里の外へ出たからといって、道を外れさえしなければ妖怪に襲われる可能性はグンと下がる。
まあ下がると言っても無くなるわけではないので、襲われるときは襲われる。
人里を出るとしても自己責任と覚悟が伴うわけだ。
もちろん、道を外れれば妖怪やら妖精やらのエンカウント率はたちどころに上がり生命の危険を伴う。
故にわざわざ里の外に出た上に更に道を外れる里の住人というのは、だいたい三種に分類される。
頭がおかしいか、自殺志願者か、妖怪に対抗できる力を持っているか。
ちなみに俺は里の中での謎の過大評価によって人々からは「妖怪に対抗できる」にカテゴライズされている。
残念ながら、能力で身体的には無事に済むとは言え、そこらの妖怪に襲われまくってそれでも調査を続けている身からすると、「頭がおかしい」が相応しい。
敢えてそれを主張するのもなんともな話なので黙っていることにしているのだが。
そんな余談はさておいて、今日も今日とて道を外れ、雑木林に入って早十分。
「…………来た」
最近トラウマと化した、ブーンという幾重にも重なり不快感を催す音が耳に届いた。
振り向けば、鬱蒼とした木々の合間、離れた場所に黒い靄のような塊。
怖気と寒気で鳥肌を立てながら俺はそれを見据えた。
靄はすでに俺の存在に気付いていて、俺と距離を詰めようとしている。
とりあえず開けた場所に移動するか、と俺は駆け出した。
その靄も俺との距離を詰めようとスピードを上げたのか、背後で発せられる音は次第に大きくなっている。
振り向けば既にその靄の実態が分かるほどに近づいていた。
突如として俺を襲う靄の塊。
しかしてその正体は。
蟲。
夥しいという表現があう無数の虫の大群だった。
生理的嫌悪感で背筋を冷たくしながら、俺はペースを上げる。
周囲は鬱蒼とした森林地帯で走りにくいことこの上ないが、幸いある程度地形を把握しておいた俺の知識が正しければ、目的地はもうすぐのはずだ。
――殺気!
走りながらも周囲の警戒を怠らなかった俺はその気配に気付いた。
本当のことを言えば殺気を感じたとかではなく、周囲に視線を動かしていると俺に急接近する姿を見つけただけなのだけど。
「とぉお!!」
「うぉわ!!」
初見では回避不可能とすら思われる、某特撮ヒーローを思わせる鋭いキックが飛んできた。
俺は慌てて前に転がりその攻撃を回避。
背中に木の根のコブが当たってけっこう痛いが、あのキックをもろにくらうよりは百倍マシだ。
実際に鋭いのを一発、鳩尾にうけて吐血するくらい悶絶した経験があるから間違いないし洒落にもならない。
俺は慌てて立ち上がりつつ、襲撃者の姿を確認することもなく再び走り出す。
「あはは!よく避けたわね人間!」
蟲の羽音に混じる少女の声。
「来たなリグル・ナイトバグぅ!」
走りながらヤケクソぎみに応じると、「およ?」と間の抜けた反応が返ってきた。
「私、あなたに名乗ったかしら?」
「こっちは調査済みだよ!」
虫たちの操り主であるリグルの声に俺は叫ぶように応じた。
背後の蟲の気配はどんどん色濃くなっていく。
初めてやつらに襲われたときなど、一瞬パニックになりかけながら接触される前にさっさと分身を解いて逃げおおせたのだが、二度目はリグルの奇襲に悶絶しているところを多量の蟲に覆い尽くされかけた。
その時もぎりぎりなんとか分身を解くことが出来たものの、鋭い蹴りもろとももはやトラウマな存在になっている。
冬場は大人しくしていたらしい彼女の存在は最近知ったのだが、俺にとってはこのリグル、目下最大最悪の天敵といっても過言ではないのである。
だからこそ、彼女はここで超えねばならない壁なのだ。
さっさと能力を解いてこの場を離れたくなる衝動にかられながら、それでも今回はそうはいかないと俺は自分を奮い立たせる。
「そのくせ襲われてくるなんて、あなたとっても変な人よね!」
「やかましい!!今に見てろよ!!」
「へえぇ~?あなたに何が出来るって言うの?」
明らかに俺をおちょくっているリグルの物言いだが、俺は負け犬の遠吠えよろしく威勢がいいのは口だけだ。
全力で逃げているので格好もつかないどころか普通に格好悪い。
が、いつまでも彼女に襲われてばかりの俺ではない。
今日はとっておきの秘策を用意したのだから。
急速に羽音が迫ってくる気配。
同時に木々の合間に目的地が、もうすぐそこまで見えていた。
ぶぅぅぅぅうううん、という強大な圧迫感に、俺は最後の最後とばかりに全力で走る。
そして、
「うおぉ!!!」
鬱蒼とした森を抜け、開けた場所に出た俺は、頭のすぐ後ろに迫った蟲たちの羽音にホーム
ベースに滑り込むプロ野球選手顔負けのスライディングを見せる。
頭の上を不吉な音が通り過ぎていくが、なんとか目的地に到着したようだ。
肘を派手に擦りむいているのでスライディングは全然見事じゃないが、まあゴールはゴールだ。
俺の頭上を通り過ぎた虫の大群は、慣性に従うようにその場を旋回する。
肘の痛みを気にしつつも、俺は急いで立ち上がりつつ蟲たちから距離をとるように開けた場所を小走りに移動した。
まあ、開けた場所と言っても、
「どうやら、行き止まりみたいね」
「ッ、ハア、ハア」
追いついたリグルが不敵な笑みを浮かべる。
一方は少々登るには骨が折れる程度には高い崖が聳え立ち、リグルの言うとおり俺はそこに追い詰められる形になっているわけだが。
「今日はけっこう逃げたじゃない。ま、無駄な足掻きってやつなんだけど」
「……それは、ッハア、どうかな?」
全力疾走の直後で息が上がったままの俺は、それでも不遜な目をリグルに向けた。
「ふふーん諦めが悪いのねえ」
俺の態度をはったりと受け取ったのか、リグルは全く警戒した様子を見せない。
黒い靄にすら見えた虫たちは俺の退路を絶つように周囲に展開している。
「でもでも、これが年貢の納め時ってことよね?三度目の正直よ!今度は逃がさないわ!」
こっちは逃げようと思えば逃げれるんだけどな。
とはいえ、今まで散々な目に合わせられた身分としては、憎らしくすら感じる笑みだ。
今回に限ってはその油断が命取りとなることを教えてやろう。
「さあ、覚悟なさい!」
リグルが腕を翳し、周囲が蟲の羽音の合唱に埋め尽くされる中、俺はリグルを真っ直ぐ睨みながら、いつもは木刀を携える腰紐に固定させた小袋に手を伸ばしていた。
「覚悟すんのは……」
次の瞬間、その袋に手を突っ込んで中身を一掴みする。
その動作を目にしたリグルが目を見開いた。
「そっちだ」
冷静な口調とは裏腹に、ありったけの気合を込める。
「皆!待って!」
リグルが慌てて警戒を促すも後の祭り、俺の攻撃は既に止まらない段階に来ていた。
「チェストぉ!!」
昔どこかで見た武道家よろしく、鋭い掛け声とともに右手から放たれたそれは、放射線を描きながら周囲に広がった虫たちに降り注いだ。
森の中でこの手を使わなかったのは、投擲物が周囲の木々に阻まれるとその効果が半減するためだ。
だが、開けたこの空間ならば、広い範囲にばら撒くことができる。
そのためにここに逃げ込んだのだ。
「うわ、うわわ」
とっさに頭を庇い、まばらに降り注ぐ俺が投げたものに驚き慄くリグル。
こうして見ると普通に子供らしくて可愛らしいものだと場違いな感想を抱いた。
まあ、とはいっても、
「あ、あれ?」
予想以上に軽い感触に拍子抜けした様子で、リグルは頭を上げた。
地面にまばらに転がった鮮やかなソレを目にし、彼女は目を丸くしながらその一つを手に取った。
手のひらで転がるものを摘み覗きこむ彼女は、戸惑った様子を見せる。
「……こ、金平糖?」
リグルがまじまじと見つめているのは、彼女の言うとおり紛う事なき砂糖菓子の金平糖だ。
とある商家から買い付けたもので、俺にとっては懐かしの甘い味は、人里では根強い人気を誇っている。
「な、なんで……あ!」
困惑の色を浮かべる彼女は、次の瞬間声を上げた。
「み、皆!食べちゃ駄目だ!」
リグルが警告を発するも後の祭り、広い範囲にばら撒かれた砂糖の塊に、大半の蟲が群がっている。
「毒が入ってるかも――あ、あれ?」
だが、金平糖が全て消化されても虫たちに変化は無い……ていうか毒て。
つい先日メディスンと名乗る少女にえげつない攻撃を受けた俺としては額に青筋が浮かぶ発想である。
とはいえ、リグル事態は蟲を操ると言う性質のためか人々に嫌われる存在だ。
もしかしたら、毒を盛られた経験でもあるのかもしれない。
「……本当に毒が混じってない?」
手に取った金平糖を一舐めして、リグルは困惑の色を濃くする。
「そんな酷いことしないって。ほら」
リグルの反応に嘆息しつつ、俺は懐から取り出したものを放り投げる。
「ほわっと……これって」
「鼈甲飴だよ」
包装紙に包まれた飴玉を見てリグルは更に目を丸くした。
「安心しな。そっちも毒は入ってない」
「な、なんで……?」
リグルとしては完全にわけが分からないだろう。
なにしろ追い詰められながらも不敵な笑みを浮かべる男が取っておきとばかりに取り出したのが、なんの変哲もない砂糖菓子なのだから。
俺だってそんな光景を見たら困惑する。
すごく。
まあそんなことはさて置いて。
気をつけてリグルを観察していた俺は一瞬の変化を見逃さなかった。
金平糖を拾い上げた時の、そして鼈甲飴を受け取った時の、リグルの瞳に浮かんだ輝きを。
「リグル、取引しようか」
「え?と、取引?」
急な切り出しにリグルは眉を顰める。
「甘いの、好きなんだろ?」
「……な、なんでそれをっ」
あからさまな反応だ。
絶対に駆け引きとかできなさそうだな。
「こう見えても顔は広い方でね」
ちなみに情報提供者は、未だにケーキ目的に近づいてきながら「たまにはお肉も食べたいわね」とか物騒な視線を向けてくる宵闇の妖怪である。
「で、単刀直入に言えば、今後俺を襲わないことを約束すれば、代わりに俺も里の外で会うたびにこれを提供する」
俺はまだ中身の残った金平糖袋と鼈甲飴をリグルに向かって掲げた。
つまるところ、リグルに対するとっておきの秘策というのが、菓子を貢いで買収するという手だった。
秘策といっておきながら完全に下手に出ているのだが、妖怪と対等に戦えるわけない俺としては、これが精一杯だ。
というか戦うとか無理。
リグルは蟲を操る妖怪だし、生理的に無理。
更に言えば彼女の蟲による索敵網は群を抜いており、道を外れればかなり早い段階で俺を発見してくるので、かなりの脅威となる。
そんな彼女と停戦協定を組めるのなら、これくらいは安い。
「な、そ、そんなことで私をどうにかできると思ってるの?」
件のリグルだが、視線が飴玉に釘付けになっていて発言になんら説得力がない。
今時こんなに心境が顔に出るようなやつはいないだろう。
…………いや俺もここまで酷くはないはず。
「そ、そうよ!それに今あなたを襲っちゃえば、飴も手に入って一石二鳥じゃない!」
はっ、と明暗が浮かんだという様子のリグルに俺は頷いた。
「確かに今回だけはこの飴を手に入れることはできるだろうさ。でも、それで終わりだ。次に俺を襲ったとして、もうこれは手に入らない」
「何言ってるの?あなたはここで終わりなんだから、次もなにもないじゃない。そうよ。最初から話を聞く必要なんてなかったわ」
「リグル、お前だって俺の評判は聞いたことあるんじゃないか?」
唐突な問いかけに「話を聞く必要はない」と断じていたのにそのことを一瞬で忘れたのか、リグルは困惑した様子で首をかしげた。
「評判……?ああ、弱いくせに何度も妖怪に襲われにくる頭のおかしい人間ね」
妖怪の間じゃそういう評価だったかー……。
否定できないのが悲しいが、今は気にしないでおこう。
「頭がおかしい云々は置いておいて、こんなに弱い俺が何度も何度も襲われてるっていうのに、こうして今も怪我一つなくお前と話している」
「……ハッ!もしかしてお兄さんってすっごく強い!?」
「弱いって言ったばっかり!」
さっきから薄々思っていたが、このリグルちょっと頭が弱い……いやこれ以上は止そう。
俺は咳払いをして頭の中で沸いた不憫な考えを振り払った。
「ともかくとして、さっきお前が『三度目の正直』だって言ってたけど、今回もそれはない。いつもみたいに俺は消えちゃうし、これからもその辺を歩いてるから」
「む……あなたは弱っちいけど、逃げ足だけは凄いらしいわね……」
「そ。だから今日は俺を襲ったところでこれしか手に入らないわけ。でも、今後俺を襲わないって約束したら、これから会うたびに飴が手に入る。悪い取引じゃないだろ?」
「……毎回?」
「まあ、毎回だな」
善処する、と心の中で付け足しておく。
リグルは小首を傾げて上目遣いに俺を見つめてくる。
「一生?」
一生たかる気かコイツ!
だが、ここで返事を渋るとリグルの気が変わるかもしれない。
仕方ない、と俺は渋面で頷いた。
「……ああ、分かった」
「やったあ!!」
俺の返事にリグルは思いっきり飛び跳ねた。
ほっと俺は安堵する。
どうやらこれでリグルに阻まれて成果の芳しかったフィールドワークを再開できそうだ。
気のせいか周囲の虫たちの羽音も、リグルと同調するように陽気に聞こえるから不思議なものだ。
その中で全身で喜びを表すリグを見ると、先ほどと打って変わってなんだか癒される光景に……いや、やっぱり虫が多すぎてあんまり癒されない。
「お兄さん!これからよろしくね!」
「ああ。岡崎悠基だ。よろしく」
「うん!よろしく悠基!」
そっと右手を出すと、意気揚々とリグルはその手を握った。
「さ、皆も悠基に挨拶して!」
「え、ちょ、気持ちは嬉しいけど近づくのは数が多いからやめてリグル手を離して逃げれな無理無理無理無理うわあああああああああああ――」
……かくして、俺はまた里の外に知り合いを作る次第となったわけである。
代わりにそれなりの数の飴を用意する必要が出来たわけだが。
これって必要経費で落ちるかな……。
作中時間はまだ花映塚異変が継続しています。
今回は永夜抄1ボスのリグルとのお話。
1ボスといっても主人公には勝てる見込みが皆無のお相手です。
主人公は最後豪い目にあってますが、会話事態はほのぼのとした話になって私的には非常に満足です。