風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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3月の吸血鬼失踪事件
1『燃やす者/焦がす者(上)』


 こってり絞られた上でそいつの但し書きに新しい一行が書き加えられた。

 その補導歴とは、世間一般で言うところの不名誉というヤツだった。

 

『こちとらちょっと落書きしただけなんだぜ。それより聞いてくれよっ、あそこの壁がさっ』

 

 あの一件の直後、高揚を抑えきれずにそんなことを説教にきた警官に言い放ったのがどうにもよくなかったようだ。

 とにかくそれからは、暫くの間行く先会う人すべてに怒られる毎日が続いた。

 

『分かってるのか、鶴見。この時期にマズすぎるぞ』

『えぇ』

『これが一体どういう意味なのか、本当に理解しているのか?』

『えぇ』

 

 何度目かの進路指導室。ぼんやりと天井を仰いだハジメは、何を言われても生返事を返すだけ。良くも悪くも平凡なことが特徴の鶴見ハジメがここでいきなり問題児になってしまったことに、教師はひたすら頭を痛めた。

 

『お前はどうしようもないやつだよ』

『えぇ』

 

 早くも匙を投げた教師が部屋を出ていくのも構わず、ハジメは固く冷たい壁越しに感じた不思議なぬくもりを思い出す。限界から救い出してくれた赤いひまわりに、もう一度触れたくて仕方がなかった。

 

 ならば、もう一度試すまでだ。

 

『待たせたな』

 

 そして始まりの夜。始まりの場所。

 12月。雪のちらつく夜の町に黒々と聳えるビルの足元で、ハジメはパーカーのフードを目深にかぶる。決心するまで2週間。準備には1時間。

 買ったものは気休めのカイロがいくつかと、大量のスプレー缶。

 このビルのてっぺんに、宇宙からでも見えるような大きな風穴を開けてやろう。今度こそ、この息詰まった世界を変えるような何かを起こしてやろう。

 

『にしてもヘンな感じだ』

 

 奇跡に憧れる気持ちを表すならば、それはまさに恋心だった。

 踏み出すスニーカーの爪先。彼の姿が建築中のビルの、その中に漂う闇へと消えていく。

 

 それから、何が起こったのか。

 

 ◆◆◆

 

 ――――ボロボロのバイクの荷台で幽香の腰にしがみついていたことだけは覚えている。そこでどんな会話を交わしたのか、何を考えたのか。いつどこでどのくらい休んだのか。バイザーの外を流れる景色が徐々に見慣れたものへと移り変わる様を眺めつつ思い出すが、まるではっきりとしない。

 

「ハジメ。ねぇ、ハジメったら」

「んあ?」

「大丈夫? だいぶ、ぼんやりしているように見えるわ」

 

 ハジメの顔の前でひらひらと幽香が手を振る。寝不足のせいか、すべてがガラス一枚隔てた場所での出来事のように遠い。彼女の肩越しに見える我が家の玄関を見て、ハジメは一晩限りの小冒険が終わったことをようやく理解した。

 

「割とサエてるよ。こんなんでも」

「ならいいのだけれど」

 

 幽香がカギを抜くよりも先にバイクが音を上げた。

 急に静けさを取り戻した住宅街。ぽわん、とマフラーから吐き出された最期の白煙を追って、二人は視線を上げる。ギラギラとミラーボールのような太陽が輝く空にそれはすぐ溶けていく。まるで、初夏のような熱気が春先の住宅街に漂っていた。

 

「どうして私のおもちゃってすぐ壊れちゃうのかしら」

 

 もちろん冗談のつもりだったのだろう。

 地面にへたりこんで愛想笑いを返す余力もないハジメを尻目に、幽香はさっさと擦り切れたライダースーツを脱いでいく。白いタンクトップとの境が分からなくなるほどに、彼女の肌もまた、白い。

 

「ちょっと畑の様子を見てくるわね。お昼ご飯はその後で作ってあげるから」

 

 鶴見家の荒れ果てた庭を再生させようとする彼女の努力は最近ちょっとした土木工事のレベルに達してきた。あれだけいろいろあった夜の後で一睡もせずに仕事に取り掛かれるあたり、やはり彼女は人間とは一線を画しているのだろう。

 

「幽香」

 

 血の滲んだ包帯の下で傷が疼く。

 それでも立ち上がって彼女の名前を呼んでみれば、最近では呼吸と同じように何度も口にしてきた名前がやけに重苦しく舌に絡みついた。

 

「なあに?」

 

 彼女の反応はいつもと変わらない。

 振り返り、小首をかしげると、美貌に微笑みをたたえてハジメの言葉をいつまでも待つ。

 

「いや、何でも」

 

 きっと彼女を引きとめなければ、彼女はせっせと庭仕事を済ませて、帰りの遅いばかたれ兄貴に憎まれ口を叩く千晃のご機嫌を取りながらリビングを通り過ぎる。それからシャワーを浴びてズタズタの衣服を片付けるなりなんなりして昨夜の一件を物語る物証を捨て去ると、彼女は何事も無かったように鶴見家の日常を再開するのだ。

 数か月後に控える自分の運命さえ、受け入れて。

 

「やっぱり疲れてる。先にお布団しいてきましょうか」

 

 その変わらなさがどうしようもなく頭にきた。

 

「待て。何でも、ある。お前に言いたいことがある」

 

 低い声で唸るようなハジメを前に、まるでかんしゃくを起こした子供に仕方なしに付き合ってやるみたいに、幽香は困った笑いを浮かべて腰に手を当てる。

 

「文句?」

「かもしれない」

「バイク壊しちゃったこと?」

「違ェよ。いいかお前はどうして」

 

 もうすぐ狂って酸いも甘いも何もかもぶち殺してぶち壊す。そんな、あまりに理不尽な運命を背負っているというのに。

 

「聞いてるわよ」

 

 どうしてそこまで、こともなげに振る舞うことができるのか――と、問いただそうとして、ハジメはまた黙る。彼女はとうの昔に全てを知っていたし、覚悟もしていたのだ。ハジメと出会うずっと前から。

 

「今、お前の作ったメシを食いたい気分じゃないんだ」

 

 動揺しているのはハジメだけだ。

 あなたなら受け止められるわよね、と。幽香が信じてパスしてくれた真実を全力で拒絶しようとしている。それで現実がどうこう変わるわけでもないのに。

 

「そう」

「マズいとかそうじゃなくて。なんか、腹空いてないから」

 

 玄関先に掛かっていた厚手のジャケットを乱暴にハンガーからひっぺがして着込む。すでにじっとりと首筋が汗でぬれるような春の陽気だったが、血まみれのシャツで出歩くわけにもいかない。

 

「どこ行くの?」

「わかんない。家に帰るの、結構遅くなるかも」

「そう――――いや、ダメよ。待って」

 

 無視してさっさと行くつもりだったが。後ろ手を捕えた幽香と、手の平から全身を駆け巡った激痛にハジメは小さく苦悶の声を漏らしていた。

 

「せめて私も一緒に行かせてちょうだい」

 

 乱暴に手を振り払って、ハジメは眉間にしわを寄せた。

 

「どうして。ねぇ、ハジメ、さっきからあなたおかしいわよ」

 

 いきなりぶん殴られたように、驚きと困惑の入り混じった表情で見つめてくる幽香が疎ましい。彼女はただ、いつも通りに接してくれているだけだというのに。

 

「ムシのいどころが悪いだけだ」

 

 怪物に食われたり体が燃えたりしている間ずっと身に着けていたスニーカーは限界だった。はがれかけの靴底をぺこぺこと鳴らして通り過ぎていく青年を、下校途中の小学生の一団が遠巻きに笑っている。

 

「お姉ちゃん?」

 

 背後。千晃の声だ。

 

「お帰り、お姉ちゃん。どうしたの?」

 

 実に間が悪い。

 足を止めたハジメと、彼に視線を注いだまま押し黙った幽香。こんな状況を前に千晃がどう動くかなんて、分かりきったことだ。

 

「くそあにき。またお姉ちゃんに何かしたのかよ!」

 

 ――――相変わらず空気の読めない野郎だな。

 

 やりあってやろうと足を止めて、ハジメは小さく目を剥いた。顔を真っ赤にした千晃の、サンダルをつっかけた片足が玄関の外に踏み出している。

 

「今日という今日は説教してやる」

「言いたいことがあるならお前がここまで来いよ。引きこもり」

「う」

 

 挑発に千晃は自分の足元に目を向けた。敷居に掛かった片足を持ち上げれば、もう彼女は自分を外の世界に放り出すしかない。

 

「ほらどうした。一歩くらいで満足か。おらおら」

 

 我ながら最低な兄だと思う。

 

「っ…………はん。見てろよ」

 

 兄だからこそ、ハジメには千晃が何を見て何を感じ、何を考えているかは手に取るようだった。どこからか騒ぎを聞きつけてやって来て、氷河期の氷の中から出てきたマンモスの化石でも見るような目を向ける近所の事情通だとか、一部始終を面白そうに見守ることにした小学生たちだとか。

 彼らの無遠慮な視線に、千晃は耐えきれるのだろうか。

 

「無理すんなよ」

 

 焦って兄らしい気づかいを示すには遅すぎた。

 

「ちょっとは見直してやろうと思ってたのにさ。あに、いや。お前やっぱりサイアク。お姉ちゃんと一緒にいる資格なんて、いちミリだってないんだから」

 

 しかし、また一歩。

 

「やめろって」

「千晃」

「うるさい。見てろ!」

 

 あまりに早すぎる。筋金入りの引きこもりである千晃がようやく外へ出た、なんて祝えるほどおめでたい雰囲気ではない。

 

「何もかもうまくいきそうな気がしていたのに、さっそくコレかよ」

 

 例えるなら、それは未成熟のさなぎを無理やり切り開いて、ドロドロの中身をぶちまけてしまうようなものだ。

 

「千晃、いいから」

「よくないっつーの。ねぇ、お姉ちゃんがこいつにしてもらったコトって、そこまで我慢しなきゃいけないほど、すごいことだったの?」

「あなたが知らないこともあるのよ」

「なんだよそれ。すっごいムカつくんだけど」

 

 暴走した千晃はもう止まらない。

 彼女にはもっと別の、外の世界に触れるきっかけが欲しいのだ。勢いで飛び出しても、かえって深い傷を負って戻るハメになるだけだ。誰かこいつを止めてくれとハジメが叫びだしたくなった矢先に、幽香が動いた。

 

「いい。これが最後よ」

 

 ハジメが小さく声を漏らす。電撃でも流されたように、千晃が跳ね上がった。

 苛立ちに混じった一抹の感情は、間違いなく人外の放つ気配だった。ぎこちなく千晃が振り向くのを待たずにその腕をむんずと掴んで、幽香は彼女を家へと引きずって行く。

 

「戻りましょう」

「きっ、昨日まで二人ともあんなに楽しそうだったじゃん。あんなに、ムカつくイチャつき方してたじゃんか。あんなに、あんなに。ねぇ、痛いってば!」

 

 妹の言葉はいちいちハジメの背中を刺してきた。彼女は正しい。実際のところ幽香自身は何も変わっちゃいない。ハジメの方が彼女との距離感を見失ったのだ。

 

「お夕飯、いるかしら」

 

 千晃を玄関に押し込んだまま、未だ門前に佇む幽香を一度だけ振り返った。

 とにかく空腹と眠気が限界で、これ以上何かについて深く考えればここまでの悶着で細った脳神経がぷちんと音を立てて切れてしまう。

 

「いいや」

 

 意地張りを咎めるように、彼の腹が鳴った。

 心のどこかではそこで幽香が笑ってくれないかと期待していた。それならば、まだこの場にも救いがあったというのに。

 

「じゃあ、行ってらっしゃい。待ってるから」

 

 玄関にだらしなく腰を下ろしたまま、精も根も尽き果てた様子で千晃が遠ざかりゆく兄の背中を見送っていた。

 

「ごめんなさい。別に、怒ったわけじゃないの。あぁ、参ったわね」

 

 例え一瞬でも千晃を余計に思ってしまったことを幽香は心底悔いていた。

 何と続けていいものかと迷っていると、義理の妹はいつも幽香がそうするように肩をすくめて見せた。

 

「本当ワケわっかんないよ。あにきも、お姉ちゃんも隠し事ばっかりで」

 

 とはいえ、そうして余裕ぶって見せることが彼女にできる精一杯の反抗だったのだろう。実際は細い肩も声も震えていたし、サンダルを脱ぎ散らかして寝床へ引っ込んでいく時に、彼女は大きく鼻をすすりあげた。

 

「おかえり」

 

 リビングの戸を開いて、この時間には見慣れない顔がひょっこり現れた。ハジメの父は千晃の消えていった階段を一瞥して、手に持っていたマグカップを小さく掲げた。

 

「あら、珍しい」

「久しぶりに全休もらったんでね。コーヒー淹れたんだけど、飲むかい?」

「ますます珍しい」

「千晃の作ったヤツがあまりにひどくてさ」

 

 ◆◆◆

 

 安普請の寒々しさを少しでも和らげようという努力だろう。

 板張りの上に敷かれたゴザの清々しい香りを吸い込んで、ハジメは二つ折りにした座布団に頭を預けなおした。使い古したぺたんこの座布団は枕に最高だ。実に収まりがいい。

 

「お茶、あっついのにしちゃったけど」

 

 ハジメが短い眠りから起きたのを察してか、床を軋ませて彼女がやってくる。

 

「勘弁してくれよ。今日はこんないい天気なんだぜ」

「転がりこんでおいて注文がうるさいわね」

 

 腹を空かせてベンチで寝ていたハジメに声をかけて、半分眠ったような青年をここまで引きずってきてくれたのは彼女だ。

 

「悪かった。感謝してるよ」

 

 とはいえ、初対面で自分を殺しにきた相手の前で堂々と居眠りするとは、ずいぶん命知らずだと思う。

 

「よろしい」

 

 彼女が卓袱台に置いたお盆で湯気を立てるのは湯飲みだけではない。白米と目玉焼き。ピリリと塩気の効いた焼き鮭に味噌汁だ。

 

「おなか空いてるんでしょ。寝てる間も鳴ってたわよ」

 

 と、霊夢はいつものような不機嫌顔で座布団を引っ張り出してくると、卓袱台を挟んで座り込んだ。

 

「こうでもしないと、うるさくて集中できないのよ。あいつとあんたをどう叩いてやるか、ずっと考えてるんだから」

 

 照れ隠しの憎まれ口を聞き流しつつ、ハジメは一心不乱に遅い昼食をかき込む。うまい。実際に涙が出るほど嬉しい心遣いに感激していると、ちらちらと意味ありげな視線を送ってくる霊夢が目に留まる。

 

「どうした」

「大したことじゃないわ。あいつと私、どっちが料理上手か気になっただけ」

 

 非の打ちどころのない美少女は微かに頬を赤く染めて眉間を抑えた。

 

「…………あーあ。こんなバカみたいなコト聞くんじゃなかった」

「やっぱり親友同士で張り合ったりしたくなるもんなのか?」

「元親友ね。ずっと前に関係は解消しちゃったもの」

 

 ようやく落ち着いてきた食欲のおかげで、ハジメには箸を休めるだけの余裕が出てきた。

 幻想郷を守り、そして治める博麗の巫女。そんな大層な肩書があるのならさぞかしご立派な宮殿にでも住んでいて、付き人が四六時中ふんぞり返った霊夢の肩を揉んだり脚を揉んだりしているのだろう、なんて。

 

「お前、料理なんかする必要あるのか?」

「行く日も来る日も神社で一人暮らしよ。お金は切りつめなきゃだし」

 

 ヒーローのように活躍しているはずの彼女だが、現実はホイホイ金を恵んでくれるほど甘くないようだ。

 

「神社の収入ってどうなってるんだ?」

「あんまり期待できないわね。友だちが食べ物を持ってきてくれるから、食うには困らないけど」

「友達」

 

 青年がふと浮かべた神妙な面持ちを見て、霊夢は続ける。

 

「もちろん幽香のやつも来ていたわよ」

「そんなこと聞いちゃいない」

 

 ハジメは首をひねったが、霊夢には彼が浮かべた疑問符の中身なんて丸わかりである。

 

「幻想郷にはなんていうか、今よりも寂しくて物騒な時期があって、世間はずっとずっと狭かったの。その頃あいつは何かと理由をつけては神社に潜り込んできたのよ」

 

 どこか懐かしい味のする味噌汁をすすりながら、ハジメは霊夢の話に耳を傾けた。

 

「で。お節介にもあいつ、世話焼いてくれちゃってさ。頼んでもいないのに勝手に部屋をひっくり返して掃除していくわ私の服と下着を全部洗濯していくわ、ご飯だって」

 

 ことさら不機嫌そうに、霊夢は鼻を鳴らした。

 

「私、料理ヘタクソだったの。それで嫌々。本当に嫌々だけど、あいつに作り方教わってた時期があるのよ」

 

 空になった木製の器をハジメは見下ろした。霊夢の供してくれた食事に感じた奇妙な懐かしさの正体が分かったような気がする。

 

「で、それはうまいの。マズいの?」

 

 今と変わらぬ仏頂面で、割烹着姿の霊夢がまな板の前に立つ。これまた変わらぬニコニコ顔の幽香が霊夢の手ごと包丁を握り、背後からあれやこれやと口出しする。

 

『猫の手よ』

『やってる』

『それでこれは包丁っていうの』

『知ってる』

『切るのは手じゃなくてお野菜よ』

『ばっ、馬鹿にして』

 

 霊夢がキレる。幽香が声を上げて笑う。それがますます霊夢の機嫌を損ねると知った上で。

 

「悪くないんじゃないか」

「なにそれ」

 

 意味深な笑顔を浮かべたハジメを睨みつけつつ急須から良い香りのするほうじ茶を注いで、霊夢は正座を崩した。ショートパンツから覗く白くて細い脚に思わず視線を奪われてしまうのは悲しき思春期の性。

 

「改めてあんたに聞きたいことがあるんだけれど」

 

 思わず我を忘れていた矢先に、霊夢の鋭い声色が沈黙を裂いた。内心では心臓が口から飛び出そうなくらい焦りつつ、ハジメは出来る限り落ち着きをつくろって言葉を返す。

 

「な、なんだよ」

「あいつ、おっぱい大きいわよね」

 

 目の遣りどころを咎められると思っていただけに、不意打ちのアッパーを喰らった気分だった。

 

「は、お、おっぱ……?」

「あいつ昔っから恵まれてるのよね。だって私の方がずっと体を動かしてるし、食べてるのに。ね、おかしいと思うでしょ?」

 

 たじたじになるハジメをよそに、霊夢はおもしろくなさそうに湯飲みを掌の中で転がした。

 

「やっぱりあいつが妖怪だから? ……妖怪は人間とは体の造りが違うのかしら。うーん」

「確かに立派だけどさ。そこまで深く考え、あ、やべ」

 

 霊夢のニヤけ笑いを見る限り、彼女につつき甲斐のあるネタを与えてしまったのは火を見るより明らかだった。

 

「やっぱり見たんだ」

「み、見ちゃっただけだよ。こっちだってイロイロ見られてるんだ。それでチャラだろ」

「ふぅん。どういう経緯で? もしかして見せっこしたのかしら」

「偶然。全然偶然」

 

 ハジメが尻を見せるハメになった出来事の発端が自分にあるとも知らずに、霊夢は高笑いした。

 

「ま、とりあえずあいつと上手くいってるみたいで、安心した」

 

 当然、霊夢はそんなことを聞くためだけにこの場所にハジメを呼んだのではない。

 

「またケンカしたけど」

 

 きっと彼女は何もかもお見通しだ。ハジメが一方的に幽香を跳ね除けて飛び出してきたことも。

 

「あいつのこと、全部教えてもらったら頭ん中グルグルして全くワケわかんなくてさ。結局キレっ放しであいつの言うことなんて聞くこともできなかった」

 

 ハジメの声の大きさはしりすぼみだった。

 かわりに膝の上の拳を握りしめて、巫女の叱責を待つ。一月前に彼女に強気に出られたのは、単に何も知らなかったからだ。

 

「なんか、腹立ってきたわね」

 

 誰も死なないのが一番ハッピーだなんて、当たり前のことだ。いつだってそれが選択できるとは限らないから悲劇が起こる。

 

「分かってる。全部、俺が悪い」

 

 先手を打って謝られると、霊夢はがしがしと頭を掻いた。

 

「そうじゃなくて…………どうしてあんたは謝ってるのかしら」

「俺が何も知らなかったから。きっとあの時のあんたは相当我慢してたんだろうなって」

「そうじゃないっつーの! あんたが悪いとか悪くないとか、そんなことは今更どうだっていいって言ってるのよ。勝手にセキニン感じてるところ悪いけれど、あのバカたれがウジウジ言い渋ってたんだから仕方ないでしょ!」

 

 顔を真っ赤にした霊夢は収まりつかないと見えて、勢いよく立ち上がる。

 彼女の膝小僧をぶちかまされたちゃぶ台がずがんと音を立ててひっくり返った。茶碗とお盆と湯飲みが弾き飛ばされ、蓋の開いたままだった茶筒の中身が壮絶にぶちまけられる。

 

「兎にも角にもあんたはあいつが好きになっちゃった。でしょ!?」

「お、おう」

 

 鬼も尻尾を巻いて逃げだすような剣幕で、彼女はハジメに指を突き付けた。

 

「ならそれでいい。あんたの好きにすればいいじゃない!」

「でも、あいつは俺に殺せって。じゃないと」

「うるさい。でも、はもう二度と言うな!」

 

 安普請の部屋と部屋とを隔てる薄い壁がどすんと鳴った。大騒ぎを詫びるでもなく、霊夢は手近に転がっていた分厚い雑誌を拾い上げると、お返しとばかりに壁に叩きつける。アパート全体を揺るがすような一撃が響いて、それからは静かになった。

 

「…………あいつに、あまりに救いがないじゃない」

 

 霊夢は耐えがたい頭痛に襲われた時にするように頭を抱えた。

 今の彼女は怒っているわけでも、ましてや泣いているわけでもない。それでも、ハジメにはこの瞬間彼女の鉄仮面の内側が垣間見えたような気がした。

 

「一人くらい、あいつを生かそうとするヤツがいても、いいじゃないの。私は幻想郷を守る博麗の巫女だから、口が裂けたって、そんな役目を誰かに頼む事はできないけれど」

 

 ひと月前に道は無いと言い放った霊夢の変化に戸惑いつつも、ハジメは口を開いていた。

 

「霊夢、お前さ。本当は戦いとか、殺し合いとか、あんまり向いてないんじゃないか」

「そうかもね」

 

 一皮むけば霊夢は外見そのまま、蝶よ花よという年頃の少女でしかない。

 ひとつの世界を丸々任されて、重すぎる使命に対する葛藤も当然有るはずで。そうしたものを彼女は窮屈な巫女服の中に押し込んで戦ってきたのだろう。

 

「あともう一つあるんだけど」

 

 霊夢はそのまま片手を上げて、ハジメに先を促した。

 

「お前、いい奴だよな」

「そんなこと」

 

 弾かれたようにがばっと顔を上げた霊夢はすぐさま深々とため息を吐いて、またもや眉間を抑えるのだった。

 

「…………とにかく片づけ、手伝ってちょうだい」

 

 ◆◆◆

 

 玄関まで客人を見送ると、霊夢はそのままドアの前の手すりにもたれかかった。

 二階建てのボロアパート。少し室内を歩けば下の住民から文句を言われるような場所で、それでも見晴らしだけは良い。

 

「なんだか疲れちゃった」

 

 夕暮れの街に、彼女は何を見出しているのだろうか。

 ハジメの目には強烈な夕陽に照らされて、一つの影の塊になった街のシルエットだ。とりわけ大きい例の高層ビルの影が、亡霊のように佇んでいる。

 

「幻想郷の外はロクでもない世界が広がってるって、ずっと思ってたの」

 

 樹脂製のサンダルの踵を打ち鳴らしながら、霊夢は解け掛けた髪飾りを結い直す。

 

「で、実際は?」

「大体は予想通り。どこ行っても子供扱いされるし、行列はうざったいし。でも、ロクでもない奴はいなかったよ。あんたも、あんたの家族も、誰ひとりだって。みんな必死に生きてる」

 

 それは幻想郷だって同じだ。

 怪物が当たり前に出歩くような、きっと死とは常に隣り合わせの世界。理不尽に死ぬかと思われた矢先に戦う力を掴み取ることが出来ただけ、ハジメはまだ幸運なのかもしれない。

 

「あんたがあの化け物クジラと戦ってた時、実はずっと見てたんだ。あんた、ワリにカッコよかった」

 

 見ていた、ということはあの場で口走ったあれやこれやも聞こえていたのだろうか。しかしハジメが気まずげな視線を送っても霊夢は不思議そうに小首をかしげるだけだったので、彼はそっと安堵の息を漏らす。

 

「俺はただのヘタレだって」

「いいじゃない」

 

 霊夢はすれ違いざまにポンとハジメの肩を優しく叩いて、塗装のはげたドアノブを掴んだ。

 

「ヘタレだろうがなんだろうが、あの時のあんたはいい男だった。少なくとも、私がちょっとだけ考え直すくらいにはね」

 

 決してむずがゆい思いをさせるためだけに彼女がそんなことを口走っているはずがない。彼女は博麗の巫女としてこの場にいる。そして、ハジメは幽香を諦めきれていない。ならば結論は一つだ。

 

「だから次に会うときは、本当の本当に敵同士。私はこの世界にも、あんたたちにも惹かれすぎた。これ以上踏み込んだら、それこそ私は私の使命を放り出してしまうかもしれない」

 

 別の出会い方をすれば。そんなセリフを人生で吐くことが本当にあるなんて想像もできなかった。少しだけ名残惜しそうな霊夢を見ていると、『もしも』を想像せずにはいられない。

 

「――――それと。ユキには、気をつけて」

「ユキに?」

 

 不意に飛び出した友人の名前にハジメが怪訝な表情を浮かべた時には、既に背後でドアが閉まっていくところだった。

 

「どうしてさ」

 

 モヤモヤしたまま階段を下りて、ハジメは二階の霊夢の部屋を仰ぎ見た。夕暮れの中で、今しがた灯った電気が眩い。曇りガラスの向こうを行き来する赤い影は晩飯を支度する霊夢のものだ。

 彼女はもう、ハジメに語ることはない。ただ、現代での生活を続けて、激突の時を待つだけだ。

 

「じゃあな。霊夢」

 

 別れを言えるのもこれが最後。次は敵。

 今更ながらアパートを囲む石塀の一角に突き立った鉄槍を見つけて、ハジメは肩を落とした。見覚えのある、とても槍とは思えないほどにねじくれた吸血鬼の得物。そいつの柄をひと撫でして小路に出る。

 キイキイとブランコの揺れる無人の公園の中を通りながら、ハジメは日中霊夢と共に通った道のりを頭の中で逆再生していく。

 今夜はまるで人払いでもされたような静けさだ。一台の車も通らない道路に、古い街灯がオレンジ色の暗い光を投げかけている。等間隔で立ち並ぶ槍のシルエットがその下に浮かび上がる。

 道が塞がれる度に迂回して歩く内に、すっかり日は沈んで月が昇っていた。

 

「うっわ。マジかよ」

 

 踏切の前でハジメは立ち止った。

 どうやったかは知らないが、おびただしい数の武器に包まれたそれは、まるで要塞だ。遮断機至っては二度と持ち上がらないように鋏のような武器で地面に縫いつけられている。

 とはいえ住み慣れた町。そう困りはしない。擦り切れたスニーカーの踵を返し、今度は近くの地下道を目指して歩く。煤煙に薄汚れた手すりを頼りに長い階段を下りれば、冷たく湿った空気が充満するトンネルに響き渡る足音は二つ。

 

「今日はどいつもこいつも俺と話したいんだな」

 

 ハジメは鉄格子のようにトンネルの出口を塞ぐ無数の槍から、背後に佇むそいつへと視線を移した。

 

「だってそうだろ?」

 

 むき出しになったそいつの胸から赤い光が迸り、長く醜くねじくれた槍を、本来なら心臓があるはずの場所に穿たれた大穴から引き抜いていく。焼けた肉の、えづくような匂いがあたりに充満していく。

 

「今日を逃したら、お前とはもう話せないじゃあないか」

 

 煙を上げる片手には目もくれず、狭間雪之丞は実に吸血鬼らしく、氷のような美貌をゆがませて笑った。

 


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