風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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5『日輪の物語(下-1)』

 それまでずっと響き続けていた、音楽のような高音が止んでいた。

 

「ハジメ?」

 

 弾幕ごっこに接近しての直接攻撃を厳密に禁じるルールはない。

 だがそれでもハジメの様子は異様だった。唐突に突き飛ばされた幽香はわけがわからず目を白黒させるばかり。

 

「ねぇ、ハジメ。どうしたの」

「これでたぶん三度目か」

 

 胸を抑えたまま、ハジメは困ったように笑った。

 その背後に浮かぶ日輪がガラス細工のように透けて、砕けて散っていく。今や雲間から差し込む光で真っ赤に染まった地上にそれが降り注ぐ様を、幽香は茫然と見つめた。

 

「本当に学ばないヤツだよな、俺」

 

 彼が抑えたシャツの胸元が、赤い。

 

「でもあんたが無事で本当によかった」

 

 その口の端から血が一筋こぼれて喉を滑ると、胸の染みに混じる。

 

 ◆◆◆

 

「これでいい」

 

 切り裂かれた腕も、よじれた腕も、胸の傷も、割れた頭もそのままに。

 

「これでいい。私の愛した日常は、これで続く」

 

 光輪を背負った万場は満足げにぱちぱちと柏手を打った。片腕はソーセージの袋のように引き絞られ、もう片腕はミンチを無理やり腕の形に固めたような有様にも関わらず、それらの動作になんら支障はないようだった。

 

「おい、何を撃った」

 

 万場はエリカたちの前に盾となって身をひるがえした雪之丞ではなく、真上めがけて指先の閃光を解き放ったのだ。

 

「撃つべきものを」

 

 ハジメのものに似て、しかし絶対に同種ではない能力。

 

「何を撃ったッ!!」

「分かっているのでしょう?」

 

 予感に、冷や汗が雪之丞の首筋をおびただしく濡らす。

 

「今しがたネットも放送局も押さえたと報告がありました。もう、あなたたちに勝ち目はない」

 

 エリカも、今井までもがその答えに思い至っていた。万場の押し殺した笑いがとうとう高笑いに変わって地下にこだまする中、三人は大穴から、外の吹き抜けを見上げる。

 

「切り札もほら、この通り」

 

 血のように赤い空から何かが降ってくる。

 

 ◆◆◆

 

 光線。

 

 弾幕。

 

 春。

 

 未確認飛行物体。

 

 未曾有のショウの放つインパクトに熱狂していた世界は、アナウンサーの「あっ」の一言を合図に沈黙してしまったようだった。

 

「あにき」

 

 今やカラーバーと耳障りなビープ音を垂れ流すだけとなったテレビから、よろよろと千晃が後ずさった。となりでおーちゃんが彼女の顔を覗き込んでいる。

 

「杏奈、ネットは?」

 

 テレビ局は全滅だ。

 早々に見切りをつけた父がいらだたしげにリモコンを板の間に投げつける。

 

「ダメだ。繋がらないよ」

 

 ケータイを握る杏奈がうなだれる。

 咲き乱れる光線の花と、太陽の輝き。虹色のヴェールが空を覆い、無数の弾幕が舞い散る世界。その映像を見つめる者たちの興奮が最高潮に達した時、不意に地上から光の筋が差したのだった。

 

『あっ』

 

 直後、誰もが見た。

 空を飛びまわっていたヒトガタの片方が、浮力を無くしてするりと落ちていく姿を。その直後にテレビもネットもつながらなくなった。彼女の兄が存在したという事実を塗りつぶそうとするかのように。

 

「おにいちゃん」

 

 肩を震わせる千晃を、無言でおーちゃんが抱きしめる。

 

「悪い奴らに、なにかされたんだ」

 

 彼女に希望を与えてくれた炎の輪が砕けて無くなるところも、真っ逆さまに落ちていく兄の左胸にぽっかり空いた大穴も、すべて見えてしまった。

 

「杏奈」

「わかってる。クルマ、回すから準備して」

 

 父が座布団を蹴とばして立ち上がり、杏奈が頷く。

 慌ただしく居間を後にする二人をよそに、千晃はがたがたと震えていた。頭の中をシャベルで掻きだされたように、考えが定まらない。自分が撃たれた方がマシだってくらいに吐き気がする。

 

「ちーちゃん」

「あにき、あにき」

 

 何があっても、必ず最後は助けに来てくれた自分の兄。それが目の前で誰かの思惑で踏みにじられ、粉々に打ち砕かれた。

 

「ちーちゃん、おちついて」

 

 信じていた自分の強さが、粉々になりそうだった。

 

「離せよ、おーちゃん」

「いやだ」

「離せったら!!」

 

 とにかく、今すぐ暴れ狂って、叫びたかった。それを力づくで抑えてくるおーちゃんの存在がどこまでも煩わしい。

 

「離せ、はな――――!?」

 

 おーちゃんのため息が聞こえた瞬間、天井と床の位置が逆転した。息が詰まるような衝撃の後に気が付くと、千晃の上に馬乗りになったおーちゃんが、いや。

 

「いいから。とにかく落ち着いてください」

 

 逆光でよく見えない、千晃の友だちに良く似た何者かが、氷水のように冷たい声をぶっかけてきた。

 

 ◆◆◆

 

「ウッソぉ、これからでしょ!?」

 

 全世界の気持ちをミヤコが代弁した。

 紫と名乗る別世界の使者につかまって、気付けば最前線からは遠く離れた雑居ビルの屋上。。

 

「そっちは?」

「ダメだ。俺達だけじゃなくて、多分、これ全域でかかってる」

 

 今度こそ大人しくテレビ観戦していた彼女たちのケータイが一斉に通信エラーを起こしていた。

 

「え、終わり?」

「そんなわけ」

 

 思い思いの場所でケータイを画面を睨んでいた彼らは誰からともなくミヤコの元へと集まっていく。

 

「ない、けど」

 

 ミヤコの握りしめる液晶の中では配信が中止される寸前、空から真っ逆さまに落ちていく人影の映像が映し出されている。

 

「これマズいんじゃないか」

「つるみん……その、け、怪我してるんじゃないの?」

 

 誰もが思っていることを喉までせり上げて、口にできないでいた。その可能性を一言でも形にしてしまったら、本当に全てが終わってしまうような気がした。皆がケータイを手にしたまま俯く。

 曇り空から響く空気のうなりだけが、しばらく音らしい音だった。

 

「みんな、何諦めちゃってるのさ」

 

 重苦しい沈黙を破ったのは、やはりミヤコだった。

 

「信じなきゃ。信じるんでしょ!?」

 

 彼一つだけ分かることがある。これで終わりではない。これで終わりにして、うやむやになっていくなんて、絶対に御免だ。

 

「つるみんはきっと戻ってくるよ。ぜったい」

 

 ぱん、と彼女が手を合わせる音が響いた。

 

「そうだな」

「あぁ」

 

 一人、一人と手を合わせ、祈る。

 彼らのヒーロー。そして、かけがえのないクラスメートの帰還を。

 

 ◆◆◆

 

「幽香」

「霊夢」

 

 満身創痍の霊夢がスクランブル交差点に駆け付けると、そこには幽香と、そしてハジメが()()()

 

「なんてこと」

 

 思わず息を呑む。

 彼らが着地した交差点の中央は彼の流した血で真っ赤だった。

 

「この子、私を庇ったの。それで」

「撃たれたのね」

 

 悲痛な表情で幽香が呻いた。

 落下の衝撃で手足がぐにゃぐにゃで、おまけに胸には子供の頭なら入ってしまうくらい大きな穴が開いていて。それなのに、死に顔だけは安らかなのだ。

 

「紫、紫はどこ」

 

 泣きそうな顔で幽香があたりを見渡した。すぐさま空中に開いた空間のスリットから金髪の女妖怪が現れ、ハジメの体を一瞥して、俯く。

 

「ハジメを連れ戻して。お願い」

「残念だけど…………できない、わ」

「どうして。あなたの力ならムリなことなんて何もないわ。だって、体だって、こうして」

「ないのよ」

「え?」

 

 動かなくなったハジメの傍らにひざまずいて、紫は胸の傷を探る。撃たれたにしろ、刺し貫かれたにしろ、あまりにも奇麗にその部分がくりぬかれている。

 

「確かに、死と生の境界をいじれば、彼は生き返る。でも」

「なら今すぐ――――」

 

 紫の胸ぐらを掴もうとする幽香を霊夢が制する。

 

「彼の心臓がここにあって、この瞬間まで彼を生かしていた。その事実が、消えてしまっているの。何かに塗りかえられたみたいに」

 

 ◆◆◆

 

 今度は五分とかからずに終わった。

 正直、勝負とすら言えるものではなかった。

 

「終わりですか」

 

 何度穿っても、何度削っても、何度砕いても、何度切り裂いても。

 

「終わりですか?」

 

 万場はひるむ様子もなく立ち上がってきた。

『残機』がもうないことは確かだ。万場の肉体はこれ以上ないくらいに破壊されている。肉の塊と化した肉体が、死したという事実を無視したように立ち上がってくるのだ。

 

「今にして思えば『風穴を空ける』ことが、は号の能力でした」

 

 血反吐を吐いて、雪之丞は床を這った。右膝から下が再生しない。撃ち抜かれた頭が、痛む。エリカと今井は離れたところに倒れて、ぴくりとも動かない。死んでいるのか生きているのか。

 

「この『塗りつぶしてなかったことにする』能力は、いわば彼への執着が生んだ対極の力なのでしょう」

「対極」

 

 唯一破壊を逃れた、万場の怪物じみた頭部。

 クレーターだらけの月面のような無感情さの中に、狂気と執念にまみれた巨大すぎる眼球が埋まっている。

 

「月、か」

 

 万場が背負う昏い光の正体にも再生しない己の肉体にも合点がいった。

 足がそこに存在したという事実も、万場が既に死んでいるという事実も、狂気の象徴としての月が持つ魔力で塗りつぶして、なかったことにしてしまっているのだ。

 

「そう遠くないうちに私の死は訪れるでしょう。あなたはそれまでじっとしていればいい。あなたがこちらに手を出さなければ、こちらから仕掛けたりはしませんから」

 

 成し遂げた。

 その事実に万場は酔いしれている。この瞬間も彼が手の内で弄ぶ五円玉。それが、雪之丞にはただただ我慢ならなかった。

 

「なのにあなたは」

「あぁ、やるぜ」

 

 胸の炉心から燃える剣を引き摺り出し、右足に突き刺す。勢いつけて飛び上がった雪之丞は、即席の義足の感覚を確かめて、頷く。

 

「これで俺のケガはチャラだ。立てるし、走れる」

「もうすべては終わったのですよ。何があなたをそこまで駆りたてるのですか」

「勝負はまだ終わっちゃいない。お前、あのくらいでハジメが死ぬなんて思うなよ」

 

 そうだろ、相棒。

 周囲にありったけの武器を展開しながら雪之丞は紅い空を見つめる。

 

「あいつはきっと戻ってくる。なんたって、この俺との約束が残ってるんだからな」

 

 ◆◆◆

 

「あぁ、来ちゃったわね」

 

 紫が苦々しげに吐き捨てた。

 それはすっかり交差点を包囲してしまった機動隊に対してではない。彼らのはるか頭上、ついに雲間からぬうっと顔を出したものを見たからだ。

 

「あいつら見えてないの」

 

 血管のように脈動する赤い筋が空に浮かび上がる。その集中する場所に、黒いつぼみが鎮座していた。あまりに巨大であまりに異様なその姿が目の前にぶら下がっているというのに、機動隊の列に乱れは一切見えない。

 

「見えるはずがないわ」

「なぜ」

「毎日空の色を疑ったりする人間がいる? 彼らの目には少し赤い空が見えているだけよ」

 

 その認識こそが有史以来人類が飼いつづけてきた怪物なのだ。

 

「それが反幻想」

「そう。【日常】ってヤツよ」

 

 何かを信じる力というものをバカにすることはできない。

 かつて鶴見ハジメが心の内に描き続けたヒーローがやがて彼の中で意志をもった怪異に変化していったように。

 

「もちろん空の色は毎日変わっている。授業は毎日進むし、花なんていう名前の花はない。完全に同じ日なんて一日たりともない。だけど」

 

 心のどこかでは非日常を望みながらも、人は常に日常に安寧を覚えている。

 そうした全人類の『明日も同じ日が来ますように』が作り出したものは、もはや神にも等しい。地球上をまっ平らに均していくロードローラーのようなものなのだ。

 

「う」

 

 眩暈を感じて、霊夢は膝をついていた。

 つぼみが開き切って分かる。花弁に見えるものは放射状に生えそろった掌だった。

 それがおいでおいでをするようにそよぐたびに体から力が抜けていくのを感じる。大事な記憶が、どんどん薄れていく。

 

『お前も忘れろ』

 

 と、アレが優しい声で語りかけてくる。

 

「紫――幽香、あんたたち」

 

 膝をついた二体の大妖怪に駆け寄った霊夢は虫食いが広がる記憶に慄いていた。幻想郷。博麗の巫女。みんなと過ごした時間。幻想に染まった記憶が、別の記憶に塗り替えられていく。何の変哲もない、どこにでもいる少女の日常へと置換されていく。

 そこに心地よさを覚えているのが、恐ろしい。

 

「霊夢、逃げなさい」

「できないわよ!」

 

 冷静に言い放つ紫を霊夢がどなりつける。

 

「私たちが暴れれば、時間ぐらいは稼げる」

 

 空で漆黒の花が咆哮する。頭の中身を押さえつけるような重力波が一層強さを増す。

 紫に何か言い返してやろうとして霊夢は言葉を失う。この空と同じ色で発光する彼女の瞳。忘却によって幻想を排斥しようとする【日常】の力は、今すぐあらゆる妖怪を狂わせてしまうほどに強い。

 

「遠くに逃げて。私達のことを忘れてくれても構わない。あなただけでも幸せになって」

 

 十数メートルの距離にまで詰まった銃口の群れを、霊夢は見渡す。

 

「――――ふ」

 

 不思議と、笑いが込み上げてきた。

 

「ふふん。本当にこれが最後になるかもね」

「だめ。やめなさい。霊夢、お願いだから」

 

 今すぐにでも暴れ出したい衝動と抗うので必死の紫は喘ぐことしかできなかった。圧倒的な数の差で蹂躙されることが分かっているはずなのに、一度歩き出した霊夢の足取りに迷いはない。

 

「私は守護者。なら、あんただって守って見せるわ」

 

 最後に幽香たちを一瞥して、霊夢は駆け出した。とたんに銃撃が始まり、彼女の周囲を取り囲む障壁が耳障りな軋みを上げながら輝き始める。

 

「ねぇ。みんながあなたを待ってるわ」

 

 薄れる意識の中でハジメに口づけして、幽香は彼の手をとった。

 

「お願い。起きて」

 

 ◆◆◆

 

 良く知っているはずのあんぽんたんが急に別の生き物になってしまったようだった。

 おーちゃんごときに負けまいと睨み返す傍から、心が負けかけている。我が子を食い殺さんばかりの勢いで覆いかぶさった痴女の背中を、固唾を呑んで父と母が見守っている。

 

「彼は絶対にあきらめませんでした」

「ちょっ、なんだよ、お前。なんなんだよ」

「今そんなことはどうだっていいのですよ、千晃」

 

 伸び放題の前髪の隙間からおーちゃんの瞳が千晃を射抜く。黒々とした瞳孔に怯えきった千晃の姿が映り込んでいる。

 

「ひっ」

「僕が怖いですか、千晃」

 

 その奥に広がる暗闇に丸呑みされてしまうような得体の知れない恐怖に、思わず悲鳴を漏らしていた。彼女が人間でないことは薄々感づいてはいたが、その異質さをいざ向けられると、ただただ足がすくむ。

 

「きっと、あなたのお兄さんも同じ気持ちで僕と話していたんじゃないかと思うんです」

「あにきが、あんたと?」

「はい。彼も歳相応の男の子でしたよ。強がりで、怖がりで。でも、決して逃げることだけはしませんでした」

 

 ちょっとへたれっぽかったですけどね、と。おーちゃんの姿をした女は思い出したようにくすりと笑った。

 

「彼は相手がどれほど恐ろしくても、どれだけ絶望的な戦いの中でも、絶対にあなたと、愛する人を守ろうと一歩も引きませんでした」

 

 おーちゃんは目を瞑る。

 必死になって幽香を救おうとする姿。足蹴にして、散々痛めつけてくれたエリカを助けるために奈落に踏み入る勇気。彼女はどんどん忘れてしまうというのに、それだけは数分前のことのように思い出せる。

 

「あなたはそれを見捨てるのですか」

「違う」

 

 彼女の一言一言が忘れていた何かを心の中に注ぎ込んでくれるようだった。

 

「あなたの兄がここまでだと、見限ってしまうのですか」

「違う!!」

 

 おーちゃんの瞳孔の中で千晃が吼えた。

 今この瞬間だって彼女が怖い。だが、兄への信頼を疑われて黙っていられるほど無様な妹ではない。

 

「私のお兄ちゃんは最強なんだ。絶対負けない。絶対に生きてる!!」

「そう」

「殺したって死なないんだぜ。それでも死ぬっていうなら、殺してでも連れ帰ってやる!!」

「そうですか」

 

 千晃の上からどいてやって、おーちゃんは彼女が起き上がる手助けをしてやる。

 

「それでいいのです。やはり、彼によく似ている」

「おー、ちゃん」

 

 千晃に向けられた真剣なまなざしが、ふにゃっと崩れた。

 

「なあんてねー」

 

 いつも通り、おーちゃんはふやけきった笑いを浮かべてがくがくと千晃の肩を揺すった。

 

「や、やめろー」

 

 耐えかねた千晃が彼女を突き飛ばすと、おーちゃんはそのまま畳の上で笑い転げはじめるのだった。

 

「ほんとなんなんだよ、あんた」

「おーちゃんでーす」

 

 どこに出しても恥ずかしい痴女はムダに大きな胸を張って答える。千晃は呆れ笑いを浮かべるしかない。たとえその笑顔に偽りはないと知っていても。

 

「マジでワケわかんないんだから」

「えへへ」

 

 乱れた衣服を正して、千晃は兄のケータイをポケットに押し込む。準備完了だ。

 

「ええと――じゃあ、じゃあ、いこっか。あにきに恩返しだ」

「車」

「あいよがってん」

 

 千晃が振り返ると、おーちゃんは庭に出て空を見上げていた。真っ赤に染まった不気味すぎる空。雲間にびっちりと走る、血管のような筋。

 

「いそぐよ」

「はーい」

 

 ちり紙でも拾い上げるような気軽さで、おーちゃんは千晃をひょいと抱きかかえる。

 

「ちょっ、なんだよ、離せよーっ!」

 

 じたばたと暴れる千晃を意にも介さずにおーちゃんは庭の端までマイペースに足を運んだ。彼女はその背中へハジメの父と母が声をかけあぐねていることに、軽く体をかがめてから気付いたようだった。

 

「それじゃ、いってまいりますので」

「何言って」

 

 唐突に顔面めがけて吹き付けた突風が、続く言葉を父から奪った。無意識に杏奈を庇いつつ、背中で妻の「マジかよ」の呟きを聞く。その理由は、吹き荒れた砂埃を払い落とし、目を開けるなり明らかになった。

 

「ちーちゃん、いそぐんでしょ?」

 

 三人から凝視され、彼女はひひひと面白そうに笑う。

 彼女の背負った巨大すぎる黒翼が小さく羽ばたくだけでつむじ風が庭を駆け抜けた。

 

「いいですか?」

「ど、どうぞ」

「どうも」

 

 こういう時は何か気の利いたことを言わなきゃな、と父は頭を捻ってみた。

 

「…………俺に似てフツツカ者ですが」

 

 そういうことじゃなくてだな。

 

 内心で自分にツッコんでいた。千晃なりにその言葉に思うところがあったようでぎゃあぎゃあと喚く。それが、いきなり悲鳴に変わった。

 

「マジか」

 

 突風の直後に目を開くと、二人が居た場所には黒い羽が散っているだけだった。大きな羽音と千晃の悲鳴が遠のいていく。

 

「長生きするもんだな」

 

 この数か月、おかしなことが起こりすぎて感覚がマヒしてしまったのだろうか。不思議な落ち着きを覚えながら父が見つめる先は、空ではなく杏奈の横顔だ。

 

「あんま見つめるなって。小ジワ増えたんだから」

 

 その視線に気づいて、杏奈が唇を尖らせた。父の目に映る彼女は、やはり出会った時から変わらない、それこそ妖怪じみた美しさを保ち続けているのだが。

 

「そうは思えないが」

「私が増えたって言ったら増えたんだよ。きっといろいろ安心して緩んだせいだ。クソ」

「苦労したらシワが増えるし、苦労しなくなったらやっぱりシワが増えるのか。女って大変だな」

「おうそうだよ。もっと大事にしてもいいんだぞ」

 

 ヤケクソ気味に言い放つ伴侶に呆れて笑いながら、父は縁側に腰を下ろし、車のキーを座敷の奥へと放っていた。

 

「いいのん?」

「もう俺たちの出る幕じゃない」

 

 立派に成長した息子と娘が帰るこの場所を守るだけだ。

 

「あいつら帰ってきたら、なんて言ってやるか考えるとしよう」

 

 隣に腰を下ろした杏奈が頭を預けてくる。

 

「そうだ」

「ん。決まった?」

「おかえり。おかえりでいい」

「うわ普通すぎる」

「それでいいんだよ。家族なんてそんなもんだ」

 

 でも、たまにはやっぱり、ちょっとは父らしいことを。

 思いつきで父がケータイを取り出してメールを起動すると、杏奈がにやにや笑いを浮かべて画面を覗き込む。

 

「届くかな」

「届くさ」

 

 ネットが繋がらないことは理解している。それでも送信ボタンを押してみると、何の問題もなくなけなしの親心が送りだされていった。

 

 ◆◆◆

『一件の新着メッセージを受信しました。』

 

 ――――

 

 宛先:ハジメ

 差出人:オヤジ

 件名:(no title)

 

 このメールはお前宛てだが。

 とんでもない数のメールが来てるからな。

 このメールは真っ先に埋もれていくだろう。

 

 これがお前の目につかないなら、まぁ、それが一番いいと思う。

 

 だからすっごく恥ずかしいことを書こう。

 俺の間違いばかりの人生の話。

 

 人生にケチがついたのは大学の三回生の時だった。

 バイクでコケた俺は対向車線のトラックにお手玉されて、クラゲみたいな状態で病院に担ぎ込まれた。

 

 そこで俺の下の世話をしてくれた看護婦さんがいたんだが、これがとんでもない美人で、おまけにいい家のお嬢様ときた。

 

 気付けば俺は俺の尻を拭いている女にプロポーズしていた。

 

 運命のイタズラなのか、そこからトントン拍子で話が進んだ。

 家庭を持って、小さいけど家を建てて。幸せだった。多分そこがジェットコースターで言うなら坂を登っている時だった。

 

 だがそっからがまたひどい。

 

 入った会社はエスプレッソに墨汁をぶちまけたよりも黒いブラックで、

 俺はあっという間にズタズタのボロボロになった。

 

 そんで、でも、いろいろあって、お前と千晃がやってきて。

 お前たちは本当、宝物だった。この地球上のどんな宝石よりも眩しく、光っていた。

 だからこそ俺は眩しすぎて目を逸らした。

 のかもしれん。

 

 ことここに至っても俺が最悪にダサい事だけは確かだ。

 

 そんな父親失格の俺から、お前に一つだけエラそうなことを言わせてくれ。

 

 なぁ、ハジメ。

 お前なら良く知ってるだろうが、人生っていうのは分からんもんだ。

 まっくらな嵐の夜を明り一つ持たずに全力疾走し続けるようなものだ。

 

 先が分からないとどうしてもナーバスになる。俺が歩んでいる道は本当に正しいのか、とか。この夜は本当に明けるのだろうか、とかな。現に俺がそうだったから。

 

 だから覚えておいてくれ。

 お前たちの帰りを待ってる家族が、確かにここにいるってことを。だから、どれだけ遠くに行ってもいい。どれだけ間違った道を突き進んでもいい。行き詰ったらここに戻ってきてやり直せばいいじゃないか。

 

 生きてまた会おう。

 

 ハジメ。生まれてきてくれて、そして、俺と母さんと出会ってくれてありがとう。

 

 

 


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