誰かのつま先が幽香の眠る部屋の壁を小突いていった。
予想外に大きく響いた音に幽香は身じろぎして、ミノムシのように毛布にくるまったまま眠りに落ちていたことを知る。
見た夢は定かではないが、とにかく久しぶりによく眠れたような気がする。寝る前に見た向日葵畑がよかったのかもしれない。伸びをしつつ、幽香は鉄と電気の塊にすぎないモニターを撫でてやった。
「よしよし」
いつの間にか再起動がかけられたモニターには真っ白なメモ帳が大写しにされていた。それ以外はハジメが出て行く前と大差ない。机の上に置かれた花冠にせよ、荷物にせよ。未だに幽香の隣が空であることも。
「…………ハジメ?」
彼はまだ戻っていない。電話に行ったままだとしても、あまりに長すぎる。
心配顔で幽香は腕時計を手に取って毛布を跳ね除けた。部屋に漂っていたものは嗅ぎ慣れない、しかし覚えのある女物の香水のにおい。首筋にねっとりと舌を這わせてくるような艶っぽい香りに眉間に皺を寄せて、幽香はそれを見つけた。
『ごめんなさい。彼は潰すわ』
その一文が起き抜けに弱い彼女の頭を揺り起こした。霞が晴れるように見えてくるのは数々の異常だ。いつの間にか起動されたメモ帳。いつの間にか書き込まれていた文字。そして真っ黒に変色しつつある花冠。
部屋を飛び出した幽香はもちろん寝巻きのままだ。寝起きの髪を振り乱したまま、鬼気迫る様子で廊下を駆け抜ける美女の姿は当然まばらな利用者たちの目を惹いた。
「ひとつ勘違いして欲しくないのはね」
ビルを出ると排ガス混じりの夜気がそよいだ。この時間ともなると人通りはまばらで、暗闇に浮かび上がるようなその色彩を見つけることは残酷なくらい容易だった。
紅いスカートに白いパーカー。現代風の装束に身をやつしても、彼女のあり方は変わらない。それは本質でもあり、友情を差し引いても彼女が逃れられない宿命の表れであった。
「私も紫もあんたが大好きだってこと。それだけは覚えておいて」
「霊夢」
「泳いでくれてありがとう。おかげでこっちの準備は万端よ」
幽香のブーツが決別への一歩目を踏み出す。
「おっ」
彼女と肩をぶつけた酔漢が難癖吹っかけようとする傍から卒倒した。血まみれの拳を拭う暇も惜しむようにふらりと彼女は車道へと踏み入る。ブレーキ音。クラクション。それすらも聞こえていない様子で。
「そうそう、あんたのその顔。確か最後はアレだったわね、あんたの住処に入っていって度胸試しに向日葵の首をへし折った馬鹿者。全員足の指を――」
「ハジメは今、あいつと一緒にいるのかしら?」
背中に浴びせられる罵声を一瞬で殺したものは、彼女の象徴であるにこにこ笑いを失った顔だった。その能面じみた無表情。その見るものを片っ端から圧殺するような眼差し。
外見上はハジメとそう歳の変わらない幽香であるが、たかだか十年二十年で積み重ねられる程度の業で、その形相を形作ることは可能なのだろうか。
「あいつ?」
尋常さのバランスを完全に崩した幽香を前に、霊夢があくまでマイペースに肩を竦める。
「八雲紫」
「いいえ。でも打って付けの手を回してある」
「誰」
「本当はわかってるんでしょ――あぁ、サイアク。なんか悪役みたいじゃん、私。ねぇ?」
あくまでからからと陽気に笑って見せる霊夢と、雨後の夜更けに佇む朝顔のような無表情の幽香はどこまでも対照的だった。
「満身創痍のあんたが大結界を抜けられたのも、私や紫の力が通用しないのも、そんなに必死になるのも、原因はきっとハジメにあるってことだけは知ってる。あいつの能力はなんとなく危険なモノなんじゃないかなってことも」
つむじかぜが霊夢のスカートを揺らした。ぼんやりとした光は雷光となり、信号機が、ネオンが、ビルの明かりが激しく明滅する。どこかで鋭い悲鳴が上がった。
「これ以上ハジメとあんたを引き合わせておくのは危険すぎる。でも初っ端から紫をぶつけるほど私は冷酷になりきれない。だから」
「あの子を巻き込んだのね」
とうとう街灯の一つが音を立てて破裂した。それは留まるところを知らずに連鎖する。
「人聞きの悪いことを言わないでよ」
二人を中心に都市の1区画がまるごと闇に飲まれていった。その中で不気味に光り輝き始めるものは血生臭さすら漂わせるような幽香の眼光と、霊夢の周囲を浮遊する針と札が纏う紫電だ。
「あんただってずいぶん鶴見ハジメを好き放題していたじゃない。これはあなたの身から出た錆に過ぎないわ。それに決断したのは彼自身よ」
「もういい。さっさとハジメを迎えに行かせてもらうわ」
幽香の目は電力を寸断したものの正体を見て取っていた。
二人を中心に張り巡らされた巨大な結界。それは一重や二重では済まない。無数の結界同士が複雑に絡み合い、相乗効果で新しい結界を作り出し、まるで迷宮のように織り上げられている。
霊夢の手首には見慣れない呪符が一枚張り付いていた。
「いくらあなたでもここを抜けるのは骨が折れるわよ。最も、大元を叩けば話は別だけど」
その間響き続けたごりごりと地面をこする音。
幽香が手にしたものはバス停だ。まるで傘でも持つように軽々と鉄とコンクリートの塊を担いで、ようやく幽香は笑った。つられるように、霊夢も切なげに笑う。
「私たち、ここまでね」
「たち、はいらないわ」
幻想郷の友情はいささか現代とは形が異なる。ならばその終わり方でさえも常とは形を異にするのだろう。
◆◆◆
並び立つ二人は貯水池に映る夜景を見つめていた。
こんな夜更けだというのにばっちりと服を着込んだ雪之丞と、スウェットにジャケットというちぐはぐな姿のハジメは足元の砂利道から次々と石を拾っては交互に水面に投げつけていく。
「お、三回」
ガッツポーズをするハジメの横で、雪之丞は暖かいコーヒーの缶を一気に傾けた。
「ハジメ、ものは相談なんだが」
「なんだよ改まって」
ふっと笑った彼の横顔は、同性のハジメでさえも思わず惹かれるほどに、妙に色っぽかった。
「幽香さん、俺に任せてみないか」
「おいおい、まだ言ってるのかよ、それ」
「おまえと幽香さんの関係は承知の上で頼んでいるんだ。どうだ」
「関係って」
水面は驚く程静かで、夜空の星も月もそっくりそのまま写し出してしまっている。それを見つめていると、まるで地面がそこだけ無くなったような錯覚に囚われた。
ハジメは何気なく、石を拾い上げて振りかぶった。
「俺とあいつは恋人でもなんでもない。ただちょっと腐れ縁っていうか」
「殺し殺される関係だろ。知ってるよ」
手をすっぽ抜けた石は一度として水面を跳ねず、派手に水しぶきを撒き散らして沈んだ。
ぎこちなく振り向いたハジメを捕らえて離さない雪之丞の眼光は、ざくろをかち割ったような血の色。
「にしてもお前、くだらねえ嘘つきやがって。さっき霊夢に聞いたが、本当にあいつを倒したのは幽香さんなんだって?」
「お前、誰と話したって?」
暗闇に光を放つ瞳。そして何より胸元、シャツを透かして光る何か。
「幽香さんを追ってきた幻想郷の巫女ちゃんだよ。なぁ、そろそろ交代といこうぜ。どう考えても荷が重すぎんのは分かってんだろ?」
思わず後ずさって、ハジメは石段に踵を取られた。塞がりかけの傷が疼く。尻餅ついた彼に手を差し伸べる雪之丞。その動作の端々に見える彼らしさも、親しみのある小馬鹿にした笑いも、数日前までの記憶にあるものと寸分違わない。
「なぁにしてんだよ、ほれ」
それが異質に見えるのは、彼が決定的な境界線を跨いでしまったからなのだろうか。
「誰だ、お前」
「皆さんご存知のハザマユキノジョウじゃねえか。頭でも打ったか?」
助けを振り払おうとした腕を強引に掴まれて、そのあまりの力にハジメは呻いていた。まるで万力だ。
「悪い悪い、もう片方も折っちまうところだったな。まだ体が馴染まなくってさ」
「誰だって聞いてんだよ!」
ハジメの引きつった大声に演技めかして耳に指を詰めて、雪之丞はくつくつと押し殺した笑いを漏らしながら距離を置く。ゆったりとした歩調に反して、まるで影の上を滑るように不自然に早い。
「そうビビるなって。ちょっと物の見方が変わってハイになっちまっただけさ。俺は俺。そこは信じてくれよな」
隠しようのない警戒と敵意。
ハジメの瞳の奥底にわだかまった金色の火花を見つけて、雪之丞はしたり顔で笑った。その犬歯。剃刀のように研ぎ澄まされた牙の輝きが不穏な残像となってハジメの瞼に焼き付く。
「いいか、もう一度だ。俺の提案は超単純」
子供にでも言い聞かせるような雪之丞の態度。
「俺がお前の代わりに幽香さんを殺してやる」
「ふざけるなよ」
「マジだよ。俺はヘタレの巻き添え食って死ぬのはゴメンなんだ。ダメか?」
なにせ長い付き合いだ。
ハジメが幽香を憎んでいようがいまいが、ヘタレと呼ばれてそう簡単に居場所を譲るような意固地でないことは百も承知。その上どこをどう突けば怒りの導火線に着火できるかということも手に取るように分かる。
「……あーあ。なら千晃ちゃんくらいは俺にくれよ。その時が来たら、せめて苦しまないようにしてやるからさ」
どうしてか、今はそんな言葉を吐くことに一抹の愉悦ですら覚えていた。
予想しきったハジメの反応。振りかぶられた拳。揺れる視界と、軋む奥歯。拳を頬に埋めたまま、雪之丞は笑った。怒りに燃えた親友の顔が、徐々に驚愕にとって変わられるさま。
「こないだは結構堪えたんだがな」
ハジメの驚きも当然だろう。
分厚いゴムでも打ったような手応えの後に襲ってきたものは、死体でも触ったような不気味な冷たさだった。熱を一切持たない肉の奥で存在感を放つ骨も歯も、到底人間のものとは思えないほどに刺々しい造形をしている。
「お前――ぐっ」
捕まえられた腕の骨が軋んだ。
「飛んでみるか、ハジメ」
キレた笑いが視界から消えた瞬間、ハジメの体は空高く放り上げられていた。フェンスを飛び越えつつ見える雪之丞はこちらを指差して高笑いしている。迫る水面。そして。
「ぶはッ!」
ハジメが浮かんでくるまでの間に悠々とフェンスを越えると、岸辺の土手に腰掛けて雪之丞は待った。冷たい水に身を切られ、小刻みに震えながら浅瀬に這い上がってきたハジメを嘲笑うように、水面に三つの赤い光が揺れている。
「な? 俺はずっと、ずっとずっとずっと強くなったんだ。今なら幽香さんだって振り向いてくれる。俺の愛を受け止めてくれる。あの人を救ってやれる」
一言一言が嫉妬の炎に投げ込まれる燃料であるかのように、彼の胸に灯った昏い輝きが光を増す。雪之丞の異質の正体はまさにそれだ。知らず燃え始めたハジメの左眼に宿ったものと同じ、幻想に染められた力。
「ワケ、わかん、ねえよ…………!」
水面を打って、ハジメは取り返しがつかないことを悟った。
水中にも関わらず彼の指は既に燃え始めている。霊夢と出会い、何者かに能力を授けられた。親友との逃れようのない対立を、既に彼の心は奥底で確信しているのだ。
未だ残るためらいが風前の灯火のように揺れさせてはいたが、立ち上がったハジメが決然とした表情で構えた指先にも、瞳の輪郭にも、黄金の日輪が形作られていた。
「向けたな。俺に」
売られた喧嘩を律儀に買ってくれた友人を前に、雪之丞はシャツの胸元に手を掛け、一気にボタンを引き剥がす。そうして現れたものは誰もが目を疑うような、赤く焼けた鉄の渦だった。
「向けたんだよなぁ、俺に」
ぐつぐつと音を立てる彼の炉心はそれを鋳造する。嫉妬する心が、『本物の力』にどこまでも妬いて妬いて妬きまくった末に、寸分違わぬコピーを生み出そうとしているのだ。
「なら俺も握っちまったって、何も文句はねえよなぁ」
胸から生えた赤く焼けた柄を握りこむ手が煙を立ち上らせる。不快な臭いと焼ける肉の音がハジメの遠い後悔を呼び覚ます。
「ヤキモチが俺の本質ってのはちょっとばかり気に食わねえケドさ――『妬き尽くす程度』って名前だけは嫌いじゃないぜ」
人間の喉が成せるはずのない咆哮と共に一気に引き抜かれたそいつは赤黒い奇妙な武器だった。一見して杖のようであり、剣のようであり、弓のようでもある。かつてどこか遠い世界で振るわれた吸血鬼の武器は、本来の持ち主の心と同じくひたすら捻くれている。
奇しくもそれは、今の雪之丞にはもってこいの獲物なのかもしれない。
「ユキ。俺たちは、もう……」
不気味な胎動と共に放たれる強大な力に首筋を粟立たせながらも、ハジメはまだまだ葛藤していた。ギプスに包まれた右腕が悲しく強ばった。
◆◆◆
986:TK◆tsuru.c78a
特に兄貴はいらない。お姉ちゃんだけで十分。マジで。
987:以下、名無しにかわりましてZUNがお送りします
いや、それはお前が悪いわw
988:TK◆tsuru.c78a
そんなこと言われてもアレはマジでトラウマもんだからな。ウチの兄貴とオヤジの馬鹿っぷり、あんたらにも見せてやりたいわ。
989:以下、名無しにかわりましてZUNがお送りします
つーか今更だけどTKはどうして引きこもってるわけ?
990:TK◆tsuru.c78a
昔からちょっと周りとズレてたっつーか。頑張ったけど溝が埋まらなかったからいさぎよく諦めてやった。わはは。
991:以下、名無しにかわりましてZUNがお送りします
なんだそりゃ
992:むらさき
家族を大事にしてあげてね
993:TK◆tsuru.c78a
さっきからむらさきわけわかんない。
993:むらさき
その居候の子はいつまでいるの?本当にずっといてくれるの?ある日ふっといなくなったらどうするの? お兄さんに愛想尽かされたら?お父さんまでどこか行っちゃったら?ご飯は?洗濯は?買い物は?ひとりで外の世界に立ち向かえる?
994:TK◆tsuru.c78a
なんか怖いよ
995:むらさき
そろそろ仕事に戻らなきゃ
996:以下、名無しにかわりましてZUNがお送りします
こんな時間とか夜勤?おつさまー
997:以下、名無しにかわりましてZUNがお送りします
む ら さ き U M A 説
998:TK◆tsuru.c78a
おつかれバイバイ。
999:以下、名無しにかわりましてZUNがお送りします
>>997
ねーよ
1000:TK◆tsuru.c78a
ずいぶん話し込んじゃった。おかげで楽しかったよ。みんなありがとね。
1001:1001
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第九話『水面の鶴と花と』おわり