窓の外には灰色の寒空。
暖房から吹き出すホコリとチョークの匂い。
手狭な部屋にはど真ん中に仕切りのように長机が置かれ、飾り気のないパイプ椅子が進路相談室の設えの寒々しさを一層引き立てている。
嫌々の三者面談がついに開始されたのだった。
「自慢じゃないですけど、将来の展望なんて真っ白です」
進路指導の教師が正直が一番いいと言うので思いのままをぶちかましてみたところ、壮絶な説教が開始されたのであった。
「やりたいこととか入りたい会社は無いのかね。今すぐ始めないと、間に合わないものは間に合わない。それがないなら、早々に就職したほうが安定する」
「とりあえず進学してみればいいじゃないですか。夢とか希望とかはその過程で見つかれば」
「もうちょっと成績について考えてから言え。その、鶴見さん。家族で話し合ったりはしないのですか?」
そしてなぜか、ハジメのすぐ隣には幽香が控えているのだった。
時と場合をわきまえていますよ、と言いたげな黒いフォーマルなスーツを嫌味なく着こなしているのが、かえってハジメの鼻につく。
『お父さん、よろしければ私が保護者役ということで。いかがでしょうか』
『うん』
そんな馬鹿げた幽香の申し出を二つ返事で許した父に対する怒りを、彼はポケットの中の五円硬貨にぶつける。穴のない、のっぺりとした表面に親指の爪をぎりぎりとねじ込む。
「彼はどうしてか、ずっとこうした場から――言葉を悪くすれば逃げていましてね。今日有意義な話ができたのは、鶴見さんがわざわざ出席いただけたおかげでして。いやあ、それにしてもお若い」
「あらあらうふふ」
今ハジメにできることはたった一つ。
隣に座った爆弾がいつものように突拍子のないことをしでかさないようにと全身全霊で祈ることくらいだ。
「最近のコはどうも就職、と言われると選択肢が狭められるようで抵抗があるようですねえ」
どうした魂胆があるやら、面談が開始されてから幽香はニコニコと愛想のいい笑顔を浮かべたまま相槌を打ち続けていた。
「そうかもしれませんわね」
しかし彼女が何かコトを起こすようなこともなく、ただただ、押し付けな面談は続く。
あまり学業で伸びの見込みがない不良物件を、彼はなんとかしてどこかの会社に片付けたいようだった。
先の分かり切った無為なやり取りが果てしなく繰り返されると思うとハジメは窒息感に襲われる。
適当に話を聞き流して、ポケットのなかでコインを回し続ける。変わらず穴のない五円に親指を突きつける。押し当てる。
幽香が一層優しく微笑んだ。
「確かにおっしゃるとおりですわ。将来のことは分からない。だけど、筋道は決めておかないと。そこはとても同意できます」
「でしょう。そもそも、進学といっても」
これまでの面談がよほど手応えにかけるものだったようで、小気味よく頷く幽香に、彼は一層機嫌をよくしたようだった。脱線しつつある彼の熱弁を遮ったのは、ばしゃりと椅子が倒れた音だった。
「そのう、何か?」
幽香は立ち上がって遠慮のない伸びをひとつ。スーツ越しに、彼女の恵まれた体の線が浮き出る。たっぷりと間をおいて、彼女は口を開いた。
「いえ。にしても数十年生きただけの青二才がよく喋るなあ、と思っただけですわ」
「は?」
呆気にとられる二人を見つめる彼女は、スイッチを切り替えたような真顔だ。それからふっと笑って、ハジメの手を引く。
「あなたがどう思うかは勝手だけれど。将来はハジメが自分で決めることよね」
◆◆◆
「あ、こないだの。あれスゴかったね」
見知らぬ下級生の言葉を聞き捨てつつ、今や全校生徒に名前と顔が知られるところとなったハジメは廊下を進む。擦り切れ、あちこち剥がれかけたサンダルが立てるのは、ぺんぺん、と。どこか間の抜けた音だ。
「余計なお世話だったかしら?」
隣を歩く幽香が目配せした。
「いや」
青年をあの息詰まりする空間から助け出してくれたのは幽香に他ならない。
「おーす」
線の細い美青年と、その影に隠れるようしてやってくる、ひどく小柄な女子生徒。
「なんだ、ユキにエリカじゃないか」
親しげに手を振って歩いていくハジメを見て、幽香は意外そうに片眉を持ち上げた。
片方の青年、
それは決して肌の白い美青年をやっかみ混じりに呼んだものではなく、彼がテスト前になると夜な夜なノートを写させろと友人の家をはしごすることから付けられたあだ名である。勉強ができないもの同士、ハジメとは仲良くやっている。
「なぁ、その――こないだの子だろ?」
この場に来てから彼の視線は、幽香に釘付けだ。
「ハジメ、後生だ。俺にその女性を紹介してくれ」
女性と言われて、それが幽香であることに気づくまでハジメは幾ばくかの時間を要した。彼のなかで幽香は幽香でしかなく、女性というよりはあれとかそれとか死神と言われた方がしっくりくる。
「こいつは俺のおばさあっちちち」
サンダルからむき出しのつま先に、幽香のかかとが容赦なく叩き込まれた。目尻に涙を、ソックス越しにうっすらと赤いものを滲ませて、ハジメは幽香に何事か耳打ちする。
「認める」
腕組みした幽香が、こくりと頷く。
「お、おばさんってことにして付き合ってもらったんだ、面談。実際はイトコなんだけどさ。名前は幽香。風見、幽香」
「だよなあ。歳が近すぎるぜ。あ、俺は雪之丞っていいます。こいつは江梨花」
「ハジメ、足、それ」
「つうか今年の進路指導って平田だろ? お前、よくこんな早いうちに戻ってこれたよなー」
ハジメが手に持ったファイルの中身は成績表や模試の結果が雑多に詰め込まれている。それの意味するところをいち早く察した雪之丞が感心した様子で顎をなぜた。
「あぁ。こいつがやっつけてくれたからな」
「マジで? じゃ、じゃあ幽香さん、俺の面談も引き受けてくれませんかね」
「いいわよ?」
「いや、ダメだし」
だよなあ、と雪之丞が肩を落としたのは一瞬のこと。すぐさまいつもどおりのお気楽な問題児の顔を取り戻すと、幽香に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。
「それよりどうですこの後、お食事でも」
「あら。積極的ね」
「あ、そうだ。それがいいな。それでいこう」
ハジメがぽんと手を叩いた。幽香と雪之丞は顔を見合わせる。
「面談の礼に、最高にウマいラーメンをおごってやるよ」
「おいおい、デートにラーメンかよ。しかもおまえの言ってる店、『スケキヨ』だろ?」
「へえ」
料理の話を持ち出されて、幽香が興味を示した。
「そのお店の味、ハジメをうならせるヒントくらいにはなるのかしら」
「じゃあ決定な。千晃のヤツには連絡しとくからさ」
メールを打ち始めるハジメの背後、おずおずと身を乗り出すようにして幽香の様子を伺っているのは江梨花だ。彼女に気づいて幽香が愛想よく手を振ると、彼女は小さく悲鳴を上げて隠れてしまう。
「あら、さっそく嫌われちゃったかしら」
そういうことじゃないですけど、と。江梨花は消え入りそうな声で呟いた。それからはごしょごしょと形にならない言葉を口の中で転がすだけだった。
「おごりって、俺たちもタダでいいんだよな?」
「ざけんな乞食。おごって欲しけりゃ平田ぶん殴ってきやがれ」
と、仲良く四人並んで校門を出る。
しばらく歩けば、いつも鶴見家唯一の料理上手である幽香が通うアーケード街が、うらびれ、錆びれたゲートを開けて待ち構えている。そこを過ぎれば天窓から夕日の差し込む、居心地のいい田舎商店街が広がっているのだった。
「幽香さんってすごいね」
江梨花が驚嘆の声を漏らす。
相も変わらず幽香は人気者だ。こうしていても夕飯の献立は頭の片隅にあるようで、世間話をうまく盛り上げつつも買い物を着々と進めていく。今日も今日とでサービス品がもりもりと彼女の買い物袋に突っ込まれていくのであった。
「外ヅラだけはいいからな」
中身はとんだバケモノだけどよ、と心の中で叫ぶ。幽香はそれを察してか、とてもいい笑顔で振り返る。
「いいなぁ、幽香さん」
何も知らない雪之丞が、惚けきった顔で指をわきわきさせた。
「あの人さ、一体どっから来たんだ?」
「俺も知りたい」
答えたハジメに、雪之丞は首をかしげる。しかし彼の怪訝も、大きな買い物袋を手に戻ってきた幽香によって打ち消されてしまうのであった。
「持ちますよ」
「ありがとう。ユキ」
わずかに上がった幽香の語尾に、彼は俄然張り切って先陣を切る。それをニコニコと見つめる幽香の瞳の奥底に底知れぬ恐ろしいものを感じるハジメだった。
「女って怖い」
「うん」
隣で頷く江梨花にツッコミを入れるべきかと青年が迷っていると、幽香が歩調を合わせてくる。
「うひゃ」
江梨花がハジメの背後に隠れた。
「ところで、ラーメンってどういう食べ物なの?」
幽香がなかなか難しいことを聞いてくる。ラーメンと一口に言っても多種多様で、その中でも、これから行く先である『スケキヨ』の出すものは異色のしろものであった。
「そもそもスケキヨのってラーメンじゃねえだろ」
すかさず雪之丞が口を挟んでくる。
「なにそれ。別物なのにラーメンの説明でわかるはずないじゃない」
「だいじょうぶ、ラーメンです。ユキが言いたいのは、ただそれがラーメンとかけ離れているからちょっと他の料理なんじゃないのってだけの話で。でも厳密に言えばスケキヨはスケキヨであってラーメンではなくて」
それまで隠れるばかりだった江梨花が熱のこもった口調で説いてくれるのだが、当の幽香は一層当惑するばかりだ。
「待て待てこんがらがってきたぞ」
頭を抱えたところで、ハジメはふと一本の細路地に目を惹かれた。
「どした?」
雪之丞の問いかける声がやけに遠い。
その黒々とした壁と、張り出した室外機やらゴミ箱の列。なぜか、薄汚く湿った小路がどうしようもなく居心地良いものに見えた。足は素直なもので、すでにふらりと一歩目を踏み出している。
「ハジメ」
彼が奥に見覚えのある小さな影を見た瞬間だった。
幽香に肩を掴まれて、途端に町の喧騒が戻ってくる。彼女の背後には、怪訝な面持ちでハジメを見つめるふたりの級友の姿。
「だめよ」
路地へと目を戻す。そこはやはりというか、なんの変哲もない、ビルとビルの隙間でしかない。半ば脅迫的に奥へと誘っていた違和感も、今ではすっかり退いている。
非日常が当たり前のような顔をして日常へと踏み入ってくる。はじめて幽香の力を目にした時の様だった。それも、今回はひどくイヤな感じがする。
「俺、なにを」
「いいから」
軽くハジメを背後に回して、幽香は路地の奥へと目を向ける。
「幽香さん、そっちになんかあるンすか?」
「いえ。ただの野良犬か何かだったみたい」
変わらぬ様子で三人のもとへと戻ってくる幽香であったが、その表情はハジメに一刻も早くこの場を後にするよう告げていた。ハジメとしても長居はしたくない。
故は後で彼女に問うことにして、足早に目当ての店へと足を運ぶのだった。
「来たぜ。スケキヨだ」
アーケード街の中程に差し掛かって、雪之丞が呟いた。
まるで戦に赴く戦士の面持ちである。江梨花も彼の隣で不敵に笑っている。こう見えて、彼女はとてつもなく大食いで、おまけに舌が肥えている。
江梨花は市内のジャンクフードをあらかた味わい尽くしていた。血が騒いで仕方がないのだろう。
「来たのは俺たちの方だがな」
シャッター続きの商店の端に、ひっそりと黒いのれんを掲げる『スケキヨ』。その一角だけ、異様な香りが漂っていた。心なしか、空気が粘ついているように感じられる。
幽香はラーメンを知らない。だが、それが麺をスープにつけた料理である、という前知識を彼女に教え込んだところですべては徒労に終わったことだろう。
「これが?」
長い待ち時間を経て運ばれた丼を前にして、幽香の口元が引きつった。
うどんのような太麺の上にどっかりと乗ったもやしと野菜の山。そして山頂の雪のように積もったおろしにんにくと、隙間にこれでもかとぶち込まれた焼豚のかたまり。
「これが、あなたの言う最高の料理なの?」
「そうだけど?」
要するにスケキヨは二郎系であった。
「きたきた」
「いただきまぁす」
得体の知れない料理に喜び勇んで取り掛かる雪之丞と江梨花とを信じられない面持ちで見つめる幽香。救いを求めるような視線でハジメを探すと、彼は面白がるように目を細めている。
「あのね、ハジメ。あんまり食べ物についてどうこう言いたくはないけれど、どんな料理もある程度の美意識ってものが必要なのよ。これは、どう見ても」
「つべこべ言わねえで食ってみろって」
ざくざくと野菜の山を崩していくハジメを見守る幽香の落胆具合は半端なものではなかった。滅多なことでは余裕の表情を崩さない彼女が派手に困惑しているのを脇目に見て、ハジメは久しぶりに気分がいい。
「うん、ウマい」
自分が手を尽くした料理には頑として褒める言葉を漏らさないハジメが、率直な感想を口にする。幽香は憎々しげに丼を睨み、そして意を決したように箸を取る。
「こんなの、食を冒涜してるわ」
思わず三人が手を止めるほど神妙な面持ちで麺を口に運び、その動きが止まる。
「え……やだ、おいしい」
しかし、その顔は腑に落ちない彼女の心境がありありと現れていた。
「でも、どうしてこんなも醜いものが……脂。このブヨブヨした不気味なアブラなの? …………いえ、もしかすると私も知らない化学調味料が……ハジメを納得させるには、まだまだ研究が必要ってことか……」
ぶつぶつと呟く幽香。
「その、幽香さん、面白い人だよね」
「もっと素直に言っていいんだぞ」
◆◆◆
「えぇー、お姉ちゃん遅くなるのかあ」
携帯を放り出して、千晃はベッドの上に大の字に広がった。当のメールの送り主については完全にその存在を忘れてしまっている。
「くっそお。出前とってやる」
腹いせに我が家の経済事情を悪化させてやろうとはね起きたところで、彼女はその異音に気づいた。かりかりという、何かをひっかくような音だ。音の出処は下の階。もちろん、家には彼女ひとりだ。
鶴見千晃はひきこもりだが、臆病ということではない。
こういう時になると、むしろ好奇心が勝って仕方がない。抜け目なく護身のために新聞紙の束をくるくると丸めながら階段を降りていく。
「トイレ、リビングはクリア、と」
そうして残る場所は玄関だ。ことさら警戒して彼女はリビングのドアを開ける。その途端、それまで鳴り続けだった音が止んでいた。
「なんだろ」
千晃はてっきりそれがイタズラで、彼女の気配を察して犯人が逃げたものだと考えていた。だが、その音の主はいた。彼女がやってくるのを、待っていた。
すりガラス越しに見える茶色の小さな姿。それはおそらく犬だった。だが、どうにも妙だ。
千晃は、ぱっとそれを見てどこがどうおかしい、とは言い切れない。
「くうん」
人懐っこい犬、のようであった。
胸をなでおろして、千明はドアのロックを外す。途端、勢いよく開かれる扉。その向こうで待ち構えていたもの。
「え」
その、ひどく形容しがたいものは。
「くううううううん」
湿った音と、落ちる新聞紙。
千晃も異形の訪問者も姿を消し、そこにはただ開け放たれた戸が寒風に揺れているだけだった。