――幼いころの話をしよう。
ボクは幼少期、イタリアで活動していた両親や兄と離れてひとり、マンチェスターへ行った事がある。
当時確か八つだったボクへ下った命。自分の体よりも大きなキャリーを転がして、フランス国籍だったボクは単身で帰国した。
行き先はブルゴーニュワインの産地として知られるボーヌ。主な内容は中規模のワイナリーの管理、清掃など。
なぜそんな仕事をやらされたのか、現地で別宅を任せられていた血縁者の方へ訊ねてみた所、ボクが女であるからだと灰皿で身体中を殴られながら教えられた。
それから満身創痍の中で、漁師上がりの厳しい現場監督のもと、多国籍の労働者さん達と共に早朝から深夜まで汗を流す日々を送る。
ハウススクリーニングの時間だけは肉体労働から解放されたけど、その授業内容にしても年齢に従って次第に難しくなっていったから、休める所はどこにもなかった。
ワイナリーでは、地下のほこり臭い貯蔵庫がボクにあてがわれた寝食の場だった。
管理している物が物だけに、冷暖房については快適だったけど、それでも……生活には色々な弊害があった。ネズミの伝染病や、ワインの匂いで慢性的なめまいを催す事もあった。
働く事と学ぶこと。そして生き抜く事で精いっぱいだった。
張りつめて張りつめて……女性として意識して生きる事もなく、五年くらいした十三の頃。ボクはようやくそのワイナリーからフランスの本宅へと通された。
その頃には、元の黒髪ではなく……真っ白になっていた。
原因は心因性のストレスだという。抜けなかったのは幸いだったが、たった五年の生活で変貌してしまうとは情けないと、親族の何人かに罵られたのを覚えている。
ボクの身柄が本宅へ戻された事を知り、夜遅くにやってきた両親と兄は、変貌したボクの姿を見て大層悲しんだという。
朝起きた時には両親が両隣りで眠っていたけれど、その時のボクは夢でも見ているのではないかという錯覚に囚われた。
でも、それは現実だった。
それからはめまぐるしい勢いでお仕事へ向かわれるお父様やお母様達に付き添い、家事全般を任せられる日々が続いた。それは今でも変わらない。
ようやく手に入れる事の出来た幸せ。家族と共に居る事のできる喜びを、ボクはおよそ五年ぶりに自覚した。その幸せと喜びが、いつまでも変わることなく自分の傍に在る。
その存在を大切にしながら、ボクはここ四年間ほどを過ごしている――。
*1月*
「ニッポン……ですか?」
「そうよ。日本」
ところ変わってフランスの本宅。そしていつものティータイム。大好きなお母様の傍で紅茶を注いでいたボクは、彼女の言葉を訊ね返していた。
彼女はボクの母である、不二子お母様。その美貌は今も昔もお変わりになる事無く、ボクは世界で一番美しい人は誰かと尋ねられたら、お母様だと胸を張って即答できるほどのお人だ。
「あなたの成績も知っているけれど、やっぱり女性なのだから青春も恋愛も知らないと。ね?」
ねっという部分にきゅんと来てしまうのはボクだけかもしれない。なぜかって? お父様はきゅんじゃなくてずきゅーんだと思うから。打ち抜かれちゃうんじゃないかな、きっと。
ボクは微笑を保ったまま「はいっ」と弾んだ声で返してしまうと、お母様は「よかったわ」と美しいさを保ったまま満面の笑みで頷いた。
「それじゃあ、編入手続きは私がしておくから、あなたも準備なさい」
「え? 編入……ですか?」
「そうよ?」
二度訊ね返したボクに、お母様はキョトンとした様子で疑問符を浮かべられる。……なんだろう、おかしいな。ひょっとして話がかみ合っていない?
いや、違う。お母様は先ほども「成績」と仰っていたはず。だとすれば学業面で語られていた事をボクは悟るべきだったのではないか?
「も、申し訳ありません……。このあとすぐ準備に入らせていただきます」
「ふふっ、ゆっくりでいいのよ。女の子なんだもの、準備に時間はかかるのは当然だわ」
深く頭をさげると、お母様はボクの頭をそっと撫でてくれた。
「ありがとうございます、優しいお母様」
「さて、それなら私も準備しないとね。ありがとう紬。紅茶、美味しかったわ」
席を御立ちになったお母様は、最後にぎゅっとボクを抱擁してくれた後、ご自身の書斎へと足を運ばれる。
ボクはお母様へ一礼して、ティータイムの御片づけをした後に、自室へと戻り、日本へ渡る準備を始める。
「へえ、日本に?」
「うん。だから玄哉も一緒にどうかなと思ってさ。どうかな?」
窓縁に寄りかかりながら、帽子をとった無精ひげの目立つ玄哉は驚いた様に目を丸くした。ボクは頷きながらも、自分の衣類……殆どがメンズだけど……をキャリーへと詰め込みながら訊ねた。
「……仕事とはまた違うんだな」
「どうだろうね。ボクはお父様やお兄様と肩を並べて歩けるような人間じゃあないから」
自嘲気に玄哉へと笑いかけると、彼はハァ、と深いため息をつく。
「……アニキは、今どこに居るんだっけか?」
「お父様と一緒にスイスへ行っているみたいだけど? もちろん、おじさまも一緒にね」
正ルパン四世――もといボクのお兄様は、お父様やこの玄哉の父、
お兄様と違い、ボクはあくまでお家からしたら
「久々の帰郷じゃないか。どうかな、一緒に?」
「お前にとっちゃ二度目の来日って事になるわけか。まぁいいだろ。ついて行ってやるよ」
「ありがとう。玄哉が居てくれれば安心だ」
ボクはほっとして胸を撫でおろすと、玄哉も安堵したようにマルボロに火を点けた。
ボクは覚えていないけど、三歳の時に一度日本を訪れている。それ以来、日本へは行った事がない。
色々な国を転々としたけれど、やはりフランスに住まいは落ち着いている。日本にも別宅はあるそうだけれど、別段これといって誰かが面倒を見ているわけでもないらしい。
「そういやあ、日本にはアイツも居るか」
「伊右衛門のこと?」
「……まあ、それもあるな」
石川伊右衛門。彼は石川五右衛門の子孫であり、石川五ェ門おじさまのお子さんだ。
ボクは苦笑いを浮かべながら頷き返す玄哉を見上げた。彼と伊右衛門はいわゆる
「今頃何してるかなあ」
「さてな。武者修行とか言って他国にでも行ってんじゃねえか?」
機嫌が悪くなってしまった様だ。玄哉はそっぽを向いてふーっとタバコをふかしてしまう。
「まあ、伊右衛門についてはともかく。一番警戒しないといけないのは――」
「……とっつぁんの息子、だろうな。会いたくないねぇ、こりゃ」
「御用沙汰にならなきゃいいけどね」
銭形平治。彼はとっつぁん……もとい銭形さんのお子さんだ。とし子さんというお姉さんも居るけれど、すでに成人している彼女は警察とは無関係。
平治くんはぶっちゃけて言えばボク達と小さい頃何度か遊んだ事があるという。お父様も結構怖いもの知らずだけど頭のいい人だから、お兄様とボクが捕まるなんて事は想定していたんだろうけど。
逆に言ってしまえば、ボクはその小さい頃に出会って以来彼とは会った事がない。髪の色も変わっているし……まあ、身体的な意味でも成長はしているはず。ばれる心配は名前くらいだろう。
「玄哉は今年でいくつなんだっけ」
「俺は十九だ」
「ボクはひとつ違いだし……。あっそうだ。玄哉が留年したってことにすれば」
「馬鹿野郎」
がつん、と革靴の履かれたままの玄哉の踵がボクの頭へと飛んできた。
あまりに唐突な痛みに、ボクはうめき声をあげてその場にうずくまる。
「いひぅっ」
「まあ、それについては考え様もあるだろ。大学付属の高校にしときゃ、立地条件も合えば同じ敷地で落ち合うことだって出来る」
「そうなんだけどね。ボクとしては玄哉が居ないとコミュニケーションが成立するか不安でね……」
小さい悲鳴をあげて痛む頭をさすりながら苦笑いを浮かべると、玄哉はまたもそっぽを向く。それくらい自分でやれってことでしょ、分かってるさそのくらい。
「まあ卒業さえ出来りゃどうとでもなる。一年の我慢ってとこだ」
「……そうだね」
少しだけ不安になったボクははあ、とため息をついて準備を終えたキャリーを立てると、玄哉は窓縁から降り立つ。
「そんじゃま、行きますかねえ」
「はいはい」
そこでさりげなくドアマンをしてくれるあたり、玄哉も紳士なんだなあと自覚させられる。まあ、彼よりボクの方が紳士力には自信があるけどね。
ベッドの端にキャリーの置かれた自室のドアを閉めたあと、ボクは玄哉の名前を呼んだ。
「どうした。忘れ物でもあったか?」
「ううん。日本へ行く前にシェーピングした方がいいんじゃないかな?」
「余計なお世話だ。……剃刀は途中で買う」
「それでよし」
こんな会話が、ボクらのいつも通りの風景である。
* * *
ところ変わり、お母様の書斎。
普通父の書斎なのでは? と思われる人もいるだろうけれど、もちろんお父様用の書斎もある。でも、お父様は基本的にそこへ入る事はない。基本的にリビングなどで仲間達とお話しをされている事が多いのだ。
執務机で書類作業をされていたお母様は、ボクと玄哉が入った事によってその作業を一度止められた。申し訳なく思いながらも、ボクは口を開く。
「お母様、準備ができました」
「そう? ずいぶんと早かったわね。こっちももう少しで手続きが終わるから。……玄哉も一緒に来るのね?」
「奥様がそう仰るなら」
帽子をとった玄哉は不承不承といった様子で頷くと、お母様は小さく吹き出す。「次元を見ているようだわ」と小さい呟きも漏らしていた。本当はもとより付いて行く気だと分かってらっしゃるのだ。
「そう、それなら紬も安心ね」
「はい。大変心強く思います」
ボクも彼の思い遣りに心からの笑顔で応える。向ける方はお母様でも、玄哉ならきっと感じ取ってくれると信じているからだ。
「分かったわ。それじゃあ出立は明日のお昼にでもしましょうか」
「わかりました、それではお母様、お夕飯のリクエストなどはありませんか? 本日は腕によりを振るいたいと思います」
「そうね……だったら久しぶりに和食をお願いしようかしら」
「はい、お任せください。それでは早速お食事の準備をさせていただきますね」
「ええ。ありがとう、紬」
ボクは微笑みながら目を伏せて一礼すると、玄哉と共にお母様の書斎から出るのだった。
「和食ってお前……作れんのかよ。俺は見た事ねえぞ」
「失礼だね玄哉。ボクの中で一番好きな食べ物はポトフと和食なんだよ」
「そりゃ意外だ。他にもうまいもんはたくさんあるだろうに」
それもそうだ。でも、ポトフはお父様がボクのために作ってくれた料理で、和食はお母様がよく腕を振るわれていた料理だ。ボクはその仕込みから何までを、機会があればずっと見て覚えてきた。レシピの仕方だってそう、国によって入手の難しい食材だって、代用出来るものを用意することだって可能さ。それだけ思い入れが強い料理なんだよ。
「さ、そうと決まったら買い物だ。玄哉、悪いけど付き合ってくれるかな?」
「ああ。途中で髭剃りを買わせてくれ」
自分の象徴であるおヒゲをさすりながら言う玄哉。どうやらついて来てくれるようだった。