風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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3『日輪の物語(中-1)』

『なんてね。スリルあった?』

 

 ――――カメラのレンズが再び光を捉える。もうもうと立ち込める埃のカーテン。数人が咳き込む音。差し込む光が埃の中、画面を覗き込むシルエットを映し出す。

 

『あ、あなたは?』

 

 ――――先ほどまでカメラを回していたと思われる女子生徒の声。恐怖と驚きに震え、咳と涙が絡んでいる。

 

『通りすがりのヒロインよ。もしくは紫。八雲紫。あるいはむらさき』

 

 ――――何者かの顔が大写しになる。しかしピントが合っていないことに加え、レンズに入ったヒビのために全貌が把握しづらい。この時点で破砕音が聞こえ始める。カメラのレンズは人物の顔から通りへと向けられる。大小のコンクリート片が転がる通りはクレーターに覆われ、そこに若い男女が折り重なって倒れている。

 

『な、なんすか、それ』

『どれ?』

『そ、その、バリバリ言ってる口みたいな』

 

 ――――映像は再び人物の顔と、頭上に現れた『口みたいなもの』へ向けられる。空間に切り開かれた裂け目が巨大な破片を破砕しつつ呑み込み、そして消えるまでの一部始終が収められる。

 

『それよりあなたたち、もっとこう、何かほかに言うことはないの?』

 

 ――――路地へ。いつの間にか立ち上がり、あいまいな表情を浮かべていた男女がお互いに顔を見合わせる。

 

『ふつう潰されるところを助けてもらったら何て言うのかしら?』

『あ、ありがとう、ございます?』

『そう』

 

 ――――カメラを持つ人物は、まばらに上がる感謝の声が収まるのを待って、一団の中の少女へと歩み寄る。映像が激しくブレる。カメラを手渡したらしい。

 

『ど、どうも』

 

 ――――映像は少女の顔を一瞬映すと、ようやく路地に佇む『紫』の全貌を捉えはじめる。金髪灼眼の美女。彼女の弄ぶ日傘の陰の下で、その瞳が自ら光を放っているようにも見える。紫の背後に映る空では続けざまの爆発が起こった。それよりも紫はカメラに興味を惹かれているらしく、屈んでレンズを覗き込む。

 

『これ、撮ってるの?』

『ひゃ、ひゃい』

 

 ――――撮影者の声は上ずっている。

 

『生中継ってやつ?』

『はい。ニコ生と、あとゆーちゅーぶ、と……』

『それ、たくさんの人が見てる?』

『多分。うん。はい。そうです』

『ふうん』

 

 ――――ここから再び、沈黙の時間が始まる。紫がしげしげとカメラに手を振ったりレンズを突いたりする間、誰も口を開くことはなかった。

 

『あ、あの。ここ危ないですし、私達そろそろ』

『そうね。でも、その前にひとつお願いされてくれないかしら』

 

 ――――小さな肯定の声。もう少し映してくれ、と身振りで紫が示したようだ。向けられたレンズの先で紫はスカートの端をつまみ、礼をして見せる。

 

『ハイ。みんな、ご機嫌うるわしゅ。待って』

『な、なんですか』

『これ壊れてない? 本当に映ってる? じゃないと困るんだからね――そう――――そう、分かった』

 

 ――――何度か頷くと、紫は演技じみた態度で咳払いして見せる。

 

『気を取り直して。今日は『私たち』、ちょっとした提案を皆さんにしようと思いますの』

『提案? あ、ごめんなさい』

 

 ――――思わず発せられた疑問の声。わざとらしく肩を竦めて微笑む紫の姿が映される。

 

『そう。きっと皆さんも同じように首をひねったことと思います。私の提案は超単純。あなた方にあなた方の明日を選んでほしい、ということ。はいそこ、他人ヅラしない』

 

 ――――レンズに指が突き付けられる。紫の視線は、撮影者ではないなにかに向けられている。

 

『あなたも、あなたも、そこのあなたも。本当に一人一人に呼びかけていますの』

 

 ◇◇◇

 

 

 もちろんあなたにも。

 

 

 ◇◇◇

 

 ――――目を瞑り、紫は数秒間沈黙する。撮影者が不安げな声を上げると、彼女は片手を挙げて応えて見せる。

 

『みなさん、という言い回しを少しヘンに思うかも知れないわね、私達は皆さんとは似て非なる存在なの。おとぎ話の幽霊とか妖怪とか、恐竜のようなものだと思ってくれれば、それでいいわ』

『あ、あの。それで、なんで今頃になってそんなのが出てきたンすか」

 

 ――――動画の再生数はこの瞬間も伸び続けている。同時配信、転載されている分も含めると、途方もない数の人間がこの映像を目にしていることになる。

 

『実際私達は恐竜なの。大きな力はあったけれど外の世界の変化に順応できず、狭い箱庭に引きこもって消えていくしかなかった』

 

 ――――声に混じって、時折遠雷めいた響きがマイクに拾われる。

 

『でもそれは節理。あなたたちが私達を忘れていくなら、それはそれで仕方ないことだ。達観と、諦め。それがここ百年間の私』

『あなた一体何歳なんです――』

『やめとけ、嫌な感じがするから!』

 

 ――――紫の笑顔が消える。恐ろしい形相が映り込んだようだったが、慌てた撮影者が手元を狂わせたため、暫くカメラは空を映すだけとなる。時刻は正午。真上に昇った太陽に、うっすらと雲がかかり始めている。

 

『それを十年ぽっち生きただけの子供たちに否定されて、その見苦しさにとことん魅せられた。それでね、少し気が変わっちゃったの』

『気が変わった?』

『お姉さんも、ちょっとは見苦しいことしてみようかなって。年甲斐もなく反抗期っていうか、なんていうか』

 

 ――――ぱたぱたと扇子を煽ぎつつ、紫は歩く。レンズが彼女を追う。

 

『そう。反抗期。これは私達を忘れて行こうとするこの世界への、最初で最後の反抗』

 

 ――――紫が空へと視線を向けてしばらく沈黙する。遠雷のような轟きに反応してカメラが彼女の視線を追う。空中で光の花が無数に花弁を散らせる。その隙間を縫う輝きが一瞬追い詰められたように見えるが、次の瞬間により激しい光を発してすべての花弁を消失させる。

 

『へたくそ。あのくらいちゃんと避けきってみなさいよ。ねぇ?』

『え? あ、うーんと、そうですね?』

『まぁとにかく、遠回りしちゃったけれど、これは私達が仕掛ける最後の幻想。そして提案です』

 

 ――――ぱちんと音を立てて扇子を閉じ、紫は再びカメラのレンズを覗き込む。

 

『これから起きることを見つめて、選んでほしい。この先の世界はどうあるべきなのか。他でもないあなたたちの手で』

 

 ――――二十秒ほどの沈黙。その末の、ミステリアスな笑み。

 

『夜に咲く花があってもいい。土砂降りの雨の日に踊る女がいてもいい。明日の夜明けを夢見てもいい。叶わぬ夢が報われてもいい』

 

 ――――上空ではもうもうと雲が空を覆っている。雲間が赤く輝いている。

 

『もし、少しでもそんな風に思ってくれた人。この指とーまれー』

 

 ――――レンズに紫の指が伸びる。数名分の驚愕の悲鳴をカメラのマイクが記録する。何かに呑み込まれるように画面が暗転。直後バッテリーが切れ、動画の配信が終了される。

 

 ◆◆◆

 

 差出人:むらさきお姉さん

 宛先:ハジメ(おチビちゃんへ}

 件名:さようなら はじめまして

 

 

 聞いて聞いて!お姉さんテレビデビューしちゃった。

 

 

 

 あ、それと。また会える日を楽しみにしているわ。

 今度は新しい世界で。そのために、今はひとまずさようなら。

二度目のはじめましてが言えた時、あなたはまた、私の友だちになってくれるのかしら。

 

 ◆◆◆

 

 受けた蹴りの勢いのままに床を滑って行った陳列棚が万場の巨体を押しつぶした。

 

「ふッ!」

 

 立ち上がる隙は与えない。今の一撃で十分に万場の肉体は破壊されたはずだが、ありとあらゆる怪異に立ち向かってきた経験が、雪之丞に追撃の必要性を訴えかけていた。

 フロアの天井ギリギリまで飛び上がった鋼の吸血鬼が振りかぶる赤い槍。その周囲にも次々とミニサイズの槍が形成され、投擲の瞬間、赤い流星群となって陳列棚ごと万場を串刺しにする。

 

「…………チ。どうせまた立つんだろ。かかって来いよ」

 

 串刺し、は少し表現として間違っていたかもしれない。

 これまでの数えきれない死と再生の果てにもはやなんだかよく分からない域に達した雪之丞の放つ猛撃は金属の棚と、その下の万場をフロアの床ごとすっかり『とろかして』しまっていた。

 

「とっておきは、使わないのですか」

 

 しかし、だ。

 

「なんのことだ?」

「あなたが出し惜しみしているようなので。この勝負はイマイチ盛り上がりに欠けますね」

「ホイホイ使ってやれるほど安いモンじゃねーんだよ、オッサン」

 

 ドロドロの溶鉱炉の上にゆらりと立ち上がった万場の体には傷の一つもない。

 

「なら、あなたは負けます」

 

 未だ煮えたぎる鉄の地獄の温度は千度を超える。

 その熱は上に立つ万場の肉体を容赦なく焼き焦がし、血液を沸騰させて即死させる。巨体故に数歩進むくらいの余裕があるのだろうが、それでもただの人間なのだ。

 

「吠えんなよ。あんた相手につかう必要なんざねえ。それだけだ」

 

 実際吠えているのは完全に雪之丞の方だった。

 万場の肉体が力尽きて溶鉱炉の上に倒れる度、その死体から脱皮するように次の万場が立ち上がる。

 何度でも何度でも。万場幾恵は世界線をまたいで『残機』を引っ張ってくることで、幾重にも存在する――それこそが、彼の能力の正体であるという意味を雪之丞はようやく理解した。

 

 加えて。

 

 ガァンッ

 

 いつの間にか万場の握る大型拳銃――いや、榴弾を発射する対戦車ピストルだ――から不意を突いて発射された弾頭が雪之丞の体を覆う装甲版を凹ませる。

 続いて炸裂。

 

「ネタの尽きねえ手品だな、ってぇ!?」

 

 煙と爆炎を尻尾のように引き摺って、雪之丞は距離を取る。一射目の炸裂で広がった煙幕を突き破って次々と同型の榴弾が撃ち込まれてくる。

 

「言ったでしょう。僕たちを殺しきることができますかと」

 

 数十体という残機を使い潰して死の海を渡り切ったように、世界を跨いで取り出した対戦車ピストルを次々と使い捨てながら万場は薄笑いを浮かべる。とうとう逃げ場を失った雪之丞が数発の被弾を許し、弾き飛ばされた巨体が床に火花を散らして滑っていく。

 

「や、っべえかも、な。もしかすると」

 

 体勢を立て直しながら、じわりじわりと体力を失っていることに雪之丞は気付いていた。

 一撃必殺の聖剣の存在をどこで知ったかは分からないが、概念にも干渉する紫の能力を打ち消すアレならば、この世界線の万場を残機たちから切り離して倒すことができるのかもしれない。

 

「さぁ、切り札です」

「そうなんだけどな」

 

 それをあえて抜け抜け、と万場が言うのにも理由はある。

 あれは抜いたら数秒間しかもたない。今のように潰されれば後がない。抜けば勝つか負けるかの大バクチ。しかし、抜かなければ潰される。無限に降り積もる万場幾恵の死体に、ゆっくりゆっくりと圧死させられる。

 

「あぁ、クソ」

「僕たちとしてはどちらでも構いませんよ」

 

 見透かしたように万場が告げる。ネクタイを締め直して余裕を見せつけるというオマケ付きで、だ。

 

「こうしている間にも機動部隊は仕事をしてくれていますから」

 

 頭上に開いた大穴からは連続した銃声が聞こえてくる。たまに爆発音が響く。この瞬間も外では霊夢が、紫が、ハジメと幽香が戦って、傷ついている。

 

「計画変更だ」

 

 無意識に剣の柄を握っていた。胸の炉心が生み出しつつある聖剣、エクスカリバーを。

 

「あんたを倒す。今、すぐに」

「そうこなくちゃ」

 

 万場が取り出したものは悪い冗談みたいな銃だった。ゴルフボールなら入るんじゃないかと思うくらい太い銃身の下に、レンコンそっくりの巨大な回転式弾倉が取り付けられている。

 

「中身は先ほどの爆弾と一緒です」

 

 それを左右あわせて二丁。果てしてそのすべてを避けて、受けきることができるのか――だが、もはや止まるという選択肢はない。彼らが外で待っている。

 

「いくぞ、デカブツ」

 

 明らかに分の悪い賭けだ。

 やけっぱちじみた最後の特攻に踏み出しかけた瞬間、それは唐突にやってきた。

 

「相変わらず我慢のヘタなヤツだね、ユキは」

 

 女の声と、影。そして、ちゃりちゃりという鎖の音。天井の大穴から舞い降りたそれらが、雪之丞の前に降り立ったのだ。

 

「お前」

「水臭いじゃん。トモダチだろ、私達」

 

 空中で火花が散る。素早く機関銃に持ち替えた万場の早撃ちを、着古したパーカーを目深に被った女はたった一本の鎖でもって打ち払ったのだ。

 

「再会を喜ぶ時間くらいよこせよな」

 

 更に物陰から這い寄った鎖が、万場の片腕を絡め取る。彼が大きく体勢を崩した拍子に、その手から機関銃が転がり落ちて行った。

 

「な」

「な?」

 

 その妙技に驚く余裕はなかった。

 最後に見た時よりもだいぶ身長が伸びているようだったが、こいつが誰かなんて言うまでもない。

 

「ななな」

 

 ふつふつとこみ上げてくるものは、怒りだ。

 許した。赦したつもりだった。紫にも何度もそう言った。むしろ自分をなだめすかすように。だが、実際にこうして顔を合わせてみると。

 

「な、何がトモダチだ、うるっせえよバーカ! 人でなし! 吸血鬼殺し!!」

 

 雪之丞は罵詈雑言を叩きつけながら、頭の片隅ではどうしてここまで自分が怒り狂っているのか理解できない。

 

「むむう。そこまで言うか」

「どうして今さらしゃしゃってきやがった。てめえ、クソ、こんな時じゃなきゃ、あぁクソぉ!!」

 

 間の抜けきったやり取り。しばらく見守っていた万場が、鎖で絡め取られたままの片腕をわずかに下げる。

 

「それは。それは――――うわあっ!」

 

 次の瞬間、彼女は自らの鎖を掴んだ万場によって高々と投げ飛ばされていた。

 

「そういうのはよそでやってくれませんか」

「エリカ!!」

 

 その名を呼んで、ようやくこの怒りの出所が分かった。

 恨んでなどいない。ただ単に、一人の親友として彼女のことが心配だったのだ。

 

「おい、エリカ。無事か!!」

「大丈夫だって」

 

 瓦礫の山へと突っ込んでいったエリカがふらりと体を起こす。

 

「でも、まだ名前で呼んでくれるんだね。ちょっぴり嬉しい」

 

 万場はこの瞬間も抜け目なく彼女に狙いを定め続けていたが、彼女の乱入によって舞い上がった粉塵がおさまるにつれ、機関銃の照準から僅かに目を離すと眉をひそめた。

 

「止まった時間を無理やり動かした代償がそれ、と」

「……はは。そういうことみたいだわ」

 

 天井の大穴から降り注ぐ光の中。立ち上がったエリカの姿を見て、雪之丞は思わず息を呑む。

 

「あっ、同情とかやめてよ。これ結構気に入ってるんだから。きれーだろ」

 

 包帯ぐるぐる巻きの痛々しさよりも、彼女の頭の白さに目がいった。

 

「つまり、あなたは」

 

 銀色に染まった髪をかき上げて、エリカはそれでも不敵に笑って見せた。

 

「そうさ。私に残された時間は残り少ない。だけど」

 

 彼女の体を覆う包帯がほどけ、その本性が露わになっていく。

 現れたものは鎖の渦だ。もはや繋ぐものを失って千切れたそれの先端が、ふわふわと宙に舞っている。その様は、もはや鎖というよりは自由の象徴である翼に近いものがあった。

 

「最後にこいつらを見捨てるなんて、ダサいマネだけはしたくないんだ」

 

 白髪になっても、年老いても、変わらないものがある。

 

「そうか」

 

 万場を挟んで、雪之丞とエリカが構える。

 もういい。この際エサ扱いされたことも許す。なんだか目の奥から熱い物がこみ上げてきて、それどころではないのだ。こんな情けない顔を隠してくれる仮面が有って本当に良かったと思いながら雪之丞は鬨の声を上げる。

 

 ◆◆◆

 

「ッ!」

 

 今のは危なかった。

 ここまでの被弾で青あざだらけになった腕で額の冷や汗を拭うと、いっきに疲労が押し寄せてきた。弾幕『ごっこ』だなんて、名前でナメていた。実際は極限の集中力を発揮し続ける、コンマ数ミリ単位の曲芸飛行。神経の先が焼ける錯覚。

 

「はァッ、はあっ――ふう、ヤバいヤバい」

 

 おまけに地上から狙撃までされる始末。

 

「気を抜いたらほんとうに死ぬな、これ」

 

 とはいえ文句は言えない。地表では博麗の巫女が全力で攻撃しているのだ。

 蟻を散らすように人間がぶっ飛んでいく光景なんて、そうそう見れるものではない。数十、数百、あるいは数千か――――完全武装の軍隊を相手に互角以上に渡り合う彼女は早すぎて、激しすぎて、もはや虹色の爆風が地を駆けているようにしか見えない。

 

「おおっ」

 

 と、殺意。

 直撃する寸前で頭を下げ、光線を避ける。

 

「私との弾幕ごっこの最中なんだけれど。他の女の子に、それも霊夢によそ見するなんて随分いい度胸してるのね」

 

 鼻の奥でアドレナリンのにおいがツンと香る。

 背後で光線が千々に分散する。意志を持ったように追尾する光条が上着の端をズタズタに引き裂くのもお構いなしでハジメは急加速。

 

「い、いや、違う、タンマ、タンマッ、テクニカルタイムアウトっ!!」

 

 極限まで引きつけてから切り返す。

 相変わらず加減のできない加速だ。Gが全身にのしかかる。ようやく光線を振り切ると、脳みそが鼻の穴から飛び出しそうになりながら、血走った目でハジメは青空に幽香の姿を探す。

 

「ここよ、ここ」

 

 耳元の囁き声。反射的に振り向いた瞬間、顔面に雷が落ちた――落ちると思った。

 

「あてっ」

 

 横っ面めがけて振り下ろされる幽香の拳が見えた瞬間うっかりぶん殴られると思ったが。

 

「私をあんまり妬かせないで。おばかさん」

 

 頬を膨らませた幽香の平手からひびいたものは『ぺち』というなんとも間の抜けた、なんとも親愛に満ちた音だった。

 

「ごめん」

「あ、認めるんだ」

「そそそういうごめんじゃなくて。こんな大事な時によそ見してたのは確かだし、それに霊夢が女の子としてイイカンジとかそういうところに目がいったわけじゃなくて」

 

 くすくす笑う幽香の声に、ハジメはしどろもどろの弁解をやめた。

 

「なんだよ」

「だってこれ」

 

 ぐいと頬を押されてハジメは呻いた。自分ではよく見えないが、何度目かの被弾でりっぱな切り傷をこさえたらしい。

 

「痛い?」

「痛くない」

「泣いちゃう?」

「泣いちゃわねえよ」

「舐めてあげよっか」

「いら――ねえよ。お?」

 

 ヘリのローター音を捉えて、ハジメが振り返る。遠くに見える白い機体にとうとう戦闘ヘリまで駆けつけたか、と身構えたのは一瞬だけ。すぐにそれがどこかのテレビ局のものだと分かる。カメラのレンズが向けられているのが分かる。

 

「集まってきたわね。ここからが本番よ」

 

 この瞬間、世界中が彼らの戦いを共有している。もう『弾幕ごっこ』という今世紀最大のイベントは起きてしまったのだ。

 

「それともやめる?」

「まさか」

 

 即答する。これは世界に見せてやれる最後の幻想だ。チープなトリックでも、テロでも、ましてや集団ヒステリーでもない。それを分からせてやらなければいけない。

 

「続けるしかないだろ」

「そうね。ごめんなさい」

 

 頷いた幽香が後ろ飛びに加速する。

 

「さ。あなたの番よ。いらっしゃい」

 

 ゲーム再開だ。

 自動的に目の前にスナップされたスペルカードのストックからハジメは次の手を選び取る。常に視界の端には日輪の透かし彫りのされた一枚、つまり切り札の存在を捉えながら。

 

「さっさと降りてこいよ。これはお前のためのゲームでもあるんだぜ」

 

 鈍く輝く雲間を睨んで、ハジメは呟いた。

 


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