二本目。
「最後にあなたとこうして話す機会が持ててよかった」
三本目。
「自ら能力を破壊した者の顛末。きっと、あなたがどれほど長く生きていようが、そう目にかかるものだとは思えませんでしたから」
四本目。五本目。
「――――そして六本目、ですか。嘘のようですね。万全のあなたが機動部隊とぶつかった想像をするだけで、背筋が凍る」
万場の見下ろす先では、もはや悶えることもなくなった幽香が虚ろな目で横たわっていた。
「それももうすぐ、終わりでしょうが」
万場は空になった注射器を次々と床に投げ捨てていく。彼がやりすぎなのは誰の目にも明らかだった。
スーツの死神が最後の幻想に緩慢な死を与える間、日は陰っていた。F市の空には彼の昏い愉しみを覆い隠すように厚い雲が渦巻いている。
「あの子に」
銀の指輪をはめた指先が、しおれた花弁と塵の積もったタイルに筋を描いた。
「はい。聞いていますよ」
「あの子に嘘、ついちゃった」
「そうですね」
七本目。
「この世界線の鶴見ハジメ。彼を死に導くのはウイルスでも交通事故でもなく、あなただった」
「あの子とあの子の家族を幸せにするって約束したのに」
「結局あなたは何も残せないままだ」
最後のシリンジが床に放られて砕けた。
うわごとのように後悔を吐き出すだけになった幽香を前に万場が抜き出したものは、寺田を撃ったものと同じ自動拳銃だ。
「殺して」
「もちろん。そのために来たのですから」
苦痛と後悔で、幽香の意識は混濁していた。
「あぁ、そうだ。ひとつだけ心残りが」
もはやどこを見ているのか分からない幽香が漏らした一言。今まさにとどめを刺してやろうというところで万場は指を緩めた。今さら数秒の猶予を与えてやったところで、結果にどう関わるというのだ。
「それは?」
「最後まで――――おいしいって、言ってもらえなかったな」
万場は幽香の眉間に銃口を突き付けたまま首をひねった。
「まったく。つくづくあなたたちはよく分からない」
呆れながら万場は安堵する。ようやくこの異常な世界線での仕事も収束するのだ。
しかし、トリガーを絞る段になって万場は横っ跳びに身をひるがえした。
「ふうん?」
寸前まで万場の頭があった場所を通過していったのは人体だった。
そのまま壁に叩きつけられた彼の身を包んだ鎧のような防護服。
赤黒い槍がいくつも突き立てられ、ハリネズミと化した彼は恐怖に表情をひきつらせたまま意識を失っている。
「その、薄汚い手を、離しやがれ!」
正面から堂々と入ってきたそいつが、鉄の沸騰するような重く熱い叫びをあげた。彼の背中で巨大な二枚羽が開くなり、訓練された機動部隊が一斉に銃口を向ける。
「やれ」
万場の一声で、闖入者の全身が爆ぜた。
「おおおおおッ!」
彼が踏み出す一歩一歩ごとに血しぶきは火花に変わっていく。
赤黒く輝く胸の炉心。そこからつぎつぎとせり出す金属質の鱗が、彼の全身を覆いはじめているのだ。
「なるほど。番狂わせか」
「お前、お前だけは――――!」
拳ひとつで機動部隊を蹂躙しながら、鋼鉄の巨体が万場へと迫る。
暗がりへと溶け込むように消えていく万場めがけて、彼は胸から引き抜いた槍をぶん投げた。
「逃がさん!」
「今さら何を期待しているのですか」
その声の大半は、突き立った槍が噴き上げた赤黒い稲妻にかき消されたが。
万場の手元で、汚れた五円玉が輝く。
「じつに愚かだな」
次いで爆発。
度重なる戦闘で痛めつけられた壁が、がらがらと崩れる。
「やったか?」
もうもうと煙る中に金属鎧の音が響く。
悪鬼めいた意匠のマスクに覆われた槍の担い手の顔面。むなしくコンクリートを貫いただけの槍を前に、四つの赤い眼点がゆっくりと細められた。
「ユキなの?」
弱々しい声に、口惜しげにしていた吸血鬼は弾かれたように踵を返した。
「はい。あなただけの雪之丞ですっ!」
「ふふ」
変わらないのね、と雪之丞にかかえ上げられた幽香は囁いた。
紙のように白い顔。濁った瞳。氷のように冷たい体。とげとげしい鎧に身を包んでは抱きしめてやることもできず、かわりに雪之丞は地面に視線を走らせた。
「毒か」
割れて砕けた容器を見て改めて万場に怒りを募らせながら、雪之丞はつぶさに考えた。
「逃げなさい。私はもう、いいから」
次いで、重装備に身を固めた男たちを見下ろす。
この状態の幽香を連れて逃げ回ることはできない。万場はこうしている間にも次策を練り、追加の武力を送り込んでくるだろう。何度でも、際限なく。
「最後に助けに来てくれて、ありがとう」
重体に鞭打って、労うようにマスクの頬を撫でてくる幽香。
「最後になんかさせやしない」
なんのために強くなったのか。
紫の問いに、ようやく答えを出せそうだった。人としての体を捨てて吸血鬼になり、強大な力と生命力を得た理由にも。
「無礼を」
音もなくスライドしたマスクの口元が、細く鋭い牙を得た口元を露わにする。
「い、た」
「すみません」
それをそのまま幽香の首筋へ。
喉を滑り落ちてくる、毒混じりの妖血。体を内側から焼かれるような痛みには慣れっこだ。花の蜜のように甘い血に吸血鬼の本能が歓喜の声を上げる。
「ッ!」
ほとんどすべての毒と血を吸いだしたところで、雪之丞は我に返った。
「……許してくれなくても、いいです」
俺はこの人に一体何度謝るんだろうかと思いながら、雪之丞は翼を広げた。
強力な妖怪の血も、毒も、彼にとってはさして大差ない。それを全身に巡らせるにしたがって鱗と鱗、翼を覆う甲殻の隙間から赤い霧が染み出してきた。
「やめなさい、ユキ。今度こそ死んでしまうわ」
薄く笑んだ彼の口元を再びマスクが覆う。
「構いません」
憤怒の形相を映し出す金属板の奥で彼がどんな顔をしているのか、もはや知りようがない。彼は既に自分の限界を幽香との決闘の中で見ている。強大な力を行使すればするほど、彼の体は加速度的に崩壊していくのだ。
「俺は待つだけです」
鋼鉄の悪鬼はねじれた槍を地面に突き刺し、彫像のように固まった。
彼自身、何を待っているのかも分からないままに。
◆◆◆
焼け跡から噴き出した紅い霧はすぐさまF市全域を包み込んだ。
「霧で見通しが悪くて困ったわ」
今しがた眼下で発生した玉突き事故を無感動に見つめながら、霊夢はつらつらと、いつかのセリフを連ねていく。
「もしかして私って方向音痴?」
通りでバタバタと人が倒れていくのが見える。
当然紅い霧はただの煙幕なんかじゃない。ただの人間が触れればたちどころに精気を抜かれて昏倒し、数日も放っておかれれば衰弱死する。
「そんなに長くは続かないでしょうけれどね」
先に、大元の吸血鬼に限界が来るだろう。
霊夢は足下のコンビニ袋をあさって緑茶のペットボトルを取り出すと、雑誌を片手に電波塔の上に座り込んだ。
「のんき」
湧き上がる悲鳴もすぐに収まった。
「ほら、ねぇ、ユキ」
霊夢もまた待つ。
雪之丞にはやりたいようにやらせてやる。そのかわり、霧が晴れたときにはすべてにケリをつけにいかなければいけない。
「今日の月はこんなに紅いわ。見えてる?」
塔のように聳えるのは全てが始まった高層ビル。
紅い霧はゆるやかに渦を巻いて、その頂点にぼんやりと輝く紅い月を形作っていった。
◆◆◆
「なんだこれ」
窓際から惨事を見つめていた千晃は目を疑った。
ちょうど今、家の前を通りがかったご婦人が連れの犬ごとぶっ倒れた瞬間だった。
「あかい、霧?」
駅前の方から押し寄せてくる霧は意志を持ったように獲物を探し、隙間という隙間から家の中にまで入り込んでくる。
「や」
ドアの下からぬるりと入ってきた霧は床を舐めるように広がっていく。
「助けて、お父さん!」
車いすの上で身を縮めて、千晃はゆっくりと這いあがってくる霧に怯えた。
「お母さん!」
いくら声を張り上げようとも、頼みの綱の父はとっくの昔に玄関先で倒れている。たった一人で、千晃は途方に暮れるしかない。
「お願い、いやだ。助けてよ、あにき、おねえちゃん!」
その名を口にしてから、千晃は恐れも忘れて固まった。
ほんとうにほんとうにどうでもいい二人。その名前をどうしてここまで心強く思えるのだろうか。
「あにき」
その頼もしい後ろ姿。無数の怪物に囲まれても、彼は『大丈夫だ』と笑う。
熱く駆ける弾丸。太陽のような瞳の輝き。
「おねえちゃん」
どんなピンチでも気高く戦う天使のような姿。
家族のために傷ついて。本当の姉のように、どんな粗相も笑って許してくれた。
「私は」
テーブルの上、勿忘草が頷くように花弁を揺らした。
記憶にある、優しい香りが漂う。彼は、彼女だったかもしれないが。その花は『千晃に辛い思いをさせるな』と命じられていた。
「私」
命に代えてでも、彼女の心の平穏を守れと。
「わたし!」
だからこれは命令違反なんかじゃない。
『おねえちゃん』を忘れて、また死んだように生きていくことの方が、彼女にとってずっとずっと辛いことだと、判断しただけだ。
「お父さん、起きて、お願い!」
幽香は愛されていた。彼女が思う以上に。彼女の育てた花にさえ。
「お父さんったら!」
悪い夢から醒めたような顔で千晃は玄関めがけてすさまじい勢いで車いすを飛ばしていく。しおれて枯れていく勿忘草が、その背中へと一枚の花弁を飛ばす。想いを託すように。
「ん、俺、また社畜病が」
ガツガツと後頭部に車輪を当てられて、父は手荒く目覚めさせられた。
「そうかもしんないけど。そうじゃないんだよ、これ!」
二人の周りから霧が退いていく。勿忘草の花弁に秘められた妖気が霧を弾いているのだ。
「紅い、霧?」
「そのリアクションさっき私やったから! いいから支度して、出発しんこー!」
「ま、まてまて。一体何が起きてるのやら」
「おねえちゃんが大変なの。きっと、あにきも!」
「お前、記憶が」
やつれてはいたが、千晃の調子は完全に戻っていた。
その真剣なまなざしに、父は頷く。何かただ事じゃないことが起こっているのだ。
「わかった。千晃、待ってろ。クルマのカギ持ってくる」
父はそこで、一度玄関の敷居を見つめた。そこから先に行くことが、一年近く引きこもってきた娘にとって何を意味するのかを確かめるように。
「いけるな?」
千晃は頷く。力強く。
「あたぼうよ。あ、でもお父さん、外は事故だらけだよ。ウチの軽でも」
「いいから待ってろ。んで今のうちに心の準備しとけ」
リビングに駆けて行った父が戸棚からカギを取り出し、ガレージに向かう。
彼を見送ると、千晃はゆっくりと車いすから立ち上がって伸びをした。右足も左足もひどいもんだ。だが、これ以上甘えてはいられない。
「待ってて。今度は、私がおねえちゃんたちを守るから」
外。霧は空にも地面にも濃く立ち込め、夜のように暗い。遠くのビルの上に輝く紅い月を見つめていると、家の前から重厚なエンジン音が響く。
まるで、眠りについていた獣が目覚めたようだった。
◆◆◆
父の運転は卓越したものがあった。
完全に凍結した交通網。ワナのように横倒しになった車も、数メートルの隙間も、危なげなくすり抜けていく。
「ちょ、ちょちょちょ、お父さんぶれーきぶれーき!」
「ダメだ。言ったろ、俺の荷台に乗るんなら心の準備しとけって」
獰猛な獣のように大型バイクは町を駆け抜ける。
ハジメと幽香によって廃車同然の姿で帰ってきてから数週間。激務の合間を縫って父の手でひそかに直された鋼鉄の巨獣は以前よりも上機嫌にエンジン音を響かせた。
「切り込むぞ、千晃」
「どっ」
父の言葉に理解が追い付かないまま、ぐんと引っ張られるように二人は横倒しになった。
「ひゃああああ…………!」
千晃の悲鳴を尻尾のように引き摺って、バイクはほとんど直角に曲がった。
「うひょ」
ヘルメットの下から聞こえた不気味な笑い声に、千晃は父のスイッチが入ってしまったことを悟った。
「うひょひょ」
「お、おとー?」
更に数度『切り込み』ながら、父は片手をヘルメットにかけ、そして脱ぎ捨てる。バイク同様フルスロットルで突っ走る父のテンションに唖然とする千晃の背後で、ヘルメットが服屋のショーウインドーを粉砕した。
「楽しいなぁ」
愛おしげにタンクを撫でて、父は磨きこまれた相棒の感覚を確かめる。
「ずっと、こいつのことを見ないフリしてた」
速度と遊ぶ父の姿は、千晃の目には十歳も若返ったように映った。
タコメーターが一ミリ触れる度に父とバイクは一体感を増す。
「お前のことも、ハジメのことも。仕事を言い訳にして、俺は自分の心の声に立ち向かう勇気が持てなかったんだ」
いつしか父におんぶされているような安心感を千晃は感じ始めていた。
「悪かった」
そうしてミラー越しに視線をくれた父は、親子ということを抜きにしてもカッコよかった。
「べっ、べつに、いいよ」
「そうか?」
「埋め合わせ、これからしてくれるんでしょ」
「そうだな。まずは仕事辞めてみるか。な?」
自然と顔が赤らむのを感じながら、きっと杏奈が惚れたのはこんな父の姿だったんだろうな、と千晃は考える。
「ところで千晃、アレから遠ざかってるみたいだけど、いいのか?」
父が指すのは紅い月だ。
「うん。あれは私達にはどうにもできない。そんな気がする」
バイクは蛇行し、時々遠回りを強いられながら、病院を目指していた。
「そこでハジメか」
「信じてくれなくてもいいけど、あいつはすごい力をもってるんだ。あにきならおねえちゃんを助けられる。きっと」
「今更お前を疑ったりはしないさ」
川を渡る橋の上を通りかかった時、父が目を細めた。
「お父さん」
「あぁ。妙だな。なんだこいつら」
テレビでしか見たことのないような車。機関銃をさらけ出した装甲車と、銃を下げた男たちが折り重なって意識を失っていた。
「分かんないけど、でも」
とてつもなくイヤな感じがした。
一刻も早くあにきをむかえにいかなくちゃ――――同じものを父も感じるようで、軽く頷いた。
「うお」
いや、そうではなかった。文字通り頭が揺れたのだ。
「こんな、時に、クソ」
目が見えなくなるくらいの眩暈を覚えていても体は反応する。
しかしレスポンスが最悪だった。中途半端に父の指令を聞いた体は見事にバイクの前輪だけをロックし、
「おおおお父さん、ちょっと!?」
「えーと、ごめんね?」
バイクは勢いよく前のめりに転げた。
父に抱きかかえられて地面を転がりながら、千晃は束の間意識を飛ばす。
◆◆◆
「千晃」
次に目が覚めた時、とりあえず全身をひどく打ちのめしたことだけは分かった。
「千晃起きろ」
「おとう、さん」
痛すぎて這いつくばることしかできなかった。
父は横転した愛車にもたれたまま、ぐんにゃりと折れた左腕を傍らに投げ出していた。
「だ、大丈夫!?」
「あぁこりゃいってぇ。クソいってぇよ」
そうして憑き物が落ちたような顔でこれまたカッコよく笑うのだった。
「でも生きてるって感じがして――――マジサイコーだぜ」
「あのさ」
頭から血をたらたら流して、よくもそこまで粋がれるもんだと千晃は呆れて笑った。尚も這って近寄ろうとする千晃を、父は制した。
「おいおい。せっかくこんなに急いでやったんだ。呑気してないでさっさと行ってやれ。ハジメが待ってるんだろ」
「でも」
「こんぐらいのケガ、自分でなんとかできる。大人だからな」
「うん。お父さん、あにきを助けたら、すぐ戻るからね」
「昼寝でもして待ってるよ」
よたよたと去っていく千晃が振り返るたびに、父は追い払うように手を振った。スクランブル交差点を曲がって彼女の姿がようやく見えなくなったあたりで、父は大きく息をついた。
「やれやれ」
背中から腹を刺し貫いた鉄筋を引き抜く気力もないままに、彼は目を閉じた。
◆◆◆
「いっ、たぁ。あぁ、痛い」
無理をしているのは父だけではない。
千晃が這いずる後には血の筋が続いた。さっきの転倒で、縫ったばかりの傷が開いたらしい。
「やっぱり外は大変だなぁ」
坂道を登れば病院はすぐそこだが、今の千晃にとってはたった数百メートルが何万キロにも感じられる。だんだん体が冷えていくのを感じながら、千晃はふと横道に目をやった。
坂の中ほど。ひっそりとした場所にバス停があり、年季の入った、実に座り心地のいいベンチが待ち構えている。
「少し、休もうかな」
半ば無意識に頭をそちらへ向けて、千晃はすぐに思い直した。
「ダメだ。行かなきゃ」
この瞬間もあにきとおねえちゃんは戦っているのかもしれない。ここで一人、千晃がへたれることはできなかった。
だが彼女のやる気とは裏腹に、ペースは徐々に落ちていく。千晃は顔を真っ赤に、歯を食いしばって昇るのだが、病院のわずか十数メートル手前までやってきて、唐突に限界が来た。
もうちょっと頑張るくらいの力はある。
だが嘘のように、たった一ミリも進めなくなったのだ。
また、自分の無力さを思い知るだけだぜ、という声に耳を貸してしまったのだ。
「ごめん」
叩きつけた拳を涙が打った。
ここまで送り出してくれた父の期待を裏切ることになるのが、何よりつらかった。
「私、やっぱりクソみたいな引きこもりだ」
「いいえ」
血と汗と涙に汚れた体が、ひょいと抱き上げられた。
「え」
「あなたはこんなに頑張ったじゃない」
「だ、だれ?」
嗅ぎ慣れない香水の香りと、柔らかな体の感触で、それが女であることは分かる。だが、どんなに必死に顔を動かしても、その顔は逆光で見えなかった。
この曇天にも関わらず。
「私、前に聞いたわよね。お父さんもお母さんも、あにきもおねえちゃんもいなくなったとき、あなたはどうするのかって」
女の肩を伝ってやってきた猫が、千晃の頬を舐める。
病院の前ではやたらと尻尾の多い狐が澄まし顔で待っていて、女が近づくと前脚を上げて自動ドアを開けてくれた。
「あなたの答えは見届けさせてもらった」
「む、むらさき?」
「さぁ?」
エレベーターに揺られる間、千晃は少し怖くなった。
この先でハジメが待っているのは間違いない。ただ、二週間も寝たきりで、飲まず食わずだった彼がどんな姿でいるのか、見るのが怖かったのだ。
「私、ここまで来たけれど」
謎めいた女は軽く首を傾げて、先を促した。
「あにきをどうすればいいんだろ。あいつ、ずっと目が覚めないのに」
今さらといえば今さらすぎる疑問に、女は声を上げて笑った。チンと音を立ててエレベーターのドアが開く。消毒のにおいが強くなる。
「あなたは引きこもりでしょ。なら、自分の殻に引きこもっている彼の気持ちもよく分かるはずよ」
「だッ!」
それは車いすに千晃を乗せてやりながら。女の漏らした一言は聞き捨てならなかった。
「だれが引きこもりじゃいコラぁ!?」
拳を振り上げて背後を見ても女の姿はない。寒々とした廊下だけ。女は現れたときと同じく、唐突に姿を消してしまった。
「後で掲示板にミソクソ書いてやる」
舌打ちしながら千晃は車輪を送った。
「でもありがと。礼は言っとくから」
それからは倒れたナースやら見舞客やらを避けたり避けきれなかったりしつつ、
「あうう」
「わあああ、ごめんなさい!」
ひたすら進んだ。
むらさき(かもしれない)の言葉はまだよく分からない。引きこもりの気持ちが分かったところで何をすればいいのか。
ハジメの病室にたどり着いてもその問いに答えが出ることはなく、千晃はゆっくりと車いすを乗り入れた。
「あにき」
――――あぁ。やっぱり、もうすこしだけ準備して来ればよかったな。
ベッドの上。弱ったハジメの姿。
結局何も言うべき言葉を用意できなかった。ただ、彼の手を取って、千晃は枕元のリンゴを見つめる。
「そうだね。きっと、私には分からないくらい大変なことがあったんだろうね」
窓の外では地上の月が煌々とした明りを放っている。
「外は、やっぱり大変なところだったよ。ここに来るまでに散々な目に遭ってさ。あにき、いっつもこんなところを学校まで通ってるワケ?」
彼に対して軽口以外の冗談を口にするのは久しぶりだった。ひとりでくすくす笑って、千晃はハジメの胸に顔を押し付けた。懐かしいにおいがする。
「辛いのは私だけじゃなかったんだね。みんな本当は引きこもりたいくらい辛い目に遭ってるのに、歯を食いしばって頑張ってるんだ」
窓枠に登った猫と狐が千晃を見つめていた。
「お願い。私、頑張るよ。ガッコーに行く。空気も読む。あにきに迷惑はもうかけないから。最後のわがままをきいて」
千晃はハジメのにおいを吸い込む。
これから呼ぶのはなんてことないただの呼び名だが、今は呪文だ。
「おねえちゃんを助けてあげて――――
厚雲を断ち割り、原初の炎を呼び覚ますための。
◆◆◆
「おい」
ハジメは長い間目の前のそれを見極めようと必死になっていた。
ついさっき空港のロビーに降り立って、今自分と正面衝突をかました男の顔。
「おい坊ちゃん。俺ぁさっきから大事ございませんかって聞いてんだよ。あ?」
この大げさな演技めかした声。忘れもしない。
何度も見てきた。あまりに長い入院生活、退屈な夏の午後。金曜の再放送。とんでもなく長い時間をこの男を見つめて過ごしてきた。
「ジョン、マクレーン……?」
野沢那智の声で話す、ハゲてないブルース・ウィリスはハジメの胸ぐらを掴んだまま、実に味のある口のすぼめ方を見せてくれるのだった。
第二十三話『紅霧異変』おわり