UA2300、お気に入り18名様、ありがとうございます!
遅筆ではございますが、これからも頑張って参りますので、どうかよろしくお願い致します……!
――その夜。
「紬様。ご入浴の準備が整いました」
「ん、ありがとうみぞれ」
夕食後にユート達と別れた後、ひとり自室へ籠り彼から借りた参考書の問題を解いていると、みぞれが入って来た。
ボクはんっと伸びをすると、みぞれがボクの傍まで歩み寄る。
「調子はいかがですか?」
「うん……まずまずといったところかな」
「まだ初日です。昨日の様にあまりご無理をされない様にしてください」
「わかったよ」
ボクは苦笑を浮かべながら頷いて、ペンを机に置いてから立ち上がった。
「そうだ、君にひとつ伝えておきたいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
みぞれは可愛らしく小首を傾げながらボクへと視線を向けると、ボクは彼女と視線を交わしながら告げる。
「君にも一切手を抜かずにテストへ望んで欲しい。変にボクを気にする必要もない」
「紬様……?」
みぞれはボクよりも年下の可愛らしい女の子だ。本当なら仕事をしている歳じゃない。普通に青春を謳歌して、たくさんの思い出を胸に詰め込んで社会へ足を踏み入れる。その幸せを、彼女に知って貰いたい。
これは勝手なボク自身の思いで、彼女にとってはお節介な事かもしれない。
けれど、青春というものを知らなかったボクにとって、それを今になって知る機会が与えられた事にとても動揺している。
その動揺が落ち着くには、まだ時間がかかるだろう。
だからこそ、経歴はどうあれ年下の彼女には、ボクの歩むこの先の数年間よりも一年多い青春を謳歌して欲しい。
それが今のボクから言える、今自分に一番近い存在の彼女が、この先ボクに連れ添っていくための、彼女へ提示する条件。
少しだけ不安がった表情をするみぞれ。ボクはゆっくりと目を伏せながら彼女を抱きしめた。できる限り、この上なく優しく。お母様の様に。
ボーヌへ発つ前の夜。ボクはこの優しさに触れた。この抱擁の温かさと安心感を忘れないように、自分からも必死にしがみついた。
すると彼女の方からも腕が伸び、ボクの胸に顔をうずめ、背中に手が回される。少しだけくすぐったいけれど、これはたぶん、照れているから。
ボクは優しく彼女の頭を撫でながら、ゆっくりと語る。
「ボクは今とても楽しいんだ。みぞれが居て、伊右衛門が居て、ユート達もいる。とても素敵な場所で、こうして青春を謳歌する事ができる。ユートの事もあるけれど、まずはその前に、誰かのためよりも、自分のために学生生活を楽しみたい。だからみぞれも、ボクと同じように青春を楽しもう。やりたい事をやればいい。ちょっとくらい我儘になったっていいんだよ」
「紬、さん……」
みぞれが顔を上げ、潤んだ視線をボクに送る。
「だから、まずは目先のテスト。全力で取り組もう」
ね、とボクは微笑みかけながら、彼女の頭を撫で続けるのだった。
――それから、二週間が経過する。
*2月*
(……あっという間だったなぁ)
握り締めた、濃紺のシャープペンシルを机の上に置く。
予測問題に近しいものも出た。見直しも充分。
あとは結果を待つのみ。
ボクは教室の前に掛けてある時計を見上げると、残り時間はあと数分といったものだった。
ちらり、と隣を見ると、じっとペンを握って問題に集中し続けるみぞれの姿があり、前には伊右衛門の背中がある。
その隣で頭を抱えているのは平治くん。少し震えているけれども大丈夫だろうか?
満足げに息をはくと、――右手にある扉の外に人影が映った。
東方理事だ。
ボクは目を伏せてから会釈をすると、彼は微笑みながら頷いてくれる。
――どうやら準備は出来たらしい。
それに小さく微笑んだボクは、教室を通り過ぎた彼から前へ視線を移して、じっとその終わりの時を待つ。
長い間縛り付けた鎖が解ける瞬間を。
そっと両手で答案用紙を触れると、チャイムが鳴り響いた。
「――そこまで。ペンを置いて答案用紙を後ろから回してください」
試験官の西川教諭が止めをかけ、ボクは前の席に座っている伊右衛門へと答案用紙を渡した。
「(……どうだった?)」
「(まずまず、といったところか)」
「(そっか)」
どうやらみぞれの張ったヤマも当たったようだ。伊右衛門は頷きながら答案用紙を受け取ると、自分のと重ねて前へ手渡していく。
ちらり、と隣を見れば、みぞれは満足げな表情でボクへ満面の笑みを浮かべてくれた。なんて可愛らしい笑顔だろう。張りつめていた心が一気に緩んでいくのを感じる。まさに天使の微笑。
西川教諭が答案用紙の確認を終えると、「それじゃ、テストはこれまで。みんなお疲れさん」といって教室から出て行くと同時、ボクはふうっと息をはいて伸びをする。
「………」
ユートはいつもの調子で欠伸を噛みしめながら、無言でボクの後ろを通って教室から出て行った。
すると、彼の退室を見届けたクラスメイト達が、ボクのもとへ押し寄せてきた。
「峰さん、お疲れ様でした! テストはどうでしたか?」
「うん、お疲れ様。現国には悩まされたけれど、なんとか解けたよ」
「なあ峰っち、今の最後の問題どうやって解いた?」
「え? それはこうして――」
男子生徒に問いかけられ、ボクはそれに応じながら答えを導いていく。
すると「おー」という声があがり、拍手などがあがった。
「さっすが峰さん! 頭いいー!」
「どうもありがとう。みんなもお疲れ様。結果に善し悪しはあるだろうけれど、次も頑張ろう」
ボクは席を立ちあがりながらそう言うと、「それじゃ、ボクちょっと先生に呼ばれているから。行ってくるね」と言ってみぞれと共に教室から出る。
「お疲れ様です、紬さん」
「うん、みぞれも本当にお疲れ様」
お互いに労いの言葉を掛けあいながら、ボク達は理事長室へと向かう。
――あのクラスメイト達との接し方も、ようやく慣れて来た。
ユートを煙たがる人も多いけれど、自分達の非も認めている人も少なからず存在している。
けれど、それでも。彼に対する態度の変化は見られない。
(……まあ、それを変えるためにやってきたんだけれども)
これからボク達のする事が成功するかは分からない。そんな不安に苛まれながら、理事長室のドアをノックした。
『入れ』
聞き慣れた声だ。ボクにとって大切な人の声が、目の前の扉の奥から聞こえる。
えっと軽く動揺したボクは、一度深呼吸をしてからゆっくりとその扉を開いた。
「煌お兄様っ! お久し振りです!」
「――紬か!」
スーツを着込んでいた黒髪の男性は、その黒い瞳を見開かせて、ボクの名前を呼んでくれた。
――本当に嬉しそうだ。だから、ボクもとても嬉しい。
お互いに歩み寄り、抱擁を交わす。ああ、お兄様だ。ボクの大好きなお兄様のぬくもり、そして匂いが、ボクを包み込んでくれる。
彼の大きな手がボクの髪を撫でると、くく、といつも通りの笑い方をしてくれた。
「以前会った時よりも一段と髪が伸びたようだ。まったく、これでは妹には見れまいよ」
「一年ぶりにお会いしたのにその挨拶ですか? 髪だけではなく背も伸びました。むしろ、女らしくなったと言ってください」
「クククッ……日本語はまだまだのようだな」
小さく唇を尖らせながら抗議するけれど、お兄様は目を閉じながら笑いを堪えていらっしゃる。一体その言葉にどういう意味があるんだろうか。
この人が分かりやすい喜びの声をあげるだなんて滅多にない。普段の彼を知っている人からすれば、おそらく今のお兄様は他人に見えてもおかしくないのではなかろうか。
性格は苛烈。個人の能力を重要視し、他人にも厳しく自分にも厳しい。内外から絶対の信頼を受けている我が家二本目の大黒柱。それがボクの兄、煌お兄様なのだ。
――だけどそんな大黒柱はボクに甘い。いつも優しく、柔和な態度で接してくれる。怖いだなんて思ったことは一度もない。
今だってボクの顔を見て、喜びすぎたと反省しているのか、咳払いをして威厳を整えてらっしゃる。ちょっと可愛い。
「いついらっしゃったのです? 仰っていただければ、事前におもてなしの準備をさせていただいたというのに……」
「つい先ほどだ。まさか今日が試験で、おまえが理事長室へ訪れる予定だったとはな」
(またまた。ボクのテストが午前で終わると知っていて、顔を見に来てくれたくせに)
ふふっと微笑みながら、ボクはお兄様を見上げた。
「ですが、こんなに簡単にお兄様とお会いできるだなんて考えてもおりませんでした。とても嬉しく思います」
「そうか。俺もおまえの顔を見れて嬉しいぞ」
「はいっ」
もうこれ以上ないほど嬉しい。ボクはもう一度、お兄様の胸元へ顔をうずめた。
「……さて、そろそろよろしいですかな?」
笑顔を保ったままの東方理事が、ボク達へと語りかけてきた。
そこでようやく状況を理解したボクは、サッとお兄様から離れる。
かくいうお兄様も咳払いをしながらボクの頭をひとつ撫で、東方理事の前へ移動する。
ボクもそれに倣い、後ろで顔を真っ赤にしていたみぞれは入り口で待機していた。
「……失礼、浮かれ過ぎました」
「いやいや、兄妹の久々の再会でしょう。喜んでいただいて大いに結構ですよ」
ふふふ、と東方理事は上機嫌な様子で、機嫌が損なわれていない事にボクはほっとした。
「
「わかりました。それでは話を戻しますが……。この度、私から煌様を学園長として推薦させて頂きました」
「はい。そちらについては存じております。理事会の決定はどうなりましたか?」
言葉をつづけた東方理事にボクは尋ねる。――まあ、答えは決まっている様なものだ。現にお兄様がここにいる時点で、それは確定している。
東方理事は目を細めながら大きく頷かれた。
「峰煌様は来年度から学園長となる事が決定しました」
「そういう事だ、紬。今後は学園長の妹たる態度で学業に励め」
「もちろんです。お兄様と共に居られるというだけで、更に身の引き締まる思いです」
「クク、ならいい」
お兄様は目を細めながら愉快そうに笑う。今のはプレッシャーを掛けられたというよりも、ボク達の間では『存分に青春を謳歌しろ』と言っている事と同じだ。だから、ボクもそれに応えたいと思える。
いつも以上に幸福感を覚えたボクは、ひとつ深呼吸をしたあと、東方理事を見る。
――気持ちを切り替えろ。浮かれていた気持ちを抑え込め。ここから先は現状で最も重要な案件なのだから。
「では、残るは……」
「はい。東間悠斗君についてです」
結果はあまり芳しくなかったのだろうか。いつもは柔和な微笑みを浮かべている印象の強い東方理事が、あからさまに眉根を寄せている。
「……流石に、彼の不当な扱いに心を痛めました」
「それほどまでに酷かったのですか?」
思い出したくもない、とでも言う様に東方理事は額に手を当てて頷いた。
「まるで彼を……囚人の様に……ッ」
「「………」」
ボクとお兄様は怒りを露わにした東方理事を見て沈黙する。
「……失礼、取り乱しました」
彼は長い深呼吸をしながら謝罪し、ボク達はそれに応じながら彼の事を思う。
「当学園は、現理事長を懲戒免職としました。他にも様々な決定を致しましたが……。恐らく、来年度には教師陣の大部分が異動になる事でしょう」
「そうですか……。迅速な対処、有難うございます」
「いえ。むしろ紬様に仰っていただかなければ、私の耳に届く事もなく闇へ葬られていた事でしょう。本当に、有難うございました」
「とんでもございません」
東方理事は席を立ちあがり、ボクに深く一礼してきた。自分も礼を返すけれど、言葉は短くしておく。
「生徒の印象につきましては、
「よろしく、お願いいたします」
「お任せください」
しっかりと意志を持って頷くと、東方理事も神妙に頷き返してくれた。
「――お話中、失礼いたします」
すると扉の入り口に立っていたみぞれが、一礼した。
「紬様、そろそろお時間です」
「おや、もうそんなにお時間が経ってしまいましたか」
「紬、悪いが俺はこの後東方理事と話がある。帰る際に改めて連絡しよう」
「畏まりました。それでは、失礼いたします」
東方理事、そしてお兄様に一礼してから、ボクはみぞれの開けてくれた扉をくぐり、理事長室を後にするのだった。
「あの方が、紬さんのお兄様なんですね」
扉を閉めたあと、みぞれは赤くしていた頬を冷やすようにぺたぺたと両手で触れる。
「うん。どうだった?」
「とても素敵な方だと思います。紬さんにお似合いのお兄様でした」
「そう言ってくれると嬉しいな。ボクもお兄様に相応しい人間になる事が夢だからさ」
少し照れくさげに言うけれど、これは本音だ。みぞれは更に頬を赤くする。ああ、相変わらず愛らしい。
ボクは彼女の頭をそっと撫でると、教室へ向かう。
移動時間は五分もないけれど、移動するには充分だ。
――曲がり角から少しはみ出た制服が見える。誰かは判り切っていた。
彼が姿を現す。黒い髪に黒い瞳。そして学園指定の学ランに、同じく指定の白いパーカーを中に着込んだ男子生徒。
ユートだ。
右手をポケットに突っ込み、やや跳ねた黒髪を左手で抑えている。
本当にいつも通りな彼と、ボク達はお互いに歩みを進める。
「――必ず、迎えに行くから」
「ああ、――待ってる」
意志の籠った瞳と、覚悟の決まった瞳が擦れ違い――離れる。
短い言葉のやりとり。けれどそれだけで伝わった。
だから、自信を持って歩いていける。
彼の望んだ明日へ。
一歩一歩、確実に――。