東方己分録   作:キキモ

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四十二話 事件と焦燥、そして、再会

「さて、と」

朝餉を終えた俺は、食器を水に漬けておくと軽く伸びをした。

週に一度の甘味処の定休日だが、寺子屋自体は今日もいつも通り運営するのもあって、竹箒を手に敷地内の、主に門の周辺から建物玄関までを簡単に掃いていく。

 

さて、今日は何をしようかな、とぼんやりと考える。

阿求さんの妖怪の調査も終わり、トリプルワークに忙しくて目が回していた時期は既に過ぎている。

わざわざ分身せずに、今日は寺子屋の業務に集中してもいい。

 

のんびり里の中を回ってもいいかもしれない。

ケーキの試作時期に世話になった農家に顔を出してもいいし、外来本を見かける貸本屋、質の良い道具を取り扱っている道具店、なにかと世話になっている善一さんの酒屋……は、お酒で後悔した記憶が新しいのもあって気が進まない。

 

里の外は……特に用事はないし、いいか。

博麗神社は先週、紅魔館も最近、香霖堂やアリスの家に至ってはつい先日訪れたばかりだ。

別に一定のスパンを空ける必要があるわけではないが、リグルと遭った時のために菓子を用意しなければいけないので、以前ほど気軽な気持ちで里を出ることは減ったと言える。

いや、以前は軽い気持ちだったのかと言えばそうではないのだけど。

 

妖怪、といえば…………。

「ふう」

柄にもなく黄昏れながら嘆息する。

想い起こすのは先日の、恐らく妖怪であろう少女との出会い。

どことなくつかみどころのない雰囲気を纏い、意味深な微笑みをたたえた少女は、やけに印象深かった。

彼女を見た時に抱いた強烈な既視感の正体も分からないまま、そして俺の問いかけに答えを返さないまま消えた彼女だったが、おかげで俺の胸にはなんとももやもやとしたものが残ることとなった。

 

「ん?」

掃き掃除を進めていると、一輪の花が目に留まる。

もう暖かいというのに蕾のままの蒲公英をなんとなく気に留めていたのだが、寝坊ぎみのそいつもやっとこさ花開いたようだ。

先日までは蕾だったから、死者の魂の因果とやらで花が咲く異変とは関係の無い、至極普通の花だろう。

 

花と言えば、幽香は元気にしているだろうか。

最後に別れた時は、瀕死の俺に「また連絡する」と言っていたが、無事にメディスンの襲撃を退けたのだろうか。

無用な心配だと思うが、それでも怪我をしていないかというのは少々気がかりではあった。

 

「元気かなあ」

誰ともなしに呟くが、当然誰かが応えるなんてことはない。

ぼんやりと青空を流れる雲を眺める。

今はその連絡を待つ他ないだろう。

 

そう結論付けていると、不意に慌ただしい足音が聞こえた。

「?」

別段珍しいことでもないのに、なぜかその音を引き金に唐突に胸がざわついた。

足音は寺子屋の門の前で止まった。

 

異変に気付いて視線をやると、見知った男が息を上がらせて立っていた。

「あれ、善一さん?」

「悠基!」

普段は寺子屋に用事のないはずの訪問者に困惑する俺だが、硬い表情の彼に、只ならぬ何かを感じた。

 

「何かあったんですか?」

「事情は移動しながら話す。来い」

端的な彼の言葉に、やはり何かあったらしいことを察して頷く。

だが、踵を返そうとした善一さんが動きを止める。

 

「悠基」

「はい」

「確かお前、里の外に出るときに武器を持っていたよな」

「護身用に木刀を持って行きますが」

「……持って来たほうがいい」

 

善一さんの物騒な忠告は、僅かに抱いた嫌な予感を確信に変えるものだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

寺子屋の生徒の一人、お春と呼ばれる少女が今朝方から姿を消した。

 

隣を走る善一さんが話した内容は端的にはそういった物だ。

朝の早い春の家で、彼女の両親が起きた時には既に、弟の伍助と枕を並べているはずのお春の姿は床から消えていたらしい。

家や畑の周りを探しても娘の姿が無く、こんなことは一度もなかったことから不安を感じた両親は付近の住民や自警団にも声をかけ、そんな経緯でお春が消えたことは慧音さんの耳に入った。

善一さんは慧音さんの遣いで俺のもとに来たらしい。

 

春を取り巻く今の環境は、十二歳の少女には荷が重すぎる。

それを思えば、ただの家出と判断したかも人も多いかもしれない。

だが、そうは断ずることができない懸念材料が見つかった。

 

「慧音さん!」

里の出口近くにその姿を見つけた俺は叫んだ。

彼女の近くには幾人か自警団の姿も見える。

 

駆けてくる俺と善一さん見る慧音さんは硬い表情だ。

「悠基君」

息が上がった善一さんを遥か後方に、俺は慧音さんの前に急停止する。

 

「お春が里の外に出たって本当ですか!?」

 

目を見開いて問いかける俺に、慧音さんは「まだそうと決まったわけではない」と首を振った。

「ただ、彼女によく似た少女が里の外へ歩いて行く姿を見たという話があった」

慧音さんは自警団の男たちに視線を向ける。

 

見れば、男たちは一人の老人から話を聞いているようだった。

「彼が言うには、里の外に向かう少女を見て慌てて止めに向かったのだが、近付いたところで見失ったらしい」

「見失った?」

自警団に不安な顔で話す腰の曲がった男を一瞬だけ見るが、すぐに頭を切り替えて慧音さんに向き合った。

 

今はそれを言及している場合ではない。

「いえ、それは、その少女が消えたというのはいつの話なのですか」

 

俺の問いかけに、慧音さんは僅かに顔を俯かせる。

いつもは凛とした顔を陰らせながら、それでも彼女はほとんど即答する形で答えた。

 

「一時間前だ」

「…………っ、そんな」

 

一時間。

 

頭の中で、その単語が木霊する。

俺は目を見開いて後ずさり、追いついてきた善一さんに肩を捕まれ止められる。

 

その時間がどれだけ絶望的なのか。

それは、日常的に里を出ている俺がよく知っている。

 

冬場であれば、妖怪の活動は減り、道沿いを行くならば多少の望みは持てたかもしれない。

だが、今は妖怪や妖精たちが活発に動いている。

しかも異変の最中で、彼らはいつも以上に気が昂ぶっている。

俺は経験上危険に対する勘が働くようになったのもあり、生存時間は自ずと伸びるようになったがそれは例外だ。

 

普通の人間が里の外で無事でいられる時間など、どれだけ幸運だったとしても一時間もない。

ましてや少女など――。

 

無用な思考をそこで断ち切った。

目を瞑り、いつものように頭の中で火花を散らせた。

 

そうして目を開けば、木刀に手を添えたもう一人の俺が、慧音さんの隣に立っていた。

視線を交差させ頷き合う。

もはや一刻の猶予もない。

しかし、

 

「待つんだ」

駆け出そうとした俺の腕を慧音さんが掴んだ。

もう一方の俺は、制止されることもないが、しかし目を見開いて振り返った。

 

「慧音さん、何を――善一さん!?」

気付けば、善一さんまでもが肩を掴む手に力を込め、まるで里の外には出させないとばかりに厳しい顔を向けていた。

 

「行くのは一人だ」

硬い表情で告げる慧音さん。

彼女の言葉に目を見開き、しかしその意味は余りにも理解しやすいものだった。

 

無力な俺が、一応は命を落とすこと無く里の外に出ていけたのは分身能力によってバックアップが安全な里に残っていたためだ。

だが、バックアップもろとも妖怪に里の外に出たのなら、話は変わる。

二人揃って襲われる……そんな不幸に見舞われれば、確実に死ぬだろう。

 

その覚悟は既に出来ていた。

それでも慧音さんは看過するつもりはなかった。

 

断固たる意思を思わせる彼女の視線に、俺は逡巡しもう一人の俺を見る。

「先に行け」

慧音さんを説得するにしても、力ずくで突破するにしても、すぐには叶わないと悟る。

「……ああ」

 

全く同じ顔の男は返事をしながら踵を返す。

里の外へ走り去っていく俺の見送りもほどほどに、俺は慧音さんに視線を戻す。

 

「慧音さん、俺も行かせてください」

「出来ない」

「俺を呼んだのはこのためでしょう!?」

「駄目だ。君は――」

 

「人手は多い方がいい」

硬い表情で俺は慧音さんの言葉を遮る。

危険であることは百も承知だ。

 

だが、彼女は頑なに首を振った。

「既に妹紅や霊夢に遣いは出している。退魔師や退治屋には春の嫁ぎ先の家が依頼を出している最中だ」

里の中でもかなりの資産を持つ商家だ。

ある程度の人員は動くと見ていいだろう。

 

それに比べれば、俺がもう一人増えたところで、微々たる力かもしれない。

「だとしても、大人しく待ってるなんて出来ません」

納得できるわけがない。

教師見習いであったとしても、半年前に知り合ったばかりだとしても、お春は可愛い教え子の一人であり、命に変えても守るべき存在なのだ。

 

「時間がない」

ならばここで大人しく待つつもりはない。

「行かせてください」

気が昂ぶりを自覚しながらも、抑えが効かない

「春がどうなってもいいと――」

激しく揺れ動きそうな感情が、最悪の結末を口に仕掛ける。

 

だが、先に声を荒げたのは彼女だった。

「頼むから!」

いつもは落ち着いた慧音さんの、それは初めて聞く鋭い声に、その場の誰もが振り向いた。

正面から受け止めた俺は、吐き出そうとしていた言葉を驚いて飲み込む。

 

気付けば、俺の腕が震えていた。

 

俺の腕を掴む慧音さんの腕が震えていた。

 

「頼むから」

慧音さんの声が震えていた。

 

「これ以上、心配事を増やしてくれるな」

慧音さんの瞳が、震えていた。

 

自分の内から弾けた衝撃が体中を奔った。

言葉がまるで冷水のように、昂ぶった感情を冷ましていく。

「…………」

 

「落ち着け悠基」

後ろからかけられる言葉に、呆然と振り向いた。

「お前だけじゃないんだ」

どこか哀れみを讃えた善一さんの瞳に、俺は言葉を返すことが出来ない。

 

「悠基」

両手を握られる。

俺を真っ直ぐ見据える慧音さんの瞳は、既に震えは止まっていた。

「どうか、分かってくれ」

 

首を横に振ることが出来なかった。

彼女を裏切ることなど、俺には到底出来ないと知らしめられてしまった。

歯を食い縛りながらゆっくりと頷き、慧音さんの顔が見れなくてそのまま俯く。

 

俺の手を握る腕ごしに、慧音さんの纏う空気がほんの少しだけ安堵に緩むのが分かった。

 

…………。

 

ふいに気付く。

既に分身している今、一旦自身の能力を解けばこの場を容易に脱することはできる。

慧音さんも善一さんもそのことに気づいていないのか、既に俺に注意を向けてはいない。

いや、例え警戒されたところで、俺が分身を解くことを阻むことは出来ないだろう。

後で里の外の俺が分身能力を使えば結果的に二人でお春の捜索に当たれる。

この場で足止めされたところで、意味は無かったのだ。

 

…………でも、と俺は奥歯を強く噛み締めた。

気付くのが遅かった。

 

分身を解けば記憶が引き継がれる。

既に慧音さんの想いを知ってしまった今、『春を救うために命を賭す』ことしか考えていなかった俺の選択肢は二つに割れていた。

 

こんなこと、普段の慧音さんならばすぐに気付くはずだ。

しかし、彼女は明らかに冷静さを欠いていた。

揺れる感情の中で、俯かせていた顔を上げる。

 

慧音さんの横顔を見た瞬間に、選択する覚悟すら出来ていないことに、俺は気付いてしまった。

 

 

 

* * *

 

 

 

いざ里の外にでたところで、手がかりなしに一人の女の子を見つけなど無謀だ。

それが一時間も前なら尚更。

だからこそ里を出た俺は、走り周囲を見ながら一つの案を捻りだしていた。

 

 

「リグル!!」

道沿いを駆けながら、俺は最近出来た妖怪の知人の名を叫ぶ。

 

リグル・ナイトバグは虫を操る妖怪だ。

彼女の恐ろしいところは、虫の大群で覆い尽すというおぞましい攻撃だけではなく、従えている虫たちを使った広範囲の情報収集能力だ。

実際に、ここ最近里の外に出た俺がリグルと出会う、というよりも発見される確率はかなりのものであり、故に、そんな彼女の力が必要だと判断した。

 

「リグル!!」

里から出て既に三度目の呼びかけだった。

こんな風に里の外で大声を上げて駆けまわるというのは、妖怪に襲ってくれとアピールする自殺行為に等しいだろう。

だが、手段を選んでいられるほどの時間の余裕はなかった。

 

こうしている今も、彼女は…………。

 

湧き上がる想像を振り払いながら、俺は周囲を見る。

妖怪の姿はなく、妖精は遥か遠い空に小さく見える程度。

桜の花を咲かせた木立の合間に教え子の姿を探すも、やはりその姿も見えない。

だが、代わりに見覚えのある黒い靄の塊が近づいくるのを発見した。

 

「リグル!」

リグルの虫たちを目にした俺は、未だに拭えない生理的嫌悪感を抑えながら足を止める。

虫たちの後ろから、頭に触覚を生やした少女が飛んできていた。

 

「随分慌ててるじゃない」

荒い息で待ち構える俺の目の前に着地しながらリグルは怪訝な顔を見せる。

「ああ、リグル、頼みが――」

「それよりも悠基」

 

俺の頼みを遮るようにリグルが笑顔で言葉を被せてきた。

鼻先にお椀の形をとったリグルの両手が突き出される。

「いつもの、お菓子ちょうだ――」

「悪い、忘れた」

 

さっきの意趣返しというわけではないが、リグルの反応を予想していた俺は彼女の要求が終わる前に応えを返していたしていた。

「え?」

完全に開き直った俺の応えに、リグルは目を丸くして静止する。

 

「次はいつもの三倍持ってくる」

そんなリグルが反応を示す前に、俺は彼女に畳み掛ける。

「だから、今は見逃してくれ」

「…………良い度胸してるわね、貴方」

「すまない」

「ほんとにそう思ってるのかしら……」

 

半ば呆れたようにジト目を向けるリグル。

だが、やれやれと肩をすくめて俺と向き合う。

「それで?なんで私を呼んだの?」

「頼みがある」

 

「頼み?」

「人を探してるんだ」

「…………人?妖怪じゃなくて?」

「ああ。女の子だ。これくらいの背の」

俺は自分の胸よりもやや下、ちょうどリグルの背と同じくらいの高さで手のひらを水平にして春の身長を示してみせる。

「朝方に姿を消して、もしかしたら里の外にいるかもしれないんだ。なあ、リグルは見てないか?」

「貴方ねえ」

 

またもや呆れた気配を滲ませて、リグルは嘆息混じりに呟いた。

「私がその女の子を襲ってたらどうするつもりだったの?」

「…………あ――」

 

言われてやっと、あまりにも明白な事実に唖然としていた。

話す程度には交流があるリグルだが、それでも彼女は妖怪であり、人を襲う種族だ。

彼女がお春を襲う可能性は十分にありえることで、身を以て知っているはずの俺は今の今までそのことを失念していた。

 

「前から思ってたけど、貴方って抜けてるわよね」

硬い表情で押し黙る俺に残念な評価を付けながら、リグルは「さて」と話を戻す。

「貴方が言ってる女の子、うちの子が見かけたらしいわよ」

 

思わぬ情報に目を瞠る。

「見たのか?」

「ええ、そう。あ、襲ってないからね。襲おうとは思ったけど」

 

「……どこで見たんだ?」

最後の一言を聞き逃すことにして、俺は問いかける。

対して、リグルは肩を竦めた。

「その子、魔法の森に入っていったのよ」

 

 

「…………え?」

 

 

 

* * *

 

 

 

リグル曰く、魔法の森は彼女にとってもあまり近寄りたくはない場所らしい。

森に繁殖しているたくさんのキノコの放つ胞子は、俺には見に覚えのない守護魔法がかかっているため特に害はないのだが、リグルたちにとってはあまり気分がいいものでもないらしい。

「それに、この子たちの羽に胞子がついて大変なのよね」というリグルのボヤキも御座なりに、俺は既に駆け出していた。

 

背中に投げかられる「お菓子の念押し」に手を振ったのは、三十分ほど前。

走り続けたおかげで息を切らせながら、俺は魔法の森を歩いていた。

 

森の入り口に居を構える香霖堂には人の気配はなかった。

主人の霖之助さんは商品の調達にでも出ているのかもしれないと考えた俺は、そこを素通りして森に足を踏み入れる。

 

鬱蒼と茂る森の中、枝葉は高い密度で俺の頭上を覆い、日が高い頃合いにも関わらず視界は全体的に薄暗い。

湿度が高いのか、ぬっとりとした空気が肌にまとわりつく。

 

少しずつ息を整えながら、注意深く周囲を見回しながら歩を進める。

春の姿を見逃さないようにと神経を注ぎながら、頭の片隅ではどうしてもこの不可思議な状況に疑問を抱かずにはいられなかった。

 

お春という少女は、十二歳にしては子供らしくないところがある。

自分を取り巻く環境を理解する賢さを持つところと、理解した上で自分の意志を殺して奉仕してしまうところ。

いい意味でも悪い意味でも、彼女は大人びすぎていた。

 

それだけに、彼女が自分の意思で里を出るなどと思えなかった。

懸命な彼女なら、いや、彼女でなくても、その行為がどれだけ無謀であるか承知のはずだ。

それとも、そのことすらも判断できないほど、彼女は精神的に追い詰められていたというのか。

 

不可解なのはそれだけではない。

春らしき少女が人里で発見されてから、リグルの蟲が魔法の森入り口で春の姿を目撃するまでの時間差はおおよそ一時間。

成人男性である俺が走り続けて三十分近くかかる魔法の森に、子供の足で、更には妖怪あふれるこの時期に、一時間でそこまでたどり着く。

不可能ではないかもしれないが少し考えにくい。

 

それに、なぜ魔法の森なのか。

…………もしかしたら、森に住む魔理沙かアリスを頼ってのことかもしれない。

可能性は無いこともない。

魔理沙は度々人里で見かけるし、アリスは人形劇の公演をしている。

実際にお春とその弟の伍助は人形劇を見に来ていた。

そこに、俺の知らない交流があっても不思議ではなかった。

 

魔法の森は広い。

闇雲に探したところで、望みが低いのは変わらない。

「だったら……」と俺はしばしば訪れていたおかげでだいたいの位置を把握しているアリスの家を目指すことにした。

 

お春がアリスを頼ったなら道中で会える可能性がある。

例えそうでないとしても、アリスに事情を話せばば力になってくれるはずだ。

 

「―――?」

不意に、方向を変えた俺の視界に何かが止まる。

―――あれは―――

 

離れた場所の茂みの傍ら。

一瞬の違和感を感じ注視する。

それは、木の根でもキノコでもなく。

 

既に俺は駆け出していた。

 

近付くにつれ、なにか分かる。

人の足だ。

それも、子供の足。

 

着物の裾は淡い紅色に桜柄。

たまに見かけるその柄は、彼女のお気に入りで。

 

「あぁ――お春!春っ!!」

茂みに手を突っ込む。

触れた柔らかくもか細い感触を無我夢中で抱き寄せる。

探していた少女を。

大事な教え子を。

 

瞼を閉じたまま、お春は動かない。

着物は泥に汚れ、嫁入り前の大事な顔だというのに頬には擦り傷を負っていた。

 

 

でも、でも…………大丈夫。

 

 

跡が残るような傷じゃない。

 

きっとすぐに治る。

 

治るから。

 

だから。

 

だから、

 

 

「ああ、頼む――」

 

 

頼むから。

 

必死な思いで呼びかける。

 

 

「お春っ!!」

 

 

どうか、どうか、どうか――。

 

 

「死なないでくれ――お春――」

 

 

目を開けてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………う…………」

 

 

 

小さな口から漏れる呻き声。

 

「っ!!!」

思わず呼吸を止めた。

抱きとめた彼女の体の温もりを、今になってやっと気付く。

 

生きていた。

…………生きていて、くれた。

 

「ああ、春…………」

 

呟きと同時に、少女の頬に一滴の水滴が落ちた。

慌てて目元を拭う。

熱くなった目頭を乱暴に抑えながら、まだだ、と自分に言い聞かせる。

まだ気を緩めるな。

 

呻いただけで目を開かないお春の口に耳を近づける。

規則的に、そしてはっきりと続く呼吸音が、彼女がまだ大丈夫だと告げていた。

 

俺は胸を撫で下ろし、そして思考を切り替える。

 

魔法の森は妖怪にも人間にも有害なキノコの胞子が蔓延している。

その大半が幻覚作用を齎すものの、すみやかに死に至らしめるほど毒性の強いものは少ないらしい。

それでも、お春が目を覚まさないのは胞子の影響だろう。

 

なら、空気のいいところで可及的速やかに彼女を治療する必要がある。

アリスの家に向かうか、森の入り口に向かうか。

 

アリスならば治療も出来るかもしれないが、不運にも彼女が不在の場合は状況が悪化する。

ここからならばまだ入り口の方がやや近い。

速やかに森を出て、香霖堂を尋ねる。

 

まだ留守にしている可能性は高いが、香霖堂の中ならばそれなりに安全なはずだ。

留守の場合は乱暴だとは思うが、窓ガラスを割ってでも侵入する。

霖之助さんには申し訳ないが、今は緊急事態だし、あとで弁償して謝るしかない。

 

香霖堂に侵入したらお春を隠すように寝かせて、分身を解く。

里に残る俺が記憶を引き継ぐことで、霊夢に現状が伝えられるかもしれない。

霊夢でなくとも、空を飛べる誰かなら、迅速に香霖堂でお春を回収し、永遠亭に連れて行ってくれるはずだ。

 

よし。

方針は決まった。

急いで――

 

「――っ」

背中に奔る悪寒に、立ち上がりかけた俺は咄嗟に抱えるお春ごと茂みに身を伏せる。

 

ガサリ。

 

と、離れた場所の茂みが揺れ、木の影からソイツが顔を出した。

 

「コノヘンカ?」

息を呑む。

 

その、インパクトある風貌は今でも鮮烈に記憶に残っていた。

「ニオイ、コエ」

 

それは半年前、幻想郷に迷い込んだ直後の話。

「コノヘンカラ、シタヨウナ」

 

熊のような大きな体躯。

短い足とは不釣り合いな長い前足には鋭い爪。

頭に据えられた巨大な一ツ目。

 

「――――」

絶句した俺の口から、音にならない声が漏れた。

 

よりにもよって、こんなときに。

今まで、あれ以来、ただの一度も出会わなかったというのに。

 

現れたのは、幻想郷に迷い込んだばかりの俺が初めて出逢った妖怪。

神話に伝わるサイクロプスの子孫なのか、亜種なのか、それとも無関係なのかはともかくとして。

 

俺を二度に渡り殺害した(・・・・・・・・・)一ツ目の巨人が。

俺と春が隠れる茂みに、真っ直ぐ近付きつつあった。

 

 




前回予告した通り、ほのぼの要素少なめの回です。また長い。
一応は本筋的な回でもあります。
おそらく存在を忘れられていたであろう一ツ目妖怪君再登場。ほぼ四十話ぶりです。まじかよ。
初期のころからぼんやりとこういう展開にするつもりではありましたが、当時の自分はまさかこんなに遅くなるとは思ってませんでした。

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