とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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閑話 トラウマ

閑話 トラウマ

 

 

 

とある学生寮 当麻の部屋

 

 

 丹頂鶴はつがいとなれば、その関係は死しても続く。

 死が二羽を分かつまで、ではなく、連理の片割れが死したとしてもそれが骸であろうと残された鶴は離れようとせず、その死肉を啄もうと寄ってくるキツネやカラスを翼を大きく広げて威嚇し、鋭い嘴で突いて追い払う。

 自由な翼があろうと関係なく、それが骨だけとなっても依然としてそこにあり続け、下手をすれば、自身が死ぬことになろうとも墓守を中断することはない。

 雨に流されたり、雪に隠れたり、また土に還って、ようやくその場から飛び立つ。

 それは何と深い絆なのだろうと感嘆する美談とも受け取れるが、

 深く繋がっていた絆が切れて、それが足枷のように縛っている、とも言えなくもないだろうか。

 それは幸せなのか、不幸なのか。

 

 あの日、ウソを貫くと決めた。

 けれど、そのことを知られ、その秘密に補助するという言葉に今も甘えている。

 

 はたして、死んだ亡骸のような己に付き添っているせいで我を押し殺してる少女を、『鶴』にしてしまって………いいのか。

 

 

 

「……ん」

 

 ゆっくりと目が覚めていく。

 ふと、何か違和感を感じた。

 目が覚めたことに変わりないが、いつもと違う。

 ぼんやりした頭で考えて、やっと答えにたどり着く。

 なんとなくだが、きっと。目で見ずとも自分の傍にいれば敏感になるあの気配が遠く、いない。

 そのことに安堵か落胆か、今の自身には判断できない、もはやないまぜとなっているような溜息を吐く。

 

「別に、わざわざ顔を合わせる義務はないんだが……」

 

 ガタッ……。

 物音がした。

 いったい何が、ドアの向こうから、何か聞こえる。

 この音は……?

 

「なんだ?」

 

 寝起きの格好のまま、足を引きずるようにして兼寝室となってる浴室を出る。

 音が大きくなり、それが台所からだと気付く。

 

「うわっ、どうやったら火を小さくできるの!?」

 

 銀の鈴をまろばすような、甲高くも心地の良いはずの声が、警報ともいえる悲鳴を鳴らしている。

 

「何やってるんだか……」

 

 つぶやきながらも先の音の正体がわかった。

 何かを焼く音、そしてなぜか鍋の味噌汁がぐらぐらと沸騰している音だった。

 

「インデックス?」

 

 上条当麻の声に反応するのは、ほっそりと可憐な人影だ。

 今も濛々と沸き立つ湯気に溶けてしまいそうに白い少女が、居候となっている修道女。肌もそうだが、腰まである髪の色も薄い銀色で、清潔で真っ白な修道服に身を包む。知性の深みを表している双眸だけが、鮮やかな(みどり)色をしている。

 彼女がいなければ、自分の部屋にいるのは消去法でこの居候しかいない。

 インデックス。

 『魔導図書館』、<禁書目録(インデックス)>という一個の存在。

 “前の自分”が地獄から救ったであろう少女だ。

 

「とうま、ちょうどよかったんだよ!? どうやったら火を小さくできるの!? このままじゃ、しいかの料理が全部焦げちゃうよ!?」

 

「火をつけることができたのに、何で消せないんだよ」

 

 というか、それならまず鍋フライパンをコンロからどかせばいい話。コンロの使用法がわからずとも火から離せばいいのだ。

 まぁ、ただ単にパニックになってるだけだろう。

 インデックスを下がらせてから、当麻はコンロのつまみを操作して、火を小さくする

 幸い、食材の方も若干焦げているものの、全焼と呼べるほど丸焦げではない。その様子に、食に関する感謝が人一倍(どころで済まないほど)強い修道女は大きく胸を撫で下ろす。

 

「た、助かったかも……」

 

「ったく、悪意ゼロなのはわかってるが数日で家なき子になるつもりかこの居候シスターめ」

 

 言いながら、換気扇のスイッチを入れる。

 とたんに、キッチンに充満していた煙やら湯気が吸い取られていく。

 

「んで、なにやったんだ」

 

 寝起きで頭がぼーっとしてるせいか、漠然とした質問になってしまう。

 

「見てわからないの?」

 

「ほとんど調理済みの朝飯を温めようとしてるってことぐらいはわかる。

 でも、何でインデックスがそれをしてるのかってところが問題だ」

 

「む。シスターさんはご飯の支度くらいできるんだよ。なのに、私が台所に立つのって、そんなにおかしいかな?」

 

「ああ」

 

「あっさり言い切られたんだよ!?」

 

 確かに変じゃないとは思う。真っ白い修道服を着ている今の立ち姿は(彼女には悪いが)、本物のシスターのようである。

 が。

 ここ数日、生活を共にして、この修道女の生活能力がどうやら赤点ラインであることと、機械類を持たせるのが危険だということを当麻は学習した。

 できないことは人に好きなだけ頼ってもいいですよ、とどうにかして電チン(電子レンジでチン)を覚えさせようと現在難航している教育係は、そのあまりの相性の悪さにあまり複雑な作業はやらせたがらなかったくらい。

 

「もう、まいかが、女の子と料理と言ったら、切っても切り離せないものだぞーって言ってたのに。可愛い女の子の手料理って、少なくともあと数世紀は価値があるってことを、当麻は知らないのかな」

 

「味が伴ってさえいれば、まったくもって同感だ」

 

「うぐ……なんでとうまは本質を突くようなことを」

 

「ついでにいうとその手料理を台無しに仕掛けてたのはお前だからな」

 

「うぐぐ……だって、だって、起きたらとうまにやってもらえーってしいかに言われたんだけど、しいかの絶品料理を前にしてそんなの生殺しなんだよ!

 

「生焼けならとにかく、丸焦げになったら終わりだったぞ」

 

 指摘が的確であったのか、オーバーリアクションでうろたえる修道女は、頬を桜色に上気させて涙目でこちらを睨んでいる。きっと普段ならばそれに原因不明ながらもそのことに口を出すのがめちゃくちゃ癪な気分となっていたであろう。

 その存在が醸す神秘性の壁を幼い仕草が薄めたが、胸に湧き出す庇護欲はますます強烈になるというもの。

 が、あいにく、低血圧モードな上条当麻はそれを前にふわぁ~、と長いあくびを一噛み。

 

「ど、ドジもスパイスになるって聞いたんだよ」

 

「俺が食べるんじゃなければそれも結構だ。というか、その作ったやつはインデックスも食べるんだが」

 

 当麻は朝からげんなりした気持ちになる。

 といっても、本格的な調理はすでに終えていて、本当にあと数品温めるだけである。少しで丸焦げになっているのもあるが、夏場に熱処理をしっかりすることは大事だからそこはポジティブにとらえていこう。

 

「いいタイミングで目を覚ましたみたいだな」

 

 というか、生存本能のなせる業かもしれないが、腹痛で病院に担ぎ込まれる展開は避けたいところだ。

 

「むっ、とうまは何か私のことをバカにするようなこと、考えてるでしょ?」

 

「いんや、俺たちの健康にとって大切なことを考えていたんだ」

 

「それはバカにしてるってことと同じかも!?」

 

「いいかインデックス、命ってのは一つしかないんだ」

 

「う~」

 

 いや、そんな半泣きを通り越した顔をされても。

 このままだと恨まれる一方なので、何かフォローしないと……こんな時、上条当麻は思う。漠然と思う。“前なら”どうやって凌いだのだろう、という疑問を。その不自然ない受け答えはきっとこんな感じではないのかと。そう、教えてもらった“前の自分”なら―――これで合っているか?

 

 

 つい、と目配せだけでも周りを見てしまう。

 

 

「ま、とりあえず、手遅れってわけじゃない」

 

 ちゃっちゃと準備を済ませよう、とインデックスをリビングへ促し、代わりに自分がキッチンに立つ。

 背中を向けているのでこちらの顔を窺うことはできないだろうが、

 当麻は、表情には出さないよう内心で、自分で自分に落胆する。

 “目の前にいる少女は己を見てはいない”。彼女が安心して力を抜き切って、喜怒哀楽を表してくれるのは、記憶を失う前の上条当麻のためなのだから。

 辛いと言えば辛いが、それでも演じることをやめようとは思わない。

 ひとりでもやると決めていた。いや、自分以外を巻き込むべきではないだろうに。

 

 なのに、どうしても頼りにしてしまっていることを上条当麻は痛感した。

 

 

 

「ねえ、とうま?」

 

 あれから、当麻の部屋に居候しているインデックスは詩歌が用意してくれた朝食を食べながら、向かいで一緒に食べている当麻に話しかける。

 

「ん、なんだ、インデックス? 言っとくが、焦げてるのはなるべくこっちで引き受けたんだし、これ以上、おかずはあげねーぞ」

 

「そんなんじゃないよ!? 敬虔なシスターである私がとうまからおかずを取るわけないでしょ」

 

「だったら、現在進行形で侵攻してくる箸をどうにかしてくれ」

 

 そう言っているが、これまでにも当麻のおかずを食べた経歴がインデックスにはあるので、説得力はほとんどない。

 

「ねぇ、とうま。温かい食べ物は大切なんだよ。戦場において、兵士の士気を維持するのは温かいご飯なのは常識ってこととうまは知らないの」

 

「消しゴムみたいなレーションで日夜戦えと言われたらげんなりするだろうが、この平和な国で、それも荒事とは無縁そうなシスター様に言われてもなー」

 

「中でも、一日の最初の活力源となる朝ごはんは別格。うん、とっても大事」

 

「というか、食物をめぐって争いが起きそうなんですけど!?」

 

「だって……100年前から目玉焼きは目玉焼きとして完成していたはずなのに、しいかの料理は2、30年さらに先に進んでる感じなんだもん!! これって科学が進歩してるおかげなのかな、それともやっぱりしいかの腕が革新的にすごいのかなー!!」

 

 確かにこのホワイトではなくブラックホールなシスターが感激するほど美味しい。

 良い、ではなく、すこぶる良い。○、ではなく、◎。

 病院食が終わり、退院してからの一口目には不覚にも涙を流してしまったほどだ。

 彼女の手料理はとても、そう、感動するほどに美味しいものだというには、当麻も同感する。

 

「ご飯があれば何でも美味しくいただきますができる私だけどこれとそれとは話が別!! うん、世の真理は弱肉強食!!」

 

「いきなり野生の論理が出てきた!? ちょっとは自制してくれんかね敬虔なシスターさんっ!!」

 

「残念だけどまだ修行中の身なので指先ひとつまで完全なる聖人の振る舞いに御すことはまだまだ難しかったり難しくなかったり! 従って、私の箸が勝手に動いてしまうのも仕方ないんだよとうま!」

 

「仕方ないじゃねぇ!? 箸どころか全身でプレッシャーを向けてきてるじゃねぇか!!」

 

 と当麻が警戒しながら残り僅かなおかずをインデックスから遠ざけて一端は落ち着いたところで、当麻に質問する。

 目は当麻のおかずに向けられているままだが……

 

 

「しいかと喧嘩でもしたの?」

 

 

 当麻の箸が止まる。

 

「初めて会った時は、あんなに仲が良かった兄妹なのに、ギクシャクしてるんだよ」

 

 そう、インデックスも短いながらも感じ入るものがある。

 当麻と詩歌はあれから、距離的に傍にいても雰囲気が互いの事を避けあい、必要最低限の会話しかしてないようにも見えた。

 特に当麻は詩歌の方に視線を向けないようにしてるし、詩歌も家事やインデックスの相手をするとすぐに帰ってしまう。

 

「なんだか、昨日テレビで見た離婚間際の夫婦みたいなんだよ」

 

 当麻はインデックスの発言につっこみたい気がしたがスルーする。

 

「……喧嘩なんてしてねぇよ」

 

 喧嘩はしてない。

 そう喧嘩はしていない――喧嘩する事さえもできていない。

 ただ甘えて、守られている現状。

 碧翆の瞳に、先は見せずにいられたこの曇った表情が写ってしまう。

 

「その様子だと心当たりがあるみたいだね」

 

 インデックスは誤魔化しを見抜くと、当麻の僅かなおかずを奪い去る。

 

「俺のおかず!?」

 

「ほら、私がとうまの代わりに食べてあげるから、とうまはさっさとしいかと仲直りをするんだよ」

 

 インデックスは奪ったおかずを死守しながら、手で蠅を追い払うような仕草をする。

 

 ひょっとすると、無理ながら朝食の準備を試みたのも、そのことが気になったからか。すぐにでも、縁を戻さなければ手遅れになってしまうのだと危機感を覚えたのか。

 そんなことは言ってないし、訊いてないから、ただ単に美味しそうなご馳走を独り占めしたかっただけかもしれない。

 それともはっきり言葉にしてしまうのを躊躇っているのかもしれない。

 なんにせよ、

 

(喧嘩すらしてねーのに、仲直りなんてできるかよ……)

 

 当麻はインデックスに強引に促され(または追い出され)、部屋を出るところまではいけたが、その足は詩歌を捜す事ができない。

 

 怖い、のだ。

 本当の本当に怖い。

 きっと、誰よりも怖い。

 今もなお、あの時の、彼女の顔が思い浮かぶ。

 霧に覆われたようにおぼろげに映る少女の顔……

 心が彼女の顔を拒絶しているのだろうか。

 自分を責め立てる妹の顔を見たくない、と。

 もう、これ以上は傷つきたくない、と。

 また、相手に傷ついてほしくない、と。

 それはきっと向こうも同じ。

 だから、もうしばらく、そう、互いの心が冷えるまではこのままで……

 それが、いつになるのかは分からない。

 そして……元に戻るかは分からない。

 人間関係は食べ物のように温め続けたものと、冷えたものを温め直したものとでは味が違う。

 だから、冷え切った時にはもう……それはもう、前と同じものではないのだろう。

 でも、自分にはもう彼女と築き上げた思い出は失われた。

 

 いいや、『失った』という表現は間違っている。

 『失う』とは所有していたからこそ口にできる言葉だ。

 確かに、記憶は失った。だから、何も所有などしていないのだ。

 あったとしても、それは“前の”と頭に付く借り物である。

 今の、上条当麻の喪失感は幻。幻想だ。勝手な思い込みに過ぎない。

 

 『失った』というのなら、彼女の方がそうである。

 彼女は、兄を失ってしまった。

 絶対の理解者がいなくなってしまった。

 

 それでも、納得できない自分がいる。

 

 自分の望みはなんだ。

 家族としてやり直したい?

 話し合いたい?

 謝りたい?

 許されたい?

 それとも、兄妹と呼べる間柄に戻りたい?

 考えれば考えるほど深みに落ちていく。

 たとえそうだとしても、前と同じに戻ることなど叶わないのではないだろうか。

 だから、もう1度、リセットして新しい関係を―――

 

「別にそんな……」

 

 言えない。

 このままでも良いなんて言えない。

 リセットするなんてできない。

 冷え切るのを待つなんてできない。

 でも、怖い。

 

「くそっ……」

 

 そして、上条当麻は、彷徨える羊のようにあてもなく街の方へ向かった。

 結局、どうすれば良いかも結論が下せないまま……

 

 こんなとき、記憶を失う前の自分は何をするのかと考えながら……

 

 

常盤台寮 食堂

 

 

 広く荘厳な食堂の窓際の座席で、御坂美琴は考え事をしていた。

 

(詩歌さんの様子がおかしい)

 

 幻想御手事件から数日、幼馴染の様子がおかしい事に気づいている。

 だけど、あの人は表面上、いつものと変わらないように微笑んでいて、心の内を読ませるような人ではないので、誰も気づいてない。

 でも、自分には今にも“泣きそうな”感じがする。

 大切な何かを失って、悲しんでいるような……安易ながらもそんな風に裏の顔がすぐ思い浮かぶ。

 でも幼馴染は、妹分(わたし)には打ち明けてはくれないだろう。

 

 “泣きそうな”で、“泣いていない”。

 

 涙を流すことさえも禁じて、けして内にも出そうとすることをしないのだ。

 喜怒哀楽の感情豊かな幼馴染の、故に、一切感情を殺す術がどれだけ強固なものかを美琴はこの長い付き合いから知っている。なんとなくそう思ったからという生半な動機手段で崩せるものではない。

 そう、幼馴染は助けを求めればいつも手を差し伸べるけど、自分からは誰かに助けを呼ぶことしない。

 

(一体、だれが詩歌さんの悩みを聞けるかな……)

 

 そのとき御坂美琴の脳裏に浮かんだのは、“アイツ”だった。

 “アイツ”は、“一応”ではあるが幼馴染の兄だし、あまり認めたくはないのだが、どこか幼馴染と同じ感じもする。

 

(詩歌さんもアイツの事を頼りにしているようだったし……)

 

 妹分としては非常に悔しい思いだが、それは認めざるを得ない事実だ。

 そして、泣けるときに泣けないまま堪えさせるほど見過ごすことはやっぱり御坂美琴にはできないのだ。

 普段通りに振る舞えることができるからと言って、させてはいけない問題だ。

 

「みさかみさかー、しいかに会いに行くのかー?」

 

 美琴があの愚兄を捜しに出かけようとした時、常盤台の寮で実地訓練として働いている繚乱家政婦女学校所属のエリートメイド(見習い)の土御門舞夏が声をかけてきた。

 

「いや、違うわよ。詩歌さんに何か用でもあるの? あと、土御門、一応アンタはメイドさん見習いなんだからタメ口はまずいでしょ?」

 

「みさかみさかー、もししいかにあったら、この本を渡しておいてくれー。中身は絶対に見ちゃ駄目だぞー」

 

 舞夏は美琴に表紙が見えないようにカバーされている本を渡すと、仕事へ戻っていった。

 で。

 美琴は文句を言いながらも、舞夏が去ったのを確認すると本の中身をこっそりと見る。

 

(見ては駄目と言われると、見たくなるのよね。……詩歌さんが何を読んでいるのか気になるし……)

 

 美琴が好奇心を抑えきれず、適当に中の描写を見ると、兄妹同士の濡れ場だった。

 そう、舞夏から手渡されたのは、兄妹ものの18禁本だった。

 

(な、なによこれ!? も、もしかして、詩歌さんってこういうの読むの……!?!?!?)

 

 美琴はしばらく頭がショートしてしまい、机に倒れ伏してしまった。

 

 

公園

 

 

「ん?」

 

 上条詩歌は立ち止まるとある方向――常盤台の寮がある方を向く。

 

「舞夏さんにお仕置きをしなければいけない気がする。……ついでに美琴さんにも」

 

 恐るべき勘は、まさにその場にいるかの如くの精度を誇る。

 でも、その場にいなければ当然手が届くわけでもなく、念だけを飛ばしても悪寒を震わすだけだ。余計な警戒を持たせるだけだろう。

 それに、虫の予感だけで今やるべきことをそう簡単に投げ出してしまうような性格を詩歌はしていない。

 

「詩歌さん、どうしたんですか?」

 

 佐天涙子は急に止まった詩歌の事を心配する。

 それに意識を戻した詩歌は背後から抱くように後輩の肩に両手を添え、彼女が伸ばしている手の先を視る。

 

「いえ、なんでもありませんよ、佐天さん。そのまま、手元に力を集中してください。

 あなたの能力の本質は空を掴むこと。もう一つの手であるそれで今掴めている感覚は霞に触れているようなもの。でも、その力がある、その手があることに変わりはない。それが形に見えずとも、それをすでに実感している。そう、水蒸気は肌に感じられる。それが水となればより触れられるように、そして、氷となれば掴めるように。今のあなたは手助けなしでも感じる段階まで進んでいます。だから、今度は静めて、空を握ればその手の中に固めていくことを意識する」

 

 それは、アスリートに助言するインストラクターのようなものだったろうか。

 だが、観念的なものだけにとどまるわけではない。

 握り締められた手首から全く別のものが伝わってくることに気づく。あの日あの時、“初めて自分の能力を引き上げられた”のと同じ感覚(もの)

 

 事実を知り、それを理解したとき、佐天涙子は戦慄した。

 ある程度以上、能力強度(レベル)が高位の能力者になるほど、その<自分だけの現実>という我の強さは頑固となっているという。実際、現在この学園都市の最高位たる超能力者のほとんどが性格破綻者集団というのは個性と能力が比例していることの証左となるのではないか。

 しかし彼女の今行っている佐天涙子の<自分だけの現実(パーソナルリアリティ)>の接触は、彼女自身の<自分だけの現実>を己に近づけていくものだ。つまり、幻想御手事件の木山の逆。そして、あまりに深く干渉してしまえば、反比例に彼女の自我を薄めてしまうという無私。ホストである木山の脳波パターンに合わせてしまったことが原因で数多くの使用者が昏倒してしまったような事態から考慮すれば、これは毒薬を飲ませているのも同じ行為だった。

 とはいえ、

 

『佐天さんの心配は、半分は正解です。

 確かに、先生にもあまりに過度な投影は禁止するよう言われていますが、ある程度は日課にしておくようにと言われてるんです。詩歌さんにとってこれは体質のようなもの。絶対に避けようのないもので、慣れていなくてはいけない。じゃないと、世俗から隔離せざるを得ませんから。

 まあ、お酒と同じですね。悪酔いにならないようにするには、禁酒するのではなく、ちょこっとでも毎日飲み続けて慣らすことが大事なんです。

 それにアルコールは一種の毒とも言えますが、酒は百薬の長だと昔の人は言います。詩歌さんも全くしないと人肌恋しさに寂しくなってしまいます』

 

 なんて、別に心配しなくてもいいと言われている。

 ついでに(これは言われてないが)、超能力者ならとにかくまだ無能力者から上がりたての低能力者にそこまで強い(どく)はないのだから、ほとんど水のようなものである。

 それこそかの第三位の超能力者と幼馴染で、Level1のころから付き合ってきたのだから(はなは)だ杞憂というものだろう。

 でも、彼女だけが代償を払っていることは確か。本来なら自分が払うべきなのに……

 

「こら、佐天さん、集中が切れてますっ。余計なことを考えず目の前のことだけを考えなさい」

 

「はい……っ」

 

 それに佐天は、拒めなかった。

 眼前の鏡に自身の理想的なフォームが映し出されているように。全く同質のAIM拡散力場から流れ込むままに自身の内側のイメージが変容していくのが、はたで見ている自分にもわかった。これまでその崖のような高さに踏み止まっていた自分には進めなかった。だが、今、エレベータやエスカレーターに乗っているのではなく、手を引かれながらも一段一段自分の足で上に登って行くように、ひどく自然で穏やかに成長している心地のいい実感に佐天は胸を打ってる。

 ぎゅるん、と力場がまた一段階が回ったように思えた。

 彼女の投影に誘導され、佐天の手中に集中している渦潮の如き力場が今までよりもう一つ螺旋を増やし、再加速するイメージ。

 そして、そのときにはもう歩みは、手放してもひとりで走り出すスピードに勢いが乗っていた。

 

 

 

「では、先のイメージを忘れないよう反復してくださいね」

 

 しばらくして、その言伝が遅れて脳に聞こえたように思い出した。

 いつ佐天の肩から手が離されているのか、夢中になっていたので気づけなかったが、インストラクターはすでに“別の人”の背後に回っていた。

 

「アケミさんはもう少し、自信を持ってください。

 一度でも動かせたあなたは、もう一つの手にすでに神経が通っている。今はまだ念力の発動が不安定なのは考え方ができていないだけ。それができれば後は意識せずとも能力を使えるようになります。大丈夫です。箸の持ち方を思い浮かべてみてください。アケミさんにとっては箸の持ち方なんてなんてことのないように思えるかもしれませんけど、ただの二本の棒を片手で扱い、五指を動かして物を摘まむのは結構難しいことです。これは外国の女の子の話ですが、最初はなかなか箸をうまく操ることはできませんでした。スプーンですくい、フォークで刺し、ナイフで切ることはできたのに、お箸はその箸先にまで神経まで通ってようやく豆粒を摘まむことができる。でも、呼吸と同じで、その箸捌きをあなたは難なくできるでしょう?」

 

 現在。

 上条詩歌は今、佐天涙子―――と、その友達のアケミ、むーちゃん、マコチンの能力開発に付き合っていた。

 これは佐天が、アケミが退院した後、友人3人を詩歌との『能力開発』へ誘った。

 友達にも、自分と同じように成長してほしいからだ。

 詩歌への負担も懸念したが、それもその当人にあっさりと大丈夫問題ないと言われてしまう。

 詩歌も、成長に苦しむ人の手助けをしたい、また幻想御手事件の被害者の容体経過に直に触れて確かめてみたいという考えもあって、自身の<幻想投影>は秘密にすることを条件に了承した。

 

「詩歌さん、すごいです。こんな風に力が使えるなんて思いもしませんでした」

 

「はい、私に力があったなんて……」

 

 アケミの視線の先にあるお手玉が、ふよふよ、と時折風に揺れながらも浮いている。

 手も触れずに(喩話からの連想で意識しているのか親指人差し指の手つきが摘まむようなフォームを取っている)、彼女の能力念動力を働かせているのだ。

 それもこの状態をすでに3分以上は保っている。

 <幻想御手>着用以来、初めてできた能力で。

 そのことを知り、また“実感”しているむーちゃんとマコチン友人二人がアケミの背後で頷いてる詩歌の事を尊敬のまなざしで見ていた。

 

「いいえ、まだ使い方を覚えただけで満足してはいけません。

 スポーツとバレエは別物。スポーツの例えで言うなら、高く跳ぶ脚力や体のキープ力はそれだけで人を魅了するものがあるのでしょうが、そこからさらにバレリーナのように『美しく舞う』というのは根本的に別となるでしょう。

 高く跳べばいいというのではなく、指先から足先にまで神経を使う繊細な感性が必要となってきます。同じ脚力やキープ力であっても、そこを細やかに意識できるかで差が出てくるのです。

 だから、もっと意識して。

 あなたには能力という跳べる脚力とキープ力があることは確認できたんですから、使い方を覚えた次は魅せられるように、もっと上手く―――」

 

「―――はいっ!」

 

 浮いたひとつのお手玉が、ふたつに増え、次はよっつ、さらにやっつと倍々に数を加算させて、最後はアケミ自身も宙に浮きながらお手玉をジャグリングというか、衛星のように自身の周囲に回していた。

 

「<幻想御手>を使ってた時みたいに、ううん、それ以上に上手くなってる! また能力が使えるなんて夢みたいだ!」

 

 佐天からの紹介とはいえ、3人は最初半信半疑であった。

 しかしまず佐天を指導する様子を見せてから、それぞれ3人の能力を見て、その<幻想投影>で同調しながら、能力の使い方を教えているうちに完全な信頼を寄せて、今や尊敬するまでとなっている。

 

「だから、言ったでしょ。この詩歌大明神様に教われば、力が使えるようになるって」

 

「ふふふ、そんな大したことはしてませんよ。能力はもう一つの手のようなもの。私はただ、皆さんにもう一つの手の場所と使い方と後は少々のコツを気付かせてあげただけです」

 

 謙遜しているが、はっきりいって教師でもそう簡単に『無能(Level0)』の烙印を押されている学生に能力の感覚を教えることはできないだろう。

 彼らは教師であり研究者ではあるが、能力者ではない。プロのアスリートにならずともコーチができるが、それでは経験を教えることは難しいだろう。

 また、これまでの実歴から得られた―――

 

「では、佐天さんには、この前、同系統の能力者の生きた知識として詩歌さんがまとめた、婚后光子さん自身にも所感を書いてもらったレポートを渡しましたが、念動力に関しては、この切斑芽美さんのレポートを参考にするといいでしょう。彼女の能力開発に付き合いましたが、あなたに近しい、優れた見本です。

 もちろん、他の皆さんにも用意しますので、帰ったらそれを是非参考にしてみてください」

 

 完成された論文は、読んでいる人間にある種の感銘を与えるものだ。例えるなら、部屋の中央に山のように積まれた荷物が、隅の小さな箪笥に残らず収納された時のような感覚だ。そうか、そのように詰め込める手があったのか、と思わず言ってしまうような。

 そして、その文章に『可能性』というのが上乗せされるのなら、ますますのめり込ませる。とにかく能力を使えるようになることから先のステップを目指すとして、それがより目的目標のイメージを確固たるものにするのだ。図書館の司書が、最も今必要とされる書物を読者に紹介するように、上条詩歌は先達者の有り様をみせる。

 

 数多の能力の経験をもった投影能力と数多の能力者を指導したというマネジメント力があるからこそ、『灰かぶり』を『お姫様(シンデレラ)』にする魔法使い。

 

「本当にありがとうございます! 詩歌さん、いや、詩歌先生っ!」

 

「「ありがとうございます、詩歌先生」」

 

「そんな、先生だなんて……」

 

 3人が一斉に礼をされて、苦笑する。

 そんな詩歌に代わってそれを我がことのように自慢する佐天は人差し指をぴんっと立てて、

 

「詩歌先生は、いつか教師になるのが夢なんだよ」

 

 今やここにいるみんなにとっては先生も同然。

 先輩だと本人は言うつもりなのだろうが、そうはさせじと佐天は詩歌が友達に尊敬されるのを見てますます調子に乗り、周りもそれに合わせていく。

 

「そうなんですか。絶対にいい先生になりますよ。だって、私達に能力について教えるなんて、学校の先生でもできなかったし」

 

「ふふふ、ありがとうございます」

 

「あ、そういえば、詩歌先生が教師になろうとしたきっかけってなんですか?」

 

 佐天がふと詩歌に質問する。

 

「うーん……少し長くなりますが、いいですか?」

 

「なんですか? 気になります、詩歌先生」

 

 4人の中で『先生』という言葉が板に付いてしまった詩歌の言葉に彼女たちはすぐに清聴の状態になる。

 それを見て、押入れの奥にあったアルバムを開くように懐かしみながら思い出す。

 

「それは、まだ私が学園都市に来てもうすぐ1年になる頃、私が初めて一人でおつかいに言った時の事です」

 

 ちょうどこの公園の景色と重なる。その景色と共に、忘れようもない思い出として、自らの記憶に仕舞い込まれた、

 そう、あの白い少年の出会いを―――詩歌は今も覚えている。

 

「私は道に迷ってしまい、あてもなく自分の寮を探していた時、一人で公園にいる白い髪の男の子に出会いました。

 公園には大勢の子供達がいるのに、その子は何もせず、ただ遊んでいる子達を羨むような目で見ていました。私は、その男の子が寂しそうに見えたので、話しかけたのですが無視して、どこかに行こうとしてしまいます」

 

「それでどうしたんですか」

 

「ふふふ、そのときの私は一人で買い物もできなくて、意地になっていたのかもしれません。その子が逃げるのを止めるまで、しつこいくらい追いかけます。しかし、今度はその子は能力を使って私に触れさせません。……でも、私は秘密の力で悪戯をして、その子の肩を掴む事ができました。……痛い思いはしましたが」

 

「秘密の力ってなんですか?」

 

「ああ、それは<幻――――」

 

 つい、言いそうになった佐天は自分にしか見えないようにして作られる右拳を見て、強引に言葉を飲み込む。

 その微笑みからは『話したら記憶を飛ばす』と読める事ができた。佐天はおとなしく引っ込む。

 

「それは、内緒です。もう少し、仲良くなったら教えてあげます」

 

 3人は気になるのか、少し駄々を捏ねるが、詩歌の微笑みの質が有無を言わさないものになったので押し黙る。それを見てから、詩歌は再び語りだす。

 

「話を戻しますね。……そしたらその子は驚いた顔をして、なんか一人で騒ぎ出しましたので、私は強引に黙らせます。……触るときに痛い思いもしましたしね。今思えば若気の至りです」

 

 詩歌はしみじみと右手を見る。

 

「そして、色々とお話をしますが、その子は何も答えてくれません。なので、私はその子の能力の使い方を一緒に考えることを提案しました。能力について悩んでいるようでしたしね。そしたら、その子は誇りが傷ついたのか、自身の能力名でしたかを叫びます。確か……」

 

 思い出せないが、ある呼び名が脳裏をよぎった。

 

 ―――『<■■■■>っていう能力名だから“あー君”って名付けました』

 

 なんて安直なネーミングセンスだと自分で自分に詩歌は笑ってしまう。

 

『でも、それで私はその子にちょっとしたあだ名で呼ぶようになったと思います。それでまあ、それが気に食わないのかあまりにうるさいので、もう一度悪戯して黙らせましたけど」

 

 詩歌さん……常盤台に入る前から、こんな感じだったんだ……

 超能力者第三位でもその拳骨の前には沈黙を選ばざるを得ないことは佐天も身に染みて実感しているが、それが昔からとはさすがに苦笑いである。

 

「そして、一緒に考え――――いえ、能力で遊んだんでしょうね。彼の能力はすごいものでしたから……幼い頃の私はそれに夢中で、すっかり迷子になったことを忘れてしまいました」

 

 ―――『本当にすごい能力です』

 

 他の誰でもない。

 自分自身の告げた言葉。

 自分自身が、この肌で覚えた感想。

 

 詩歌の瞼が、意識なく下りた。

 

 記憶が、明滅する。

 水底から浮上するような感覚。それとともに、彼女は記憶の底のエピソードを引っ張り上がっていく。

 引っ張り上げていく。

 淡い光とともに―――景色はより鮮明にそれを見せた。

 

「ええ、きっと楽しかったのは彼も。今のあなたたちみたいに。そのときの表情を見て、私は先生になろうって、その子のように、たくさんの人に自分の能力で楽しませるようにしたい、と思ったんですよ」

 

 この力が恐ろしいと。

 最初は、破滅をもたらし周囲に害しか及ぼさない疫病神だと諦めかけていたその表情が、単純に嫌だった、という気持ちよりも、

 もっと強い気持ちから口を動かした、幼い上条詩歌が抱いた想い、純粋で無垢な願いのカタチを我儘な戯言と処理するのではなく、白い少年はきちんと聞き届けてくれた。

 

 言葉としての返答はなかったが、それまでと変わったその顔が何よりの返事だった。

 ……そう、それがあまりにも嬉しそうだったから。

 まるで祝福されたのは彼ではなく、自分の方ではなかったかと思ったほど。

 

「そのあと、互いに迎えの人が来てお別れになり、それ以来会っていません。彼は今頃何をしているでしょうね? 私はそのときの事が今でも印象に残っています」

 

 これがきっかけです、と詩歌は昔話を終わりにする。

 あんな、これ以上にないという笑顔を見せられては、きっとこの行為はずっとやめられなくなるだろう。

 なんて、感慨ふけっていたのを別の意味で捉えられてしまった。

 

「あ、もしかして、その子って、詩歌さんの初恋の人ですか?」

 

 佐天が詩歌の話しが終わると茶化すように質問する。

 女子学生にとってこの手の話は気になるというもの……だが、それはすぐ当人に慌てることなくあっさり消化される。

 

「いえ、違いますよ。そのときには詩歌さんは初恋を体験済みでした……そのときには……――はい、休憩は終わりです。もう少し頑張りましょう」

 

「「「「はい」」」」

 

 そのとき、一瞬、笑みに影を差すが、誰も気づかなかった。

 すぐに取り繕われ、促されるように各自『能力開発』に意識を集中させていく。

 

 

 

 己が進むと決めた過去を思い出した。

 それがきっと正しいものなんだと信じてる。

 今もきっと。

 それなのに、どうしてあの人を救うことは自分にはできないのだろう。

 

 

常盤台の寮附近

 

 

 帰ってきて荷物整理してる最中に見つけた、部屋に置いてあったアルバム。

 きっと過去の自分が写ってるものだろう。父母家族の顔や幼いころがどうだったかをそれでおおよそながらもわかった。

 

 そして、そのアルバムの途中のページに挟まれた一枚の絵。

 

 写真ではなく、画用紙に描かれていたのは、異様な美しさを持つ抽象画だ。

 鮮やかな虹色の空から、無数の花たちが降り注いでくるようにも、ユーモラスな動物たちが笑いかけてくるようにも見える。

 美術芸術に全く無関心な人間でも、この絵には心を揺さぶらずにいられないだろう。それほどまでに強烈な印象がそこには籠ってる。そこに描かれていたものは、人々が誰も目にしたことないほどの圧倒的に優しく純粋な世界なのだ。

 たぶん、それは彼女が初めて『愚兄』に贈ってくれたものなのだろう。そのページに貼られたバースデーケーキの蝋燭を吹くところの写真からそれを察する。

 自分が見ている、見てみたい世界は、こんな風なのだと伝えたかったのだ。そして昔々に受け取ったそれをアルバムに挟んで取っておくことは、大事だったのだ。

 

 

 

 実際、世界は光に満ちている。

 滾り落ちるというにふさわしい、夏始まりの暑気との開戦を告げる陽光だ。そして、それを浴びて反射してくる建物の格式の高さには、見るものを白く焼き尽くして、傲慢なほどの光の圧にひしがせてしまうものでもあるのだろうか。

 オカすべからず、聖域の如くに。

 

「一体、どうすればいいんだ……?」

 

 昼前。

 学園都市・第7学区、常盤台中学。

 そこに通う優等なお嬢様が住まう、<学舎の園>の外にある方の学生寮。

 当麻の寮とはあらゆる面で格が違う。寮の管理人がいて、セキュリティは鉄壁。内装設備もこの上なく整えられていて、メイドさんもいるらしいとそのメイド見習いから話を聞いている。

 

 何をしたらいいか悩みながらも、足は勝手に進んでしまうものらしい。

 けれど、さすがにこれ以上の立ち入りが難しいところでは本能察知の自動ブレーキが作動する。

 上条当麻はやってきたのは、寮の前で、あと数歩近づけば目をつけられるラインで踏み止まっている。

 ひょっとするとここの寮の管理人とは顔見知りで寮の学生と身内であることを話せばどうにかなるかとも考えたが、メイド見習い曰く、そんな甘い考えはここの寮の管理人には一切通じない。寮の管理人という単語に憧れを持つ青少年の幻想を裏切るように恐ろしいものなのだと。

 というわけで、寮の前で右往左往している。と、

 

「いたいたいたいたようやく見つけたわよ!」

 

「っ―――」

 

 びくりと肩を震わせて、当麻が声の方へ向く。

 まさか、恐ろしい管理人様か―――いや、こちらへ走ってくる女子生徒。その服装は、この学生寮に住まうお嬢様のもので―――でも、髪の色は茶色に近く、腰ほどの長さはない。

 間違い探しな確認作業してる前に、ちょこなんと目の前に立ちはだかったのは、同じ常盤台中学の制服を着た少女―――

 

 年の頃は十三、四歳といったところ。勝気そうな瞳に引き結ばれた唇。可憐な制服に身を包まれたのは、居候ほど幼くはないけれど、大人へ移る前の未成熟な肢体。今でも十分に美しいが、花開くにはまだいくばくかの時間が必要だろう。

 しかし、年齢には関わりない、類い稀なる存在感が少女にはあった。

 凛として人を惹きつける資質(カリスマ)

 が……

 

「……あ! あー、えーっと、んー………なんだコイツ?」

 

 つい、と疑問符が口に出てしまう。

 突然の登場に誰しも戸惑うもの。

 向こうは知っていても―――今の当麻にしてみれば初対面なのも同然。もしかすれば、ただ馴れ馴れしい赤の他人ということも考慮に入れなければならない。

 いや、知人関係はある程度は彼女から教えてもらっているのだが、他人と知り合いの線引きは難しい。どこまで踏み込んでいいのかわからないし、すぐに教わった対応を思い出せるほど当麻の脳は高性能ではない。

 まあ、お嬢様学校の生徒なのだから、少しくらいボケても笑って流してくれるだろうという考えもあった。

 なのだが、いつものように相手にされてないと勘違いしたのか、少女のプライドを刺激した。

 

「わっ、たしっ、にはー――」

 

 一声一声ごとに大きくなる不気味な音を立てて、比例して周囲が段々と強く帯電し始める。

 あれ? そこの学生はお嬢様って評判なんだよな?

 なのに、当麻は猛獣の尾を踏んでしまったかのような錯覚を覚えるのは何故か。

 

「御坂美琴って名前があるっつってんでしょーがァァッ!! いい加減に覚えなさいよ、バカァ!!」

 

「おわっ」

 

 怒号を上げる少女が、ヤバい冗談通じない人だ!? と今更気づく。

 少女の額から角が生えるように青白い電撃の槍、そんなまともに食らえば丸焦げなそれを、当麻は咄嗟に反応した右手で防ぐ。

 目の前をよぎる羽虫を振り払うように、裏拳気味に右手を横薙ぎ。

 それだけで10億Vに達する高圧電流の槍はあっさりと霧散してしまう。

 <幻想殺し(イマジンブレイカ―)>。

 この右手に宿るのは、たとえ神様が相手だろうと、『異能』に対して、触れただけで打ち消してしまう天敵なチカラ。

 で、当麻は電撃を警戒して落ち着かないのだが、一発発散したビリビリ少女――御坂美琴は溜飲を下げて落ち着いたもようで、

 

「全く……アンタはいつもいつも私のこと馬鹿にして……」

 

 溜息混じりに当麻を見上げる姿が堂に入っている。

 恐れ多くも『上条当麻』の知人として接してきた経歴を示す仕草だ。

 最初から直感はしていたが。

 目で見て反応していれば絶対に間に合わない光の速度を、それも触れたら大怪我では済まない電撃に対し、条件反射に対応できた。今の上条当麻は『記憶』はなくしても、『知識』は持っている状態だ。きっとその攻撃は、体が学習してしまうくらい何度も受けたことがあり、つまり、彼女とは顔見知りは済ませた知人であることは間違いないのだ。

 このお嬢様?も自分がまた難なく防げるとわかっているから躊躇なくはなったのだろうと信じたい。じゃないとこの子が八つ当たりに殺人級のキャッチボールをしてしまう危険人物となってしまう。流石に『上条当麻』の知人がそうだとは思いたくない。何にしても、これからも当麻にとっては情状酌量の余地なく殺人未遂を仕掛けられていくだろうは予想がつくのだが。

 だから、この御坂美琴も上条当麻ではない『上条当麻』を見ているのは間違いなく。

 

 ちくり、と胸の奥で、微かな痛みが疼いた。

 

 多くの人を騙してる罪悪感―――などではない。

 そんなことを後ろめたく思う精神(こころ)がないわけではないが、それにはもう蹴りをつけたことだ。

 だから。

 理由はきっと、もっと単純なこと。

 あるいは、些細な一言だったかもしれない。

 

 ―――『ウソつき』

 

 そう言って、無表情に泣いた一人の少女。

 ただひとりだけ『上条当麻』を悼んでいて、上条当麻を見ている―――そして、誰よりも報われることのない。

 

「まあ、いいわ。今日はアンタに頼みごとがあるの? 聞いてくれる?」

 

 先ほどの電撃があるので、当麻は素直に頷く。

 

「実はね、最近、詩歌さんの様子がおかしいの」

 

 その言葉に、当麻は注意しても少し見開いてしまうくらい内心驚いた。

 連鎖的に推理できることで、常盤台中学の制服を着た『上条当麻』の知り合いなのだから、彼女とも付き合いがあることは驚くほどでもない。ただ、上条当麻よりも上手く、いつもどおりを演じていられるそれを直感ながら見抜いているのは、相当親しい間柄でもないと無理だろう。

 

(ああ、そういや幼馴染だったけか)

 

 ここにきてようやく、『御坂美琴』が何者なのかを思い出す。

 ならば、彼女の幼馴染が『上条当麻』にいったいどんな用事があるのか……それは考えなくても、どうにもならない不甲斐なさを噛み締めてる表情から察することができた。

 

「だから、相談に乗ってあげて欲しいの……私には相談してくれないだろうしね。アンタ、一応、詩歌さんの兄でしょう?」

 

 御坂美琴にも矜持がある。いや、これまでのやり取りからその誇りが高いことがわかる。しかしそれが『兄』というだけで矜持を折って、真剣に彼女のためを考えて託す。

 当麻はそれを了承する事ができない。

 未だに、『兄』と名乗れる自信がないから。

 ああ、ここで『兄』じゃないと言えたらどんなに楽だろうか。

 自分よりも、この子の方が相応しいのではないかと考えてしまう。

 

 のに、御坂美琴の頼みを断ることもできなかった。

 

「……………詩、歌は」

 

 思うだけでも避けていたその名を口にするだけで、どれだけの溜めが必要なんだ。

 情けない。

 のに、上条当麻は恥の上塗りを承知で言葉を続けた。

 

「詩歌ってどんな奴なんだ?」

 

 少しでも『上条詩歌』について情報を集めることにした。

 『兄』になるため、必要だと考えた。

 それも、最低限この目の前の少女についてこられるくらいに知っていなければ、ダメだ。

 御坂美琴は、当麻も異変に感づいていることを前提で話している。つまりは、『上条当麻』は、この誇り高い少女が悔しくても頭を下げさせるほど信を買えた存在だったのだから。

 

「はあ? 兄であるアンタの方が知ってるんじゃない?」

 

「んーっとあれだ、兄の視点以外での意見だ。ほら、兄としてアイツが周りからどう思われてるかが気になってな」

 

 えーい強引に押し切ってしまえー、と当麻は何とか誤魔化しながら、『上条詩歌』の事を聞き出そうとする。

 美琴は訝しみながらも、

 

「別にいいわよ。詩歌さんは――――」

 

 

 

 当麻は美琴の口から語られる『上条詩歌』の話をじっと聞く。

 他人を見捨てる事ができず、いつも誰かを助けていること。

 何もしなくても自然と人が集まり、誰からも頼りにされていること。

 そして、美琴にとっては、昔からずっと支えてきてくれた頼りになる人であること。

 

「―――ってところかしらね。詩歌さんは私にとって本当にお――頼れる人よ」

 

 ふーッと鼻息も荒く、途中から本人は気づいてないようだったが身振りをつけて力説する妹分な幼馴染。最初は落ち着いて済ました印象を持っていたが、単純に反抗期っぽい感じで素直になれないアレなのだと当麻は理解。

 まあ、お嬢様というより、年相応な、それも背伸びをしたがるお年頃の女の子と変わらないようだ。

 とかく、超能力者の第三位と言われるこの能力者たちの頂点の一人の―――御坂美琴という少女の自慢げな表情を見れば、『上条詩歌』が彼女にとっての理解者(ヒーロー)ということは伝わってくる。そういう意味では、当麻は美琴の同士なのかもしれない。

 とりあえず、主張もとい話は終わったので、当麻も一言でも感想を述べなければ、

 

「なるほど、そんなに好きなら、お姉ちゃんって言いたくなるのも納得ですねー」

 

 太陽の熱の暑さのせいではなく、一瞬で顔が朱に染まるのがよくわかった。

 

「聴いた感想がまずそれ……!? っつか微笑ましい目で見んなバカっ!」

 

「いえいえ、無理しなくていいんでせうよ? 当麻さん、ちゃんとわかってますって。あれだろ? 幼稚園の頃は大事な人形の腕が取れ掛けて泣いてたらお医者さんごっこって直してくれたり、小学校の演劇会で張り切って用意してくれたフリフリな衣装を着ていって一人だけ目立っちゃったのが気まずくてでもそれが可愛いと褒められたのが嬉しかったとか」

 

「なっ……なんでそのこと知ってんのよ!?」

 

「いやー、適当に姉妹のほっこりするエピソードのベタなところを述べてみただけなんだが」

 

「ぐっ……別に今はそうでもないし、昔はどうだか知らないけど………!」

 

 美琴は真っ赤な顔をうつむかせて、握り締めてる拳をぶるぶる震わせていた。どうも理解力があることを示したつもりなのだが、逆効果だった。

 いかん、地雷を踏んだか……と肝を冷やしつつ、当麻は速やかに話題を変える。

 何より聞きたい本命に。今なら勢いで誤魔化せるだろうから、

 

 

「それで……詩歌と俺は傍から見たらどんな兄妹だった?」

 

 

 これが上条当麻にとって、一番聞きたかった質問だ。

 

「そんなこと言われても、私も最近アンタと会ったばかりだからあんまり言えないけど……」

 

 美琴は少し困るが、こちらの真剣な表情を見て自分の意見を述べる。

 

「互いに互いの事を想い合っている良い兄妹だったと思うわよ。詩歌さんは、アンタのこと本当に頼りになる兄だと考えてたと思う。そのことは絶対に間違いない」

 

 あの<幻想御手>が起こした連続虚空爆破事件。

 幼馴染は応援にまず真っ先にコイツを寄越した。

 それはきっと、爆発があっても彼が守ってくれると信じていたからだろう。

 実際、皆の盾となり、美琴では対応できなかった事態に犠牲者をゼロに済ますことができた。

 そこで、御坂美琴は言葉を切ると頭を下げた。

 

「だから……アンタになら、詩歌さん、相談できると思うの。だから、お願い……悔しいけど、妹分の私にはできない事だから……」

 

 頭を、下げた。

 まさに天地が引っくり返るような光景だ。この街の底辺の無能力者にこの街の頂点たる超能力者が。いいや、この誇り高い少女が、こんな真似をする必要なんてなかった。

 前はだとか今はだとか、相応しいとかそうでないかとか、こだわっていたのは自分だけで、それが一体どれほどくだらないかをバカにも理解させられる。

 だから、

 

()()

 

 と、当麻は美琴の前に膝を突き、目線を合わせた。それが真剣に相手と向き合う最低限の礼儀だと思った。

 

「これは、“俺の役目”だ」

 

 少年はここで宣誓する。

 後ろばかりを振り返っていたあの日から、真っ直ぐ前を見れるようになったのは、初めてのことかもしれなかった。

 

「ようやく……する覚悟が決まった」

 

 当麻はふいと彼女の手を取った。約束に小指を交わすように、もしくはこの少女の勇気を少しでも見習えるように。

 美琴は、瞬きした。

 

「……え? ちょっと―――」

 

 それから出し抜けに手を握られて、美琴は顔をしかめて抗議しようとした。けれど、その顔を見て、口をつぐむ。これから口にする彼の言葉を邪魔してはならないと不思議とそう思った。

 

「ったく、喧嘩するとか仲直りするとか以前だ。……大事な覚悟を、俺が決められてなかっただけだ」

 

「覚……悟?」

 

 上条当麻は思わず笑みを浮かべる。

 そうだ。

 覚悟さえあれば、己が選んだ道に最初の一歩を踏み出せたのだ。

 そもそも自分が恐れていたことだって、今にしてみれば明白だった。馬鹿馬鹿しいぐらいにはっきりと、今の当麻は自分の気持ちを認識していた。

 心の中に残るあのおぼろげな影―――

 テメェの目でよく見ろ。

 それは本当に彼女の泣き顔だったのか!

 本当に俺は彼女の泣き顔しか覚えていないのか!

 違うだろ!!

 怖いとか言ってねぇで心を凝らしてよく見るんだ!

 忘れたなんて言い訳は死んでも許さない!

 俺が忘れたくなかったのは!

 守りたかった幻想は!!

 

 ―――『当麻さん』

 

 霧が晴れる。

 迷いの、停滞の、恐怖の、悲嘆の、諦観の、幻想が霧散する。

 ああ、そうだ。

 その先にあったのは、間違いなく上条詩歌の笑顔だった。

 心に染みわたるあの“温もり”。

 純粋な“幸せ”の香り。

 “慈愛”に満ちた心。

 それらが当麻の心を刺激し、思考から余計なものを取り払い気付かせる。

 当たり前の事を気付かせる。

 今、当麻は距離を取っていた。妹も当麻を避けている。

 互いに冷静になるまでなろうと。

 当麻もその意思を汲み取り、その通りにしようと思った。

 でもそれでは、あの微笑みはどうなる?

 幻想にしてしまっても良いのか?

 

(―――んなの、絶対に駄目に決まってんだろっ!!!)

 

 この曖昧な状況に、当麻は、きちんと決着をつける。

 絶対に皆が笑って終えられるように。

 

「いい加減に離しなさい……よ!」

 

 ふんぬ! と、これ以上“なんだか見てられなくなった”表情から逃れるよう自分の手を取り返し、美琴は後ずさって距離を取る。

 

「ありがとな、御坂」

 

 当麻の瞳に迷いはなく―――逆に美琴はその視線からそらしてしまう。

 

「わりぃな、不甲斐ない兄で……でも安心しな。俺が、兄として妹の悩みは絶対に解決してみせる。なにがあってもな」

 

 上条当麻はもう迷わない。

 今も泣いている詩歌を助けることを。

 

 

 

「詩歌とお前の悩みはお前達の兄である俺に任せとけ。だから、御坂は安心してな」

 

 そういって、上条当麻は走り出した。

 今もきっと救いを求めてるであろう幼馴染の元に。

 

「ふんっ、ばっかじゃない。……何が兄としてよ。アンタなんて兄と認める訳ないでしょ……でも」

 

 でも、美琴は走り出した当麻に、説明ができないけれど詩歌と同じくらいの頼もしさを感じ、その様子はどこか嬉しそうだった。

 

「あ、そういえば、アイツに詩歌さんと……へ、変なことしてないか、聞くの忘れちゃった……つーか、これどうしよう」

 

 そこで、美琴は一つ思い至る。

 何故、これを幼馴染が……? と考えないよう朝から頭の隅に避けていたその疑問に。

 

(そういや、学生寮の前で変に落ち着きなくうろついてたわよね―――まさかっ!)

 

 もしかして悩んでいた理由は、この手の本、いいや、『禁書』に答えがあったのではないのか。

 そう、

 

『詩歌、俺はもう我慢できねぇ!!』

 

 ―――告白されたのではないか。

 

(何か『覚悟が決まった』とか言ってたし、え、それじゃあ、私、まずい方向に背中を押しちゃっ、た……)

 

 あの吹っ切れた様子のバカ。

 あの幼馴染は時々変に無防備で、同性の自身でさえやられかけるときがあるくらい。

 若干、自身を『お姉様』と呼び慕う春からの同居人(ルームメイト)のせいでか、そういったことには思考が柔軟になっている美琴は、だんだんと解釈が変な方向に加速してしまう。

 

 もしも今、常盤台中学もう一人の超能力者である『クイーン』が、思春期の暴走から猛烈な勢いでストーリーを展開している『エース』の頭の中を覗ければ、抱腹絶倒するのは間違いない。

 

 御坂美琴は、上条当麻が走り去っていった方向をもう一度見る。

 今からでも追って止めるべきか。

 いやこういうのってあまり人に知られたくないだろうし……

 うん、信じて、待つべきよね。

 大丈夫。姉は奇想天外に発想が突き抜けているところがあるけど、何事も真剣に考え、意外と常識は守る人だ。

 それに男女関係にはお堅い人。友人まで行くことはあってもそれ以上に発展することは美琴が知る限りなかった。

 しかし、これまで打ち立ててきた撃破記録は学校の歴史に残るほどの実績をお持ちの幼馴染とはいえ、今回の相手が相手だ。どうやって穏便に、関係を壊さずにいられるのか……流石に答えはすぐ出せないだろう。

 それで真剣に悩む幼馴染、それでいったい何を間違ったのか、たまたまそこに居合わせて相談を持ち掛けられた土御門舞夏が頓珍漢な方向に結論を出して参考資料としてこれを渡したのだ。

 きっとそうに違いない。

 となると、この『禁書』は渡さない方がいいのではないか。

 

「ええ、まあ、頼まれた仕事を勝手に放棄しちゃうのはあれだし、間違っても、影響を受けないと思うけど。………………せめて検閲するべき、よね?」

 

 そこで御坂美琴は再びショートしてしまった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ここは……どこでしょう?」

 

 常盤台の寮の近く、1人の女子学生がポツリとつぶやく。

 

「まったく……通学路でこのわたくしが……」

 

 途中までは、<風紀委員(ジャッジメント)>が道案内に同行してもらっていたのだが、事件が発生したと連絡が入り、貴重な空間移動系能力者(テレポーター)である彼女は応援に現場へと急行した。

 この辺りの地理に疎いこともあって、道に迷っている婚后光子は、本来ならば困難である常盤台中学への転入生。

 たった一年で頂点に至った以前の学習環境で満足できず、より上で鍛えたいと望む勤勉な強者だ。

 

「いえ、これしきのこと、常盤台にいらっしゃる<微笑みの聖母>、詩歌様との学園生活を思えば造作もないことですわ」

 

 彼女が常盤台中学を新天地に選んだのは、『五本の指』に入る研究設備教員学生のレベルが高いことはもちろんあるが、何よりもそこに婚后光子が心から尊敬の念を捧げる先輩がいるのだ。

 

 婚后は1年前、自身の学校のレベルに失望し、『能力開発』で壁にぶつかった時のこと。

 一人公園で悩んでいる婚后を見かけてか、相談に乗る、と言ってきた者がいた。

 それが、上条詩歌だ。

 そのときどうにも自暴自棄になっていた婚后は、彼女の話しやすい親身な態度にあてられて、比べ競い合える相手のいない学校への不満や愚痴も交えながら自身の能力についての悩みを話した。

 すると詩歌が、婚后の能力開発に協力すると提案し、婚后も彼女から感じる頼もしい雰囲気に自然と頭を縦に振っていた。

 それから、というものの驚きの展開ばかりであった。

 

 彼女が持つ天才性の中で婚后光子が思う最たるものは、己の才能を一般化する力――ノーマライズ能力。

 “特別”を、“普通”にできる技能。その振る舞いや思考法を周囲に波及させるものだ。

 

 万を超える数多の能力者と接して、その才能を己のもとして消化し取り込んできた者の助言や発想は、婚后に更なる高みの景色を魅せてくれた。

 思いつかない、あるいは馴染みのないことでも、無理なく、乾いたスポンジが水を吸い込むように取り込むことができた。

 その要因は、彼女が編む演算形式の美しさだ。

 上条詩歌の『投影』を知る婚后光子だが、自身のと比べて彼女の演算式の仕上がりが美しいのだ。ある種のプログラマーがコードの美醜を判断するように、彼女と能力演算の組み方はあまりに理想的過ぎた。

 この街の能力者ならば、誰もが一度は夢を見るだろう。

 けして強大な出力を行使しているわけではないが、しかし、自然体で演算式ひとつにまで神経を通している制御能力は、黄金律の如き完成された佇まいを保っていた。まして、それが自信と全く同じ能力を扱っているのだから余計に、その自然な凄まじさを悟ってしまう。

 ひとつの―――おそらくはいずれ至る、己が能力の境地であると。

 そして、『美しいものを見た者は美しくなる』という美術の言葉があるように、人は綺麗なものに憧れてそれを真似ていく。

 あの人の姿勢や仕草を見て学ぶことで、己が高次元に引き上げられるような刺激を受ける。また、彼女も指導する中で婚后自身から学んでいるので、改善洗練していく己の姿を写し取る鏡のように際限なく共に高まっていくという相乗効果であった。

 

 そうして婚后は詩歌との能力開発で壁を超えることができ、Level3からLevel4になることができたところを契機に、基本コースの卒業を言い渡され、お別れとなった。

 もちろんそれを惜しんだ婚后だが、さりとて自分のように成長に悩む人の手伝いに行くと言われれば、引き留めるわけにはいかない。

 従って、婚后は決意した。

 今度は自分から会いに行こうと。

 この成長する実感を知ってしまった以上はもう元の学び舎では満足できない、この先輩がいる常盤台中学へいこうと。

 先輩とはLevel4になれてから疎遠になってしまったが、それでも婚后は先輩の事を忘れず、先輩から学んだ生徒として1番になれるよう努力してきた。

 しかし、憧れというのは時に目を晦ませてしまうもの。

 

「そういえば、常盤台には『派閥』というものがございましたわね。……噂によれば、詩歌様は確か『派閥』を作っていないようでしたし、ここはわたくしが詩歌様と共に『派閥』を作りますか――――ん?」

 

 婚后は路地裏で一人の女子学生が<スキルアウト>達に囲まれているのを見かける。

 彼女がそれを見てまず考えたのは、『上条詩歌』ならばどう行動するか、だ。

 詩歌様ならきっと彼女を助けようとするはず……なら、詩歌様の1番の生徒としては当然、彼女を助け出さないといけませんわ。

 怖がっている者たちのためにもここで迷ってる場合じゃない。

 善は急げの決断力。だが、こと実戦において大事な、石橋を叩くだけの慎重さを怠ってしまった。

 

 

「あなた方、わたくし、婚后光子の前でそのような狼藉が許されると思いますか」

 

 

 高らかな文句に、<スキルアウト>らは乱入してきた婚后光子を一斉に見る。

 

「おい、アイツ誰だ?」

「知らねぇ顔だ。でも、あの制服って常盤台じゃねーか? ほら、あのエリート校の」

 

 まだ正式な転入は済ませていないが、憧れの先輩と同じものを着るという逸る気持ちを抑えきれず、今の婚后の姿は常盤台中学の制服。

 人混みの中に紛れてもすぐにわかるほどの存在感を放っている、学園都市でLevel3以上の高位能力者の証。まともにやり合えば、男たちが束になってもかなわない。

 

 が、“高位能力者程度ならば”、今の自分たちには恐れることはない。

 

 が、常盤台中学には不良たちの間にも勇名が轟かす第五位の女王や赤鬼のパイロキネシスなどタレントが揃っている。

 

 中でもここ最近で話題となっている腹黒テレポーターやその彼女が慕う第三位のエースにそして、その超能力者をも震え上がらせる秘密兵器の……

 

「ああ、そうだぜ。常盤台と言えば、あの<狂乱の魔女>がいるところじゃねーかっ!?」

「拳一つで相手にトラウマを刻みつけ、残りの人生を狂わせるってヤツか」

「いや、ちげーよ、狂ったように笑いながら俺達を実験台にしてくんだよ」

「ああ、俺達の血で渇きをいやすって聞いた事もある」

 

 背ひれ羽ひれが付いている噂であるが、効力はあった。

 

「おい早く、逃げようぜ」

 

 <スキルアウト>達は颯爽と現れた婚后のことを<スキルアウト>の中では畏怖の対象である<狂乱の魔女>の事だと思い込み、腰が引けてしまう。

 それに婚后は扇子で口元を隠すものの顔を顰め、

 

「わたくし、そんな<狂乱の魔女>だなんて下賤な輩ではありませんわ。まったく、そのように野蛮な人と一緒にしないでくれます」

 

 婚后は<狂乱の魔女>の詳細は知らない(後に真実を知った婚后は一日寝込むことになる)が、なんにせよ誰かの威名を借りる気はない。

 初めに、高らかに『婚后光子』と名乗り上げて宣戦布告を放ったのだ。

 虎の尾を借る狐ではない。

 婚后光子は、婚后光子の矜持と力を持ってここへ駆けつけたのだ。

 

「今なら、見逃して差し上げますわよ」

 

 婚后は<スキルアウト>達に睨みを利かせ、警告する。

 しかし、<狂乱の魔女>でないと知った途端に、<スキルアウト>達は余裕の表情でその最終宣告を聞き流す。

 例え、エリート校の能力者でも敵ではないかのように。

 

「どうやら、痛い目を見ないとわからないようですね」

 

 彼らの態度にプライドが刺激された婚后はパチッと扇子を閉じる。

 『ロケット発射場ぶっとびガール』こと大能力者(Level4)婚后光子の能力は<空力使い(エアロハンド)

 『噴出点』を設置し、弾丸のように物体を発射できる能力。その気になれば大気圏を突きぬけて宇宙にまで飛ばしてしまうことさえ可能。無論、そのような出力をぶつけたりはしないが、人一人を吹っ飛ばすのは容易で―――『噴出点』を設置。

 

 それでも、“たかが大能力者一人”だ。

 

 刹那。

 機械音に似た、雑音が走った。

 

「ッ!?」

 

 婚后の脳に直接響くようなそれは、大能力者の常人を遥かに上回る高度な演算能力を奪う。

 その妨害は運動神経系にも及び、危うく気絶しかける。

 しかし、そこで昏倒を免れたところで、難はそこで終わりではない。

 既に仕掛けていたはずの『噴出点』も、演算式に横線の殴り書きをされたように台無しにされて、制御を誤る。

 暴走。

 

 パンッ! と逆流した突風が婚后の胴体を叩く。

 

 ほぼ物理的に停止した神経では、主の危機に際してすらまともに信号を伝達しない。能力だけでなく、鍛えていた肉体も、体が動かないままでは何の意味もなしはしない。反射反応さえできずもろに自爆を食らった。

 

「―――っかは!?」

 

 それは肉体的な苦痛もそうだったが、それより精神的衝撃の方が大きかった。

 これは学園都市の能力者特有のことだが、自身の能力を制御できず乱発してしまうのは、恥とされること。婚后光子は特にそれが強い。何せ、先輩と同じ完全な制御を目指し、一番の弟子を自ら名乗っているのだ。もしもこの場面を先輩に見られでもしたら、泣いてしまっていたかもしれない。

 慌てて駆け寄る、男たちに囲まれていた少女に支えられても、立てないほど足元が覚束ない。

 

(一体何を……)

 

 <スキルアウト>の1人が婚后の目の前にリモコンをちらつかせる。

 

「残念だったな。おめーが能力者でもな、これさえあれば俺達の相手じゃねーンだ」

 

 後ろで他の<スキルアウト>達が婚后の苦しむ様に歓声を上げる。

 宙を舞う鳥は、飛べず地に這うもの対し、上位からの圧倒的優位性を持っていたが、飛べなくなってしまえば、それは獲物も同然。

 存分に痛めつけようが、反撃はできず、逃げることもできない。

 今の婚后に<スキルアウト>たちが恐れる理由はない。

 

 けれど、婚后はそこで諦めてしまうわけにはいかなかった。

 不甲斐なさに精神(こころ)を打ち震わせながら、微かに体に残った意識を総動員して、彼女は指一本でも動かさんと抗っていた。

 

(『どんなに怖くても、自分のやりたい事をして。そのためにあなたの力があるんだから』でしたっけ。わたくしが最優先すべき事は―――)

 

 突然、婚后は体を起こそうと自らに肩を貸す少女のお腹に触れる。

 

「ふぇ!?」

 

「少し痛みますわよ」

 

 少女が驚いている隙に、婚后はかき集めた意識を一点に集中し、少女の腹に能力を発動させる。

 

「はあっ」

 

 たとえ、今の婚后が大能力者から1、2Levelが下がっていたとしても、人一人を飛ばすことはできる。

 少女は<空力使い(エアロハンド)>により、路地裏から遠くへ飛ばされる。

 

「早く、お逃げなさい!」

 

 これでよかった。……そうですよね、詩歌様。

 

 少女を逃がす為、無理矢理能力を使った反動か、意識が切れかけてくる。

 それでも揺れる視界に、少女が戸惑いながらも頭を下げている姿を確認できた。

 

「ほーう、<キャパシティダウン>が作動してる中で能力が使えるなんて。おまえ、高位能力者だったんだな。でも今ので終わりみたいだがな。あの子の代わりに身ぐるみを剥いでもらおうか」

 

 意識を失いかけている婚后に<スキルアウト>達は容赦することなく、飢えた狼のように群がってくる。

 自分にできるのは時間稼ぎが精々。それでも、微かな意地だけが胃の底にわかだまって、容易に婚后を屈服させなかった。

 しかし、それもほんのわずかのことだろう。

 だってこの状況は詰んでいて、あの少女が<警備員>か<風紀委員>を呼んだとしても先の案内役の子が駆り出されるほど大きな事件ですぐここに急行できるとは思えない。もっと最初に注意深く警戒するべきだったと悔やんでも後の祭り……

 なのに、

 

 

「……あらあら、こんなところで婚后さんに会えるなんて」

 

 

 <スキルアウト>たちとは反対の方向から、影が差したのだ。

 思わず、振り仰いだ。

 

(ああ、この感じは……)

 

 婚后はその声、その温もり、その雰囲気を覚えていた。

 意識が失いかけても、自分を導いてくれた彼女を他人と間違いはしない。

 知っている。その最たる才能性のひとつ、『特別を普通にしてしまう』ノーマライズ能力が“自身にさえ適用できてしまう”せいで、“初見でその圧倒的な才能を見破らせることがない”ことを。

 だからこそ、それを知った婚后はこの底知れぬ相手に最上の畏怖を捧げている。

 

「……詩歌様……」

 

「その制服から察しますと、常盤台中学に転入してみたいですね。それ以外を察するとどうやら少しピンチに出遅れてしまったようです」

 

 上条詩歌に身体を押されて、婚后は遅れて現れた一人の女子中学生に身を寄せる。

 

「頑張りましたね。あとは私に任せて眠ってなさい」

 

「は……い、詩歌様」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 詩歌が来た事で、安心した婚后は眠りについてしまった。

 

「それでは、佐天さん、婚后さんをお願いしますね」

 

「はい、わかりました。詩歌さん」

 

 意識を失った婚后を預けた佐天にそのまま任せて、後ろへ下がらせる。

 

「聞いてんのか? 誰だ、おまえ? 逃げれるとでも思ってるのか? 俺たちに能力は通用しねーぞ」

 

「……………はい? すみません、聞いてませんでした。もう一度言ってくださいますか?」

 

 その、婚后が離れていくことを確認している、つまりはスキルアウト達に向き合うことなく背を見せている。

 全く相手にされない。それはひどく癪に障る行為であり、不良たちに悠長に後輩の退場に付き合う義理もない。

 

「てめぇ、ふざけてんのか」

「それともビビってんのか」

「言っとくが遊びじゃねぇぞ」

 

 野次。罵倒。嘲笑。失笑まであるアウェー一色。試合開始のゴングはなく、審判もいない。

 すでに大能力者(こんこう)を封殺してのけた怪音波機器――<キャパシティダウン>は作動させている。

 このジャミングは高位能力者であればあるほど効果が高く、立っているのもやっとの状態のはず。無防備に晒すその背後へ、ひとりの<スキルアウト>が無理やり振り向かせようと、乱暴にその肩を叩く―――

 

「常盤台のエリート様だろうが、能力さえつかえなけりゃ」

 

 

 どんっ!!

 

 

「ッ……」

 

 その股間を跳ね上げた踵で蹴り飛ばされ、同時に肘を鳩尾に叩きこまれた巨体がぐらりと揺れる。

 振り向きもせず、二撃。白目を剥き倒れ込んだ不良を、詩歌は横に転がす。

 

(こんな誘いに引っかかるなんて呆気ない)

 

 不良の身体が壁となっていたせいで、その早業は大半の<スキルアウト>には見えなかった。

 一瞬、ハウリングにも似た怪音波さえ気にしなくなるほどの静寂と寒気を彼らは覚えていた。

 

 遊んでいるのはどっちだ。

 

 誰かが言った。これは遊びじゃないと。

 だがここに実際に命の危機を覚える絶体絶命の経験をしたものはここにはいない。比べることも烏滸がましいが、■■は真剣だった。手を抜くようなことはせず、必死に打開策を考え、常に全力で、生きていたのだ。

 なのに、何故―――

 

「おい! てめぇ、おい舐めた真似してんじゃねぇ!!」

「俺たちをバカにして、ただで帰れると思ってんのか!? ああ!?」

 

 血気盛んとはこのことか。ここに立ちはだかるのは、そこの泡を吹いてる不良と同じく本気のようだ。優等生に劣等感を抱き続けていた彼らに、ここで負けることは何よりも腹立たしくて―――それに苛立つ。

 自分が言えたことではない。けして口が裂けても言うつもりはない。■■は強者だった。比較されて劣等生だと言われ続けて、なお他者の幸せを祝福することができた。

 なのに、何故―――

 

 

「お、お前、常盤台の能力者じゃないのか? どうして立っていられるんだ?」

 

 

 <スキルアウト>の一人がようやく気付く。

 <キャパシティダウン>が作動しているのに、このエリートが自然と立っている異常に。

 

「ええ、そうですよ。その<キャパシティダウン(オモチャ)>、見た事があります。気になりますね。……まあ、それだけですが」

 

 無能力者の不良らと同じく、少々騒音に顰めてる程度で、平然としてる。

 高位能力者であればあるほど立っていられなくなり、そのエリート校の制服は、間違いなくLevel3以上の高位能力者であるはずなのに。

 

「あなたたちの切り札はこれだけですか」

 

 そこへ、言い放つ。

 エリートも同じ土俵に立てさえすれば、負けるはずがない。

 それは誰か一人の主張ではなく、この場にいる全員の共通する認識であり、常識だ。

 

 だが、ここにいるのは理不尽が形を持ったような非常識だ。

 

 ようやくそのことに気づき、怖気づく彼らを見て―――ひどく落胆する。■■は、不屈だった。不幸だと口にするけれど、どんな状況でも、何が相手でも諦めるようなことはなかった。してはならないと何度戒めても、暗澹たる思考に胸が疼く。

 だから、どうか早く逃げ失せてほしい。

 とりあえず、リーダー格の男を倒した。あとは話術で不安を煽らせて追い払えばいい。

 だが、詩歌の思い通りにはいかなかった。

 胸に手を当てる真似はできないが、詩歌が一呼吸だけ、落ち着けさせてから口を開こうとしたとき、1人の<スキルアウト>が懐に手を伸ばす。

 

「舐めるんじゃねえぇ、ガキ一匹に俺達が潰されてたまるかッ!」

 

 その男は懐から取り出したナイフ。その刃渡り10cmもの切っ先をこちらに向ける。

 

 いつかの、何かと、似ていた。

 

「あ……―――――」

 

 詩歌はただ男が持つナイフをじっと見る。

 そして、何かに怯えるように体が震えだす。

 

 『―――しいかから離れろッ!』

 

 そんな言葉が、脳裏に響いた。

 そのナイフを持つ構えはあまりに素人。隙だらけで落ち着いて対処できれば脅威ではないのに。

 そう、あまりに暴漢が振るう乱雑さに、想起させられるのだ。

 

 『―――絶対に俺の妹に近づかせないぞッ!』

 

 一度だって忘れたことがない。

 それは自身の失敗であり、不幸にしてしまった出来事だ。

 そうなのだ。

 ■■は、生死の間際に、修道女の子に自らの身を盾にしてしまえるくらい―――愚かなのだ。

 

 だから、もう、いない。

 

「はっ、ビビりやがって、所詮はガキだな」

 

 過去を見ている―――傍から見れば呆然と震えるその姿を見て、<スキルアウト>は目に見える凶器(ナイフ)に臆したと思ったが、それは間違いだった。

 それは逆転の一手ではなく、禁断の一手。

 上条詩歌のトラウマが引きずり出される。上条当麻が倒れる光景が何度も脳裏に甦る。

 

 『お兄ちゃん、逃げてええええぇッ!』

 

 瞬間、理性が飛んだ。

 

「あ――――」

 

 視界が真っ赤に染まった。

 <スキルアウト>達は最後の希望さえなくしてしまった禁断の箱(パンドラ)を開けてしまったことすら気付かなかった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 少年は、少女の対極だ。

 

 どれだけの努力を積み重ねようと、それが技量として身に付くことが難しい、神様の保護さえ受けることができない少年は、格闘技を習ったところで護身術どまりで、我流の喧嘩殺法で成長止めとなる。

 故に少年は、一切の牙をもたない。

 神様さえ殺せる力を持っていようと攻撃力がないせいで、『切り離す力』をもたない。

 

 しかし、少年が、

 その右手から異常の能力を受け付けることができず、

 才能のなさから格闘技を学んでもその一流の達人となることはできず、

 結局、我流の喧嘩に収まってしまうのならば、

 

 逆に、対極にある少女は、

 あらゆる恩恵をその身に受け入れることができて、

 一振りの棒でさえも太刀槍薙刀など武技を再現でき、

 何も努力せずとも自然体ですべての模範となってしまう。

 

 少女は、少年の対極だ。

 

 無能の極致にはない、才能という、絶大で絶対的な攻撃力をもっている。

 あらゆるものと『繋がる力』を持っていようと、その才能は理不尽で理外な牙だ。

 

 だが、それがこれまで暴力に転化してこなかったのは………

 

 

 

「ぐああああああッ!?!?」

 

 女子供でも容赦なく。

 突きのために伸びきった男の刃物を握る手、その手首を両手で捕まえ、さらに腕を両腕で抱きしめ、両脚を絡み付ける。

 合気の要領で相手の力を追い風に変えるが如くの勢いで、ぐるん、と。

 

 女子供は慈悲なく。

 男の肘の靭帯を完全に捩じり切った。

 

「―――あの時とは、違う」

 

 頭痛にも似た怒りが、そんな言葉を呟かせた。

 あらぬ方向に曲がった己の腕に泡を吹く男を無視し、その落としたナイフを踏みつけて、折る。

 

「なのに―――ああ……」

 

 ふらり、とよろめく。

 昂揚に沸いた、酩酊感。その要因には、心当たりがある。

 ここのところ、あの右手に触れていない。先生からも言われたが、自身の体質にとって、自我を守るための毒抜きのようなもの。その自己管理をせず、他人の幻想を取り込み続けていた。

 我を忘れたいかのように。

 その念願が叶ったか、今の彼女は、ひとつの芯をなくしてしまったように自身の中の基準が何もかもあやふやで―――そう、理性さえも確かではない。

 

「―――!?!?」

「――!! ―――!!」

「―――!! ―――!!」

 

 何を言っているのか、すべてが雑音に聞こえる。

 極度の集中に入ったのか、余分と判断された情報は処理される。

 色と音のない世界で、わらわらと人が集まってくる。

 応援を呼んだのだろう。

 これから、ここで振るわれるのは意味のない暴力だ。

 それを拒まない。

 いや、むしろ悦んでさえいたのかもしれない。

 行き場をなくした慟哭は、あれからずっとこの胸の中で泥のように昏く渦巻き続けている。

 だから。

 こちらも我を失うほど発散したかったのだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「おっと、悪いがここまでにしてもらおうか?」

 

 横から伸ばされた手に掴まれた。

 詩歌は止めに入ったところで、ようやく目が覚める。

 (こえ)が戻り、そして、最初に世界に着いた色は、極彩色。

 視界が元に戻ると辺りには無残に腕が折れ曲がり、顔面が潰れ、苦痛に呻いている<スキルアウト>達の姿があった。

 特に酷いのは、先ほどナイフを出したと思われる男。

 見るに堪えないほど、その顔の原型はすでになく、意識はかろうじてあるが、呻くことすらできないでいる。

 

「あ、ああ……」

 

 真っ赤な血で染まる自分の手、

 動くことすらできない<スキルアウト>、

 ……ようやく、自分が、自身の内に潜む鬼がこの現状を起こしてしまったことを詩歌は理解した。

 

「まあ、こいつらが悪いんだろうけど、アンタ、かなりやり過ぎだぜ。……こりゃ、しばらく箸すら持てねーなぁ」

 

 赤茶色の癖がかかった長髪を掻きながら、倒れている男たちの容態を見る。

 喧嘩慣れしてる彼から見ても、この惨状は酷いの一言に尽きる。適切に、壊されてる。死なさず生かさず。ひとつ間違えば殺してしまったかもしれない綱渡りを、ひとつも踏み外すことなく渡り切った。

 怪我を負った少女を抱えて走る少女たちを目撃し、最初は少女の助けに入ろうとした男も、現場に来てすぐ立ち竦んでしまったほど、その光景に圧倒された。

 

 そして、我を取り戻した詩歌は、この現状から逃げたいのか、自身がやったとは認めたくないのか、後ずさる。

 だが、一時の酩酊から取り戻した感覚は、出番が一時遅かった、その到来を詩歌に教えた。

 

「―――詩歌ッ!」

 

 その声は、よく知るものと同じ。

 その目は、よく知るものと同じ。

 その姿は、よく知るものと同じ。

 その相手は、よく知るものと同じで、今の詩歌が最も会いたくない相手。

 

 ミラレテシマッタ。

 ■■サンニミラレテシマッタ。

 ミニクイジブンヲ。

 

「おい、詩歌ッ! どこにいくんだ!」

 

 男の手を振り払い、詩歌はどこか遠くへ、誰もいない場所へと走り出す。

 

 

 

 けれども。

 当てのない、思い描かれた行き着く果てには、どこの誰でもないひとりの少年がいる光景だった―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「くそッ、ようやく見つけたのに逃がすかよ!」

 

 この夏休みの最中、懸命に走り回ったのだ。

 呼吸荒く、疲労感もある。余裕はないし、初めてその後ろ姿を視界に捉えた。もうひとつのことしか考えられない。

 

「―――詩、歌」

 

 走り出す。

 路地裏の向こう角で、その尻尾のように後ろ髪をまとめたリボンが揺れて、消えた。何とも足の速いことで、立ち止まってるとあっという間だ。結構足の速さには自信があるが、どうも『ウサギとカメ』を連想してしまう。

 

「待て! 危険だぞ!」

 

 がくん、と腕を取られて、つんのめった。

 <スキルアウト>の連中の援軍だと勘違いした男が、忠告を飛ばす。

 

 あの少女は、男どもに囲まれて“手加減していた”。

 殴りかかってくるならその腕を、蹴ってくるならその脚を壊すが、壊れた奴の意識まで奪おうとはしなかった。

 けど、それは楽にしてやろうとかで手加減してるんじゃなくて、あれは何度も何度も痛めつけたいからわざと落とさなかっただけだ。

 不良らもそれに気づいたのか、それとも敵いようのない実力差を理解したのかどっちかは知らないが、背を向けて走り出す―――そうしたら、その背中めがけてトドメの一撃でドスン、だ。

 逃げようとした獲物は用済みと見たんだろう。

 最後に意識が残っていたのは、ナイフの男で、それが泣きながら懇願したところで、バッサリと落とした。そうして、何もかもが終わって、ぼんやりと佇んでいたところを、ようやく割って入ることができた。

 

「………やめておけ、お前一人じゃ返り討ちに遭うだけだぞ」

 

 当麻は自分でも聞き取れるぐらいの音で歯軋りをすると、知らず男を睨みつけていた。

 彼女は自己防衛で不良たちを降した。どんな事情があったにせよ、これは過剰であることはわかる。

 この結果は、彼らには不幸だろう。

 けど、それでも―――やっぱり、彼女が無事であったことにまず安堵した。ここにいる連中を哀れだとも思えない。

 逆に恨んでさえいる。

 だって、これに詩歌もまた―――

 

「止めんじゃねぇ。俺以外に誰があいつを止められるっつうんだ」

 

 振り解く。こちらを心配してくれるのはわかるが、これでまた貴重な時間をロスしたのだ。謝る気はない。

 

「アンタ、わりぃけどそこに転がってる奴らの面倒頼む」

 

「……なんか訳ありみたいだな。わかった、こいつらの面倒は俺が見とくから、とっとといきな」

 

「恩にきるよ」

 

 

 

つづく

 


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