東方己分録   作:キキモ

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四十一話 桜の下で

里の外、ひらりひらりと舞い落ちる桜の花びらの中を俺は歩く。

向かう先は人里、帰り道の途中だ。

道沿いに整然と並ぶ桜の木々を横目に、頭の中では里の外の用事、すなわちアリスから学んだ魔法の内容を反芻する。

様になってきたかどうかは分からないが、一先ず実用的な魔法を習得して成功率も安定してきた。

 

俺としては、魔法は華やかなイメージが強いのだが、対妖怪用に習得したのは実用性のみを重視している。

俺が密かに憧れている弾幕ごっこを思えば、習得した魔法はある意味無骨と言ってもいいよういなものだったのだが、アリス曰く『そういうことにリソースを割く余裕はないでしょ』とのこと。

確かに、魔法を習う目的は妖怪に対して生存率を上げるためなので異論はないけど、出来ることならもっとこう……カラフルかつド派手で観る者を魅了するような、そんないかにもな魔法もいつかは使えるようになりたい、と密かに思うのであった。

 

そんな風に魔法について没頭して思案していると、ふいにアリスの言葉が思い起こされる。

「貴方は元の世界から遠ざかる」と、忠告をするアリスに俺は「大丈夫だと」確信を持って返したのだけど、どうにも、少しずつだが魔法にのめり込んでいる自覚がある。

「ははは」

表情の変化が乏しいアリスがジト目を向けてくる様が浮かんで、思わず一人で乾いた笑いを発していた。

 

アリスの反対を押し切って魔法を学んでいるのだ。

彼女を失望させないようにしっかりしないと…………しっかりって何を?

「んー…………?」

歩みを止めないまま腕を組んで頭を捻るが、抽象的な話のせいかなかなかピンとは来なかった。

本当に大丈夫かこれ。

 

「さっきから」

ん?

「まるで百面相ね」

 

不意にかけられた声に足を止める。

瞠目しつつ声のした方を見れば、一本の桜の下で一人の大人びた少女が微笑み座っていた。

調度俺が歩いてきた方向からは木立で隠れるような位置だったせいか、近付くまで気付かなかったのだ。

「――――はぇ?」

「あらあら」

 

少女はクスクスと笑った。

「急に笑ったと思ったら神妙な顔をして、そして今度は呆けた顔。貴方って表情豊かね」

呆けて開きっぱなしの口に気づいて、俺は咳払いをしながら表情を正す。

 

「えっと、貴女は?」

「『名前を聞くときはまず自分から』って言わない?」

その言葉にたじろぎながら、俺は軽く頭を下げた。

「……失礼、岡崎悠基です」

「西行寺幽々子です」

 

微笑みを浮かべたまま、幽々子は小首を傾げて俺を見る。

立ったままの俺に対して、座っている彼女は自然と微妙に上目遣いになっているのだが、その視線に引きこまれそうになったのか、それとも気圧されたのか、幽々子から感じるナニカに俺は息を呑んでいた。

 

「そ、れで、幽々子さん」

「幽々子でいいわよ」

 

「……じゃあ、幽々子。君はこんなところで何をしてるの?」

思いの外友好的な態度に戸惑いながら、俺はとりあえずの質問をしてみる。

「見て分からない?」

幽々子は首をかしげたまま、両手を広げて見せた。

 

彼女が座るのはなにも地面の上というわけではなく、桜の根元に半畳程度の御座が敷かれている。

ご座の上には見るからに上質な布の張られた肘掛けと、お猪口が数本、そして祝いの席で見るような赤い酒器。

ここまでばっちりセッティングされているのに、声をかけられるまで気付かない自分に心底呆れながら俺は嘆息した。

 

幽々子が示すその光景は、つまるところどう見ても酒盛りであり、更に現状の要素を鑑みて詳細な結論をつけることができる。

「お花見?」

「ええ」

 

「……こんなところで?」

「あら、景色は悪くないと思ったのだけど」

「そりゃあ、まあ」

俺は曖昧に肯定しながら周囲を眺める。

 

既にピークを終えているものの桜はまだまだ綺麗だし、他にも目には楽しい鮮やかな花々は、以前の混沌とした景色と比べれば落ち着いていて、桜を引き立てている。

見通しもいいし、花見と洒落込むには最適と言っても過言ではないだろう。

ただ一点、ここが里の外であるという事実に目を瞑ればの話だが。

 

いくら花が綺麗だからといって、妖怪に襲われるリスクを思えば里の外で花見をする人間など殆どいない(裏を返せばいるにはいるということだが)。

とはいえ、彼女は人ではないナニカだと、経験則もあって既にそういう結論には至っていた。

 

「君は……」

「なあに?」

「いや……」

さすがに初対面の相手に「君は何?」というのは、現状の雰囲気も相まってあまりに無粋に感じる。

 

煮え切らない態度をとる俺に対して、しかし幽々子は怪訝な様子を一切見せない。

「ねえ、良かったら貴方もどう?」

「え?」

「ご一緒しない?」

「……えっと」

 

言葉をつまらせながら頬を掻く。

こっちは微妙に警戒を入り混じらせて対応を決めかねているというのに、幽々子の方は無警戒どころかむしろ花見に誘ってくるほどに友好的ときた。

 

まあ、いいか。

陽気な笑みになぜか儚い印象を同時に抱かせるような幽々子は、何処かの令嬢のように上品で魅力的で、そんな彼女からのお誘いを受けるのは俺としては吝かではない。

「それじゃっ……コホン」

若干の……いや、若干どころではなく照れながら、俺は頷いていた。

「喜んで」

 

「ふふ、どうぞ」

楽しそうに笑いながら、幽々子が横にずれる。

半畳、つまりは畳半分程度の広さの御座。

一人で使うには余裕があっても二人で使うには窮屈すぎるのだが、幽々子のその動きは俺が座るスペースを空けているようにしか見えなかった。

密着して座ることを暗に促してくるような仕草に、俺は固まりそうになった。

 

ちょっとこの人パーソナルエリア狭すぎませんかね……。

逡巡しつつ、結局彼女が空けたスペースから少し離れるように、御座の端に腰掛けることにした。

「むぅ」

と頬を膨らませる幽々子だが、さすがに初対面の少女に対して肩が触れるほど直ぐ側に腰掛けるのは、我ながら妙な背徳感を抱いてしまうのもあって遠慮しておいた。

ヘタレたわけではない……いやほんと。

 

ご不満な様子の幽々子は、「ここに座れ」とばかりに唇を尖らせて自分の真横のスペースを叩いて促してくるが、そこはスルーを決め込んでおく。

最初に感じた大人びた印象の割に、妙に子供じみた仕草だ。

 

「綺麗な景色だねえ」

とりあえず幽々子の要求は流すことにして、俺は視線を前方の景色へ向ける。

「……そうね」

応じる幽々子の声は明らかに拗ねていた。

 

そんなに俺が隣に座らないのが気に入らなかったのだろうか。

「花が好きなの?」

「嫌いじゃないわ」

応えがやけに蛋白な気がする。

でもって明らかに機嫌が悪そうだ。

 

俺は嘆息すると、意を決して幽々子の真横へ移動してみる。

肩が触れるか触れないかぐらいの位置に落ち着きながら、内心緊張しつつ横目で彼女の表情を伺うと、既に上機嫌に口元を上げていた。

機嫌が治ったらしい彼女の様子を見て、俺はますます困惑する。

幽々子とは初対面のはずだか、その割になんだか随分懐かれている。

 

「ねえ幽々子」

「なあに?」

分かりやすいくらい、声のトーンがさっきよりも高くなってる。

 

「なんていうか……勘違いなら恥ずかしいんだけど、やけに好意的じゃない?」

「もう、野暮ね」

幽々子はクスクスと笑いながら俺の肩を軽く押してくるっていうかその仕草は精神的にこちょばいからやめて。

 

顔が赤くなるのを自覚しながら、俺は視線を逸らした。

「野暮は承知だけど、精神衛生上その辺りの理由ははっきりさせておきたい」

チョロい俺はこのままだと幽々子と別れた後に悶々としかねないし。

駆け引きなんて知ったこっちゃない。

 

俺の言葉に幽々子は思案するように唇に人差し指を添える。

「そうね……私、貴方のファンなの」

「ファン?」

その響きを聞くと、否が応でも里で誇張された噂話が浮かんでくる。

 

「あの、何を聞いたかは知らないけど、その辺の噂はほとんど嘘だから」

「噂って?」

「ん?」

「んー?」

どうやら俺の予想はハズレらしい。

おかげでより一層、彼女の言うファンの意味が分からないのだが。

 

「あ、そうそう悠基」

「うん?」

一人首を傾げていると、ちょいちょいと肩を叩かれる。

 

「せっかくだし、はいどうぞ」

幽々子が差し出してくるのは片手に収まる程度の酒器。

透明な液体から漂ってくる芳醇な香りは、酒が得意ではない俺でも思わず唆られるものがあった。

 

とはいえ、幻想郷に来た時からお酒を飲むと碌なことになっていない俺である。

男衆と飲むならば多少おかしな言動がある程度らしいのだが、その場に女性がいた場合はどうも酔い方が違うらしい。

飲んだ次の日、記憶のない俺を半笑いで見る者もいれば射殺すような殺気に満ちた視線を向けてくる者もいたりで、何が起きたのか詳細を聞くには心の準備が足りないのだが、ともかく今後は女性がいる場でアルコールの摂取は控えようと心に決めているのだ。

 

「すまない。酒は苦手なんだ」

そんなわけでNOと言える日本人の俺はきっぱりと断る。

「む。一杯くらいいいでしょ?」

予想通り、幽々子は引き下がってはくれないが、俺だって断固たる姿勢を崩すつもりはない。

 

「いや、断る」

と大袈裟に腕を組んでそっぽを向くと、俺の頬に酒の注がれた酒気がぐいぐい押し付けられた。

「ねえ、一杯。ねえってば」

「う……って、ちょっと零れてる零れてる!」

そして体押し付けないで当たってる当たってる何がとは言わないけど当たってるから!!

 

「ほらほら、ねえ。一杯だけだから」

なぜか頑なに俺に酒を飲ませようとする幽々子は引き下がる気配が微塵もない。

対して、肩と胸の辺りを零れた酒でびっしょびしょに濡らした俺は幽々子から距離を取ろうとするも、すでに幽々子が半ば覆いかぶさるような姿勢という傍目から見れば誤解されかねない状態になっていて上手く離脱できない。

 

「やめ、やめろって……」

気のせいか幽々子の顔がだんだん近づいてる気がする。

俺に酒を飲ませようとムキになったのか、更に体を密着させてきていやいやいやいやちょっと待って頼むからこれ以上はまずいまずいまずいって!

 

「――~~っ分かった!分かったから!飲むからちょっと離れろ!」

断固たる姿勢(笑)。

ものの十秒程度で、俺の決意は簡単に崩壊した。

 

「もう、始めからそう言ったらいいのに」

強引に言い聞かせた幽々子はそんなことを言ってやがるわけだが、顔は満足気な笑みを浮かべている。

「…………」

ようやく開放された俺は安堵しつつつもジト目で幽々子を睨むが、空っぽになった酒器に酒を注ぐ彼女はどこ吹く風だ。

 

顔が熱い。

レミリア様辺りが見たら大爆笑してそうだ。

正直、からかわれる度に真っ赤になっている鈴仙に若干呆れることもあった俺だが、今の俺はその時の彼女といい勝負だろう。

更に言えばこの後酒を飲んで今以上に顔が赤くなることが確定しているので、この勝負は俺の勝ちだ。

なんの勝負だよ。

 

動揺からか訳の分からない自分の思考にツッコミを入れている俺の前に、酒器が差し出される。

「さ、どうぞ」

「…………」

俺は無言でそれを受け取ると、中身の液体を見る。

 

……この量か。

強くない酒なら、まあ許容範囲だ。

 

軽く深呼吸。

意を決した俺は、一気に中身を呷った。

 

――――お!?

美味い!

そして飲みやすい!

 

「いい飲みっぷりじゃない」

「……美味いな」

「でしょ?さ、もう一杯」

「いや、これ以上は遠慮しとく。それより、ほれ、幽々子も飲みな」

「あら?飲ませて何をするつもり?」

「そっちだって無理に飲ませたくせに」

「もう……ん…………美味し」

「……そういえば、お花見、好きなの?」

「ええ。普段は家でしてるのだけど、今じゃないとこの景色は楽しめないじゃない?」

「だな……しかし、家で、か。立派な桜の木でも植えてるのか?」

「ええ。たくさんあるのよ。良かったら今度見に来る?」

「あー、それは興味あるなあ……ん?そういえば幽々子って、どこに住んでるんだ?」

「上よ」

「上?」

「お空の上」

「……ふーん」

「あら、信じてないわね?」

「べっつにー」

「もう、お詫びにもう一杯」

「なんでやねん」

「もう一杯」

「だから飲まないって……酒の肴とかないの?」

「話を逸らすのが下手ねえ」

「そういうわけじゃない――ヒック。失礼。でも、これじゃあ花より団子ならぬ、花よりお酒だな、と」

「団子は好きよ?」

「そこに食いつくんかーい……もしかして、甘いのとか好きなのか」

「ええ。最近はね、ケーキが好きなの」

「へえ!そうかそうかぁ……じゃあ今度俺が作ってやろう!」

「あら?いいの?」

「かまわん。俺は甘いのを食べるのも好きだがー、作るのも好きだしー、作ったものを美味しそうに食べてもらうのはもっと好きだっ!!」

「おぉー。じゃ、期待してるわね」

「もうじゃんっじゃん期待してくれ」

「ふふふ、さ、もう一杯」

「不意に出すなってもう……」

「ダメ?」

「仕方ないなあ……んぐっ…………っはぁ~~」

「相変わらずいい飲みっぷりね」

「どうもどうも…………なあ、幽々子」

「なあに?」

「――――」

「――――」

「…………」

「…………」

 

 

 

* * *

 

 

 

微睡みの中で、頭が揺れるような錯覚を覚えた。

鈍い痛みに唸り声が漏れる。

だが、後頭部を支える枕は柔らかくて心地が良い。

「んあ?」

肌寒さを感じて身震いした俺の意識がゆっくりと浮上する。

 

同時に次第に眠る前の記憶も呼び起こされ始める。

 

……確か、アリスから魔法を教授した帰り、人里に向かう道で俺は不思議な女の子と……。

 

「あら、目が覚めた?」

上から降りかかってくる声に目を開く。

見下ろすような形で微笑を浮かべる幽々子の顔が思いの外間近にあった。

記憶が酒を飲んだ前後まで蘇ると同時に、俺は現状と、そして頭の下の枕の正体を瞬時に悟った。

 

「……え」

即ち。

 

ノせられた俺、酒ノム。

酔った俺、ネル。

そして現状、寝てた俺、幽々子にHIZAMAKURAされてる。

 

「おはよ、悠基」

「…………オハヨウ」

じゃなくて!

 

飛び起きた俺は後ずさるように慌てて幽々子から距離を取っていた。

「ん?どうかしたの」

「いや、どうかしたっていうか……」

肌寒さを再び感じ、空を見る。

 

微かに茜色に染まりつつある景色を見て、俺の顔は青ざめる…………以前に羞恥で真っ赤だった。

「あのっ、えっと、何時間?」

「え?」

「何時間くらい寝てた?俺は」

 

目を見開いて問いかけると、「んー」と幽々子は首を傾げながら人差し指を立てた。

「そうねえ……だいたい四刻くらいかしら」

二時間…………っ!

そりゃあ日も随分傾いてるわけだ。

 

「す、すまない」

と、今度こそ顔を青くしながら平伏する俺だが、幽々子は微笑んだまま首を振った。

「いいのよ気にしなくて。どうだった?寝心地は」

「え…………」

 

絶句する俺だが、幽々子は俺の答えを待つように微笑んだまま動かない。

どうにも進退窮まった俺は、長い沈黙の後に一言呟いた。

「……………………良かったっス」

素直か。

 

「うんうん」

幽々子は満足気に頷く軽くと立ち上がった。

「さてと、私はそろそろ帰るわね」

「あ、ああ、うん……なあ、幽々子」

幽々子を手伝って御座を畳みながら、不意に湧いた疑問を恐る恐る投げかける。

 

「俺、何かしなかったか?」

「ふふふ。秘密」

対して、何か思い出したように笑って応える幽々子に、俺は自己嫌悪で頭を抱えたくなる衝動に駆られるのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

幽々子と別れた俺は、日が暮れつつある道を足早に歩んでいた。

結局酔っ払った俺の言動を告げること無く去っていった幽々子だが、おかげで夕涼みで頭を冷やすついでに、徒歩で里を目指しながら時間をつぶす必要が出てきた。

今の心境で分身を解くと、人里に残っていた俺に記憶が引き継がれるわけだが、その記憶からくる動揺で唐突に挙動不審になる可能性がある。

人前でそうなるのはあまり気が進まなかったのもあり、一人になるだろう時間帯までは分身を解かないことにしたのだ。

 

結局幽々子が何者なのか、そしてやけに好意的な態度だった理由も聞けないままに、悶々とした心境での帰路だった。

「……はあ」

結局覚えているのは一杯だけしか飲まなかった酒の味くらいだ。

つまるところ、その一杯で俺は酔っ払っていたらしい。

 

「……はあ」

再び溢れるため息。

頭痛がするのは酒が残っているせいではないだろう。

 

……おっと。

いつまでも凹んでいてはいけない。

まだまだ人里からは距離がある。

まもなく日が暮れるし、妖怪が活発になる時間帯は近い。

いつ襲われるとも知らないし、一応警戒はしなければ。

 

と、俺が気を引き締めたところで、

 

一人の少女とすれ違っていた(・・・・・・・)

 

…………え?

瞠目し、振り返る。

 

黄昏時と言うにはまだ少しだけ早く、見渡せる程度に陽の光は行き届いている。

先ほど幽々子と出会った時と違って、周囲は木立も少なく見通しもいい。

 

そんな中で、例え俺の注意が散慢になっていたからと言って、すれ違うまで誰かの接近に気付かないというのはありえない。

それこそ、彼女がなにもない空中から突然現れでもしない限りは。

 

歩みを進める彼女を凝視する。

白い日傘を差した少女の背。

長い金色の髪を流し、紫紺のドレスの裾を揺らす。

 

「ねえ」

ほとんど反射的に俺は声をかけていた。

「待って」

 

一瞬なんの反応も示さないのではと錯覚したが、意外にも俺の声に彼女は足を止めて振り向いた。

息を呑む俺の目を、いたいけな少女(・・・・・・・・)の瞳が捉える。

なぜか、不安を感じさせた。

 

「…………っ!」

直後、強烈な違和感と既視感に息を呑む。

覚えがある。

彼女に、覚えが。

 

そう、それはここに、『幻想郷』に来る以前。

父の書斎で、俺は。

俺は。

 

………………………………。

 

………………………………?

 

間違いなく、喉元まで何かが出かかっていた。

確実に何かを掴んでいた。

にも関わらず、それは俺の指の隙間をすり抜けて、虚空へ溶けていく。

なんだ?

俺はいったい、何を思い出しかけていた?

思い出そうとすればするほど、ソレは遠ざかっていく。

 

「何か?」

呆然とする俺の目の前で、少女は小首を傾げる。

動揺を露わにしながら、俺は辛うじて口を開いた。

「いや…………君は、君は誰?」

 

初対面にしては不躾な問いかけに、しかし少女は不快に思うような様子を一切見せずに薄く笑んだ。

「さあ?貴方は?」

肩を竦める少女に固まりつつ、俺は僅かに乱れた呼吸をなんとかして落ち着かせる。

「俺は、岡崎、岡崎悠基」

 

「そ」

少女は笑みを浮かべたままに頷いた。

「覚えておくわ」

そうして彼女は踵を返すと、一方的に話は終わりだと告げるように再び歩き始める。

 

一瞬呆気に取られる俺だが、彼女にはまだ訊きたいことがたくさんある…………気がする。

何を訊けばいいのか分からないのに、そんな焦りだけが沸き起こっていた。

「なあ」

衝動的に声を上げる。

 

「待ってくれ――」

しかし、瞬きの合間、声を上げた瞬間に、少女の姿は既にそこにはなかった。

出会った時と同様に、一瞬で彼女は虚空に消えていた。

 

日が暮れて辺りが闇に包まれる中、中途半端に手を伸ばした姿勢で固まった俺だけが、その場にポツンと取り残されていた。

少女が消えると同時に、焦燥感や違和感がゆっくりと無くなっていった。

そんな少女など元からいなかったかのように、その場には少女の痕跡も見受けられなかった。

 

深呼吸して息を整える。

「いったい…………」

その疑問が少女に向けたものなのか自分に向けたものなのか、イマイチ判別が付かないままに俺は呟いていた。

「いったいなんだったんだ?」

 

その答えは返ってはこなかった。

 

 

 




今回は幽々子が初登場ですね。趣が随分とアレな感じですがたまにはこういうのも書いてみると思ったより楽しいです。ハイ。

そして後半、というか終盤ですが、謎の妖怪少女登場です。いったい何者なんでしょうねえ。
わざわざルビつきで強調していますが、彼女については以前描写した姿と比較して明らかに外見年齢が異なっています。イメージとしては東方香霖堂のビジュアルです。

今回分身中に酔っ払った主人公ですが、分身を解いた際に引き継がれる記憶については、酔いが回った後の記憶は非常に曖昧になっており明確に引き継がれない、といった具合にふわっと言及しておきます。

最後に、いつもなら次回予告みたいなことはしないのですが、次回から章の区切りに向けてということで、あまりほのぼのとしないお話が数話続く予定です。

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