とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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水の都編 二人の魔神

水の都編 二人の魔神

 

 

 

アドリア海の女王 最深部

 

 

 

決着が、ついた。

 

この大艦隊の司令塔、ビアージオ=ブゾーニが上条当麻が降した。

 

<アドリア海の女王>の核も破壊され、この船はもう崩壊する。

 

 

 

―――認めてたまるか……

 

 

 

ビアージオは、よろよろと片膝をつきながら身体を起こす。

 

血走った目はギロギロと忙しなく動き、本当に焦点が合っているのかも分からない状態、

 

口の端から、ダラダラと粘性の強いよだれが溢れている。

 

でも、認められなかった。

 

このまま、何もできずに終わるなどと

 

だから、使った。

 

たとえ、死ぬ事になろうと。

 

 

 

 

 

 

 

ガゴン!! と。

 

<アドリア海の女王>の船底から何かが海底へ落された。

 

 

「ッ!!」

 

 

その異変に最初に気付いたのは、詩歌だった。

 

すぐに彼女はいつの間に上体を起こした司教の姿を注視する。

 

 

「何を、したんですか……」

 

 

詩歌の様子に、当麻達もビアージオへ視線を向ける。

 

核は全て破壊し、計画を破綻させたというのに、その男には狂喜の笑みが浮かんでいた。

 

興奮と緊張の伴う、熱した息の塊を吐き出しながら、

 

 

「ハッ、作動させたのだよ。この船の自爆術式をな」

 

 

息を呑む。

 

この<アドリア海の女王>は、詩歌達が邪魔をしなければ、照準制限を失くした最悪の破壊兵器となるはずだった。

 

だからこそ、ローマ正教は恐れたのだ。

 

この破壊兵器の矛先が自分達に向けられるのを。

 

もし<アドリア海の女王>がローマ正教の中枢部に放たれれば、信徒20億人を擁する最大宗派が一夜にして壊滅する。

 

そもそも照準制限を設けたのは自分達に向けられないようにするためだ。

 

だからこそ、このより凶悪になった兵器に照準制限の代わりとなる枷が、『自爆』であることは読んでいた。

 

だから、詩歌達は自爆される前にこの船の重要な核を破壊した。

 

なのに、

 

 

「少しは考えなかったのか。念には念を入れて、貴様らのように核を見抜いて破壊する奴らがいる時の為に、この船の核とは別にもう1つ自爆術式が備えられていたのを」

 

 

それを今発動させたのだ、とローマ正教の司教は、自らをも呑み込むその言葉を、心底楽しそうに告げる。

 

 

「ビアージオ!!」

 

 

当麻は思わず叫んだ。

 

詳しい理屈などどうでも良い。

 

ようは、自分の計画が失敗したから全てを巻き添えにしようとしているのだ。

 

 

「ッ!!」

 

 

床が、船が、海が胎動する。

 

ゴゴゴ……とまるでここは地獄かと思うような不気味な振動が襲い掛かる。

 

 

「くそ、あの野郎。何がローマ正教に残る大義だ。だから私は計画を聞いた時から早過ぎると言っていたのに。私はもうおしまいだ。罪人として消されるだけだ。<アドリア海の女王>はローマ正教が誇る、<使徒十字>も含む<聖霊十式>の1つ……。そんなものを失うとなっては、私にはもう二度と復帰のチャンスなど与えられん」

 

 

「だから全てを巻き込むのか。そんなモンで何かが変わるのか。結局テメェがやってるのは、何の得にもならねぇただの慰めじゃねぇか!!」

 

 

―――次の瞬間、まるで箱に詰められてシャッフルされたかのような大揺れに見舞われていた。

 

 

「きゃあああ!」

 

 

「うわっ、わわわっ!」

 

 

「み、皆さん落ち着いてください」

 

 

皆が悲鳴を上げるが、あまりにも地面の揺れが激しくて、当麻は走るどころか歩く事さえできず、視界がぶれ、正確な状況判断さえできない。

 

 

(くっ、くそっ! 一体何が……!)

 

 

やがて揺れが収まってくると、足元がまだ安定しない内から、当麻は皆の元へ駆け寄った。

 

全員が無事だ。

 

ただ詩歌だけが騒がず深刻な表情で床を、その下にある海中を見つめていた。

 

この状況が深刻である事は、確認するまでもない事は分かっている。

 

 

「……詩歌、これってかなり……」

 

 

「ええ」

 

 

返事だけ。

 

しかし、それは『最悪です』というマイナスの言葉を呑み込んだものだというのはすぐにわかった。

 

状況は、誰の目から見ても、明らかだ。

 

だったら、わざわざ口に出して不安を煽る事はない。

 

けれど、

 

 

「……、逃れられると思うな」

 

 

ビアージオは、天井を仰いで嘲笑う。

 

 

「これだけの大人員と戦い、これだけの大艦隊を沈め、何よりこのビアージオ=ブゾーニという司教を葬るだけの状況に危機感を覚えぬ者などいるものか……。特に貴様ら、その単体戦力、及び人脈はもはやローマ正教の脅威と認定できる。そうだ。誰もがここで全てを犠牲にしようとその敵性を道連れにする事を納得する」

 

 

前へ進む為ではなく、後ろを振り向くために全力を尽くす。

 

守る事で満足するのではなく、奪う事で満足する。

 

自分1人が傷つくのではなく、周り全てに傷を押し付ける。

 

 

「詩歌! インデックス! 自爆術式の核はどこだ! 今すぐこの右手でぶち壊してやる!!」

 

 

こんな奴の手で、もはやローマ正教の意図すら無視した自暴自棄の一撃で、皆が死ぬなんて最悪の結末を、当麻は認めたくない。

 

こんな、結末にしたかったのではない。

 

ビアージオ=ブゾーニの言葉は軽い。

 

その程度で諦められるなら、最初から誰もこんな所まで来ていない。

 

 

「ハッ! 無理だな! もうこの術式は放たれた。そう、この海の中にな!」

 

 

詩歌の方を見る。

 

だが、彼女は力なく頭を横に振るだけ。

 

それでも、当麻は、音もなく右の拳を握り締めた。

 

 

「……、その顔だ。その不屈こそが我々の脅威なのだよ。だが、残念だな。もう自爆術式は海中だ。たとえ貴様の右手を以てしようと逃れることはできない。あと少しで、この海域に大渦が生じる。そう、かの『ノアの箱舟』のように全ては洗い流されるのだ」

 

 

核が破壊されたが、力はまだ残っている。

 

海水から抜かれた風の力。

 

それをこの海域に解き放ち、洗浄する。

 

全てを、この大渦に呑み込み、世界を浄化する。

 

 

「インデックスさん――――」

 

 

 

 

 

アドリア海の女王 甲板

 

 

 

当麻は周囲を見回す。

 

予想通り、海は荒れ、結界のように黒い雲がこの海域全体を覆っている。

 

そんな中、海上に浮かぶ氷塊、木の船が、うねり弾ける波にこの葉のように翻弄されていた。

 

 

「おーい………お前さんら………」

 

 

そして、近くから海の咆哮にかき消されない、力の限り大きな声が聞こえる。

 

天草式十字凄教の上下艦だ。

 

波に煽られ転覆しそうになるが、それでも、当麻達のすぐ近くに船を寄せた。

 

 

「無事か!」

 

 

天草式教皇代理、建宮が大きく腕を振る。

 

 

「建宮! 他のヤツらは!」

 

 

「天草式なら全員この上下艦にいるのよ! だが、シスター達はまだ全員回収できてない!」

 

 

この通常なら運行不可能な大嵐の海域では、仲間達を救いあげるのが精一杯だ。

 

だが、例え上下艦でも、このまま巨大な大渦が生まれる前に逃げなければ、今も氷塊にしがみついている者たちと共に暗い深海まで落とされる。

 

ここには、まだ救われぬ者たちがいると言うのに……救おうとすれば、皆死ぬ。

 

それが分かっているからこそ、建宮は唇を噛み締める。

 

もうこの海域一帯に、竜巻のように弧を描く海流が見えており、それが明確に確認し始めたらもう手遅れだ。

 

だから、詩歌は最後の手段を取る事にした。

 

 

 

「もう一度聞きます。インデックスさん、私を信じてくださいますか?」

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「うん。しいかになら、命を預けても良いよ」

 

 

インデックスは1秒ですらも迷う事なく頷く。

 

それが彼女の詩歌に対する全幅の信頼を示すものだった。

 

 

「分かりました。なら、私も命を懸けてあなたをお守りします」

 

 

この手段は、まだ試した事がなく、バレれば危険な事。

 

けれども、成功すれば、ここにいる全てを救える可能性を秘めている。

 

 

「天草式の皆さん」

 

 

静かに、詩歌は言った。

 

落ち着いた声なのに、それは周囲の全員に届いた。

 

 

「今すぐここを誰にも察知されないよう結界を張ってください。……それと、これは一切他言無用でお願いします」

 

 

逃げ遅れれば死ぬという危機的状況下であるにも拘らず、即座に彼らは動く。

 

アニェーゼ、ルチア、アンジェレネ、オルソラも天草式に其々協力し、鋼糸を使った対象の認識を他に移す<禁糸結界>や魔力の隠蔽工作などを仕掛けていく。

 

そして、上条当麻はただ見守る。

 

先程は後ろを見守ってもらった。

 

だから、今度は自分の番だと。

 

それが詩歌の背中を後押しする。

 

 

「では、インデックスさん。ここに手を合わせてください」

 

 

その掌には、いつの間にかブローチがあった。

 

大きな様々な可能性に満ちた多彩な輝きを放つ宝石を埋め込んだ、<原初の石>。

 

それに重ねるようにインデックスと上条詩歌の手が合わさる。

 

虹色の輝きと共に、魔力の奔流が間欠泉のように湧き上がる。

 

2人の周りに莫大な魔力が集まっていく。

 

その叡智から設計図を取り出し<禁書目録>が形を作り、その構造を読み取り<幻想投影>が魂を吹き込む。

 

『魔術を極め過ぎて、神様の領域にまで足を突っ込んでしまった人間』――<魔神>。

 

10万3000冊の“魔”導書の<原典>を閲覧・解読して理解した管理人と如何なる力も投影し、全ての願いと希望を叶える“神”にもなれる読み手、その2人の奇跡の力が交差する時、その<魔神>の領域まで昇り詰める。

 

 

「紀元前700年頃の古代ギリシアの詩人で魔導師だったヘーシオドス作の叙事詩、『神統記』……。原初の混沌(カオス)からの世界の創造、神々の系譜と、ウラノス、クロノス、ゼウスの3代にわたる政権交代劇を描く、ギリシア神話の宇宙観の<原典>なんだよ」

 

 

2人の手の中に、1冊の本が開いていた。

 

この場にいる天草式やシスター達の誰もがその本、魔導書の<原典>に注視する。

 

 

「皆さんは、約束を守ってくれました。だから、今度は私が皆さんの願いを守ります」

 

 

世界を叱咤するように呼ばわった彼女の声に、世界がこたえた。

 

上条当麻は、改めて<禁書目録>と称される居候、インデックスと妹の、上条詩歌の真価を知る。

 

 

「……なんだ、それ」

 

 

当麻の口から言葉が漏れた。

 

その開かれた本の上に、オーロラのような幻想的な光を纏う法螺貝が浮かんでいた。

 

<トリトンの笛>。

 

海の神トリトンが、波を立てたり鎮めたりするためにラッパのように吹く法螺貝で、高らかに吹き鳴らされるその音たるや、巨人達が『恐ろしい獣の唸り声だ』と勘違いし逃げ出すほど。

 

そして、海の神トリトンがこの法螺貝を吹いて、ギリシア全土を呑み込もうとした大洪水を鎮めた、と。

 

それを模したのが、この<トリトンの笛>

 

その神の『霊装』とも言える笛を、現界に留めている間に詩歌は手にし、そっと口を付け、

 

 

 

 

 

「静まれ―――――」

 

 

 

 

 

その笛の音が空気に溶け込んでいった瞬間、

 

荒れ狂っていた波が、

 

全てを呑み込もうとしていた流れが、

 

すぅ――っと穏やかになり、静寂が包みこんでいた。

 

このアドリア海全域に、その静寂は、その海の神の調べは、彼女を中心に瞬く間に広がって、激しく迫り狂う海を優しく宥めて凪いでいった………

 

 

 

 

 

 

 

 

光が、見えてきた。

 

街だ。

 

あれから動けなくなった私は、流れる木の船に乗せられ、ゆっくりと戦場を離れていった。

 

唯一残された武器である<湖姫の帯>を掲げて、戦いを振り返る。

 

おそらく、あの計画は破綻され、修道女は救われただろう。

 

そうなると、自分はあの方の期待を裏切った事になるのだが……良い。

 

心の底から満足はしていないが、後悔はしていない。

 

もう、私は進むべき道を決めたのだから。

 

だから、今はゆっくりとこの波の揺りかごに身を委ねよう。

 

と、その時、

 

 

「ふむ。どうやら無事であるようだな」

 

 

 

 

 

とある宿屋

 

 

 

アドリア海近郊の宿屋。

 

目が覚めるとすぐに上体を起こして、振り向く。

 

すると、すぐ横の椅子に大荷物を脇に置いた巨漢の男が座っていた。

 

青系の長袖のシャツの上に、さらに白い半袖のシャツを着重ね、通気性の良さそうな薄手のスラックスをズボンにはいている。

 

服の上からでも見て取れる鋼を折り畳んだような上腕。

 

太股はそれ以上に太い。

 

胸元から盛り上がった筋肉など下手をすれば、鎧よりも硬いかもしれない。

 

これだけの外見からすれば、もう物質的に迫力が滲み出す。

 

だが、それ以上に、その巨大な身体の内に秘めた力の方が脅威だった。

 

 

「……ウィリアム、様……、どうして……」

 

 

数年ぶりの再会。

 

見捨てられてからもずっと追い求めていた影。

 

それが、何故か負けたはずなのに、期待に応えられなかったはずなのに……

 

もしかして、私に………

 

 

「し、失礼しました!!」

 

 

ナタリアは礼を失さぬように寝ている身体をすぐに起こそうとするが、

 

 

「いい、寝ておけ。そのままでいい」

 

 

その変わらぬ固く真面目な様子に、少し、その男は苦笑する。

 

でも、ナタリアはそうはいかない。

 

やっと回ってきたチャンスなのだ。

 

この男と対談する最後のチャンスなのかもしれない。

 

だから、ナタリアは片膝をつき、頭を垂れて、

 

 

「ウィリアム様。私、ローマ正教13騎士団を脱退しようかと思います」

 

 

その発言に、驚いたように両目を見開く。

 

けれど、何も語らない。

 

ただ、無言で先を促す。

 

 

「そして、ヴィリアン様にお仕えします。―――彼女の騎士として」

 

 

それは、裏切りも同然だった。

 

ローマ正教を抜けて、他の勢力に加わろうなど、ローマ正教の上層部が許すはずがない。

 

それに、彼からは何度も騎士を止めろと忠告されている。

 

それを破ろうと言うのだから、今、ここで叩き潰されてもおかしくはない

 

 

「そうであるか」

 

 

しかし、その男はただ瞑目して呟くのみ。

 

この男は多くを語らない。

 

ただ、必要な事だけを口にする。

 

だからこそ、こうして見捨てたはずの自分に助けたという無駄な行為が不思議でしょうがなかった。

 

そのまま、背を向けてしまう。

 

 

「反対、なさらないのですか?」

 

 

その足が止まる。

 

背中を向けたまま停止する。

 

長い沈黙の後、背中はこう告げた。

 

 

「仕えるべき主を持たぬ者が騎士を語る資格などあるはずがないのである。だが、今ならもうその心配は必要ない」

 

 

そして、ポツリと呟く。

 

 

 

「傭兵崩れのゴロツキではあるが、仮にも育ての親。義娘を騎士などと戦わせるのは好ましくはないではあるがな」

 

 

 

溜息混じりの、言葉。

 

だから、ナタリアもそれ以上は追及しない。

 

ただ、一言、だけ言葉を送る。

 

 

「ありがとう……義父さん」

 

 

とても短くて、その分色んなものが詰まった言葉だった。

 

彼もただ小さくかぶりだけを振って、それから置きっ放しの大荷物へ視線を投げる。

 

 

「これは破損した武器の予備だったが、まあいい。退職金代わりである」

 

 

その袋の中には<量産聖槍>、<量産湖剣>、<量産琴弓>、とナタリアがこの戦いで失った武器が揃っており、

 

 

「そして、その紹介状は私からの餞別である」

 

 

1枚の手紙。

 

彼の古き友である『騎士派』のトップである<騎士団長>に宛てられた紹介状。

 

 

「あいつは実力で判断する。女人禁制などと詰まらない事は言わないだろう。それでも入団が断られるようなら、騎士になるのは諦めた方が良いではあるがな」

 

 

それを最後に傭兵は部屋の戸へ手に掛ける。

 

これがその男の最初で最後の援助。

 

ナタリアはその紹介状を握り締め、再び頭を下げ、

 

 

「ウィリアム様がお戻りになるのをヴィリアン様とお待ちしております」

 

 

傭兵は振り返らずにそのまま立ち去った。

 

 

 

 

 

イタリア 病院

 

 

 

イタリアの病院というのは新鮮だ。

 

旅行で海外に出掛ける人は普通だが、旅行先で海外の病院のお世話になるのは観光客として、まずない、海外入院ツアーなんて、ありえない。

 

一体それでどうやって旅の思い出を作れと言うんだ。

 

が、現在、上条当麻は担架に乗せられたままガラガラと暗い通路を移動させられている訳で、お医者さんや看護師さんが何か話しかけているかサッパリだ。

 

とにかく、右肩や左手に包帯を巻かれ、顔にガーゼを貼られたり、顔に消毒液をかけられ目が染みたり………

 

 

「消毒液のせいだもん。それ以外の理由なんかないんだぞ! くっそー、他の連中は天草式のお風呂術式でお肌がピカピカになるまで回復してたのに……」

 

 

という訳で、異能なら何でも打ち消してしまう右手、<幻想殺し>を持った当麻は病院にお世話になるしかないのである。

 

でも、今回は病院が違う。

 

いつもいつもあの病院に行くたびに何らしか酷い目に遭ってきたが、今回は学区どころか国さえも違う外国の病院だ。

 

きっとごく普通に治療されて終わりなはず…………だと良いなぁ。

 

しかし、あれだけ暴れたのに、当麻の妹は反比例するように全くと言っていいほど無傷で、いつも通りボロボロになった愚兄とは大違いだ。

 

けれど、精神的に余程疲れたのか、彼の横で担架に運ばれながらぐっすりと熟睡中である。

 

良い夢でも見ているのだろうか、うっとりとしながら……

 

 

「ふふふ……首輪――じゃなくて、マフラーのタグは……zzz」

 

 

しいかの『ねごと』からの『みらいよち』!

 

未来の不幸を予知した。

 

 

「今、何を言おうとした!? つーか、マフラーにタグは必要ないよね、詩歌さん!?」

 

 

妹の寝言に戦々恐々としていると横から、

 

 

「とうま、うるさいんだよ! 病院では静かにしてほしいかも」

 

 

横で、担架と一緒に並走している居候に怒られた。

 

でも、怒っているけどその足取りは妙に軽くて……

 

 

「何でお前はそんなにご機嫌なんだよインデックス! 今回もまた面倒な事に巻き込まれたのに!! ハッ、まさかお前、今回は置いてけぼりにされなかったから、それでご機嫌なんじゃ―――」

 

 

「!?」

 

 

当麻が言い終わる前にインデックスは自分の足を絡ませて廊下で転んでしまう。

 

 

「べっ、別にご機嫌なんかじゃないもん!!」

 

 

「分かったけどお前大丈夫なのか!? ったく、これぐらいの事でそんなに慌ててんじゃねーよインデックス」

 

 

と、若干呆れ果てた声で宥める当麻の横で、

 

 

「当麻さん……首輪が良いですか? ……腕輪が良いですか? ………それとも、は・な・わ?」

 

 

「どんな夢を見てるんでございましょうか、マイシスターッッ!?!? お兄ちゃんはペットでも家畜でもありません事よ!!」

 

 

「え……? 違う? ……zzz」

 

 

当麻の願いが夢の中まで届いたのか、

 

 

「私に、家畜になれと……『牛になって、その胸を揉ませろ』……という事ですか? ……zzz」

 

 

その夢は遙か斜め上の方向へ……

 

 

「違う!! 全っ然、違う!!」

 

 

即座に否定するが、熟睡中の詩歌には聞こえず。

 

 

「その……揉ませるのは良いんですけど……恥ずかしいので、しゃぶるのは勘弁していただけるとありがたいんですが……zzz」

 

 

「だから違うから! お前の夢の中の俺は一体何を要求してんだよ!!」

 

 

「う……あの……頑張ってもまだお乳は出ませんよ、モ、モ~////……zzz」

 

 

「起きろ! 今すぐその夢の中の俺をこの右手でブチ殺してやるから起きろッ!!」

 

 

当麻は、思わず身を乗り出して、顔を赤らめながら悶える詩歌に、この<幻想(ボケ)殺し>との異名を取る右手を振りかざそうとするが、医者と看護師のお姉さんによって担架に押さえつけられてしまう。

 

でも、今度こそ願いが通じたのか、詩歌は再び深い眠りについた。

 

 

「もう、とうまの方が騒がしいんだよ。それから、とうまに、これを掴んでってお医者様が言ってるよ」

 

 

インデックスの言葉を聞いた当麻が医者の方を見ると、何故か彼はコードレスの電話機を握っていた。

 

病院内で良いのだろうか、と思うが、でも冷静に考えると電話ぐらい置いてあるのが普通なのかもしれない。

 

とりあえず、受け取り、すでに繋がっているらしいので受話器に耳を当ててみると聞き慣れた声が届いてきた。

 

 

『君達は旅先でもそんな感じなんだね?』

 

 

カエル顔の医者だった。

 

学園都市では兄妹共々いつもお世話になっている医者である。

 

無茶苦茶な怪我をしては病院(ふりだし)に戻って、罰ゲーム的な生活を送っている当麻としては、このカエル顔って腕は確かなんだろうが、その病院は自分にとって鬼門である、と予測してたりする。

 

 

「ありゃ、何ですかいきなり。ハッ! まさか電話先で患者の診察をするトンデモドクターとか!?」

 

 

『それができれば病院は携帯電話のアプリサービスを始めるべきだろうね? ま、それができない訳だから注文するんだけどさ。君達、今すぐ学園都市に戻ってくるんだ』

 

 

 

………………………………、は?

 

 

 

『いや、冗談でなくてね。如何に学園都市協力派の施設とはいえ、やっぱり能力者の身体を他所の病院に調べたり整えたりするのは色々まずいと思う訳だね?』

 

 

「あの、だね? じゃなくてですね。でも、だって! もしかしてこの状態のまま飛行機に乗れってんですか、10時間近くも!? 言っておきますけど当麻さんはケチョンケチョンで詩歌さんはグーグーなのですよ!?」

 

 

『ああ、それについては大丈夫。マルコポーロ国際空港に学園都市製の超音速旅客機が停まっている筈だから。あれだね、最大時速7000kmオーバーだそうだから、日本まで1時間ちょっとって感じかな?』

 

 

「大型旅客機で!? それは幻のノースアメリカンX-15旅客機とかじゃねぇの!? そんな並のミサイルより速い飛行機に何の訓練も積んでない俺が乗れるモンか!! つーか、詩歌さんはまだモーモーなんですよ!?」

 

 

『何だか支離滅裂になっているようだけど、大丈夫大丈夫。実際に乗った僕だから言えるけど、ちょっと無重力を感じる程度だから』

 

 

「それを1時間もか!? 胃袋の中身が全部逆流しちゃうと思いますけど!! それよりも寝ている最中にそんな事したらモーモーからグモモーッ!! になっちゃいますよ!?」

 

 

『何を言っているかは理解できないけど、大丈夫大丈夫。実際に乗った僕だから言えるけど、そんな事を考えている余裕は最初の10分で消えるはずだから。それに妹を宥めるのは兄の仕事だから僕は関係ないよ』

 

 

何がどう大丈夫なんだよ!! っつか、詩歌がブチ切れんの分かってんじゃねぇか!! と当麻は全力で頭を抱える。

 

 

「お待ちになって! だっ、大体まだイタリアに来て1日しか経ってないんですよ? アドリア海の海水は2回飲んだものの。肝心のヴェネツィアには詩歌さん以外一歩たりとも踏み入れてませんが」

 

 

『おやおやそれだけ経験を積めば満足じゃないか。まぁ、僕から言えるのはただ1つだけかな。……無理なものは無理だから諦めて帰って来い』

 

 

冷たいし何だか投げやりなんですけど!! と当麻はさらに頭を抱える。

 

と、そこで追い討ちをかけるように、

 

 

『そうそう。最近病院に来ている見舞い客の可愛らしい女の子がね、僕が君に連絡を入れると言ったら是非伝えて欲しい事があるとお願いされてしまってね』

 

 

「はぁ???」

 

 

可愛いって誰の事だろう、と当麻は思う。

 

今病院にいるのは、白井黒子か姫神秋沙か。

 

姫神の知り合いだとすると、吹寄制理か小萌先生か、黒子の方へ目をやると初春飾利や佐天涙子、そして、御坂美琴――――

 

 

「――――待て。御坂美琴?」

 

 

うん、とカエル顔の医者は適当に頷いて、

 

 

 

『良く分かったね。何でも、『帰ってきたら<大覇星祭>の罰ゲームは覚悟なさい』だってさ?』

 

 

 

「ぎゃああああああああああ!? すっかり忘れてたああああああああああああああッ!!」

 

 

担架の上で再び暴れ始めた上条当麻を医者や看護師たちが全力で取り押さえた。

 

どうも怪我で錯乱し急を要する状態だと勘違いされたらしい。

 

上条当麻と御坂美琴は<大覇星祭>でちょっとした勝負をして、それに敗北した当麻は美琴の言う事を無条件で聞く、という罰ゲームが強いられるはずだったのだ。

 

それをすっぽかした挙げ句、呑気にイタリアへ旅行へ出かけたと知れたとなれば……

 

 

『あとそれからね。僕はそうじゃないって思ってるんだけど、君、妹と駆け落ちしたって噂されてるよ?』

 

 

「はいいいいいいいいいいいいいいッッ!?!?」

 

 

誰だ!?

 

もしかして、さっき上げた全員か! それとも、病院外まで広がってんのか!!

 

どちらにしても一刻も早く帰って誤解を解かなければ、今度こそ変態シスコン野郎って……

 

 

「待っているのは地獄のみ! より一層帰りたくない! でも、早く帰らないと取り返しがつかなるかもしれない! ああ、でも、こんな噂が流れてるっつうことはビリビリがよりビリビリになってそう……―――うわ、ちょ、放して放して! そのプロの道具で俺を固定するのは本当にやめてーっ!! っっつか、詩歌は早く起きろ!! 寝てたら死ぬぞーっ!!」

 

 

残念な事にこれは強制イベントで、当麻の叫びも空しくガラガラと担架は運ばれていく

 

そんな嘆きを聞き届けたのか、電話は言う。

 

 

『まぁ、その、何だね。お帰りなさい、上条当麻君。それから、詩歌君もそろそろ起きた方がいいよ』

 

 

残念な事に最後の助言は聞き入れられず、到着後、猛牛と化した恐妹を宥めるのに愚兄が苦労することになった。

 

 

 

 

 

イギリス清教の女子寮

 

 

 

日付が変わる前、深夜と呼べる時間帯。

 

ロンドンのランベスにある一角に、イギリス清教徒の為の寮がある。

 

そこを積極的に利用するのはお金がないのが理由ではなく、不意の襲撃に民間人を巻き込みたくないのが主な理由だ。

 

もし襲撃されたとしても、周りがプロの人間なら戦闘に入っても余計な気を使わずに、被害も最小限に済ませられる。

 

 

「そうですか、ご苦労様です」

 

 

そんな寮の一室で告げたのは、神裂火織。

 

東洋人の顔つきで、黒い髪はポニーテイルにしても腰まで届くほど長い。

 

服装は脇で絞った半袖Tシャツに、片足を根元までぶった斬ったジーンズである。

 

本当はさらに2m近い太刀<七天七刀>を腰に携えているのだが、今は壁に立てかけてある。

 

内装は洋室だが、日本にいる時と同様に、土足で入ることは禁じており、和洋折衷といったところか。

 

そして、彼女の前には古風なダイヤル式の赤い陶器に金箔で縁取りされた、完璧にアンティークな電話機があり、同僚の土御門元春と繋がっている。

 

 

『にゃー。っつか、結果報告なら同じ天草式に尋ねろっつーの。情報探るこっちだって割と危ないのよ? そこんトコ分かってんのかにゃー』

 

 

「いっ、今の私はもう天草式の人間ではありません。馴れ馴れしくも語り合うなど、考えるだけで傲慢というべきものです」

 

 

神裂は受話器のコードを人差し指でいじりながら、

 

 

「大体、どの道あなたはヴェネト州近辺で情報収集していたでしょう。タイミングが良すぎるんです、天草式の面子が引っ越しの手伝いでキオッジアにやってきた事も、そしてあの兄妹が<禁書目録>と一緒にイタリアへ入ってきた事も」

 

 

報告では、“偶然”、キオッジアへやってきたオルソラ=アクィナスは<アドリア海の女王>を止める為にイギリス清教から送られてきたと勘違いされてローマ正教から襲撃されたとあるが、これは悪質な引っ掛けではないのだろうか。

 

本当は、偶然ではなく、意図的に勘違いを起こさせるように仕組んだもので、ローマ正教の予測は正しかったのではないかと、神裂は思う。

 

 

『んー、それについちゃ、こっちも色々とあって答えられないんだけどさー』

 

 

「な、何ですか」

 

 

この同僚がこのように間延びした声で語りかけてくるときは、何か企んでいる時で、神裂は警戒心を高める。

 

そして、その予測は間違っていなかったのだが、

 

 

『……ねーちーん、今回もカミやんと詩歌ちゃんに大迷惑をかけちまったにゃー?』

 

 

「ぶっ!?」

 

 

ただし、その威力は神裂の即席で作った心の防波堤では止められなかった。

 

 

『もーどうすんのよー? ねーちん、こりゃすでにメイド服を着て1日ご奉仕程度じゃ収まりつかないぜい。あっ、それならこれでどうだにゃー。オレが持ってる頭の輪っかと白い翼の女天使セットを貸す! メイド服+アルファだ、勝負に出ろよねーちん!! う、うおおっ! 何が天使だちくしょう、こんな可愛げな堕天使が玄関にいたらカミやんはどうなっちまうんだ!?』

 

 

「どっ、どこまでも馬鹿げた事を……ッ!! 大体どうしてあなたはそんなものを所持しているのですか!?」

 

 

『あーいや、本当は舞夏のために買ってきたんだけどにゃー。あの義妹、『メイドはコスプレじゃねぇんダヨ』の一言と共に拳でオレの頬骨を打ちやがって……。いや、これはカミやん共々相談し合っている事なんだが、妹が軍隊仕込みっぽい本気拳って女の子としてどうですかにゃー?』

 

 

「……妹君は年頃なのですから、もう少し配慮があってもよろしいのでは?」

 

 

妹愛に熱い兄なのだろうが、対応の仕方が間違っている、と思い切り脱力しかけた神裂だったが、そこでハッとした。

 

本題はそこではない。

 

 

「ちょっと待って下さい。今回の件はどうせイギリス清教と学園都市のトップたちが事件を解決するために色々と手を回して上条兄妹を巻き込んだだけでしょう。そこにどうして私が関わってくるのですか!?」

 

 

『ああーん? じゃあねーちん、カミやん達に対して何も感謝してない訳?』

 

 

「ううっ!?」

 

 

『あーあー。折角、2人は天草式の皆さんを<女王艦隊>の大嵐から守り抜いたって言うのに、それに対して感謝ゼロどころか私は関係ありません宣言ってか。堕ちたねー神裂火織。カミやんも詩歌ちゃんもこれ聞いたら落胆するぜい。多分あの似た者兄妹は変に優しいから怒ったりもしねーんだ』

 

 

「そ、そんな……。確かにあなたの言葉には一理ありますけど、でもそうしたら私はこれ以上何をどうすれば!? 借りは膨らんでいく一方ではありませんか!!」

 

 

『それにさー。今、詩歌ちゃんが天草式の連中に『姫様』って呼ばれるようになったの知ってる? あの子は、ねーちんとは違って素直に感謝できるから、もう天草式の心をがっちり掴んでいるんだぜい。特に野郎共にとっちゃ人気絶頂のアイドル並。裏で売られてるっつう詩歌ちゃんのプロマイドなんて高値でウハウハ。おかげさまで儲かって儲かって今も左で団扇を扇いでるんだにゃー』

 

 

「わ、私がいない間に彼らは一体……教皇代理の建宮斎字は何をやっているのですか!? というか、あなたが詩歌の写真をばらまいているのでは? それに個人情報まで―――」

 

 

『そんな事よりも! ねーちんも詩歌ちゃんを見習って、誠心誠意の堕天使エロメイドしかねぇっつってんだろう! 仮にも世界で20人もいない<聖人>だってんなら覚悟を決めろよねーちん!! ……、って、あれ? ねーちん、聞いてんのか、ちょっと待て話はまだ――――ッ!!』

 

 

がちゃんと全力で受話器をフックに置いた。

 

しばらく呆然と電話機に目を落としていた神裂は、やがて顔を真っ青にすると、

 

 

「……だ、堕天使メイド……?」

 

 

わなわなと震える両手に目を落とす。

 

色々と元いた組織の現在状況が元女教皇として気になるが、今はまず自分の事だ。

 

とりあえず、部屋の水槽を鏡代わりにして、その横にあった小さめの絵皿を両手で掴み、それを頭の上に添えると、

 

 

「わ、わっかというと、こんなかんじでしょうか。し、しかし、堕天使とは……どのような仕草と話し方を……悪魔と同義、この場合は女性的なもので、男性を対象とするものなら可愛げな小悪魔風―――」

 

 

もしここに、ミーシャ=クロイツェフとして部分的に降臨した大天使<神の力>がいれば、即座に<氷翼>を叩きつけてきそうだが、今の神裂は真剣なのだが混乱しており、しかもその自覚がないから徐々にどつぼに嵌っていく。

 

なので、間違った方向へ突き進んで行ってしまった結果、世界で20人もいない荘厳たる<聖人>は、一瞬だけ沈黙した後、小首を傾げて、

 

 

 

「―――、な、なのですよー、とうま? しい『キンコーン』―――ッッッ!?」

 

 

 

不意にチャイムの音が鳴った。

 

ビクゥ!! と神裂は両肩を跳ね上がらせて驚愕し絵皿を慌てて頭の上から離す。

 

その主人の様子に、水槽を住処としている小さな熱帯魚は、ギュバーッ!! と高速で奥の岩場に逃げ込む。

 

神裂は高性能な<聖人>の能力を無駄に活用し、高速で周囲を確認、誰の人影もない事を気配で察知。

 

それから、片手に胸を当ててから<七天七刀>を手にして武道の心得を思い返し、そっと息を吐いて落ち着いてから、部屋の出入り口のドアを開けて、外へ出る。

 

寮には、各部屋の他にも玄関に配達業者などが使う来客用のベルが設置されており、そうではないが、あまり仕事に熱心ではない怠け者の管理人に代わって神裂が対応する事がほとんど。

 

今回もまた管理人室でテレビを点けっ放しにしながら、管理人の婦人はうつらうつらしている。

 

なので、仕方ないので神裂が寮の扉を開けた。

 

と、玄関口の前に立っていたのはオルソラ=アクィナスだった。

 

 

「た、ただいまでございますよ」

 

 

「はぁ。お帰りなさい、オルソラ」

 

 

神裂はキョトンとした顔で同居人を出迎える。

 

住人ならわざわざベルを鳴らす必要はないのだが、今のオルソラは両手に旅行鞄を引っ提げて、背中にザックを背負い、さらにたすきがけのようにスポーツバックの肩紐を下げている。

 

もう、そのまま登山に出かけられそうな重装備でとてもじゃないが鍵を取り出す余裕もないのは良く分かる。

 

でも、

 

 

「オルソラ、あなたの荷物は先に送ったはずでは?」

 

 

「えへへ。途中で荷物が増えちゃったのでございますよ」

 

 

「???」

 

 

イタリアでお土産でも買ってきたのか、それとも餞別の品でも貰ったのだろうか。

 

訝しむ神裂の前でオルソラは笑いながら、道を譲るように横へ逸れた。

 

おや、と神裂は僅かに眉を上げる。

 

オルソラの陰に小さなシスターが隠れていた。

 

直接会った事はないが、名前と顔は知っている。

 

アニェーゼ=サンクティスだ。

 

 

 

「後からもっと大勢来るので、この寮も賑やかになるのでございますよ」

 

 

 

この日、イギリス清教女子寮に250人という月間どころか年間、下手したら設立当初から現在までの総合すらをも超える日間入居者記録を樹立した。

 

 

 

 

 

バチカン 聖ピエトロ大聖堂

 

 

 

バチカン、聖ピエトロ大聖堂。

 

ローマ正教の総本山たる世界最大の聖堂に、その静謐な空気を荒々しく引き裂くような足音が響く。

 

 

「チッ、結局ブゾーニの馬鹿が失敗したってコトよ。しかも<アドリア海の女王>の核部分まで破壊されて、二度と再現はできないときたモンだ。……全く、<刻限のロザリオ>を考案し、組み立て、実用にまで漕ぎつけた事は誰のおかげだと思ってんだか。こっちとしちゃ納得がいかないのよ。何より納得できないのはアイツが行方不明だってコトよ! 誰だ庇ってんのは! このストレスはどこに向けて発散すりゃ良いってのよ!!」

 

 

闇に包まれ聖堂を歩くのは2人の男女だ。

 

ステンドグラスから差し込む月明かりはあまりに弱く、2人の細部は分からない。

 

浮かぶのはシルエット。

 

1人は老人らしき、腰の曲がった男のもの。

 

そして、もう1人は若い女性らしき、メリハリのある人影だった。

 

 

「……しかしな、いくらお前であっても、あれは少々性急に過ぎた。イギリス清教の介入は予想外とはいえ、そうでなくても壁は幾つにもわたって点在しておった。……正直に語る。介入が無くとも、ビショップ・ビアージオは成功しなかった。あやつに、破綻に対処するだけの能力を期待するのは間違っている」

 

 

「アンタ誰にモノ言ってんのよ? 私がやれっつったコトはやんの。それが世界の法則ってモンでしょ。馬鹿馬鹿しい、この期に及んでまだそんな事も学んでないの?」

 

 

「貴様こそ、誰に口を開いているのか理解は追い付いているか」

 

 

老人の気配に重みが増す。

 

それはまるで、地に足を付ける全ての者に命令するような鋭い声音。

 

そう、この者こそ、数多くの候補者を撥ね退けて頂点に立ったローマ正教のトップ、ローマ教皇。

 

その誇りを侮辱する事は決して許される事ではなく、その命令はローマ正教徒であるなら絶対だ――――が、

 

 

 

「ローマ教皇でしょ。そんなコトがどうしたの?」

 

 

 

それはあくまで“表側”でのことだ。

 

何においても例外は存在する。

 

人に選ばれずとも、人に選ばれし者の上に立つ者。

 

主に選ばれたという唯一無二の証を持つ者。

 

だが、その事はほとんどの者は知らない。

 

だからこそ、本当の権力者

 

本物に力があり、主に選ばれた者は、その詳細を皆に知られない。

 

それは、天から下界を見守っているという神と同じ事。

 

そして、彼女達はその上を目指す者たち。

 

すなわち、『神上』。

 

ローマ正教を動かしているのは、支配しているのは、この老人、“幾らでも代わりのいる”ローマ教皇ではない。

 

 

「ッ!!」

 

 

直後、老人がグルリと首を回した。

 

 

バチン!! と不可解な破裂音が響き渡る。

 

 

理解のできない状況に対し、やはり女性のシルエットは動きもしない。

 

ただ、両者の緊張感と余裕の態度が、この理解不能の攻防の結果と20億人ものローマ正教徒から選挙によって選ばれたローマ教皇と彼女との力関係を如実に表していた。

 

 

「良い悪意」

 

 

女性はくつくつと笑う。

 

 

「しかし、私に悪意を向ければアンタは死ぬってコトだけど?」

 

 

告げて、女性は舌を出した。

 

じゃりり、という金属を擦る音が聞こえる。

 

彼女の舌にはピアスが留めてあり、そこからネックレスに使うような細い鎖が繋がり、腰の下まで伸びている。

 

その鎖の先端には小さな十字架が取り付けてあった。

 

 

「……、」

 

 

老人は、女性から一歩分だけ距離を取る。

 

忌々しさと、同時に僅かな羨望を込めて呟かれるのは、

 

 

「―――<神の右席>。教皇程度では響かぬか」

 

 

「私が属するその『枠組み』の名を知ってるコトだけでも、アンタは割と上部にいるってコトなんだけど。やっぱりそれじゃ満足できないんだ?」

 

 

上部であっても、最上部ではない。

 

人に選ばれし者では辿り着けない高みから、笑って見下すように、その女性はローマ教皇に向かって2枚の用紙を突き出す。

 

 

「コイツに目を通してサインしなさい」

 

 

「この私に命令形か。……、待て。この書類は……」

 

 

「アンタもいずれ用意するつもりだったコトでしょ。2年後か3年後かしら。それを私が縮めてあげたってだけのコト。面倒だけど、アンタのサインには力があるんだから。陽が昇る前にやりなさいよ。自分の名前を書くコトぐらいすぐに終わるでしょ」

 

 

「しかし……」

 

 

老人は僅かに躊躇した風に、

 

 

「……私はやはり納得がいかん。魔術に深く関わる者ならともかく、彼の者達は単に主を知らぬだけだろう。異教への信仰は罪だが、知らぬだけならまだ救いの道はある。それに対して、“アレ”まで持ち出す事になると、私も否定的な意見を述べねば。“アレ”を封じ込めるのに何人の人間が犠牲になったと思っている。絶対に起こしてはならん。下手をすれば、大勢の人間が……」

 

 

「この私に否定形はない」

 

 

女性のシルエットは一言で断じた。

 

 

「受動形、命令形、連用形、連体系、已然形、未然形、終止形、仮定形、後は何だっけ? まぁ別に何でもいいんだけど、否定だけは認めていない。私がやれっつったコトはやるの。聖ピエトロだろうが<神の子>だろうが、その法則は変わらない。だからアンタは書類にサインをする。分かった?」

 

 

老人は書類を手にしたまま、迷う。

 

 

「あと、あそこにいるのは全員異教。何人死のうが私達は痛くも痒くもないってコト。そして、私は科学が憎い……。それに“アレ”は私に敵意を向けないだろうしね」

 

 

だが、苦渋を噛み締めながらも、小さく頷いた。

 

 

「よろしい♪」

 

 

告げると、女性のシルエットは闇に消えた。

 

本当に姿を消したのか、あるいはそういう風に見せかけたのか。

 

老人は考えなかった。

 

使われた術式が解析できなくても問題はない。

 

どの道、あの女は自分の先を行く者だ。

 

それが上なのかどうか判断がつかないが。

 

代わりに書類に目を落とした。

 

明かりがほとんど落とされた大聖堂には、ステンドガラスから射し込む淡い月の光だけしかない。

 

ほとんど暗がりに紛れて見えなくなっている文字を、しかし老人は負い続ける。

 

 

(……少々早急過ぎる。あやつの癖か)

 

 

思ったが、自分に彼女を止める力はない。

 

本人が言った通り、あの女に否定形はない。

 

老人は忌々しげに、自分の居室へ戻る事にする。

 

ここにペンはない。

 

この書類のうち1枚は、“アレ”の許可証。

 

そして、もう1枚には訳すとこう書いてあった。

 

 

 

 

 

『上条当麻、上条詩歌。上記の者を速やかに調査し、主の敵と認められし場合は確実に殺害せよ』

 

 

 

 

 

実質的にはローマ正教が総力を挙げ、たとえ<神の右席>を使ってでも確実に暗殺を行う為の申請書類だった。

 

命令は、5日も待たずに実行される。

 

 

 

 

 

イギリス

 

 

 

『―――私みたいな傭兵崩れが、彼女の面倒をみるべきではなかった……

 

あの一件で、村を焼かれ、両親に死なれ、身寄りのない子供になった。

 

私の傭兵としての知識が必要である、……生きていく為の芯としても。

 

その時、私はそう思った。

 

だから、私は彼女に乞われるまま、最低限の身を守る術を彼女に教え込んだ。

 

……魔術も、武器の握り方さえも。

 

いずれ、それは独り立ちする時、必ず役に立つと……

 

 

 

だが……やはり、それは間違いだった。

 

 

 

それに気が付いたのは、ナタリアがあの屋敷に溶け込み始め、もう1人でもやっていけると思った時……彼女が騎士となると言い出した時だ。

 

その時、見せてもらった彼女の腕は、もう私が教えた護身術という範囲を大きく逸脱していた。

 

彼女の執念を見誤っていた。

 

そう、傭兵崩れのゴロツキが彼女の為に良かれとしたことは、何も知らぬ娘を、一人の傭兵として育て上げただけだった。

 

私は、ナタリアから、普通の娘が送る幸せを奪い、血生臭い戦場へ送ってしまったのだ。

 

 

―――私みたいな男が……面倒をみるべきではなかった。

 

 

もう一度、現実というのを教え込もうと、凄惨な戦場へ連れて行ったが、それすらも逆効果で―――忠誠を誓った主さえもできてしまった。

 

もう、私に止める事は出来ない。

 

だから、頼む古き友よ。

 

どうか…………………                  』

 

 

 

 

 

 

 

長槍が壁に埋め込まり、西洋剣が地面に突き立ち、長弓が遠くに転がっている。

 

両者の戦いは、およそ“入団試験”とは思えない、苛烈なものだった。

 

彼らの周囲にいる部下である男達の誰もが、この<騎士団長>自ら試験管を務めた結果に沈黙している。

 

 

(なるほど、な……)

 

 

ピクリとも動かない。

 

如何に、本来の得物ではなく、支給品の武器で対峙し、手加減したとはいえ、やられたのは演技などではない。

 

武器を弾き飛ばされ、身動きを封じられた。

 

己を封じ込めた蛇腹剣の先。

 

そこには、精錬された物腰と静謐な鎧を纏い―――仮面のない素顔の少女がいた。

 

 

「何故、この手段を取った?」

 

 

歴戦の騎士の問答に、切らした息を整えてから、彼女は応える。

 

 

「私が主と仰いだ者、争いを、味方の、敵の血をも嫌うお方です。なればこそ、騎士たる私も血塗れでいる訳にはいきません」

 

 

主に仕える為、義父の想いに応える為、そして、あの強敵に負けない為に。

 

故に、刺殺でも、撲殺でも、射殺ではなく、“捕縛”を優先に戦略を組み立てた。

 

 

(……全くこんな子を長年放任し、結局、最後は押し付けやがったあの野郎も大概だが、それでも、ここまで育ったこの子は大したものだ)

 

 

あの不器用過ぎる古き友の背中を追い続けたこの少女に同情しながらも、その力量を認める。

 

でも、

 

 

「――――青いな」

 

 

「ッ!!」

 

 

グン、と。

 

 

「―――ゼロにする」

 

 

強引に蛇腹剣を素手で掴むと振り回す。

 

宙に振り回された後、少女の身体は地面に勢い良く叩きつけられた。

 

 

「が―――っ!!」

 

 

ほんの一瞬だけ意識が途絶えた。

 

その拍子に拘束は解け、<騎士団長>は解放される。

 

 

「そうしたいなら、まずは力を付けるべきだな。あそこでは麒麟児だと言われていたようだが、この程度では役不足だ」

 

 

だから、

 

 

「鍛え直してやる。徹底的にな。着いて来い」

 

 

「は、はいっ!!」

 

 

ぱあっと少女、ナタリア=オルウェルの顔が輝く。

 

散らばった武器を回収すると、すぐに『騎士派』の長、<騎士団長>の後を追う。

 

その足音を感じ取りながら、あの紹介状をもう一度思い返す。

 

 

 

『どうか、彼女に『盾の紋章(エスカッション)』を与えてやって欲しい。

 

願わくば、最も血生臭い戦場から離れた第三王女の………       』

 

 

 

(良いだろう、ウィリアム。だが、早く戻って来れなければ、貴様の場所が無くなっているかもしれんぞ)

 

 

 

つづく


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