とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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想起血祭編 狂乱の魔女

想起血祭編 狂乱の魔女

 

 

 

京都

 

 

 

夜の森を走った。

 

山道は険しく、木々が乱立した針の山。

 

気が狂いそうなほど暑く、喉がひどく乾いた。

 

それでも、あの恐ろしいモノから逃げて。

 

 

 

調査兵団の騎士は皆死ぬだろう。

 

村人も灰になって死ぬだろう。

 

生き残るのは自分と、あの少女―――

 

 

 

オヤオヤと。

 

心の奥底まで沁み渡るような。

 

その、笑い声を聞いた。

 

 

 

 

 

道中

 

 

 

おやおやと。

 

この状況は一体どうしたもんだと。

 

思春期真っ盛りな当麻さんは思う。

 

 

「えーっと、食蜂さん?」

 

 

「はい?」

 

 

強引に取られた腕を、するりと絡められて組まれている。

 

それと同時に……

 

 

むにゅう―――

 

 

と、破格に育ったやわらかい物体が、否応なくこの腕に押しつけられてきて……圧巻とも言うべき弾力と存在感が伝わってくる。

 

向こうだって、この肉の膨らみが当たっていることは分かっているだろう。

 

分かっていて当てる。

 

所謂、『当ててんのよ』だ。

 

相手が紳士的な(自己評価)先輩のお兄さんだけど、何にも気にならないというんだろうか?

 

もちろん健全な男子としては決していやではない。

 

むしろ、そちらが平気なら、この感触を堪能したいところだが……

 

後方から漂ってくる強燃性の気体にも似たそのオーラは、小さな火花一つで着火、いや、爆発する。

 

そう、

 

 

バチッ、とちょっと刺激を与えただけで。

 

 

困惑なんてしている暇もなく、早く距離を取らねば色々とマズい。

 

 

「いちいち胸を押し付けないでくれません! 視線が痛い!」

 

 

「えぇー、今更ツッコミですかぁ?」

 

 

「帰り道にお嬢様に変な野郎がひっつかないように、ボディガードの男役を頼まれましたけど! そんなの男女二人で歩いていれば十分であって! おかげで当麻さんが命の危険がビリビリと感じてきてますよー!」

 

 

「そんなの気にしなかったら良いんですよぉ? 気になるのはアナタが煩悩力に塗れているからじゃない?」

 

 

「いーや絶対にわざとでせう!」

 

 

「きゃーすけべー♪」

 

 

悪戯心たっぷりの笑みを見せると、唐突にくるりと背中から体を預けてくる。

 

 

「うおっ、っといきなり!?」

 

 

「きゃっ!?」

 

 

それがあまりにも唐突だったのと、単純にタイミングが悪かったこともあって、食蜂は本当にタイミングを崩してしまった。

 

 

「っと、危ない」

 

 

「お、っとと……!?」

 

 

危ない所で腰に手をまわした愚兄は、そのまま食蜂の体を抱きよせる。

 

その瞬間、ぽよんと宙にバウンドする2つの魅惑物体―――

 

 

ふにゅん―――

 

 

先程まで腕やら肘やらで感じていたその柔らかさが、手のひらいっぱいに伝わってきた。

 

手にひらそのものが膨らみに沈みこんでいくような感覚。

 

これは一体何なのか、などとは言うまでもないが、理解してはならない。

 

けど。

 

後ろから抱き締めるような形で、食蜂を支えていて、自然、その両手の在り処といえば……

 

 

「んん……」

 

 

何ですかこの重量感と存在感の塊たる柔らかさは!?

 

極上のシルクに手をうずめたら、こんな感触なのだろうか!?

 

 

「どうですかぁ? 詩歌先輩といい勝負していると思いません? 胸囲力♡」

 

 

キョウイ?

 

ああ、確かに脅威だ。

 

こちらの思考を読んだように、『ブブー! 違います、これですよ~♪』とこの状況によりうりうり~♪ と身を寄せてくる。

 

おまけにじんわりと焼けつくような熱さも伝わってきている。

 

一体いくつの魅惑機能が、隠されているんだ!

 

どうせ面白がってんだろうが、耐性の出来ている紳士兄でなかったら、どうするつもりだ!

 

別に送りオオカミにはならないけどね!

 

考えちゃいけないけど、ここまでされれば答えは分かってしまうわけで。

 

この答えを豊富なボキャブラリーを駆使して表現するならば。

 

 

 

―――THE おっぱい。

 

 

 

(だめだ! 全然知的じゃない!!)

 

 

バッチィィン!!!

 

 

すぐ背後に、稲妻が嘶居たかのような轟音が響いた。

 

当麻は半ば焦点を失いかけた両眼を、ぼんやりと後ろ方向に向けた。

 

焦げて黒くなった地面がまず見え、次に今も帯電している車道と歩道を分ける鉄柵がその怒りを物語っている。

 

そしてその中心に―――にこやかに、青筋を浮かべる―――ショートカットの少女が。

 

 

「ねぇ……そこのスタイルが良ければ実の妹にも手を出す犯罪者予備軍兄」

 

 

「誤解だ! っつかヒドイな! 『兄』の前につける単語じゃねぇよそれ!! 当麻さんに不本意な肩書を増やさないでくれません!!」

 

 

「そろそろいい加減にしないと、ぶ・ち・こ・ろ・す、わよ」

 

 

「はい、わかりましたー」

 

 

腰が引ける上条当麻――その膝に座るように身を預ける食蜂操祈を慌ててどかす。

 

何という怒気。

 

まるで虫を見る目で死線を送ってるのは、もう1人の同行者の御坂美琴さんだ。

 

もともと当麻に対して歯に衣着せない性格であったが、この今は、ことさらに風当たりが強い。

 

どうしてなんだろうか。

 

賢妹に対してはもっと優しくて、姉のように慕っているのに。

 

そのお兄ちゃんで先輩の高校生である当麻さんには一度も年長者としての尊敬の念を向けられたことがないぞ?

 

 

「アンタみたいな馬鹿のどこを敬えばいいっつうのよ」

 

 

思考にまでツッコンできた。

 

いや、それを言われたらそれまで何でせうが。

 

 

「まあ、アンタがどれほど尊敬できる人物だとしても、こんな状況でも異性を抱き締めているなんて、どう誤解されても、文句は言えないわよねぇ、愚兄?」

 

 

幼馴染が頑張ってるし、そろそろ大人にならないと、と。

 

こいつの挑発には乗らないと、と。

 

色々と我慢しようと溜め込んでいたんだろうが、残念、決壊してしまった。

 

その足元から強烈な紫電がバチバチと弾ける様を幻視した、否、現実としてものすごくバチバチっている。

 

 

「ふ、ふふふ、あらやだ御坂さん、女の子がそんな乱暴な言葉を使っちゃいけませんよ」

 

 

あまりのピンチにお嬢様な口調になってしまったが、それでもたしなめることはできない。

 

むしろ、慣れない妹の口調を真似されて、彼女にとってみれば姉のように尊敬する幼馴染の下手なものまねを見せられて、『馬鹿にしてんじゃないわよ』と火に油を注いでいる。

 

と、怒り充電池フルチャージの御坂美琴に、当麻の脇で食蜂操祈が邪魔されたと言わんばかりに半眼でじろりと、

 

 

「えぇー、御坂さんだって、デートしたんじゃない。夏休みの最終日に」

 

 

「あ、ああれは仕方なく! べっ、べつにしたくてした訳じゃないし!」

 

 

「いきなり白昼堂々往来で押し倒したりするよりはマシよねぇ?」

 

 

「にゃ、にゃにゃ!? にゃんでそれをアンタが知ってんのよ!? あの場にいなかったはずでしょ!」

 

 

「私の情報力を甘く見ないでちょうだい。ま、鬼塚先輩から御坂さんの面白い動画だ、って1000円で見せてもらったんだけど」

 

 

「あ、あの人は本当に……い、いいやあれは、ソイツが気づいてくれなかったから、しかたなく」

 

 

「自分のアピール力が足りないからって抱きつくなんて御坂さんってば、破廉恥ねぇ」

 

 

「アンタにだけは言われたくないわよ!!」

 

 

とりあえず、何だか矛先は変わってくれたけど、それでも2人に挟まれてげんなりしている当麻。

 

Level5同士、というか、犬猿の仲の口論は中々に迫力があるもので、『あのー当麻さん、離れても良いですか?』と訊きたいが、それで矛先が自分に変わるのも嫌なので動けない。

 

 

「も、もう全部!! アンタのせいなんだから!! アンタが私のことを無視するからーっ!?」

 

 

「え、ええー? お前、ビリビリしながら何言ってんだよ……? 全身がものすごくビリビリっつーかバチバチいってる暴走娘の危険を無視した事なんてねーけどっ!」

 

 

「確かに胸囲力が戦闘力に吸い取られたアマゾーンは危険よねぇ」

 

 

「ええ! どうせ私なんかが抱きついてもうれしくないってこと!」

 

 

「当麻さんはそんなこと言ってませんけど! っつか、妹の後輩に抱きつかれて大喜びする奴は、ちょっとどうかと思いますけど!」

 

 

バヂバヂバッヂィィィィン!! と心臓に悪いスパーク音が炸裂する。

 

 

 

閑話休題

 

 

 

『ないない。詩歌の筈がない。もしここにいたとしても、詩歌に限ってそれは絶対にねぇよ』

 

 

それが、食蜂操祈が持ってきた都市伝説に対する上条当麻の返答。

 

一応、その噂話の件を伏せて、世間話のようにメールで本人様にイギリスにいるかどうか確認を取ったら、30分後に返信が返ってきて。

 

 

『別に当麻さんの悪癖は今に始まったわけではありませんし、いちいち目くじらを立ててたら身がもちません。女の子を3人も部屋に連れ込むのも日常茶飯事です。ええ、怒ってませんよ♡ 当麻さんもお年頃ですから、女の子の5人や10人は作っていてもおかしくありませんし、ちっとも怒っていません♡』

 

 

怒ってる。

 

十分に怒ってます。

 

メールの文面からでも十分に分かります。

 

まあ、とにかく、賢妹が英国で忙しいことは分かった。

 

 

『当麻さん、いいですか、くれぐれも気を付けて』

 

 

と、忠告されてしまったが……

 

そんな訳で、都市伝説の件は誰かのいたずらだろうという結論で片付かせ、その情報についても“一応”サイトとかで調べて、ついでだから夕飯も、とそこでカオスになったが、色々とあって遅くなっていて、当麻は女の子に夜歩きは危ないということで付き添うことにした。

 

そうして、食蜂を<学舎の園>へ続くバス停まで送り、美琴と2人で暗くなる夜道を行く。

 

とりあえず、さっきのはなかったことにして。

 

何となくこの暗い中で2人っきりの状況にそわそわしているけど、それも無視して。

 

と、そんな気分を紛らわせるために、前から気になっていることを……

 

 

「詩歌さんも……アンタの記憶の件、知ってるのよね?」

 

 

「まあな。詩歌と話したんだろ?」

 

 

「ええ、一応……平気なように話してくれたけど、そうじゃないわよね」

 

 

「お前と同じで知ってるっつうか、バレちまったって感じだな。それで中途半端に隠そうとしちまったから、余計に傷つけちまったが。ホント、馬鹿だよな、俺」

 

 

それに、美琴は首を縦に振る同意も横に振る否定もせず、ただその目を見つめた。

 

僅かに寂しそうな表情を浮かべて、見渡せないほど遠い地平線の彼方を見るように、もう掘り起こせない記憶へ想いを馳せる、その目を。

 

あまり見たことのない顔色だと、美琴は思う。

 

 

「あの白いの…インデックスって子は知らないのよね」

 

 

「ああ。他の奴らには黙っておいてもらえると、助かる。記憶喪失だなんてさ、変に気を遣われるのも仕方ない問題だし……詩歌とも相談したが、やっぱり、知ってほしくねぇんだ。ま、普段通りの生活は送れるから、今まで通りに接してくれるとありがたいかな」

 

 

「そう……」

 

 

そして、ちょうど会話を打ち切った時、タイミング良く常盤台の学生寮が見えてきた。

 

ここで別れるのも自然な形だった。

 

 

「そんじゃあ、ちっとコンビニでも寄ってくかな」

 

 

今週は休刊だったわよ、なんて事は言わない。

 

不器用で、下手な言い訳。

 

コイツが、私達の見送るのも、コンビニに行くのも、ただ夜の街を出歩きたかっただけ。

 

 

「“寄り道”もほどほどにしなさいよ」

 

 

それで美琴が伝えたいこともわかったのか、当麻は後ろ手に振って、寄り道を始める。

 

あてもなく。

 

 

 

 

 

公園

 

 

 

『佐天さん。常盤台に転校してきませんか?』

 

 

と、婚后光子が佐天涙子を誘った。

 

一人で自分の能力について練習をしている佐天を見て、<空力使い(エアロハンド)>と同系統の能力でもあることから、シンパシーを感じたのだろう。

 

聞けば、Level3の能力者に相当する、と常盤台中学の入学最低条件も満たしている。

 

 

『佐天さんの夢、目標はどの辺ですか?』

 

 

それはやっぱり、御坂さんや婚后さん。

 

佐天は彼女に憧れ、彼女のようになりたいと思っている。

 

 

『今の環境で、そこに辿り着くことはできますか?』

 

 

それは……

 

正直、平凡な一般校で、『5本の指』と比べれば、レベルは低い。

 

 

『今のままではダメかもしれない、と少しでもお思いなら、行動を起こすべきです』

 

 

でも、いきなり学校を変えるのは……

 

 

『転入することへの不安? それはわかりますわ。当然です。でも、それを乗り越えてこそ、大きな成長があるのです。わたくしも、そうでした。ええ、ちょうど佐天さんと同じ時期に』

 

 

御坂美琴や婚后光子もいきなり天辺に昇りつめたわけではない。

 

経験を積み、上に行くための土台を作った。

 

その為には己と対等な、切磋琢磨で磨ける相手の居る、設備の整った場所がいい。

 

独学では限界がある。

 

婚后の言いたい事は、そういうこと。

 

『派閥』を作るつもりではないが、佐天は、婚后の後輩である湾内絹保と泡浮万彬とも仲が良く、学内でも親しい関係が築けるだろう。

 

もしも、より上へ成長を望むのなら、その環境も整った場所が相応しい。

 

その気ならば、婚后光子が編みだした技術や演算式を教えても良い。

 

 

『あなたは、未熟です、佐天さん。今日の練習風景を見させてもらうだけでも、それは分かります。あなたは、まだ原石です。磨きようによっては、素晴らしい輝きを放つでしょう。わたくしは、そのお手伝いがしたい。ご自身のステップアップのためにも、わたくしを利用するつもりで構いません』

 

 

人に教えることは、その分野の理解が深くなくてはできない。

 

師が弟子を育て、弟子が師を育てる。

 

指導するという経験は、人間としての幅を、そして見聞を広め、新たなる発想を得られるチャンスにもなりえる。

 

婚后にとっても損ではなく、佐天の能力開発に付き合えば、何かが見えてくるかもしれない。

 

そう、自分を導いてくれたあの方のように。

 

そして、佐天からすれば……『シンデレラ』に例えて、お姉様達から憧れのお城の舞踏会に誘われたようなもの。

 

それでも、その『ガラスの靴』を履かなかった。

 

 

『お誘い嬉しいです。けど、やっぱりあたし、『棚川のエース』なんで』

 

 

でも。

 

 

『婚后さんのお話も聞かせてくれませんか。学校が違っても、婚后さんは尊敬する先輩ですし。それに、あたし、<大覇星祭>の『的当て』を見てからファンになって……』

 

 

『え、ええ! もちろん! この婚后光子の秘伝を伝授してあげますわ!』

 

 

最初はがっくりしたけど、その後に続いた言葉に、ぱぁっと復活。

 

それから熱中、夢中、集中、と時間を忘れるくらいに。

 

おかげで、陽が落ちる学生外出許可時間にも気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「あっちゃ~。すっかり暗くなっちゃってるよ」

 

 

婚后が先輩として責任持って寮まで送ると言ったが、彼女は<学舎の園>に住居があり、そこは固辞した。

 

見回り中の教員、<警備員>に見つかれば、面倒なことになりそうなので、こそこそ、と。

 

近道の公園を抜けながら、学生寮へと佐天は急ぐ。

 

 

(人気のないとこを選んでるんだけど、夜に一人は流石にちょっと怖い。何が起きるか分からないし。ましてや、最近は危ないって、初春が言ってたなー……)

 

 

第10学区でもないのに、人影はなく、廃墟のように静か。

 

夜道に一人は不安になるもので、不安になれば怖い話を思い出してしまう。

 

これは、ひっそりと流れている都市伝説。

 

『ARISA』といった流行のアイテムや音楽、そして、噂にも敏感な好奇心旺盛の女子中学生の佐天涙子が、よく利用する携帯都市伝説サイトに載っていた情報。

 

<狂乱の魔女>。

 

曰く、残りの人生も狂わせるほどのトラウマを刻みつける。

 

曰く、狂ったように笑いながら学生を実験台にする。

 

曰く、吸血鬼のように血で渇きをいやす。

 

 

(ま、所詮は噂なんだけどね。うん、ないない、それはない。“あの人”に限ってそんなこと絶対にない。だって、今、イギリスにいるはずだし)

 

 

都市伝説の信憑性を高めて広めるには、『魔女』のモデルとなった『何か』が必要だが、そのモデルの正体を佐天は知っている。

 

これはとある少女にとことん叩き潰され全滅させられた<スキルアウト>のH.Sが名付け親で、そこから彼女の武勇伝が積み重なり、『暗部の秘密兵器』や『Level5序列第4位の能力を喰った能力喰い(スキルイーター)』とか尾ひれ背びれがついて、些か?誇張表現に大袈裟なもの。

 

ヤンチャが過ぎたようです、とモデルになった彼女も反省していて―――

 

 

 

―――ざわっ、と。

 

 

 

「誰っ!?」

 

 

急な悪寒。

 

手先が震え、心臓が鷲掴みされたような感覚。

 

佐天が視線を感じた方へ見据えた先にいたのは、公園の木々の暗がりから近づいてくる少女。

 

 

     ぴちゃり。

 

 

年齢はおそらく同年代。

 

 

     ぴちゃり。

 

 

その長く艶のある黒髪は見事だが、俯き前に垂れているせいか、表情が窺えない。

 

 

「……………」

 

 

無言。

 

 

     ぴちゃり。

 

 

その瞳は長髪の隙間から、真っ直ぐ佐天を見つめている。

 

 

「え、えっと? あの……あたしに何か……」

 

 

佐天は、じりじりと後ずさる。

 

かろうじて冷静さを保っているが、逃げたい。

 

 

     ぴちゃり。

 

 

これはよからぬモノだと、本能的に理解しているせいからかもしれない。

 

それでもこの場から離れようとしないのは、もしかしたら―――

 

 

     ぴちゃり。

 

 

そして、ようやく気付く。

 

 

―――この匂い……

 

 

公園中に漂う。

 

異常な感覚。

 

ぴちゃりぴちゃり、と。

 

肌にまとわりつく―――むせかえるほどの―――血の匂い。

 

佇む少女を中心に広がり、

 

 

「フフフフフフフフフフフフフ」

 

 

月を仰ぐように面を上げた少女――『上条詩歌』は笑っていた。

 

月下、地面を赤く染めて、公園中に鉄臭い腐臭を漂わせる。

 

 

「え、え……!? これって……」

 

 

佐天涙子の記憶の通りのその姿は、『上条詩歌』。

 

そして、佐天涙子は『上条詩歌』の教え子だ。

 

その優しくも厳しい指導開発を受けた彼女は、『上条詩歌』に対する尊敬とともに、畏怖も植え付けられている。

 

けれど、何かがおかしかった。

 

―――その雰囲気。

 

―――仄かな狂気。

 

―――漂う威圧感は異様。

 

―――自制を失ったかのような。

 

―――まるで血に酔ったかの如く、全身が赤い。

 

怯える佐天を見て、更に愉快そうに笑う。

 

 

血祭(カーニバル)へようこそ! 主催は我、<狂乱の魔女>! 血から力まで何でも貪る悪食(カーニバル)! アナタも残さず完全に喰い尽くしてあげる!」

 

 

そして、高々と振り上げた右手が佐天の頭上めがけて振り落とされた。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

曰く、その拳だけで大の男達に、恐怖を刻みつける。

 

 

 

―――どんっ!!!

 

 

 

間一髪で佐天は、飛んで逃げていた。

 

今日婚后にコツを教えてもらった足に『噴出点』を発生させる応用を生かせなければ、生きていなかったかもしれない。

 

魔女の拳が叩きつけられた地面が、数mの直径で爆裂した。

 

衝撃で土砂が吹き飛んだのだ。

 

それに巻き込まれれば、佐天の華奢な体ではひとたまりもないだろう。

 

しかし、それで佐天の迷いも消えた。

 

 

「―――何だかよくわかんないけど! やっぱり詩歌さんじゃない!」

 

 

『上条詩歌』が拳一つで<スキルアウト>を倒したのは誇張であり、彼女が秀でていたのは技術で、こんな馬鹿力ではない。

 

何よりも、こんな気持ち悪い笑い方はしないし、いついかなる時も『加減』を忘れず、己を律する人だ。

 

また、<大覇星祭>でも『上条詩歌そっくりに変装した技術』があることを佐天は知っていて、であるなら、これは偽物である確率が非常に高い。

 

容赦は無用。

 

というより、加減すればやられる。

 

 

シュボ―――

 

 

<空力飛弾>。

 

大気を圧縮して、『噴出点』を設置して、弾丸のように飛ばす能力。

 

佐天の手から、大気を固めたバットのような空弾が『魔女』めがけて発射。

 

直撃!

 

手ごたえはあった。

 

これで怯んだ内に急いでここから逃げ―――

 

 

「ふぅん……これがアナタの能力、ねぇ」

 

 

佐天は反射的に飛び退いていた。

 

次の瞬間には、彼女のいた空間を透明な何か――<空風飛弾>が突き抜けていた。

 

『魔女』は全くの無傷で、Level3の一撃を受けて、ダメージどころかかすり傷一つさえ負わない。

 

 

(うそ!? どうして……それに、なんで詩歌さんじゃないのにあたしの能力を!?)

 

 

「フフフ! もっと先を尖らせないと! このように!」

 

 

その異名の通りの狂笑。

 

どこまでも細く、そしてどこまでも鋭く。

 

一本の槍の如く凝縮された2発目の弾がその指先から放たれた。

 

 

「―――」

 

 

ピ―――と髪の毛を数本持っていかれた。

 

佐天の顔の横をスレスレに通過し、直撃した背後の自販機を貫き、その先の樹木をへし折った。

 

 

「おっとっと、まだ制御ができてなかったかしら? ケド、この程度はまだまだ! もっともっと改良の余地はあるわね!」

 

 

『魔女』の掌に、風が絞り込まれる。

 

透明で見えないが、佐天にはそのうねりがなんであるか分かった。

 

大気を強烈に圧縮し、回転させる。

 

ドリルだ。

 

『噴出点』の配置を工夫し、徐々に加速度を増して旋回していき、それを先と同じように先端の尖った槍の形に硬く留める。

 

 

まるで小さな竜巻。

 

 

圧縮すれば、力は分散せず、回転はどんどん速くなり、威力はどんどん高まり、破壊力を極限まで上げる。

 

わかる。

 

細長い形に留めるのがやっとなオリジナルである自分とは次元が違う。

 

そして、それを放たれたら今度こそ終わりだ。

 

佐天はもう一度、牽制の空弾を―――と、だが、まとまらない。

 

何度やろうとしても、大気は圧縮せず、『噴出点』も不発。

 

 

(……あ、れ……?)

 

 

見た目は同じ。

 

だが、何かが違う。

 

 

 

曰く、相手の能力を奪う能力喰い(スキルイーター)

 

 

 

AIM拡散力場は同じだというのに、演算式に、呼吸、タイミングが異なる。

 

いつもの相手に合わせて手本を見せるのではなく、独特な我流を魅せられ、無意識に力場と法則が、<自分だけの現実(パーソナルリアリティ)>が、狂い、乱される。

 

投影するのではなく、喰い奪う。

 

 

「言ったでしょう? 血から力まで奪ってあげるって」

 

 

混乱と絶望でストップしてしまう佐天に、『魔女』の<空風飛弾>が再び繰り出された。

 

 

ドンッ!

 

 

空を切るだけでも、爆発音がした。

 

圧縮された小型の竜巻が、解放されると同時に爆音を発したのだ。

 

おそらく、その表面は摩擦で高温に加熱しているのだろう。

 

そして、佐天の肉体から鮮血を飛び散らせ―――

 

 

 

嘲笑が響き渡ったのは、まさにその直後だった。

 

 

 

「はっ、これが<狂乱の魔女>か。―――拍子抜けだな」

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「ばら撒いた<未元物質>製のセンサーに今日も引っ掛かったか」

 

 

夜空を焦がすほどの膨大な『白』の奔流が、閃光のように吹き抜けた。

 

その破壊的な衝撃に、破滅の弾頭があっさりと相殺された。

 

 

「我の食事を邪魔する気?」

 

 

「邪魔をする? そんな訳がないだろ、馬鹿」

 

 

白の流光が晴れて、闇の中に立っていたのは、整った茶髪の青年だった。

 

このタイミングで現れた彼の姿は、佐天を救うために駆け付けた騎士のように見える。

 

しかし彼が撒き散らしている気配は、騎士と呼ぶにはあまりにも残酷だ。

 

彼が浮かべていたのは怒りと侮蔑に満ちた、あまりにも――死神よりも恐ろしい、魔人のような冷たい嘲笑だった。

 

 

 

「詩歌そっくりの顔でくだらない真似をする貴様を潰すだけだ」

 

 

 

守りに来たのではなく、狩りに来た。

 

佐天の鞄につけた今流行りの『白いアクセサリー』が夜風に揺れる。

 

 

「……垣根、帝督……」

 

 

呆然と佐天が、<超電磁砲>の御坂美琴より上位のLevel5序列第2位<未元物質(ダークマター)>の名を口にする。

 

恐るべき『無限の魔女』と『無限の魔人』の怪物たちの邂逅―――

 

 

「我の顔がそんなに気に入ったのかしら。もしかして、一目惚れ? 良いわよ。アナタ、我と波長が合いそうだし、甘い夜に互いに貪り合いましょう」

 

 

大気に溶け出した殺意の波動が、学園都市の夜を禍々しく彩って―――一瞬で蹴りがついた。

 

 

「誰が―――」

 

「―――え?」

 

 

視認、できない。

 

冷たく瞳を輝かせる垣根帝督の行為が、『魔女』には見えなかった。

 

獲物を狩る肉食動物の動作は、迅過ぎて人間の視覚では捉えられない。

 

ソレと同格の怪物と化した『魔女』の動体視力を以てして、なお、垣根帝督の<未元物質>の発動は捉えられなかった。

 

 

「―――誰に、惚れたって」

 

 

ゾン!! と白刃が稲妻のように走る。

 

刹那のうちに、眼前にいた『魔女』は無数に刻まれて四散し、灰に散る。

 

 

「……っち、ムカつく。コイツも本体じゃなかったか」

 

 

とん、と男の足が地面を蹴る。

 

そのまま、超能力者の体は宙に浮いた。

 

現れた時と同じように、佐天に一瞥する事もなく、忽ち夜の闇へと消えていったのである。

 

暴力的な気配が遠ざかってから、

 

 

「はぁ~~~~……腰、抜けちゃった」

 

 

まるで夢を見ていたようだ。

 

いきなり怪物に襲いかかられて、怪物が逆に狩られて、助かった。

 

何もかも消えていた。

 

アレだけ濃かった“血の痕跡”も。

 

元通りの公園だ。

 

本当に。

 

灰の桜が散る、春の夜の夢のごとし。

 

そう、幻想だ。

 

と、認識すれば、自分に言い聞かせれば、今日、婚后光子に習った通りに、<空風飛弾>が上手く発動した。

 

それでも、今も震える手を見れば、あの記憶は現実だと、理解できる。

 

 

(けど、あの都市伝説、本当だったんだ)

 

 

深夜に徘徊する学生を襲う<狂乱の魔女>。

 

佐天よりも遥かにうまく佐天の<空風飛騨>を操る。

 

正直、自信喪失。

 

それでも、佐天涙子の良いところはちょっぴり前向きなところ。

 

 

(うん、あたしよりも上はいっぱいいる。だから、まだ成長できる。きっと―――)

 

 

 

 

 

三沢塾

 

 

 

『当然、私は別に道から外れようとして外れたのではない。だが、外道の輩であることに違いない』

 

 

錬金術師は、役職ではない。

 

錬金術師は、人の出来る事を超えた常識外の方程式を探る探究者だ。

 

世に隠された、いまだ解明されていない、その神秘の全容を。

 

謂わば、“神の衣の裾をめくるため”に、己の目的を突き詰める。

 

それも完璧に丸裸にするまで。

 

そうしないと気が済まない。

 

この方法はどうだ。

 

これはどうだ。

 

あれならどうか。

 

あれこれ試し、何でも試す。

 

納得するまでやる。

 

すると、錬金術師は―――道を、踏み外す。

 

 

『所詮は妄執だ。永遠の命を得るための薬、この世の全ての病を治す薬、人類救済の世界法、破壊できぬ神鉄の錬成―――そのような人が一生かけても叶わぬであろう神秘を解き明かすことを“止めることができない”のが錬金術師。生涯、諦められず探し続ける愚かしい賢者。私も『人が人のままで辿り着ける高みを探る』という魔術医師(パラケルスス)の末裔たる自分の信念を捻じ曲げてまで『彼女を救う方法を見つけ出すこと』を止めることができない。必然、“人としての道を踏み外す外道の輩と呼ばれるようになる”』

 

 

短い付き合いだったけど。彼が純粋な人だというのは良く分かった。

 

そして。彼ならばこの呪われた力を魔法のように人を救ってくれると信じた。

 

 

『自然、何故、姫神秋沙に<吸血殺し(ディープブラッド)>が宿ったのか。無限の怪物を殺せるほどの力を持ちながら『皆殺し(オーバーキラー)』ではなく、“<吸血鬼>という特定の対象にのみ”にしか、拒絶する生血(ディープブラッド)は作用しないのか』

 

 

怪物を上回る怪物の力ではなく。ただの血液。

 

甘い匂いに誘われて。一滴でも吸った者を例外なく灰に帰す赤色。

 

恐るべきは“死ぬと理解しておきながらも吸わずにはいられない”凶悪な誘惑性。

 

人に害はなく。カインの末裔たる<吸血鬼>のみを殺す。

 

 

『おそらく霊長の願いが集った『抑止力』ではないのだろうか』

 

 

魔を殺す魔殺し。

 

鬼を殺す鬼殺し。

 

神を殺す神殺し。

 

人外だろうと例外なく。

 

世界に絶対不変の無敵なものは存在しない。

 

万物は流転し、些細なきっかけで変化し、永遠に変化しないものはない、錬金術師が最初に学ぶことそのもの。

 

生まれてきたのならば。必ずそこに死もついてくる。

 

死なない存在など。生まれていない存在と同じ。

 

産まれていなければ。殺せない。

 

故に<吸血鬼>は魔術世界においても存在が確認されていないのかもしれない。

 

<吸血殺し>に殺されるまでは。

 

<吸血鬼>の無限を終わらせる――存在を証明させて生かすのが<吸血殺し>なのだ。

 

 

『世界の枠から外れた無限の生命力をもつ異物から人類を守るために。―――もしくは、不老不死の怪物になった者たちが死という神に呪われし永遠の負から解放という自殺願望かもしれんな』

 

 

―――『死を想え(メメント・モリ)』という慰めを彼は私にくれた。

 

 

死を考えることで生に感謝する。そういう意味合いの言葉。

 

いつか死ぬのだから。その命がどれほど素晴らしいものなのか。

 

不老不死の怪物を殺すことで人間として救済する。

 

<吸血殺し>という安直な死への誘いは。果ての見えない生の終着へ歩き続ける<吸血鬼>たちには一種の優しさだったのかもしれない。

 

死ぬまで止めることのできない人の理から外れた錬金術師であるからこそ。止まることに彼は救いを見出せたのだろう。

 

珍しくも。少し感傷的に耽った調子でアウレオルス=イザードは語ってくれた。

 

それでも。

 

怪物になるくらいだったら人間としての尊厳があるうちに死んだ方がマシだ。だなんて悲しかった。

 

死が優しさなんて。思いたくなかった。

 

 

 

 

 

意識が―――浮かび上がる。

 

 

 

 

 

ゆらゆら、と周囲に幾つも配置された燭台の蝋燭の炎の揺らめきに、影が蠢く。

 

黴びたような埃っぽい匂いに、少しだけ香を焚いた香りも漂っていた。

 

窓は閉じられ、戸も閉められている。

 

儚げでおぼろげな蝋燭の淡い赤みかかった明かりしかないこの場は、生と死の別つ儀式である葬式をしているみたいだった。

 

 

「う……ん……」

 

 

姫神は、夢からさめて、瞼を開く。

 

体内時計からしておそらく朝だが、水を売ったように静まり返っているこの空間は、外界と隔離されているような雰囲気がある。

 

薄く張られた膜のような静寂。

 

その中を、蝋燭の火の揺らぎや芯の燃える音が、緩やかに時間の流れを告げていた。

 

して、ここが三沢塾の校長室であることに気づく。

 

 

(……やられてから。ここに運ばれたの?)

 

 

かすかに痛む腹部をおさえ、五芒星の中心から上半身を起こす。

 

まだ意識は朦朧としていたが、手錠などはされてなかった。

 

制服もそのままである。

 

ただし携帯電話に、甲縛式防護結界<歩く教会>の一部を抽出して造られた簡易結界<ケルト十字>が外されていた。

 

宗教で、自己を律する姿勢の為ではなく、自らを戒め、責めるために外すことのなかった十字架が。

 

くわえて、この校長室――最上階のワンフロアを丸々使った巨大な空間には誰もおらず、出られない。

 

鍵がかかっているのではなく、世界から隔絶されている。

 

そう、かつてここの主だった世界最速の錬金術師が張った<コインの裏表>の結界が復活している。

 

 

「一体誰が……」

 

 

『コインの裏』にいる者は『コインの表』のものに干渉できない。

 

外からの陽光を遮る柔らかなカーテンでさえも、『裏』にいる姫神には引くどころか指を食い込ませることもできない。

 

携帯が取り上げられているので外からの助けは呼べず、また三沢塾はすでに廃墟であるため、『犯人』が結界を解除しない限り。姫神はここから出られないということになる。

 

 

(また……隔離されたの)

 

 

この三沢塾は、かつて籠の鳥として閉じ込められていた場所。

 

この血に宿る稀少な能力を、見せモノにするように。

 

この甘美な香りで、無限の怪物を呼び寄せるために。

 

姫神秋沙を攫い、この三沢塾に連れてきたということは、その目的は、<吸血殺し>―――

 

 

「起きた?」

 

 

「!」

 

 

振り返ると、入口の辺りに灰髪の少女が立っていた。

 

あまりにも不自然に。

 

東欧系かと思われる姫神と同年代ほどの顔立ちではなく、吸い込まれそうに黒い修道服や残滓のように灰色の髪でもなく、その全体のありざまが危うかった。

 

現に、これだけ近くにいたのに、全く気配に気がつかなかった。

 

今もほとんど感じられない。

 

血に関する能力であるが故に、生気の源たる血には敏感なはずなのに。

 

どうしようもなく白い肌に、人形のような虚ろな瞳は、まるで温かな血の通っていない死人のように。

 

あまりにも、生きていなくて。

 

つう、という姫神の頬を冷や汗が伝う。

 

血液という血液が凍結し、逆流した。

 

 

(まさか……)

 

 

姫神は、思う。

 

ゴクリ、と唾を呑む、

 

どうしようもない予感に心臓を掴まれながら、彼女から逃げるように後ずさる。

 

足裏から胃袋にかけて、嫌なものが流れ込んでいく感覚。

 

何でこんなに、どうしてここに、と。

 

どうしようもない拒絶反応なトラウマ。

 

 

「吸、血鬼……」

 

 

連想するのはただひとつ―――

 

 

とん、と姫神の細い背中は、校長室の壁にぶつかった。

 

もうこれ以上離れられない。

 

 

「もう分かっていると思う。アウレオルス=イザードの結界をこの部屋にだけ限定的に張ってある。逃げるのは無駄」

 

 

だが、灰の修道女はその場から動くそぶりも見せない。

 

<吸血鬼>は、姫神秋沙の血には、どうしようもなく引き寄せてしまうのに。

 

あの両親も、友達も、皆皆、全ての人間が鬼となり灰と散った村の生き残り―――

 

 

「あなたは。誰?」

 

 

姫神が唐突に問いかければ、少女はかすかに表情を震わせて。

 

 

「私はあの村の生き残り」

 

 

「私は。覚えている。<吸血鬼>になった村の皆を。―――けど。あなたは知らない」

 

 

「そう」

 

 

と、少女は笑った。

 

寂しげな笑みとは違う―――自嘲的なものが混じった笑みだった。

 

 

「―――祭を始める」

 

 

姫神の問いには答えず、一拍の間をおいて、宣言する。

 

 

「あの時の宿願を今夜果たす」

 

 

とぷん、と影に呑み込まれるように体が沈んだ。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

祭りを、始める。

 

それが、あの全てが灰となった一夜の続きならば、その夜が明けた朝には学園都市に大量の犠牲者が出る。

 

 

(それはダメ。絶対に)

 

 

もう、あの灰の桜吹雪は二度と見たくない。

 

見るくらいなら死んでも良いと思っていた。

 

あの時まで。

 

あの時まで人に好意を抱いたことがなく、自分には嫌悪しか感じなかった。

 

だから、己を殺すことにも我慢できた。

 

でも、生き汚くなってしまった。

 

……そう。

 

彼のせいで。

 

皆のせいで。

 

ここでの暮らしに未練が生まれてしまった。

 

 

(ほんと。バカみたい)

 

 

もう、囚われのヒロイン願望は抱かない。

 

彼女もいないし、彼にも期待しちゃ駄目。

 

兄妹の助けを借りているようでは、あの時からずっと止まったままではないか。

 

……だから、立たないと。

 

どんなに生き汚くても、強いと自分に胸が張れるように。

 

夜までにはまだ時間がある。

 

今は廃墟で、仕込んであった術式仕掛けは回収されたと話を聞いているが、アウレオルスはこの三沢塾で、<吸血鬼>を捕まえようとした。

 

もしかすると、見つけられていない隠された何かがあるかもしれない。

 

<吸血鬼>を殺すのではなく、捕獲するための。

 

そんな淡い希望をいだいて、校長室を探る。

 

無駄な悪足掻きとは分かっている。

 

でも、笑ってしまった。

 

それが不思議と共感できた気がしたから。

 

無力でも、無能でも、無才でも、戦った上条当麻に。

 

 

 

 

 

とある学生寮 屋上

 

 

 

「ふぅ……はっ……」

 

 

数分ほど静かにストレッチを行い、次の数分は軽く飛び、ボクシングでシャドーするように手足を振り回し始める。

 

動きは徐々に速くなり、鋭さを増していく。

 

相手の拳打を躱し、懐に潜り込むフットワーク―――でも避けられて。

 

上段蹴りの下を掻い潜り、軸足を捕まえる一連の動作―――でも踵落としで距離を取られ。

 

腕が空を切ったかと思えば、かくん、とカウンターをもらって受け身を取る。

 

勝手に転んだり跳んだりしているが、端で見るインデックスには、彼の想定する相手が“視えて”、記憶とも“一致”している程だった。

 

寒くなる気温の中でも、汗をかくほどで、体内から発する熱を逃がすようにもろ肌を脱いでいる。

 

余分なものは一切なく鋼のように引き締まる肉体。

 

それでいて喧嘩のような殺伐とした雰囲気はなく、ダンスのように止まることのなく、時に突拍子もない動きを魅せて、もはや観客がいれば拍手するほどのパフォーマンスですらある。

 

しかし声をかけることすらも躊躇うような真剣な様子は、求道者を彷彿させる。

 

寝癖のようにツンツンした髪の毛や、汗を流す上半身裸も、戦う男の証に見える。

 

一言でいえば、精悍。

 

この一人占めしている光景に、陶酔しているように目を奪われる。

 

イメージトレーニングの相手は、やはり変幻自在の型を扱うであろう“あの天才少女”が多いが、海での嘘つきや、大覇星祭での管理人、暗部抗争での科学者などといった達人級から不良の素人まで千差万別。

 

ひとつとして過小評価する事も過大評価する事もなく、淡々と愚兄は幻想を相手に組手をする。

 

つまるところ、相手の動作を読んで、いかにして強打を回避し、受けてもいいがクリーンヒットを喰わないようにまず己の安全を確保するか、という技術だ。

 

少年の骨格や素養を懸案し、己が習得した格闘術から元々身についていた我流を比較検証した上で、彼一人の為に組み上げた技術体系。

 

付き合ってくれた少女はいなくても、伝えてくれたものは残っているのだと、そのことを深く噛み締めた。

 

 

「……ああ。今日も負けだ」

 

 

一通りを終えて、薄くかいた汗を拭ってから、少年は居候へと振り返る。

 

 

「ん? どうしたインデックス。何か問題でもあったか」

 

 

「……とうまの馬鹿」

 

 

対して、抗議するように、ぷすうと頬を膨らませるインデックス。

 

安心して任せられると思ったからだろうが出来たての朝食を放置される―――それよりも、つい愚兄の動きに見惚れてしまったことが不満だと、そう言うように―――無論、当麻が気づくはずもないのだが。

 

 

「ホントに、朝から怪我したり、ぐったりしたら学校生活やっていけないかも」

 

 

じっと、上目遣いで言い募られる。

 

体重で言えば自分の半分くらいなのではないか、という少女は、金細工のあしらった真っ白な修道服と、その中で一際宝石のように光る緑色の双眸ゆえに、パッと見には精巧な人形に見える。

 

当麻は持ってきていたタオルで汗を拭きながらも、面倒そうに言った。

 

 

「……まあ、当麻さんは体の頑丈さには自信が」

 

 

「やっていけないかも!」

 

 

当麻なりに心配無用と伝えたかったんだが、インデックスは小さな犬歯が見えるほどに怒鳴り散らした。

 

 

「昨日もあれからと~っても帰りが遅かったし! 言っておくけど、今度、朝食の時間に卓についてなかったら勝手にいただきますしちゃって、とうまの分まで全部食べるんだよ!」

 

 

「それは困るなー……」

 

 

当麻はそっと視線を逸らす。

 

唇を引き結んでわなわな震わせている。

 

いかん。

 

昨夜の“寄り道”の件の怒りがぶり返している。

 

あちこち回ったが、結局、“巻き込まれず”、遅くなってしまった。

 

まあ、確かに、時間は少しオーバーしちゃったし。

 

当麻はたじたじと引き下がりながら、両手を合わせた。

 

 

「あー、ごめん。つい、夢中になってな、いろいろと」

 

 

「折角作ったんだから、冷めないうちにちゃんと味わっ……味見を約束通りきちんとしてくれないとイヤかも」

 

 

「インデックスさんの食事は結構豪快だった気がしますが」

 

 

「失礼だね、とうま。私はちゃんとシスターとして、天の恵みに一噛み一噛み感謝しながら食べてるんだよ」

 

 

「でも、ほら、お腹空かせた方がご飯がおいしくなるっつうか、今日の朝食も当麻さんは楽しみだなー!」

 

 

ふん、と下手なお世辞に鼻を鳴らすとそのままぷんすかとインデックスは先に行ってしまう。

 

その耳が少し赤いが。

 

修道女は世俗と離れた教会であれば、定められた規則から小指一本分も外れることなく、日々神に祈り、沈黙と瞑想の中に生きることが求められるだろうし、もしも俗世で暮らすのであれば、家事をこなし、その余暇で神への祈りに捧げることで満たされるのだろう。

 

最初は何もできないインデックスだったが、今日も初めて一人で買い物に行くと言う。

 

穏やかな毎日。

 

ささやかな喜び。

 

けがれのない精神。

 

ふわふわの毛並みの小羊は、静かに草を食むような生活こそが相応しい。

 

だから、記憶の件は言わなくても良い。

 

 

「それじゃあ、今日も一日がんばりますか」

 

 

不幸一つない。

 

不幸一つもなかった。

 

不幸一つにも巻き込まれなかった。

 

そこに不満の一つも抱くなど贅沢だ。

 

こんな日常が続けばいいな、と思ってしまった。

 

愚兄なのに、思ってしまった。

 

 

 

 

 

京都

 

 

 

『―――ッ!』

 

 

突如聞こえた笑い声に、身が竦む。

 

心臓を鷲掴みされたかのような悪寒。

 

それは悪意でもなく、あるいは善意でもなく。

 

喜怒哀楽、どのような感情が秘められているか、不確かで不安定な、しかし粘りつくような笑い声。

 

少しでも遠くに、彼女から逃げないというのに。

 

見なければならないと、振り返らなければならないと、そう何かが告げた。

 

体は震え、得体の知れない悪寒に支配されていても。

 

それでも、その心が、存在そのものが、そこにいる何かを見るべきだと、そう告げている。

 

ゆっくりと振り向いた、その先。

 

山森の先、人の足が踏み入れたことのない獣道に。

 

月の光さえも届かない、暗く、狭いその場所に。

 

誰かがいた。

 

はっきりと、その口は三日月の形に歪んでいる。

 

笑顔。

 

そう、呼べるのだろうか。

 

口の端を大きくつり上げた笑み、しかし全く愉快な気分にはなれず、和やかな態度を裏切っている。

 

ただひたすらにこちらを不安にさせるような、そんな、色のない笑み。

 

仄暗い闇の底から、三日月の笑みを貼り付けた顔は真っ直ぐに、自分に向けられている。

 

こちらを見定めるような、粘りをもった視線。

 

目を離すことができない、それは捕食者の眼差しか。

 

間違いなく、さきの笑い声は、この男が発したものだ。

 

 

『……誰』

 

 

問うたところで意味はなく。

 

しかし何も言わないままでは、呑まれそうで。

 

渇いた喉を、無理矢理に動かせば―――その歪んだ口が動く。

 

 

『イレギュラー、でしょうカ』

 

 

三日月に引かれた形のまま、呟かれた言葉。

 

 

『伝承通りなら、噛まれた瞬間、その人間は身体が作り替えられマス。ケド、元が“普通”じゃないから、エラーが生じたんでしょうネ』

 

 

彼我の距離は数m。

 

本来なら、“村の騒ぎ”に掻き消されて、決して届くはずのない言葉が。

 

何故かこの耳に届く。

 

 

『……何の事?』

 

 

しかし、告げられた言葉の意味がすぐには理解できず。

 

何も言えず。

 

何も動けず。

 

生死の絶叫さえも、ひたすらに遠く。

 

そのまま、全身が泥と化して崩れてしまいそうな、そんな違和感に襲われる。

 

 

『山村とはいえ京都は特別な場所ですからネ。学園都市の影響の濃い日本の100万都市でありながら魔術側に属し、十字教の信仰が届かぬ稀有な街。おかげで魑魅魍魎が跋扈する妖怪の巣窟になっちゃってるようデス。しかも、―――が鬼は鬼でも専門外なモノでしから、京都に強大な結界を張った土御門、卜部、芦屋、そして、途絶えたとされる――といった陰陽師の家系でも対処できず、派遣された異端を滅する先槍騎士団(1stLancer)も全滅。エエ、大変面白いモノを見させてもらいまシタ』

 

 

ビクッと体が揺れる。

 

 

『ところで、自己紹介がまだでしたネ』

 

 

柔らかに見える態度。

 

穏やかに見える物腰。

 

緩やかに思える立ち振る舞い。

 

全て、まとめて、普通の、友好的な相手にしか見えないが。

 

何かがズレている。

 

致命的なまでに。

 

 

『本名は、人の道を外した時点で、とっくの昔に捨てちゃってマスが、墓にも入りませんし必要ないデショ? だから、『マーリン』と呼んでくだサイ』

 

 

闇を覗いているような、闇に覗かれているような、不快な感覚。

 

気を抜けば、後ろから喰われてしまいそうな、そんな得体の知れなさが。

 

朗らかな態度をそのままに受け取ることを、拒絶してしまう。

 

 

『そうですネ。アナタは『モルガン』とでも呼ばせてもらいましょうカ』

 

 

それでも、その手を取るしか道はなかった。

 

動くためには誰かの血が必要で。

 

この『目的』を果たすためには、誰かに頼らなければならない。

 

 

 

つづく


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