1『最悪の敵(上)』
彼はあまりにも巨大だった。
たゆたっていた。
いつからか、どこからか。彼も忘れるほど長い時の中を、そのクジラめいた巨体で泳ぎ続けてきた。
――――ゆるりゆらゆら。
彼に敵はいない。
かつてとある都市の裏路地に息づいた卑しい妖怪は、井の中の蛙であるが故に己が最も強いバケモノであると確信していたという。
だが正真正銘、彼に敵など空前絶後に存在しなかった。
彼はその姿通りに大海の青さも深みも知っている。世界中の空を渡り歩いての結論だ。
手を出してくるものがいなければ、それは文字通り無敵ということになる。
――――ゆらーりゆらーり。おなかがへった。
眼下にきらきらと輝く夜の町並みは彼にとってまるごと天晴れなご馳走だ。嬉しそうに開かれた彼の口の中に無数の光が灯る。そして。
◆◆◆
「つるみん、幽香さん来たよ?」
クラスメートに肩を叩かれてハジメは目を覚ました。
「朝だいぶ走ったんでしょ。お疲れ」
「お前はちゃっかり自転車で来やがってよ」
苦笑する彼女に生返事を返して伸びをするとハジメは席を立った。
首を巡らせれば見える人だかり。その中心でひょこひょこ愛想よく動くのは、相変わらず形容しがたい色味の艶やかなショートボブであった。
「うふふ、そうなの。それじゃあお言葉に甘えて踏んじゃおうかしら」
のけのけと人だかりを押し分けるうちにそこで行われていたアヤシゲな儀式の全容が明らかになる。床に数人連なった上半身裸の屈強な男たち。そしておもむろに来客用のスリッパを脱いでストッキング履きの足を持ち上げる幽香。
「何、やってんの」
ハジメの肩から通学カバンがずり落ちた。
「そんなスリッパじゃ足が汚れるって。床になってくれるらしいわ」
最初の一人が恍惚とした表情で役目を全うする中、幽香もくすくすと笑いながら意地悪に一歩進んで二歩下がってみたりする。その度に男たちは入れ代わり立ち代わり慌ただしく彼女の足元に集うのだった。
「うふふ。うふふふふ。どうしてかしら。今、けっこう幸せ。え? ここで? 仕方ないわねぇ」
疑問符を浮かべながらも幽香の動きには淀みがない。仕方ないわねと言いつつ仕方の無さが微塵もない。するりと下足入れを解いて出てきたものは、この展開を見越したような細いヒールである。
床から茶色い悲鳴が上がった。
「すげえ。あれ痛そう」
「でもあいつらめちゃくちゃ嬉しそうだな」
「ひょっとすると意外と楽しいのかしら」
ごくりと唾を呑んで見守るアホな級友たちに向けるハジメの目は冷たい。
なかなかに歪んだ形でハジメの学校生活に溶け込み始めた幽香。彼女を止めるべきか足元の男たちを止めるべきかとハジメが頭を痛めていると、その袖を引いたものがいた。
「江梨花」
いつになく神妙な面持ちの彼女に戸惑っていると、その視線の先にある空席へと目がいった。どこかのお調子者がいつものジョークで机の上に据えた花瓶には何故か真っ赤なバラが生けてある。
相手を間違えれば、ただのイジメだ。
『おいおいおい、まったく誰の仕業だよ。あーっ、ふざけんなって!』
いつもどおりにマジ切れして見せてみんなの笑いを取る人気者の姿がありありと再生されて、ハジメは頬を緩めていた。しかし江梨花は表情の深刻さを増すばかりだ。
「もう学校休んで一週間だよ」
「心配するなって。きっとあいつは新しい進路ってのを見つけたんだろ」
「ねぇ、友達でしょ。何でそんな達観しちゃってるわけ?」
不安げな眼差しについ口ごもる。江梨花は何も知らない。その空席の持ち主は吸血鬼となって魔剣を手にハジメの前に現れ、謎めいた捨て台詞と共に姿を消した。
それから一週間。
「ユキはユキで、ハジメのことを心配してたのに」
ぷいと背中を向けて去っていく江梨花にどう声をかけていいのか分からない。あいつは嫉妬に狂って吸血鬼になっちまって日の光なんて浴びたらきっと溶けちまうぜと伝えて、彼女の安心が手に入るかどうかは非常に怪しいところだった。
「ハジメ、行きましょう?」
幽香に手を引かれて、後ろ髪も引かれて。
ハジメはざわつくクラスメートに頭や尻をさんざん叩かれて冷やかされながらも、振り返り返り、雪之丞の席に腰掛けて窓の外へと視線を馳せる江梨花が気がかりで仕方がなかった。
「いい子」
長い渡り廊下を歩くハジメがグラウンドの花文字事件を思い出していると、幽香がぽつりと漏らした。
「ダチのことならなりふり構わないのは、きっと彼女も一緒なのね」
「それ、お前が言うと違和感バリバリだな」
ハジメの冷静なツッコミに幽香は言い方がおかしいのかしら、と首を傾げた。
「ちょっとハジメのマネをしてみたんだけど。えーと、私たちってダチじゃん?」
「やめとけって。いや、やめてくれ」
そう堂々と自分の口癖を使われてだだ滑りされては、ハジメの方が恥ずかしくなってくる。彼の心境も知らずに幽香は通りがかる生徒にはばかりなくダチダチと連呼している。
頭がおかしくなりそうになった頃、ハジメはようやく下駄箱にたどり着いた。
「ありがとう。またね、床」
「次もお願いします!」
――あいつらずっといたのかよ。
見るもおぞましい裸祭りが整然と赤い斑点だらけの背中を並べて去っていくのを見送って、無意識にそいつらをシャットアウトしていた人間の脳の偉大さにハジメは感心する。
「さて、ユキのことだけど」
そこでようやく、幽香が敢えて吸血鬼の話題を避けていたことに気づかされるのだった。
二月の頭では寒さもまだまだ強い。それでも日傘を差した幽香の隣を歩くハジメは不思議な暖かさに包まれていた。
風も寒さも防ぐ彼女の力の一端は、いざ荒事となれば難攻不落の城塞と化す。迫る攻撃を目視してひいこら迎撃するのが関の山のハジメとしては羨ましい芸当だった。
「うん、あいつが?」
「あなたが寝込んでいる時に、私たちの家に来たのよ」
「おいおい」
私たちの家という聴き心地のいい言葉はこの際無視した。
幽香が言うところによると一週間前、日中にも関わらずに雪之丞は堂々と庭先に現れて彼女と世間話をすると帰っていったというのだ。
「もっと早く言えよ。俺だってあいつと話したいことが山とあったんだぜ」
「ユキはそうでもなかったみたいだけど」
校門を抜けた幽香が一度校舎を振り返って手を振った。窓際に一列に並んだ肌色が手を振り返してくる。グラウンドにまばらに出ていた運動部の連中も僅かに遅れて大声を飛ばしてきた。
「人気者だな」
幽香もまんざらではないようで、軽い足取りでハジメの半歩前を行く。
「そうね。私もちょっと怖いくらい」
学校前のバス停を通り越したところで幽香は振り向いた。
「この世界に来てから、すごく楽しいのよ?」
かつて幻想郷で忌み嫌われたという最強の妖怪、風見幽香。ここ数日になってより邪念が飛んだような彼女の笑顔を見せられる度に、ハジメは彼女自身の語った過去がひどくちぐはぐなものに思えて仕方がない。
誰も彼も苛め殺すおっかない妖怪なんて、彼がどこを探しても見つからないのだ。
「ハジメ、バスは出ないわ」
「あ、あぁ。そうだった」
足を止めたのは彼女の笑顔にではなくて、いつもの習慣に違いない。ハジメは自分に言い聞かせて制服の襟元をしめた。
事実、今F市では公共の交通機関が全面的に停止してしまっている。朝遅刻寸前でハジメが教室に駆け込むような事態になったのも、これが原因だった。
原因は金物だ。
レール、電線、信号機からクルマのシャフトまで。たった一晩の間に金属と呼ばれるものはあらかたかじり取られるように無くなっていた。被害は一点集中で翌日には復旧すると聞かされてはいたが、いい迷惑であることに変わりはない。
奇妙なのはそれだけ大掛かりな窃盗と器物損壊の犯人が誰の目にも留まっていないということだ。
「またどこかの下らない妖怪くずれでしょうね」
幽香が断ずる。
「姿を現さないのは賢いからか、それとも臆病なだけか、両方か。どちらにしろハジメのいい教材になりそう」
「勘弁してくれ」
ため息ついてふと視線を逸らして見えてくるのは、『下らなくない妖怪』の引き起こした破壊の跡地である。区画一つを丸ごと潰すような戦いで巻き添えが出なかったのは奇跡に近い。
うっかり幽香に手を出して鼻面をへし折られた酔っぱらいのことなどハジメは知る由もないので、彼は素直に胸をなでおろすのだった。
ビニールシートをかけられた建物が立ち並ぶ通りを抜けて歩き続ける。
ハジメの様子が目に見えておかしくなったのは、家の前にでんと停まったそれを目にした瞬間だった。
「おい、嘘だろ」
幽香が訝る暇も与えずに駆け出した彼の先には一台の軽自動車。深い青色の車体にへばりつくようにして中を探るハジメに追いついた幽香が声をかけあぐねていると、その肩を叩いたものがいた。
「しーっ」
髪を短く切り揃えた妙齢の美女。いたずらっぽく笑った顔にどこかハジメの面影がよぎって、幽香は息を呑んでいた。
「よっ、ハジメ」
背後からびしっと頭にチョップを入れられるなり、幽香が見たこともないような顔でハジメが振り向いた。痛みと苦味と怒りと呆れ。複雑に入り混じった感情を敢えて表現するのなら、そんなところだ。
舌打ちひとつ吐き捨てたハジメの瞳には、信じられないことに一瞬黄金の火花が散っていた。明確な敵意を押さえ込んだ彼の声は地の底から響くように低い。
「ずいぶん久しぶりな気がするな、杏奈」
「こーら。母さんって呼びなよ。少なくとも、この離婚話が終わるまではね」
◆◆◆
がるると唸る千晃を膝に、幽香は杏奈を観察する。
鶴見杏奈、つまりハジメの母親はどうしてもハジメの父との関係を解消したいようだった。むしろこれまでの数ヶ月間一切音沙汰を絶っておいて、今更という感もある。
「そうだな」
こんな時でも父は平常運転だ。もちろん内心では雷雲が渦巻いているのだろうが、彼はおくびにも出さず全ての条件を呑んでいった。
最後のひとつ以外は。
「だがハジメと千晃は俺が預かる」
「おいおい石頭、それがイヤで私が出て行ったっての忘れないでよね。千晃のアレも、ハジメのソレも、シゴトシゴトって全部私に任せっきりだったあんたが、何言ってるのさ」
「それでも仕事をしなければ元の木阿弥だろう」
「それは半年前にも聞いた。もっと脳みそ絞りなよ」
どうしてそこまでしてリビングの空気を重くしたいのか、ハジメには分からない。幽香を見てみる。彼女は彼女で今にも飛び出していきそうな千晃をなだめているようだ。
「その」
ようやく視線が会った時、彼は自分がすがるような目をしていないかと心配だった。
「俺らの意見ってのは、どうでもいいワケ?」
「二人が残りたいなら残ればいいし、ついて来たいのならついて来ればいい。そうしようよ。ね、それでいいじゃん」
――それじゃあ答えは出たも同然かしら。
千晃のむくれっ面を物理的にほぐしてやりながら幽香はハジメを盗み見た。しかし意外や意外と、彼の口は重く閉ざされてしまっているのである。
「いたた」
思わず加減を忘れた幽香の指に頬を引きつられた千晃が悲鳴を漏らした。が、彼女もまたそれ以上の言葉を発しようとはしない。
「いいね。私しばらくこの家にいるから、その間に話し合って結論を出してくれれば」
「勝手を言うな。お前の寝泊りする部屋なんて」
「二階の廊下の一番奥。食費はもちろんガス水道だって払えって言うなら払うよ」
父は幽香に目配せした。近いうちにその部屋を割り当てられることになっていた彼女は好きにしてちょうだい、とこれまた器用に目線だけで答える。
そうして父から吐き出された盛大なため息が答えとなったのである。
「やったぁ! なんなら晩ご飯は私が作ろうか。どうせまたコンビニごはんでも食べてるんでしょ?」
「悪いな。おふくろの味とやらはもういらないんだ」
「ありゃ」
挑戦的に見据えるハジメの視線は杏奈をすっぽ抜けた。
あたりに漂う緊張など無視したマイペースな足取りで彼女が向かった先は幽香のもとだ。千晃が歯を剥いて威嚇するが、これまた効果はない。
「そういえばキミ」
「何かしら」
面倒そうだなぁ、と幽香は千晃を盾のように持ち上げてみる。そんな控えめな防御などなに食わぬ顔で突き通してくるのがハジメの母ちゃんである。
「自己紹介がまだだったね。私は鶴見アンナ。キミのお名前は?」
「風見幽香」
「ふぅん。古風っていうか、風雅っていうか。覚えるのが難しそうな名前だね」
「そんなこと初めて言われたわ」
すべて真ん中に不機嫌爆発の千晃を挟んでのやりとりである。
ハジメは顔をしかめて一部始終を見守りつつ、幽香があからさまに彼女を苦手としているのがひしひしと伝わってくるようだった。
「それで、キミはどこの誰かな。あぁごめん、ちょっと失礼な聞き方だったかも」
「私はハジメのい――」
珍しく幽香が言い淀んだ。
それもその筈、相手はハジメの実母である。むしろいつもどおりに「従姉ですわ」と答えて墓穴を掘らなかった幽香は自分を褒めてやりたくなる。
とはいえ友達では居候している言い訳が立たないし、父の愛人と答えては話がより一層こじれていきそうだ。いっそ元から住んでいたと言ってみようか。
――あら、結構困ったわね。
それでもハジメが静かに立ち上がったのを助け舟と受け取って幽香は安堵していた。
「こいつは」
しかし、彼の口から吐き出された言葉は幻想郷の大妖怪をしても度肝を抜かれるような大嘘なのであった。
「こいつはカノジョ。俺の、はじめての」
「は」
「へええええ!」
おいおい待てよそりゃどういうことじゃいと言いかけた幽香を制したのは杏奈の大声である。千晃がぐったりとして動かない。卒倒している。
「熱っ」
唯一冷静と思われていた父でさえ、急須から膝に茶を注いでいた。
「こんな綺麗なコ、ハジメにしては頑張ったじゃんか!」
ふんふんと頷きながら杏奈は落ち着きのない犬のように幽香のまわりをぐるぐる見て回った。依然としてハジメの意図が読み取れないままに、幽香は戸惑いたっぷりの視線を送る。
「ねぇ、これ夢じゃないよね。この石頭とのやり取りが嫌すぎて私が見てる現実逃避の妄想じゃないよね!?」
「私に聞かないでよ」
「いや、ハジメの強がりかもってこともあるしさ。恋人だって言葉をキミの口から聞きたいな、なんてさ」
「頼む」
耳打ちしたハジメが浮かべたのは、家の前で車を目にした時と同じ表情だった。
渋々の仕方なしで幽香はハジメに合わせることに決めた。その代わり、理由は後でしっかりと説明させるつもりだ。
「え、えぇ。そう。私はハジメと付き合って、る、けど。っ!?」
隣のハジメに乱暴に腰を抱かれて、幽香は目を丸くした。
「あらあ。見せつけちゃってぇ」
そう言って杏奈はおどけて見せるのだが、もはや彼女のほかにリビングでまともに思考活動を行っているものなど、存在しないのであった。