東方己分録   作:キキモ

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四十三話 経験と魔法、そして、再び

『春に、何があったのでしょう?』

 

 

 

 

一刻前、慧音さんに問いかけた言葉。

反芻するように、俺は想い起こす。

 

人里。

自警団集会場の支部の一つ。

その中で俺は、幻想郷の大まかな地図を睨んでいた。

里に残る俺は、自警団を通じて里の外を捜索する人員からもたらされる報告を元に、幻想郷の地図から捜索範囲を絞る役目を担っていた。

里の外でフィールドワークをしていた俺はその役目に適しているといってもいいのかもしれない。

ただ、今の段階になって果たしてこの役割に意味があるのかという疑問は抱かずにはいられなかった。

 

既に里に住む数少ない対妖怪の専門家が捜索を開始している。

既に霊夢に依頼を届けた報告も、妹紅が動き始めた報告も受け取っている。

慧音さんも、今は里の周辺を捜索中だ。

 

例え里の中に残っていたとしても、春のために動けるのかもしれない。

そう自分に言い聞かせたところでそれは、方便だという気持ちがぬぐえない。

 

里の外で春の捜索に加わったほうがいいのでないか。

 

分身能力の解除。

日頃から行っているその行為を、衝動的に選択する最初の機会は既に逸脱していた。

 

空を飛ぶことが出来る霊夢たちがいる以上、俺がもう一人増えたところで大した差はないだろう。

むしろ俺自信の身が危険に晒される可能性が上がる分、里に残ったほうがいいのかもしれない。

 

それは理解している。

でも、だからといって焦りがなくなるわけではなかった。

 

 

 

『分からない』

 

俺の問いかけに、慧音さんは硬い表情で首を振った。

 

『ただ、彼女は複雑な立場にあった。当然その心境も揺れていただろう』

『だからって、里の外に逃げ出すなんて、そんな』

『ああ分かってる。彼女は聡い子だ。そんな選択をするとは考えにくい。だが』

そこで慧音さんは顔を歪ませる。

 

『妖怪に誑かされた可能性はある』

その言葉に、一瞬息が止まるほど驚いていた。

『……そ、んなこと、そんなことって、出来るんですか?』

『…………お春の、心の隙間』

 

難しい顔で、慧音さんは呟くように言った。

『その隙間を、妖怪に付け込まれたのかもしれない』

 

 

不意に、その時の慧音さんの言葉に違和感を感じた。

「……………………」

今思えば、どこか含みのある言い方だった。

「いや」

そんなことを考えている場合ではないと、俺は違和感を払う。

 

 

胸の中に積もった感情が、ぐらぐらと揺れ始めた。

 

衝動的であったとしても、あまりに遅すぎたとしても、もう決断するべき時かもしれない。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

近づいてくる。

一ツ目の妖怪。

 

こちらへ。

確実に。

 

どうする。

 

どうやって、

切り抜ける。

 

逃げるか。

無理だ。

 

ヤツは足が速い。

ましてや春を抱えてなど、絶対に。

 

「ドコダ……」

 

隠れるか。

駄目だ。

 

半年前の経験で知っている。

目だけではない。

ヤツは獲物を見つけられる。

現に今、近づいてきている。

 

「チカイ、ナ!」

 

なら隠れながら逃げる?

不可能。

 

すでにその選択肢が潰えるほど、

ヤツはこちらに近づいている。

 

…………。

なら、

 

「コノヘンカァ!?」

 

春を隠すように寝かせたままに。

茂みの中から躍り出る。

ヤツの目前へ。

 

闘う。

 

緊張と焦りに鈍らせた思考の先での行動。

追い詰められての選択肢。

 

「……ニンゲン!」

 

一ツ目は笑う。

「ニ、ク!」

あの時と同じ反応。

 

口から覗く鋭い牙。

長い腕の先には鋭い爪。

熊並の巨体。

 

それだけで恐ろしい。

体が震えそうになる。

 

でも、もう遅い。

身を晒した今、正面から向き合うしか無い。

踵を返して逃げるのは論外。

 

体が震えている。

 

怖い。

恐い。

コワイ。

 

なによりも。

 

俺の背後で気絶した少女を守れないことが。

何よりも恐ろしい。

 

引きつけろ。

ヤツを春から遠ざけるんだ。

 

ゆっくりと、横に歩く。

一ツ目の視線が俺を追い、

次の瞬間、視線が茂みへと向けられた。

 

気付かれて――

 

「おいウスノロ」

咄嗟に声が出た。

 

「ア?」

巨大な瞳がこちらへ向けられる。

 

そうだ。

こっちを向け。

 

「ビビってんのか」

注意を惹け。

 

「この雑魚が」

「ア゛ァ?」

 

余りにも稚拙な挑発。

それでも、効果があった。

 

「……オメェダ」

低く濁った声が漏れ出る。

 

「オメェガ、サキダ」

 

やはり春にも気付いていた。

その上で、

こちらに矛先が向いた。

 

「……来い」

 

危なかった。

冷や汗が頬をつたう。

 

考えろ。

頭を回せ。

浅慮は捨てろ。

 

ヤツが春を狙えば終わりだ。

彼女を守る術を俺は持たない。

 

「かかって来い」

 

木刀を抜き構える。

以前よりは手に馴染んだその武器。

一ツ目相手には心もとない、けど。

 

選択肢は一つ。

闘う。

いや、

 

「ガァ!」

 

距離を詰めてきた。

だが、遅い。

白狼天狗よりも圧倒的に。

 

右腕。

袈裟斬りの軌道。

 

受け止めるのは危険。

 

間合いを図る。

見切り、飛び退――ッ!。

 

「っ!!」

 

爪の先端が触れた。

着物の胸元が僅かに切ら裂かれる。

間合いを見誤っていた。

 

思ったよりリーチがある。

安易に距離を取るのは危険。

 

「ガァアッ!」

続いて左腕。

横薙ぎ。

 

軌道は読める。

姿勢を低く。

膝と腰を軽く曲げて首を竦める。

 

頭の上で空気が裂かれた。

 

「っく!」

三撃目。

俺の顔面に迫る太い足。

 

咄嗟に首を捻る。

頬を掠める太い足。

耳が――。

 

「ぐっ!」

転がる。

奴の死角を抜けるように。

無理な体勢の蹴りで生まれた隙を見ながら。

 

耳が持って行かれた。

――かと錯覚する蹴りだった。

熱い。

 

「ガァ!?」

 

咄嗟に距離を取る。

一ツ目を見る。

体勢を立て直す。

息が荒い。

俺の息が。

 

だが、思ったよりも。

予想していたよりも。

闘えてる。

 

……ダメだなそれじゃあ。

 

猪突猛進。

一ツ目が距離を詰めてくる。

 

春からは遠ざかるように。

ああ、来い。

 

俺には避けるしか対処法がない。

 

それでも、ヤツを誘導する。

少しでも春から遠ざけるように。

 

闘えるだけじゃあ足りない。

 

時間はない。

春を早く治療しなければ。

 

突進。

飛びのく。

 

もたもたしている暇はない。

 

切り裂き。

避けながら距離を取る。

 

考えろ。

やるべきは。

 

また蹴り。

こっちも転がって対処。

 

俺がするべきは――

 

「倒す」

決意であり決断。

 

倒すこと。

もしくは、一時的に行動不能にすること。

春を連れて逃げる時間を作り出すこと。

 

それも、出来る限り迅速に、だ。

答えは決まった。

 

切り裂き。

突進。

また爪。

 

腕を警戒。

木を障害物に。

死角を突いて。

 

余りにも、厳しい状況。

達成条件は困難。

それでも、それしか手はない。

 

「――スゥ」

息を吸い、

呼吸を止めて、

右手に神経を集中。

 

するべき、は。

 

逃げるために。

春を救うために。

 

大ぶりの一撃。

躱すのは容易。

 

懐に、一歩。

体勢を崩している。

蹴りはない。

 

更に一歩。

 

右手に、

その掌に、

 

 

魔力を、込めて。

 

 

 

*

 

 

 

「出来っタァッツ!」

一瞬上がった歓喜の声が悲鳴へと転じる。

 

魔力を放った直後で、恐ろしいことに煙が出ている右手をぶんぶん振って煙を払う。

それから、掌を火傷したのではないかと恐る恐る見ると、赤くはなっているが思ったよりも無傷だった。

 

「少し出力を上げすぎたわね」

アリスが冷静な分析を告げてくる。

「強すぎて制御に失敗したのよ」

 

「まあ、そこは失敗だけども」

息を吹きかけて手のひらを冷ましがてら、俺はぼやくようにアリスに応じた。

「でも、今のって、成功したって言ってもいいよね?」

 

三月に差し掛かったころ。

アリスの家での魔法の練習もだいたい五回目。

初めて魔法を成功させた瞬間である。

成功、でいいんだよな?

 

期待の眼差しを向けると、連れない態度でアリスは肩を竦める。

「まあ、微妙だけど、いいんじゃない?」

アリスのお墨付きだから成功とみていいだろう。

評価は置いといて。

 

「よっしゃ!」

思わずガッツポーズを見せる俺だが、アリスは相変わらず無表情である。

「浮かれすぎよ」

「そりゃ浮かれもするって!初めて魔法が使えたんだから」

まあ、正直に言えばもっと華やかな魔法が良かったけど、そんなことはおくびにも出さない。

 

「不満でもあるみたいね」

バレバレ。

「いや別に不満ってほどじゃないけど…………嬉しいのは本当だし」

 

「ま、いいわ。ここからは成功率を上げるために反復練習ね。今ので感覚は掴んだでしょ?」

アリスの言葉に俺はついさっきの感覚を想起させる。

「…………一応は?」

「自信ないのね」

 

俺の曖昧な応答にため息をつきながら、アリスは「そうね」と考えるように視線を空に向ける。

「名前をつけたらどうかしら」

「名前?」

 

「そう。貴方が使った魔法に固有の名前を付けるの」

俺は首を傾げならアリスを見る。

「あの、この魔法って、元々名前があるんだよね?」

「もちろん、一般的な呼び方は定まっているわ。でも、敢えて名前をつけるの」

 

「……そのこころは?」

「自信を持って魔法が使えるようになる」

「……意味分かんない」

アリスの発想にますます首を傾げるが、アリスはどこか確信を持った様子で話を続ける。

 

「名前を付けると愛着が湧いてくるでしょ?」

「ペットじゃないんだから」

苦笑してツッコミを入れるが、アリスは表情を崩さない。

 

どうも本気らしい。

まあでも、彼女の場合は真顔で冗談を言ってくるからイマイチ判断しづらいんだけど。

「愛着が湧くと、次第にその魔法に信頼が持てるの」

俺のツッコミを無視して話を続けるアリス。

「つまりは、その魔法を使う自分への自信に繋がるわ。魔法っていうのは、精神の影響が顕著に現れるっていうのは分かるわね?」

 

「まあ、なんとなくは。つまるところ、自信を持つためってことだよね?」

と無粋と分かりつつもアリスの話を結論付けてみる。

心の中で「こじつけっぽいけど」と正直な一言を付け加えている俺に対して、アリスは頷きつつも「まだあるわ」と人差し指を立てる。

 

「まだ?」

腕を組み、首を傾げる俺にアリスは一拍置いて、つまりは微妙に溜めてから告げる。

 

「名前を言いながら魔法を使うと」

「使うと?」

 

「必殺技みたいでテンションが上がる」

 

「!…………確かに」

「自分で言っててなんだけど、そこは納得するのね」

俺の反応にやや呆れたようにアリスは言った。

 

「まあ男子としては、つい、というか」

若干照れながら俺は頭に手を当てた。

冷静に分析して、技名を言いながら必殺技って流れは、スペルカードバトルのカード宣言も連想させるし、そういう考え方は存外俺の琴線に触れていたんだろう。

 

テンションなんて言葉選びにはちょっと驚いたけど、要はそういった精神的なコンディションが魔法に影響するわけだ。

テンションが上がった分だけ威力が上がるって解釈で間違っていないかな。

「納得していただけたようで何よりだわ」

なぜか誇らしげにアリスは言った。

 

「でも、名前か…………どういうのがいいかな?」

少々迷いながら参考程度にアリスに問いかけてみる。

「好きにすればいいんじゃない?」

「そこはおざなりなんだ…………うーん、でも、カッコイイ名前がいいかなあ」

 

腕を組んで軽く唸る。

こういうのって結構ワクワクするものだ。

 

初めての魔法だし、せっかくだしと誰に向けたのかも分からない言い訳もついでに浮かべながら頭を捻りつつ、アリスに視線を寄越す。

「アリスはなにかいい案はない?」

 

「そうね……」

逡巡する様子で、アリスは口元に手を添える。

「こういうのは?」

 

そうして彼女が示した名前に俺は、

 

「……………………えーと」

「不満?」

「い、いや……いいんじゃないかな」

ただちょっと名前が魔法っぽくなさすぎっていうか、すごい無骨というか、火薬臭いイメージというか。

 

「そんなにいや?」

はっきりしない態度に俺の内心を見透かしたのか、アリスは小首を傾げて見つめてくる、

 

「まあ、魔法なのにその名前っていうのが特に」

「男の人はこういうのが好きなんじゃないの?」

「別に…………ていうかよく知ってるねそんな言葉」

感心と呆れを交えながら言うと、アリスは釈然と行かない様子で「外来本に載っていたのよ」と肩を竦めるのだった。

 

そんなことはさておいて。

そうして俺は記念すべき初めての魔法を習得したわけである。

 

 

 

 

* 

 

 

 

 

握った右手に込めた魔力。

指の隙間から光が溢れる。

 

「ア?」

一ツ目の眼前に拳を振り抜くように。

 

「――閃光魔法」

その手を開く。

 

「『フラッシュバン』っ!!」

叫ぶ。

同時に瞼をきつく閉じた。

 

フラッシュバン、別名『閃光手榴弾』。

強力な光で視力を損失させる非殺傷兵器。

つまりは外の世界の武器。

魔法というには無骨な、それが名前の由来だった。

 

「ガァア!!」

 

炸裂音。

掌が、熱い

 

瞼越しなのに。

世界が、一瞬で白に包まれる。

 

魔力を光へと変化させ、

握った拳から解き放つ。

 

名前の由来と同じく殺傷性は無し。

要はただの目眩まし。

それでも、

 

「アアア!!」

野太い悲鳴をすぐ間近に感じた。

すれ違うようにその横を抜ける。

 

距離を取りつつ瞼を開く。

反転。

ヤツを見る。

 

「ウガアアアアア!!」

悶えている。

目を抑えて。

 

効いている。

薄暗い魔法の森であることは一種の幸運。

目眩ましは効いている。

今のうちに離脱――

 

いや。

木刀を握る。

 

目潰しは一時的なもの。

妖怪の回復力を考慮。

せいぜい効果は三十秒。

 

それでは足りない。

春を抱えて逃げるには、圧倒的に。

 

故に。

 

一息に、俺は踏み出す。

未だ悶える一ツ目との距離を詰める。

 

姿勢を低く、狙うべきは。

「っすぅ――」

「グァア!?」

 

鈍い音。

振りぬいた木刀が強かに奴の左足を打つ。

 

狙うは足。

ヤツの足を潰す。

 

次いで、もう一太刀。

 

出来る限り、同じ箇所へ。

ダメージを蓄積させる。

妖怪の回復力を上回る程の。

 

鋭い太刀筋ではない。

護身用にと持たされた木刀。

 

防御のために用いても攻撃に使ったことは少ない。

だからこそ、全力で。

我武者羅に、強く。

 

「ウラァ!」

怒声とともに爪が迫る。

だが、狙いは当てずっぽう。

 

閃光魔法がまだ効いている。

 

飛び退く。

背後をつくように。

 

そこから突き。

今度は右足の膝裏。

 

「ウガアアア!!」

爪が迫る。

 

さっきよりも正確。

飛び退く。

 

間合いを見切れた。

距離を取る。

様子見。

 

「テメェ」

振り向く一ツ目。

僅かに目を開いている。

 

視力が回復しつつある。

早い。

予想よりも遥かに。

 

構うものか。

走りだす。

振り向く一ツ目の死角を付くように。

 

「コノ――」

その目が、俺を追って。

 

「『フラッシュバン』」

「ゥア!!」

再度、視力を潰す閃光。

間を置かず接近。

 

左足に一撃。

すぐに離脱。

 

爪が空振る。

隙。

再び左足を突く。

 

「ウ、ア」

ヤツが僅かに蹌踉めいた。

 

効いてる。

その隙を追撃。

 

寒気。

 

咄嗟に攻撃を中断。

 

目前の地面を抉る斬撃。

しかし無理な体勢での攻撃。

 

生じる更なる隙。

「う、」

踏み込む。

 

飛びかかる。

狙うは、目玉。

躊躇わず。

容赦なく。

 

「っらぁ!」

振り下ろす。

 

「っ―――」

木刀越しの嫌な感触。

 

手応えあり。

効いてる。

やれる。

 

油断はするな。

見る。

 

容赦もするな。

まだ体勢は崩れたまま。

 

まだいける。

 

魔法を使うか、

木刀を使うか、

 

確実に、

木刀を握って。

 

迅速に――。

「ウ」

 

「っ」

何か来る。

 

「ッアア゛ア゛ア゛アアアアアアア!!!」

叫喚。

咆哮。

 

鼓膜を震わせる衝撃。

「っ!?」

怯む。

 

いや、

体が、動かな

 

「グアアアアアアアア!!」

「っ、あ」

迫る鋭爪に無理やり体を捻る。

ギリギリ回避。

 

ではなかった。

 

バシン、と。

木刀が弾かれる。

 

右手が痺れた。

 

唯一の武器を。

咄嗟に目で追う。

 

くるりくるりと回りながら、

木刀は、霞のように、

 

しまっ――

 

空気に溶けて。

 

失態。

その時になってやっと気付く。

 

重ねる過ち。

すぐに回避に移すべき瞬間を、

既に俺は、逃していた。

 

「グオオアア!!」

一瞬目を離していた。

 

一ツ目が体勢を立て直す。

 

反して俺は、回避しようとして、

足を取られて、

つまづきかけて、

 

致命的な判断ミス。

ささやかな不運。

 

倒れまいと足を踏み出した時には既に、

質量の塊が、殺意を伴って、

眼前に――。

 

バチッ。

 

突進。

直撃。

 

視界が、

世界が、

 

肺が潰れた。

息が、

 

――――

 

トんで――

 

「っ――ア」

背中に、

直後に正面に、

 

衝撃。

圧しつぶされる。

 

喉から石が込み上げて、

熱い液体が口から溢れる。

 

――あ?

 

腹に違和感。

 

見れば、腕が。

一ツ目の腕が、生えていた。

 

いや、これは。

視線を上げる。

 

熱い。

 

充血した瞳。

 

笑う。

 

悍ましい顔。

もう一本の腕が、

 

爪が、

 

熱い。

 

見えない。

 

 

あ。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

心臓が、痛い。

緊迫した状況と慣れない戦闘に激しく息が上がっていた。

だが、それ以上に心臓を激しく打たせているのは、目前で突如として起きた現象。

 

優位に進んでいたかに思えていた戦闘は、たった一度、耳朶を叩く咆哮でいとも簡単に逆転。

木刀が分身による複製だったことも災いしていた。

一瞬にして武器を失い、そのまま突進してきた一ツ目に為す術がなかった。

 

命がけの綱渡りで、俺は足を踏み外した。

 

その瞬間に感じた頭の中で何かが弾けるような感覚。

余りにも覚えがある現象に目を見開いた時には既に、俺は一ツ目の背後にいた。

 

一ツ目は正面に突進を繰り出す。

遠ざかる背中の向こうから声にならない悲鳴が聞こえてきた時には既に、()()()()()()が腹を貫かれ樹の幹に叩きつけられていた。

霞となって消える俺の姿を見ながら、同時に腹を貫かれた記憶が流れ込み息をつまらせる。

 

もはや疑う余地は無かった。

 

土壇場で分身能力が発動したのだ。

だが、腑に落ちない点が一つ。

 

分身をしている状態で分身能力は使えない。

ゆえに、一方が能力を解かなければ分身はできないはずだ。

現に今目の前で消えた俺の記憶は、消滅を示すように頭の中に流れ込んできた。

だが、里で慧音さんに捕まっていた俺の記憶は引き継いだ覚えがない。

 

「ア?」

間の抜けた声を上げながら、一ツ目が振り向いてきた。

「オメエ…………」

 

しかし、一つだけ確かなことがある。

もし、分身のいない今の俺が致命傷を負ったならば、そこにいつものような分身の消滅ともう一人の俺への記憶の引き継ぎという過程は起きず、死亡時の記憶を持ちながらも生きているという奇妙な結果にはなりえない。

 

死ぬ…………かもな。

 

分身能力を連続して使用するには、一定のタイムスパンを置く必要がある。

 

ここ暫く、分身がすぐに消されることが無かったおかげで無縁だった能力の性質を想い出す。

ついさっき能力を使用した今、頭のなかでは小さな刺激が弾けるばかりですぐには分身が出来そうにない。

だから、一ツ目のあの鋭い爪で切り裂かれれば…………。

 

でも、

 

「はは…………」

 

時間を置けば分身能力が使えるようになる。

それはつまり、戦う手段を得たこと。

ヤツを倒す一発逆転の目が得られたこと。

 

…………一人の少女を救うことが出来る、その可能性がずっと現実的になったこと。

蝋燭の火のように、一息で消えそうな儚い希望が今、温かさを伴って大きくなっていく。

 

「ははは…………」

それが例え、自分の命を危険に晒すことであったとしても。

春という少女を救えるのならば。

 

「ハハハ」

笑っていた。

 

自分の命が危ぶまれるようになった状況下で、予想以上に落ち着いていて、驚くほどに恐怖を感じていないことを自覚する。

同時に、ふと想い出す。

 

 

『ただの人間風情が、私に対して頭が高いんじゃない?』

 

見た目は幼い吸血鬼の少女が、初めて対面した際に放った言葉。

ああ、そうか。

合点がいった。

 

あの時感じた恐怖。

それは目の前の一ツ目妖怪から感じる物とは比較にならないほど濃密で圧倒的で尊大な殺気であり、分身しているにも関わらず間近に感じた死の予感だった。

 

……そりゃあ、あれに比べれば、な。

 

「アノトキノ、キエルニンゲン、カ」

はっ。

「今更気付いたのかよ間抜け」

 

らしくもない、そんな口調で俺は嘲る。

 

ただでさえ、大きな目を限界まで見開かせたと思うと、一ツ目は息を漏らすように呟いた。

「…………コロス」

殺気を込めたその言葉さえ、レミリア様の足元にも及ばない。

 

「来いよ。出来るもんならな」

 

再び分身できるまでの残り時間。

…………五分弱といったところ。

 

さきほどの戦いでさえ、五分間には及んですらいない。

スタミナも減り、息が上がり、おまけに木刀という唯一の武器を失い。

自分の命すら危ぶまれるようになった状況下でなお、俺は不敵に笑みを浮かべ、目前の強敵と相対していた。

 

 




戦闘回です。
主人公の魔法お披露目回でもあります。ある意味地味ですが、習得難易度の低さ(比較的容易という設定です)と実用性を兼ねてということで。
でもって、なんとなく察していただければと思うのですが、今回は回想除いて終始主人公は相当テンパってます。つまり、ちょっと考えれば気付くようなことにも気付かないということです。

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