黄昏時というのは、目前にいる人の顔が分からないほど暗くなった夕暮れに、そこにいるのは誰ですかと問いかける「誰そ彼」という言葉が由来だと、慧音さんから教わった。
そんな、空の色が紅から濃紺へと変わりゆく時間帯。
いつもならば妖怪が活発に動くようになるそんな時間に外を出歩くことはないのだが、今回は待ち合わせの用事があった。
手を振るメイド妖精たちの見送りを背に、俺は紅魔館の正面玄関の扉を押し開いて外に出る。
少しでも涼しい服装をしようと甚平姿にしたものの、この時間になってもまだ真夏の昼の熱は残っていて、すぐに汗が滲みそうだ。
冷風魔法の誘惑を早くも感じつつ、明かりのランタンを右手に携え歩くと、向かう正門の脇、塀の向こう側で話す声が聞こえてきた。
一人は門番の美鈴だが、もう一人は待ち合わせの相手だろう。
格子門を押し開いた俺は楽しげに話す二人に軽く手を振った。
「や、待たせたね」
「悠基遅ーい!」
と、口調の割には楽しげな声を上げるのは、先日幽香の突然の提案で俺の妖怪調査を手伝うことになったリグルだ。
「悠基さん」
「お仕事ご苦労様。今からちょっと出てくるから」
「ええ。リグルから聞いてます。お二人でご飯にいかれるそうですね」
「そーぅよー」
と、やけに上機嫌なリグルが応じた。
「悠基の奢りなの」
「それは羨ましいですねえ」
美鈴が問いかけるような視線を向けてきたので、俺は首肯してみせた。
「まあ、ここで働いてるおかげでお金はあるからね」
衣食住完備な上に給金良し。
当主である吸血鬼の姉妹を筆頭に気をつけることは多いものの、慣れてくれば条件の良い職場だと思っている。
「奢り♪奢り♪」
よほどその響きを気に入ったのか、リグルは楽しげに繰り返した。
ともすれば小躍りしそうな様子の彼女を眺めていると、不意に美鈴に肘で突かれる。
何事かと見ると、顔を寄せてきた美鈴は小声で囁いた。
「いやあしかし、二人きりで食事とは、悠基さんも隅に置けませんねえ」
「あのなあ……」
冗談まじりの邪推をしてくる美鈴に、俺は嘆息混じりに応じる。
「ご飯は仕事の打ち合わせのついでだよ」
「そういう建前なんですよね?」
「本当だって。そもそもリグルは子どもだろう」
「悠基さん的にはタイプなんじゃ――いたっ」
ペシリと、美鈴の額に軽いチョップをかます。
「そういう軽口を言うから咲夜から
それに名前を挙げた咲夜もだけど、俺が子どもに甘いからと言って特殊な性癖があるみたいな扱いをするのは止めて欲しい。
依然ニヤニヤ笑いで俺を見てくる美鈴に少々「ムカッ」と来た俺は、ちょっとした意趣返しをすることにした。
「それに…………」
「?」
意味深な間を置きつつ、真剣な顔を作って俺は美鈴に向き合った。
あたかも、今から告白でもするかのように。
「……俺的には、どちらかと言えば君のほうがタイピュだし」
「…………」
「…………タイプ、だし」
「悠基さん」
「……なんだよ」
「フフ……慣れないことはするものじゃないですねえ」
全くもってその通りだ、と内心思いつつも俺は言い訳混じりに負け犬の遠吠えを返す。
「……ちょっと噛んだだけだし」
それが尚更可笑しかったのか、美鈴はクスクスと笑い始めた。
* * *
リグルの有する『蟲を操る程度の能力』の性質上、彼女に襲われるということは、夥しい数の虫の大群に襲われることと同義だ。
その光景は想像を絶し、トラウマになること請け合いという、人間からすれば実に恐ろしい存在である。
だが、彼女が厄介なのはそこだけではなく、その多量の虫による索敵網だ。
範囲広く、性能も良しで、彼女がその気で虫を操れば隠れてやり過ごすことはほぼ不可能だろう。
逆に言えば、もしもリグルの助力が得られるなら、周辺の妖怪の位置を特定し、相手に気付かれる前に適切な行動を取れるという大きなアドバンテージが期待できる。
侵入する妖怪の山の哨戒天狗たちにどこまで通用するかは分からないが、その優位性を活かすことができれば、もしかしたら数ヶ月滞りっぱなしの妖怪の山の調査が進展するかもしれない。
とすれば最初に必要なのは作戦会議だろう。
そうリグルに話した結果、なぜかリグルが最近見つけたという屋台でその会議が開かれることになった次第だ。
「ミースチー」
夜の帳が降りる人里への道の途中。
目的の屋台に先んじて駆け込んだリグルが声を上げると、屋台の主人の驚いたような声が「八目鰻」と記された暖簾の向こうから聞こえてきた。
「リグルじゃない。随分機嫌良さそうね。どうしたのよ」
「奢り!」
「奢り?」
「そう」
「どういうこと?」
言葉が足らないおかげで全く通じてない。
人から奢ってもらえるのがそんなに嬉しいのだろうかと微笑ましく思いながら、俺もリグルに続いて暖簾をくぐった。
「やあ、ミスティア」
「あらぁ?悠基?」
芳ばしい煙が漂う中で、夜雀の妖怪を名乗るミスティアが目を丸くした。
「珍しい顔ね」
「まあね。このお店は人間は大丈夫かい?」
人里の外で経営する妖怪の店だ。
無論、客も妖怪を見越しているだろうと配慮して問いかけると、ミスティアは快く頷いてくれた。
「お客さんなら構わないわ」
「それじゃあ、お邪魔するよ」
ミスティアに断りを入れて、俺は先に腰掛けていたリグルの隣の席に座る。
屋台は思ったよりも規模がやや大きく、客が座るカウンターがL時型になっており、六人分の席が備えてあるようだ。
俺とリグルは端の席を選んだが、反対側の端の席には先客がいた。
カウンター越しなため胸元から上しか見えないが、この幻想郷では非常に珍しいことに、ジャケット姿の洋装だ。
ハンチング……確か、キャスケット、だったか、空気で膨らんだような形状のやや丸みを帯びた帽子を目深に被っており、更に俯いているせいで、その顔は口元しか伺えない。
服装から一瞬男性かと思ったが、肩幅から見るに女性だろうか。
と、なんとなしに気になって考えていると、ミスティアがその客の前に皿を配した。
「はい、お待たせお兄さん」
どうやら男性だったようだ。
その客は無言で小さく頷く。
無口な妖怪らしい。
「ミスチー、とりあえず蒲焼きを一本ね。悠基は?」
「ん、ああ、うな重はあるかい?」
「ええ」
「それじゃあご飯大盛りで」
「はいよー」
「あとお酒!お米のやつ」
「どれよ」
……いつまでも観察するような目を向けるのも失礼か。
俺はその妖怪に向けていた意識をリグルとミスティアへと向ける。
「ねえ。悠基はお酒どうするの?」
「リグル。飲むのは良いけど仕事の話に来たってこと忘れてないか」
「固いこと言わない言わない」
「……まあいいんだけどさ、俺は飲まないよ」
「ええ?本気ぃ?」
「本気」
それにしたって、言動は子どものくせに飲むもんはしっかり飲むのな。
ノリが悪いとでも言うかのようにジト目になって睨んでくるリグルの視線を受け流しつつ、ミスティアが置いた徳利をリグルのお猪口に傾けた。
「それで、妖怪の山の調査の件なんだけど」
「んぐ、もう、悠基ノリわるーい」
「ノリわるーい」
「やかましいわお前ら」
リグルに乗っかって楽しげに茶々を入れてくるミスティアにも唇を尖らせながら、俺は再び徳利を手に取ると空になったリグルのお猪口に再び酒を注ぐ。
「ほれ、俺の分も飲んどけ飲んどけ。どうせ俺の奢りなんだから」
「やったー♪」
「話をする前に酔いつぶれるなよ」
…………?
視線?
不意に抱いたその違和感に、俺は頭を上げて暖簾の外を見る。
既に夜の帳はおり、屋台から漏れる光が届かないところは完全な暗闇に包まれている。
もしかしたら、ミスティアの屋台に入った
「なあ、リグル」
声を潜めてリグルに顔を近づける。
既に酒気を纏い始めたリグルは僅かに火照った顔で「あによ」と応じた。
「この辺り、妖怪が潜んでたりする?」
「え?んーちょっと待って」
まるで外で雨でも振っているのかと確認するように、リグルは右手を屋台の外へ掲げる。
目を凝らせば、彼女の手のひらから小さな生物が宵闇の中へと飛び立っていくのが辛うじて見えた。
そのまましばらく待っていると、不意にリグルが頷く。
「隠れてる妖怪は居ないみたいね」
「……そうか。すまない、気のせいみたいだ」
いつもの妖怪調査の癖か、気付かない内に神経を張りすぎたのかもしれない。
俺は軽く息をつくと、ミスティアが置いた湯呑みを手に取る。
酒の臭いがしないか確認してから煽れば、冷えた水が喉を潤す心地よさか、一人出に息をついていた。
それにしたって便利な能力だ、とリグルを横目にしみじみと思う。
動かずして周囲の状況を容易に把握できるというのは大きな強みだ。
索敵だけでなく不意の襲撃に対処しやすくなるし、先手だって容易にとれるなど、そのアドバンテージはかなりでかい。
ただ一つ、重要な難点がある。
虫たちの索敵によって有益な情報を得たとして、俺にその情報が届かなければ意味がないことだ。
だが、俺と虫たちで直接情報をやりとりする術はほとんどなく、リグルを介することが必須条件と言ってもいいだろう。
これに関してはリグルが傍にいるならば考慮する問題ではないが、妖怪の山へ侵入するなら話は変わってくる。
分身能力を使用した俺一人での侵入の場合、天狗やその他妖怪に襲われたところで分身を解いて逃走すれば問題ないし大事にもならずそれでお終いだ。
しかし、リグルに同行してもらうとなると、分身した俺が消えれば彼女が一人取り残されてしまう。
妖怪である彼女なら、人間の俺みたいに弁明の余地なく攻撃されるなんてことはないかもしれないが、人間の俺と協力して妖怪の山を嗅ぎ回っているとくれば、その対応が変わることは想像に容易い。
いかにリグルの使う能力が優れていたとしても、哨戒天狗に囲まれればひとたまりもないだろう。
リグルに手伝って貰えるのは大歓迎だが、かといって彼女が怪我や、あるいはそれ以上に酷いことになるのは論外だ。
そこで俺は、一つの提案を用意していた。
「まどうぐ?」
「そ、遠隔通信の術式が組み込まれているらしい。つまりは無線機ってこと」
「ふーん」と、おそらくは余り理解していない様子で、俺が手渡した一枚のタロットカードをリグルは観察する。
小悪魔曰く、パチュリーが用意したこの魔道具は、俺ではさっぱり理解不可能なレベルのかなり高度な魔法によって作られているそうだ。
パチュリーは造作もないとでも言いたげではあったが、それは彼女が並外れて魔術への造詣が深いからだとも、小悪魔は誇らしげに言っていた。
タロットカードに通信術式を組み込んだのは、その方が使い勝手がいいかららしい。
「なんなの?これ」
と、明かりに透かすようにリグルがカードを掲げたので、「耳に当ててみな」と電話機を扱うように俺が持つもう一枚のカードを自分の耳に当てて手本を見せてみた。
困惑したように眉を顰めながらも、俺に習うリグルに俺は頷いた。
「もしもし」
「っっひゃあ!」
電話口での常套句を口にした瞬間、驚いたリグルが声を上げる。
ただの紙だと思っていたものから突然声がするなんて予想もしていなかったのだろう。
そして俺にとっても予想外だったのは。
「――あ」
驚いたリグルの手からタロットカードが離れ、ミスティアが扱う鰻焼き台の金網の上に落ちたことだ。
「な、なに!?」
リグルの反応に驚いたのか、別の焼台を見ていたミスティアが声を上げ、俺は慌てて立ち上がる。
「ミ、ミスティア!火鉢火鉢!」
「え?な、なんなの?」
「もう!ビックリするじゃない!」
……とまあ、てんやわんやになりつつも、なんとかミスティアに預かりもののタロットカードを回収してもらったときには既に、真っ黒になった一枚の炭化した紙切れと化していた。
いや、一枚の紙切れなのに燃え尽きずに炭化したというのもおかしな話だが、火で炙られたにも関わらず、そのタロットカードは燃え落ちることなく形を維持していた。
というか。
「…………もしもし」
『もしもし』
通話機能が生きていた。
…………そういえば、魔理沙が耐久テストだのなんだのとのたまって、パチュリーから借りていた魔道具を真っ黒に焦がしてしまったことがあった。
その時もパチュリーはなにが起こるのか見越していたかのように耐久度の高い魔道具を俺に預けていた。
黒焦げになったタロットカードを見据えて、俺は嘆息する。
もしかしたら今回も、こうなることを見越していたのかもしれない。
一重に、彼女の先見の明が優れているからなのか、それとも燃えた程度では壊れない魔道具を容易に作れる程度には魔法使いとしての腕が高いからか。
それとも、単純に俺の信用がないのか……?
「はあ……」
再び嘆息する俺の前に、「お待たせ」とミスティアが丼を置いた。
「なに辛気臭いため息してるのよ」
「まあ、ね」
空腹気味の胃袋を刺激する香りに舌鼓を打つ。
隣のリグルは既に蒲焼きを美味しそうに頬張っていた。
ミスティアがカウンターに手をついて俺の顔を覗きこんでくる。
「悩み?」
「いんや。そこまでじゃあないさ」
「誰かに打ち明けたほうが気が軽くなるわよ」
気遣うようなその言葉に、思わず頬が緩む。
「……なんというか、女将さんが板についてきてるね」
「あら、上手いこと言っても出てくるのは歌だけよ。あ、それじゃあ悠基が元気になるように歌ってあげましょうか」
「それ、君が歌いたいだけでしょ?」
「ふふん。ご名答」
「まあ、夜目が利かなくならない程度なら聞かせてほしいかな」
「八つ目鰻を食べたらいいのよ。目が良くなるから鳥目になっても大丈夫よ?」
「それは本末転倒じゃない?」
「商売上手と言って頂戴」
ミスティアは笑みを浮かると胸に手を当て、どこか心地よい歌声を響かせた。
作中季節は八月の半ばといったところ。
魔理沙が黒焦げにしたパチュリー作の魔道具のくだりは五十四話より。
ミスティアの屋台にいた先客について、服装は鈴奈庵の人里侵入スタイルです。
次回はほのぼのとした妖怪の山侵入回です。
名前:リグル・ナイトバグ
概要:初登場三十六話。永夜抄一面ボス。『蟲を操る程度の能力』。
当作における彼女は容姿以外は中性的な面のない(幻想郷基準で)普通の妖怪の少女。夥しい数の蟲を操り情報収集や襲撃を得意とする、襲われる人間からすれば非常に厄介な妖怪。操る蟲共々甘いものに目がなく、襲わないことを条件にしょっちゅう主人公に菓子をねだっている。