「お前らどうしたの?」
ヘンテコなポーズであることは百も承知だい。
床にうずくまって頭を押さえた私と、冷蔵庫を背にもたれたおねえちゃん。電話の一本もなしに昼過ぎにいきなり返ってきた我らがくそあにきは、タオルで頭を拭きながら、台所の様子を物珍しそうに見渡した。
なんだよ。ヒトに散々言っておいてお前だって空気よめないじゃんかよ。
「千晃、そんなところにいると危ないぞ」
「どこかの誰かさんが無理やり入ってこようとしなければ大丈夫だよ」
あにきの侵入を阻止しようという私のミッションはたった五秒で失敗した。成す術もなかった。
「悪かったよ。次からは気を付ける」
ドアにオデコをストライクされた私に、あにきは肩をすくめて見せた。
最近になって知ったがこいつは思いのほか力が強い。私がドアを抑えていることにも気づいてはいなかったのかもしれない。
「ずいぶん早いお帰りね」
相変わらず演技のうまいおねえちゃんは涼しい顔で髪型を整えていた。
「台風がそろそろヤバいらしくてさ。この雷で駅前の方は停電しちまって、バスも電車も止まってるし。授業になんないから帰れって」
そこであにきは一度口をつぐんで、すんすんと鼻を鳴らした。
こいつ、なんだか犬みたいだな。
「甘いニオイしない?」
なんて目ざとい、じゃなくて鼻ざとい? ヤツ!
「いいえ。千晃はどう?」
おねえちゃんがヘーゼンと答える。ただし髪を梳く手は止まっていた。
「う、うううん。全然。においなんてゼンゼンしないケド!」
うう。私はやっぱりおねえちゃんみたいな落ち着き方は無理だよう。
「そっか」
私の隣を通って台所に侵入を果たしたあにきはほんの一瞬だけケゲンな顔をしていたけれど、それだけだった。中身も犬並で助か――――ってないよ!
「だだだダメだって。あにき、出てってよ!」
「はぁ。なんでだよ」
首を傾げたあにきの前髪からパラパラと水滴が私の顔めがけて降り注いだ。なんかムカつく。
「なんでも。昔っから言うでしょ、厨房は女子の、えーと、なんだっけ?」
「勢いで聞くなよ。国語苦手な俺が知ってるハズないだろ」
「あーもうとにかくっ! くそあにきはダメ。未来永劫永久立ち入り禁止!」
あにきをこれ以上先に進めるわけにはいかない。
「男子厨房に入らず、ね」
それまで私たちのやりとりを見守っていたおねえちゃんがくすりと笑った。
「幽香。お前もなんかさっきからヘンじゃないか」
「ヘン? どこが、どういう風に?」
むくれっぱなしの私を放り出して、あにきはふらふらとおねえちゃんの方へと向かった。もう私は眼中にナシかよ、けっ。
「ヘンって言うならあなたも。いつからこんなに疑り深いコになっちゃったのかしら」
「んだとぉ」
「なあに?」
白い歯を覗かせて笑うおねえちゃんの前で、くそあにきはがるると唸る。
「強がりやがって。構ってもらえて嬉しいくせに」
がっしょんがっしょん家じゅうの窓と雨戸が鳴っていたから、私のツッコミはあにきに聞こえなかったけど。私にはあにきのケツでふりふり揺れる透明な尻尾が見えた。こいつ、やっぱりは犬だ。
「さすがに男子厨房にうんたらは古いと思うけれど。多分千晃が言いたいのはソレのことじゃないかしら」
おねえちゃんは一瞬私に目配せすると、あにきのシャツの襟元を引っ張った。台風の中を自転車押して歩いたのがよっぽど効いたのかもしんないけれど、あにきの体は吸い寄せられるように私にとって最悪の方向へ向かった。
「うわっ、ちょっ、何っ」
「ほら、もう。こんなになってる。傘も差してこなかったんでしょう?」
つまりはおねえちゃんの方である。
あにきを捕まえて、おねえちゃんはぷちぷちと器用にびしょ濡れのシャツのボタンをはずしていく。あっという間に顔を赤くするあにきのだらしなさに妹としてはため息と苛立ちが募るばっかりです。つーかなんて羨ましいんだ。
「いいよ、もう。自分で脱げるから!」
「そう。じゃあ」
おねえちゃんがぱっと手を離す。
「あ……うん。それで、いい」
おいダメ犬。
「とにかく台所は食べモノを扱うところ。ちゃんと乾いた清潔な格好で入ってきてくれるなら、私達にも歓迎のしようがあるわ。ねぇ、千晃」
「う、うん」
私がおずおず頷くと、くそあにきはカンネンしたように首を振った。
「……わかったよ」
「それと、これからお昼準備するんだけれど。よかったら手伝ってくれるかしら」
「一応考えとく」
「ふふ。助かるわ」
「まだやるって言ったわけじゃねえよ」
妹の目には分かる。お手伝い確定である。
ぷいと顔を反らしてあにきがリビングに出て行くと、風船から空気が抜けるみたいに息をついたおねえちゃんが、小さく肩を下ろす。くそあにきは駄犬のくせに鼻だけは効くおかげで危ない戦いをさせられた。
「それじゃ千晃、ハジメが戻る間にお片付けしましょうか」
「あ、そうだ」
そこでようやくおねえちゃんが冷蔵庫の前から動いたのと同時に、なんということか、あにきが台所にトンボ返りしてきやがったのであった。
「わりいわりい。ちょっと飲み物だけ取ってく」
盛大にずっこけそうになった。こいつにはやはり私と同じ血が流れているのか、この土壇場での徹底的な空気の読めなさは。
「どうぞ」
と、おねえちゃんは言ったが、今度の表情にはちょっとだけ緊張が見えた。
「そこ、どいてくれ」
「なんですって?」
冷蔵庫をしゃくって、あにきはきまり悪そうに笑った。ほほえんだおねえちゃんの口の端が小さくひきつる。
「さっき言ったこと覚えているかしら」
「食べ物いじる時はきれいなカッコでってことだろ。じゃあ代わりに取ってくれよ。ドアの内側にコーラ入ってるからさ」
無理だ。
「無理よ」
一呼吸おいて、おねえちゃんが私と全く同じ答えを返す。当然だ。今冷蔵庫を開けたら、嫌でもアレが目についてしまう。こんなところで計画がバレてしまったら、あにきのクラスメートのみんなに申し訳が立たない。
「なんで」
「なんでも」
「やっぱりお前ら怪しいぞ」
ケゲン顔のあにきが冷蔵庫の扉に伸ばした手を、おねえちゃんが素早くつかんだ。
「おとなしく着替えてきなさい。そうしたら持って行ってあげるから」
「いいよ。つーかそれより一体なに隠してんだよ。気になるだろ!」
「なんでもないったら。ハ、ハジメ。いい加減になさい!」
わちゃわちゃと押し合いへし合いする二人はじゃれているのか、それとも本気でやり合っているのかイマイチよく分からない。どちらにしても私は蚊帳の外だからやっぱりムカつくけど。
「あ?」
「え?」
あにきが不意に天井を見上げたので、私もおねえちゃんもつられてしまった。首を上げる傍からあまりにくだらないフェイントに引っかかったことに気付いたがもう遅い。
「残念だったな。今日こそは俺の勝ち――――!」
鬼の首獲ったぜと言わんばかりの勝ち誇った笑いを浮かべて、無防備なドアにあにきが手を伸ばす。
「いい加減にしろって、私、言ったからね」
おねえちゃんがあにきの胸を軽く押した直後、ぼんと音を立ててあにきの体がすっとんだ。
「え、おねえ、ちゃ?」
ロープで引っ張られたみたいな勢いであにきはリビングに続くドアに呑み込まれる。どんがらがっちゃんとイスをなぎ倒し、その上に追い打ちのようにプレゼントの空き箱タワーがぼこぼこと崩れ落ちる。
「危ないところよ」
大惨事を前に手のひらをふっと吹いて、おねえちゃんは冷蔵庫のドアを開けた。
「は、はい。おねえさま」
ボーゼンとする私の前でおねえちゃんは焼きあがったばかりのスポンジ生地を取り出して、どこかへと持って行ってしまう。
「か、カラテ、かな」
あにきは随分力が強くなったみたいだけど、おねえちゃんはもっと強い。信じられないくらいに。
◆◆◆
ばっすんと音がして、リビングが真っ暗になった。
「あーあ」
何度目かのカミナリで、ついにウチも停電してしまった。
「ケイタイ、充電中だったのにな」
ソファの上で寝返りを打って液晶を確認すると、バッテリーは残り半分を切っている。別にパニックになったりはしない。そこまでケイタイに頼りっきりじゃないし。
「テレビは……あ、ダメかー。停電かー」
「なんのためのケイタイだ」
節々をさすりながらあにきが吐き捨てた。おねえちゃんの作ったチャーハンを食べている間は静かだったが、ごちそう様を言うなりぶつくさとさっきの一件の文句を呟き始めた。
「あにきってオトナゲないよね」
「何を隠そう大人じゃないからな」
これじゃどっちが年上なんだか。
あにきに言われた通りにニュースサイトを開いてみるけれど、さすがにさっきの今でここの停電についての情報は無かったけれど、かわりにこの台風についての特集がずらりと並ぶ。
「うわ、すっご。クルマひっくり返ってるし」
巨人が暴れまわった跡のように荒れ果てた田舎町。極めつけのように真っ赤な軽自動車が横倒しになっている。サイトの写真の説明にある地名を見る限り、F市にだいぶ近いっぽい。
移動距離を伸ばせば伸ばすほど勢力を拡大するブキミな低気圧。そう締めくくられても中学一年生でストップしているノーミソにはあんまりなじまないけれど。とにかく一大イベントに立ち会っているようでワクワクはする。
「ねぇあにき。これ見てったら」
いつのまにかあにきは文句を言うこともやめて、板の間に寝転がって拳を眺めていた。楽しいのかな。
「もしかしておねえちゃんにフられた?」
「ぶふうっ」
効果はてきめんすぎるくらいてきめんだった。あにきがムセた拍子に手から転がり出たものを見て私は納得する。それは向日葵が彫り込まれたひとそろいの指輪だ。
「いつもみたいにへたれて渡し損ねちゃったのか、それとも突っぱねられちゃったのか」
「ななな」
「とにかく思っていたみたいなリアクションがもらえなくて」
「なななななな」
「とにかくあにきのホワイトデーはまだ終わってはいない、と」
「なんなんだよっ、お前はいきなりっ!」
じゃあ今日はちょっと、気まぐれを起こしてみようか。
「あにきのイモウト」
このセリフが効いたのかどうか。座布団を枕にしたあにきはもぞもぞと動いて、私から顔を反らした。
「どしたの」
「千晃、お前は幽香のこと、好きか?」
「うん」
即答した。
「俺もさ。割と、結構、いやかなり」
「だってコイビトでしょ。トーゼンじゃん」
「どうだか」
停電の中でもおねえちゃんは平然と洗い物を続けているようだった。つわものだ。豪のものだ。その姿は私達から見えないので、あにきは水音の方に目を向けて、こころもち声のボリュームを抑えて口を開く。
「確かにお前の言うとおり俺はヘタレだ。あいつは見た目に寄らず気が短いから、俺が抜き足差し足しようとする度に尻をせっついてきやがる。おかげで何度も危ない橋を渡るハメになった」
だけど、とあにきは一度言葉を置いた。
「じゃなかったら俺は今もこの家でぶつくさ言いながらマズいトーストを齧って、もっとくだらない理由でお前とケンカばかりしていた気がするんだ。コトによると、ずっと前に死んでいたかも」
「死ぬって、あにきはオオゲサだね」
「よくないな」
床の上で目を瞑ったあにきが笑うと、つられて私は笑ってしまった。
「俺が何かを乗り越えようとする時、いつだってあいつは傍にいてくれた。あいつのおかげで俺は前に進んだ。だからこれからは、俺があいつのためになることをしてやらなきゃ」
いちいちオーバーなヤツだなあ。私はもういちど声を出して笑った。
「おねえちゃんは完璧超人だからなぁ。私達にできることって、あるかな」
ネズミのささやきみたいな声が、今まさに寝言にとってかわろうとするものだということに私が気付くまで時間がかかった。
「もしかして結構お疲れだった?」
もうあにきは答えない。どちらかというと、疲れているというよりは、今のうちに寝られるだけ寝ておこう、みたいな義務感が浅い寝息からにじみ出てる、みたいな。
ちょっと、自分で言っておいてワケわかんないんだけどさ。
「兄妹仲がよくって結構ね」
タオルで手を拭きながらリビングにおねえちゃんがやってきた。私と、テーブルの上の桃色の花を軽く撫でながらソファのクッションをいくつか引っ張ってくると、私達の傍に座った。
「なにを話していたの?」
「ちょっとヒミツ会議。またはおねえちゃんファンクラブの会合」
「なあにそれ」
おねえちゃんは口元を軽く押さえて笑うと、あにきの傍にころんと横になった。私もマネをする。おねえちゃんが枕代わりのクッションを滑らせてくる。あにきを間に挟んで。
「って」
飛び起きる。危ない。うっかり見過ごすところだった。
「ふざけんな。場所がおかしいじゃんかよ」
「そうかしら」
「これどう考えても私が邪魔者っぽいポジションじゃん。ダメじゃん!」
耳元で叫んでやったらあにきがみじろぎする。面白いので普段からのフマンをごちゃごちゃと夢の中に流し込んでやっていると、おねえちゃんがすっと指を伸ばして私の唇に触れた。
そろそろ静かにしてあげて、ってか!
「もういいよ。ふんだ」
薄暗い家の中。雨と風と雷が渦巻く外とはガラス一枚で分けられているだけなのに、どうしてか安心する。なんだかフシギな暖かさのあるあにきに、自然と私もおねえちゃんも寄り添って目を瞑る。せいぜいこいつが蒸し上がってひどい目に遭えばいいと思った。
◆◆◆
ベッドからむくりと起き上がって私は棚に置かれた目覚ましを確かめた。
「まだこんな時間?」
昼寝をしたのが効いたかな。
むしゃぶりつきたいくらいきれいな寝顔を見せるおねえちゃんを起こさないようにそっとタオルケットをのけて、わたしは二階の廊下に出る。もぬけの殻になったあにきの部屋のドアがキイキイと揺れている。
停電していることを忘れて廊下のスイッチを何度も入り切りしていると、不意打ち気味の雷鳴に私は小さく飛び上がってしまっていた。
「お、おどろいたぁ」
いい加減聞きなれたカミナリも、寝起きだといっそう恐ろしく聞こえたよ。
台風は夜になってもこの町の上から動こうとはしなかった。空が割れたんじゃないかなってくらい大きな雷が何度も何度も。
私は電源切れかけのケイタイを懐中電灯代わりに、パジャマの裾を引きずって階段を降りる。今まさにスニーカーをつっかけてこの土砂降りの中に出ていくぞという気合だったそいつの輪郭を、稲光が照らし出した。
「やっぱりか、あにき」
すっと立ち上がって、あにきは私を見つめ返す。
「どうした。こんな時間に」
「あにきもな」
その瞳が一瞬だけ炎のような色を灯したような気がした。私の知っているヘタレで弱いあにきがどこかへ行ってしまったようで、ちょっとだけ怖かった。
「ひとつだけ確かめさせて」
こいつが家を飛び出すのも、これで何度目になるかわからない。だから私も何度目になるか分からない質問を、あにきに向ける。
「確かめる?」
「おねえちゃんはどこにも行かないよね。ずっと、私達の家族でいてくれるよね」
近くに雷が落ちたみたい。
ややあって、あにきの気配が暗い廊下の先でうなずいたのが分かった。
「…………あぁ。なんとかする」
おねえちゃんといい、あにきといい。ヒトの質問にはハイかイイエで答えられるということを忘れてしまっているみたいだ。なんとかする、なんてセリフではこいつのやろうとしていることはとうてい説明できないけれど。
「そう。わかった」
それでも私は、こいつを信じることにした。
「せいぜいケガしないで帰ってこいよ」
「安心しろよ」
そろそろと玄関を開いて出て行くあにきに、私はそれ以上言葉を掛けることができなかった。
「それ、確か夢でも言ってたね」
それとも、現実でのセリフだったのかな。
玄関を出て、雨と暗闇の中に出て行くあにきの背。小さいころからムカつくことがある度に蹴っ飛ばしつづけてきた。
その背中がこんなに大きくなっていただなんて知らなかったよ。山みたい、というか。もっともっと。まるで、星ひとつを背負っているみたいじゃないか。
「おねえちゃん、意外と男を見る目があるのかな」
私は真っ暗なリビングでソファに横になった。あにきの漕ぐ自転車の音は、こんな明り一つもない夜だっていうのにコケずに遠ざかっていく。
私はケイタイを取り出す。充電は虫の息だけど、やらなきゃいけないことがあった。
――――――――
156:TK◆tsuru.c78a
むらさき、いるんでしょ。
――――――――
もとから人がこないようなスレッドだ。私が最後に見た書き込みから、あんまりやりとりは進んでいなかった。更新ボタンを二度も押さいないうちに、謎めいた自称賢者がレスを返してくる。
――――――――
157:むらさき
こんばんわ。おチビちゃん。呼んでもらえたのは嬉しいけれど、子供は寝る時間ではなくて?
158:TK◆tsuru.c78a
ウルサイ。ガキ扱いすんな。
159:むらさき
うふふ。ごめんなさいねぇ。
――――――――
今はもう寝静まった掲示板の常連たちみたいにハンドルネームではなくて、こいつは私をおチビちゃんとかふざけた名前で呼ぶ。それはまぁ、この際いいよ。実際ちっこいしな。
それこそがこいつの書き込みにずっと感じていた違和感の正体。まるでどこか遠くから私のやっていることを覗き見しているような。
「あんた、本当ナニモンなの?」
不思議と、怖かったりはしないけど。
今はそんなコトに突っ込む余裕はない。画面の輝度を落として極力バッテリーが減らないようにして、私は文字を打ち込んでいく。
――――――――
160:TK◆tsuru.c78a
前にむらさきに聞かれた。周りに誰もいなくなったらどうするのかって。
161:むらさき
なつかしいわね。そんなことも、ありました。
162:TK◆tsuru.c78a
おねえちゃんは絶対にいなくならない。お父さんも、あにきも、あにきのトモダチも、お母さんだって。誰一人。
163:TK◆tsuru,c78a
だからアンタの聞いたことは、そもそも質問として成り立たない。私達はずっと幸せに、オモシロおかしくやってくんだ。
164:むらさき
そんなに上手く行くことばかりじゃないってのは身をもって知っているでしょうに。
165:TK◆tsuru.c78a
本当にヤバい時におねえちゃんが助けてくれた。それに、認めたくないけどあにきだって。。
だから乗り越えられないピンチなんてない。もちろんこれからもいろいろあるだろうけど、絶対に何もかもうまくいくよ。
166:むらさき
誰かがいつでもあなたを助けてくれる。それがあなたの答えでいいのね
167:紫
なら、一緒に結末を見守りましょう。
――――――――
「あっ……なんだよ、もう!」
いいところでケイタイがメゲた。
むらさきだか紫だかには言ってやりたいことがまだまだあるというのに。停電のばかやろー。
「いちいちいちいちエラそうにさ。何サマだっつーの」
軽く水でも飲んで寝よう。
明日になったらケイタイ充電して、おねえちゃんのお手伝いでもして、あいつを待つ。一年に一度くらい、あいつを祝ってやるのも悪くない。
二階へ向かう私を引き留めたのは、コツコツという、聞きなれた控えめなノックだった。
「……おー、ちゃん?」
こんな時間に、何をしに。
「待ってて。今開けたげるから」
急いで洗面所からタオルを引っ付かんできて玄関に向かう。うすらぼんやりだけど、玄関のくもりガラスの向こうにあいつの姿が見えた。だけど次の稲光に照らされた瞬間、その背中から何かがぶわあっと広がって。
カミナリの音もかき消すような羽ばたきが去っていくのを聞きながら、私は腰を抜かしていたことに気付いた。
「な、なんの冗談だよ」
おそるおそる玄関のドアを開くと、足下でピンク色の花が風に吹かれていた。茎に乗せられた重しの石をのけて拾い上げると、それは最近いろいろと話題のスイートピーだ。
花言葉は、たしか。
「まさかね」
あのアホたれのおーちゃんがそのことを知っているカノーセーの方が低い。その姿が一瞬だけバケモノみたいに見えたのも、きっと何かの偶然に違いない。
「明日、またハデにやるから、ちゃんと来いよな!」
風と雨の中に私は声を張った。
「……江梨花ちゃんも誘ってさ。そんで、ユキちゃんとかも来るといいな。昔みたいにみんなで騒ごう。ね」
だけどこの台風の去った後に待っている幸せな日常を想像すればするほど、それがこの町の空にあるものよりも黒くて分厚い雲の向こう側に行ってしまったような気がして仕方がなかった。
第十九話『鶴見千晃、(もしくはTK◆tsuru.c78a)世界(とネット)の片隅で』おわり