夕日にきらめく波間に、幽香はずっと目を奪われていた。
高速のパーキングエリアからではせっかくの湾もビルの影に切り取られていくぶん小さく見えるものではあるが、それでも彼女には関係ないようだ。
「海は始めて見るのかい」
ここまでの長い道のりを頑張ってくれた愛機のタンクをねぎらうように撫でる、ハンドルにヘルメットをひっかけて杏奈は幽香に並び立った。
「そうね」
「今時珍しい」
上の空で答えた幽香の瞳には少女じみた輝きが宿っている。所感を言葉に組み立てる時間ももったいない、といった様子だ。
揺れ輝く海が、幽香の目には遠く遠く幻想郷の地にかつて根付いた向日葵畑のように映った。思わず手を伸ばしかけて、幽香は杏奈の視線に気づく。
「この先のインターで高速を降りて、30分も走れば浜までいけるよ。どうする?」
意気揚々と踵を返しかけて、幽香は瞑目した。
ここまでの道のりがおよそ2時間。そして行き帰りの分を考えれば、口惜しいことに時間切れだ。
彼女には鶴見家の台所を担うという使命がある。腹を空かせたハジメや千晃に好き放題宅配寿司やらピザやらを頼まれてはたまったものじゃない。
鶴見家の財政面も栄養面も、正しく把握しているのは幽香だけなのだ。
「ハジメにご飯を作ってあげなきゃ」
「そっか。じゃあ海は我が息子と一緒に行くといいさ」
けらけらと笑って杏奈は近くの自販機へと向かう。今まさに真っ赤な太陽を飲み込もうとする金色の海を見つめながら、幽香は疑問を放った。
「杏奈はどうしてあの家を出ていったの?」
こぼれた小銭を拾おうとかがみ込みながら、杏奈はあぁ、と短く答えた。
「家族だからさ」
未だに絆があるからこそ、杏奈は家族を置いて家を後にした。
数百年か、ともすれば数千年か。考える時間は果てしなくあれど、生涯の大部分を家族といったものに一線を引いて過ごしてきた幽香がとっさには掴みきれない回答だった。
「ちょっと難しかったかな」
幽香が手渡された珈琲缶を掌の中で転がしながら考え込んでいると、杏奈は妖怪の心にぽっかりと開いた空隙につけこむように微笑んだ。
「本当はハジメの恋人でもなんでもないんだろ?」
「あら。気づいていたの」
怒るでもなく、杏奈は夕日に目を細めた。
「キミは猿芝居が嫌いそうだったからね。早めに切り上げさせてあげようと思っ、あちち!」
杏奈は缶を口に運んだそばから中身の熱さに舌を突き出してひいひいとあえいだ。
目尻に涙すら浮かべる妙齢の美女に、しかし幽香は底知れぬものを感じざるを得ない。いかに生きた年数で勝ろうとも、彼女の飄々とした態度を前に気を抜けばいつでも容易くお手玉にされてしまいそうだった。
「はい。そこで質問なんだけどさ」
手すりに持たれたままの幽香は小さく頷いて、杏奈に先を促した。
「恋人でなければ友達ってワケでもない。だったらどうしてキミはあのどーしようもない家にいて、どーしょうもない息子の面倒見てくれているんだい?」
「家族だから」
同じ言葉を吐かれて杏奈は面食らったようだが、しばらくの沈黙のうちにかっかといつもの特徴ある笑い声を上げた。
「ハジメが私は家族って言ってくれたのだけれど。おかしかったかしら」
それはもともと、鶴見ハジメに殺し合いを取り付けるための約束でしかなかった。しかし今は違う。
「あいつめ。そんなことを言えるようになったのか」
トラブルメーカーで、その上自分を殺すと宣言した相手をハジメは一家に迎え入れた。だったら幽香もそれだけの覚悟を払った彼を家族として認識する。それは僅かな差であっても、彼女にとっては大きな意味がある。
「家族だったら家族の問題は捨て置けない」
それっきり。片方は夕日に輝く湾を、もう片方は街灯に薄鈍く照るバイクを見据えるだけに時間が経過する。杏奈はたまに何かを思い出すように、口の端を緩めたり締めたりしていた。
「そうだね。うん、すごく頷ける。でも困ったなぁ」
しゅぼっという音とともに杏奈の口元に明かりが灯った。
耳に快いオイルライターの開閉音に次いで流れてきた紫煙を避けるように、幽香は身じろぎした。
「最初に千晃が引きこもってさ。次はあのバカ亭主の職場がおかしくなった。さっさと辞めちまえよって言い聞かせてもあのバカ耳もかさない。そうこうしてるとハジメもハジメで思春期こじらせてさ――あぁ、ケムリ、嫌いだった?」
「気にしないで。それで?」
「んで。この私も珍しく必死になったんだけれどねえ」
杏奈はあれやこれやと手を尽くした。
千晃には根気強く接したし、ハジメにだって多少暴力的な形だったが愛は教えたつもりだ。その結果たるや虚しいもので、何も変わらないどころか状況は悪化の一途を辿る。
そこで杏奈は気づいてしまった。
「うっわ。こいつらかえってダメにしたの私じゃん。ってさ」
気づけばみんな杏奈に頼りきり。
結局は何も変わってはいない彼らを放り出して自分の足で歩ませる。それが家族として杏奈の下した判断だった。
「あぁ、これは確かに困ったわね」
ようやく杏奈の言葉の意味を理解して、幽香は手すりに体を預ける。
「私は家族だからあの家を離れた。幽香ちゃんは家族だからあの家を離れられない」
限りなく同じ立場でモノを見ながらも、成した選択はまったくの正反対。
杏奈の選択がすべて正しかったと言えないくらいに、今の幽香は自分の行動が正しかったのか悩ましいところだ。
千晃は部屋を出て、ハジメは野望と呼んではばからない夢をあらわにした。いずれ父の問題もカタがつくだろう。それでも、一度降って沸いた不安はぬぐいがたい。
――私がしてきたことは、本当にハジメたちのためになったのかしら。
「どちらが正しいか分からないのならいっそ、勝負で決めようか」
杏奈は反動をつけて柵から体を離すと、軽い足取りでバイクへと向かい、ヘルメットを取る。
「あの石頭言いくるめて、月末まではなんとか居座ってみせるよ。それまではお互い何をしようと自由。私が家を出て行く前に、私が要らないってことをあの子達が示してくれればキミの勝ち。どう、やる?」
帰り道の運転のじゃんけんしようよ、と拳を突き上げる杏奈を見て、幽香はとことんわけのわからない女だと呆れるばかりだ。だが杏奈の言う勝負、確かに興が乗るところではある。
「言っておくけれど、私、勝負に負けたことなんか一度もないの」
その言葉を証明するようにジャンケンに先手必勝のパーで応じると、幽香はさっさとヘルメットを受け取ってハンドルを握る。その腰に杏奈の手が回る。
「ふふん。楽しくなってきたねぇ」
威勢良くエンジンを吹かしながら、一度だけ幽香は海を振り返った。太陽は既に水平線にかかった薄い光の帯でしかなく、黄金のきらめきは遠い。
まるで彼女のひまわり畑が手の届かない場所へと遠ざかっていくようだった。
◆◆◆
「お姉ちゃん?」
はっとした。
勝負のことを思い出しているうち、知らず知らず手に力が入り過ぎたようだった。
幽香に抱かれて眠っていた千晃が目を覚まし、不安げに見上げてくる。
「ごめんなさい。起こしちゃったわね」
ベッドから起き上がって、幽香は改めて千晃に毛布をかけてやった。
「ちょっとお水、飲んでくるわね」
「う、ん」
消え入りそうな千晃の返事が引っかかって、幽香はドアノブに手をかけたまま振り向いた。明かりを点けることがどうにもためらわれる。
幽香には千晃が、それを望んでいないような気がしたのだ。
「どうしてアレもコレも、うまくいかないんだろうね」
窓から差し込む月明かりの中で千晃が上半身を起こす。毛布を頭から被ってふらふらと揺れる姿は、まるで子供の描くオバケのようだった。
幽香はベッドまで戻ると、幽霊もどきの頭をそっと撫でてやる。
「あなたはお父さんとお母さん、どちらが好き?」
「どっちも好きじゃない」
清々しいほどの即答である。
いささか予想外の答えに幽香の手が止まる。毛布から頭だけ出して、千晃は薄ぼんやりと光る幽香の瞳を不思議そうに見上げた。
「どうして?」
「お前たちのタメってケンカしてばっかりだもの。お父さんだけでも、お母さんだけでも、私はイヤ。みんな揃ってようやく、私はこの家が好きになれるんだと思う」
指をくわえて事態の悪化を見守ったものなどいない。
父も母も、もちろんハジメや千晃自身でさえ。皆が必死だった。だというのに、結局は何一つとして上手くいかないままに鶴見家は空中分解しようとしている。
そこに新しく加わった幽香のすべきこととは。その答えは一体どこにあるのだろうか。
「きゅうくつだよね。ホント」
答えを欲する千晃の瞳に映る妖怪の姿。
なるべくヒトらしい模範解答を探して、幽香は答えてやる。
「あなたたちを愛しているから、ケンカしてくれるのだと思うわよ」
こてんと横倒しになって、千晃は天井を睨んだ。
兄譲りの鋭い目元。その半分は眠気に飲まれて、もう半分は不安に呑まれて。彼女の吐き出す言葉は、ひどくとりとめがなくなり始めていた。
「なんていうかさ。頭の奥に消化できない雲がもやもやつかえたようなカンジ、すごくイヤなんだ。どう言えばいいんだろ」
千晃らしい珍妙な例えではあるが、幽香にはすぐに言葉が見つかった。
例えば長い冬を越してくれた花がすぐ散ってしまうとか、ある日突然世間との折り合いがつかなくなるとか、家を出た瞬間トラックに轢かれるとか。
それは、ちょっとやそっと考えたくらいでは及びも付かないようなところにいるヤツが暇つぶしに投げてくる石つぶてのようなもの。
「理不尽」
かくいう幽香もコイツとは長い付き合いだ。
「あぁ、うん。そうだ。リフジンだ。リフジンっていうんだよね」
千晃は微かに声を上げる。
よほどしっくりきたと見えて、彼女は幾度もその名を繰り返していた。
「お姉ちゃんはすっごく強いから、きっとそんなもの、関係ないんだろうけど」
羨ましそうに呟いて千晃は幽香の手に鼻面を押し当てた。
彼女の纏う花の香りを胸いっぱいに吸い込んで、ようやく安心したように目を瞑る。傍目には実の姉妹のようだった。
「そうでもないわ。悩みばっかりよ」
「お姉ちゃんが?」
すぐに幽香は取り繕うような微笑みを浮かべた。
「それじゃあおそろいかな。なんだか、嬉しいな」
大あくびをかました千晃が二度目の眠りに落ちるまで、もはや秒読みだ。最後に千晃の頭をひとなでしてやって、幽香は暗い廊下を電灯も点けずにひたひたと歩く。
「幽香か」
台所でコップを手にシンクを前にしたところで、幽香はようやくテーブルに突っ伏した青年の存在に気づいた。
「また風邪ひいちゃうわよ」
枕がわりの腕を解いて立ち上がると、ハジメはのびをした。
深く考えるということをようやく覚えた彼が、思考の堂々巡りの末に眠りに落ちたことは想像に難くない。
「明日、学校をサボる計画立ててさ」
いつもよりカルキ臭い水に顔をしかめながら、幽香はまず唇を濡らした。
「それで何をするの?」
息を止めて幽香は一気にコップを傾ける。
シンクの頼りない光を放つ蛍光灯の下に彼女の白い喉がいやに艶かしく見えて、ハジメは無意識に暗がりへと視線を逸らしていた。そうすると一層意識させられるのが拳の中に隠した血濡れの包帯で、彼の自己嫌悪はより一層強まるだけだ。
「幽香は明日の予定ってある?」
そんな自分を振り払うように口を開いた彼の声は、ほとんど裏返りそうなくらい不自然に明るかった。振り返った幽香は訝りを隠さずにハジメの顔を見つめた。
「いいえ。お弁当を作らなくていいならのんびり寝坊しようと思うのだけれど」
「弁当はいつも通り作って欲しいんだ。明日はあんたの分も。イヤって言うならそれでもいいんだけど」
ますます幽香にはわけがわからない。
じいっと見つめる彼女の前でハジメは腕組みして、解いて、落ち着きなく視線を彷徨わせて。
観念したように幽香に向き直ったとき、彼の頬にはうっすらと朱がさしていた。
「……明日一日、俺にくれないか」
「え」
それはいい加減告白しようとしていた『ウソお母さんにバレちゃったわよ』が喉の奥に引っ込んでいくほどの衝撃だった。
「それはデートのお誘いってことで、いいのかしら」
瞬時に顔を真っ赤にして俯いたハジメに歩み寄って、幽香はその顔に触れる。まるで医者が新種の感染症でも見つけたかのように、ハジメの頭をぐりぐりとあちらこちらの方向に捻って検分する。
それほどまでに、へたれの口が紡ぎ出した唐突な一言は幽香をびっくりさせたのだ。
「驚いた。あなた、本当にハジメよね」
「う、うるさいな。それで、どうするんだよ」
似合わぬことを言っているのは本人とて百も承知といったところか。
とはいえ恋人ごっこの延長戦として彼が計画したものなのか、はたまた長い付き合いで彼がすっかりおかしくなってしまったのか。
幽香にはそれを判断するだけの材料がない。
「コイビトの誘いを無碍にできるはずがないでしょ」
だが、とにかく面白くはなりそうだ。ふっと笑って、通り過ぎざまに幽香はハジメの頭を撫でた。
「ふふっ。それじゃあいつもより早起きしなきゃね。やれやれ」
「ありがとう」
心底安堵した様子のハジメに、幽香も自然と笑みをこぼしていた。
◆◆◆
――――ゆらーりゆらり
少々、今宵は長く泳ぎすぎてしまったのかもしれない。
酔っ払ったようにふらつく巨体でヒトの建造物をなぎ払いながら、彼は奔放に暴食を繰り返していた。降り注ぐ破片で地上にはそれなりの被害が及んでいるが、彼が知ったことではない。どうせいずれは彼の胃袋に収まるのだ。
ぼりぼり。
道端にばらまかれた色とりどりの鉄塊を拾い上げては口に運び、ちょっとした気まぐれを起こしては普段は口にしない金物をかじってみたり。
ぼりっ
やはり、長すぎたのだろう。
泳ぎすぎたのではなく、彼そのものが長らえ過ぎてしまったのだ。
一体の敵も許さず、手を出されぬままに悠久を泳ぎきり、そして今や、彼はひとつの岸辺にたどり着こうとしている。
ぼりっぼりっぶちゅっ。
奇妙な歯ごたえに、彼は宙を打つ尻尾を休めた。
小骨でも噛んだろうか。それにしてはやけに鮮烈で、やけに甘酸っぱい。鉄よりも鮮度のいい、鉄の味。滴るような、赤い味がする。
――――ゆるりらゆらり
大きな舌と小さじ一杯ほどの脳みそをフル稼働させて、彼はその味に没頭する。
何を噛んだ? 何を潰した? 鉄の中に紛れていたのか?
今の今までそんなヘマをしたことなど、一度もなかったというのに。
かつて彼が忌避したその味は、今、なぜか悪魔的に甘い。その理由がなんであるにせよ、今日は誰も彼もが待ちわびたバレンタインデーだ。
偶然拾い上げたチョコレートの中にイチゴが二、三紛れていようと、それはさしたる問題ではない。とある青年がそうであったように、彼も今ではすっかりその味の虜だ。
ぶしゅっ、ぐちゃっ、ばりっ、ぐちゃっぶつぶつ、ばりばりばり、ごきゅっ――
もう、ゆるゆらと泳ぎ回る必要はない。彼は彼の岸辺を見つけた。そこから先に広がるのは、ひたすらにご馳走が敷き詰められた黄金の大陸だ。新しく覚えた味を噛みしめながら、彼の濁った瞳は既に別のチョコレートを地上に探している。
彼の暴食と悪食を咎めるものは存在しえない。バレンタインは、残酷なくらい誰にだって平等なのだから。
ぼりっ。
第十二話『14日』おわり