…………………………………………っ。
なんだ?
なにが起きた?
湿った感触が頬を濡らす。
体の側面から重力を知覚すると同時、それに逆らうように意識が浮上する。
――っ゛!!
浮上しかけた意識が、体中に奔る衝撃に強引に引っ張り上げられる。
「っあ゛、ごふっ、げほっ」
鋭い痛みと鈍い痛みと熱い痛みが、そろいも揃って溶け合うようにあちこちで体を叩いていた。
瞼を開く。
頭痛が酷い、
ねっとりとした感触が額を濡らす。
咳と呻き声を漏らす体の下は湿った地面の感触。
「っが……っ」
理解の及ばないまま呻いた俺は、一瞬ぼやけた視界に焦点が合うに連れ、言葉を失った。
血だ。
暗い木の幹も青々と茂っていた草も極彩色のキノコすらも、鮮やかに染め上げる夥しい量の赤い血が、そこら中に飛び散っていた。
その周辺は枝葉による遮りが少ないのか、陽光が光の帯となって漂う胞子と一緒に明確な赤を照らしていた。
その血が全て俺の体から流れ散ったものだというのは明らかで、だけど俺の意識は更にその向こうへと向けられていた。
「……畜生…………」
思わず悪態が漏れる。
俺を巨大な目で見据える、一ツ目の姿。
異様に長い右の前足は、未だに黒く焼け焦げたままだがすでに原形を取り戻しつつある。
対して左の前足は鋭い爪を赤く染め上げ――そういえば左腕の…………肘から先の感覚がない――その先からはポタポタと雫が一定間隔で落ちている。
…………あれすらも。
自爆覚悟の切り札として使った『クラッカー』も、一ツ目には数分と待たず意識を取り戻す程度にしか効果が無かったらしい。
自分の間抜けっぷりに反吐が出る。
倒したと思って確認を疎かにしたことも、耳が聞こえなかったとはいえ背後まで迫ってきていることにに気付かなかったことも、春を助けられると思って緊張を緩めたことも、全部、全部、全部…………。
俺を見据える一ツ目は、薄く笑っていた。
「マヌケ」
自責する俺の心境を見抜いたような言葉だ。
ゆっくりと、俺の元へと近付いてくる。
「マヌケ、オマエガ、マヌケ」
俺の挑発を随分と気にしていたらしい。
見ようによってはまるで子供のような無邪気さすら感じさせるヤツの姿は、それまで感じていた直接的な死の恐怖とは別種の気味の悪さを思わせた。
俺の間近、その爪を下ろせば簡単に心臓を刺し貫ける位置まで来た一ツ目は、しゃがみ込むように短い足を折って俺を覗き込んだ。
間近に迫る巨大な瞳は、やっぱり何回見ても怖いし気持ち悪い。
「オマエガ、ノロマ。オマエガ、ザコ」
なんだよ、気にしてたのか。
空元気でせせら笑ってやろうとしたが、口から溢れた血の泡に咳き込んで失敗した。
咳をする度に、体中の至る所から痛みに耐えかねる悲鳴が上がる。
一ツ目は自身の爪に付着した俺の血液をペロリと舐める。
視線を無様に地に伏せ動けない俺から離さないヤツは満足げに笑みを浮かべて勝利の余韻に浸っている。
「マタニゲラレタラ、メンドウ」
満足しつつも、一ツ目の中では一つの結論を導き出していたらしい。
「サッサトトドメ。ソシタラ」
不意に、その瞳が逸らされる。
「アッチノ――」
その視線の先に倒れているであろう春へ、その巨眼が向けられている。
「ガキモダ」
やめろ。
「頼む」
反射的に、声が出た。
「頼む、あの子は」
無理に体を起こそうとして力が入らずに失敗する。
「あの子は……っう、見逃し、てくれ」
体中が無茶苦茶で、何がどうなっているのか把握できない。
身じろぎするにも労を要するし、呼吸の度に鋭い痛みが奔る。
魔力も、『クラッカー』を使った片割れが全て持っていったのか、底を尽きかけているのを感じた。
為す術がないどころか、これは、もはや………………………………いや、今は。
それでも、それだけは看過できない。
「アハ」
一ツ目の口角が大きく釣り上がった。
「アハ、アハハ、アハハハハハハハ!!」
唾を飛ばしながら、豪快に嗤い声を上げる。
野太い声は空気を揺らし、俺の体はそれだけで痛みに悶える。
「アハハハハッハハハッハハ……」
そうして一頻り笑い終えたヤツは、俺を除き込み、口角を上げたまま告げる。
「イ、ヤ、ダ」
自分をコケにし、挑発してきた相手が無様に地に伏せている。
その状況が嬉しくてたまらない。
そんな感情がありありと見て取れる。
「イヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダアハハハハハハハハハハハハハハ!」
高らかに、勝利を確信した下品な笑い声。
……………………ぅ……………………。
血を流しすぎたのか、目眩がして視界が歪む。
不快感を催す笑い声を耳にしながら、不意に思う。
あの時みたいだ。
半年前、幻想郷に迷い込んだとき。
こうして、この場所で、この妖怪に襲われ、
絶体絶命で、もう為す術がなくて、
「アハハハハハハハハハハ!!」
こんな風にヤツは嗤って、
「騒々しいわね」
と、不意に声をかけられたんだっけ。
可能性は留める程度にしていた。
あの咆哮に加え、俺の魔法による大音響。
その音が届くかどうかは分からなかったし、運に左右される部分が多すぎるし、そもそも考慮したからといってできることはほとんどない。
それでも、どうやら、気まぐれな幸運の女神は、最後にもう一度だけと、俺に微笑みを向けてくれたらしい。
「ア?」
あのときと同じように、目を丸くする一ツ目の周囲に展開する妖精と見紛うミニチュアサイズの少女、いや人形たち。
俺は彼女たちの名前を知っている。
「咒詛」
彼女たちの主たる少女の名前を、知っている。
「『魔彩光の上海人形』」
その少女の強さを、知っている。
展開する上海人形たちから光が放たれる。
眩い光が頓狂な声を上げる一ツ目を包み込み、俺はあまりの眩しさに瞼を閉じた。
「アアアア――」
瞼を閉じてもなお眩しい世界の中で、その場から消滅したかのように一ツ目の声が唐突に途切れた。
――――。
上海たちの放った輝きは十秒もしない内に収まった。
耳に残った一ツ目の断末魔に背筋を冷たくしながら訪れた静寂の中で恐る恐る目を開く。
「……………………」
消えていた。
つい先程まで目前にいたあの妖怪の姿が。
随分と苦しめられた存在が。
こうもあっさりと。
驚きなのか安堵なのか、不意に息が漏れる。
――あ。
その息とともに、張り続けた緊張が途切れた。
視界が揺れ、一瞬意識が無くなりそうになりながら、俺は渾身の気力を持ってその意識をつなぎとめる。
「悠基」
軽い足音が近付いてきた。
「……アリス」
どうにか首を動かすと、金髪碧眼の少女が駆け寄ってくるところだった。
「貴方の魔法の音が聞こえたの」
ここにいる理由を短く告げながら、すぐ側でしゃがみ込んだアリスは俺の赤く拉げた腹部に翳した。
流れる血を止めようと腹部を抑える彼女の腕から、優しげな淡い緑色の光が湧き上がる。
温かさを感じる治癒魔法の光が痛みを和らげてくれる。
「ア、リス」
自分でも驚くほど弱々しい呼吸で彼女の名を呼ぶ。
「喋らないで」
アリスは俺の腹から目をそらさない。
魔法の光が、先程よりも強まった。
「聞い……てくれ」
「喋らないで」
再度、アリスは言った。
「頼むよ」
ただ、こればっかりは無理をしてでも遂げなければならない。
「子供だ」
ほとんど失ってしまった力を捻り出し、なんとか音にする。
「こど、もが、ゲホ……あっちに」
「分かってる」
アリスは俺の腹部から目を逸らさずに告げる。
「貴方を治療したらすぐに永遠亭に運ぶわ」
……………………。
「アリス、いいんだ」
なんとか動かすことの出来る右腕を上げ、俺はアリスの腕を掴む。
もはやそれだけのことすら、気力を振り絞らなければできない。
「俺は、いい」
「喋らないで」
再三、アリスは硬い口調で俺に告げる。
頼むよアリス。
魔法の森のキノコの胞子は有毒だ。
ただちに影響が出るわけでないにしろ、春を治療をするなら急いだほうがいい。
こんな…………こんな
「もう、いいんだ」
いつもはほとんど表情を顔に出さないアリスが、俺の言葉に顔を歪めた。
やっぱり、アリスも気付いてたんだな。
周囲に撒き散らされ今も流れ出る赤い液体は、とっくの昔に致命的な量に達していることを。
光が与えてくれる温もりよりも早く、俺の体から熱が失われていることを。
それでも、その事実に気付いてもなお、治療をやめる様子がない。
もう……ほんと、優しい子なんだから。
俺は心の中でアリスに謝る。
「俺は……分身だ」
「悠基」
「さ……里に、残……してる」
里に分身がいるから、ここにいる俺の治療は必要ないと。
とっさについた嘘に、アリスは俺を睨むように見た。
「やめて、悠基」
不思議と、怒ってるようにも悲しんでいるようにも見える目だ。
ああ、嘘だって、気付いてる。
でも、アリス。
「頼む…………!」
行ってくれ。
騙されたことにしてくれ。
頼むよ、アリス。
「俺は、大丈夫」
残り僅かな死力を尽くして、俺は歯を食いしばる代わりに微笑んでみせた。
「大丈夫…………だから」
いつかの相手を安心させるつもりの笑み。
だけど、やっぱりこれも、今回も、失敗だったらしい。
アリスは硬い表情のまま目を見開いていた。
ああ、出来損ないでもいい。
アリスはきっと、俺の意図も覚悟も意思も、察して、汲んでくれる。
彼女は、優しいから。
「っ――――」
そうして、何かを言いかけるように口を開いて、結局は声にはならなかった。
治癒魔法の光が儚く消えると同時に、アリスは頷いた。
「……分かったわ」
ありがとう。
礼を言おうとして、アリスとは違う理由で声にならない息を漏らす。
「悠基」
立ち上がったアリスはゆっくりと後ずさった。
俺を見る瞳は、やはり揺れるように迷いながら、しかし。
「後で……」
最後に一瞬だけ、アリスは名残惜しそうに俺を見る。
俺は頷いた。
頭が動いたかどうかも分からなかった。
それでもアリスは俺に頷いてみせると、踵を返して春の倒れている辺りにまっすぐ向かう。
その背、その歩みからは、断固として振り向くまいという意思を感じさせた。
俺はゆっくりと、呼吸が落ち着いて…………いや、か細くなっていくのが分かった。
茂みに阻まれ、アリスは次第に見えなくなる。
そんな彼女の背中に、俺は「ありがとう」と呟いて、「ごめん」と零した。
口からは、声になりそこねた掠れた息が吐き出されるだけだった。
…………ああ、全く。
子供じゃあるまいし。
ここにきて、急に寂しくなってきた。
覚悟、というほどじゃないけど、諦めは自然とついていたつもりだったのに。
独りになって、もう終わりなんだとやっと実感が湧いてきた。
怖い。
すごく、怖い。
…………まあ、でも。
よかった。
アリスが行った後でよかった、かも。
んあ……眠くなってきた。
なんか、
痛み、引いて。
だる………………。
これは…………もう。
…………終わり、かな。
視界が濁る。
世界の、
色が、
音が、
温かさが、
光が、
消えて。
暗い……。
寒い、なあ。
でも。
なんか、安心した。
いいかな………………も……う…………。
い……よね……………………?
…………と…………さん、……かあ…………ん
…………お…………れ……………………は、
まだ…………。
……………………あ……………………ま……………………。
…………………………………………………………………………………………。
……………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・――――――。
『――――』
『――――』
音が消えたはずの世界で、誰かの声が聞こえた気がした。
次回で花映塚編の区切りです。