とある愚兄賢妹の物語   作:夜草

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大覇星祭編 月明星稀

大覇星祭編 月明星稀

 

 

 

第二学区 荒れ地

 

 

「―――来たか!」

 

 轟音と爆風が、すべてをひしいだ。

 多勢であろうと圧倒的なベクトルが貫通する。純粋な威力だけでいえば、第七位の<念動砲弾(サイコクラッシュ)>さえ凌駕する凄まじさであった。

 その威力が激しすぎる故、常に加減を意識された第三位の全力。

 爆風にまぎれて、磔から解放した軍覇と当麻の身体が揃って跳んだ。

 錆釘の包囲網が崩壊した。

 一方向でしか弾丸は放てない。しかし、包囲網に一つ穴が開けば、そこから脱出することができる。

 

「待たせたわね」

 

 静寂と膠着は―――数秒のことであった。

 

「■■――■■――」

 

 固まった雷神から、錆釘の嵐雨は、対象を変えて吹き荒れた。

 フェイントも兼ねてか、大きく弧を描いた釘の怒涛は、途中で半壊したがまだ建物としての原型を保っているビルを巻き込んで崩落させ、死の雪崩と化した。

 少女は動かない。

 動けないのか。

 圧倒的な同系統の上位能力者の気配はそれを浴びただけで、気絶してしまいかねない衝撃を受ける。お姉様(オリジナル)であろうと、すでに超能力(Level5)から逸脱した存在。それが振りかざす暴力で雪崩が少女を飲み込もうとした瞬間、アスファルトの地面が持ち上がり、灰色の砦が屹立した。

 即席、地磁気に干渉して、卓袱台返しのように地盤を持ち上げた力任せの盾壁である。

 

「っらぁ!!」

 

 しかもひとつではなく、雷神の視界を塞ぐように何重にも亘って聳え立ち、轟音と共に負傷者を回収も同時作業でこなした。

 軍覇に肩を貸していた当麻が、その足下の地面が浮遊し、釘が愚兄らの影を貫いた時、ふたりの実体は足下ごと空を舞っていた。そのまま少女の背後へと避難させた。

 バチッ、と渦巻く紫電を纏う気配。

 少女の四方――地磁気を基準に正確に、東西南北より湧き上がった砂鉄の鞭が、それぞれが意思を持つ如く、追ってくる錆釘へと絡みつき、更にその上からコーティングして、その電磁力の支配権を奪いにかかる。

 超能力者序列第三位と量産型能力者改の、拮抗。

 その力場の網を広げて、そこに安全な空白地帯を創り出す。

 怯んでいない。むしろ、全開以上で能力を発揮している!

 

「御、坂―――っ!」

 

「ごめん。遅くなった。でも―――」

 

 美琴が、言葉を切る。

 刹那、愚兄らを回収した浮遊地盤に美琴から飛び乗り、再急発進させた。

 次の瞬間、錆釘の雨に晒され、着地点のアスファルトは砂場の如くに崩壊した

 異様な振動が、空気を渡った。

 単に貫いたのではない。突き刺さった錆釘から渡った振動が、アスファルトの分子結合を破壊したのだ。

 アスファルトだけではない。

 錆釘を覆った砂鉄の上塗りも、その振動に掻き剥がされた。

 

「■■■――――■■」

 

 錆びれた声と共に、操縦する能力者が乗り込み一層機動力を増した浮遊地盤の後を追尾し、数百という釘が大気を裂く。

 錆釘の刺さった場所が、次々と崩壊した。

 信号機がひとつの釘に支柱の中央から真っ二つの折れ、まだ被害に遭っていなかった数十mもの高層ビルが斜めに傾いで崩れた。

 もはや―――量産型能力者改は学園都市を訪れた災厄そのものであった。

 その手が翻るたびに、錆釘の津波さえも方向を変え、毒蛇の如くこちらへ殺到する。遮るものは、超振動によって塵と変えられる。

 電撃の槍で掃ったものでさえも、すぐさまAIM拡散力場を融け込ませて修復されるの繰り返し。

 

「か……っ!」

 

 凄まじい加速度に胃液を撹拌されて、愚兄が絶息する。肺も胃液も圧搾するような不規則な移動。だけど、追いつかれれば、終わりだ。脳裏をよぎったイメージは、万の錆釘に串刺しにされた自分らの死体だ。

 無尽とも思える錆釘と瓦礫の襲来を、辛うじて避けているが、決定打に欠けてはいかんともしがたい。

 

 そして、『門』は依然と、少しずつ開かれていき、零れ出る黒い海が侵食を広げていく。

 

 

「―――よし、役者は揃った。俺の出番だな。ちょっと錆釘(アレ)を止めてくる」

 

 

 と。

 了解も得ず、その第七位は地面に飛び降りた。

 

「ちょっ、アンタ―――「行くぞ、御坂」」

 

 その行動に、少女は一瞬躊躇い、愚兄の声が前を向かす。

 

(まあ……大丈夫だろ)

 

 と、当麻は胸の内で苦笑した。

 そう。

 悩む必要などない。

 短いながらもコンビを組んだ。だからわかる。

 軍覇は言った。ならば、やる。

 有言実行。どんな理屈が不可能だと言おうと、根性で押し通すのだ。無理を貫けば道理が引っ込む。

 負傷していようが関係ない、手は出せない。あの漢の背中に対して、信じて振り向かない以外に何をしてやれるのか。

 

「―――そっちは任せたぞ、軍覇」

 

 何の不安もなく、当麻は前を向いた。

 賢妹に近付く野郎ではあるが、その根性中心の行動力は愚兄として信頼していた。

 

「ちょっとアイツ怪我してたじゃない!? あのまま放置したら、釘刺しになるわよ!」

 

「軍覇なら根性で血も止めるし、骨もくっつかせる。釘だって根性で跳ね返しちまうだろうな。まあ、なんだ、結局、その身にあまりある根性で何とかする奴なんだよ。だから、ここはアイツひとりで問題ない―――」

 

 何の根拠もない発言も、途中で、風に紛れた。

 原因はすぐに判明。

 拳を作った両手を合わせて仁王立ちする第七位の、周囲に混沌も言えるほどカラフルな何かが渦巻いているのだ。

 ぞんっ、と大気が裂けた。

 無数の錆釘が迸り、ひとつひとつが第七位、とその背後に逃げる愚兄とお姉様(オリジナル)の命に飢えた怪物と化して、あらゆる角度から牙を剥く。

 

 

「ああ、一本たりとも逃さん。ここは俺に任せてぶちかましてこい!!」

 

 

 一喝。

 天上の黒い八雲を吹き飛ばさんとする勢いで、削板軍覇は万歳するよう両手を挙げた。

 発現する巨大な、天をも突かんばかりに巨大な100m級の念動力の壁は、降り注ぐ錆釘の雨の傘となるよう。

 穿とうとする錆釘は、着弾と同時に、振動する。

 それは、理解不能の力の塊であろうと障害となる壁を崩し、第七位を串刺しにするはずであった。

 瞬間、ぐんにゃり、と奇妙に―――蜃気楼のように大気が歪んだ。

 念動力の壁が、錆釘を受け止めたと同時に、軟らかく――振動の影響を大きく受ける硬い性質から変化し――錆釘を飲み込んだのだ。

 つい先ほど、第三位が己の電磁力を纏わせた砂鉄でコーティングしようとしたように。

 

「大人しく……してやがれ!!!!!!」

 

 螺旋に捻じれた錆釘の群れは、予測不能な事態にあって尚、第七位を回避するルートを考慮に入れていた。第七位に阻まれようと宙を泳ぐ錆釘は、こちらに迫ろうとする標的の身体を貫く確信があった。

 だが、それをも考慮していた――全てを止めると宣言した――第七位が創る不可視の壁は更に拡大して、錆釘全部を捕まえていた。

 ビッカァ!! と軍覇は両目から閃光を迸らせ、真上に持ち上げた両腕の血管が破裂するも、それでも念動力の壁を限界を超えて維持し続ける。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 天上から集められるナニカが凝縮していく。

 ひどく禍々しく―――いいや、そんな形容も程遠い、ただただ卓絶した気配。それを彼女の性能では完全には抑えきることができず、取りこぼしたものが地面に海を作っている。

 

「■■■――■■■■」

 

 気配の圧力(プレッシャー)が、物理的な『力』へと変わった。

 烈風が吹き荒れる。あたかも、無から有を生じさせた償いの如く、最大クラスの嵐が、その規模だけを圧縮されたかのように、これ以上の立ち入りを阻む、観測不能の壁となる。

 量産型能力者改が放出する力場が別世界のナニカを引き寄せて、実体化しつつあるのだ。単に阻むだけではなく、世界を侵食する形で。

 その中心たる歪んだ黒球。

 光と音と風に飽きたらず、漆黒の闇そのものを吸い上げんとするような、その暴食の空間こそが、ふたりの瞳を惹きつけていた。

 

「止めねぇ、とな」

 

 上条当麻が手を持ち上げる。

 愚兄の意志というより、『力』に持ち上げさせられた。

 既に、愚兄の右腕には異常なまでの『力』が満ちていた。腕の神経と骨の間で、内圧が凶暴に膨れ上がり、一刻も早く解き放たねば逆に愚兄を引きちぎりかねないほどに猛っている。肉を噛み、骨を潰し、その『力』の方が愚兄を喰らっているようだった。

 

 ―――アレは、“殺さ”ないとダメだ。

 

 学園都市崩壊は間違いない、と前兆に右腕は震える。

 それを阻むは、暗黒洋の海。掃おうにも右手ひとつでは波ひとつも返せず、呑まれれば終わりだ。

 

「私の、番のようね」

 

 御坂美琴は、戦いながら学習した。その『門』の閉ざし方を。同じであるならば、できないはずがない。

 同じDNAマップから生まれた同じ発電系能力。

 別の次元と繋がった黒球の『門』も、そこから零れる暗黒洋の海も、同じ力――オリジナルである<超電磁砲>に干渉できないはずがない。

 何よりもアレは……

 

「その前に、アンタに言うことがあるわ」

 

「何だ」

 

 

「私は、詩歌さんを殺そうとした。その意味、アンタはわかるでしょ。そして、最悪、またそうなる可能性がないわけじゃない。だから、もし……私がまた暴走したら、もう、見捨てていいから」

 

 正直、身体はまた震え始めている。

 アレの破滅を恐れているからではない。共振するように。あの“感情”にまた同情してしまいそうになっているのだ。

 

「しゃんとしろ、御坂。お前は戦う前から負けるつもりなのか?」

 

「そんなわけないじゃない! 負ける気だったら、足手纏いになるんだったらここに来ないわよ。それに、私は勝たなくちゃいけない。勝つって()って来たんだから」

 

 だから、最悪の時はこの身体で覆える大きさまで圧縮して抱いたまま爆発させれば―――何とか、この街を、守れるはずだ。

 最低限の、責任は果たせるはず。

 アレは能力ではなく、きっと心が呼びだしてしまったもの。

 だから……

 

「……わかった。万が一の不幸で……お前が負けそうになったら。その時は俺が―――責任とってやるよ」

 

 ひとつ、息を吐いて、そう言ってくれた。

 

「お願いね。じゃあ、道を作るから下がってなさい」

 

 愚兄にそういい、御坂美琴は前に出た。

 

 それまで愚兄が視界の面でも壁となり遮っていたものを見て覚えたのは、心の底をグチャグチャと掻き乱すような不快感。濃密に、全身にベッタリと張り付くような負の感情を垂れ流しにしている“何か”が、その先にいる。

 獲物を貪欲に狙う獰猛な飢えた肉食獣とも違う、獲物に血を吸わせることを快楽とするような殺人鬼のそれとも違う。一点の光もない闇の塊。

 もし悪魔がいるとのだとすれば、きっとこんな感じなのだろう。

 

 そして、視界ではなく、光の情報を受信する目には分析できない(見れない)、その“闇”に、自らのAIM拡散力場が、触れた。

 

 

 直後に、御坂美琴の世界が斜め60度ほどに傾いだ。

 

 

「……ぁっ、うぐぅあ……ッッッ!?!?!?」

 

 

「御坂!!」

 

 間近にいるはずの愚兄の声が果てしなく遠くから聞こえるよう。世界が傾いて、未確認の<妹達>も同じく傾いている、騙し絵の如き光景の中で、気付く。

 傾いているのは、世界ではない。コレが干渉しているのは視界や物理法則ではなく、<自分だけの現実(パーソナルリアリティ)>そのものだ。

 同じであるからこそ、その影響は誰よりも強く出た。

 

 ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ……と。

 

 『門』を頭上に掲げる量産型能力者改の身体が、より『大いなる何か』に命令されたかのように、首を回して美琴を見た。

 観測される。

 ぴきり、と。プラスチックの板が折り曲げられたような。

 見られた―――それだけで、傾いていた世界が屈折、ぴしり、ぱきり、ぴしぱき、ピキバキパキポキボキベキペキ!! と留まらず更に屈折されていき折り曲がる。三半規管も狂ったようで、もはや前後左右どころか、上下の概念すら消失した。

 深く同調してしまった世界の歪曲に、極度の酩酊感に意識を失いかけ、ぐらりと歪む景色に堕ちるように呑まれた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 電子情報に変換されて流れ込む情報の海。

 全員に泥のようなものが絡みつき、眠りに落ちる寸前のような感覚の遮断。

 気付けば、意識は闇の中。方角すらわからない黒い闇の中へ放り出されていた。

 広がる外界から捻り切られた内界――“あの子たち”の意思なのだと気付くまで、数秒。

 

 空間に染みつくような強い気配がある。

 視覚的な情報が得られない暗黒の中でも、その染みのような気配を感覚が認識し、姿は見えずとも勝手に想像が補って、錯覚を生み出す。

 情報取得の大部分を占める視覚を曖昧にする闇に対する恐怖心が、そこにもしない幽霊を自分で生み出してしまうのと同じ仕組みだ。

 

 

 だから、これは“あの子たち”の(記憶)を見て、私の心が生み出した光景。

 

 

 漂うのは酷い悪臭。肉の臭い、臓物の臭い、吐瀉物の臭い……

 もう、それでわかった。実際に見たことはないが、これがそうなのだと知っている。

 

 

 ―――それが、この街の闇よ。

 

 

 信じてきた世界。

 その正体が嘘で塗りたくられた虚構のモノ。

 その陰に、裏に、暗く濁った暗闇の深奥に、積み上げられた死体の山があった。

 

 

 ―――それが、この街の闇よ。

 

 

 見させられた、この街の闇。

 学園都市は実験場、生徒は皆実験動物。

 <妹達>はその典型的な、実験場で生み出された実験動物。

 

 

 ―――それが、この街の闇よ。

 

 

 表面化していなかった『ミサカ』の大いなる意思。

 それには希望を除いたパンドラの箱の全てが詰まっている。あらゆる災厄、あらゆる絶望が流入し、収束し、汚泥の如く降り注ぎ続けている。

 無情な研究者の瞳、無知な子供が己のDNAマップを差し出し、それによって産まれた生命は実験で使い潰される。

 

 グシャリグシャリ。

 繰り返し繰り返し。

 グシャリグシャリ。

 処理処理処理処理。

 

 血肉は別の個体に片付けさせる。死体(ゴミ)の処理などに人材を割きたくない。ならば、簡単な作業だ、まだ出番の来ない個体でも可能だ。どうせ人形は人形が潰されたところで何も思わないだろう。

 確かにどうということはなかった。全く問題ない。世界に大いなる視点とやらで考えれば、こんなものはタンパク質の汚泥に過ぎない。

 その汚泥から残留した意思が、澱となって底の底に溜まり始めた。

 この街は地獄であり、煉獄であり、人ならぬケダモノ達が住まう巣窟である。

 

 

 ―――それが、この街の闇よ。

 

 

 醜い。

 あまりに醜い。

 侮っていた。巨悪がいる。誰か、途轍もない悪人がいて、それがこの街を支配している。だけど、これは“システム”でもあったのだ。この街が創られた意義を果たす為に実験動物は消費される、科学の発展のために必要不可欠であった不良債権。

 巻き込まれた人間は多い。加害者は多い。被害者も多い。だが、彼らを弾劾する権利はない。全てを救えることも出来ない。不可能なのだ。救うという行為そのものが、システムには認識できない。

 大切な思い出、色鮮やかだったはずの光景が色褪せていく

 

 

 ―――そう、それがこの街の正体よ。

 

 

 厭な音が。頭の中を雑音塗れにする。

 雑音。雑音雑音雑音雑音―――けれど、雑音(ノイズ)は正しい。

 

 生きていくには闇に呑まれて家畜として生きるか、その闇ごと破壊するか。

 それ以外の選択肢はない……。

 

「―――認めるのか、御坂」

 

 声が、聴こえた。

 もはやどこから聴こえてくるかわからない。反響しているようで、傍に居ながら遠くから発せられたよう。

 それでも、どうにか、ひとつ、頷いた。

 

「ああ、わかってる。ちゃんと責任取って―――」

 

 逃げて。

 幼馴染を――お姉ちゃんを連れて、ここから離れて。

 私は、私の責任を取って―――

 

 

「―――詩歌に代わって、お前を止めてやる」

 

 

 ―――違う!!!

 違う違う違う違う違う違う違う!!!

 なんで!? どうして!? 命を賭して止めてくれたのに、私はまた踏み外そうとしているのに! アンタの大事なものを無駄にしてしまったのに!

 

「詩歌を殺そうとした事が、お前の本当の望みなのか?」

 

 ひそやかに、その言葉は『御坂美琴』の胸を貫く。

 

「いいや、違う」

 

 強く。

 その胸に、断定は釘となって刺さる。

 

「お前は、勝つと言った。絶対に勝つと誓った」

 

 言葉に叩かれて、釘は胸の奥に沈んでいく。乖離してしまいかけた心を、強く打ちつける。

 

 

「だったら、バカなことを何回しようが、そのたびに俺が、お前が嫌な『弱い御坂美琴』という幻想をぶち殺す!」

 

 

 ―――この街の闇を、覗いた。

 

 それでもその闇から救い出してくれたのは、この街の人間だった。

 

 思い出す。

 

 この世界が、とても大変で、とても悲しくて、とても恐ろしい場所だと知った。時々、そんな場所は間違ってると思うこともある。

 

 ひとつひとつを噛み締めてから、顔を上げる。

 

 だけど、それだけの世界じゃない。

 

 ムカつくことは多い。

 自棄になることだってあった。

 

 それでも私はこの街を嫌いになれない。

 

 

 “何一つ失うことなく、みんなで笑って帰るのが俺の夢だ”

 

 

 そして、その言葉が美しいと思う。純粋で気高く、とても尊いと感じる。

 

 だから、それは、私の夢であるんだ。

 

 

 ―――傷つき、嘆き、絶望し、消えない悔いに打ちひしがれ。

 

 ―――それでも戦うと決めた時のために、

 

 ―――それは傷つけるための力ではなく

 

 ―――傷つけて、傷ついて、それでも守りたいものがあった時、戦うための力。

 

 

 これが、彼ら兄妹の、モチベーション。

 その夢のために、全力死力を尽くして戦い挑むその背中。

 私は、今、それに追いつくんだ。

 大事な者たちだって、大勢いる。この街がなければ、出会えなかった。己が背負うもの全てを噛み締めて奮起する。

 

 負けられない。

 負けられない、負けられるはずがない……!!!

 

 アレは、『御坂美琴』だ。

 ここで負けることは、私自身に負けるということ。

 怒りに呑まれる私の心は弱かった。その怒りが正しいと受け入れた時点で、私の心は負けていた。

 その怒りは正しい。ただ正しいだけ。そんなものに目を曇らせてなんかいられない。

 

「雑音のくせに正しかったから、空っぽになって聞き入ってしまった。でも、間違ったノイズなんてただの雑音と変わらない。そんなものに振り回されるほど、私は弱くない! そこまで弱くない! 自分の弱さなんてとっくに思い知ってるわよ! だから、私は強くなる! 今日で弱い私と決別するためにここにいる!!!」

 

 そのために、私は勝つ。

 その怒りがこの街を憎悪するように。

 私も全力を尽くして―――『御坂美琴』を打ち破る!

 

「―――ごめん。さっきの提案は却下よ」

 

 目を、覚ました。

 視界は良好。感度も問題ない。ちょっと驚いた間抜け顔の、私を困難な道へと歩ませた無責任な協力者も見えている。

 

「おはよう御坂。正気に戻ったみたいだな」

 

「ええ、すぐに見返してやるから、まだ手を出さないで見てなさい。アンタの力はコイツを吹っ飛ばしてから借りるとするわ」

 

 暗黒洋の海に、紫電が走る。

 海面が沸騰したように泡立ち、大きく波を起こして揺れ始める。だが、海そのものは依然として動かない。一杯のバケツで海から水をからにしようとするような作業だ。

 神経系が焼けるほどの痛みに耐えて必死に支配しようとする。だがそれでLevel5とLevel5.3の差が覆るわけがない。既に精神論は使い果たした。これ以上の上乗せできるほどのモノはもってない。

 悔しいことに足りないのだ、強度が。

 更なる暴走を続けて、学園都市そのものを己のモノとしたものが、個人で抗おうなど多勢に無勢。愚兄は最後の突破口として控えていなければならない。余分に戦力を介入させてしまえば最後の好機を失ってしまう。

 

(くそ……くそくそくそ、私ひとりじゃ抑えきれない……!!)

 

 押し迫る暗黒洋(やみわだ)の海。痛みよりも悔しさでまた泣きそうだ。

 限界目いっぱいの力を振り絞っても勝機が見えてこない。

 

 “あのまま暴走に任せていれば天上の意思に辿りつけたんだよ?”

 

 自分の限界が此処止まりとその声が嘲笑う。

 折角の成長の機会を不意にしたことをその声は非難する。

 どれだけ全力を尽くしても、己も壊せずに踏み止まってしまったものには追いつけない。

 それでも。

 途中で諦めたら、絶対後悔する。脳神経の全部を焼き切れようと、やり通さなければ……

 

「う、あ……あ……」

 

 そう思いながらも意識が途切れそうになった―――その時。

 

 

 不意に突き上げるような勢いでナニカが流れ込んできた。

 

 

 何、なの―――これ?

 膨大な力の塊というべきか、この場一帯が、“大いなる負の感情”とは別の力で満ちたというべきか……これは御坂美琴でも、<妹達>でもない。ミサカとは別の存在なのだとはっきりわかる。

 暗黒洋で充満している力場にも染まる事のない濃密な力だ……

 そして背中から押しこむような確かな気配に鼓動が跳ねる。

 美琴は自分の両腕を後ろから掴む何かをぼんやりと見て―――

 

「っ………!?」

 

 激痛が全身を駆け巡る。だが同時に、御坂美琴の総身に光の速さを上回る速度で力が駆け巡った。

 AIM拡散力場と共鳴するかのように流転する活気の奔流に意識が飛びそうになる。今の御坂美琴の知覚できるすべての感覚が力ずくで拡張されていく。

 彼女の視覚は今、ありえざるもの映していた。

 人類では到達できる限界点の先にある叡智。

 人類では到達できる限界点の先にある膂力。

 人類では到達できる限界点の先にある根源。

 既存の法則を超越したパラメーターが、少女の身体に敷き詰めるかのように押し入られる。その奇蹟の総量に御坂美琴の頭が潰されそうに痛い。開発で薬剤投与や脳に電極を刺しての刺激を与えられて、その手の痛みに強い筈なのに、慣れているそれに少し泣きだしてしまいそうなほど軋みをあげている。

 天上の意思の先にある『神上』に、少女一人の器では耐えられない。

 

(だけど―――これならいける!!!)

 

 僅かな光の可能性を感じて魂が奮起する。構わず、その背中を抱く光に、身と心を預けた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 子供でも知っている液体力学の権威、松定博士著作の論文『粘性・濃度と次世代演算装置の未来』

 液体力学は、気体や液体の『流れ方』を専門に取り扱う分野で、わかりやすい例として、船や飛行機の設計、浄水器のフィルター、喫煙室の煙が他所に流れないようにする空気清浄機の研究。他にも血液をサラサラにする健康法や新しい変化球の開発などにも応用される。

 そして、松定博士が提唱するのは、量子コンピューターやDNAコンピューターといった次世代演算装置の議論に一石を投じるもの

 特殊な電解質溶液で満たした水槽、方式としては、その液体を構成するコロイドのひとつひとつを、電気の力によって移動させることで、各種演算を実行するもの。

 

 ―――その仮の名称として、濃淡コンピューター

 

 DNAコンピューターも量子コンピューターも、『演算の最小単位は0と1』だという枠組みから逸脱することが肝要となっており、液体の粘性・濃度により最小単位を構築する濃淡コンピューターもその条件を満たしている。

 

 実現性の高い方式なのかどうかは不明であるが、その机上空論が実現すれば、一秒間における演算回数は、<樹形図の設計者(ツリーダイアグラム)>を超える記録が更新されるとも言われている。

 

 して、現実性のある例としてコロイド状液体を挙げたが、媒体の条件は大まかに三つ。

 

 液体、気体、粒子など液体力学で計算可能であること、

 用途に応じて、人為的に操作、介入可能であること、

 液体力学上の粘度や濃度を応用するため、媒体を構成する物質は相当数確保すること。

 

 ただし、濃淡コンピューターに使用することが前提とするのなら、利用される媒体は常に人為的な制御下に置くことになる点には、注意を払わなければならない。

 

 例えば、街に広がるAIM拡散力場を濃淡コンピューターの媒体に組み込む場合、その『圧』の変化が学生たちに逆流する危険性などを考慮しなければならない。

 そういう観点からして、濃淡コンピューターは箱の中の区切られた流体で組み上げられるべきである。

 

 さもなくば、AIM拡散力場という流体で形成された超演算装置(スーパーコンピューター)は、参加者ならば誰でも操れる可能性を秘めるが、その時、他の全ての学生を犠牲にするリスクも孕んでいる

 逆流をすれば、能力を生み出す精神の変容など、本来知り得る筈のない情報を入力されるだろう。

 

 かつて、1万の学生らのAIM拡散力場で構成された<幻想猛獣>を、超能力者という一個人でありながら圧倒的な『圧』をもった序列第三位が放った<超電磁砲>に撃ち抜かれたそのとき、その瞬間をその場にいなかった誰しもが視たという。

 

 つまり、天啓のような―――

 

 

第八学区 秘密基地

 

 

 時は少し遡る。

 

 

 それは、突然と現れた。

 

 

「え、これって―――?」

 

 それは、<人造能力者>、『ジャーニー』と『フェブリ』の解毒が成功し、やれることはすべてやった、とひとつの段落が付いた時だった。

 部屋の中央、爪先がテーブルに擦れるか擦れないか程度に宙に浮く位置で、AIM拡散力場は荒れ狂う渦を巻きながら次第に物質化―――まるでクレイアニメーションでも再生しているかのように、足元からゆっくりと人の形を作り上げていく。

 目も鼻も口もない、のっぺりとした輪郭しかないその人形は、ノイズを走りながら次第に容姿を露わにしていく。

 

「な、なんだこれは―――!? ホログラム? いや、能力者なのか―――!?!?」

 

 有名校のブレザーの制服を纏う、薄く茶の入った長い黒髪の少女で、最大の特徴は顔の印象を丸ごと決定づける眼鏡と『なんかおっとりしてそうオーラ』の象徴たる豊満な胸か。

 

「ひょうか!」

 

 開口一番。インデックスはその友の名を呼ぶ。

 風斬氷華。書類上、霧ヶ丘女学院に所属する<正体不明(カウンターストップ)>。その実態は、<虚数学区=五行機関>に関わる存在。そして、今回、彼女の住まう<陽炎の街>にまで通じた『ジャーニー』と『フェブリ』の声を聞き、助けを呼びかけた者である。

 有富と桜井の研究者二人はこの超常に固まったように見つめ、佐天は目を大きく見張らせて驚く。

 だが、当の本人は、それに構えるほど余裕がなく、切羽詰まったように早口で告げる。

 

「インデックスちゃん。上条さんから伝言」

 

「え、しいかから?」

 

「その子たちの状態を安定にしたけれど、これ以上の毒の影響を避けるため、ルートを別の位置へ切り替えます。

 今から言うアドレスにインデックスちゃんの携帯からその子たちを撮った写真をメールで送って………」

 

 一度で暗記すると、携帯に習った通りに(時折、佐天に使い方を補助してもらいながら)入力。

 その携帯には、ひとつのストラップがある。

 この額の金細工と同じで、生命が込められたクローバーのお守り。魔力が使えずとも、それを消費すれば代用とはなり得る。

 魔術的な記号としてもこの三つ葉は、シャムロック、アイルランドの守護聖人が『三位一体』を現しているもの……。

 

「でも、これでいったいどうするつもりなの? 私、科学の携帯ってそんなことができるような機能はなかったと思うんだけど?」

 

「バーコードリーダー、ってわけでもなさそうですしね」

 

「そちらからパスを繋げてくれれば、“エクス=ヴォト”の方式で上条さんが処理するって……」

 

「<エクス=ヴォト>……」

 

 <エクス=ヴォト>とは、歴史上の守護聖人に代願することで、第三者を迂回して『神の子』へ要求を伝え、奇蹟を起こすようにする手法だ。

 それを携帯のメールという形で成そうというのだろう。可能か不可能かと言われれば可能。あの『降霊』を専門とした魔術師パンタグルエルがしたように、それほどではないとはいえ『協定』に触れるか触れないかのギリギリの線ではあるが、事は切迫しているが故の緊急措置とするなら……!

 

「しいかは、遠隔でこの子たちに干渉するってこと」

 

「うん、私、インデックスちゃんの専門分野には疎いから、よく分からなかったけど、それでその子たちは助かるって」

 

「でも、それって代わりにこの毒を請け負うってことだよね?」

 

「うん。でもこの毒を呑まなければいけない。この街を救うには、この子たちの力がどうしても必要だから」

 

 万人を平等に貧乏にさせる貧乏神も、恐れず迎え入れてきちんと敬えば富を授けてくれる、

 護符も結界も通用しない、喰らえば破滅する蠱毒も、皆を想って一息に飲めば害は成さない、などという逸話はある。これが話と同じように通じるかは甚だ疑問だが、彼女の体質を考えれば、可能性はないわけではない。それに、この子たちの暴走現象が詩歌を苛んでいたと、そう聞いていた。だから、これは主導権を変わるために必要な作業なのだろう。

 <エクス=ヴォト>は、代願が成功した証として、守護聖人の祭壇へ代願に関連する対価が奉納されることになっており、毒と一緒に力も対価としてもらい受けることはできるはずだ。

 ―――と。

 

「ねぇ、しいかは、どうなってるの? どうして、ひょうかと……っ?」

 

 インデックスは当然のように接していたので気づくのが遅れたが、

 どうして、あの“風斬氷華”をメッセンジャーにできたのかを。

 どうして、この状況を知りえたのかも。

 もしかすると、ただならぬ状況ではないかと勘繰るのは無理はなく。

 

 

「うん。インデックスちゃんの考えた通り、上条さんは、私のいる領域まで来てるよ」

 

 

 そして、その答えが正しいとインデックスの優しい友人は頷いた。

 

 

第二学区 才能工房

 

 

 操縦者であった木原幻生を無力化し、雇った知的傭兵に昏倒した御坂妹と現在状況を聞き、“まだ終わっていない”ことに食蜂操祈が焦燥を抱いた時、その聞き慣れた声がこちらの耳に入った。

 

『最後の最後で迂闊でしたね、操祈さん』

 

 穏やかな声音。

 激怒する大人の男でも、泣き叫ぶ赤ん坊でも、つかの間安らかな心地を取り戻しそうな声。

 知る限り、その該当者はひとり。

 

「先輩?」

 

 食蜂は周囲を見回すが、その該当する人物はいない。<念話能力(テレパス)>の類か、とも思ったが、そのような精神干渉に敏感な<心理掌握>に悟られないのはおかしい。

 そして、この声の主が、今日まで積み重ねてきた常識外れなところを思い出せば、別段それも不思議ではないと納得してしまう。

 

『『レベルアッパ―事件』。一万もの脳波を調律した能力者とのネットワークの大本である木山春生は、その制御を失ってしまう。木原幻生は対象者を限定しその制御法を安定なものにしていましたが、『<幻想御手>の技術で力場を集合する『機能』をもった』身体から、精神干渉を受けて脳内の変調を察知したと同時に、本体を射出して、自滅をするよう自動プログラムを設定していた……その理由は?』

 

「よーく知ってるわねぇ。その場にいなかったんだと思うんだけど」

 

『詩歌さんは何でも知ってる。……わけではないのですが、今の状態は相当に耳が良いようなんです』

 

 決着と同時。

 結局、記憶に止める方法は何も持っていなかったが、見るものはすべて見た。そして、その<木原>としての性質を念入りに潰した後、勝手にその本体とか言う木原幻生の視床下部が義体から射出されたのだ。

 

『木原幻生は、あなたに倒されることさえも想定していました。自らの本体を切り離して、能力使用に調整された義体のバランスを極端に失わせることで、AIM拡散力場を取り込む噴出点としての『機能』をわざと放棄した。

 これには操祈さんの精神干渉を回避する意味もあったのでしょうが、<ミサカネットワーク>とも波長を合わせて――今の自らが暴走するよう調律した――“AIM拡散力場自体に『木原幻生』を移した”』

 

 元々、干渉力が足りていないと計算していたとはいえ、木原幻生が<心理掌握>を用いて楔となっていたのは事実。その楔を自ら切って、量産型能力者改のAIM拡散力場へとひっぱられるように意識を逃がし、エネルギーの思念体へと変容。世界中に散らばる<ミサカネットワーク>のAIM拡散力場を軸に存在を固定。<風斬氷華>と同じ領域に入った。

 

『肉体という殻を出て精神を自由にする仏教の悟りの境地なんてものがありますが、木原幻生は義体を捨てることで、本質的に肉体をもたない情報生命体になった。人の人格情報を電子頭脳に移し替えるのは相当の性能を必要とするものでしょうが、生体的なネットワークは十分にその条件を満たしている。

 そして、肉体をもたない以上は、挫折なんて文字はないでしょう。何度失敗しようが、その思考は不変であり、飽きることのない追究心のままに延々と『実験』を繰り返す存在へと木原幻生は成ってしまった』

 

 天上の意思に辿り着くために実験場で実験動物を壊れるまで研究する―――ある意味で、学園都市の“システム”そのものになったと言える。

 そしてそれは、もう、誰にも止めることはできない。

 木原幻生は本体を義体の中に閉じ込めて封印し続けなければならなかった……

 

「それが、本当だという保証力はあるの?」

 

『ありますが、これ以上説明するには今は時間が足りません』

 

 見えないが、あっけからんとした声だけで、肩をすくめている姿が見えそうだ。

 

「はいはい信じるわよぉ。先輩がそうというならそうなんでしょうしぃ」

 

『聞き分けの良い後輩で助かります』

 

「でも……そんな常人の斜め上の思考力なんて、想定どころか発想だってできるはずがないじゃない。先輩は、わざわざ後輩を絶望力に凹まさせに来たっていうのかしら」

 

『ああ、勘違いさせてしまったようですみません。私が此処に何をしに来たかというと操祈さんにお願いしに来たんです』

 

 穏やかだった口調が、そこで不意にすり替わった。

 

 

『―――最後の最後に勝つために。これがきっと、最後のチャンス』

 

 

 幾多の大軍を指揮してきた、歴戦の将軍のように。

 何度もリングに叩きのめされながら、尚も不敵に笑うチャンピオンのように。

 そして、ヒーローのように。

 食蜂は思わず、唾を飲み込み、大きく目を見張る。記憶を反芻するようにゆっくりと深呼吸し、様々な思いを零さぬように胸を押さえる。

 そして……覚悟して――予感し――切なく表情を歪ませた。

 そして、そして。

 静かに、『上条詩歌』が言う。

 

 

『私に『自壊コード』を教えてください』

 

 

 それもよりにもよって。

 もう一度、大きく息を吸ってから、問う。

 

「……理由を、説明してもらえるのかしらぁ」

 

『木原幻生と同じ領域に行くためです。

 私をこうして繋ぎ止めていられるのは、この打ち込まれた――あの子達の能力に頼ってのことですが、一度毒素を抜こうがこのまま能力を使い過ぎれば死んでしまい、そして、楔としての彼女たちが死なないと私はその先へはいけない。

 <人造能力者(ケミカロイド)>の子らを救うには、繋ぎ止めた依代を換えて、変更先の依代を崩壊させる。

 その為に絶好なのが、この――守護聖人であった過去の偉人たちの情報記録も登録されている――<才能工房>と<外装代脳>です。もちろん、代わりのブーストとなるものは用意します。譲ってくださいませんか』

 

 <人造能力者>は、力を送り込む産道であったが、この街に繋ぎ止める楔としても機能してる。

 風船を膨らませたが、糸があるせいで大空を飛べない。

 既に<能力体結晶=ラストステージ>を取り込み、AIM系思念体に至った段階までに進めば不要である。だが、処分することはしたくない。

 つまり、また彼女はどこかの誰かのために、食蜂が有する巨大なクローン脳を身代わりにしたいということ。

 確かに、能力の底上げするメリットと引き換えに相当なリスクを抱え込まなければならない。今回のような乗っ取りに遭えば、もはやデメリットの方が大きい。ここまで騒ぎが大きくなれば隠蔽どころの話ではなく、随分と派手に動き回ったせいで、都市伝説サイトのネット上で<才能工房>は情報拡散されてしまっている。

 前々から考えていたことではあるが、それを処分してもらえるのなら、こちらとしてはそれだけでもリスク回避に助かる。

 また廃品として、利用する……再利用(リサイクル)とは少し違うが、一石二鳥だ。いや、<心理掌握>の派生応用として多対一の混成能力式のデバイスを組み上げた彼女から技術提供されるのなら、得しかない。だから―――それを断るのはつまらない感傷なのだろう。

 

「いやよ。ええ、廃品回収してくれるのはありがたいケド、その際の脳へのダメージは廃人になりかねないもの。一応、ここの責任者として他所の誰かに犠牲が出るような真似は却下したいところなのよねぇ」

 

『そのダメージを回避するための『自壊コード』でしょう? 物理的に破壊されてしまえばとにかく、その方法であるなら最悪でも廃人になるリスクはないとみても良いでしょう』

 

「それで、先輩は木原幻生と同じように、サトリを開いちゃうわけぇ? こうして、会話をしてる時点で、“今の先輩の状態”はわかったけど、でも、それって戻って来れる保証はないわけでしょう?」

 

 先の説明でいうなら、繋ぎ止めていた糸を切ってしまった風船が、どうやって下に戻ってくるのだろうか?

 

 そもそも。“先輩が関わる理由はない”。

 騙されてDNAマップを提供したわけでも、<妹達>を殺し続けてきたわけでも、嘘をついて騙してしまったわけでもない。

 あの愚兄と同じで、巻き込まれてしまっただけの完全な被害者だと言える。罪滅ぼしでもないのに、その罪を背負うのは間違っている。

 たとえ、そうすることができるのは彼女だけなのだとしても。

 

『卑怯な言い方をしましょう。このままだと木原幻生は自らの手で調整した量産型能力者改(フルチューニングプラス)は人格が崩壊します』

 

 それを知った上で、彼女は言うのだろう。

 

『幸い、<ミサカネットワーク>と接続されたことで、総括であり管理者である打ち止めさんがその記憶情報を共有して、『ドリー』のバックアップを取ってありますが、その<ミサカネットワーク>さえも木原幻生は壊してしまいかねない。アナタはまたも見殺しにするつもりですか』

 

「だったら、こっちの気持ちを考えたことはある……?」

 

 “既に肉体を離れている”、あとは意識の楔を外すだけの相手が、どこにいるかなどわからない。その顔も見えない。だったら、空きごとぶつけてやるとばかりに、常にない大声をひとりの後輩は発する。

 

「ええ、ええ気楽よね! 勝手に献身美徳力に酔って成仏すればいいわぁ! でもね、それを看取った方はその十字架を背負ってずっと生きていくのよ!」

 

 女王が喚く、叫ぶ、責め立てる。今も感じてる“別れ”の悪寒が二度目でもあるから、容易くも想像が付いてしまうのだ。

 

『帰って来れない、と言っているわけではないでしょう。風船もやがてはしぼんで降りてくるんですから。事が済み、力を使い果たしたら―――』

 

「いいえ、これは勘違いじゃないわぁ! だって、ちゃんとした保証力があるなら、先輩はそれを説明するはずでしょう! そんな曖昧で抽象的な憶測力で納得できると思ったら大間違い!! 大体しぼんだ風船なんてものが、死ぬより辛くない保証なんてものもないじゃない!! もしもそうじゃないっていうなら、この私に確固とした保証力ある説明をして見せなさいよぉ!!!」

 

 声は、返らない。

 反論、しない。

 嘘でも何でも、誤魔化そうともしてくれない。

 この……っ!

 そんな彼女の態度に、やけっぱちに手に持ったリモコンを誰もいない真正面にでも投げつけた。

 それが壁にも届かず、床に落ちて、壊れた時、それは言う。

 

『生きて戦うべきだというなら。ならば、あなたも戦いなさい。

 戦いとは、眼前の衝撃を打倒し乗り越えることではない。そんなのは結局、単なる一本道の途中の予断でしかない。本当に戦うというのは、自ら選ぶということを言うのですから』

 

 人生のあらゆる選択で、あらゆる岐路で人は迷う。

 どちらかが明るく照らし出され、そちらへ進むことが決定づけられた選択は戦いではない。

 何度もその選択を迫られても、同じ方を選ぶに決まっているのだから必然。真の選択とは、心の底より悩み、どちらを選ぶべきか全くわからない時のこと。

 何の導きもなく、何のヒントもなく、岐路に放置されることこそ人生。

 怠惰に右を選び続けるもよし、気ままな風の吹く方向へと流れるように適当に決めるもよし。

 懸命にヒントを探し、右と左でどちらがどれだけ有利かを悩み抜き、いつまでも岐路に立ち尽くすのも、またよし。

 故に、最後に待つ結果を、自分の責任として受け入れられるのだから。

 

 悩み。

 選び。

 そして進め。

 それこそ、戦いだ。

 

『このままであれば、学園都市は崩壊し、それに巻き込まれるでしょう。だから、けして戦わぬことで片方を選ばぬように、仕方なくを理由に、悩まぬ選択肢の結果に、人間が満足することは絶対にないんですから』

 

 “みーちゃん”になって騙し続けて、

 騙されたことに気づかないふりをしたウソに気づけず、

 身勝手に大事な思い出に勝手に割り込んで、

 いつからか、その心地いい偽りの関係に夢中になって……

 

 あのとき、少しでも罪悪感を抱いていれば、

 本物の“みーちゃん”のことを捜し、再会させることができたのかもしれない。

 そうすれば、実験の正体がわかって、死なせずに済んだのかもしれない。

 

 だけど、そうではなかったから。

 何も選択せず流されて、戦わなかった後悔だけが残った。

 

 許されなくていい。

 何でも償いはする。

 ただ、謝りたくて。

 

 その好機が今なのだと。

 

『私も、大事な者を二度も見殺しにしたくはない』

 

 だから、彼女はそれを選ぶ。たとえその身を切り捨てようが、逃げることも、何も選ばないこともしない。

 

 『幸福な王子』と言う童話。

 黄金や宝石で彩られた王子の像が、渡り鳥の力を借りて街の貧しい人たちに自分の身体を細かく分けて配っていく話。

 あの兄妹のロジックはどこか自分自身“だけ”を歩兵のように扱う傾向がある。

 

 しかし、彼もその命を懸けて彼女のいる場所に立っている。

 

 まるで、『賢者の贈り物』だ。

 夫に大事にしている懐中時計を吊るす高価な鎖を贈りたいがために、妻は綺麗な髪を売り、夫は妻のその髪に似合う洒落た鼈甲の櫛を買うために、懐中時計を質に入れてしまう。

 この物語の結末は、全ての人の中でこの二人のやりとりこそ最も賢明な行為であると称されるが、何とも愚かな行き違いとも言えよう。

 あの兄妹のロジックは明らかに互いが互いを最も大切な王将であるのは間違いないのに。

 

『私は戦うと決めた。ならば、次はアナタの番です』

 

「……………勝手に。勝手に覗けばいいでしょう」

 

『最後の最後の備えで、自分の記憶さえも騙していそうですから。ちゃんと、確かめて、その口から聞いておきたいんです』

 

「私が言っても、ソレがウソだって可能性は考えないのかしらぁ」

 

『いいえ。ウソをつけるような後輩とは思えませんので』

 

「っ、もう……」

 

 ああ、そういうともわかっていた。

 きっと今言ったことならできるのだろう。

 わざわざ自分に選択の機会を与えるまでもなく奪っていけばいいだろう。声をかけられるまで、その存在に気付かなかった自分に不意打ちなど赤子の首をひねるより容易い。

 けど、そんな最適解は選ばないのだと言い切れる。

 兄に倣ってか、毒されてか知らないが、『能力ではなく、己の拳で相手することを努力目標』とするような人だ。

 見た目は手弱女(たおやめ)を体現しているといってもいいのに、あえて、自らの手を汚す傾向にある。

 結局、結論からして。

 どうしようもなく愚かなほど優しいのだ。

 最優。

 誰にでも、誰であろうとその『優しさ』が適用される。

 賢く自分のことだけを愛せればよかったのに。

 言うまでもないのように、『優しさ』なんてものは利点でも長所でも何でもない。―――むしろ生物としてはどうしようもなく“欠陥”だ。それは生命活動を脅かすだけでなく進化すらも妨害する。

 

『もう、……時間は、ありません。……声を伝えられる余裕もなくなるでしょう。……だから、氷華さんに頼んだ、インデックスさん達への伝言の最後にも言いましたが、これだけは言っておきます』

 

 気配が、薄まる。

 

『『私も、大事な者を二度も見殺しにしたくはない』と言いました。だから、もし私のことを先輩だと想ってくれてるなら、私は後輩にこのような目に遭わせないよう、全力で戦う―――そう、“約束”します。これに操祈さんが望むような確固とした保証はできませんが』

 

 それで勘弁してほしい、と。

 苦笑するその顔が見えて、ふっと消えた。

 

 

 

「……………ええ、そんな約束ひとつも守れなかったら、先輩の大事なお兄さんを取っちゃうことにするわぁ♡ 変に遠慮なんてしてなければ、あの手この手を尽くして全力で落として見せる自信があるしぃ♪ イチャイチャした私たちを見て、化けて出てきても遅いわよぉ」

 

 。

 。

 。

 

「…………ねぇ、……返事、…………してよぉ……」

 

 もう、天啓(こえ)は聞こえない。

 時間は、ない。

 それでも、零せるだけの涙を零し尽くした。

 零し尽くしておかなければ……選択をするときの迷いになるだろうから。

 だから思い切り泣いた。そしてこの縁を感謝した。

 選択によっては、その言葉をもう二度と口にできないから。

 

 

 ―――LnuVAF8-BXesGD………その『自壊コード(言葉)』は風に呑まれるほど小さなものだった。

 

 

第二学区 荒れ地

 

 

 かの超能力者序列第五位は、巨大なクローン脳の演算能力と接続することでより高度で広範囲の支配を可能とした。

 

 かの『北欧の雷神』を名乗る青年は、何も特別な才能をもっていないが、同じ神話の『投擲の槌』を名乗るものから莫大な援助を受けることで、神に迫る力を得た。

 

 

 見る。そのまま、ありのままを御坂美琴は見る。

 背けず、逸らさずに、逃げずに見る。その『目』で。

 

 人にとって、『目』とは肉体的なものばかりではない。

 何を見るのか、何を見たいのか、何から『目』を逸らすのかあるいは見たものから何を得て、何を捨てて、何を知るのか。

 各々の信条や、過去や、目的や夢や幻想。そうしたモノが複雑に絡み合って、人それぞれの『目』を形成する。

 

 

 暗黒洋の海が、月の引力に潮が引き寄せられるように、その規模を小さくしていく。

 

 

「ああ」

 

 この時美琴は不意に天を仰いだ。

 風が、風に含まれる水が、水を構成する分子が、原子が、電子が。

 音が、形が、闇が、光が、そこにいる全ての人が、美琴を取り巻いて、うねりをともなって天へと噴き上がる。

 

(ああ)

 

 恍惚の表情にもなって、こんなことさえ思う。

 この惑星(ほし)宇宙(そら)を廻る景色さえ、見えそうだ。

 

 九月の後半。

 ちょうど中秋の名月の時期に行われる<大覇星祭>。

 

 されど、今宵は新月

 なのに、まだ陽の沈まぬ内に『月』が現れた。

 

 空に夜と間違うばかりの黒雲を照らす、黄金の球体が浮かんでいるのだ。

 

 『月』は天上に清浄な輝きを湛えて地上に黄金の光を投げかけ、夜空の天蓋を彩る主役の星たちを煌々たる陰に隠して、その輝きを朧に霞ませよう。

 満天の星々を膝下にねじ伏せる『月』の―――いや、それはもう、月光さえ凌駕する輝きか。

 

 月明星稀。

 太陽の光を受けて煌めく月の輝きの前には、いつもは夜空に輝きを競う星々もただ等しく首を垂れ、闇は明かされるのみ。

 

(この街の闇を見た。だけど、今、たくさんの人が見えた。私を助けようと頑張ってくれた人たちもこの街にいる。力ずくで排除し立ってやり方じゃ、仮に成功してもそれは“私たち”の望む世界にはならない。―――だけど、アンタには一発ぶちこませてもらうわよ)

 

 太陽とも紛う『月』の光量に、暗黒洋の海は色褪せて、そこに―――御坂美琴は見た。

 

 

???

 

 

 影はなく、重さがなく、空気の流れがなく、どこまでも薄っぺらな存在感しかない。時折風に吹かれた蝋燭の火のようにビルも街路樹も人間も揺らいで、ノイズを散らすと、別のものに変わる。

 子供が主婦になり、主婦が警察官になり、警察官はOLになる。『役割』のない彼らは、誰かに『役割』を与えられることで形を変える。『歯車』のように廻りながら、別の『歯車』を廻し、そして、『歯車』は、『ゼンマイ』によって廻される。

 

 その『街』は、学園都市と同じ座標でありながら、一枚の幕を捲った向こう側にある、別の位相にある。

 230万のAIM拡散力場が形作るひとつの世界であり、<虚数学区=五行機関>の正体、<陽炎の街>。

 

(これが、アレイスター君が創ろうとする世界。そして、<木原>の始祖が望んだ計画)

 

 陽炎の如き実体のない影は思い返す。

 それ以前も似たような概念は草の根のように広がっていたが、<木原>という区分は明確になってからまだ100年も経っていない。

 学園都市創立を成した現統括理事長がこの地に渡ってきたのは、古い戦争からの復興からどさくさに紛れてである。ならば、当然そこから生じた<木原>という概念は近世のことであるのは容易に想像がつくことだ。

 そして、始祖の7人の<木原>は、当たり前のように笑って当たり前のように悲しむ――普通の感性も持ち合わせており、科学に狂うことに大変苦悩していた。

 常識人としての理性を持ちながら、研究者として実験の探求が止められない。相反するものに葛藤しながらも、人の知性で世の理不尽を駆逐しようとした者たちは、結局その夢を見ずに、されど<木原>の意味を定義づけて、この世を去った。

 始祖がその道を切り開いてくれたからこそ、今の完成された<木原>がいる。木原幻生は、その完成された<木原>の最初期のものだ。

 始祖たちの背中を見て<木原>を継いで、今の<木原>の最前線にいる。

 

(神の領域に立ちうる存在たる絶対能力者。その創造こそが、科学の世界に光をもたらすだろうね)

 

 そして、天上の意思が開こうとする『門』はもう開く段階にある。

 オリジナルではなく、無茶な調整を重ねてきたせいか、ドアノブを引かずに体当たりで壊そうとするように力任せで上手くはないが、それでも『門』は開く。

 すでに半分は開いており、あと少しでその先が―――<木原>を形作った始祖のように、夢叶わずとも、その道標を見せることができるであろう―――と。

 

 

「いいえ、これで今日のお祭りはお開きです」

 

 

 ズヴァチィ!! という火花が炸裂するような轟音が響き渡った。

 木原幻生と『同じ領域』に踏み込む者が現れたのだと理解する。

 

 

 

 <大覇星祭>。外部に開かれたこの時。

 230万の住人を超える人々が生きて、動き、語り、争う―――無意識に発露するエネルギーは本来制御できるものではない。

 けれど、幸運にも、少女はそれが可能とする領域まで至った。

 無重力実験でもおなじみのテーマであるが、血中の酸素濃度や気圧の微調整で人の思考を操作できる。

 空気によって人は操られ、人の動きによって空気は操られる。

 架空物質化したAIM拡散力場という空気に満たされた学園都市、そして、その濃淡コンピューターを御することで、AIM思考体に『深化』した。

 いや、ある意味で“原始回帰した”というべきか。

 彼の右手に触れられるまで、“形はなかった”のだから―――故に、今の状態こそが彼女の真価なのかもしれない。

 

 

 

「さあ、幕引きといたしましょう」

 

 パチン。

 切り替わる。

 影があり、重さがあり、空気の流れがある。そして、“それらを感じ得る身体がある”。

 陽炎は払われ、現実の世界に戻される。

 

「<陽炎の街>が……この身が実体を……? 情報体と化した僕を肉体に戻すなんて……」

 

「―――科学の発展が突きつめた先に。もしも世の中の全てが科学の計算式だけで証明できるのなら、不幸などという世の理不尽がない、完璧な世界なのかもしれない」

 

 それが、完成されていない、<木原>の始祖達が葛藤しながらも抱いた理想。

 

「だけど、絶対など存在しない。

 ラプラスの悪魔をも打ち払うアイゼンベルグの不確定性原理。

 完璧なるシステムの不可能性の照明――つまり全知万能の不可能性の証明でもあり、また人間の知性に対する、行き果てることのない無限の可能性の証明。

 ―――完璧な世界で絶対の存在などなくても、人間は前進し続ける」

 

 木原幻生が相対するは、上条詩歌。

 科学の世界で、あらゆる外道を突き進み各々の外法を極めたとされる一族の権化、実験動物と研究者のシステムを確固たるものとした完成された最初期の<木原>―――その想像の外へ出た。

 

「<妹達>から分離(パージ)されたその身体は、有富春樹らが創り上げた<幽体拡散>と呼ばれるAIM拡散力場の架空物質化能力で固められたもの。破れれば、情報体としての身体が維持できなくなるほどのダメージを受ける―――……受け継いだハジマリに悪意がなかったとしても、あなたはやり過ぎた。私たちの逆鱗に触れた。殺しはしませんが、あの視床下部の本体(カプセル)に戻りなさい」

 

 勝敗は、決した。

 しかし、笑ったのは、上条詩歌ではなく、木原幻生。勝ち誇ることもせず、ただ無表情の賢妹の顔をどのように解釈したのか、老いた狂学者の皺深い顔は目を細めて、ぬめるような粘着質の笑みが張り付いていた。

 <木原>の形態はひとつに限らない。血族にも縛られない。ここで木原幻生の損失があっても、それ以上にもっと優れた<木原>が生じたのならば、<木原>の末裔は幸せなのだから。

 次に老人の口から出た言葉には、偽りのない祝福が篭っていた。

 

 

「君は、始祖に似ている。大いに、苦しむと良い。その素晴らしい才能は世界を滅ぼすものだと。僕が認定しよう、君は『進化』を司る<木原>だ」

 

 

 人は死ぬと軽くなる――体重が減る――重さをもつ。

 魂であれ何であれ、物理的な結果に表れるものであれば、電磁力で干渉できるであろうと。

 

 

 『雷鳥』の超電磁砲が、物質化した木原幻生の情報体を突き破り、その勢いで天上の暗幕をも晴らした。

 

 

第二学区 荒れ地

 

 

 ―――カミやんの妹は、地に足が付いている鳥だ。

 

 

 昨日の事件が終わってから、協力者への報告の後の“同類”からの言葉。

 

『悪く言えば人間臭く、良く言えば人間味がある―――究極的に極論を言えば、圧倒されるほどの能力とか、平伏さざるをえない知力とか、そういうのは別に人間離れしなければならない要件じゃあない。

 ぶっ飛ぶほど人間離れするには、人間を辞める。天に飛べる(ツバサ)があるモノを、それこそ天才だって言うんだろうぜい。

 逆にいえば、詩歌ちゃんは全く人間を辞めていない、今日一緒に組んでみてわかったが、羽根のあるのにひどく理性的で、羽ばたけるのに飛ばずに自分の足で歩いている。今は。

 能力や性格だけを見れば、彼女が味方であるのは頼もしい。それでも、あの才能はプロテクトをかけている理性がなかったらと思うと怖い。

 もしもその天才性を存分に手の届かない世界に羽ばたいたら、なんて考えたら―――』

 

 バケモノじみた、なんてものではなく。

 危うく口にしかけるところで口を切ったが、そのあたりは愚兄も考えたくないので追求はしなかった。

 しかし、それは震えが来るほどの恐怖なのだとは理解し、今、実感している。

 

 

 いつのまにか、直径十数kmにも達する幾何学模様が学園都市の空を覆い尽くす雷雲に走り抜けていた。

 それは密集し、太陽風と大気の衝突で生じる発光現象――オーロラのようでもあり、あるいは極彩色の羽根にも見えた。

 

 そして、幾重にも折り重なった複雑な文様の集合体の幻像の起点となるのは、人知れずに荒れ地の外れに刺さる、半透明の空槍――空想の錨。

 今ここは『聖地』とも言えるだろう。悪いことは起きにくく、幸せなことが起こりやすい土地。そして、神の領域に達した少女が意識すれば、個々人に特別強い加護を与えたりも出来る。

 

 最後、ほとんどが素手で捌いていた少女が、『幼馴染に打つべきではない』と判断し、代わりに構成情報の組成を変換して彼方へと射出したモノ。

 それは、ひとつの術式が投影されていた。

 

 <使途十字(クローチェドピエトロ)

 

 実際に少女は見たり触ったりしてはいないが、情報(はなし)知った(聞いた)―――そういう発想があると取得した。

 こと『陰陽道』の風水にも似たような、天候気象条件から人々の士気や体調を自在に操る術はあるのだが、

 天蓋の星図より結びし地点に刺して、聖人の死と同時に発動する、その場一帯にひとつ設定した属性に有利性を付与する。

 ―――その魔術霊装という技術体系の設計図を、話を聞いただけで大元にある想念を正確に読み取って、分解・解析・再構築から応用までこなしてしまう、一を聞いて十を知る、何という典型。

 それでも、おそらく、時間も効力も限られるだろう。

 奇蹟ひとつではこの状況は覆らないと少女は悟り、故にその後押しになればと、ただこの街を守ろうとする皆に、サイコロの目が六が出やすいようにする風向き(ベクトル)を呼んだ程度のもの。

 連続して同じ目が出るなど、科学の法則では、単なる偶然としか考えない。そこに何の力も働いていない。

 幸運の女神を味方につけよう、などと馬鹿らしいと一笑に付されるものであろうが。

 

「来たぞジャックポットだ」

 

 愚兄は自分の手のひらを口に向けた。

 釘刺しに穴の開けられた右手から滲み出る鉄錆の味を舐め取る。そうすることでより情報が読み取れるのだと、何故だか忘れているはずの何かを思い出す、というよりも覚えてるように判断できた。

 

 記号の似たものは、干渉を受ける。『神の子』とその身体が類似した<聖人>は常人を超越した力を持つ。また、遺伝子情報が同じであり、脳波が同位であるものは情報を共有できるネットワークを構築している。

 常にない高潮が心の鼓動を叩く愚兄は、その血の味――“限定的な絶対共感覚能”がアクセスする。

 黄色い匂い。

 冷たい味。

 幻想の肌触り。

 視覚聴覚味覚嗅覚触覚。それぞれ独立した感覚が同時に機能する共感応。それに第六感を加えた予知悪魔並の計算精度を誇る絶対共感。

 そう、先からのこの右手の震えは、“目の前にいる災厄の化身たる雷神に対してのものではない”。ずっと遠くで、そして繋がっている鳳雛がこの手を離れて羽ばたかんとする前兆。

 しかしだからこそ、同じ血の味が触媒となり、この肉体にかかる類似干渉が右手の処理能力を上回るほどに増大した気配の主の心象を読み取る。

 謂わば、妹が付けている日記を勝手に覗き見ているような――兄として大変心苦しい表現ではある――ものの、もう一度、手のひらの血を舐める。

 

 賢妹はこの事態を想定して、幼馴染に身体を刺されながらも、戦う誰かの一助になれるよう学園都市に錨を刺したのか。いいや、血から読了した情報からして、その時の彼女は自分たち以外の戦いは知ってない。ただ、わざわざ一から十まで計算しなくても、別の誰かが補ってくれるだろうとは思っていたようだ。そして、それが日頃の行いからか、人と人との縁を最後には誰も想定外の域に出るレベルまで連結を広げてしまうのだから、わらしべ長者かと言いたくなる。不完全でも、未完成でも、最終的に事態を収束させ、皆が笑って帰れるために。

 

 そう。

 

 自分たち以外にも覆そうと頑張っている奴がいた。

 それらのひとりひとりの願いが積み重なって、万々が一。

 そして、この運否天賦というこの世の条理を破り、天をすら動かす億分が一に、入った。

 

 なんて、強運だよ。

 

 などと愚兄はもはや呆れるが、その賢妹も今の少年を見てこう言うだろう。

 

 確率論など諸々を無視してここにいるというのは、海で少年自身は父に言ったように、

 必要な時、必要な場所に居ることができる。

 この街の上層部のように、多くの情報に触れることが出来る立場であれば、それを為すことは可能だろう。だが、そんな無能力者の学生と言う恵まれた立場ではない者が、確たる情報も確証もないままにそれを為すことが出来るならば、それは紛れもなく強運であろうと。

 

 

 

 黄金の『月』と、漆黒の『門』の衝突。

 あるいは一帯全体を呑みこみかねない大爆発を想起させたその激突は、だが二つのエネルギーがあまりに対極であった故か、しゅるりと互いを喰らう蛇のように消滅した。

 ただ、猛烈な爆風だけが渦巻き、周囲を煽る。

 それでも、『門』はあった。

 確かに力は弱まっている。黒々とした色合いは、半透明に薄まっている。しかし、『門』は開かれている。そして今も尚、不気味に鳴動して何もかもを呑みこまんとする渦を巻いている。範囲は学園都市全土に影響を及ぼすほどではなくなったとはいえ、この第二学区は破滅させることは十分可能だろう。

 『月』は完全に霧散した。即ち、御坂美琴は妹達の暴走を阻止ができなかった。あの子を救えなかった。

 

 

 

 けれど、道はできた。

 暗黒洋の海が引いた跡は、剥き出しの地盤も、コンクリートも、金属にガラスもどろどろに溶けて、現実にはありえない様子を呈していたけれど、邪魔するものは何もない。

 

 

「お願い! アンタの力を貸して!」

 

 

 すでにこの身は限界だ。

 長距離の人波を無理矢理に全力疾走。真眼の達人に的確に痛めつけられ。無茶な移動手段。暴走の遅滞のために雷神の前に立ち続けて―――今や膝が折れそうだ。

 震える足下を見れば、赤黒いシミが無数に垂れているのが確認できる。

 それが自分の身体の傷口から垂れ落ちたものである事に気がつくことで、自分が負傷することを自覚できた。

 手足を見れば、錆釘の擦過や爆発の際に飛散した破片を浴びてできたと思われる傷が無数にできている。

 痛覚がいくら飛んでいても、重傷なのだとバカでも理解する。

 

 それでも、出番だ。

 

 アラーム音。

 ピピッピピッと目覚めを告げる軽い電子音。

 何かの拍子に作動してしまったのか、ポケットの賢妹が当麻に預けたストップウォッチから聴こえる。

 格上の相手から辛勝をもぎ取ったが、精も根も打ちのめされた自分に、鳴るまで絶対安静と言い聞かされたもの。鳴ったら、動けるようになると教えられたもの。

 

 湧きたつ血潮から、陽炎の如き淡い輝き。身体中にある幾つもの傷口を舐め取るように、体表を焔の幻が這う。

 

 ―――地に竜を縫い止め、世界位相に錨と刺された空槍が、硝子のように砕けた音が聴こえた。

 

 痛みが、戻る。身体が、熱い。

 燃え尽きる前の蝋燭のように、激しく鼓動する心臓から送りだされた血液が全身の細胞を賦活及び活性化させる。

 肌を舐める焔の熱に熔かされてしまったかの如く、鉛のように重く固まっていた身体が動くようになる。

 心臓から送りだされる血流が、この右手にまで行き届くと焔と、そして身体の傷は消え去る。

 先を阻むこの世のものならぬ暗黒洋の海はなく、上条当麻の最後の活力に、火が点いた。

 

「朝からたくさんの借りを作ってきた借り物競走もゴールが見えてきたんだ。ここで根性振り搾らないでどうすんだよ!」

 

 走る。

 競争相手のいない、愚兄一人の疾走。

 だけど、独りではないと、感じていた。自分の背中を後押ししてくれる手のひらを、声援を、確かに上条当麻は感じていた。

 目指す相手は、海から沖に上がった少女。それを救いださんと手を伸ばす。

 対して、黒球体の『門』を掲げる彼女はこちらに顔を動かし、<幻想殺し>をも串刺しにした三叉の釘打ちを向け―――そのとき。

 堕ちた雷神の少女の、暗黒食の薄れた無謬の仮面(のっぺらぼう)に透けて、唇がこう動かしたのが見えた。

 決定的な、拒絶を意味する文句を。

 

『あなた を まきこみたくない』

 

 そんなのは、もう、ただ実験体の人形が口にできるものではなかった。

 負の感情に呑まれながらも目覚めさせられてからこの事件の一部始終をその目で追い続け、肉体の操縦権がなくても頭の中で眺め続けてきた人間のものでしなかった

 『門』が完全に開かれれば、第二学区とその近辺に少なからぬダメージは負うだろうが、何よりその爆心地にいるであろう彼女は、きっと助からない。

 つまりは。

 このままでは、少女の結末は決定してしまう。

 

 

 

『これは わたしが とめるから 逃げて』

 

 夢を、見た。

 伝聞でしか、街の様子を知らない自分にとって、お日様の下で笑って生活するなんておとぎ話のようとしか想像つかない。

 数えるほどしか、それでも自分には友達がいた。

 彼女たちのいるこの街を壊すわけにはいかない。

 幸い、お姉様のおかげで、自分にも抱え込めるくらいにはなってる。

 だから。

 きっとこれが正しいんだと、開かれようとする『門』を胸に引き寄せながら自分で自分に言い聞かせていた。

 

 

 なのに。

 

 

 止まらない。

 少年は、むしろより前傾姿勢となり、勢いを加速させた。

 ……どう、して……?

 自分ひとりの犠牲で、街は救われるのに。それはきっと正しい事なのだと思えるのに。

 だから、その行為は間違い。

 そのはずなのに。

 少年は、自分の目を合わせながら言う。

 

「何故間違ってると思う? 少しでも犠牲を減らす為に、ひとつでも笑顔の数が増えるように、必死に努力するのは絶対に悪いことじゃないのか」

 

 その間にも、身体は自動操作されて、尖った手の先が少年に狙いを付けている。

 

「この街を守りたい、この赤の他人の俺の命さえ案じる少女がいる。もしここで必死にならなかったら、その少女のことを大事に想ってる奴らは暗く沈んだままで笑えねーよ。だったら、その少女の命が救われたなら、そこを中心にいくつかの笑顔が生まれるはずだ―――なあ、これって間違ってるのか?」

 

 犠牲になることが価値だと思った。

 皆のために、実験体として消費されるものだと思っていた。

 でも。

 だけど。

 それは単なる思い違いで。

 何かの歯車が狂っていれば。

 自分も夢見た世界にいてもよかったのだとしたら。

 

(……いき、たい)

 

 少女の胸の中で、何かがカチリと切り替わった。

 ずっとずっと楔の詰まっていた歯車が、再びゆっくりと動き出すよう。

 

(わたしだって、やりたいことも……――と一緒に、もう一度笑ってみたい……)

 

 だから。

 少女は顔を上げて。

 最期の刻が迫る『現実』を見据えた。

 世界の『正しさ』なんてどこにもなかった。少女が犠牲にならなければならない理由は、空虚な幻想だった。『実験』などという常人の理解の追いつかない破滅だけだった。たとえ身を捧げても自体を抑え込めるかもわからず、失敗すれば、ただ狂学者の悪意が満たされるだけに終わる。

 選択は、誰かに決めてもらうものではない。

 天上の意思ではなく、自らの意思で選ばなければ後悔するものだ。

 それならば。

 愚兄が選択した回答が正しいのならば。

 選んでも、良いのなら。

 

「……やっぱり、やだ。わたしだって、しにたくない」

 

 ついに。

 ぼろり、と。頑なな魂から純粋な気持ちが剥離するように。

 

「みーちゃんと仲直りしたい、みさきちゃんに会いたい、さんにんで一緒にウミに行きたい! ユーエンチでジェットコースターにのったり、ドーブツエンでカバさんみたり! それからヒコーキにものって、フィンランドのオーロラとか、ハワイでイルカさんと遊んだり、マチュピチュのリャマさんも! 外の世界を見たい!! でも、やっぱり一番は友達と一緒にいたい!!」

 

 少女の本音が世界へ放たれた。

 内側からの発声で割れた仮面の奥から、精一杯の力を振り絞ってこう叫んだのだ。

 

 

「だから――だから、おねがい! わたしを助けてェェェぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 

 実験体には、あまりに欲深き声。

 けれど、ほんの少しでも人間らしさがあるなら、それはあってしかるべきもの。もしも自分の命と皆を天秤に懸けて、機械的に少数の命を切り捨てられるようになったら、それはヒーロではないし、人間でもない。

 選択に悩んで当たり前だ。

 結局、人が人を信用するのは、卓絶した強さでも冷徹な判断でもなく、そうした脆さや弱さだろう。

 だから、それを聞き届けた愚兄は強く頷いて請け負った。

 

「了解」

 

 

 

 もう自分達は、自分達の命の使い道は、自分達が決める―――その意思が、負の感情を打ち払う。

 

『今! ミサカはミサカは呼びかける!』

 

 

 

 三又の釘を射出する寸前で、不自然に量産型能力者改の動きは、止まった。

 その機を逃さずに、一気に駆け抜けて、

 

「―――!! ―――!!」

 

 声も出ないその空間で叫ぶ。

 喉も裂けよと叫びながら、ひたすらにこちらへと伸ばされる彼女の手へと右手を伸ばした。

 

 ―――その、瞬間。

 

 闇が砕けるのを、少女は見た。

 強烈な光が闇を貫き、まるで硝子のように砕き散らしたのだ。

 同時に、自分を拘束していた重圧もほどけ、ぐらりと身体が落下していく。それはひどく頼りない感覚で、永遠にどこでもない場所へ落ちていくのではないかと思われた。

 

「ああ……っ!」

 

 声が、出てしまう。

 恐ろしさよりも、心細さが強かった。

 それを愚兄はしっかりと捕まえて、下がらせた。

 支えを失い落ちてくる黒球体に、自身の身体でもって、盾を作るように。

 

 そして、愚兄は真上に右手を伸ばし。

 

 右手が『門』に呑まれて………………………………………………………………………………

 

 

 

 

 

 右手の蓋が消えて、巨大な竜が顕現する。

 

 それも一頭だけではなく、堰を切ったように多頭が暴れ狂う。

 

 して、多頭の竜がそれぞれ巨大な(あぎと)を開き、その奥の底知れぬ深淵へとこの世の理から外れた概念たる『門』を喰らった。生じる音さえも呑みこむ無音の咀嚼。欠片も残さず貪り、徐々に(こそ)ぎ落としていく。暗黒の闇が消滅し、溢れだそうとしていた破滅が消失する。

 

 天上に意思にさえ届かざるものなど、相手にならぬ。

 其れは神をも殺し、天へ昇る翼をもった『神上』をこの地に封じこむ『神浄』の討魔。

 

 腹を満たした、と言わんばかりの咆哮を残して、多頭の竜が姿を消した。

 

 

 

つづく


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