とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

20 / 322
閑話 兄妹喧嘩

閑話 兄妹喧嘩

 

 

 

路地裏

 

 

 追う。

 角でリボンが靡く。

 また、追う。

 帯が曲がった方向を示す。

 

 我武者羅であっても、足が速く、落ちる気配がない、でも、追えてる。

 

「おっとっ!」

 

 転がっていたポリバケツに足を蹴る。意外と中身が詰まっていたか、軽い脛打ち。加速もだいぶ落ちてしまった、でも、走った。

 

 止まることのないその姿は見えなくても、どこか感じられるその意識を頼りに。

 

 記憶は失ったが、あいにく、この不幸な性質はなくならなかった。

 転がってきた空き缶を踏んですっころぶは、特売で買えた卵が帰ってみたら全滅してるは、居候にあわや台所で大惨事が起きかけるは。

 

 だけど。

 時々、誰かの視線を感じて振り返ってみると、いつ不幸な事故を起こすかを心配して見ている人がいる。

 たぶんそれは、前の自分からつけられてしまったような癖で、変わらず不幸なアクシデントに見舞われがちな自分を見離せないのか。

 それも思い上がりで、ただ、単にミスをしないか監視していただけなのかも知れない。本当は自分の事なんて気にせず無視したいのかもしれない。

 けど、どんな種類であれ彼女の心配は本物であって、

 

「……だいぶ障害物のない(走り易い)コースになったな」

 

 そして、ここが一番大事だが、実際、自分は彼女に助けられている。

 

 

路地裏

 

 

『お前の兄のせいで、俺の人生が無茶苦茶だッ!』

 

『お兄ちゃんは疫病神なんかじゃないもん! お兄ちゃんに謝って! じゃないと、しいか、おじさんの事絶対に許さないよ!』

 

 まだ幼稚園に通う少女がナイフをを持った男と対峙する。

 自信の倍もありそうな体躯から見下ろされて威圧されるのは怖かったが、それでも幼い少女は兄を馬鹿にされたことに腹が立った。

 

『黙れッ! 貴様に何がわかるッ!』

 

『おじさんだって、お兄ちゃんの事なにも知らないくせに!』

 

『糞ガキッ……本当は疫病神に用があったが、代わりにお前を殺してやる。そうすれば、疫病神も俺の十分の一くらいの苦しみを受けるだろうぜ』

 

 逆上した男は少女にナイフを向ける。

 その切っ先が、容易に肉体を裂くことを少女はそのときになってようやく理解した。

 

『ひっ!?』

 

 少女は初めて受けた、男の殺気に身体が動かなくなる。

 少女が男と対峙ができたのは、兄を馬鹿にされた怒りもあるが、それ以上に、男が持つナイフの危険性を知らなかったことが大きい。

 その無知のおかげで、彼女は立ち向かう事ができたが、本物の殺気を浴びさせられた事で、理解してしまった。

 

 あれは自分の命を容易く奪えると。

 

『言っとくが、今警察が来ても間に合わないぜぇ。俺が少し腕を振るうだけでお前は死んじまうんだからな』

 

 男は少女が震える様子を見てますます興奮する。

 それに天与の才能があろうと、地力がない。大空をはばたく鳥も雛の時から飛べるわけではない。

 だから、怯えた少女にできたのは、その震える唇から、かすかな声を漏らすこと。

 

『た…すけて……』

 

『もう遅――――がっ!?』

 

 それは眼前の男にしか聞こえないような音量で、しかし、その男の後ろから、男の子、幼い少女の兄が現れる。

 

『しいかから離れろッ! もし、しいかに指一本でも触れてみろ。絶対にお前を許さないからなッ!!』

 

 少女は頼れる兄の登場に助かったと安心した。

 もうこれで大丈夫だと……何の根拠もないのにそう思ってしまった。

 

 少年は逃れようのない不幸な性質に呪われているも、その妹の不幸には逃げない性格をしていた。

 

『最初はお前に用があったんだが……どうやら妹を目の前で殺した方がよさそうだな』

 

 男の目はすでに狂気一色に染まっていた。

 何を犠牲にしても少年の妹を殺す、ということしか考えられなくなっていた。

 

『来るなら来てみやがれ! 絶対に俺の妹に近づかせないぞッ!』

 

 幼い少年の精一杯の強がり。

 そして、少女は気付いてしまった。

 兄の足が震えているところを。

 男に本当は怯えてしまっていること。

 もう助かったなんて、甘い幻想だったことを。

 

 

『お兄ちゃん、逃げてええええぇッ!』

 

 

 しかし、少女、上条詩歌の叫びも遅く。少年、上条当麻は目の前の男に刺されてしまった―――

 

 

路地裏

 

 

 私はどうすればいいのだろう。

 あれから生きる屍のように、この空っぽの世界を惰性で過ごしてきた。

 少しでも多くの“不幸”をなくそうと、彼の誇りであろうと……頑張っている。

 後を追って自殺なんてできない。

 死が怖いのではなく、ただ単純に彼のせいにしたくないから。

 彼が死んだという理由で、私が死んだら彼は悲しむだろうから。

 今も誰かを助けている理由も同様。

 でも、誰よりも助けたかった彼はいない。

 この胸の内には今にも世界を壊したがっている憎悪が宿っている。

 本当に醜く醜悪な憎悪が……

 私はこの矛先を誰に向ければいいのだろうか?

 彼を地獄に落とした少女?

 彼を救わせなかった女性?

 ただの傍観者だった男性?

 けれど、私はその誰も憎む事ができない。

 彼に後を任されたから、私は彼女達を憎むのを止めた。

 せめて、彼との約束は絶対に守りたいから…

 あれは結局、“不幸”だったのだ、と思い、

 全部を“不幸”のせいにして、私は彼女達を憎むのを止めた。

 だから、私が憎めるのは彼だけだった。

 私との約束を破り、勝手に遠くへ行った、でも誰よりも大切だった彼しか、感情をぶつけられなかった……

 

 

 

「……だから、二人っきりになりたくなかったのに」

 

 呟かれるその言葉。

 偶然、行き止まりまで追い込んだことで、ようやく止まって、当麻はその顔を見ることができた。

 能面のように一切感情を排したその顔、神様の彫刻だと言われても信じてしまいそうな、完璧な美貌がそこにある。一点の瑕疵も過剰さもない、満月の魅力。

 しかし、月は見方によって形を変えるもの。

 時にそれは三日月のような幼さという未完成な魅力もみせてくれる。

 

 結局、できていないのだ。

 無表情と他人がいくら述べようと、その横顔がうつる当麻の目には今も、泣いているようにしか見えない。

 この少女は、きっと何も殺せない。どんなに才能があっても、何も殺すことができない。そう、自分さえ殺すのはできない。

 

「―――、なあ」

 

 と詰まる。

 この少女を追い詰めたのは、自分だ。

 そのあまりの理不尽。心が折れるのも当たり前だ。

 前の自分からの責任を背負い込み、秘とすることを良しとする今の自分が課したことで内外に頼る存在のない孤独に耐えさせた。

 幾難の不幸に立ち向かってきた少女が、泣いている。

 自分ではない、自分に。

 しかし当麻は、そんな少女だから―――

 

「詩歌、なあ、話をしよう」

 

 今度は、当麻はそう言い切れたが、間髪入れず。

 

「何の用ですか? “嘘吐き”。私の事なんて知らないくせに……あなたは私とは関係ない人でしょう? 『詩歌』、だなんて、気安く呼ばないでください」

 

 その言葉は一言で、当麻の心を深く抉る。

 

 何も知らなかった自分は、何も考えずたった一つの大切な幻想を殺した。

 なんて拭いがたい悪夢。

 だから、もう二度と。

 あの病院でのことは、思い出したくなかった。

 もしまたそれを言われた時、冷静でいられるのかもわからなかった。

 

 ……けれど。

 この局面を望んだのは、当麻であって。

 その言葉も抉られても受け止めて、呑み込めた。

 少女の顔は、ちゃんと見えてる。

 長く走った事で乱れた呼吸も、上下する肩も、嘘のように消え去っている。

 

 一度目は、時間が止まったのような思考停止に陥った。

 二度目は、杞憂だったとは言えないが、一度目のような事態にはならなかった。

 

 あれから今日まで積み重ねてきた弱音。

 その一歩を躊躇わせていた迷いは、今、より強い感情で、跡形もなく消え去った。

 完全に、頭蓋骨の外にはじき出された。

 心音は胸を貫く楔のように。それはひときわ高い、意識を覚ます原初の鼓動で己を叱咤する。

 

「―――」

 

 深く細く息を吐いて、唾を呑む。

 

「わかってるでしょう? 今の私は機嫌が悪いんです。これ以上何かするつもりなら容赦はしません。……あの人たちみたいになりますよ」

 

「だろうな」

 

 じゃなきゃ、あの男がお節介に当麻を止めたりしない。

 そんなことは言われなくてもわかっているが、当麻に逃すつもりはない。その退く気のないことが分かったのか、ひとつ溜息をついて。

 

「……ねぇ、私がおかしいから追ってきたんですよね」

 

「それもある」

 

 取り繕っても仕方がないことだから、当麻は頷く。

 

「そうですね。私は、おかしくなってる……

 だから、今の私から何を訊こうとしてもダメだと思う。自分で自分のことがわからないから……」

 

「でも、カウンセリングとか見たいに話してくれれば、楽になったりするかもしれないぞ」

 

「あなたは、カウンセラーじゃないでしょう」

 

「なら懺悔室ってのはどうだ」

 

「それは、インデックスさんの方が適任でしょうね」

 

 少し、微笑む。

 けれど、それは意思の力による笑みで、自然なものではない。

 それでも、何でもいいから今は会話を少しでも続けたかった。

 

「じゃあ、俺の懺悔を訊いてくれ」

 

「……………」

 

 そのあとに帰ってくる沈黙は拒絶。

 構わず、

 

「俺は、記憶を失くしちまった。というか、その脳細胞が壊されたというべきなんだろうな。あの先生が言うには、もう二度と戻ってこない。

 ―――けど、そんなことはどうでもいいと思ってる」

 

「どういうことです……?」

 

「俺にとって、目の前にあるものが、一番、大事だ」

 

 目の前にいて、一緒にいる。

 それだけで得られる充足感。

 目が離せなくて、目を離したくない。

 

「きっと、記憶よりも大事だ」

 

 結局、上条当麻は後先のことを考えない人間なのだろう。

 また出会いを一からやり直して記憶喪失を暴露するとかちっとも考えてない。

 ただただ、今ここにいる少女こそを大切にしたい想いが大きい。

 それが、いいことなのか悪いことなのか判断がつかない。

 それでも、それが正しいと信じたかった。

 

「だから」

 

 自分の言ったことをすべて聞き流したかのように、彼女は聞いてくる。

 いつの間にか逸らしていた顔を向けると、少女は真っ直ぐにこちらを見つめていた。

 今までのは、後を追って、ここに至るまでの理由だ。

 いま彼女は、話の先を求めている。

 いつだろうか、それとも最初からか。目が離せなくなっていて、一緒にいられる時間がたくさんほしくて、

 

 それはつまり、どういう意味なのかを問われる。

 

 だから、

 

「お前がいないと、ダメみたいなんだ」

 

「……………」

 

 出した答えを当麻は口にする。

 

「お願いだ。

 

 

 俺の……妹になってくれないか」

 

 

「それは、どういう……」

 

「何不自由ない生活を送れているはずなのに、満足できないんだどうしても。やっぱり一番大事なものが欠けてんだなって気づいた。

 まあ、料理だって洗濯だって、自分でやればいい。知識としてやり方は覚えてるんだし、できないはずがないんだ。

 でもな……多分、そうじゃない。俺が求めていたのは、そんな誰にでもできる世話係(ヘルパー)じゃない」

 

 たとえば記憶。そんな欠落した部分を記録から拾い集めて穴埋めしたり、新しい思い出で補ったりするだけでは、元には戻らない。

 どうしても、この少女がいないとダメみたいだ。

 記憶を忘れた自分に違和感を覚えてくれて、現状を知ってる。両親も学園都市にいない。

 きっと、上条当麻が知る限り、他の誰でもない、心強い理解者だ。

 

「でも、これは俺の、俺だけの勝手な願望かもしれない。記憶をなくして頼りない兄じゃ不満なのは当然だからな。そんなことはわかってるけど、どうしても、記憶よりもずっと大事なんだ」

 

 しかし、

 

 

「あなたは………本当に私の………くれるの?」

 

 

 静かな口調とは裏腹に、彼女の感情は、今や安定を失っていた。

 喜怒哀楽がでたらめに混じった、渦になっている。

 ついには、その表情さえも取り繕い切れていなかった。

 

「ふふふ。なんて熱烈な懺悔でしょうか。告白と勘違いしてしまいそうです」

 

 内心息を呑む愚兄の視線を察したのか、彼女が頬に右手を添え、自分の顔を気にする。

 

「私、今、ちゃんと笑えているでしょうか?」

 

「……上手くいってない」

 

「ですね。ふんふむ……」

 

「もっといえば、ずっと笑ってねぇよ」

 

 当麻はため息交じりにさらに追い打つ指摘する。

 詩歌がピクリと身を震わせ、ゆっくりと目を細め、

 

「わかってますから。何も言わないでください」

 

 彼女はふいと顔を逸らす、こちらの視線からその成り損ないの作り笑顔を隠すように。

 

「……どうして?」

 

 無意識に漏れた呟きを、当麻の耳は拾う。

 疑念、動揺、困惑。

 何故、記憶も失った彼が、私のそれを見抜けるのか。

 それに明確な答えを返すことはできない。

 なにせ、何の根拠もないのだが、上条当麻は、“一度も見たことがないはずの本物”を理解している、としか言いようがない。

 

「ふふ……ふふふ……」

 

 彼女は乾いた笑いを漏らしていた。

 その視線はこちらを向いていない。

 

「笑えて、ない……ですか。そんな……まさか。―――“ありえない”」

 

 ……………

 急に言葉を切り、彼女は静かにたたずむ。

 一呼吸、置く。

 それだけで、感情の渦に混沌だった面相が穏やかになった―――

 

 そして、にっこりと笑った(×××)

 

「“お兄さん”、やはり私のことは、『詩歌』と呼び捨ててください♪」

 

「いいのか?」

 

「勝手ながら、気が変わりました。これは提案ではなく、お願い、ですけど。

 お兄さんは普段私のことを遠慮せずに呼び捨ててましたし、私は殿方に尽くすことができる大和撫子たれと幼いころから英才教育されてますので」

 

 名前で呼ぶことが許された―――それは喜ばしいことのはずなのに、心からの安堵はできなかった。

 最低限度の会話作業しかなかった彼女の言葉は大げさに長く、その笑顔の外見も完璧で、けれど、その感情は引きちぎれていった。

 表面上は、凪いでいるのに、その水中の深いところはより渦巻いている。そんな天気雨ならぬ天気嵐という非現実的な、あまりの混沌ぶりに、こちらの顔面筋は凍りついたように緊張で強張る。

 

 それでも、ここで退くことだけは考えられなかった。

 不退転の覚悟でこの場に臨み、以前と同じように名前で呼ぶことを、許された。一歩、前進できた。それは少なからず励みとなって。

 慎重に様子見―――できないくらい、我慢の限界で、

 この勢いのまま、その嵐に踏み込む。

 荒れるその感情の渦の中心を覗くため、その目を見た。その直感を、信じた。

 

「なんで、そんなに怖がってるんだ」

 

「え―――」

 

 こちらに抱いている感情は―――恐怖 だ。

 いくら表面を取り繕い、美辞麗句で飾り立て、感情の渦に隠したところで。それがわかってしまった。

 

「私がお兄さんの何を怖がるというんですか。わかりませんね。ここに怖がるようなものなんてないじゃないですか」

 

 いいや、ある。

 その目の前にいるモノを、認められないという、圧倒的な恐怖。

 そして、それに匹敵する悲しみ……

 総じて、今もまだ激しく狂い続けている絶望。

 

 不死鳥は、炎に全身燃やされながらも、死に楽となることができない。

 延々と身を焦がす、焦熱地獄の様は、見てるだけでも痛々しい。

 

 黙って、後回しになんかできない。その火中に手を入れることに、躊躇はない。

 

「……詩歌」

 

「………はい?」

 

「どうしたら、笑ってくれる」

 

 当麻は、その心から湧き上がる言葉だけを口にした。

 

「………え、まだ―――」

 

 見なくとも、この手に触れるように、実感がある。

 荒れ狂う彼女の感情が、たじろぐのを感じ取る。

 それは一切のそれ以上の侵入は拒む最後の防衛線たる、巨大な巌の如き不動の砦が、揺れるようだった。

 

「どうやったら、笑顔を見せてくれるんだ。今の詩歌を見るのは―――」

 

「やめて!」

 

 詩歌が小さく言う。

 それは悲鳴だった。

 今までのどうにか保てていた表面的な笑顔は消え、ついにあの日より深淵に沈めていたものが浮かび上がろうとしている。

 

「……やめて、

 ……見ないで、

 ……来ないで、

 

 ……その手で、私に触らないで」

 

 そう。

 ずっと、物差しで測ったように正確に、こちらの手の届く間合いに入るのを避けられていた。関係に距離を置こうとしれるだけでなく、その温もりを覚えてしまうことを、忌避してるように。

 

「断る」

 

 怯える彼女に、当麻は手を伸ばす。

 本来、そこは躊躇う場面なんだろう。この硝子のような少女に、間をおいてあげるべきなのだ。

 詩歌でなければ、当麻はそうしたのかもしれない。

 

「……これ以上、踏み込んでくるなら、容赦はしません」

 

「ようやく、わかった」

 

 上条当麻は、怒っていた。

 どうでもいい相手であるなら、距離を取られる程度で腹を立てることはない。

 どうでもいい相手ではないからだ。

 

 怒る。

 それだけ彼女を大事に想い、またどうしてでも手放したくないと感じている。

 人間はぶつかり合いながら、生きていく。

 それを今、一方的な展開になるのだとわかりきっているからこそ、喧嘩にすらならないと思われているのだ。

 

 故に、こちらが手を伸ばそうにも、記憶を失ってしまった上条当麻に、この線引きは超えられない―――ならば、まず、上条詩歌を、心の底から引っ張り出さなければならない。

 越えられないなら、相手に来てもらうしかない

 今の当麻が何を言おうにも、泣き面に蜂の目にしかならないが、挑発でも何でもして、向こうからやってこなければ相手にもされないのだ。

 宣言――宣戦布告する。

 

「俺は、お前の幻想(ウソ)を殺してやる。いつどこで誰と何をしてようとそんな顔をしたなら追及してやる。完璧に、間違いなく、正直になるまで、どんな虚偽もぶち壊してやる」

 

「あら、選択問題で全問不正解の前科もちの、と言っても覚えてないでしょうけど。そんな出来の頭で強気な発言ですね」

 

 くすりと詩歌が笑う。

 

「でも、妹のことはわかるよ。悪いが、覚えてなくても、外す気はないな」

 

 この不幸な体質に山勘なんて以ての外だろうが、不思議と当麻はこの言葉を違うことはない。一夜漬けの不勉強でも、この分野でのテストで満点をとれる自信はあるのだ

 理解者(あに)として。

 

「……私の“お兄ちゃん”は死にました」

 

 その声は聞く者を凍てつかせるほど怜悧なものだった。

 

「戯言を抜かしてるのはどっちですか、この“嘘吐き”」

 

「自分のことを棚に上げてる自覚がある。だけど、最初に言っただろ。詩歌の方が大事だ」

 

 その発言に、放たれる空気が肌を刺すものに変わる。自然、当麻は足を開いて、構えをとる。

 

「妹になってくれて、早速だが」

 

「そんな覚えありませんけど」

 

「喧嘩するぞ。兄妹喧嘩だ。お兄ちゃんが無理やりにでも言う事を聞かせてやる」

 

「私と喧嘩ですか……怪我をしても知りませんよ」

 

 あそこにいた不良たちと同じ、いいや、それ以上に悲惨な目に遭うだろう。

 天運を持った天才に不幸な無能者の勝率は、万馬券にも勝る。

 だが、それを買ってくれるものもいる。インデックス、御坂美琴と二人の女の子は、当麻に託した。

 ここで退いてしまうようなら、彼女らにも顔見せできなくなる。

 

「いいぜ。でも、俺はお前に一切手は出さないで勝ってやるよ。“お兄ちゃん”だからな―――」

 

 当麻の視界を遮るのは、詩歌の靴の裏。

 その単語を二度も口にすることを塞ぐように、ぴたりと顔前で静止している。

 

「……この足刀蹴りで、鼻骨を潰すこともできました」

 

 当麻は数瞬遅れて飛び退くが、もちろん遅すぎる。

 詩歌の繰り出した力強く、美しい蹴りはまたも当麻の顔面を完全に捉えつつも寸止めされている。のに、引き金をわずかに動かすだけの銃口を突き付けられているように動けず。寸止めをせず、蹴り抜かれていれば、宣言通りの怪我をしていただろう。

 その一蹴で、憶測で測っていた互いの実力差を実感として把握した。

 見た目は華奢な女の子というのが、いかに反射的な幻像であること。

 明らかに守られる側だと思われる少女が、剃刀の如き切れ味と機械の如き正確さを誇る蹴りを放てるとはわかっていても思いもすまい。

 

「とても、喧嘩にはなりません。でも、出直せと言っても聞かないんでしょう?」

 

 だから―――全身の骨を砕いても叩き潰す。

 

 警告と同時に、真正面から突貫する詩歌を、当麻は目で追うことはできた。

 後ろ回し蹴り―――全身を使い、躊躇のない一撃は当たれば、その弧を描く軌道上にある狙いの顎部は砕ける。

 咄嗟に頭を下げて、詩歌の回し蹴りを避ける。が、

 

「……今の上段回し蹴りはフェイント。簡単な誘導に引っかかるあなたは、上段踵落としで、その利き腕の右肩鎖骨は折れたでしょう」

 

 そのまま勢いで急転直下して米神に風を掠るよう、下された踵が頬に添えられ、肩に乗せられている。断頭台が直前で静止したのを幻視した。

 

 ―――速いッ!

 

 反応が遅れたが、咄嗟に、当麻は背中から倒れるように距離を取ろうとする。

 そこへ、追うように―――跳ぶ。

 

 瞬間、鎌鼬のような鋭い風が後逸する当麻の前髪を斬る。

 それも2度。

 間合いを一瞬で詰め、恐るべき身軽さで放たれた空中二段蹴りは寸止めではなく、けれど、間一髪を精密に測り取って、その風圧で当麻の前髪だけを揺らす。

 

「……アルマーダ・コン・マルーテーロゥ――旋風脚、と言った方がわかりやすいでしょうか。もらっていれば、第一撃で眼底。第二撃で鼓膜は壊れたでしょう。視界と聴覚、次いで最初で嗅覚も味覚も血の味しかしない。あとに残るは苦痛を伝える触覚だけ、となっていました」

 

 尻餅をつく当麻を、詩歌は悠然と見下ろす。

 

「空手で蹴りの威力を。テコンドーで速度を。カポエイラでは自在の間合いを習いました。ああ、蹴り技から絞め技に繋げて、楽に落として差し上げることもできます。

 一切手を出さずとも足蹴にするだけでもあなたを降すのは造作もないです」

 

 詩歌は攻撃を当ててこない。

 それは優しいからではない。

 当麻の心を折らせるためだ。

 

「本当の暴力は、見せるだけで相手を破壊せず屈服させることができます。……あなたもわかったでしょう? 私に敵対すれば、無傷では済まない、と」

 

 運動の基点、脈拍の乱れ、一瞬の意識の空白―――すべての点を把握して、突かれた。

 その気であれば、こちらの機能の一切を休止させられていた。

 そんなことは言われなくても理解している

 『壊さず』とも、『止めて』しまえる。

 本当の暴力というのは、見ただけで奪われる、そんな芸術とまで昇華されてしまうものなのだろう。

 

 そんな、あっさりと丸裸にしてしまえるほど『上条当麻』を熟知している彼女にはとっくに“それ”はわかっていた。

 

「いつまで、“戦おうとしないんですか”」

 

 屈服させるための作業だ。

 己が相手よりも強く、このままでは確実に大怪我を負うことになることを教えてやればいい。

 少しでも諦めたり、逃げる素振りを見せたのならば、それで落としていた(おしまいにした)

 しかし、この少年は逃げるどころか、戦おうとさえしていない。

 

「はっ、手を出さないっつったろ。大体そっちだって遠慮してんじゃねーぞ。お兄ちゃんが妹の“じゃれ合い”でビビるとでも思ってんのか」

 

 また。

 長い髪を尾のようになびかせて、少女の身体は左右に揺れるよう踊る。

 機敏な動きは目で追うのがやっとで身体がついていけない。

 だが、袋小路に追い詰めていた地理から、相手は真正面にしか来ない。

 ぐるんっと彼女が回し蹴りを放ってくる。その動きは、先ほどより、速い。

 

「くっ」

 

 当麻は全力でその回し蹴りを避けようと―――しない。顎先にあたるはずの詩歌の踵が、その頬にめり込まれる。

 

「―――!」

「がっ」

 

 ぐるんっと、頭が回る。肉の弾ける音と共に脳が激しく揺さぶられ、膝ががくがくと揺れる。だが、来るとわかっていた衝撃だ。寸止めされるはずのそれに、自ら顔を突き出して当たりに行ったのだから。当麻は歯で口を食い縛って奮い立たせる。

 まだ三半規管が安定しない。視界がぐるぐると回っている。

 

「ほら、な。この程度で、屈するかよ。……まあ、女の子にしちゃなかなか強力だったが、男の子の身体は頑丈なんですよー。で、今ので頭蓋は割れてねーんだけど」

 

「あなたが、石頭だというのを忘れていただけです―――もう、寸止めの必要はありませんね」

 

 ぐるん、と視界が回転した。

 何が起きたのか把握する暇もない、ふらつく脚が、足で払われたことすらも察する暇もなく、当麻は右肩から、地面に倒れ落ちる。咄嗟に右手で身体を庇ってはいたが、次のアクションを起こすよりも先に、彼女の脚がこちらに伸びてきて、その爪先が、内側から抉りこむように、当麻の肋骨を突いた。

 

「ぐ……あっ!?」

 

 下はコンクリートで、衝撃は一切中和されることのない。落下の衝撃に、追撃に体験したこともないような奇妙な痛みが腹部を襲い、地面を転げ回る。

 ずきりと、アバラが軋む。

 遅れて、蹴り飛ばされた足首にも、痛みが。

 

「ぐ―――う、ううう」

 

「折ってません。―――ただ、アバラを1、2本外しただけです。―――でも、無理はしない方がいいですよ。肋骨は重要な臓器を守る鎧ですが、ズレてしまえば凶器ともなりえますから」

 

「………」

 

「……負けを、認めてください。これは喧嘩ではなく、意味のない馬鹿な行為だと。そうしたら、直してあげます」

 

「……やれやれ」

 

 当麻は―――腹部に走り続ける痛みを堪えつつ、身体を起こす。詩歌を、睨みつけて、ハッと笑った。

 

「妹にお腹を脚で撫でられたくらいで、負けを認めるお兄ちゃんじゃありませんことよ。逆にくすぐったくって笑っちまったじゃねーか」

 

「何を言ってるんですか。折ってなくても、罅くらいは入ってるはずですよ」

 

「詩歌こそ何言ってんだ。全身の骨を粉々の軟体動物にすんだろ? このペースじゃ、明日になっちまうぞ」

 

 とはいえ、こちらが手を出さない以上選択肢はひとつ。

 捕まえて、力ずくで抑え込む。体格と体重、それに腕力が、当麻の優ってる点だ。蹴りを交わしてそのまま軸足に抱きつく。

 だが、初めてそちらから接近した当麻に対し、詩歌は固く握り込んだ拳を作る。

 左右の拳を顔の前に揃えたそれは、見事なボクシングスタイル。護身術と呼べるレベルじゃない。いったい、この妹はどれだけの格闘技を習得しているのかと気になるところだ。しかし、今のボディに何発ももらえば、今度は抱腹絶倒して立ち上がれなくなるが、今更止まれない。詩歌は軽やかなフットワークでそれを躱すと、お返しとばかりにジャブを入れる。パァンッ! と快音鳴らして拳が頬に着弾。次の刹那には反対側の頬が殴られた。次に三度また逆。その次もまた逆。ほんの瞬きほどの空隙も空けず、楽器を鳴らすようにリズミカルに顔面を交互に連打。

 しかし、それだけやられれば脳も馬鹿になり、痛いというのがとっくに思わなくなった。脳に揺さぶられる感覚に酔いながらも、飛び掛かり―――そこへどんぴしゃで合わされて、右のストレートが顔面に直撃。体格からは想像もつかない、強力な打撃。

 相手の勢いをジャブで止めて、隙を見せればストレート。基本に忠実で、確実な戦法だ。いずれにしてもここで倒れるつもりのない当麻は、自信に活を入れてどうにか気力を維持し、左右の手を振るって詩歌を掴もうとするも、そのすべてが空を切るだけだった。逆にローキックで当麻の体勢を乱すと、一気に近づき、こちらの頭を両手で掴まえられた。そのまま、頭を引き寄せながら、当麻の顎に跳び膝蹴り。その勢いで当麻は後方にのけぞり、首の骨が派手に軋んだ。

 

「ぐっ……!」

 

 揺れる視界の中、詩歌が追い討ちをかけてくるのが見える。

 それは殴打ではなくて、当麻の右肩に、その両手を添えるというもの。

 

 何をするのかはすぐに想像がついた。

 

 彼女は、『関節技で超能力者も絞め落とす寮の管理人』師事しているとつい先ほどその超能力者から聞いており、当然、人体構造を把握している。爪先を引っかけてできてしまうほど、解体作業をこなすように難なくできる。

 だが、これまで加算され続けてる痛みで、意識は跳びそうとなっており、身体は思うように動けず。そこへ、

 

 ごきり、という鈍く嫌な音が他人事のように響く。しかし、右肩に走った激痛が他人事ではない。拷問のような感覚が右肩から頭脳へ伝達され、再び当麻の意識を覚醒させた。それは脳内の麻痺感覚くらいでは誤魔化せないほどのレベルに達していた。先の転倒で外れかけていた右肩の関節を完全に外したのだ。その上で、さらに外した関節部分を思い切り殴りつけたのだ。

 

「ん―――があぁぁあああああああ!」

 

 獣が咆哮を上げたような、悲鳴。自身の喉にこんな破壊力があるとは当麻は、記憶を失って初めて知った。

 それを、見つめる詩歌―――を見て、当麻は悲鳴を噛み殺した。それで、震えながらも不敵に笑って、

 

「い、いや、ビックリさせちまったか。わるい、ちょうど、肩、凝っててな。妹に叩かれたのが、気持ち良すぎて声を上げちまった」

 

 なおかつ、攻撃する意思は見せない。

 

「……いつまでそうやって強がるつもりですか? あなたは私のお兄ちゃんでもなんでもないただの卑怯な嘘吐き。早く、そのことを認めて、尻尾を巻いて逃げてください」

 

 それを見てられず、俯く詩歌は、地面に向かって吐き出すように当麻に最後通牒を言いわたす。

 

 

「妹から逃げるかよッ! お兄ちゃんを舐めるなッッ!!」

 

 

 当麻は逃げない。

 どんなことがあろうとここを退かない、と当麻の瞳が詩歌に訴える。

 

「その声――その目――その顔で――詩歌のお兄ちゃんを名乗るなぁっ!!」

 

 詩歌の感情が爆発した。

 目の前にいるのは瞳、顔、声、雰囲気それら全ては自分が愛した兄、当麻のもの。

 しかし、妹、詩歌との思い出はもうない。

 詩歌と過ごした当麻ではない。

 詩歌との時を過ごした当麻は『死んだ』。

 

 

「アンタなんか……アンタなんか!! 詩歌のお兄ちゃんじゃない!!!」

 

 

 その瞳が暗い色に染まる。気迫がより刃のように研ぎ澄まされて、一心に当麻に向けられる。

 

「何を言っても聞かないなら、二度と踏み込んでこないようその手足だけでなく全身数百の骨を余さず微塵に、滅茶苦茶に、破壊する……完全に徹ッ底的にッ!! わずかな望みも芽吹かせないようにッッ!! 

 ―――その幻想をぶち殺す!!」

 

 もう手加減はしない。

 あれほど警告したのだ。

 だから、『止める』のではなく、『壊す』

 完全完璧に、全身全力で、滅茶苦茶に叩き潰す。

 

 当麻の両足は、彼女から後退していた。何かを考えてのことではない。本能的なものだ。眩しいものを見たら目を閉じる。熱いものに触れたら手を引く。危険なものを見たら離れる。それと同じ。きっとこれはもう『止まらない』。ついにキレた詩歌が発する異常な迫力と、その暗い眼差しに、当麻は完全に呑まれた。

 

「くっ―――」

 

 ――咄嗟に亀のように丸まって両腕を盾にする。

 ―――詩歌がその間合いを詰める前にガードは間に合った。

 ――――だが、それを嘲笑うかのように当麻の肘を横からいじり、

 ―――――そして、力をほとんど使わず簡単に両腕の盾を抉じ開けた。

 

 逃さず迫撃。開いた隙間から、顎先を目にも止まらぬ強烈なジャブが4連発。一方的に攻撃を受け続けて既に当麻の顔は、おたふく風邪をもらったように膨らみ上がっている。

 腫れ上がった瞼に視界も潰れて、完全にガードを崩してしまう。

 後退する暇も与えない。

 問答無用に詩歌は右足を跳ね上げる。

 鞭のようにしなり、日本刀のように鋭い上段蹴りが抉るように当麻の脇にクリーンヒット。

 元々罅の入っていた肋骨が、数本逝った。

 さらにその衝撃は当麻を壁にめり込ませるように叩きつける。

 そして、詩歌の攻撃はまだ続く。

 意識が朦朧とし、身動きが取れない当麻を目がけて、その中心、鳩尾に杭でも打ち込むように―――

 

 

 ズドン!!

 

 

 ―――全体重を掛けた正拳突き。

 

 全身の円運動、踝から首までの捻りだしを、錐状にして集結させて練り上げられた拳打。

 壁が邪魔で後退できない当麻の体にかつてない災厄が襲いかかった。

 異常な圧力を伴いながら、拳が当麻の鎧のように鍛えあげられた身体を強引にぶち破る。

 呼吸が止まる。息の仕方を忘れたのではないかと思えるほど呼吸が止まる。

 華奢で身軽な身体からは想像もつかない重爆。

 いくら体が軽いと言えど、狙いを一点に絞り、全身の勢いを練り上げる最大出力の心臓破り。こんなのもらえば、吸血鬼でもお陀仏だ。

 

「あがっ……」

 

 開いた口から零れ落ちるのは、血と唾液。

 そして、砕けた奥歯と情けない悲鳴。

 胸を押さえることもできず、脳も麻痺し、視界が揺れ、地面が傾いているように見える。

 文句なく、『死にかけた』一撃だった。

 

 “それよりも”。

 

 止めを刺した、少女の顔は変わらない。

 泣き顔でも笑顔でもない。

 感情を排した、どこにでもいるひとりの女の子。

 我慢してる、なんてとんでもない間違いだ。

 

 これまで見てきた当麻にとって、それは、どんな表情より辛く映った。

 

 ……ああ、これは俺のせいなんだな。

 

「―――」

 

 乱れていた呼吸が、熱を失ったように治まった。

 簡単に言うなら、当麻はそれを受け入れてしまった。

 どんなに殴られても折られるつもりはなかったけど、これには屈するしかないと。

 

『まあ、この娘に殺されるなら、仕方ない』

 

 上条当麻という人間にとって、けしてあってはならない感想が浮んだ。

 これ以上苦しめるのならば、大人しく倒れた方がずっとましだ。

 そう、“これが一度目ならば”、受け入れただろう。

 

 

 

 『それ』は。

 まるで、心臓の鼓動のようであった。

 

 この『上条当麻』という肉体の構造を知り尽くしているであろう相手は、徹底的に

完膚なきまでに。

 歯を食いしばっても、立ってもいられないほどに。

 

 だけど、関係ないのだ。

 『それ』は、この心身と深く根付いて、自身に制御できるものでもない。

 

 正直、まともにやって勝てるイメージが浮かばない。

 

 最初から分かっていた。

 始まってしまえば、きっと5秒後の脳内予測では、十戦して何故か十二回も倒れる自分の未来が算出されていた。

 

 それほどに圧倒的。

 考えられる唯一の利点は男の腕力と体格くらいのものだ。

 

 でも、同時に思うのだ。

 

 記憶がなかろうが、こんな全く勝ち目のない局面でこう考えてしまう人間なのだ。

 

 ここで意識のたずなを手放し闇の中に落ちてしまうのは簡単だ。きっと、楽になれる。ただし、それは諦めと変わらない。

 

 それで本当に良いのか?

 

 たった一つの不幸を見逃しただけで、世界は変わらずに回るのだろう。何もかも負債を一人に押し付けるだけでいい。時間が経てば、何ら不自然さを感じさせることもなく日常を送ることができる。不幸はどこにでもある。そう、納得できさえすればいい。でも、ならば、彼女の救いはどこにある?

 

 自分が不幸だと嘆くのは構わない。

 

 でも、彼女にどうしようもない汚泥のような絶望で埋もれていくのを、黙って見過ごすことができるのか。まさしく底なしのその沼は、手遅れとなればもう取り戻すことはできない、そんなことはようくわかっているのに。

 

 

 そんなこと、できるものか

 

 

 喰いしばった歯の隙間から、呻くようにこぼれ出る声に、朦朧となりながらも気づき、一気に覚醒。

 

 内側から爆発したように、胸に火が点いた。

 

 ドッドッドッドッ!! ともはや制御不能。只管に鼓動は全身に得体のしれない熱い何かを循環させ、何が何でも奮い立たせる。

 

 限界? 知ったことか。

 

 うつむき、前のめりに落ちかけた顔が、持ち上がる。

 

 グググググ!! と凄まじく重いものを背負っているかのように、ゆっくりと上半身もそれについていく。

 

 タイヤがすべてパンクした車を、それでも引き擦って進ませていくような無理矢理で、もう一度、いいや何度も、この目の前の相手に対して弓なりに反らして伸び上がるように体を起こした。

 肋骨が折れた胸が痛むが、構わない。

 あまり無様は見せられない。

 意地でも格好つけたい。

 ぐらつく頭も骨に響く痛みも気にせず、己を大きく見せるよう両手を広げる。

 かかってこいとでもいうように、もしくは、向かってくるのを抱き留めるように。

 

「―――」

 

 それを驚いたように固まってしまった詩歌に、彼はつい頬を緩ませた。

 ほっと息をつくように。やっぱり、先ほど見えた辛さは似合わない、詩歌は詩歌のままが一番いい。

 十戦やって十二回やられるイメージだが、そのどれもひどい怪我をしたとしても、死ぬような気は、一切湧かなかったのである。

 だから、これは我慢比べ。

 勝ち負けなんて度外視の、ただ認められたいだけの意地のぶつかり合い。

 

 

 

「―――な、んで」

 

 渾身の、会心の一撃だった。

 これ以上にない。そう、一度は屈しかけたように瞳の輝きが失せた。

 なのに、当麻は、倒れなかったのだ。

 全身がボロボロで意識があるかも定かではないのに、当麻は未だに立ち続ける。その瞳の光を、より強くさせて。

 詩歌は『上条当麻』がこの10年間ずっと己を鍛え続けた事を知っていたからこそ容赦なく本気を出したというのに。

 これはもう耐久力とかそういった問題ではない。

 精神が、その肉体を凌駕している。

 

「こ、い…よ。この程度…じゃ、お兄…ちゃ、んは……降参し…ねぇ」

 

「―――うっ!」

 

 反射的に動く体に強引にブレーキをかける。

 駄目だ。

 これ以上はまずい。

 

(何をバカ正直に付き合ってるんですか。さっさと避けて退散してしまえばいい。もう走ることなんてできない。私がいなくなれば、こんな意地を張らなくて済む。そして、救急車を呼んで―――)

 

 だが、一歩でも引けば、決定的に何かが負けてしまう予感がある。

 苛立つ詩歌は、強く踏み込んで、スナップを利かせた平手打ちを立っているのがやっとな当麻の頭を叩きこんだ。防ぐことも、躱すこともできず、ノックバックする当麻。

 

 これで終わり。

 

 と詩歌が安堵した瞬間、倒れず踏み止まり、再びこちらに迫ってくる当麻。

 詩歌の腕をあと少しのところで掴まえられたところを左手中指の爪で掠らせる。

 

「このっ……!」

(いや、ここまでです。この人の動きは完全に封じた。そうなるようにしたんです。だからこれが最後の―――)

 

 止まらない。

 今度は外した右腕の方を振るって伸ばしてきた。

 詩歌は見通しの甘かった自分の考えに叱責する。

 

(バカは私ですか! 『これで終わり』を何度見せつけられてるんですか……!)

 

 この相手は止まらない。

 限界など訪れない。

 そんなものはもう通り過ぎている。

 

 当麻が、詩歌に手を伸ばす。

 詩歌は、当麻の手を避ける。

 

 だが、これを続ければ、いずれこの袋小路の行き止まり。捕まってしまう。

 

(なぜなら、この人は自分のことなんて既に度外視してる)

 

 知ってる。

 その愚かさを、私はよく知ってる。

 

「……、して……たまるか」

 

 心は折れない。

 ただの一度も不幸に敗北を―――諦めることをしなかった少年を、よく知ってる。

 

「……逃して、たまるか!」

 

 そんな“ねじれ”のせいで、あんな目に遭ったのに!

 

(そうです。その日会ったばかりの女の子(ヒロイン)をかばって、あっさり自分の命とかを捨てに行っちゃうような馬鹿で! 普段から命を粗末にしてるわけじゃないのに、相手に惚れこんだら、自分のことなんてこれっぽっちも考えない馬鹿で!

 だから、私は―――)

 

 負ける、訳にはいかない。

 そんな在り方は、否定しなくちゃだめだ。

 

 ついに、後ずさった詩歌の踵が、壁に当たる。

 これ以上は、避けきれない。でも、これ以上は壊せない。今の当麻はかろうじて建っている塔のようで、どこか煉瓦ひとつ抜けてしまえば、崩れ落ちてしまう。

 

「……もう、やめてください。私と縁を切るなら見逃してあげます。だから、早く病院に―――」

 

「っけんな!! 縁を切るだと!? だったら、俺は死んでも退かない!! 妹から絶対に逃げねぇ!!」

 

 縁を切るなんて絶対に認められない。

 当麻の意思が、心がボロボロの体を奮い立たせる。

 しかし、その気迫は、

 

「ああぁああぁああぁああッッ!!」

 

 最後のブレーキを外れさせてしまった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 野獣のように飛びかかり、詩歌は、先ほどのような洗練された技ではなくただ乱暴に殴る蹴るを繰り返す。

 当麻はサンドバックになりながらもじっと詩歌を見る。

 泣いている顔を、殴っているのに痛そうな顔をしている詩歌の事を見つめ続ける。

 

「私はッ! こんなことを……こんなことを、するために力をつけたんじゃないッ! 私は……わ、たしは……ただ、お兄ちゃんのために……お兄ちゃんを幸せにするためにッ! 力をつけてきたのにッ!」

 

 当麻は何も言わず、じっと聞く。

 詩歌の訴えを一言一句聞き洩らさないように聞き続ける。

 

 ふと、思う。

 こんなにも大声で叫び続けるなんて、そう滅多にあるもんじゃないだろうか。ひょっとすると、初めてなのかもしれない。

 

 これほどまでに、この子は追い詰められてしまっているのか―――

 

 傷だらけで、寂しくて、不安で、どうしていいか迷って、壊れそうになっている。

 

(俺の、上条当麻のせいだな)

 

 記憶をなくしてしまったのにウソをつく当麻と、記憶があるのにウソをつく彼女はわけが違う。

 

 当麻は、己にウソをつき、記憶がなくても、ちゃんとやっていけると思った。

 

 記憶をなくしたまま平気なふりをして生きていくのは難しい。

 前の記憶を補完してくれる彼女のサポートがなければ、いずれ破綻が訪れるであろうその未来に不安を覚えていただろう。

 助かる。助かっている。

 

 でも、それは当麻だけの話だ。

 

 このままウソをつき続けて彼女が壊れそうになっても、誰も支えてくれることはない。

 失ってしまった自分とは違って、彼女の心には、いつも―――ずっと一緒にいた愚兄がいるのだから。

 

 その愚兄は―――ずっと、彼女の心に生き続ける。彼女のウソを、殺してしまう。

 

 追い込んでしまっている。

 自分のウソは―――自分も、彼女も騙すことはできない。

 確かに、ウソも方便という言葉がある。―――しかし、それにも限度がある。

 本来は人間関係の構築の一助となる、一種の精神的な薬ともなるウソ。

 あの日から、ほとんどなんら変わることのない日常を送ることができていた。

 その生活の維持するために、こちらに付き合って、賢妹は、身を蝕む毒となる量まで飲んでしまってるだろう。

 それも最もしてはならない、自分自身へのウソを。

 当麻が、インデックスへのウソをついてしまったせいで、付き合わざるを得なくなってしまってる。

 やがて、毒としかならない過ぎた薬の分量にさえ慣れてしまうだろう。そうなれば、手遅れだ。

 そして、耐えることができても、痛いのも、辛いのも、苦しいのも我慢していたら……ずっと、傷は小さくならない。治すのなら、まず嘘のない本音をさらけ出してやらないといけない。

 

「……でも…お兄ちゃんは……私の力を…頼りにしない。助けて、なんて言ってくれない……あのときだって、助けてって言わなかった……いつも一人で行っちゃう」

 

 もう、詩歌の攻撃に力はない。

 もはや、当麻に駄々を捏ねているようにしか見えない。けど、訴えられるその言葉の方がずっと当麻は痛かった。

 それでも、当麻はじっと詩歌のわがままを受け入れる。

 ようやく、本音を語り出してくれたのだ。ふらつく足で活を入れて立ち続ける。

 

「なんで……、どうして……」

 

 見ていることしか、立ち尽くすことしかできない愚兄を前に、一度強く瞑った両目から、大きな滴の珠を、ぽろりと流れる涙を隠そうともせずにまっすぐ見つめてきた。

 何も反応できない。

 その迫力というのもあったが、その鏡のように見つめる相手を映す、その熱を帯びて濡れた瞳の美しさに圧倒された。

 そして、喉元から込み上げてくる熱い塊と共に吐き出されるその声の音量はだんだんと増していく。

 

「なんで、お兄ちゃんが、こんな目に遭わなくちゃいけないの……。昔からずっと頑張ってきたことを知ってる。でも、その労苦に見合わないことばかり、死にかけたことだって何度もあった。今回も、記憶、失っちゃって……どうして、こんなに貧乏くじばっかり引いちゃうの」

 

 限界まで張り詰めた弦を感情のままに荒く弾いたような声で発せられるのは、それでも不協和音とならず澄んだものだったが、それが伝わる意味が頭に浸透するには少し時間が必要だったが。

 しかし、違う、と思う。

 そう、口を開こうとしたが、濡れた顔がくしゃりと歪む。

 

「こんなの、間違ってる。あんなのにがんばったのに、幸せにならないといけないのに、どうして不幸なの。……間違ってる。ぜったいに、間違ってる」

 

 激しくかぶりを振りながら、地面に叩きつけるようにそう言い切る。

 依然、止め処なく涙は流れ続けてる。

 それでも、ようやく息を吸うことができた当麻は、どうにか思考をまとめるだけの余裕はできた。

 

 ああ、『上条当麻』は不幸じゃなかった。

 なぜならば、上条当麻にはこんなにも自身の死を悼んでくれる者がいたのだから、不幸、じゃなかった。そんなことは自分でもわかった。

 

 この存在が常に手の届くほど近く、傍らにあれたことで、いかに上条当麻は癒され、励まされ、勇気づけられたのか。

 記憶がない以上想像もできないけど、それは多大な恩恵だ。神様のご加護なんて不要だ。万の不幸でもおつりがくるくらいに。

 

「……記憶をなくしてどうなんですか」

 

 やはり、この少女は、優しいかわいい妹だ。

 前の、だけではなく、今の自分にさえも、気にかけている。

 

「少なくとも、『大丈夫』、とはけして言えるはずがありません。だって、壊された記憶はもう二度と蘇ることがない、それは私にとって………、っ」

 

 最後、何かを――上条当麻には想像の容易いワード――を苦渋と一緒に噛み殺すように口を閉ざす。

 

 ああ、それは否定できない。

 むしろ、前の自分が消えても平気でいられるような妹であったら、今の当麻は淋しく思っただろう。

 

 口の中に噛み潰した言葉を飲み込んでから、

 

「でも、辛いのは私だけじゃない。あなただって、苦しんでる。

 大丈夫なんかじゃない。誰も、大丈夫なんかじゃないんです」

 

 だから、お願いです。

 

 

「助けて、って言ってください」

 

 

 もし顔合わせの最初に、インデックスよりも先に会っていたら、その言葉を受けただろう。

 

 この状況を打破できる都合のいいものはない。あれば、とっくに彼女は思いついて実行に移していることだろう。

 

 それは当麻も同じで、なんて言えばいいのかわからなくとも、何も言わないわけにはいかない。

 

「確かに―――俺は、不幸だ。だけどな―――一番不幸なのは詩歌だ」

 

 こんなこと、言いたくはない。

 言いたくはないが―――言わなければ、失われないはずのものまで失ってしまう。

 

「俺は、前の俺にはかなわなくても、詩歌のことを少しはわかったつもりだ……。お前は、諦めることができない」

 

 大切な人のことを、簡単に忘れられるわけがない。

 そんなの言われるまでもなく、それらは全部、上条当麻は難しいことだとわかっている。

 

 そして、この子には、幸運にも――不運にも、有り余る天賦の才能がある。

 

 どうしようもないことだからって割り切れない。

 運が悪かったのだ、なんて言えない幸運。

 力が足りなかった、なんて言えない才能。

 それらすべてが、彼女に『不幸』だと言う資格を奪う。

 

 だから、言う。

 

「上条当麻は、もう十分、詩歌に助けられた。後悔なんてする必要はないんだ。

 だから、そろそろ前を向いてくれ。今の詩歌は前に進んでいるようでも、後ろ歩きをしてるようなものだから、いつか転んじまうか、心配になっちまう」

 

 何でもできると信じてる。だからこそ、しないでほしいと嘆願する。

 この学園都市で最も腕のいい医者でさえ不可能な、そんな人間の手には余る、ありえない奇蹟を叶えられてしまったら、できるようになってしまったら、神様になってしまう。

 そんな背中は押せない。押しちゃいけない。引っ張ってでも、前を振り向かせないといけない。

 痛くても重くてもそれを抱えて前に進んでいってほしい。それが人としての在り方だ。

 

「そんなっ! 私に不幸だからって理由で諦めろって言うんですか! あなたも記憶を失ったままでいいんですか!」

 

 諦めたら、楽になる。

 だけど、諦めることはできない。彼女自身が、許されない。前の愚兄を、彼女は殺すことなんてできるはずがない。

 

 どうしようもないことだから、諦める。

 それはごく自然なことではあるだろうが、自然だから納得できるかと言われるのは別問題だ。

 

 彼女が、前の『上条当麻』を吹っ切ることを受け入れたら、その前の『上条当麻』が可哀想――不幸だ。

 

「記憶を失ったことが、大丈夫だなんていわない。それでも、記憶を取り戻すことに囚われ過ぎちゃいけない。辛いことも受け入れていくしかないんだ」

 

「辛くて、苦しくて、自分が擦り切れていくばかりなのに」

 

「当たり前だろ。辛いことや苦しいことなんて、どこにでもあるんだ」

 

「どこにでもあるかどうかなんて、どうでもいい! ここにある辛さが問題なんです!」

 

「でも、お前は、後を――先を任されたんだろ」

 

 その一方通行に結んだものだとしても、その約束を破ることはできない。前の愚兄の一切を殺すことができない。

 

「そんな、こといって……約束も破って……遠くに行っちゃった。……妹の私を置いて…行っちゃった。……嘘つき嘘つき嘘つき……」

 

 当麻は優しく、腕の中で壊れないように詩歌を包み込む。

 

 上条当麻は、鈍感だ。

 けれど、手を握り、抱きしめて、その気持ちがどんなものか分かる気がした。

 手の温かさ、心臓が脈打つ音、そういうものから感情が伝わる。

 確かに人がわかり合うために必要なのは、言葉だけじゃない。

 肌のぬくもりを感じ合うことも、コミュニケーションの一部だ。

 

 抱きしめた詩歌の肌は汗に濡れ、鼓動は早く、小刻みに震えていた。

 賢妹がどれだけ自分を偽っていたのかを、その全身から感じ取ることができた。もっとはやく、こうしてやればよかった。

 

「ああ、頑張ったな。今まで、嫌なウソをついてまで、前の俺との約束を守ってくれて、ありがとう。そしてウソつきでごめんな」

 

 当麻は妹の背中をポンポンと叩くと、胸に熱いものを覚える。

 詩歌の涙がシャツにしみ込んでいた。

 孤独に裡を焦がし続けたその涙は、この夏の暑さよりも熱く、愚兄の胸を焼いた。

 

「……謝れたら、私、どうすればいいんです?」

 

 その目線に込められた熱が、愚兄の心臓を射抜く。

 

「あなたは私にどうしてほしいんです?」

 

「それは……」

 

 都合のいい話だが、許されたい。

 他人行儀ではなくちゃんと兄妹として接したいし、できれば、前と同じようになりたい。

 そんなことは、口が裂けても言えるはずがないが。

 

「謝れたら、許してあげなくちゃいけないですか」

 

「そんなことはない」

 

「あなたがどう思うかなんて関係ない! 私が、私を……許せなくなるんです」

 

「許さなくていい。―――でも、俺はお前の兄でいたい」

 

「あんなに、ひどいこと、したのに、どうして」

 

「大丈夫だ。妹の攻撃なんて痛くもない……それよりも泣かれる方が痛い……

 それに言ったろ? 詩歌が大事なんだって。だから詩歌、お前がどんなに苦しんでいても俺はお前を助ける。必ずお前を守るよ。

 俺は間違いもするし、自分をウソで騙せるほど器用じゃないだろうな。でも……」

 

 本当のことを認め、そのうえで―――

 

「手を差し伸べることだけは、やめたくないんだ。こんな俺でも、助けられることがあるのなら。すぐに、何もかも解決するのは無理だろう。たぶん、目の前のことをひとつひとつ何とかしていくしかない」

 

 賢妹が落ちそうになっていたら手を差し伸べて、助ける。

 泣いていたら、その涙を止めてやる。

 前の、今のも関係なく、『上条当麻』にはこの子が大事だ。どんなに苦しむことになっても、傍にいてほしい

 

「今の詩歌を傷つけることになっても、手離したくない。

 ただ、そう願ってるだけじゃない。俺は、詩歌のためにできることをやり続けたい」

 

 詩歌の体が、ピクリと震えた。

 今の当麻の言葉は、彼女に届いているのか―――

 

「俺にできることなんて少ない。けど、少ないからってそれをやらないのは間違いだ。もう間違えたくない。手が届かない思いも、したくない。ほんの一歩だけでも踏み込んで、詩歌の手を掴みたい」

 

 少しずつ、少しずつでも。

 踏み込み、手を伸ばして、大切なものを守っていきたい。

 

「……私の手、汚れちゃってるよ。…それに……」

 

「そんなこと気にしないよ。お前はいつも人のために頑張ってんだろ? ……まあ、後で、あの人にはお礼を言わなきゃな。あの人がいなければ大変なことになっていたしな」

 

「私…の事なんて…憶えて…ないんでしょう?」

 

「いいや、憶えてる。頭では憶えていないけど、心ではお前の事憶えてるよ」

 

「う…そだぁ……」

 

「これは、ウソじゃない」

 

 もたれるように抱き着いていたその身体を一端、外して、間合いを取る。

 

「それでも信じられないって思ってんなら―――」

 

 このたったひとつの願いを拳にこめる。

 そして、妹を蝕む(うそ)を取り払らうために、身体全体の渾身の力を振り絞る。

 

 

 

「―――その幻想、この右手でぶち殺すッ!!」

 

 

 

 詩歌の眼前に当麻の技の欠片もない、しかし愚直な右手が寸止めされた。

 

「……っと、本当なら殴って壊すんだが、兄として妹を殴るなんてできないしな。これで勘弁してくれ」

 

 これが精いっぱい。それでも、

 詩歌の中で幻想が破壊された音が聞こえた。

 触れてはいないが、愚兄の右手(イマジンブレイカ―)は詩歌の幻想を破壊した。

 

「お、兄、ちゃん」

 

 その声は小さく擦れ、泣いてるようだった。

 

「お兄ちゃん……」

 

「ああ」

 

「お兄ちゃん……」

 

「ああ」

 

「お兄ちゃん……」

 

「ああ」

 

 詩歌は何度も呼ぶ。まるで何かを確かめるように。

 当麻はもう一度、詩歌の華奢な身体を抱きしめる。

 

「お願い。あと、少しだけ泣きます……」

 

「お兄ちゃんは笑顔にしたいのに、泣かせてばかりだな」

 

「いいんです」

 

 だってこれは、嬉し涙ですから。

 

 当麻は何も言わず、ただ抱きしめる力を強くした。

 しばらく、周りには、詩歌の泣き声しか聞こえなかった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ああ、と。

 強く抱いて、このかすかな香りが漂っている。

 特別かぐわしいわけでも、蠱惑的な匂いというわけでもない。けれど遠い過去の記憶を呼び覚ますような、どこか懐かしい香りだった。

 

 愚兄な胸が、不自然に動揺する。

 急に後ろから旧い友人に声を掛けられたような、あるいは忘れかけていた幼いころの夢に再び巡り合ったような。

 懐かしくも幸福な。そんな反応と同じ。

 本当に、束の間ではあるが、今なら言える。

 

「俺は、不幸じゃないな」

 

 匂いは人間の記憶と密接に繋がっているといわれているそうだ。

 きっと自分は、幸せな気持ちになった時、この香りを思い出すのだろう。たとえ忘れていても……

 

「ん? なんですか当麻さん」

 

「あー、その何だ。これは、知識なんだが、子供を慰めるときって大人が抱きしめたり触ったりするだろ? 人間の体温が子供を落ち着かせる効果があるからなんだとさ」

 

「それはつまり、詩歌さんを子ども扱いしたいんです? 早速お兄ちゃん風ビュービュー吹かせたいわけですか」

 

「違う違う、俺にできそうなことをやってみただけだ。本当は“一発で解決”ってのがいいんだが、それはできそうにないしな。この右手はつくづく無力なモンだ」

 

「……そんなことないです。少なくとも、私は嬉しい」

 

「そっか」

 

 詩歌の頭の上で手を動かすと、さらさらとした髪の感触が心地よい。

 しばらくの間、詩歌が小さく鼻をすする音がしていたが、『もういいよ』と落ち着いた声がしたので手を遠ざけた。

 

 そのときに、詩歌を前に当麻が見せた笑いは、自分自身に向けたものだ。胸中にあったのは、何とか掴み直したこの幸運を今度こそ離すまい、という腑抜けた思いだったのだから。

 この少女を失うことが、どれだけ自分の心に大きな穴をあけるのかと心から実感する。

 

「今度は、ちゃんとお前を助けられたか……」

 

「いつだって、お兄ちゃんは私を助けようとしてくれたよ。その気持ちだけで、私は嬉しいんだから……

 だから、自信がないでしょうから言っておきます。ちゃんと、お兄ちゃん、できてました。

 今も、昔も、です」

 

「いや……それじゃ、筋が通らないだろ。お前を傷つけてしまったのは、事実なんだぞ」

 

「そうですねキズものにされちゃいました」

 

「おい、その言い方は大変な誤解を招く恐れがあるぞ」

 

「でも、筋は通ってます。私がそれでいいって言ってるんだから」

 

「詩歌……」

 

「当麻さん……いつだって助けてくれたんだから、こんなこと言わなくてもいいと思うけど……でも言っておきます。

 これからも、私を助けてください。

 そして、今度は私にも助けさせてください」

 

「ああ、約束だ」

 

 気が付くと、いつの間にか、詩歌に右手を包むように握られていた。

 あたたかくて、やわらかい、妹の両の手。

 それは異性を意識させるような握り方ではない、ぶんぶんと大きく振り回す子供のような握り方だ。

 

「ふふふ♪」

 

 この手を握ったことにすら無意識で、当人は気づかないよう。子犬が尻尾を振りながら跳

 そして、真っ向から満面の笑顔を直視して―――急激に熱が込みあがってくるのを感じた。

 特に賢妹の両手と繋がっている右手が半端ない。まるでそこにもう一つの心臓があるみたいだ。

 

「正直、妹を不幸にさせないのは不安なんだが。()は幸せになれる自信はある」

 

 

学園都市 門

 

 

『お兄ちゃん……もう大丈夫?』

 

『ああ、大丈夫だぞ、しいか。お兄ちゃんは強いから、この程度の傷なんてすぐに治っちまうぜ』

 

 学園都市へ当麻が送られる日、ゲートの前での当麻との会話。

 詩歌は当麻と離れるのは嫌だったが、両親から兄の為と聞かされ、必死に我慢する。

 そして、泣いた顔ではなく、笑った顔で見送ろうと一生懸命笑顔を作っている。

 泣いて、当麻を困らせないように。

 

『ほら、刺されたところも……』

 

 当麻は心配させないように服を捲るが、うっかりしてたのか、まだ刺された個所には生々しい傷跡が残っていることを忘れていた。

 それを見てしまった詩歌は今まで我慢してきた涙が溢れてしまう。

 

『ああ、悪い、しいか。だ、大丈夫、今度会う時にはこんな傷跡なんかなくなってるから。ほら、泣きやめよ』

 

『だ、だってぇ、お兄ちゃん、しいかのせいで、怪我しちゃったんでしょ? しいかがいなければ、お兄ちゃん、逃げられたのに……どうして怖かったのにしいかを助けてくれたの?』

 

 詩歌の問いに、当麻は優しく悟りかける。

 

『しいかのせいじゃないよ。俺はただ大切な妹であるしいかが傷つくのがたまらなく嫌だったんだ。本気でしいかが傷つくのが嫌だったんだ。だから、どんなに怖くても、お兄ちゃんはしいかを助けるために立ち向かったんだよ』

 

 その言葉は詩歌の胸の奥へ刻まれた。

 

『だからな、泣き止んでくれ。しいかに泣かれるほうが痛いんだ。いつものかわいい笑顔を見せてくれよ』

 

 当麻が詩歌の頭を宝物のように大切に丁寧に撫でる。

 

『うん、わかった。こう?』

 

 詩歌は泣き止むと当麻に今日一番の笑顔を向ける。

 

『ああ、その顔だよ、しいか。これからはお兄ちゃんがいなくてもやっていけるな?』

 

『うん……でも約束して……』

 

 詩歌は当麻に向かって小指を差し出す。

 

『どんなことがあっても、絶対に無事でいて……お兄ちゃん』

 

 当麻は優しく詩歌の事を見つめると、自身の小指を絡める。

 

『ああ、約束だ。今度は怪我なんかしないくらい、お兄ちゃん強くなるから、安心してくれよ』

 

『うん、約束。絶対だよ。絶対に守ってね、お兄ちゃん』

 

『ああ、絶対に守る。だから、しいかはいつも笑顔でいてくれよな』

 

『うん、わかった。しいか、いつも笑顔になれるよう頑張る』

 

 これが最初に交わされた詩歌と当麻の約束だった。

 

 

道中

 

 

「兄妹、また再開していくんですけど、なんとお呼びすればいいでしょう? お兄様」

 

「背中がムズ痒くなるというか変な気分になるから勘弁して」

 

「それで詩歌さんのことは『おい』と呼ぶんですか?」

 

「なんでそんな亭主関白っぽいの」

 

「亭主関白とは、何の権限もなく威張っているだけという意味も辞書に記載されているそうですよ」

 

「前半は当てはまりそうだが、まあ、とにかく普通でいい。詩歌の呼び易いように頼む」

 

「じゃあ、当麻さん、で」

 

「え? お兄ちゃんじゃないのか?」

 

「それは、お兄ちゃんポイントが貯まったら呼ぶようにします。マイナスになったら、まぬけのとうさんと呼びますから」

 

「なかなか厳しいでせうなマイシスター」

 

「優しいかわいい妹ですから……それで、なんか、すみません。急に力が抜けちゃって」

 

「構いませんよー。後輩たちのためのデータ集めとかで徹夜だったんだろ? だから、今日くらいはお兄ちゃんに甘えておきなさい。当麻さん、たとえ妹が関取だろうと背負って見せる自信がありませうよ」

 

 外された関節や体の応急処置等はキットを持った賢妹に施されたが、本当は、歩くのもしんどいが当麻は、兄の威厳を保つため、辛そうな表情を隠し、強がってみせる。

 ……とはいえ、徹夜明けの身体であれだけやれるのだから、半端ない妹だ。

 

「ふふふ、そうですか。それでは甘えることにします」

 

 詩歌は、そんな当麻の心情を見抜いていたが久々に当麻に甘えたいので騙されたことにする。

 

「それはそうと当麻さん、先ほどの発言は、私が関取のように重いという事ですか? もし、そうだというなら―――」

 

 詩歌は当麻の首にまわしている腕に力を込める。

 もし、そうだというなら、そのまま当麻を絞め落としてしまうに違いない。

 

「そ、そんなことないですよ。詩歌は羽のように軽い女の子ですよー」

 

 当麻は背中から放たれる重圧に、自分の息の根が詩歌に握られていることを感じ、焦りながらも、必死に頭を下げながら発言を訂正する。

 そこには、先ほど妹に立ち向かった兄の姿はなかった。

 

「では、妹にふるぼっこにされたお兄ちゃんでも、何の負担もありませんね♪ 安心して、背負われます♪」

 

「おー、遠慮するな兄をふるぼっこにした妹よ。100人は無理だが、お前1人なら問題ない。大船に乗ったつもりでいてくれ」

 

「いえ、それは自信過剰ですね。今にも崩れてしまいそうな泥船、がいいとこでしょう。ぶっちゃけ、不安です」

 

「あっさり前言撤回した!? もしや詩歌さんの趣味は当麻さんをいじめることなの?」

 

「生き甲斐と言っても過言ではありません」

 

「それがもうイジメでせうよ……」

 

「優しいかわいい妹に、生き甲斐をやめろとおっしゃるのですか? ひどい兄がいたものです」

 

「イジメのコンボが止まらないぞ……」

 

 ひょっとしなくても、賢妹は鬼嫁ならぬ鬼妹であると言っても過言ではないのだろうか。

 

「当麻さんはいじめられた方が嬉しいんでしょ?」

 

「いやいや、別にMじゃないから!」

 

「そうなんですか? いじめてあげれば回復も早いと思ったんですけど……なら、降りましょうか? 詩歌さんが万全なら肩を貸してあげたいところです。いくら当麻さんでも今の容体は全治三日を要しますから」

 

「あれだけやられて三日で完治するとか、どんだけだよこの身体」

 

「これでもその身体の半殺し加減には誰にも負けない自信があります。あまり後遺症が残らないよう配慮はしてましたよ? 骨は折っても綺麗にやりましたから。治りも早いですし、ますます頑丈になってるでしょう」

 

「なあ、もしかしなくてもお兄ちゃんってそんなにいじめられてたのか。そんなに妹様に鍛えられてんの」

 

「ふふふ、それはどうでしょう?」

 

 とはいえ。

 

「とにかく、背負わせてくれ」

 

 いじめられて怪我の治りが早くなる体質ではないと信じたいところではあるも、これまで触れなかったせいでその人肌に飢えていたのか、妹とこうもべったりなシチュエーションを享受してるものだと思うと、ダメージも疲労も忘れてしまうくらいだ。

 

 そして、ひとまず落ち着いたところで、当麻は切り出す。

 

「……なあ、このまま、インデックスにウソを吐いたままでいいと思うか」

 

 自分がウソを吐いたことに後悔はないが、もしこれで詩歌が―――と相談した愚兄であったが、

 

「まったく」

 

「? ―――んぁっ!?」

 

 不意に伸びてきた詩歌の指に鼻をつままれ、引っ張らされて、当麻は妙な声が出てしまった。

 

「おや、鼻が伸びてますね」

 

「なにすんだいきなりっ?」

 

 頭を振って、なんとか賢妹の指から脱出する。戸惑う当麻の頭上から、ぽつぽつと降り始めた雨のように、言葉が当たる。

 

「ウソをつくと鼻が伸びる人形のお話って知りません?」

 

「いや、知ってるけど」

 

「―――ここで詩歌さんが何と言おうと、バラす気なんてさらさらありませんよね」

 

「ぅぐ……」

 

 当然のように見抜かれている。

 

「当麻さんは……前から、巻き込まれでもしない限り、火中の栗を拾うタイプじゃありません。今更本当のことを言って余計な気を負わすことはないと、現状維持がお望みでしょう。別に詩歌さんに気を遣わなくて結構です。もう、折り合いはつけましたので」

 

 当麻は答えなかった。つまり言いたいことは全部言われているのである。

 親よりも一緒にいる、この世界で最も付き合いの長い賢妹は、愚兄のことを愚兄以上にい知っている“理解者”だろう。

 否定反論ができない。

 

「ま……最初に持ち掛けられた相談ですし、お答えしましょうか」

 

「ああ、ありがとう」

 

 もぞもぞと詩歌はより背に体を預け姿勢を楽に、耳元に頬を寄せて顎を当麻の肩に乗せる。秘密話をするよう小声で、

 

「……逆に訊きますが、当麻さんはウソをなんだと思ってます?」

 

「? そりゃあ……真実じゃないことだろ」

 

「真実ってなんですか?」

 

「そりゃあ、読んで字のごとく真の事実であることってか……?」

 

「事実ってなんですか?」

 

「……現実? いや、それだと同じだろうから―――実際にそこにあったこととか、体験とかか?」

 

「まだ弱いですね。勘違いや幻覚、この街では普通にありふれている技術能力でどうとでもなるようなことは事実ではないし真実でもない。けれど、本人にとってウソではないこともある。

 ―――もう一度。事実ってなんですか?」

 

「……………皆が……全員一緒に、納得して認められること……で、どうでございませうか?」

 

「では、真実と誰も否定することのできない不明な事柄を除いた、すべてはウソになるでしょう」

 

「えーと、極論を言えばそうなるから……まあ、ウソだな」

 

 頷く当麻に、詩歌はあっさり頷き返した。

 

「それが答えです。真実は常にひとつ。あとはみんなウソ。それ以外にありません」

 

「いや、でもな、騙すとかってのはしちゃいけないことじゃないのか?」

 

「目的達成のために利用されるという点で、ウソも道具と同じです」

 

 あわてて不自然に問題が転換されてしまったが、それにも即答される。

 

「当麻さんは、美味しそうな牛のリブロースがあったらどうします?」

 

「へ? そりゃ……食えんなら食うけど」

 

「そうですね。イギリス出身のインデックスさんもいますし、故郷の味にローストビーフにしてみるのはいかがでしょう?」

 

「あいつは口の中に入れるもんなら何でもいいと思うぞ。賞味期限切れの焼きそばパンでも平気で食いそうだし」

 

「それで、当麻さん。部屋に置いてあった単行本『密室×密室探偵』の5巻の内容覚えてます?」

 

「あー、知識の方は覚えてるんだろうけど、読んだ話の方はまったく」

 

「ふんふむ。まあ、ネタバレになってしまいますが、今週の『密室×密室探偵』の突発的事件の凶器として、冷凍されたリブロース肉が使われたそうです」

 

 食材を玩具にするどころか凶器にするとは、もったいないお化けに恨まれそうな犯人である。

 で、

 

「これでいうところの、リブロースそれ自体は悪くありません。ウソも同じ。誤魔化しや裏切りのように『間違い』を意味するものですが、『方便』ととらえられることもあります。

 何が悪いかではなく、いつどうして悪くなるのかの問題です」

 

 しばし置かれる間。その休憩に、混乱していた思考の回転をゆっくり一定の調子に戻す。ウソの弁護をするようなことを諭されて、自分でも意外なほど戸惑いを覚えていた。それに気づく。

 当麻が落ち着くのを辛抱強く待ってから、詩歌は静かに言葉をつづけた。

 

「その真実を知った時、インデックスさんはショックを受けるかもしれない。隠された犠牲に、深い自責の念に駆られるかもしれない。そのウソを信じ、素直にみんな無事だったと喜んでいた彼女なら。

 でも、悲しかったのはその出会いの記憶を失われたからであって、当麻さんのウソが間違ってたからじゃない」

 

 きっと親教師にも、事情を知ってる大人のカエル顔の医者にでさえ、こんな相談は持ち掛けないだろう。

 上条当麻が本当に聞きたい言葉をくれる。迷いがあっても、この理解者ならば信じられる。

 それに甘えて、つい逆らった。

 

「間違ってないなら、俺はこのままでもいいのか」

 

「冷凍されたお肉もそのまま放置すれば、やがて腐ります。そうなってしまえば、捨てるしかなくなるでしょう。口に入れてもお腹を壊すことになります。そして、お肉の場合は腐る前にまた冷凍庫に入れればいいだけなのですが、

 ウソの場合、一度口から吐いたら戻せません。

 彼女との関係を捨てる(切る)つもりがないのなら、賞味期間内お早めに消化することをお勧めします」

 

 付き合いが長くなるようならいつかはちゃんと向き合って話すべき、と。

 

「といっても、まだ決心がついてないでしょう? 初物食いはたいていの人がためらうものです。自分が納得して、それから美味しくいただくのが礼儀です。

 まあ、どうせお腹を壊そうが、どんなに腐ってしまっても、ちゃんと責任とってお残しせずに食べるんでしょうけど。それが可愛い女の子ならなおさらですが、

 いいんじゃないんですか。

 本当に現状に満足しているのなら、相談もしないし悩みもしない、預かってほしいと言われたところで断っているはずです。

 これは前の上条当麻とかいう以前の問題で、インデックスという少女を大事に想っている証左でしょう。

 結局、そのままなあなあで済ます気はないと思いますね。あの子のためにも。そして、自分のためにも」

 

「……………詩歌」

 

 ほころぶような、声が出た。情けない声と言ってもいいかもしれない。それでも愚兄は、しばらく表情を取り繕うこともできず、当麻は背負った体勢で顔が前を向いて見られることがないのが幸いだったと。バレバレであったとは思うが

 

「まったく困ったお兄ちゃんです」

 

 くすくす、と笑いをこぼしながら、

 

「仕方がないから、優しいかわいい妹が手伝ってあげます。なんなら美味しいローストビーフに調理してあげましょうか」

 

 上条当麻は、周りの目も忘れて大笑いした。

 まったくもって、ありがたい。

 

「当麻さん。そういえば、聞きたいことがあるんですが、いいですか?」

 

「はいなんなりと、詩歌様」

 

「どうして、インデックスさんに嘘をついたんですか? インデックスさんの事何も覚えていなかったんでしょう?」

 

 それは詩歌があの時に感じた疑問だった。

 どうして、当麻が記憶を失って間もないのに、インデックスのために嘘をついたのか。

 

「ああ、それか。何だろな、嘘がばれるのは怖かったけど、インデックスに泣かれるのが嫌だったと心が感じた気がするんだ」

 

 その答えに詩歌は感じることができた。

 上条当麻の心は以前と変わってないと。

 上条当麻の本質は生きていると。

 きっと、この愚かにも優しい幻想(おもい)は<幻想殺し>でも消えることはない、と。

 

「まったく先のことを考えてない、バカですね。その場しのぎしかできじゃないですか」

 

「あいにくと賢いところはぜんぶ妹にあげちまった馬鹿な兄でして。そのときは、それくらいしか思い浮かばなかった。まあ、だからと言っちゃあなんだが、その出来の良さは大事にしてくれよ」

 

「なら、私も責任を取らないといけませんね。ま抜けなとうさんをさらにお間抜けにしちゃったんですから」

 

「ああ、迷惑をかけるがよろしく頼む」

 

 頭を下げる当麻。詩歌はパンと手を叩いて切り替える。

 

「では、とりあえず、まずはインデックスさんに洗濯の仕方を覚えてもらいましょう」

 

「なんでだ? あいつが洗濯しようとしたら、漏電しただろ」

 

 他にも洗濯機の蓋を開けたまま作動しそうになったり、洗剤もいれてなかったりなど。朝食時にもそうだったが、修道女と機械は致命的に相性が悪い。

 

「いいえ。よく考えてください。洗濯だけはできてもらわないと困るんです。真面目な話」

 

 だが、そのリスクを冒してまで習得させるべきと賢妹は言う。

 

「当麻さんだけの奨学金なら洗濯物をクリーニングサービスに出す余裕はありませんが、詩歌さんのも合わせるとそれもできないこともないでしょう。

 でも、当麻さんはそういうのはなるべく避けたいでしょう?」

 

「ああ、もったいない」

 

「となると、詩歌さんが来れない場合、インデックスさんの下着を、当麻さんが洗うことになります」

 

「え……えぇっ!? あ、そうか。今のままだとこの結論になるしかないか」

 

「言われて初めて気づいたんですか?」

 

 もうこのとうさんは、と呆れるボヤキに耳が痛い。

 

「なんにせよインデックスさんの家事スキルはただ今Level0と言ってもいいでしょう。聞くところによると、当麻さんの右手がお釈迦にしてしまいました<歩く教会>は常時清浄に保たれていたそうです。

 もしかすると、祈りをささげると衣服が洗濯されて畳むところまでできてしまう魔術的なものがあるのかもしれません」

 

「本当にそんなのがあるなら、十字教に入信したくなるな……」

 

「でもやっぱり、詩歌さん的なこだわりとして干すところはお日様じゃないと納得のいくフカフカになりません」

 

 既に主婦的な思考な賢妹である。

 

「また、男の人に女の子の洗濯ものを頼むのは抵抗があります」

 

 インデックスを見てるとそうは見えないんだがそうなんだろう。個人差はあるが、それが常識。男性の代表を名乗るわけではないが、あまり聞きたくなかった意見である。

 

「美琴さんも、幼稚園のころで旅掛さんと一緒に―――」

 

 

「―――ちょっと、アンタ!!」

 

 

 思い出話に花咲かせようとしたからか。

 常盤台の学生寮前で、何やら仁王立ちしていた超能力者が、視界にロックしたこちらに猛然とした勢いで駆け寄ってくる。当麻は今朝と既視感を覚える。

 

「あら、美琴さん」

 

「え、あ、詩歌さん」

 

 当麻に背負われてて見えなかった?のか、ひょっこり顔出した幼馴染の顔を見て、美琴はしばらく、窺うようにじっとして見つめ合い―――そして、小さく安堵を吐いた。

 それから、幼馴染が背負われていることに訝しみ、それを背負ってるが満身創痍な当麻を見て、眉を顰める。

 

「これって、どういう状況?」

 

「兄妹喧嘩したんです。原因についてはちょっとお話しできませんが、詩歌さんがこの通り、無理矢理迫ってきた当麻さんをボッコボコにして、でも、捕まっちゃって、終わったら詩歌さんがダウンしちゃったんです」

 

 まあ、その通りである、と当麻も頷く。

 が、何故か、簡単な説明を受けた中学女子が、ぐらっとよろける。

 

「無理やり……捕まえて……ダウン……これって、本にあったのと同じ展開じゃ……」

 

 ゆらりとゾンビのように立ち上がりながら、低く後悔の念を圧し殺したような声で、その聞き捨てならない部分の単語を復唱する超能力者第三位。

 

「え? 詩歌さんの幼馴染、なんかバチバチいってるんだけど、大丈夫?」

 

「んー、なんか大丈夫じゃなさそうです。どうしたんでしょうか?」

 

 なんか前より親密に、仲のいい雰囲気に美琴の焦燥はさらに加速する。

 そして、顔を上げると、ふつふつとその目に、嫉妬の女神を思わせる冷たい怒り炎が燃えていた。

 もはや、問答無用!

 キッと標的たる愚兄を視線で刺して、ポケットから己の代名詞たる(レールガン)弾丸のゲームセンターのメダルを取り出し―――とその拍子に、ぽとりと(ぶつ)が落ちた。

 

「え、なんか落としたぞ。って、これ本―――」

 

 ごきっ、と首を90度に絞め落とされて、当麻の視界はそこで暗転した。

 

 

常盤台の寮 詩歌の部屋

 

 

「ふふふ、美琴さん。全く何を勘違いしたのか知りませんが、人の本を勝手に見るのはいけないと思いますよ」

 

 

 本の題名を視認する前に迅速に愚兄を寮監直伝の首狩りで落とした後、偶然通りかかったタクシーに預けて、詩歌はそのまま妹分を自分の部屋に連行。

 お説教の時間である。

 

「ごめんなさい。最近、詩歌さんの様子が変だったから心配で、その……す、少しだけ、中が気になったんで……つい……」

 

「つい、ですか……美琴さん、今、私、とても気分が良いんです。……幸い、美琴さんだけのようですし……優しくしてあげますね」

 

 逃げようとするが、退路は詩歌に塞がれている。

 美琴はただ誰かが助けに来てくれることを望むしかなかった。

 

「美琴さん、今日は陽菜さん、用事があって帰ってきませんよ……」

 

 たった一つの希望もなくなってしまった。

 

「し、詩歌さん」

 

「痛くはありませんよ。痛く……はね」

 

 蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。

 

「目が覚めれば、全て忘れていますよ」

 

 そこで美琴の意識は途切れた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 美琴はベットの上で目が覚めた。

 

「あれ? どうして、私はここに? ……何か前にもこんな事があったような……」

 

 美琴は何故自分のベットの上にいるのかがわからなかった。

 

「でも……確か、詩歌さんの部屋に行ってたと思うんだけど……あれ? 今日、私って何をしてたんだっけ?」

 

 しかし、これ以上思い出すのは危険であると感じた。

 脳内に警戒音が鳴り響いている。

 

「うん、きっと今日は何でもない平和な一日だった。そうに違いない。なんか恐ろしい目にあった気がするけど夢だったに違いない」

 

 精神安定のため、美琴は夢と思いこむことにした。

 そうしなければ、恐ろしい事になると本能が告げている。

 そして、美琴は再び寝ることにした。

 明日が平和な日だと信じて……

 

 常盤台の寮のとある部屋には秘密の書庫があると言われているが、誰もその在り処を知らない。

 

 そして次の日、食堂にとあるメイドの悲鳴が響き渡った。

 

 

 

つづく


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。