫してあり、帰りが遅くなることを見越されていた。

 当麻も鞄をおいて、

 

「そういや、詩歌は?」

 

 この部屋まで送り届け、ついでに買い物講習まで付き合ったと思われる妹がいない。

 今日は夕飯を一緒に食べれると思ったんだが、

 

「しいかは、用事があるからすぐに帰っちゃった。たぶんとうまと入れ違いになったのかも。それでね! しいかのお部屋にはすっごい発明品があったんだよ! こっそり持ってきてもらった寮のご飯もおいしかったし、ベットもふっかふか!」

 

「インデックス、面倒を見てもらった詩歌にちゃんと礼は言ったんだろうな。それから、迷惑をかけた舞夏や鬼塚にも………」

 

 

 こうして、賢妹がひとつの決意をした時から、月日が流れ………

 

 

イギリス清教 拠点

 

 

 記憶障害は、完全に解消されることはない。

 

 脳以外に外部記憶を持つ技術は、チップの埋め込みといった手段で確立されているが、あくまで確立しているだけ。

 認可は降りていない。

 義体化技術のうちで現在適法なのは、首から下――つまり、義肢や臓器類で、未だにブラックボックスの部分のある脳は侵すべきではない聖域とされている。

 その上、不便であっても日常に暮らしていけるのならば、できる限り外科的手段はとらないようにするだろう。

 ならば、負ってしまったハンデをサポートするアイテムを開発する。

 思い出、いわゆるエピソード記憶。

 『いつ・誰と・何をしたか』――経験を外部記憶という中継を挟んで『関わりのあるもの』を見た視覚刺激からの『思い出したい』という意思で『思い出させる』システムを創造する。

 小指の長さくらいの薄っぺらいシリコン樹脂のような、これが中継する『核』だ。

 これは追加デバイスのように、額の金飾り――『太陽(ソウエル)』――の真ん中にぺたって張り付ければいい。

 

 <神の力(ガブリエル)>は、月を守護し、伝令という情報技術、真理の使い――そして、その異型、太陽の目を持つ大天使<誠実の霊(ジブリール)>は、『読み書きも知らない無知な預言者に神の言葉を“代弁”した』。

 

 “たったひとつしか”創れなかった、『使用者の代わりに本当の記憶を思い出させてくれる』外部記憶補助霊装。

 

 

「<クロウリーの書(ムーンチャイルド)>を参照。天子の捕縛法を応用し、妖精の召喚・捕縛・使役の連鎖をつくり―――検索・回収・再演する」

 

 

 あの天才が、この英国に来て、『―――をちゃんと救います』と宣誓された。

 あの錬金術師にも言ったことと同じように『彼女はもう君達に救われている。救われてる者を救う事なんて誰にもできない』と勝者からの同情ならばやめてくれと、今のままでも十分に満足していると、それでもあの天才はこういう。

 

『でも、果たされていない約束があるんでしょう? 例え忘れられても約束は守らないといけない。これは<禁書目録>として記録する人に知られてはならない知識じゃない。彼女がひとりの人間として知らなければならない記憶です』

 

 それから神裂を筆頭に彼女と付き合いのあった古参の魔女をも巻き込んで、今日まで彼女との思い出―――資料集めに付き合ってきたが、途中から見てられなくて付き合うようになったが、決して説得されたわけではない。だけれど、これを読み解く役目だけはステイル=マグヌスは誰にも、ここまでの魔術工程を成立させた天才――上条詩歌にも譲らなかった。

 

『今回の儀式では、万が一上手くいかなかった場合の過負荷などを考慮して、最初の記憶に限定してあります』

 

 現状、一時休戦で、未だに『変革』に蹴りがついていない最中だが、また『騎士派』の連中に捕まるような事態を避けるためにも、この守護妖精の本契約を果たしておいたほうがいい。月の満ち欠けからしても、今が好機だ。

 そう判断した―――と、中央に立つ彼女、インデックスに伝えた。以前の記憶が、甦るかもしれないことも。

 一室を借りきって、所狭しと埋め尽くされた、ここにはいない上条詩歌によって描かれた契約文字が紡ぎ出すそれは、儀式を行うための巨大魔法陣。

 原理については――無論、ステイルらも承知の通りだが――大覇星祭時で土御門元春の<理派四陣>と同様に手順通りに魔力を籠めればいい。

 契約を結ぶのは、インデックスであって、それ以外は補助であり、ステイルの魔力を使って詠唱に入った。

 未だにこの拠点に戻っていない帰還組や、工作等で他に人員が割けられている今、ここにいるのはインデックス、神裂火織、そして、ステイル=マグヌス。

 

「<クロウリーの書>を契約書代行にしてるってことは、やっぱりしいかの創った妖精なんだね」

 

「ええ……この<七天七刀>と結ばれているのと同じものです。もし、失敗しても、同じ加護を得るこの刀ならばラインを切ることができます」

 

 <クロウリーの書>――アレイスター=クロウリーが自身をモデルにした物語で、<禁書目録>の記憶を殺し尽くすのに扱われた魔道書。

 インデックスは、それを覚えていないだろう。

 

「ううん、それは必要ないよ。きっと成功する」

 

 それは、言霊となったのか。

 魔法陣が光りを帯び始め、天井の窓から月明かりが差し込み、導かれるようにその額当てに。

 

 ―――私、絶対に忘れないから……っっ!

 

 彼らが認識できる事象が起こるわけではない。だけど、一瞬吹いた風が水面に漣を与えたかのように見えた。

 

「………」

 

 地面にぺたんと座ったインデックスは、何十秒かそのまま身じろぎ一つしなかった。

 

「……嬉しい」

 

 長年凍結した氷が溶けだした様を連想させる。

 インデックスの頬に、一筋の涙が流れ落ちた。

 

「インデックス? 成功、してますか?」

 

「うん。……思い出せるんだよ、かおり、ステイル」

 

 その、懐かしい第一声の響きに、2人の息は止まった。

 

「よかった……」

 

「何を泣いている神裂。まだこれが第一歩だぞ。これから、より自然な形で記憶を汲み取れるように磨き上げていかなくちゃいけない」

 

「ありがとう。かおり、ステイル」

 

「ふん……それはさっきも聞いた」

 

「何度でも言いたいから……」

 

「そういうところは、本当に優しい子ですね……」

 

「これが私の……」

 

 インデックスは噛み締めるようにそう呟いた。

 

「……っ……っっ……」

 

 それが堰を切るきっかけになったのだろう。大粒の涙がひとつ、ふたつ……そして溢れるように。

 失って以来、インデックスが彼らの前でこんなに涙を見せるのは初めてだ。

 任意の場所と時間で求めるチャプターを三次元で再生できる録画データ、というべきか。

 日時やキーワード、ヴィジュアルのマッチング、そう言った検索を意識するだけで行える―――つまりは、『思い出す』と同じ。

 そう、ステイルや神裂を見て、そこにこびりついていた“情報”を<クロウリーの書>で消したインデックス自身に関することを限定的に獲得し、共有する。

 完全記憶を忘れさせたのは“魔術の(まじな)い”であるから、“解呪”も可能だ

 DVDの表面の凹凸に、その振動の記録を、脳に刻んだ記憶を甦らせる。

 だから、これは外部記憶とインデックスの完全記憶とはまた別の中継であるため、その傷や溝が時と共に劣化摩耗していき、読みとれなくなる―――つまりは、『忘れる』こともできる。

 記憶が戻り、また忘れても、それは普通の感覚であり、絆を結び直すには十分過ぎるきっかけで、思い出せなくなっても、絆は失わない。

 そして、これでインデックスに、2つの道が見えたのだ。

 どちらを選ぶかは、彼女次第。

 

(これで、良かったんですね……)

 

 ただ、この奇蹟を為した少女の思惑には、きっと自分には必要なくなるだろうから、代わりとなった大切なものを思い出させたくて、と……

 それが、神裂にはつらかった。

 

 

 

 

 海面へ没するかと思われた瞬間、しなやかな足が水を跳ねた。

 

 

 波の上に少女は立っていた。ほんの一瞬のことであったが、魂喰に宿木の効果が喰われ、ただの木片に変わり漂っていた流木を支えとして、音もなくもう一度跳ねる。

 それが<流体反発(フロートダイヤル)>による補助もあるが、そこに卓越した歩法の冴えがあると悟らされる。

 何せ攻撃の余波だけで海が耐えられずに、どうしようもない荒波を引き起こす事態だ。

 このままでは人払いどころか、沿岸部の地形も被害は免れない。

 嵐の航海を渡るイルカのように、少女が宙返りするとその右手にはすでに新たな宿木が握られて、

 

「させん!」

 

 正面に魂喰の怒涛として立ち塞がり、負の念を浸透させた双剣の斬撃を叩き込む。

 だが、その者の卓越した技巧には勢いや力攻めは通用しない。

 持ち主の意思で剣にも、槍にも、鎌にも、籠手にもなる柔の極致ともいえる変幻自在の<幻想宿木(ミストルティン・マーカー)>。掴み叩くことさえしない、『狂双の』騎士の剣の殺界、すでに魂喰の圏内を測り取った、剣を振る動作と拍子を合わせたダンスであるかのように避ける動作と同時並行で剣尖を掠めるよう振った宿木の一振りで、斬撃の軌道はあらぬ方向への変針を強いられる。傍目には、斬る側が唐突につんのめったとしか見えない。

 

「むう!?」

 

 それでも『ベイリン』は、つんのめった勢いを殺さず素早く宙で前転、一回りして“見えぬはずの一撃を加えようとした詩歌へ”斬撃を繰り出す。加えて、後援射撃と、『蒼弓の』騎士『トリスタン』の茨の散弾に、『ケイ』の不治の炎を纏わせた火矢を弾幕のように撃ち放った。

 無論、『ベイリン』には見向きもせずに被弾せずに避ける。

 

(やはり、<妹達>のように視界が繋がっているんでしょうか)

 

「考える余裕なんて与えないサ」

 

 が、詩歌はそれすらも一向、苦にしない。

 賢き知性を力に変換し、自律起動する絶対不敗の守護<幻想宝剣(レーヴァンティン・マーカー)>。

 惑星の如く己の周囲を旋回する無数の宝剣の優雅な舞いは、必中の精度も火炎の切先も、触れることすら最小限に、いなし、逸らせ、裂ける。撫でるように触れられた矢が他の矢に接触し、中心に在る一人を完全に圏外とする、矢と矢、空中での壮絶な激突の衝撃と噪音が散り咲く。

 

「海じゃあ馬は呼べねぇが、槍は出せんぜ!」

 

 芸術的、と言っていい宙の射劇に、割って入る異物――『ラモラック』の刀源郷の百火槍乱。味方が撃ち放った無数の火矢が乱舞する中で、容赦なく突き進む。

 焦らず、宿木を形態変化で腕に巻きつかせ右手をあけると、腰から取り出す形成済みの魔杖が海面を叩き、9つの波紋をつくる。場の魔力を魔封じの結界を根を張る<幻想法杖(ガンバンティン・マーカー)>。

 その波紋がいきわたると、海面に王槍がマーキングした転移点が霧散し、制御を失った槍は海中に沈む―――魔槍の身隠林が消えた時、跳躍した『六槍の』騎士が上から下に一閃、至近から遠心力を乗せた強烈な大上段からの斬撃を打ち込んだ。

 

 シャリィィ―――ィィン、

 

 と互いの得物が擦れ合う快音が響く。

 体重差に勢いすら負けている賢妹は圧され――宿木が二又に分かれて枝が伸び、両手首に絡み、『ラモラック』は反射的に、毛ほどの力で仰け反る。

 

「―――」

 

 その、毛ほどの力を察知した詩歌は、気息を体内で爆発させて力を入れ、捕まえた手首を押した。両手首の左右で微妙に力加減を変え、捻る向きも歪にずらして。

 

「おおっ!?」

 

 『ラモラック』は、壮絶な速度で斜めにひっくり返る。まるで自分から転がったような、奇怪な動作で。しかし、海面に激突する寸前、放り出された手の平をつけ、ひっくり返された速度をそのままに一回転させて、『ベイリン』の背後に後退する。

 

「吾らが力と真っ向から当たって引かず、凌ぎ、のみならず攻撃を逆手に取って攻略しているとは……技巧においては、すでに間違いなく最高の位置する存在か」

 

「だが、ヤスませぬぞ」

 

 槍の次は300もの飛剣。

 次から次へと押し寄せる『ユーウェイン』の黒鴉の飛剣を、詩歌は宿木を用いて打ち払う。

 縦に、横に、斜めに、少女の演舞は止まらない。止まったらそれが最後になりかねないと承知しているためだ。身につけた技術は常に十手から先を読み続け、津波の如き影獣を打って撃って討ち続けていた。

 数など、覚えていない。

 身体が動くままに打ち祓った。

 肝要なのは、身体をせき止めないこと。速く動くことでも、強く振り抜くことでもなく、ただ体の内側の流れを閉ざさないこと。ただ武器を持つだけで身体が正しい運用を教えてくれるという、その域まで詩歌の技巧は達していた。

 神殺しの宿木が閃くたびに、獣たちは光が差し込まれたように影のカタチが消える。

 それでも影獣は吸い寄せられるように殺到し、そのたびに達人の護衛の如く控えている自ら旋回する無敗の宝剣によっていなされ、両断される。

 

「イマだ。リュネットのコクインよ」

 

 『獅子の』騎士の指輪と同じ刻印が刻まれた装甲に光が通る合図に、百獣の白き獅子が唸りを上げて突撃した。その姿を消して。

 その四肢には海面浮遊の術式が張られており、巨体が海に沈むことはない。この身体は『ユーウェイン』の指輪の影響で景色に透過している。その爪牙はいかに堅固な防壁でさえ切り裂く。黒鴉の目隠し(ブラインド)に、複雑に走破起動を変化させながら、生きた魔弾である<獣王>が詩歌に肉薄する。

 ―――その奇襲を、だが、当の詩歌は、天上からの視点で視ていた。

 

「そのデカい図体で隠れるのが無理な話です。隠れるのなら姿に魔力だけでなく、生命力にも気を配りなさい」

 

 上条詩歌はすでに完成形に近い。それは苦手分野がないということだ。ローブの袖から伸びた腕を振り払うと、手放された宿木が大きな円――『門』、さらにもう一本生成されたの宿木が合わせ鏡のように詩歌の前後に、もうひとつの『門』。半透明で、色はくすんだ灰色。サーカスの火の輪くぐりをするように、前門へ呑み込まれた白獅子が、後門へ転送されまったく同じ速度、同じ重量、同じ軌道で駆け抜けてゆく。出てすぐ吹雪くような黒鴉の群れに白獅子は飲まれ、前後門の狭間にいた詩歌は無傷。

 

「<空間移動(テレポート)>を、<妖精の輪(フェアリーサークル)>に限定すればこのようにも扱える。まあ、<座標移動(ムーブポイント)>の経験を活かしてのものですが、一一次元の計算が難解でも、簡易的な『神隠』で領域範囲限定すれば、空間開通ができます」

 

 枠を超える新技術を戦闘の最中に完成させる真の天才がここにいる。

 メモ用紙を千切るように<筆記具>を数枚握り、

 

「<調色板>千入混成<玉虫>――<筆記具>複合<木霊>。起きなさい、クーちゃん」

 

 数枚をまとめて花弁に見立てた紙花のかたちでひとつ、萌芽する。

 『色』と『線』を引き、微小な部分が全体構造に相似する(フラクタルな)植物の葉脈のような生命線が構成され、その広がる範囲から効率よく海水――竜脈地脈を吸い上げ、海中物質を取り込み―――開花。

 母なる海と呼ばれる生命の根源には、塩から、金属やウランといった貴金属まで含まれており、構成する物質は十分だ。

 ごっそりと一帯の海水が純水となるほどに吸い上げた肉体が、白獅子にも匹敵する巨大な賢狼へとなり変わる。その爪も牙も鋭い。かつて、浜面仕上が扱ったレベルとは格が違う。

 妖犬が、魔狼へと変じたからか、人語を話すことはなく、『会えば絶滅』と獰猛な野生を解放する。

 

「早速だけど、その猫と遊んでなさい」

 

 <幻罰猟犬(クン・アヌン)>は『ユーウェイン』の白獅子と黒鴉群をまとめて相手する。

 互いに<獣王>クラスの激突はそれだけで災害に等しく、人が割って入れる領域ではない。

 

「これが……<神の右席>を討った実力か」

 

 『トリスタン』、『ケイ』、『ラモラック』、『ベイリン』、『ユーウェイン』はその脅威を再認識する。

 

「―――<グレゴリオの聖歌隊>を要請」

 

 複数の魔術師がひとつの儀式を行うことで、単独では不可能な難度の魔術を容易にする。ただし、必ず詠唱、祭壇、舞踊などの五感で共有できる媒体またはプロセスが必要である。

 ただ同時同種の魔術発動をするだけで、魔力が加算されたり増幅されたりすることはない。むしろ、事象改変の影響からか邪魔になる恐れもある。

 多人数で行使する魔術は、儀式に関わる魔術師が術式の各層を重複しないように分担することで複雑な、あるいは巨大な魔法陣を回すのだ。

 しかし、元々が六体でひとつの騎士団は、術式のパーツを分担するのではなく、魔力そのものをひとつに組み合わせる。

 精神、及び、宗派の特性までもが完全に一致しているからこそ、本来は3333人分の聖呪(いのり)が必要な神槍の大規模殲滅魔術を、<神撲騎団>は5人でやってのける。

 そう、彼らは一夜にして地図を変えるほどの怪物集団。その裁きの神槍は、一国をも滅ぼす。

 しかし、ここに『必要悪』の技術体系をひとつにまとめる少女がいた。

 

「これが放たれれば一体どれほどの被害が、私を討つためだけに英国市民を皆殺しにしても構わないということですね」

 

 詩歌から笑みが消えた。まなじりを吊り上げていた。斉唱が始まり、他の魔術が扱えない騎士達を撃ち落とさんと、更に3本増やし、計5本の護衛宝剣を、超高速で投じた。だが、そこで介入する白き聖灰が、賢妹の攻撃を叩き落とした。

 ずっと、上空で聖灰で球形の結界を敷きながら、高みから見下ろす『湖畔の』騎士『ランスロット』。

 かの円卓最高の騎士の防衛は、騎士王ですら崩せない。学園都市の第1位の『反射』のように、相手の攻撃を寄せ付けない絶対防御。

 殻に引き籠り、賢妹に触れられるのを避けるように戦場から離れて滞空する『ランスロット』ならば、この破壊に巻き込まれようが生き延び、術者の5人も『ランスロット』がいる限り“死んでも問題はなく”、正義も必要ない。

 ただ<神撲騎団>にあったのは、力と、任務失敗を許さないエゴと、狂気だけだ。

 賢妹の目測では、天空に暗雲を巻く紅蓮の渦の直径は約3km。法の書で見たときとは比べ物にならない。空間隔絶でも、空間通路でも防ぎ切れない。そして、ここに落ちても地表にも落下するコースだ。異常に構成速度が加速していくそれが、どれほどの被害をドーヴァ海峡――英国と仏国にもたらすかわからない。それは海底地殻をめくりあげ、地殻の津波を起こして、イギリスとフランス両国、欧州を悉く破壊する。世界地図からヨーロッパ大陸の地形を書き換える必要が出てくるのかもしれなかった。

 

「あざけろうと、『神上』よ。十字教の歴史に滅ぼされよ」

 

「こんな、避けるのは簡単なものだというのに、私が逃げたらどうするつもりだったんですか」

 

 詩歌は早くも明るく輝きだした空から聖灰に守られる五騎士へと意識を移す。

 紅蓮に燃え盛り太陽よりも激しく輝く夜空の下で、受け止めるのが不可能ならば、早々に術者を討つしかない。

 

「ええ、わかってます。ここで、私は逃げられない。―――だったら、上条詩歌の“歴史(思い出)”を見せてあげます」

 

 ここまで賢妹は決して一人では来られなかった。

 支えてくれ、本気で戦い、そして、いつも側で守ってくれたから人がここにいる。だから、今この時でもひとりではない。

 詩歌は笑った。風が吹き荒んでいた。

 温かな暖色のローブに鮮やかな紋様が走る。外気功をも取り込む『半幻想化』を補助する『科学』と『神秘』の混成融合<聖母花衣(マリーゴールド)>。

 

「混成<虫襖>、<山吹>――方式<希土拡張(アースパレット)>」

 

 ポーチから取り出した5つの袋をそのまま投擲する。

 その袋にあるのは、穴のあいたコイン――車輪をモチーフにしたレアアースを材料にした特別性の道具。

 

『あの……この、この前のごはん、もう一度、作ってください。ルチアには内緒で……え、ワガシってのもおまけしてくださるんですか!』

 

「―――死人を徴収する三途の鬼よ、この渡し賃を受け取れ」

 

 <十二使徒マタイの硬貨袋>の群体制御の操作性。

 二匹の火竜を十字と祈りで対峙した聖マタイの象徴たる硬貨袋とそれを縛る紐を操り、標的を狙うその精度。

 

『詩歌。あまりアンジェレネに嗜好品を与えないでください。彼女もきちんとしたシスターで……え、このショウジンという料理は、由緒正しき日本の僧が』

 

「―――六道転生車輪の如く、輪廻を巡りて」

 

 <聖カテリナの車輪>の爆発からの再生。

 車輪伝説を基にした術式は、術者の意思により何度も爆破と再生を繰り返す。

 

『あら。踊るのが上手ね。それに、その服装、確か、メイド……え、この肉食系女豹メイドはどうかって。英国で流行ってるなら着てみようかしら』

『やめてくれ姉。それは間違ってる流行だから』

 

 この二重同時魔術(ダブルマジック)を為すのは、ウレアパディーから学んだ<アストラ>の舞い。

 インド神話の神々の身体は必ず人と同じで四肢だけとは限らず、目や腕の数が多い神もいる。それを模した術式を扱うのならば、二本の腕に二本の足である、と制限を課す必要がない。

 例えば、腕の代わりに長髪を舞に合わせて振るうことで、攻撃を捌きながら神の踊りを表現する魔術制御。

 詩歌が<必要悪の教会>の女子寮で学んだ経験からうまれた術式。5つの硬貨袋は騎士たちを、聖灰の防衛網を掻い潜り、それぞれの迎撃を躱しながらも追尾。

 <希土拡張(アースパレット)>の摸倣色を、シスター部隊のルチアとアンジェレネの術式で補填、<アストラ>の隠蔽制御、仏教と十字教を融合させる天草式で調整する。

 これが、

 

「―――疾く帰せ、<六連銭>」

 

 かの日本一の武士と称された真田幸村の旗紋にも使われた。

 仏教用語のひとつ。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の6つの世界――『六道』。

 あの世とこの世を行き来きする地蔵菩薩の信仰から昔の人は、『死後、『六道』の数にあった銭を持たせれば清く成仏できる』と考え生まれたのが、六道に連なる渡し賃<六連銭>。

 地獄・畜生・餓鬼の三途の川も、<六連銭>を持たせれば戻ることができる、と信じられた。

 スロットで大当たりを出したように袋から溢れ出る<六連銭>が騎士に雪崩れ込む。言うまでもなく五円玉と同じコインはただのコインではない。複雑に回転しながら舞う一枚一枚の動きを捉える動体視力の持ち主であったなら、小さなコインがチャクラムのように薄刃と化しているのがわかるだろう。

 大量の車輪(コイン)は一見無秩序に飛び回りながら、確実に『ユーウェイン』、『ケイ』、『ベイリン』、『ラモラック』、『トリスタン』を捕まえ、神槍より早く炸裂。

 

 

 ――――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッッッッッッッッ!!!!!!

 

 

 途絶える、ことのない。そして、数え、切れない。

 閃光と爆音の蹂躙花火。

 聖灰に遮られ鎧を粉砕するほどの火力はないが、音響閃光弾としては十二分。

 延々と再生を繰り返す連続爆破で、相手の連結感覚(ネットワーク)を光と音で塞ぐ。複雑に音がぶつかり反響し、<鐘楼斉唱>と似た『意味』をもった魔音に変じ、瞬く光もサブリミナルとばかりに脳裏に真っ白なイメージを擦り込む。

 <強制詠唱(スペルインターセプト)>のように技ではなく力技の、聖歌斉唱を掻き消すほどの圧倒的情報量で割り込んでいき、一時的に一体していたリンクが、断裂。

 端から紐が解けるように細い筋を伸ばしながら紅蓮の神槍が解体されていき―――その時を、狙い打つ。

 

「<幻想宿木(ミストルティン)>――形態変化<蓮の杖(ロータスワンド)>」

 

 宿木が変形し、先端部が花開くように広がる。

 

『い、言っておきますが、これは寝惚けて部屋を間違えちまったからで、他意は何も……だから! 今度は、ママって呼んでって頼まれたって、絶対に呼びません!』

 

「万物照応。五大の素の第五。平和と秩序の象徴『司教杖』を展開。偶像の一、神の子と十字架の法則に従い、異なる物と異なる者を接続せよ」

 

 シスター部隊の長アニェーゼ=サンクティスのエーテルの象徴武器(シンボリックウェポン)による空間座標攻撃。

 蓮の花が開く宿木を自在に旋回させる。瞬間、間合いの遥か外にいるはずだが、一斉に<神撲騎団>に墜撃を加える

 防護を貫通し、真上から叩きつけられる不可視の衝撃に、海へ。

 そして、詩歌のもう片手は胸元のブローチに据わる虹色の宝石――生命力を材にし記憶を形にする<原初の石>に当てられている。

 

「イメージ」

 

 短く、少女は暗示し、検索する。

 

「もう一度、力を貸してください」

 

『うん、私はしいかを信じるよ』

 

 それは、本来、お目にかかれないはずの代物だ。だが、こうして荒れる夜海で魔道図書館から引き出された力で、初めて<原典>を扱った経験。そして、<禁書目録>との絆でもあった。

 古代魔導師が記したギリシャ神話の叙述詩、<神統記>。

 その知識から取り出したのは、法螺貝。

 きゅっと、その胴を左手に握り、笛口にそっと口づけし、海の調べを奏でる。

 

 海神の法螺貝――<トリトンの笛>。

 

 <神統記>に記された伝説に曰く、都市をも押し流す大津波を起こし、また、鎮めることができる神器。

 これは、“水を括る”―――あらゆる水の振動を思いのままにする音だ。

 戦場で荒れ狂った波が、急速に光出し、不自然に波を止めた。あまりに奇怪な現象に、半瞬だけ騎士らも戸惑うごとく動きが止まり、さらに別の異変に見舞われた。

 ごっ、と浮遊呪力付与(エンチャント)が展開されていたはずの足元が急に海中に引き込まれた。

 突如現れた落とし穴のような渦潮は天に昇るほど異常に高く噴き出し、彼らの身体を取り込んだのだ。

 

「ぐぅ!? しかも、これはただの波じゃねぇ!」

 

 そこは<幻罰猟犬(クン・アヌン)>の体形成で、海の資源を抜かれた場。満たされているのは負を浄化する純水であり、さきの法杖で封じられた――聖水。

 そして、海中では人は歌を、声すら正確に発音できない。

 穂先まで顔をのぞかせていた<グレゴリオの聖歌隊>は中断から、消滅。紅の暗雲が晴れ、夜海にまた星の輝きが戻る。

 先の魔封じの波紋がいきわたった減衰海域は、洗濯機さながらの渦潮に即席の身体術式を洗い流し、ただ重い施術鎧を底に縛るアンカーとし、海の牢獄に『ラモラック』、『トリスタン』、『ケイ』、『ベイリン』、『ユーウェイン』の護衛の騎士を封じ込めた。

 まさしく、羅刹。

 一騎一軍に匹敵する常識外の怪物としての性能の一端を、存分に上条詩歌は発揮していた。

 しかし。

 それでも限界はある。

 これで<神撲騎団>を討ったのは、“三度目の正直”だ。

 

(……これで、“今度こそ”終わり)

 

 やると決めてから、思考は、身体の外にあった。

 常に最適解を弾き出し続ける自分を、詩歌は俯瞰するような視点で見つめていた。現代スポーツであれば、周囲の状況を脳内で再構築している、ということになるだろうか。

 連続術式を許すほどの超集中。その反動で、少し、だるい。

 だが、それでも状況を打破することはかなわない。

 上条詩歌は、ずっとこの上がりのない双六をやらされている。

 

「あとはあなただけ!」

 

 塵となり大気に混ざっていた<六連銭>が、最後の一人である不動に滞空していた『ランスロット』のもとに結集し―――轟音と衝撃波が、聖域を震わす。

 海上に激しい炸裂音と突風が降りかかり、残る暗雲が正確な円を描いて今度こそ一切れ残らず霧散した。

 

「はあっ……はあっ……」

 

 消耗がついに隠しきれなくなり、詩歌は呼吸を整えながら、空を見上げた。

 そこには“やはり”『ランスロット』を守る聖域があった。

 

「無駄である。この身体を傷つけるものは存在しない」

 

 それは、ない。

 言葉にするのにも億劫になるほどの疲労の中で、頭脳だけは回転数は変わらず。

 すでに大体の憶測はついている。

 直接触れて、特性を見極めなければ、その聖域を突破することは不可能だ。

 一対一ならば、自分は負けない。しかし、

 

「残念。この身体は水陸両用なのサ」

 

「―――っ!」

 

 海中から底に封じたはずの、騎士一人が飛びだし、大短剣の奇襲を仕掛ける。

 咄嗟に、盾に広げた宿木がその軌道をそらすように防いで、炎に焼かれた。

 大胆不敵で用心深い『道化の』騎士『ケイ』はそのまま無防備になった賢妹にお返しとばかりに蹴りつけて海中に落とす。

 そして、『ランスロット』の元に帰り、嘲笑うように“振り出し”に戻す。

 

「ここまで私達を追い詰めるとは大したもんサ。けど、いくら追い詰めても意味がないサ」

 

 マーキングした武器を遠方から引き寄せる鞘をステッキ代わりに振るうと、海底から他の『ベイリン』、『ユーウェイン』、『トリスタン』、『ラモラック』を『ランスロット』の手元に転移させる。

 

「―――我、癒しを与える光輝なり」

 

 光る聖灰が足りない欠損部を補うように血肉となり、『ケイ』を含めて、その戦闘で傷ついた肉体を治した。

 『湖畔の』騎士『ランスロット』は、その“最強と称される御手”を以て、不治とされた騎士の呪傷を癒した。

 また、<神の薬(ラファエル)>――『癒しを行う輝ける者』はその異名の通り人に癒しを与える。

 『ランスロット』の恐ろしさは、万武の技倆に<神聖の国>という異教排他の絶対防護だけではなく、聖灰による再生能力だ。

 つまり、『ランスロット』が健在な限り、<神撲騎団>はいくらでも初期状態に戻れる。

 そして、<神撲騎団>がいる限り、『ランスロット』の撃破はほぼ不可能だ。

 どこまで攻撃を受けてもその防御力のアピールにしかならず、攻めているのはこちらなのに疲労感と恐怖心を覚らせ、抵抗で無意味であることを痛感させ、攻撃の手を鈍らせるための手管なのである。それは特に『人を殺したことがなく、傷つけるのだけでもストレスを感じるような人間』は、“死んでいるとわかっていても人型”を相手するのは精神負荷が大きい。そうして、弱った相手をじっくりと囲んで、仕留める。

 

「―――優先する。我らが大命は何においても優先されるのである」

 

 機と見たのか。ここにきて、攻勢に転じ、力を集中させる『湖畔の』――『裏切の』騎士。

 『ラモラック』から全魔力を籠めて渡される王槍<ロンゴアミド>に聖灰<アロンダイト>により白く化粧され、『ベイリン』の魂喰により属性が魔に反転。先端部に『ケイ』の<奇天烈の躰(マビノギオン)>が発する不治の炎がともされる。

 <口寄せ>で集められる『ユーウェイン』の鴉羽が、『トリスタン』の武器改造により、巨大弓(バリスタ)のような形状を形作り、次いで茨が弦となって羽と羽の先端を結び―――魔王炎槍が、矢となってそれに番えられる。

 円卓最強、そして、円卓を崩壊させた『裏切の』騎士の手で以て、<グレゴリオの聖歌隊>と同じく控える五騎士が斉唱する中で、その弦が最大限まで引かれ、海上に上がってこないが、上条詩歌のいる海ごと滅さんと真下に向ける。

 もしこの一矢が海を突き破り、地表に刺されば、一国どころか三国は滅び、『聖杯の』騎士が槍を抜かない限り、人が住めない土地となるだろう。先の神槍は単なる前座に過ぎなかったと証明させる破滅だ。

 その時、海に穴が―――広がり、細く深い渦、まるで銃口のよう。

 

 上条詩歌は、ドーヴァ海峡の底にいた。

 

 そして、声だけが、通る。

 

「ここが、私が引く生と死の境界線。殺しを殺す。破壊を破壊する。滅亡を滅亡させる。絶望を絶望させる。終わりを終わらせる。その幻想―――放てば、幻想に帰す」

 

 少女の周囲は水族館のガラス張りの水槽ホールを彷彿させる透明度の高い海が、夜の音と光を失った静かな海が、寝室のように優しく包まれている。

 静かで、あまりにも静かで、神がいますようにしんと冷えた海底。

 海水を統べる<トリトンの角笛>により保たれている空間より向こうは深度50m。水圧は最低でも一平方cmあたり5kg以上になる。神器の助けがなければ、押し潰されているだろう。

 そんな死と隣り合わせの中で、生命の輝きが灯される。

 

「―――総集合成、<死線>」

 

 『科学』<調色板>の<禁色混成>と対をなす、『魔術』<筆記具>の<死線合成>。

 法杖、5つの宝剣を宿木に巻きつかせるよう重ねると、自然に融合する。穂先が五芒星の如く5つある投槍弾丸。

 魔王を打倒したという、ケルト四宝のうちのひとつである光明神ルーの槍の顕現。

 絶対不敗であり、自律思考で標的を狙い、稲妻に灼熱と超自然を内蔵する。

 植物の根、茎、根と外気を収集する基盤を『カバラ』の<生命の樹(セフィロト)>をイメージさせる構造。

 そして、五芒星は、陰陽道五行の理を全て内包させ、循環させる紋章。

 この360度全方位にありあまる『水』を『木』の法杖の柄が吸い取り、灼熱の大『火』に変え、外装に海底資源の石の欠片などを核に集積した『土』を纏わせていき、鉱物を合『金』に固めていく(コーティングする)。ひとつの星を創生するかのよう。元より生命は海から生まれた。これが嘆きの一撃が完成される直前まで、際限無く繰り返される。

 

「放て、円卓崩壊の悲嘆を」

 

 して、<死線>の警告は無視され、

 

 

「―――<ロンギヌス・アロンダイト>」

 

「―――<ブリューナク・タスラム>」

 

 

 瞬間、海底と繋がる裂溝から、白光の咆哮が超音速で上空へ迸った。海神の法螺笛により裂けられた深海の壁に電流をとおし、海の裂け目を即席の超巨大(加速距離50mの)電磁砲台(レールガンバレル)にした。成分調整され電気状態が操作しやすい水壁は、発射速度がレールに入力した電流に比例する電磁砲にうってつけだった。弾丸は、光明神の槍。充填する事前加熱と発射時の摩擦熱だけで灼熱のガスが海の銃口から噴き出す。

 魔王炎槍に衝突―――その超自然の暴威は、纏わせた<大天使>の加護を受ける聖灰が剥がれ、負けた王槍を弾く。

 わずかに勢いがそがれた死線が、聖灰領域<神聖の国>に到達。

 浸潤後、球状に薄く張られた障壁に接触―――<死線>とパスを繋いだ<幻想投影>の同調による干渉―――貫通。

 異教を排他する聖域が、超音速の<死線>と、その<死線>の自律思考に接続した賢妹の反応(フィードバック)投影による同調干渉で侵入し、一瞬で貫徹する。

 破られた絶対防御の中で、<死線>は解放―――火、水、土、金、木と5つの属性の穂先が拡散し、<神撲騎団>の中心である『裏切の』騎士を討つ。

 だが、“壁”はまだあった。

 

 『ラモラック』が火槍弾に、

 『トリスタン』が水槍弾に、

 『ベイリン』が土槍弾に、

 『ケイ』が金槍弾に、

 『ユーウェイン』が木槍弾に、

 

 『ランスロット』には届かなかった。

 

 放てば、一度に5人を倒す―――ひるがえっては、一度に5人しか討てない。

 騎士団は、主を守るために盾になった。そうなるようにプログラムされている。

 海神の法螺貝がついに割れ、ガラスのように破片が海底に落ちて、消える。

 地鳴りと共に狭まる海壁に押し潰される前に、予め用意してあった命綱の、海上に浮かぶ<妖精の輪(マーキング)>に<空間移動>する。それで、ついに限界を迎えた。

 

「あ―――」

 

 <妖精の輪>に使った木片にしがみつきながら、凍えるような海温に眠らないよう、意識の細い綱を懸命に握る。

 一方、上空。胴に両手足を穿つはずだった<死線>は、代わりに五騎士を討った。跳ね跳んだ四肢の残像すらとらえさせず、付け根から下をそれぞれ肩代わりした4人の騎士がもぎとられ、1人は胴に大きな風穴をあけられた。

 この戦闘を終わらせる激突で、ローマ正教は6人中5人を戦闘不能にされ、賢妹は、ついに力尽きた。

 被害をこうむったのは<神撲騎団>、ではない。

 すぐにこの差し引きは上条詩歌の敗北となる。

 

 

「―――我、癒しを与える光輝なり」

 

 

 この一言で。

 また振り出しに戻る。

 聖灰が失った欠損部分を埋め、『ケイ』、『ユーウェイン』、『ラモラック』、『ベイリン』、『トリスタン』が初期状態に戻る。

 対し、限界を超えた詩歌は、ただの少女と変わらず、屈強な騎士団の前では、薄紙も同然。

 枠を超えた技倆を持つ神に近しい第零位が、集団戦術に敗れた。一見すれば、王女に取り入って孤立無援にさせるように仕組み、犠牲も厭わない戦術で上回った『ランスロット』―――テッラの勝利だ。神を撲する戦闘集団は、神にもなれる少女に勝ったのだ。

 

「この決闘、我らの勝ちである」

 

 <神撲騎団>は、上条詩歌にこれ以上の止めを刺そうとはしなかった。

 情けではない。

 超高出力の魔術に使われた魔力は、応酬で一度散った後、膨大な残滓を残す。残滓魔力が集まり過ぎて、混沌になっているこの領域は、竜巻の内部すら軽く凌駕する極限状態だった。下手に刺激をすれば爆発する。

 殺しても問題ないとはいえ、できる限り素体は丁重に扱いたい。

 仕留めた獲物を確保しようと騎士を引き連れて海上に降り立ったテッラは聖灰の中に呑み込ませようと、腕をふるった―――その時、

 

 

「いいえ、彼女は討たせません」

 

 

 静かな声と同時に、『裏切の』騎士らは、炎の雨を受けたような、何百というともしびに囲まれていた。

 まるで吊り下げ照明(シャンデリア)の中に飛び込んだかのよう。一瞬で、上条詩歌を遮るよう合間に無数の火柱が咆えていた。

 “まるで、火山が噴火したように”。

 

「これは、どういうことですか―――『ガウェイン』」

 

 これが設立当初から生き抜いた『太陽の』騎士の、実力だ。

 無数の炎色の光に照らされて、影が落ちる場もなく彼らは炙られていた。まるで死人を灰塵に()くる、永劫の業火。

 <聖者の数字>が抹消され、貴重な<人造聖人>は修理と<神撲騎団>とリンクを結ぶため『聖杯』に契約登録するまでは戦闘に参加させぬよう人払いと裏方に徹しさせていた。

 しかし、今、主に逆らうかのように対峙する。

 

「ご安心を。海を歩くのは些か手間取りましたが、陣は完成しました」

 

 『ガウェイン』

 その愚直なまでに主の命を達成するために、絶命する寸前で、強制的にパスを通して“ローマ正教から上条詩歌に主を変更させて”阻止した『太陽の』騎士。そして、人間以上に、純粋。

 その命が救われた恩義というよりそれは、産まれたばかりのヒヨコが近くにあるものを親鳥を刷り込みするのと同じか。

 聖母の紋章たる五芒星の刻印を付け、一度、主と認められた結果、例えそのものに自覚がなくとも、<必要悪の教会>に尋問され、処刑塔に幽閉されようと、どんなにひどい扱いがあってもその忠誠は揺らぎない。

 ローマ正教が誤算するほどに、この男は純粋過ぎた。

 

「あなたは、つくづく使えない道具ですね……!」

 

「我が主は、ローマ正教ではない。故に、この神威を向けることに躊躇いはない」

 

 この炎は、<神聖の国>を通ってしまう。

 開戦を告げる号火にさえ耐え抜いた<神撲騎団>は動けず。

 この場に敷かれた百を超える魔術が多重発動させる。その自滅にも等しい威力は桁外れだ。焦点温度は、間違いなく太陽にも匹する焦熱。視界を埋め尽くす煌炎の檻。

 収監され、イギリス清教に削られた結果、『太陽の』騎士の戦闘力は、並の兵士と変わらない。しかし、それでも“この存在を贄に捧げることで発動する”―――上条詩歌が阻止した自爆術式がある。

 

「ダメ、……それは、ダメです」

 

 木片にしがみつく詩歌が弱々しく嘆願する。

 あれほどの危機に見舞われても、弱音を吐かず臆さなかった少女が、初めて乞う。

 だが、

 

「お願いだから……」

 

「お赦しください。貴女の最初の御命令だというのに、背かせてもらいます。見ればわかるのです。これ以上、貴女は戦わせられない。人殺しのできない貴女の優しい御心を踏み躙らせるわけにはいきません。そのためならば―――」

 

 このイポグリジア=ジェネラーリは、完全なる騎士で、どこまでも目的に純粋だ。

 

 

「―――聖母よ。私は、貴女にこの身命を捧げる」

 

 

 騎士王物語と同じく、このドーヴァ海峡で、『太陽の』――『聖母の』騎士は散る。

 それは。

 それは。

 上条詩歌にとってみれば、“己のために犠牲になろうとする”のは、悪夢(トラウマ)を甦らせる止め(トリガー)となりうる最悪の負荷(ストレス)だった。

 

 海は沸騰し、脚の具足は熔かし、一気に、火妖の朱に爆発する―――――寸前、禁()された死線を越えた。

 

 ドゴンッ! という爆発音と共に、炎海を祓うように、現れたのは極彩色の閃光。

 膨大な魔力、いや、その根源たる生命力の漏出。爆風とも呼ぶべきそれが、詩歌の全身から噴き出して、砕けた太陽の破片を放散させ、光の乱舞が自爆術式を吹き飛ばしたのだ。

 

 シルエットが、陽炎の如く、揺らめく。

 

「―――」

 

 変化は突然に、世界を侵していた。

 風がやんだ。

 波が止まった。

 星空が、その色を無くした。

 さきほど海神の法螺貝によって鎮められたときとはまるで違う、大気や海流のエネルギーがより大きな存在に呑み込まれたかのような異様な感覚。

 そして、極光が走り、月明かりを掻き消した。

 だけでなく、激しい稲光が走り、旋風が吹き荒れ、津波が起こる。明らかに不自然な気象は、一定の規則性さえ備えて、天空を、大海を、世界を支配した。

 

(な……っ!)

 

 騎士たちが、呻く。

 稲光や旋風が群れ集う様が、ひとつの生物と見えたのだ。

 いいや。

 驚愕すべきは、そのことではない。

 それさえも、『その存在』からすれば、血管の一本程度でしかなかったことだ。

 血液の代わりに稲妻と烈風を循環させる血管。猛然と湧きあがった極光のカタチは、その翼の一本一本か。

 だとすれば、『その存在』は片翼だけで都を押し潰せるのではないか。

 

「これは……凄い」

 

 思わず素の口調で素直な感想を、自分よりも異形な姿を見て、怪物となり果てた<神の右席>の口端にのぼらせた。

 

「キーが必要という条件は間違ってないと思ってますが、あなたの実力がそれ以上でしたかー。―――単独でも、これだけの『力』が出せるほどに」

 

 騎士団が、後ずさる。

 一歩だけ。

 神さえ撲する騎士はそれで踏み止まり、

 

「しかし、なんとなく残念ですねー」

 

 と『裏切の』騎士『テッラ=ランスロット』は囁いた。

 詩歌に、聞こえている様子はない。

 <幻想投影>の内側にあった『力』と、少女という『器』は、今こそ主従逆転している。

 こちら6人<神撲騎団>を合わせても―――遥かに巨大な『力』である。

 その『力』の密度があまりに高過ぎて、魔術や能力とかいう『方式』もなしに、この場に物質化しかけている。

 常識を超えた事柄だった。

 物理学において、物質とエネルギーは同じものだと説かれるが、実際にエネルギーを物質化するためには途轍もない量を必要とする。

 今の状況は、“それ”に似ていた。

 巨大過ぎる『力』は、まるで液体のように滴り落ちようとしている。

 それこそが、ローマ正教が、<神撲騎団>が死力を尽くして欲するものなのか。

 

「ええ、ここにきて隠し玉がこんな力技とはねー」

 

 テッラが、かぶりを振る。

 ぞんっ、と『力』が走った。

 一気に仕留めにかかった<神撲騎団>と暴走する少女を繋いだ、『力』の光芒は数十に及んだ。

 そのひとつひとつに、ただの魔術師では及びもつかない魔力が篭っていた。

 

 

 同時、翼は解放。

 

 

 ―――絶大なる閃光。

 ―――膨大なる波濤。

 ―――全てを祓う、鳳凰の羽ばたき。

 

 

「神なら撲せたんですが、“まだ”、『神上』を捕えるには、準備不足でしたかー」

 

 

 

 

 怪物に触れられたモノは、怪物になる。

 洋の東西を問わず、古い伝承。

 であるならば、触れただけで怪物になれ、数え切れないほど、己の中に世界が構成されるほど触れてきた彼女の身体はどれほど異質なのか。

 

『私は……自分の力を……理解してなかった。30分の制限。1回1度の制限。そんなのではなかった。転写してきたものを溜めて、その取り込む際に口が開いてる時にだけ、投影した力が扱える……思えば、学園都市に来てから、3日と空けて当麻さんと離れることはなかった。ほとんど毎日毎日一緒でした。きっと本能的に理解していたのでしょう。幻想を溜め込み過ぎると破裂すると。だから、当麻さんの右手と離れての、ロンドンは刺激が強過ぎました。……ずっとお兄ちゃんに守られてたんですね、私は……』

 

『詩歌……』

 

 手を焼かせることのないように、ひとり立ちしたつもりだったのに。

 一度、学園都市に。愚兄の元へ帰る。この状態を鎮めるには、あの右手が一番の特効薬で、他の誰でもは無理だ。

 そのために、“土産物”が功を奏した<最大主教>との交渉の後、詩歌は3つのお願い。

 

『この人を、お願いします』

 

 『太陽の』騎士の保護と治療を。

 

『共同制作していた『地図』と』

 

 <縮図巡礼>の借用。

 

『それから天草式の席を1つ貸してください。偽名で、『香椎』と』

 

『“詩歌でも”、あなたは私達のかけがえのない仲間です』

 

 神裂の返しに、思わず、ははっと詩歌は笑った。

 あまりに儚く、このまま空気にかき消えてしまうんじゃないかと思うほど綺麗な笑顔で。

 

『ありがとう』

 

 そうして、上条詩歌はイギリスを旅立った。

 

 

つづく


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