「見舞いに来たのですが」
最近ぼんやりしている。
消毒と薬品のにおいが充満する冷たい廊下。病室から逃げ出すように転がり出て、ソファに腰掛けているうちにしばらく意識を飛ばしたようだ。
「あぁ。ありがとうございます……その?」
「鶴見君とはちょっとした知り合いでして。前に仕事と、ええと、プライベートでお世話に」
ハジメの父があくびをかみ殺しながら立ち上がり、病室へと案内するも、別段壮年の男は気にした様子は無かった。
「息子も喜びます。わざわざこのために?」
意識不明のままかれこれ二週間。
「私の部下も入院していまして。二人を見舞いに」
全身の打撲、骨折、切創、刺創、極めつけは右太腿の銃創。
どこで、なぜ、そんなものを抱え込むハメになったのか。彼の息子は語らない。
医者が回復の見込みはないと言った時から、父はまた、言い訳をするように激務に身を浸すようになっていった。
「息子さんは友だちが多いようですな」
提げていた包みを持ち上げてから、壮年の男は困ったようだった。
サイドボードにも棚にも土産がぎっちりと敷き詰められていた。中には謎めいた風呂敷だったり時代めいた香炉だったり、どこの誰がこんなものを持ち込んだのか首を捻らずにはいられないような物まで混ざっている。
「すいません。お預かりします――――最初は学校の子たちが日替わりで来ていたんですが、そのうち変わったコも来るようになって」
「変わったとは?」
「見た目は普通なんです。ただ、物腰が浮世離れしているというか。それに俺ぁ見ていないんですが、ナースの話だと昨日の深夜に狐と猫までやってきたらしくて」
「はは。まさか」
「それが行儀よく並んで待合にいたらしいです。アレをくわえて」
枕元に油揚げや玉虫の死骸まで持ち込まれて、死んだように眠るハジメは少し迷惑そうに見えた。
「それで、その変わった子とやらは何か言っていましたか?」
「故郷に帰るからお別れをと」
なんのこっちゃ、と父は頭を掻いた。しばらく風呂に入っていない。自分でも少しにおう。
「いけない。そろそろ家に帰らなくちゃ」
腕時計を確認して出て行く父に軽く会釈して、壮年の男――――今井はワイシャツの襟を緩めながら、石彫りのようにどっしりとイスに体を預けた。
ふと窓際を見る。午後の日差しが心地よい風に乗って病室に吹き込んできていた。
相手は聞いているはずもないのに、今井は言葉を慎重に選んだ。
「鶴見君。じつは、俺も別れを言いに来た」
この声が少しでもいいからハジメの眠りの中に届いてくれないものかと祈りながら今井は続ける。
「俺たちが思っていたように――――いや、それ以上に万場という男、たち、は強かったみたいだ。強がって俺は手も足も出なかったし、寺田は、あいつは勇敢に戦って、それで今も集中治療室だ」
人間離れした狡猾さ。そして、並行世界からいくらでも代わりの命を引っ張ってくるという不滅性。加えて警察組織という後ろ盾までついている。
「やめるか死ぬか。そういう提案をあの後くらった。金は貰ったから、俺は家元に帰って兄貴の農園でも手伝って隠居するつもりだ」
こんな幕引きは嫌だと、正義の味方に憧れ、最後までなれなかった男の固く握りこまれた拳が言っている。
「大人は、こんなにズルいんだな」
パジャマの胸が上下している。その動きはあまりに穏やかだった。
「…………今。ヤツらはあの廃墟で必死に瓦礫を掘り返してる。表向き、あのビルの解体工事だと言い張って」
そういえば初めて会った時もこの場所だったな、と今井は遠くに見える焼け跡に視線を馳せた。
「たぶんあの下には何かがある。あいつらにとって最も都合の悪い何かが、まだそこに眠っているんだと思う」
束の間、穏やか過ぎる呼吸が止まったような気がした。閉ざされ続けた瞼が開いたような気がした。
が、それは全くの幻視だったらしい。
今井はごまひげをさすって、イスを引いた。
「すまない。とんだ無駄話だったな。おっさんは帰るよ。いろいろ整理しなくちゃいけなくて。そうだ、持ってきたリンゴ、よかったら食べてくれ」
去り際に持ってきた包みから林檎を一つ取り出すと、今井はハジメの枕元に置いてやった。
「今年のは特にいい出来だそうだ」
病室をあとにしつつ、今井は一度振り返った。ハジメはやはり、細り切った体で横たわっているだけだ。
◆◆◆
「帰ったぞ」
千晃の部屋の前にコンビニの袋を下ろしてやりながら、父は疲れたようにドアの前に腰を下ろした。
「……クソあにきは?」
一週間ぶりに部屋の主が姿を見せた。
からからと車いすを押してやってきた彼女の片足にはギプスが巻かれている。全身傷だらけの彼女の体からは、汗に混じって消毒のにおいがした。
また部屋に引きこもりはじめてから、だいぶやつれたようだ。
「今日もダメだった」
「そ」
袋をガサガサやって紙パックのジュースを取り出すと、千晃は乾いた唇にストローを咥えた。じゅじゅじゅ、という下品すぎる音に父は思わず噴き出す。
「お前は相変わらずマイペースだな」
「空気読めないのは今に始まったことじゃないからね」
「風呂沸いたから俺の前に入ってこい。さすがににおうぞ」
「は? 私のどこが――――」
びろびろに伸びきったシャツの脇の下に鼻を突っ込んでみて、千晃は軽くえずいた。
「ぐええ」
「おい千晃、マジか」
「くっさ。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「そうしろ。幽香さんが見たら、きっと怒る」
千晃から返ってきたものは同意ではなく、ぽかんとした表情だった。
「あの人が、なんで?」
「……いや、なんでもない」
退院してからずっと千晃はこんな調子だった。
あれほど慕っていた幽香を「あの人」と呼ぶようになり、ビルでの出来事を聞いても「覚えてない」「忘れた」と返すばかり。
「へんなお父さん」
きっとあのビルでひどいことがあったのだと思う。
「そうだな。どうにもぼんやりしてて」
平然と廊下で服を脱ぎ散らしていく千晃から目を反らして、父は携帯を取り出した。数週間前のニュース。二度目の爆発事故。人型の飛行体。
『つい先ほど三度目の爆発が起こりました。繰り返します、近隣住民からの光が見えたとの通報の後どうわあああああ!』
アナウンサーの無様をふっと笑って、父は画面に映る四度目の爆発を見つめる。
ネットではどちらかといえば彼のリアクションの方に注目が集まっていたが、そこを飛び回る人型も長らく議論の的となっていた。
画素数の荒い映像では、何度見てもそれは赤い点と金色の光でしかない。
だが、父には消えた二人の家族の姿がどうにもチラついた。
「おっと」
立ち上がろうとした父は立ちくらみを覚えて壁に手をつく。力の全く入らない肘がぐんにゃりと曲がって、そのまま彼は床にしりもちをついていた。
「お父さん!?」
車いすを押してくる下着姿の千晃を、彼は手で制した。
「いや大丈夫。最近よくある」
「よくあるって」
どこかにガタが来たか。
ぐるぐる回る視界に耐え切れなくなって目を瞑ったまま、父はよろよろ立ち上がると寝室へ消えていく。
「おねえちゃん」
それを見送ることしかできないまま、千晃は我知らずその名前を口にしていた。
「私、どうすればいいの?」
庭ではすっかり咲きほこったヒマワリが、四月の風に揺れている。主人の帰りをひたすら待つように。
◇◇◇
知る必要がある話と、
必ずしもそうでない話がある。
ここからはそういうものだ。
少なくとも、この世界線の万場幾絵はいい顔をしないだろう。
◇◇◇
肺が焼けたのか、うまく息ができなかった。
あたり一面のヒマワリ畑は燃えていて、天をも焦がす勢いで業火が立ち昇る。
「こんなに、強く、なったのにね」
炎に包まれた太陽の畑を、最強の妖怪と呼ばれた風見幽香は駆けていた。
追われていた。
「あっ」
傷付けられた腕を庇いながら走っていると、不意に足を取られて彼女は転んだ。それは骨だ。かつて彼女がいたずらに殺してこの場所に埋めた何者かの頭蓋骨が、恨めしげに彼女を睨んでいた。
「…………このっ!」
彼女の人睨みでそれは焼かれて砕かれた。黒く焼けた血を吐いて、幽香は再び走り始める。幻想郷の終端。大結界を目指して。
「逃げれば逃げるだけ、苦しい思いをするわよ」
ひまわりの下に、日傘の妖怪が立っている。わき目も振らずに幽香は彼女の前を駆け抜けた。
「あなたはもう長くない」
その先々で同じように彼女は待っていた。
傾きがちの日傘の下から見える彼女の唇が、小刻みに震えている。足元にすり寄った狐と猫が憐れむような目を幽香に向けていた。
「あなたはおかしくなって、何もかも壊して、殺して、消える。その前に打つべき手を打たせてもらうわ」
「勝手ね……!」
幽香の放った閃光は日傘の妖怪にかすりもしなかった。
「あなたは幻想郷の抱える、最初の負債よ」
無力感に打ちひしがれる幽香の背後から無数の光弾が地面を砕いて迫る。満身創痍の幽香には避けることができない。
「嫌」
意識が一瞬途絶え、次に目が覚めた時はひまわりの林の中に倒れていた。
「幽香、どこ?」
赤いリボンの揺れる黒髪が、すぐ傍の道を抜けていく。
「これ以上、あんたもあんたのヒマワリもいじめたくないの。出てきなさいよ」
幻想郷の守護者は束の間頭を抱えてうずくまったようだった。
「…………ホント、どうしてこうなっちゃったのかしらね」
幽香を覆い隠すひまわりたちが静かにしろ、と囁きかけてくる。
その理由を彼女が問いただす前にあさっての方向でひまわりの茂みが一斉に揺れ始め、霊夢の輪郭が青白く輝いた。
「ダメよ!」
意志を持った極彩色の光球が囮めがけて殺到し、炸裂の後、そこには奇麗に半球状に削り取られた大地だけが残されていた。
「さすがに花はお友達ってコトか。見たでしょ幽香、これ以上隠れるなら私はここらの畑全部…………ああもうッ!」
たった今自分が行った仕打ちによほど腹が立ったらしい。目元を真っ赤にした霊夢が地面を蹴るなり、衝撃波がひまわりの太い茎を根元からへし折り、彼女自身は音速の弾丸となって遥か彼方に飛び去った後だった。
「ありがとう。ごめんなさい」
今まさに炎に呑まれて消えていくひまわりたちがバイバイを告げる様に揺れていた。
「ごめんなさい」
どこまでも強くなって、何もかも守れると思った矢先。
見つかったものは消滅の運命と自分の限界だけだった。どこまでもどこまでも天を目指して伸び行くひまわりにかつては憧れたものだったが。
「ごめん、なさいっ」
何度も何度も幽香は転び、泥だらけになりながら果てを目指した。やがて最後の一本のひまわりに見送られて、それからはひたすら岩と砂だけの寒々とした景色の中を走り続けた。
そして時間の感覚すらあいまいになる頃――――月明かりの下、それが彼女を待っていた。
「なに、これ」
あまりの冗談に笑ってしまいそうになった。
それは文字通りの壁だった。道の果てに、奇麗な立方体に切りだされた巨大なコンクリートの壁が幽香を阻むようにでんと鎮座していた。
「これが大結界?」
さらさらとした表面を撫でていた掌を離すと、すぐさま幽香は最強のげんこつを大結界めがけて繰り出した。
「こんなものっ!」
ヒトの作ったもので風見幽香の進撃を止めることはできない。それは間違いない。
だがこの巨大な塊はうつろう大結界がいたずらに映し出した外界の断片でしかなく、それに気づいたときには幽香は結界の反作用で弾き飛ばされた後だった。
「そんな」
壁には穴の一つも開かなかった。
あざ笑うように無傷で佇む壁は、まさに幽香の限界を象徴するものだった。
「嘘」
何度拳で壁を打っても。
「嘘よ」
何度幽香が邪険に突き飛ばされても。
「こんなところで、何もできないまま、終わりたく、ない」
壁は依然として静かに佇み、無駄な努力に費やす力もなくなって這いつくばる一匹の妖怪を睥睨していた。
「いやよ」
過去を知る最後の一人を葬ってから、もう絶望などすまいと誓ったはずなのに、彼女の心に立ち込めるのは日差しの一筋も通さない暗雲だった。
遠くの空をふわふわ飛んでこちらへ向かってくるのは見慣れた紅白の巫女装束だ。もはや抵抗する気力もない幽香は頬を濡らす血を拭って地面に捨て、壁にもたれてその時を待った。
『人生、マジでうまくいかねぇ』
その呟きが届いたのは、いっそ自分で全部終わらせようかと考え始めた時だった。
「え」
『あぁ――――あぁ、クソ。俺は一体何やってんだ』
壁には大きな赤い円が描かれていた。
金属の表面を削ったように薄れた壁の向こう側に映るのは、黒髪の、外界の恰好に身を包んだ青年の姿。スプレー缶を片手に彼が覆った目には、幽香と同じく暗雲が渦巻いている。
「本当、運命って理不尽ね」
おそらく向こう側からは何も見えないのだろうか。
おずおず立ち上がった幽香は、彼が壁についた手に、自分の掌を添わせていた。
『そんなことは分かっていたさ』
「そうね。絶望、しちゃうわね」
『――?』
明らかに様子の変わった青年は、自分の掌を見つめていた。
『今、何か』
壁越しにも伝わったぬくもりを確かめようと彼はもう一度手を伸ばしてくる。それがなんだかおかしくて、幽香のイタズラ心に火がついてしまった。
壁を軽く叩いてみる。しかし反応はない。
「ふうん。それじゃあ、どうしましょう」
考える傍から、彼女の頭に答えが浮かんできた。同じことをしてやればいい。
「じゃあ、これは?」
体を濡らす自分の血を拭い取って、彼女はふと考えた。そして微笑む。幸いにも、今日はどうやら頭が冴えているようだ。
彼女が円の周囲に赤い放射線を書き加えていくと、効果はすぐ現れた。
鳩が戦術爆撃でも食らったような顔でよろよろ下がっていく青年を見るに、怖がらせすぎちゃったかな、とも思ったが。
『ははっ』
彼には意図が伝わったらしい。
「うふふ」
二人とも血と塗料にまみれて一心不乱に手を動かすうちに、それが壁に描きこまれた。
赤い円と、その周りを覆い尽くす線。
ひまわりであり、お日様であり――風穴だ。
『長い間警官やってると、不思議なこともあるもんだ』
「幽香。もう気は済んだでしょう?」
壁の向こう側とこちら側。
ひまわりを描いていた二人は、同時に振り返った。
「幻想郷から逃れる方法は絶対にない。そんなことがあるとすれば」
言いかけて、霊夢は首を振った。
「そのヘタクソ、おひさまでしょう?」
『こんなかわいいお花を見たのはこれが初めてだよ』
「確かに言われてみればおひさまかもね」
『花。あぁ、そう言われればそうかも』
一緒にひまわりを描いていたと思うだけに、幽香は軽くむっとする。
「お花でしょう?」
『いや、花だろう?』
『花ですね、きっと』
二人から一斉にツッコまれて、壁の中の青年は少ししょげたようにも見えた。それがおかしくて、幽香はつい笑った。霊夢の緊張もすこし和らいだようだった。
「何か、いいことでもあった?」
「それなりに。いい思い出が出来たわ」
「そう」
幽香は振り返る。向こうも振り返っていた。間に風穴を挟む。
「それじゃ、終わりにしましょう」
世界が、宇宙全体が、もう少しだけこの形に近づけばいいと思った。シンプルで、底抜けに陽気で、もっともっと風通しのいい形になればいいと、心の底から思った。
「ありがとう」
『ありがとな』
青年の指が持ち上がる。その先に、その瞳に、その背後に、巨大な力の渦を見た。
『ばん』
霊夢によって浮かべられた無数の光球が炸裂するよりも早く、途方もない距離を駆けた黄金の弾丸が幽香の心臓を貫いた。
「あ」
熱い。彼女の血を巡った太陽の輝きが彼女の力の限界を粉々に打ち砕き、かわりに新しい形をそこに刻印する。鶴見ハジメの幻想。すべてが元通りになった、家族の姿。
その夢に添い遂げたいと思った。
「それなら、私は」
ここで立ち止まることなんてできない。
「あんた、その力、いったい」
極彩色の爆風が吹き荒れた後。無傷で荒野に佇む幽香の姿を見た霊夢の驚きといったらなかった。
「さようなら、霊夢」
「ダメよッ!」
不敵に笑った幽香は霊夢に背を向けると、壁の日輪めがけて勢いよく飛び込んだ。
そこは灰色の風が吹き荒れる虚無だった。幻想郷と外界。二つの世界からつまはじきにされた世界の断片が小惑星帯のように漂う。
まるで宇宙空間だ。
「そこね。そこに、あなたはいるのね」
彼方に輝く巨大な星を見つけた瞬間、黄金の血が旧い力を呼び覚ます。
純白の翼を広げた幽香は数万光年の距離を駆ける。
「邪魔あッ!」
行く手を阻む断片を光線で切り崩し、尚も幽香は飛び続けた。たったいちどの羽ばたきで光の速度をも軽々と超え、たった一つの感情に敗北した相対性理論に中指を立てて。
何日も。
何週間も。
それはどこまでも、どこまでも、いちずな飛翔だった。
ならば恋だったのだろう。全てが始まるよりも早く、彼女の愛は燃えていたのだ。
「助けて、くれ」
そして。
「いいわ――――あなたを助けてあげる。とりあえず、この場はね」
そして降り立った、燃えるビルの中。もう一度奇跡を起こして見せろと幽香はハジメに告げるのだった。
◆◆◆
「――――う、あ」
目を醒まして、幽香は体を内側から焼くような激痛に呻いた。
「ろ号、覚醒しました」
シリンジを持った防護服姿の男が下がっていくにしたがって、廃墟に充満する闇の中から黒いスーツの男が現れた。異様な長身。大理石の皮膚を持つ、単眼の怪人だ。
「なぜ。なぜ、私は」
「あなたの胸ポケットに、これが」
男が無表情に差し出したものを見ようとして、幽香は絶叫した。神経を火であぶられるような痛みは際限なく強くなっていく。
「お気に召しましたか」
万場はもう一度、指の先につまんだ金色の輝きを横たわった幽香の鼻先に突き出した。
しかし、それはただ単に廃墟を埋め尽くす重機の灯光で輝いて見えていただけらしい。折れてひしゃげて血に汚れ、その上中央に二つ目の穴が開いた五円玉だ。
「そんな」
すべてを貫き、幽香の心臓を再生不可能に叩き潰すはずだった弾丸は、直径たった二センチほどの金属板によって阻まれていた。
「そんな、ばかなこと」
奇跡はいつも、望んだ形で起こってくれるとは限らない。
「脊髄への50口径の直撃。それに加えてあなたの目覚ましはどんな怪物でもたちどころに死ぬような毒のカクテルだったんですがね。頑丈だ」
「――――ふふ。そうか。あなたが」
万場は撤収をはじめた重機の群れを束の間見つめ、遠巻きにしていた機動部隊へと顎をしゃくった。彼らがブーツの底をタイルに鳴らして近づく間、ずっと幽香は静かな笑いをもらしていた。
「恨みますか。それもいいでしょう」
万場は異形をさすった。
「これ以上私の体に呪いを受け入れる余地があればいいのですが」
「いいえ。むしろ感謝しているわ」
「ほう」
「あなたたちが私の幸せを土足で踏みにじってくれなければ、私はきっと、もっとハジメが欲しくなっていたに違いないから」
「あなたは女だ」
「えぇ。どうしようもないくらいに」
二人はしばらく吹き抜けから差し込む陽の光を見上げていた。機動部隊の数人が、困ったようにその視線を追う。
「そうだ、言っておくけれどまだ少し暴れる余裕はあるわよ。あなたがこの先ハジメたちに手を出すって言うのなら」
「その必要はありません」
想像を絶する痛みに意識を焼かれながら、幽香はそれでも美しかった。激痛にのけぞり、血を振り絞る姿は妖艶ですらあった。
「プランBは完遂されました。鶴見ハジメに脅威性はもはや存在しません。彼はあの一件の直後から、かれこれ二週間、昏睡状態です」
その一言を聞くまでは。