「――――ですから、何度も言っているじゃないですか。俺は夜遅くにあそこに忍び込んでヤッホーしていただけなんですって。そしたらあの爆発ですよ――――いや、疑うのもわかりますが。火元、完全に潰れたってテレビでやってたじゃないですか。こんなケガで逃げ出せるはずないでしょ」
新庁舎建築現場での謎の爆発と火災。そして唯一の証人であり容疑者であり犠牲者の青年。
彼は眠たげに尋問をやり過ごしつつ、病室の窓から焼け落ちたビルを見つめる。遠くに見える残骸にはシートがかけられ、取材なのか調査なのか、事件から四日経った今でもひっきりなしにヘリが周りを飛んでいる。
「鶴見さん」
「あぁ、スンマセン。どうも麻酔のせいかぼんやりしちゃって」
飽きたというのが正直なところである。
「申し訳ない。ですが、これも仕事なので。分かってくれますかね?」
ハジメは無言で刑事の顔を見つめた。それをどう受け取ったのか、彼は鷹揚に頷くと付き添いの若い男に頷いてみせる。壮年の刑事に比べて幾分落ち着きのない彼が慌ただしく書類カバンを漁ると、数枚の写真がベッドの上に振り落ちた。
「あああ」
「何やってんだ、寺田」
顔を覆う刑事を尻目に、手元に落ちたもののうちの一枚をハジメは手に取ってみる。何の気なしそれをに見つめて、思わず目を疑った。若手の刑事は泡食ってそれを仕舞い込む。ぼさぼさの寝癖頭。そして、フレームの傾いたメガネ。
頼りない、というのが素直な印象だった。
「そ、それは別件のものでして。失礼失礼」
寺田、と呼ばれた男を白髪の刑事が肘で小突いた。代わりに手渡されたものは焼け跡の写真だ。崩れ落ちた外壁を、外側から撮ったものらしい。背景に映り込んだ町の俯瞰図を見る限り、かなり高い位置のようだ。
「この場所に、見覚えは?」
「いいえ。あのビルだろうとは思いますが」
「何かピンとくるものでもいいんです。ありませんか?」
こればかりは偽りではない。力になりたいが何も思うところがない、と言いたげな小市民を出来る限り繕って首を振る。刑事はすんなりと納得した。
「そうですか。分かりました。お疲れのところ我々の調査にご協力頂き、ありがとうございました。おい」
「あ、はい」
「はいじゃないだろ。アレ、持ってきたろうな」
「はいはい」
本当に分かっているのかどうか怪しい寺田が持ち出したものは、カゴに詰め込まれたリンゴだった。どれもつやつやとして、見るだに甘そうだ。
「ウチの実家が農園をやっていまして。時々送ってくるんですが最近は歳のせいかどうも持て余しちまいましてね。よければ、食べてやってください」
安いパイプ椅子を鳴らして立ち上がると、ふたりの刑事は頭を下げて出て行った。ハジメはその一つを手に取り、見つめる。真っ赤な色を見ていると反射的に思い出すものは炎に包まれた部屋。そして、鮮やかな血のような色をした幽香の瞳だった。
「あいつ、どうしたんだろうな」
もう一度窓の外へと視線を馳せる。不意に手にしたあの写真が、目に焼き付いて離れなかった。
◆◆◆
「まんまと食いつきましたね。今井さん」
歩みを進めながらも器用にクシを使って寺田は髪を整えていく。壮年の刑事が振り返ると、既にいつもどおりの姿に戻った寺田がそこにいた。バリッと決まった紺のスーツと、キツさを滲み出すような目つき。オールバックの髪は、岩を粉砕できそうなほどに固められている。
「『ろ号飛行物体』か」
今井は件の写真を取り出した。
それは正確には写真などではなく、動画の一部をトリミングしたような、ひどく不鮮明な画像の引き伸ばしでしかなかったのだが。それでもそこに映ったものたちの異様さは十分に見て取れる。
暗い空に輝く無数の光弾と、そこに浮かび上がる、はっきりと人とわかるシルエット。
「寺田、お前本当に鶴見ハジメはこの件に深く関わってると思うか?」
「その可能性だけは十分あると思いますがね。実際、彼が保護された同じ時間に近辺で『ろ号』が目撃されているわけですし」
実際、すべては「もし鶴見ハジメが何かの方法で空を飛べたのなら」という仮定に基づくものでしかない。だが、海千山千の刑事は確かにそれまで平静を保っていたハジメの顔に浮かんだ一瞬の動揺を読み取っていた。
「おい」
「分かってますよ。もう一度鶴見ハジメについて洗いざらい調べてみます」
昨今市内で目撃され、謎の行動と無作為な破壊を引き起こしては消えていく飛行物体『たち』。これを公安は認識していたが、未だ正式に調査の辞令が下ってはいない。まるで出来の悪いSFのような存在を表立って追い回したくはないのか。それとも、何か別の意図があるのか。
「すまんな。こんな捜査ごっこに巻き込んじまって」
しかし今井には、この事件にどこか引っかかるものがあったのだ。そして鶴見ハジメの存在にも。
「昼飯おごってやるから」
「マジっすか!? やった。実は今月ピンチで――」
ようやく捜査に手馴れ、それなりの風格がついてきた若き相棒。しかし寺田がこんな時にみせる表情はガチガチの新人時代に気が緩んだ時に見せていたものと何ら変わり無い。今井はふっと笑って病院のロビーを抜けていく。
「お、べっぴんさん」
寺田の視線を追って、今井は怪訝の表情をありありと浮かべた。そこでは。
「ういーんういーん。うふふ。ういーん。うふふふふ」
どこから見ても非の打ち所のない美人が周りの視線そっちのけで自動ドアで遊んでいた。人種不明の赤い瞳を純粋な好奇心に輝かせて、彼女はひたすらういんういんと不気味に呟いている。
「寺田、お前アレを見てなんとも思わないのか」
「え、何がッスか?」
「……なんでもない。そういう患者さんかも知れんから、あんまり見てやるな」
ロビーに居合わせたものたちも、彼女のあまりの異様に恐れをなして声をかけようとはしない。刑事たちもかかわり合いにならないようにそろそろと横を抜けていく。
「ういー……あっ」
彼らを感知して自動ドアの開閉が止まり、女が残念そうに声を上げた。じとっと、不平を浮かべた瞳が二人に向いている。
「えっ」
思わず立ち止まった寺田の脇腹を思い切り小突いて、今井は足を止めずに歩み去った。よろめきながら寺田がその後を追う。女は恨めしげにふたりの背中を見つめていたが、やがて本来の目的を思い出したようだった。
「あーあ。さて、と」
不審者の歩みに合わせて、ロビーの人ごみがモーセの十戒のように退いていく。受付に堂々と割り込んだ彼女は、何ら臆面なく微笑むのだった。
「鶴見ハジメに会いたいのだけど」
◆◆◆
階下で起こった騒ぎなど露知らず、ハジメはそれをじっと見つめていた。
彼の手のひらには五円玉が乗っていた。ただの五円玉ではない。それには穴がなかった。製造過程で起こったミスが原因の、いわゆるエラーコインだ。
「よかった」
彼の宝物が返却されてきた時の安堵といったらなかった。あの火事のさなかで握り締め、そして得体の知れない力に目覚めた時もずっと手の中にあった硬貨は、手に入れた時とまったく変わらない姿でそこにある。
この五円玉を見ていると不思議な息苦しさが胸を満たす。あるはずの穴が無いというだけでここまで違った物に見えるとは、なんとも不思議だった。
文字通り穴が開くほどに五円玉を見つめる。そうしてどれだけの時間が経ったのか分からなくなり始めた頃、まるで小鳥のついばみのような控えめなノックが室内に響いた。
ハジメは顔を上げて、ドアへと視線を馳せる。
「どうぞ?」
「お邪魔するわね」
ここまでの穏やかさは一体なんであったのか。スパンとドアが勢いよく開け放たれた。あまりの力に金属製の引き戸が大きくひしゃげる。くもりガラスが粉々に割れて散る。
その光景がやけにスローモーションで美しく、青年の瞳に焼きついた。
散らばるガラスもなんのその。お構いなしに病室に乗り込んできたものは。
「お、お、お、おまえは――!」
「久しぶりね、ハジメ。だいぶ具合が良くなったみたいで安心したわ」
「風見、幽香!」
名前を呼ばれて、幽香はくすぐったそうに笑った。
「嬉しい。ちゃんと覚えていてくれたのね」
火中にどうやってか忽然と現れ、壁をたやすく吹き飛ばし、当たり前のように空を飛んでみせた女のことを忘れる方がどうかしている。彼女が建設現場の近くにハジメを下ろして姿を消してからたった数日のことだったが、それでも青年は奇妙なほどの懐かしさを覚えていた。
「それじゃあ、あの約束も覚えているかしら」
「約束?」
「『生きて帰れたら、お前をぶっ殺してやる』」
「あ、あぁ」
死地で目覚めた超能力。体を奮い起こさせるために叫んだ言葉の中には、確かにそれも含まれていた。だからと言って、命の恩人を殺そうなんて気は起きない。
「忘れてくれよ。あれは、悪かった」
「だめよ」
当たり前でしょ、といった風で女はハジメのベッドの上に腰掛けた。傍らのリンゴを一つ手に取り、くるくると指先で器用に弄ぶ。
「私、あの日からずっと楽しみにしていたんだから。そうでなければあなたなんか残してさっさと帰っていたわ」
きょろきょろ見渡して手近な広告を一枚手に取ると、彼女はリンゴを乗せて軽くつついた。果実にみるみる間に切れ込みが走り、音もなく花弁のように開く。たった一瞬でどうやったのか。おまけにかわいらしいうさぎちゃんカットであった。
「はい、あーん」
幽香の差し出すリンゴを、おずおずと手で受け取る。
「そうじゃないんだけど」
興が覚めたように彼女はリンゴの一つ口に含んだ。ハジメもそれにならう。
「おいしい?」
「あ、うん」
「じゃあはい、もうひとつ」
またも手でそれを受け取るハジメ。幽香は今度は何も言おうとはせずに、天井の蛍光灯をしげしげと眺めていた。片手ではくりくりと別のリンゴを回している。細かな切れ込みが縦横に走っていた。
「べつに今すぐってわけじゃないの。半年。そう、半年あげるわ。あなたが期間内にわたしをぶっ殺してくれればそれでいい」
「だから俺はあんたを殺したりは」
「あーん」
有無を言わさず、幽香はハジメの口にリンゴを詰め込んだ。
「お、おい。やめろっ――」
不平も最後まで形にはならない。ベッドの上に体を乗り出した幽香がさらに口にリンゴを押し込んでくる。自由な左腕は彼女の肘の下。幽香は背が高いとはいえ細身である。それでも、彼女の下敷きになったハジメは身動きひとつ取れなかった。
「私ね、下で自動ドアってものを見たのよ。何かが通りかかると自分から開くっていうスグレモノでね。ハジメたちには当たり前のものでも、私にとってはまるで魔法」
さいごの反抗に口を閉ざしたハジメの顔の前を幽香の細い指が彷徨う。あろうことか、彼女の指はハジメの鼻をつまむと、息の通り道を完全に閉じてしまった。
「むぐぐ」
「そうそう、ちょうどこんな感じだったわね」
たまらず開いた口の中にどんどこ詰め込まれていくりんご津波。病室にくぐもった悲鳴が虚しく響いた。
「やらないって言うならここはあの火事場の延長になるんだけど。どう、やるの。やらないの?」
ハジメが苦しむ様を見つつ、幽香は恍惚の表情を浮かべていた。彼女は楽しんでいた。ドSである。まごうことなきドSである。青年としてもこんな悪魔にされるがまま、リンゴで溺れ死ぬなんて間抜けな死に方だけはゴメンである。
降参しよう、と意識する前に体が首を縦に振らせていた。
「そう。いい子ね」
気道を返してやる代わりに、彼女は青年の口を手のひらで塞いだ。
「食べ物は粗末にしちゃダメよ」
屈辱に顔を真っ赤にしてアホみたいにリンゴを噛み砕き続ける青年。その数センチ前で女はうっとりと微笑んだ。
「もちろんタダで殺してもらおうなんてムシのいいことは言わないわ。ハジメが強くなるために力を貸すし、手伝えることならなんだってするわ」
「……今、なんでもするって言ったよな」
心身衰弱したハジメは半ばヤケクソで口を開いた。りんごの汁が飛ぶ。
「じゃあ俺の家庭だ。アレをなんとかしてくれよ。あのバカ妹を部屋から引っ張り出して、オヤジに上手いメシの作り方を教えてやって、俺には――俺は、なんか、イイ感じにしてくれ」
どうせ殺されるのなら、こんなムチャを言ったところでバチは当たらないだろう。
「いいわよ」
だから、幽香があっさりとその願いを聞き届けるなんて展開は想像し得なかった。
「い、いいわよって、どうするんだよ」
「そのうちわかるわ」
満足げに頷いて、さっさと出て行く女を、必死でハジメは呼び止めた。
「なぁ待てよ。最後に」
「なあに?」
「もし俺がアンタを殺せなかったら、どうなるんだ?」
「そうね」
幽香はつぶさに考える素振りを見せた。そして、まったく表情を消して顔を上げた。その美貌は変わり無い。だが、まるで彼女は一片のなさけも持たない蛇のような瞳をしていた。
「まずはあなたの家族を苦しめ抜いて殺すわ。次はこの町。次はこの世界。あなたは最後に残しておいてあげる。そのときはいっぱい楽しみましょう」
全身の毛穴に針を突き立てられたような錯覚を覚えた。くすりと笑う幽香は、またいつもの穏やかな笑みを形作っている。
「だから、早く戻ってきてね。こうしている間にもあなたの時間は過ぎているのだから」
潰れた扉が無理やり閉められてからも、しばらくハジメは緊張を解くことができなかった。なまじ遊び半分で水責めならぬリンゴ責めをくらうよりも、あのひと睨みには説得力があった。風見幽香と名乗る謎の女。あいつはやると言ったらやるし、できると言ったらできる。
その本領は、ビルの壁を吹き飛ばす程度では済まないものなのかもしれない。
「マジで何者なんだよ、アンタ」
もはや答えはない。
そして、唐突にのしかかった重すぎる責任を受け止めるには疲れすぎている。嵐が過ぎ去ったのだ、とりあえすこの場はヨシとしようではないか。病人に頭まで使えなんてスパルタが行きすぎやしないかい。うんうん。
「ま、何とかするさ」
とさっさと思考放棄して、ベッドに体を沈めるのだった。
◆◆◆
「おかえりなさい、ハジメ」
それからさらに数日を病院で過ごして家に帰ってくると、風見幽香は当たり前のようにそこにいた。家庭内カースト最上位、つまりはオカンとしての立場を確固たるものとして。
「あにき、おかえり」
「あ、あぁ」
そして、とりあえず自室警備員から自宅警備員にランクアップした妹。
「家がないって言ったらね、すぐに泊めてくれたの」
幽香に耳打ちされる。我が事とは知らずに新聞を読みふける実父の姿を、ハジメは信じられない面持ちで見つめる。まさか彼も自ら死神を家に引き入れたとは思いもすまい。
もはやハジメにできることは、それが父のスケベ心が起こした行動ではないと祈ることくらいだ。
「あにき?」
そうして風見幽香との奇妙な生活が始まって数日後のこと。ハジメは切り身を前にしている。彼の反応が気になるのか、ちらちらと視線を送ってくる幽香に「うまい」と素直に褒めてやりたくはある。
しかし彼女は敵だ。殺さなければ家族と世界と自分がヤバい。
「……まずいだろ」
実際置かれた状況は、非常にまずい。
「ちょっと、あにき」
「そ――そう。研究の余地アリ、かしら」
父が眉をひそめ、妹が何か言いたげにしているが、ハジメとしては構ったものではない。幽香は少しだけ残念そうではある。
「もう。あにきなんて放っておいていいよ。マズいならいらないよね。もらっちゃうから」
頬を膨らませてぷんすかと、凄まじいペースで箸を口に運ぶ。器用な怒り方を見せる妹。テレビの野球中継に見入っている父。さっそく台所に立ち、片付けを始める幽香。
「激マズ。ゲロマズ」
残された白米を執拗に噛み締めながら、ハジメは世界でまともな人間が自分ひとりになってしまったような錯覚に捕らわれるのだった。
第一話 『風見幽香と火遊びとはじまりの一夜』 おわり