大きなトラックの真横を、電光のように一台の大型バイクがすりぬけていく。
「なぁ!」
そのハンドルを握るのは、幻想郷と呼ばれる異世界からやってきた妖怪の女だ。歳はとうの昔に数えることをやめて久しく、ただ一人の青年との殺し合いの約束のためにこの世界に留まっている。
「なあったら!」
クラクションを今しがた浴びせてきたトラックの運転手は、猛烈な速度で遠ざかるバイクの荷台に小判ザメよろしくへばりついた青年がたわけた非日常の持ち主であるなどと、にわかに信じることができるだろうか。
「聞こえてるんだろ、幽香!」
「さぁ、どうかしらね」
ノーヘルの妖怪が答えた。凶暴な風圧の中でも不思議と彼女の声は通る。そして青年の声も同じく彼女の耳に届いていた。
「出来ることなら運転に集中したいのだけれど」
「ちょっと話ぐらい、いいだろ。黙ってたら本当に凍えそうなんだ」
いくら日中温くなりはじめる季節であっても、夜となれば話は別だ。言いたいことだけを言って家を後にした杏奈に対する怒りの熱に浮かされていたハジメも、一時間走らないうちに薄着で飛び出したことを後悔し始めていた。
「その、晩飯の時のことだけどさ」
ヘルメットの内側にまで冷気が手を伸ばしてくる。いつの間にか、霧雨まで降っていた。ハジメはすっかり指先の感覚の失せた手でバイザーの雨粒を拭った。
「それだけじゃ分からないわ」
「だから、千晃に答えてたろ。どうして俺を好きになったか、とか」
「えぇ。それが?」
バイクのエンジンが唸りをあげ、別の大型トラックを抜き越す。
「どのくらいマジで言ってたのかなって」
僅かに身を乗り出して、幽香の横顔を覗き込もうとする。
危ないわよと器用に肘で彼を押しとどめつつ、彼女は眼前の闇に目を凝らした。ヘッドライトの切り取る限りには、本当に何もない淋しい道が続いている。
「あれは、あなたがふざけて私を押し倒したのと同じようなものでしょ」
背後からぐうの音が聞こえた。ハジメがあまりに予想通りの反応をするので、幽香は我知らずほくそ笑んでいたほどだ。
「それは、そのう、悪かったって、言ったろ」
さらに不機嫌っぽくエンジンを唸らせてやるとハジメはことさらばつが悪くなったようで、暫くはごにょごにょと形にならない言い訳が飛んでくる。
「あんな嘘を本気にするなんて、ハジメって結構惚れっぽいのかしら」
「そ、そんなことねえよ」
「そうね、ハジメっぽく言えば。マジであり得ないだろうけれど、妖怪の私が人間のあなたと恋仲になったとして、あなたはその先に何を期待しているの?」
夕飯の席で彼女が見せた、誘惑するような、なだめるような笑顔がかすれて消えていく。
ハジメの頭を押さえつけてぶん殴り続けるような言葉の雨に、心が折れそうだった。
「まぁ、いいわ。ところで杏奈ともう一度会って、それから?」
目的を思い出す。
ヘタレと呼ばれて、よくわからない覚悟を試されて。
追いついて一発かましてやらなきゃ気が済まない。この場に至って、何をしてやればいいのかも分からないままだが。
「わかんないけど。とにかくムカつくんだよ、あいつ」
あまりに子供っぽいことを口走ったことに気づく。恥じるように幽香の背中から目を離せば山間の闇はあまりに暗く、その深さに思わず眩暈を覚えた。
「それで憂いが晴れて、あなたが私と思う存分遊んでくれるなら構わないわよ」
「家族と殺し合いか。ずいぶん俺たち、複雑になったよな」
相変わらずの幽香にため息をつくと、鋼が一層加速した。
「そういうの、覚悟の上で家族にしてくれたんじゃないの?」
風見幽香は女の子だ。
妖怪だが、少なくともハジメの物差しでは女の子だ。おまけに、彼女に散々な目に合わせられておいて、ハジメは彼女のことが好きになりかけている。だから何とか最悪の結末だけは避けようと、この瞬間まで裏でいろいろと思案を巡らせてきた。
「違うの?」
違うのである。
機転のきかないハジメが上手く受け答えできるはずもなく、ただただ胸の内ポケットに突っ込んできたコインを握りしめた。不器用な沈黙に幽香は眉をひそめる。
「ねぇ。だんだん不安になってきたのだけれど」
幽香の背中と、世界が暗橙色の光に包まれる。
耳障りな轟きを感じたところで、ハジメは一拍遅れでトンネルに突入したことに気づいた。山間から山間へ。一つ二つとトンネルを抜けるに従って、潮の香りが強くなる。
海が近いようだ。
「あぁ、そうだ。次のインターで一旦高速降りてくれよ」
降り口の看板に気づいたハジメが、助かったとばかりに唐突な大声を上げた。
「空港っていうのは、まだまだ先なんでしょ」
「そうだけど、この先はまだ工事中なんだ。もともと別だった二つの区間を繋げる計画だとかで、でっ!?」
バイクは減速どころか、さらに加速する。
猛烈な加速に振り落とされそうになったハジメが幽香にしがみついた。
「そう。つまり近道ってことね」
ぐんぐん近づいてくるトンネルの出口が、まるでぽっかりと開かれた怪物の口のようだった。
「だ、だけどまだまだ道路が繋がってないと思うし!」
ここを抜ければ海が見えるはずだ。まっさらに開けた水平線の開放感を想像するにしたがって、しかし、胸騒ぎがしてならない。
「あのカタツムリの時も思っていたけど」
トンネルを抜けた瞬間に漂った生臭さに、嫌な汗がどっと噴き出た。
見渡す限りの水平線をバックに、すぐ近くにそれがあった。真っ白な岩盤のような巨体が、雲間から差し込む月光を受けて浮かびあがるようだ。二人のバイクと並走するかのようにスピードを合わせてついてくる鯨の怪物。
その、血走った瞳だけが人間のものだ。
「ずいぶん妖怪から好かれるわねえ」
せわしなく動き回る瞳に気を取られていたが、相手は一体きりではない。
巨大な鯨の口からぞろぞろとこぼれ出してくるのは、遊園地で散々相手をしてやった鉄喰らいの蜂の怪異たちだ。
「こいつは!」
驚愕にハジメが目を見開くより早く、数コンマの時間差で彼の頭があった場所を巨大な顎が掠めていった。
「つかまりなさい。振り落とされるわよ」
間一髪で命をひろったハジメは素直に従った。
蛇行するバイクの荷台にいて、聞こえてくるのは怒りに満ち満ちた咆哮だ。耳元でシンバルでも打ち鳴らされたような衝撃の後、アスファルト塊がバイクを飛び越えていくつも飛んで行く。
「無茶しやがる!」
振り返れば、小山のような巨体がその大口で背後の路面を丸ごと削り取っていくところだった。
「そこまでしてでもあなたをどうにかしたいのかしらね」
ハジメの体感速度は未知の領域に達しつつある。それでも悠々と、だが怒りを込めたヒレさばきで巨鯨は追いすがってくる。
「幽香、ここで降りよう!」
「却下よ」
当然のように最後のインターチェンジを無視して、鋼の巨体がうなりをあげる。
「ゆ、幽香、前、前!」
幽香が軽く視線を走らせただけで迸った暖色の爆風。
車止めの重厚なコンクリート塊は跡形もなく消し飛び、粉じんの渦巻く中をバイクが突っ切った。
「あら」
予告なしの出来事の後で激しく咳き込むハジメには知る由もなかったことだが、煙幕の間に微かに見えた人影を認めて幽香は声を漏らした。ミラー越しに見えるのは会釈したままの美青年と、挑戦的に腕組みした仁王立ちの少女の姿だ。
◆◆◆
駆け抜けるバイクに次いで、烈風が吹き荒れた。
雲霞のように押し寄せた怪異の群れが過ぎ去った時、そこには何事も無かったかのように二人の人影が佇んでいた。
「鯨と蜂ねぇ。へんてこな組み合わせ」
ただし、その周囲はひどいものだ。
アスファルトは赤くじくじくと焼けただれ、ところどころに紫電がひらめき、焼け崩れつつある札がはらはらと宙を舞う。
「妖怪なんざ、みんなヘンテコなもんだろ」
氷のような美貌の吸血鬼が掲げた腕の先では首根っこを抑えられた蜂の怪異がじたじたと暴れていた。
「あこがれの『幽香さん』以外は」
「そう、だ、よっと」
路面に叩きつけられた大蜂は体液を撒き散らして四散する。
得体のしれない体液を平然とジャンパーで拭う雪之丞を見ていると、霊夢は最近ますます人間離れしてきた彼が少しだけ心配になった。
「かっこいいなぁ。びゅーんって。バイクびゅーんって」
が、それは杞憂だったのかもしれない。
ただただすす臭いだけの臭気の中に残り香を探すようにすんすんと鼻を鳴らしながら、雪之丞は数歩ふらついてめくれ上がった舗装に足を取られる。
そこで、ようやく我に返ったようだった。
「ま、まずいまずい。今の俺、ダサかった?」
「うん。こっちの人たちがよく言うアレね。ドン引きってやつ」
がっくり肩を落とした雪之丞。霊夢は遠ざかりつつある車体を顎でしゃくった。
「今日は追わなくていいの?」
「あの妖怪を倒せば、ハジメは何もかも知らなきゃいけなくなる。ちょうどいい機会じゃないか」
手持無沙汰に槍を振るって、いたずらに路面に突き立てて、吸血鬼は真夜中の月を見上げる。
「こんなに月も赤いんだし」
いつのまにか肩に降り立ったコウモリたちと白銀の月光を見据える彼の瞳は、霊夢とはまったく別のものを見ているようだった。
「あんた、段々知り合いの吸血鬼に似てきたわ」
「お。そいつと俺と、どっちがいい男?」
「あっち」
「おいおい即答かよ」
確かに言うことなすこと男前には違いないが、本当は触れれば倒れそうな色白の美少女だったりする。大げさにヘコんで見せる雪之丞が面白いので、霊夢は黙っていたが。
「あーあ、落ち込んだらなんかハラ減ってきたわ。霊夢、ラーメン食いにいこ、ラーメン」
「またあの山もりの野菜? アンタも好きねぇ」
「付き合えよ。もう一緒に来てくれるの、お前と紫くらいだし」
元人間は、殆ど夜の闇に溶け込みそうなバイクの荷台を見つめた。バラバラになった友情が、この先元に戻ることなんてあるのだろうか。
「後悔、してる?」
「いや」
「即答かよ!」
きょとんと、雪之丞は口の端をこれ見よがしに吊り上げた霊夢に向き直る。
「ユキのマネ、してみた。似てた?」
にへへと笑って霊夢は雪之丞の脇腹を小突く。呆れながらも笑って、雪之丞は身をかがめて霊夢の目線の高さに合わせる。
「もっとこう、厭味ったらしい感じで尻あがりに、さ」
彼の台詞を遮ったのは空気が破裂する音だった。
反射的に背後へ霊夢を匿った彼の目の前を通り過ぎて行ったのは、半ば光の筋と化した何か。
高速で飛行するそれが空中で幾何学的な軌道を描く度、にわかにその姿がぼやけた残像となってその場にとどまり、黒い羽が無数に舞った。
「私たち、眼中にないみたい」
とはいえ、『それ』の顔を見てしまった霊夢の声には微かに緊張が滲んでいた。笑っていた。どこまでも虚無的に 。
「とうとう守護者のお出ましってワケ」
ハジメと巨鯨を追いかけて行った光の軌跡を、霊夢は睨みつけた。
「なぁ霊夢」
「えぇ。やーなかんじよね」
◆◆◆
崇高な使命があったはずだった。
ちょこまかと逃げ回るバイクを追いかけながら、とろんと溶けかかった意識の片隅で鯨は思い出そうとする。
『それはもはや、思い出せないが』
声を忘れた喉が、代わりに呻きにも似た長い咆哮を引きずり出す。彼の体内を間借りする蜂たちを惜しみなく解き放ち、荷台の人間を粉々に引き裂けと命令する。
『たわいもない』
雲間を出入りする鯨を必死に探しては豆粒めいた弾丸を撃ち込んでくる人間には、あの日あの夜、不可侵である彼の体を傷つけたときの気迫は欠片もない。
だが殺さなくては、と思う。
彼は無敵だった。この能力を持つ限り、無敵でなくてはいけなかった。だからこそ、彼の無敵性を脅かし続けるあの人間を排除しなくてはならない。
『殺さなくては』
崇高な使命を遂行するために。
崇高な使命があったはずなのだが。
『だが、もう』
だがもう、自分には肉さえあればそれでいい。
鉄ではなく、もっと生臭い鉄の味が欲しい。肉だ。血の滴る肉。それも、ヒトの肉が食べたい。初めに肉ありき。そして終わりにも肉肉肉肉肉ううううぅぅぅ――――――
◆◆◆
「聞けよ、幽香!」
片腕で幽香の肩につかまったまま、ろくすっぽ狙いもつけずにハジメは背後へと弾丸を放つ。一発の弾丸が空中で幾度も軌道を折り、数匹の大蜂を貫いて爆散する。それだけでは足りない。
「この先はマトモに舗装もされてないんだぜ!」
彼の言葉を裏付けるように、バイクが後輪を乱暴に跳ねあげた。尻を突きあげられてハジメが悲鳴を上げる傍で、幽香はバックミラー越しに視線を送った。
鯨の大口が再度開いた瞬間、見えたものはまるで地獄絵図だ。やたらめったらと詰め込まれた血まみれの鉄くずと、その間にびっちりと詰まった蜂の群れ。隙間から真新しいしゃれこうべがひとつ転げ出して、路面と一緒に噛み砕かれていった。
「こいつ、どうかしてる」
イカれ具合で言えば蝸牛の怪異は相当なものだったが、この鯨も外見の優雅を裏切る異質さを持ち合わせていた。
「ご明察。大分おかしくなっているみたいね」
大蜂の追撃は苛烈だ。隙あれば車体に取りつこうとする彼らを、片っ端からハジメは撃ち落としていく。いかんせん片手では連射が足りたもんじゃない。撃ち洩らしを避けてバイクは一層激しく蛇行した。
「いつっ――おかしく、なってる?」
弾丸のような勢いではじけ飛んだ礫に頬を切り裂かれながら、ハジメは問うた。荒れ放題の路面で車体は激しく跳ねあがり、口を開くだけで何度も舌を噛む。
「永く生きた妖怪には珍しいことじゃないわ」
どうしてか。とんでもなくイヤなことを彼女が言った、ような気がした。
「よそ見しないで」
「わ、分かってるよ!」
闇と轟音に紛れて首を狙ってやってきた大蜂を撃ち払って、ハジメは意識を目の前の事態に集中させる。輝く指を伸ばす先から、ぎらぎらとした殺意を浮かべて鯨が迫る。
「狂っても忘れられないのが、あなたへの執着なんでしょうね」
ハジメはただただ生き延びたいから、迫る鯨の鼻面に目がけて燃える銃弾を撃ち込む。燃える軌道は確かに鯨を貫くのだが、遊園地で対決した時のような手ごたえはない。
「霊夢と同じ力!」
『主に空を飛ぶ程度の能力』の名前によらない恐ろしさは身をもって学習済みだ。
「いいえ。あの子に比べれば、ちゃちな能力よ」
幽香が答え合わせをする。
「シーツをめくって内側に隠れるみたいに、位相を移している。この世界と半歩分ズレた場所にいるから、こちらから干渉することができない」
彼女の言葉を裏打ちするように、鯨の周囲を漂う雲海が虹色に輝いている。
「なら、霊夢を倒せたあんたの出番だ。そうだろ?」
それから数秒間は、完全に穏やかな時間が流れた。鯨と蜂の大群は様子見に徹し、幽香とハジメは上空に警戒を張り巡らせつつ、まっすぐに走り続ける。
「いいえ」
その沈黙を挟んで聞こえたのは、すげない答えだった。
「あれの最後に、貴方の手で死に花を飾ってあげなさい」
「なんだよ、それ。ワケ分からねえよ!」
爆音と風切りに負けないように叫んだつもりが、後半は大分尻すぼみだった。幽香の肩越しに、恐ろしいそれが見えたからだ。
「道が!」
と、叫んだ時には黄黒の停止柵を吹き飛ばした瞬間だった。
数十メートル先、もはや道はそこで途切れている。背後から重機を噛み砕いて鯨が迫る。あたりを囲む大蜂の群。
闇の中に対岸が薄ぼんやりと見える。そこまでの距離がいか程であろうと、バイクにとっては無限にも等しい。
当たり前だが、バイクは空を飛べないようにできている。
「えぇ。見えてるけど?」
そんな絶体絶命の状況で、幽香はやはり、冷静すぎるくらいに冷静だ。
ハンドルから離れた彼女の手が光る何かを放った。数十メートル先、ぶつりと途切れた路面に緑色の輝きがいくつも灯る。
「杏奈はあなたたちを放り出すのが最適解だと思ったそうよ。私も彼女のやりかたに倣ってみようと思ったの」
路面を食い荒らしながらめきめきと暗闇に成長したものの正体を、近づくにつれハジメは見て取る。早くも青々と葉を茂らせ始めた巨木と、その強靭極まる根がゆっくりと持ち上げていく路面を。
「おい――おいおいおい、やめろ! 流石にそれはムリだ、考え直せ!」
今や急斜面となってそそり立つ道路が意味するところを知って、ハジメが叫ぶ。
「やってみないと分からないわ」
「やらなくても分かることだってあるんだよ!」
即席のジャンプ台へとバイクがぐんぐん加速する。エンジンの唸りはもはやもう一匹の怪物がこの場所に降り立ったと錯覚させるほど凶暴なものへと変じていた。暴れ馬じみた鉄塊を軽々と乗り回す妖怪は、
「へたれ」
「あ!?」
あえて、禁句を口にした。
「少しはマシになったと思っていたけれど、本当どうしようもないわね」
出来るかどうかは別として、ハジメはもう少しで幽香の首を絞めあげるところだった。
「あの時の言葉で一つだけ確かなことがあるとするなら。私はハジメを信じているってことよ。あなたの能力と、あなた自身。あなたが思うより、あなたはずっとずっと強い」
怒りが萎んでいくのを感じつつ、ハジメは幽香にしがみついた。
「さぁ、戦って」
タイヤが地を食む。
猛烈な加速がもう一度かかり、完全にハジメと幽香は重力から解き放たれた。
鯨が長く低く吠えて、強靭な顎でたった今彼らが飛び立った地面を粉々に砕いていく。
子供の頭ほどもあるコンクリート片が背中を打ち、息が詰まった。
それでも、幽香につかまっていた手を離しながら、ハジメは狙いを定めた。
なおも日常にすがろうとする意識に楔を穿つように、一発一発、指先に燃える弾丸を装填していく。トリガーを引こうとして、ふと、不安に駆られる。
撃ってみろよと何かがささやく。
今夜撃てばもう、今度という今度こそお前は引き返せなくなるぞと。
それが恐ろしくて、もう一度だけ幽香にすがるように振り向いて、それを見つけてしまった。
「なにやってんだよ」
赤い花びらが散っていた。と、思えばそれは自分自身の右腕から迸ったもので、痛みと、そして深々と腕に食い込んだ大蜂の顎と、まったく逆の順序でハジメは出来事を整理していく。
「ともかく、いつかの借りは返したからな」
その言葉すら、すべてを認識できないまま、末期の息じみて口から吐き出されていた。
ハジメを探して幽香の手が宙を掻いた。ぎちりと大蜂の顎が一層強く腕を噛みしめ、荷台から彼は引きはがされた。
「ねぇ、どうして」
空中に放り出された彼に、大蜂の群れが迫る。
ようやく己が身を呈して大蜂から幽香をかばったということに思い至った。焼かれようが、体の一部を斬り落とされようが平然と再生し、立ち上がる彼女を、たった一本の骨を繋ぐのにひと月かかる体で守るなんて、あまりにナンセンスだと、思う。
「
実際はどんと胸を押されるような感覚だけで、痛みなんて感じるヒマは無かった。それでも、そう言っておかなければいけないような気がしたので、それは半ば義務的な声だった。
――――あぁ、これ、マジで死んじゃうヤツじゃん。
ゆっくりと胸から引き抜かれていく針。勝ち誇るように羽音高く飛び去る大蜂。
へたれ呼ばわりした彼女にちょっとだけ後味の悪い思いをさせてやろうと、無事対岸に降り立った幽香に視線をくれてやる。
見えたのは派手に散った火花だった。
ハジメに手をさしのばしたまま着地のことを忘れた幽香が、バランスを崩して横倒しのバイクごと路面を滑っていくところだ。
「そっちこそ、俺に何を期待してたんだよ?」
足下から、彼をすくい上げるように鯨が浮上する。
全身がバラバラになりそうな衝撃を感じた瞬間には大きな洞窟のような口に丸のみにされていた。鉄骨と死骸と蜂が無数に詰めこまれた空間の天地が何度もひっくり返り、あちこちを切り裂かれながらハジメは鯨の胃袋へと滑り落ちていく。
何度も死地に投げ込まれてきたとはいえ、本当に死を自覚すると恐ろしいもので。
最後の最後でべそをかき始めるよりも早く気を失うことができそうなことだけをありがたく感じたまま、ハジメは瞼を閉じた。
血なまぐさい怪物の胎の中にあって、それでも深い海の底にいるような錯覚を覚えるのは、やはり、その闇の深さ故なのだろうか。
どうしてここまで来たのかも、どうしてここまであがいたのかも思い出せない。
今はただただ、自分を取り巻く理不尽のあまりに息苦しい。
黄金の輪郭が、一瞬だけ見えたような気がした。