誰もが日常を謳歌する中にありったけのガラクタを降らせてみたらどうなるか――――なんて、集団心理の実権をしたいなら今のF市こそがうってつけだろう。ついでに光線を縦横無尽に吐き出すビルも突っ込んだ時の反応を確かめたいなら、これ以上の好機はない。
「なにアレ」
「なんかのイベントじゃねえの」
「いやマジでヤバくね? めっちゃ崩れてるし」
誰もが口を閉じることも忘れて、それを見上げていた。
「おい、下がれ、落ちるぞ!」
去年の冬のことだったか。とある爆発事故によって工事の中断された高層ビル。そのワンフロアが爆炎を吹いて、まるまるダルマ落としのように消し飛んでいった。
わっとざわめきが上がる中でビルが大きく揺れて、地面に叩きつけられた一軒家ほどもある大きさのコンクリート塊が散弾のように破片をまき散らした。
眠っていた怪物が急に目を醒ましたようだった。
「え、ウソでしょ。やばいやばいやばい!」
騒ぎながらも冷静にカメラのレンズを向け、シャッターを切る人だかり。
通りにひしめき合う彼らは崩壊一歩手前のビルから泥の流れのようにゆっくりと退いていっているのだが、一人流れに逆らって歩くものがいた。
「てめ、押すなよ」
乱暴に肩を押しのけられたクルーカットの若者に肩を掴まれて、そいつが足を止めた。
「黙れ」
しゃがれた声で軽く帽子のつばを上げてみせる。
おびただしく立ち上る蒸気の奥にぶら下がった頬肉とむき出しの歯列。彼に瞼はなく、ぎらりとした紅い瞳が明確な敵意を秘めていた。
「通せ。邪魔だ。のけ」
半分溶けかかった何かは、おぼつかない足取りでビルを目指してひとごみを突き進んでいく。
「あ……やっぱり、フラッシュ、モブ、的な?」
肩にへばりついた肉にも気づかずに茫然と言い放たれた声も聞こえない。
進み続けた彼は、やがて黒煙を噴き上げるビルを見上げ、そして屈んだ。背中の肉が服越しにも分かるくらい大きく盛り上がっていく。
「待っていて、ください。今、行きます、から」
そして姿を現したものは骨とむき出しの肉だけの、あばらみたいな翼だった。
「やめなさい」
それが通りの幅いっぱいに広がり、羽ばたく寸前で横から伸びた手が彼を細路地へと力任せに引っ張り込んでいく。
スニーカーとスラックスの隙間から見える足首は肉の剥がれた骨でしかない。
よたよた頼りなく踏ん張りもつかないままに引き込まれた路地の壁に、彼の体は押し付けられた。
「はなせ。今はお前の相手なんてしちゃいられないんだ」
嗅ぎ慣れた香水と、見慣れた姿。
「ダメよ。今度こそ死んじゃう」
「ここで何もできない方が、死ぬより――」
底から先は言葉にならなかった。胸に押し付けられた紫の顔。
シャツの胸元が濡れるのを感じながら雪之丞は帽子を脱ぎ捨てる。半分肉を剥がされ、回復もままならないままにここまでやってきた。
「ひどいわね」
「昨日までは頭だけだった。まだマシさ」
通りの外から聞こえるどよめきが一層大きくなり、頭上に見える高層ビルが黄金の火を吐いた。
「お前、自分が何してるか分かってるのかよ」
爆炎の中から身をひるがえして、三対の翼を持った人影が飛び出す。明らかに怪我の具合が重篤だ。追って飛び出した光の塊が空中で何度も爆発しながら彼女に光線を放つ。
「ユキ」
曇りなく澄み切った空気の中に飛んだ血飛沫。
たまらず飛び出しかけた雪之丞を紫が再び引き留めた。
「お願い。これがあの二人の最後なの」
「お前に何が分かる。いつだってそうだ。全能ぶって上から指図ばかりしやがって。結局お前は何もできちゃいない」
「そうね」
大妖怪の名をほしいままにした女怪は、威厳をかなぐり捨てて雪之丞の胸に強く顔を押し付けていた。
「私は、あの子たちに何もしてあげられなかった」
強く胸を拳で打たれる。
雪之丞の体はようやく皮が張り始めたばかりだったので、子供用の太鼓じみた間の抜けた音が響いただけだったが。
「彼らの敵になってやることですら」
途方に暮れて雪之丞はビルを見上げる。
そこで繰り広げられる、終わりへと突き進むだけのむなしいダンスに爪先を突っ込んでやることもできない。
いつしか、彼は獣のように咆哮していた。
◆◆◆
窓ガラスをぶち破って室内に逃げ込んだ幽香は、焼け焦げたフローリングの上を横滑りしながら瞬時に極大の光線を三連射した。
「っ……痛」
光線の網を縫って外壁を金色の光が駆け抜けていき、幽香は刺すような痛みを頭に覚える。
「いた、い。ですって?」
こそげた額の肉の代わりに戻ってきたものがある。
腕を骨ごと焼かれても、叩き潰されても、一晩中鳥の怪物に痛めつけられても得られなかったものだ。
「………………あぁ。今日はあなたに贈る日なのに。本当、貰ってばかり」
血のしずくが床を打つ。
『風穴をぶち開ける程度の能力』の恐ろしさを、相手にして再認識した。燃える弾丸に貫けない防御は存在せず、直撃をもらう度に癒えない傷が増えていく。
風見幽香は信じられないことに圧され続けていた。
「強くなったわね」
にわかにあたりが明るくなった。
穴だらけの天井から差し込んだ強烈な閃光に、幽香は弾かれたようにその場を飛び退く。一拍子遅れて黄金の弾丸が雨のように降り注ぐ。攻撃は幽香が反撃の閃光を天井にお見舞いするまで続いた。
しばらく差し伸べたままだった右腕を、幽香はだらりと垂らした。いつの間にか上腕に向こう側が見えるくらいの大穴が穿たれている。
それを宝物のように見つめながら、幽香は瓦礫の山を下りてくる気配に備えた。ズタボロで傷だらけで、それでも、最後まで彼の好敵手でいようと、気を引き締め直す。
「手加減してくれてるのか?」
それだけに姿を現したハジメと、彼のことばは、その弾丸より深く胸をえぐった。
『やっぱり、あんたは強いよ』
そう、いつものように呆れて笑ってくれることを心のどこかで期待していただけに。
「これは実力の何万分の一だ? 何千? それとも何百?」
悲しいくらいの全力だ。嫌味もなく言ってくれるハジメは、きっと幽香がもっと驚かせてくれることを警戒しながらも楽しみにしているのだろう。まだまだ踊れるよな、と。燃える瞳が語りかけてくる。
決してハジメは実力の上で幽香を圧倒しているわけではない。彼女の光線がほんの少しかすれば彼の肉は焼け焦げ、拳や蹴りを受ければ骨は肉を突き破り、二度と元にはもどらない。彼は無傷でなければ戦い続けられないというだけなのだ。
それに加えて、ハジメは幽香の戦いをすぐ傍で見続けた。
「二歩、下がるからな」
腹の底をノックするような響き。室内に立ち込める塵が真っ二つに分かれる。かつてゴミ箱に頭からダイブする機会を作ってくれたありがたい衝撃波だ。
「二歩で十分だ」
身を持って知っているからこそ、間合いの取り方は完璧だ。
直撃しなければなんてことはない。そよ風同然に威力を減衰させた衝撃波をやり過ごして、そこはハジメの独壇場となる長距離だ。
「蝸牛の怪異とあんたの戦いで、うっかり惚れかけた」
幽香の姿が霞む。ハジメは更に数歩下がると、虚空に向けて次々と炎を放っていく。
「今でもあんたは速すぎて見えないけれど。消えたままでいられるのは一瞬だけなんだろ?」
コンクリートの柱を叩いた弾丸が四方八方にはじけ飛ぶ。
跳弾をかわし、幽香の間合いの外を保ちつづけ、くるくるとバレエでも踊るように回り続けるハジメ。
室内を黄金の軌跡が埋め尽くす頃、最初の一発が姿を現した幽香を背後から貫いた。
「ぐ」
一度足を止めればそれが命取りだ。
ハジメの前でようやく漏らした苦悶の声は、彼女の全身を滅多打ちにする炎の豪雨によってかき消された。
◆◆◆
「いい眺めですね」
F市はさびれたドン臭い町だ。
ちょっと前までは凶悪事件の一つもなかった地方都市を不思議な熱狂が包んでいる。ひしめきあう人だかりを見下ろす万場の目はさめていたが。
「今井さん、見えますか。
万場に促されてヘリを降りた今井は、返事代わりにがちゃがちゃと後ろ手の手錠を鳴らした。
「たった一滴を町に垂らしただけで人はここまで集まる。蛾が火に集まるように」
私立病院の屋上からは、例の焼け跡がよく見えた。
ヘリポートの回りにはすでに野営地さながらに飾り付けられ、今井が見たことのないような巨大な銃を男たちが数人がかりで運んでいく。
「あれが何かご存知ですか?」
「少なくともパーティークラッカーには見えないな」
苦し紛れの軽口にニヤリともせずに万場は焼け跡を見つめる。外壁を這いまわる戦いは終わり、今はその内部で熾烈な決戦が繰り広げられているようだ。
「対物狙撃銃というヤツです。相手が建物や車両でも一定の効果を発揮してくれます」
射手が祈るようにマガジンへと込めていく弾薬は大男の親指ほどもある。死の指に指されたものが人間であった場合を考えるだけで、今井の脳裏にはイヤな想像が描かれていった。
「おいお前、ガキんちょ一人撃つだけで金がもらえるのか。いい仕事だな」
彼が黙々とスコープを調整する手は休まらない。そのかたわらでスチール製の脚がボルトで固定されていく。
「そのガキんちょが撃たれるのを指咥えて見ているだけでお金をもらえるのも十分割のいい仕事だと思いますが」
「こいつを外せば今すぐぶん殴ってやるさ」
あの教室で行われたことが最悪の出来事であったと信じたかったが、万場の口からプランBの全容が明らかにされるにつれ、それは間違いで、たった今この瞬間がそうなのだと今井は気付かされた。
「あなたは優しい人だ。本当に数百年前だったら聖人にでもなれたかもしれない。もしくは、英雄か」
「お前はどの時代でも悪魔になれそうだな」
「あぁ、皮肉屋もお似合いだ」
大理石の肌を触って、万場はゆっくりと頭頂までを撫で上げる。つるつるとした表面に青空がまぶしい。
「あなたは優しいから、きっと我々が席を外せば鶴見君を逃がすと思っていました。鶴見君はご家族を大切にしますから、一目散に逃げることはまずない。本来ならそこで、我々が既に家を抑えているはずでしたが」
「い号が戻った、と」
「どちらにしろ妹さんは人質になり、ろ号はじつに空気を読みました。我々は最小の人的被害と一発の弾丸で世界を変えることができるのです」
「その人的被害の中にあの二人は組み込まれているのか?」
「僕たち、というか我々は妖怪変化を人の内には数えませんがね。あれは害虫と一緒です。庭の管理を怠ればどこからか沸いてきて、不快な卵を産み付けていく」
顔を撫でる万場の指先と、彼の平坦な語気にほんの一瞬だけ力がこもった。しかしスーツの怪人はそれ以上を語らない。
「……大事なのはタイミングを見極めることです。どんな大砲であれ、どんな能力であれ、それを誤ればなんの意味もない」
完全に衰弱しきった寺田を振り返って、万場はその肩に手を置いた。うつろな瞳が見上げてくる。
「我々はただ、その瞬間を待つのみです」
◆◆◆
ハジメの能力はタガが外れてしまったようだった。
指先から弾丸を吐き出すことをやめ、日輪が彼の殺意を代行する。放射状に広がった槍がそれぞれ自律し、ミツバチのように舞い飛びながら黄金の弾丸をぶちまける。
「すぐ、終わらせてやるからな」
文字通りの蜂の巣にされていく幽香にはこの瞬間ですら彼の能力が成長を続けているように思えた。
「すっごく痛いわ。それなのに」
幽香の頬には血が、
「もっとッ! もっと強く、もっと強くだ!」
ハジメの頬には涙の筋が這っている。
「逆でしょ。もう」
涙が距離感をゆがめてしまったのか。
うかつに射程圏内に立ち入ったハジメめがけて、幽香は飛んだ。腹を貫き、顔面を光線で吹き飛ばす。試みるのは数えきれないくらいの年月で、数えきれないくらい繰り返してきた動作だ。
しかし、驚異的な機動を見せる光の槍がそれを阻んだ。
縒り合さって巨大な一本の槍を形作ると、幽香の右掌の傷を貫き、むごたらしく上腕の中を食い進んで肘から穂先が飛び出す。
「ふふっ」
昆虫標本のように壁に磔にされた幽香は、それでも笑っていた。
「終わりだ」
ハジメの背後で細く長く伸びた日輪が巨砲を形作る。
巨大な窓ガラスも壁も絵本のチーズのように穴だらけにされ、吹き込む澄んだ風が二人の髪とすれ切れた衣服を揺らした。
「終わりね」
全てを出し尽くした。
これだけしなければ、ハジメに自分を殺させることはできなかった。だが。
「悔しい」
ハジメに負けることではない。自分に負けることがだ。我が子のように育てていたはずのハジメにいともたやすく追い越され、その背中に指をかけることすら叶わずにここで終わってしまうことがだ。
叶うことなら、と思う。
「…………まだ。ほんの少しでいい。あなたと踊っていたいわ」
ハジメと踊るのは月夜の湖畔でも、花弁を散らせたベッドの上でもない。それらはあまりに欲をかきすぎていることを幽香は承知していた。
だから、ほんの少しだ。
運命に放り出され、忘れ去られてしまう前に、もう少しだけ悪あがきがしたかった。ハジメには華奢な女ではなく、大妖怪風見幽香の首級を上げさせてやりたかった。
幽香はそっと、右腕を気遣うふりをしながら肩口に無事な掌をあてがう。
ぼん。
彼女の右腕が付け根から水風船のようにはじけ飛んだ。
「ワガママな女でごめんなさい」
意表を突かれたハジメの追撃はワンテンポ遅れる。それで十分だった。
「幽香!」
一目散に駆け抜け、吹き抜けめがけて身をひるがえした幽香は翼を広げることすら叶わずに地階の床に叩きつけられた。だが、その程度なら動きは鈍らない。
「千晃、もう少しだけ付き合ってもらうわよ」
赤いワンピースをいっそう紅く染め上げた幽香は倒れたままの千晃を担ぎ上げた。苦痛にあえぐ彼女に小声で何度も謝りながら、吹き抜けを見上げる。
「千晃を――――クソッ!」
うろたえ、ハジメは急に眩暈を覚えた。危うく階下にまっさかさまに落ちるところで手すりに持たれた彼の目にぐっしょりと血でぬれた自分の脚が映る。
必死で気付かなかったが彼の足元は血の海だった。
「やべ。出すぎ……」
包帯をキツく縛るだけの原始的すぎる血止めをしつつ、傷口を焼いてしまうことも考えたが。激痛で意識を失うか、失血で死ぬか。どちらが先かという問題でしかない。
「お前、本当に妹のことも忘れちまったのかよ」
気力を振り絞って立つと、階下を覗き見る。すでに二人の姿は消え、非常階段に向かって血の筋が続いているだけだった。
◆◆◆
「――――で、たしかあなたは最初に私を殴ったのだったわね」
消し飛んだ肩は再生の気配がない。
赤い手形を非常階段の壁に点々と残しながら、幽香は休み休み上階目指して昇っていく。
「あそこで我慢できたのは、我ながらとんでもない進歩だったと思うわ」
ぽこ、と千晃の拳が幽香の背中を打った。
「おねえちゃんのどあほ」
浅い呼吸の切れ間切れ間から、千晃はうわごとのように言い放った。
「あにきと殺し合いって、本当にまじりけなしにそういうことかよ」
「えぇ。あまり、しゃべらない方がいいわ」
「うるさいな」
残り少ない体力をぽこぽこに費やしつつ、千晃は泣いていた。
「まだ間に合うよ」
「いいえ」
「わたしもついてたげるから。あにきに謝って、全部説明しよう」
「できない相談ね」
幽香は我知らず足を止めていたことに気付いた。肺がつぶれる様に苦しい。血なまぐさい息が喉奥からせり上がってくる。限界は近い。
「やめようよ。おねえちゃんもあにきも死んじゃう」
「大丈夫よ。ハジメは死なないわ。あの子はあなたが思うよりずっと強いもの」
千晃を下ろすと、幽香は自分の掌をじっと見つめた。そこで開いていく、小さな小さな、一輪の花を静かに手折る。
「それじゃあ、おねえちゃんはどうなるんだよ」
「私は――――遅かれ早かれ、こうなっていたと思うから」
そして鼻先に突き出されたその花を見た瞬間、千晃は全てを思い出した。
『くうん』
蝸牛の怪異。それに勇敢に立ち向かう兄と姉の姿を。
「この、花」
「いいわね。毎日一歩ずつでいい。ドアを開けて、あなたの立ち向かう世界の目に、あなたの姿を焼きつけてやりなさい」
そして、間もなくすべてを忘れるということまでも思い出してしまった。
「いやだ」
「大丈夫よ」
「そういうことじゃない。おねえちゃんのことを忘れちゃうなんて。そんなのイヤだ。これで終わりなんて。言ってたじゃんか。おねえちゃん、あにきの面倒なところが大好きだって。なのに――――」
妖気を込められた勿忘草の香りが、否応なく千晃を昏倒させた。
穏やかな寝息を立てる千晃がこれ以上悪夢にうなされないことを祈って口づけすると、幽香はまたふらつく足で遥か上を目指して階段を昇っていく。