2月に入り、幻想郷の冬はその寒さを増した。
相も変わらず身を切るような寒気の下、疎らな雲にしばしば月の明かり途切れる夜の闇の中を、一人の青年が疾駆していた。
ていうか俺だった。
開けた草地を必死に走る俺の後方から、荒い獣の息が迫ってくる。
ほんの一分ほど前にかなりの距離を置いて目が会った獣は、すぐさま全力で逃走を開始した俺との距離を無常な速さで詰めてきた。
一見すると狼と同じ容貌の獣は、実際には熊並みの体躯を持ち、特有の禍々しさを放っている。
これまでの経験則で分かる。
この獣は、人を喰い、味を覚えてしまった狼が妖怪と化したものだ。
「くそっ!」
逃げ切れないと判断した――というか最初から逃げ切れないことは分かりきっていたが、悪あがきで逃走を試みていた――俺は転身し、狼妖怪と向かい合う。
夜露に濡れた草に足元を取られそうになりながらブレーキをかけ、同時に腰の木刀の柄に手をかける。
狼妖怪は俺の正面5メートルほどの距離で脚を止めると、姿勢を低くし獰猛な唸り声を上げる。
どっかの人狼妖怪はまだ話が通じたのだが、どうもコイツは言葉すら持たないらしい。
「――――」
対して、覚悟を決めた俺は呼吸を止め、目の前の妖怪に全神経を集中させる。
目を見開き、狼妖怪の一挙手一投足を見逃すまいとその姿を捉え続ける。
数秒の沈黙と、そして刹那。
巨大な体躯を跳躍させた狼妖怪。
月光に照らされた影が先んじて俺の体を覆う。
対して俺は、半歩、脚を前に滑らせながら木刀の柄を握る腕に力を込める。
見様見真似の居合い抜きの構え。
だが、極限の集中力が、かろうじて的確なタイミングを掴ませた。
剣術に関しては素人未満の腕の俺と、大の大人を一撫で殺す妖怪。
勝負は火を見るより明らかだった。
しかし、
瞬間、
なんの変哲もない木刀が、突如として眩い光を放つ。
突然の閃光に空中にいた狼妖怪がたじろぐ一方で、俺はごくごく自然な動作で木刀を滑らせる。
輝く刃は抜かれる動きそのままに、俺の目前の空中を凪ぐ。
同時、刃の軌跡に沿って、月光を想起する神秘的な残光が、斬撃と化した。
一線。
狼妖怪の体が光の斬撃によって真っ二つに絶たれる。
斬撃はそのまま空中を波紋のように走りぬけ、最後には飛沫のように散って霧散した。
死闘の末の極限の状況下。
ただ、目の前の敵を倒すことに全てをかけた俺に起きた奇跡。
弱者たる人間が、強者の妖怪をも穿つ必殺の一撃。
名付けて――月光斬――。
それが、俺の中に秘められた力の一端でしかないことを、俺はまだ知らない…………。
…………なんて展開にはならない。
残念ながら途中からは、誇張という表現すらおこがましい妄想だ。
いや別にいい年していつもこんな痛々しい妄想してるわけじゃないけど。
どこから妄想なのかと言えば、俺の握った木刀が光を放つくだりからで、つまりは俺が無謀にも狼妖怪に見様見真似の居合い切りを試みたところまでは本当だ。
……まあ、その結果は言うまでもない。
* * *
「ふうー……」
「おや、随分大きなため息じゃないか」
昨晩のことを思い出し、うっかりため息を零した俺に霖之助さんが眉を上げた。
「あ、失礼しました」
魔法の森入り口に居を構える香霖堂店内でのことだった。
寺子屋の休みを利用してこの店を訪れた俺は、外の世界から新しく何か流れ着いていないかと店内を物色していた。
いつも通りカウンター横の丸椅子に腰掛けた霖之助さんは、モニタに派手な皹が入った携帯ゲーム機が起動しないかと四苦八苦している。
目的もなく訪れては見たものの、目ぼしいものは中々見当たらず、今日は特に買うものもないかと結論付けようとしたとき、ふと思い出す。
「あ、そういえば霖之助さん」
「なにかな?」
ふいに声をかけると、霖之助さんはゲーム機から目を離さずに返事をした。
「霖之助さんって剣が扱えるんですよね」
「……剣?僕がかい?」
視線を上げた霖之助さんが、怪訝な目を俺に向ける。
「はい。もしよろしければご教授いただけないかと」
「いや、そもそもの話として、なぜ君の中で僕が剣を扱えるということになっているのか疑問なんだが」
「ああ……あれですよ、店内にあった青銅っぽい剣。確か非買品って言ってましたよね」
「……非買品だからと言って、実際に使うというわけではないだろう?」
霖之助さんは目を閉じると、眉間を指で押さえて皺を伸ばす。
「あれは僕のコレクションだ。それと前も言ったが、その剣のことは他言無用で頼むよ」
「あ、そうでしたね。すいません」
口元を押さえて頭を下げる俺に、霖之助さんは小さくため息をついた。
「それで?なぜ急に『剣を習いたい』なんて言い出したんだい?」
「そうですね……」
俺は昨晩……に限らず、連日妖怪に成す術もなく襲われていることを話した。
ミスティアなんかはかなり特殊な例で、彼女を除けば基本的には殺されかけている。
阿求さんの言うとおり、里の外に出れば、ほとんどの場合は一刻と無事ではいられない。
危険であることは分かっていたが、さすがにあっという間に撤退するハメになっているようでは調査の結果も芳しくない。
せめてもう少し生存する時間を稼ぎたかった。
「で、どうしたものかと考えた結果、剣で対抗できないかと考えたわけだね」
「ええ……どうでしょうか」
「どうもなにも」
呆れたように嘆息すると、霖之助さんは頬杖をついて俺を見据える。
「無駄だということは君が一番よく分かっているんじゃないか?」
「無謀は承知です」
無駄だと言われることは予想がついていた。
「とはいえ、何も対策を立てないよりは、今からでも訓練すれば少しずつ変わっていくかもしれないじゃないですか」
「随分気の長い話だ。何年、いや、何十年かかるんだか」
霖之助さんは呆れたように肩を大げさに竦める。
だが、顎に手を当て思案顔になると、どこかに視線を彷徨わせながら口を開いた。
「そうだねえ……刀一本で妖怪を圧倒する知り合いなら心当たりがある」
「そんな達人がいるんですか?」
「達人……ね」
俺の言葉に霖之助さんはなぜか首を傾げる。
「しかし、彼女は滅多に顔を出さないし、そもそもの話として、君が剣の腕をあげるというのが現実的ではない。それよりは」
その視線が再び俺を見据える。
「魔法を使った方が手っ取り早いと、僕は思うけどね」
「手っ取り早いって……」
そりゃあ使えるならそれに越したことはないが、アリスの見せてくれたような魔法を自分で使えるイメージがイマイチ沸かない。
だが、魔法を使うという選択肢は頭に無かった。
「簡単に言いますけど、魔法ってそんなに簡単に出来るものなんですか?」
「おかしなことを言う」
霖之助さんは眼鏡を押し上げた。
「君は今も魔法を使っているじゃないか」
………………え?
「あの、え?お、俺が……?」
戸惑う俺を見る霖之助さんの目が丸くなる。
「……自覚がなかったのかい?」
「自覚も何も、俺は魔法なんて使えな……あ、」
自分の中で合点がつく。
現在進行形で使っている魔法、つまり不可思議な能力のことか。
「分身能力のことですか。これって、魔法なんですか?」
だが、俺の答えに霖之助さんは首を振った。
「いや、君の能力に関しては分からないよ。その能力が魔法なのか、妖術なのか、呪術なのかそれ以外か。少なくとも僕が知っている限りではなんともね」
「霖之助さんでも分からないんですか」
「別に、僕が特別物を知っているというわけではないよ」
魔術や魔法など、そういったことに造詣の深そうな霖之助さんでも知らないとなると、我ながらいよいよ不可思議な能力だと思う。
レミリアは何かを知っている風だったが、あれからそれとなく質問してみても、からかうようにはぐらかされてばかりだ。
まあ、今はその話は置いといて。
「……と、いうことは。魔法を使ってるって言うのはこの能力の話じゃないってことですか」
「どうやら本当に自覚がないようだね」
霖之助さんは息をつく。
「確か君は、幻想郷に訪れた時、魔法の森に迷い込んだといっていたね?」
「え?そうですけど」
「今の君なら知っていると思うが、この森は人間どころか妖怪にも有害な茸の胞子が常に蔓延している。普通外来人がそこに迷い込むことはないはずだが、今はそのことは別にして、普通の人間である君が森の中で平常通りだなんて、おかしいとは思わなかったかい?」
「確かに不思議には思っていました」
阿求さんに魔法の森の話を聞いたときに、首を捻ったのは覚えている。
そういえば、幻想郷に迷い込んだときも、魔法の森にいたことをアリスから聞いた慧音さんが困惑した様子だった記憶がある。
「もしかして、俺が平気だったのって、その魔法のおかげってことですか?」
「そうだね……オーラ、結界、バリア……言い方は様々だが、君の使っている、いや、君にかかっている魔法はその類だ」
「バリアですか」
思わず自分の両手を見るが、特になにかが変わったということはない。
「まあ、そうは言っても強力なものではなさそうだ」
霖之助さんは立ち上がると、俺に近づいてきて観察するように体中を眺める。
「しかし、やはり精巧な作りをしている。どうやらこの魔法を維持するための魔力は、君自身の魔力源にパスを通すことで供給しているようだね」
「俺の魔力を使ってるってことですか?」
「ああ。しかし微々たるものだ。日常生活には影響しないだろう。この魔法、強力ではないが上等なものだ。術者はよほど魔法に精通しているのだろう」
「あの……いろいろ衝撃的すぎて頭がついていけてないんですが」
軽いめまいを覚えながら、俺は頭を振った。
「この魔法って、一体誰がかけたものなんですか?」
「そこまでは分からないよ」
霖之助さんは肩を竦める。
「少なくとも幻想郷に迷い込む以前にかけられたものだろうね」
「……そうなると、俺の世界で魔法をかけられている、ということになるんですが」
「そうなるんじゃないのかい?」
……眩暈が収まりそうにない。
「まあ、今はそんなことは問題じゃない」
と、霖之助さんは困惑状態の俺を見据えながらも断じる。
「そ、そんなことって、ちょっと今俺、話を整理できていないんですが」
「重要なのは、その魔法が例え他者からかけられたものだとしても、維持しているのは君であるということ」
あくまで強引に話を進める。
「えっと、それってつまり?」
「君には魔法を扱う素質が十分に見込めるということになるね」
……マジか。
「俺にも、魔法が使えると?」
「そういうことだ」
俺は自分の右手に目を落とす。
なんの変哲もない、特別なことを成すわけでもない普通の手だ。
だが、霖之助さんは素質があると言った。
だが、幻想郷に迷い込んだとき、アリスが見せてくれた魔法に、俺は感心すると同時に憧れも抱いた。
作り話、御伽噺、空想、妄想。
存在しないはずの存在にして、誰もが夢に見る存在。
そんなの
年甲斐もなく、俺の瞳は少年のように輝いていただろう。
いくつになっても捨てないでいる少年の心が膨れ上がった。
……自分で言ってて恥ずかしくなってきたが、まあ。
…………つまるところ、俺は最高にテンションが上がっていた。
俺は目を見開いて顔を上げる。
「……り、霖之助さん!」
「断る」
期待のこめた眼差しで見たらいきなり出鼻を挫かれた。
「――まだ何も言ってませんが」
脱力しつつ半眼になるも、霖之助さんは何処吹く風だ。
「言わずとも。僕に魔法を教えてほしいと言い出すんだろう?あいにく僕はそれほど暇ではないのでね」
「暇て」
いつも店に行けばだいたい何かしら外来の品をいじっているか本を読んでいるかで、それ以外は暇そうに見えていたのだが、本人が言うのならば間違いないのだろう。
喉まで上がった言葉を辛うじて飲み込む。
「でも、魔法を使うのが手っ取り早いって教えてくれたじゃないですかー」
「僕でなくとも、君の周りには少なくとも3人、魔法使いがいるだろう?彼女たちに師事を仰げばいい…………まあ、魔理沙はオススメしないがね」
間を置いて付け足した一言は置いといて、俺は首を傾げる。
「でも、3人ですか?2人目はアリスとして、もう1人は?」
「ああ、そうか。君は紅魔館に出入りしていると話を聞いていたが、彼女のことは知らないのか」
「彼女?紅魔館に住んでいるんですか?」
「らしいね。まあ、僕もお目にかかったことはないんだが。魔理沙曰く、引きこもりらしくてね」
霖之助さんは肩をすくめると、眼鏡を押し上げた。
「まあ、とりあえずはアリスに頼んでみればいいんじゃないか?」
「アリス、ですか……」
俺は思わず語尾を濁す。
その反応が意外だったのか、霖之助さんは僅かに目を丸くした。
「気が進まないのかい?僕の見たところ、君たちは別に不仲ではなさそうに見えたが」
「いや、別にアリスのことが苦手とか、そういうわけじゃないんです」
居心地の悪さを感じながら、首に手を宛がう。
「ただまあ、アリスには随分と借りがあるので、これ以上頼みごとをするのは気が引けるだけです」
「ああ」
得心いった様子で霖之助さんが僅かに頷く。
「面倒な性格だね」
ばっさりである。
「…………ま、まあ、性分ですから」
「損するタイプだねえ。もう少し図太くなってもいいと思うよ。まあ、魔理沙や霊夢ほどとは言わないけど」
「あはは……」
遠い目をする霖之助さんに俺は乾いた笑いを返した。
と、そんな俺の背後で、香霖堂の扉が開く。
「失礼」
「おや、噂をすれば影、だね」
俺と向き合う形で話していた霖之助さんが、先に彼女の姿を捉える。
声に反応する形で、俺も僅かに心臓を跳ねさせながら、ぎこちない動作で振り返った。
「噂?」
人形のように整った顔立ちの少女が入り口に立っていた。
僅かに小首を傾げて、揺らした金髪に見える表情は、やはり人形のように乏しかった。
今回は淡々と、あ、いや、ほのぼのとお話をする回でした。
主人公関連の設定は非常に後付くさいですが、初期のころに撒いていた伏線もどきを回収しているだけです。思いの外遅くなってしまいました。
個人的には主人公はそれなりに平々凡々でいさせるつもりだったのですが、なんだか段々と主人公みたいになってる気がします。ん?