息を吸って、吐いて。そして八雲紫を名乗る女を見つめる。
「色男が台無し」
白いハンカチからは女の香水の匂いがした。
汗と涙でべしょべしょの顔を雪之丞が拭いて、やがて長い時間の末に口を開くまで、女はにこにこと笑いながらティーポットを傾けていた。
差し出されたカップには茶色の液体。だが、紅茶にしてもコーヒーにしても、いささか色味がおかしい。恐る恐る雪之丞が手に取って匂いを嗅ぐと、鼻腔に弾けた炭酸が舞い込んできた。
「……てっきり、紅茶でも出してくるんじゃないかと思ったんだがな」
「あなたにはこちらの方が口に合うんじゃないかしら」
年齢も人種も分からない。ただ、女の装いと振る舞いは世間一般のそれとは大きく異なる。どこか、過去の時代の貴人。青年が退屈しのぎにめくり続けてきた資料集に、似たような雰囲気の肖像画を見たことがあるような気がしないでもない。
「コーラよ」
「分かっとるわい」
だからこそカップの中身にはいささか意表を突かれた。
どこから取り出したのか、口元を扇子で覆って笑う彼女を見ていると、初対面で感じた親しみとは別の感想が湧き出してくる。
胡散臭い。
大人とは押し並べて多少は胡散臭いものであるが、女は群を抜いている。扇子に隠れた唇を舐めまわすものは、蛇蝎のような舌なのではないか。
雪之丞はテーブルの下で固く拳を握って、緩みかけた警戒心を新たにする。一度非日常に足を踏み入れてしまったが最後、何が命取りになるかも分からないのである。
「化物と疎まれてはきたけれど。流石に殿方の前ではしたないマネはしたくない。こう見えても乙女ですもの」
扇子をぱちんと閉じると、女は形のいい唇からバラの蕾のような舌を突き出してみせた。雪之丞は心を読まれた動揺をなるたけ隠してカップを戻すが、震える指先が最後の最後でヘマをした。
指をすりぬけ、カップは乾いた音を立ててテーブルの上に伏せる。しかし、様子がおかしい。
「あなたの感じる胡散臭さは至極正しいものだと思うわ」
うっすら笑ってカップを拾い上げた紫が見せるものは、目を疑うような光景だった。
コーラは一滴としてこぼれずそこにある。ゼラチンでも入れて固めてしまったように、真っ逆さまのカップの中で、水面はふるふると揺れていた。
「境界を操る。それが私の能力」
女がカップの底に息を吹きかけると、見えない境界が消えたように液体がテーブルを打った。不必要なものを極限まで削いだ部屋の中にその音は大きく響く。大きすぎた。
思わず肩を震わせた雪之丞を見て、女はまた笑う。ほらね、やっぱり胡散臭いでしょう、と。
女の白いドレスに散った茶色の水滴も、テーブルの上の水たまりも、吸い込まれるように消えていく。やがてすべてが落ち着きを取り戻したとき、雪之丞は口元をわななかせていた。
名刺がわりの洒落た自己紹介のつもりだったのだが、どうやら現代を生きる高校生には女の予想以上に刺激が強いものだったらしい。流石の女も、ここまで静かになられると心配になってくる。
「ちょ、ちょっと?」
「すっ――――げえええぇ!」
両者が身を乗り出したのは同時だった。
短い悲鳴と野太い雄叫びが部屋をつんざき、主の慌てっぷりを示すように、胡乱な白い部屋はぐにゃぐにゃと揺れる。
ぶつけたおでこを抑えた紫が目を白黒させる暇もなく、雪之丞は椅子を蹴倒し、部屋の中を落ち着きなく歩き回った。その瞳が再びうるみ始めている。
「その、ええと。俺ずっと待ってたんだ。ある日突然あなたみたいのが来て、俺を――あぁ、悪い。俺も何を言ってるのか。でもこれだけは分かってくれよ。今すげえ感動してる。イカしてるよ。そのドレスもいいよな、なんか大物っていうか、黒幕感っていうか、雰囲気出てる」
感動はわかるが、流石の紫もいちいち頭の先からつま先まで丁寧に褒められては恥ずかしくなってくる。
「わ、わかったから。とりあえず落ち着いて」
そんな言葉くらいで十七年も非日常に片想いを続けた雪之丞が我に返るのは難しい。未だ興奮冷めやらぬ様子の雪之丞が、優しい笑みを浮かべた紫に気づいたのはしばらくしてからのことだった。
「懐かしい」
コーラを注いだポットが再び傾けられる。女が特にポットを開けた様子はない。それでも同じ注ぎ口から流れ出てくるものは湯気を立ち上らせる暖かな液体だ。ふわりと甘い香りが漂う。
「霊夢だって昔はもうちょっと可愛げがあったんだけれどねぇ」
と、遠い目をしてみせる紫。
紅白の巫女がもっともっと小さい頃は、紫が気まぐれに弄ぶ奇跡じみた所業の数々に目を輝かせていたものだ。それこそ雪之丞というなんの変哲もない高校生と同じように。
育て方を間違ったのか、友人選びを間違ったのか。まるでグレた我が子に頭を痛める母のように、紫の微笑みが沈んだものへと変わっていく。
「そうだ、あいつは?」
紫の心中も知らずに我に返った雪之丞の問いに、紫は顔を上げた。
「霊夢を心配してくれるのかしら?」
「一日二日であんなケガが治るかよ。それなのにアンタ、町に連れ出したりして」
「治るわ。私には治せる。思い出して、この能力を」
境界を司る、と女は言った。境界とはつまるところ別々にものを分かつための壁のようなものだ。カップの中と外、穴と五円、燃えるオフィスビルと雪降りしきる町。その境界は曖昧であるが、ちゃんと目に見えるものだ。
「元気な霊夢とそうでない霊夢。死んだ霊夢と死んでいない霊夢」
それだけ言われれば、能力というものを理解しきれなかった雪之丞にもその全容がなんとなく掴めてくる。紫の能力が及ぶ境界は無制限。有と無の間ですら操れるというのなら、その力は神に果てしなく近いものなのかもしれない。
「なら!」
あやうく口を飛び出しかけた言葉を押さえ込んだ雪之丞を見て、紫は促した「遠慮はいらないから、言ってごらんなさい」
「……例えば平凡太郎と特別太郎の狭間ってのも操れるのか?」
「できるわ」
即答である。
「色々とあの子から聞いたの。あなたのことを」
当然それには雪之丞ダム決壊事件も含まれているのだろう。突然紫の笑顔が意味深なものを秘めているように思われて、青年は赤くなった顔を伏せていた。
「別に、俺はなんもしてない」
「いいえ。傷ついたあの子に手を差し伸べてくれた。私にとって、それは十分すぎる恩なのよ」
あなたが特別になりたいなら、それを叶えてあげる準備はある。と、紫は付け加えた。
是も非もなく頷こうとして、雪之丞は目元を険しくする。人の心を読むような胡散臭い女。彼女の申し出は魅力的だ。あまりに魅力的。そして同時に、ムシが良すぎる。
「でも、手放しで叶えてやろうってワケじゃない。そういうことなんだろ」
「そうね。あなたの本質を目覚めさせる前にいくつか条件を呑んでもらいたいの」
もう少しで能力ってやつが手に入って、ハジメと肩を並べることができる。そう思うだけで手が震えそうなほど興奮する自分を極力抑えて、雪之丞は紫の次の言葉を待った。
「まず一つ。一度目覚めた力がなんであれ、私は戻すことをしない。無理やりリセットを掛けて、あなたの本質が永久的に損なわれても構わないなら話は別だけれどね」
「いいぜ」
「二つ目。私たち、実は今とっても困ったことになっているの。あなたの力が有用なら、是非助太刀を頼みたい」
断る理由なんてない。相手は鬼か悪魔か、それとも凶悪犯罪か。この際、木から降りられなくなったネコの救出劇でも構わない。雪之丞が心の底から望んだのはそういうものだ。常人が持ち得ない能力をぶんまわし、正義を成す。
「大歓迎だ」
「私たちの目的が風見幽香の抹殺でも?」
「か」
不意打ちで腹をぶん殴られたようだった。
「別にあなたが直接手を下す必要はない。あなたの仕事は私や霊夢が問題なくあの子を殺せるように障害を排除すること」
排除。それもそれで剣呑な響きであるが、雪之丞の関心事はそこではない。
どうして八雲紫の口から最愛の女性の名前が転がり出てくるのか。抹殺? なぜ?
「――――なら、あんた達は」
「あなたの敵ってことになるかもね。残念ながら」
恋心もお見通し。身構えた雪之丞に対して、紫はカップを置いただけだ。
「語ってもいい。聞かなかったことにしてもいい。ここから帰ってもいいし、私に立ち向かってもいい。もちろん抵抗はさせてもらうけれど」
戦闘態勢をとってみたはいいものの、雪之丞にもそれが必要なものであるのか分からなくなってきている。紫ほどの存在である。何者かを殺す、なんて言葉を吐くのなら、そこには何かしらの理由があるのではないか。
雪之丞の苦悩は、その険しい面持ちが代弁している。
「知りたいなら教える。重ね重ねだけどあなたは恩人だもの」
もう一度紫は雪之丞を見据えた。やはり、彼の顔は雄弁だ。
「いいわ。全部教えてあげる。あなたが一体何を好きになったのか。鶴見ハジメが知らない、風見幽香の秘密を」
紫は組んでいた腕を解くと、体を椅子の上に投げ出した。彼女にしては珍しく疲れたような表情を浮かべてから、白く細い喉を露わに天井を見上げる。
「後悔はしないことね」
「そっちこそ。例え幽香さんが正真正銘のバケモノだって俺は愛してみせる」
不敵に笑う雪之丞だったが、紫はあくまで哀切な視線を宙に彷徨わせただけだ。
「でも覚えていて。あの子を本当に愛しているなら尚の事。あなたは風見幽香を殺さずにはいられなくなる」
あまりにも意味深な表現は、それまでの雪之丞の決意の根底を揺るがすような重みを持っていた。そして「鶴見ハジメが知らない」という言葉の、魔的な響き。
◆◆◆
「キミは戦争でもしているのかい」
診療室。邪魔そうにギプスを引っ掛けながらシャツを着ていくハジメの背中を医者は目でなぞった。一か月前の事故の傷跡が生々しく残る彼の肌には、真新しい縫い跡がいくつか増えている。
体を覆う火傷の跡といい、確かに彼の言葉通り、ハジメの体は帰還兵めいて激しく痛めつけられていた。
「えぇ、ここのところの日課で」
うんざりと答えて真新しいジャケットを羽織ると廊下に出る。年末年始がそうさせるのか、どこの待合も人でいっぱいだ。かくいうハジメも折れた腕の具合を見てもらうためだけに一時間近く待つハメになった。
その間幽香はいつもどおりにハジメにちょっかいをかけたり、点滴スタンドで遊んだり、人が乗ったままの車椅子を意味もなく押してみたり。気が休まるヒマのなかった一時間はあっという間であった。
待合にいない彼女の姿を探して廊下を歩くうちに、ハジメはとある病室の中にその姿を見つけた。なにかの病気か、ただの偶然なのか。その病室に詰め込まれていたのはいずれも十代に満たないような子供たちだ。
ベッドの一つに腰掛けた幽香の周りには彼らが興味津々といった様子で集っている。午後の日差しを背にした幽香の手元で静かに芽吹いていく花々が散りばめられたベッドは、さながら花畑のようだった。
優しく、穏やかな表情を浮かべた幽香。思わず声を掛けることがためらわれる。
廊下と病室を仕切るドアのレールが、結界じみて跨ぎ難い。ハジメの視線はただ、子供たちと言葉を交わしながら器用に花を編んでいく幽香の手元に吸い込まれていった。
「この子たちを可愛がってあげてね」
町一つ容易く燃やし尽くすような閃光を発射する手で作られた花冠を嬉しそうに掲げる子供たちの頭を撫でてやって、彼女はようやくハジメの存在に気づいたようだった。
「そんな所に立ってないで、いらっしゃいよ」
「いや、いい」
ふわりとベッドから降りると、幽香は最後まで編んでいた花冠をハジメの頭に載せてやる。甘くはない、清冽な香り。やはり幽香の扱う花は通常のものとは違うのかもしれない。根を張る地面を持たずとも名も知れぬ白い花びらは瑞々しさを失わず、誇らしげに咲いていた。
「お前って実は子供に優しいとか、そういうタチ?」
「ふふ、今更ね。あなたに毎日お弁当を作っているのは誰?」
その意味を理解するためにハジメが頭をひねる時間をも与えず、幽香はリノリウムの床に上機嫌な靴音を高らかに響かせた。手を引かれて歩くハジメは周囲の視線に居心地悪そうにしていたが、その大元が自分の頭の上にあるとは気付かない。
「腕の具合はどう?」
「もうちょっとだって」
「あら。ついに本気のハジメが見られるのかしら」
幽香は至って優雅で上品に笑って見せるのだが、ハジメは気が重くて仕方がない。これからは本気の幽香を嫌というほど体に刻み込まれるのだろう。まさに戦争である。それも、一方的な。
他にも問題は山積みだ。喧嘩して別れたままの雪之丞、家族と学校への言いワケ、欠席日数計算――そして博麗霊夢。
まずは彼女をどうにかしなければ、家に帰ることもできない。負債だけが途方もなく積み上がっていくような現状にハジメが眩暈を覚えていると、トドメを刺すような一言を幽香が口走るのだった。
「ねぇ、今一番の問題って何かしら」
「そりゃ霊夢だろ」
幽香は首を横に振る。
「ええと、千晃?」
違う。
「わかった。ユキのことだろ。オヤジ? 違うなら、次の期末テストの準備がまったく出来ていないってこととか?」
それも違う。
彼女がポケットから取り出したものは、てっきり霊夢との戦闘の最中に無くしたと思い込んでいたものだ。そしてそれがこの場に至って一番出てきて欲しくない場所から出てくるとは。
「お金がそろそろ底をつくわ」
そういえば連日のホテル生活も、父が彼女に与えたおこづかいくらいで足りるものかと不思議に思っていた頃合である。ぽんぽん支払われていく札を見て、こんな奴にも多少の蓄えはあるんだな、と関心したものだが。
「お前、俺がそれ貯めるのにどんだけ頑張ったか」
一切の悪びれもなく見覚えのある預金通帳をひらひらと振ってみせる幽香を前に、ハジメは自然と己の膝が砕けるのを感じていた。高校最後の夏の予定。雪之丞たちと計画していた卒業旅行も、遠い対岸のことのように霞んでいく。
◆◆◆
排ガスを吸った冷風が頬を撫でていく。
どこかのビルの給水塔の上に投げ出された雪之丞は西日に目を細めた。狂おしいほど美しい夕日が染める雲の影は青紫。町は炎の色。
「綺麗ね」
隣に降り立った紫に雪之丞は頷いた。
だが、どうにもその風景はちっぽけだ。スケキヨと学校、そして自分の家。その往復はもはや彼の世界ではない。今の雪之丞にとって、世界とはもっと不敵でもっと広大なものであった。
「にしても、少しばかり」
今日の太陽はかつてないほど眩しい。実際夕日に撫でられた肌は焼き付くようであったし、目はほとんど潰れそうだ。
尚も意固地に太陽をみつめる雪之丞に微笑んで、紫は日傘を差し出してやる。
「不思議な感じ?」
「まぁな」
「あなたは変わったから。じきに慣れるわ」
薄暮の町がかえって輝きを増していくように思えるのは、ただの錯覚なのだろうか。ビルとビルの隙間の暗がり、灯りの灯らない空部屋に奇妙な居心地の良さを覚えているのも、やはり錯覚なのだろうか。胸が熱い。熱の塊を吐いてしまいそうだ。
「お別れを。きっと、もう直接太陽を拝むことなんてできないわ」
最後の太陽。その言葉の意味は分からずとも、何となく太陽の方も惜別を告げているように思えた。雪之丞は目を焼くような夕日に拳を突き出す。それは拳銃の形だ。
「あなたの形はそうじゃない」
背後からもたれかかった紫が手を握る。ひんやりとした指によって手のひらが閉じられる感触にも、耳元で囁かれた声にも、彼の心が動くことはない。彼の心は一途に燃えている。風見幽香という、あこがれに。
「こう。指すんじゃなくて、握るの」
心臓をノックするように、片手を胸に当てられる。
太陽が二度と見られないなんて気にならない。拳の下にもうひとつの太陽を埋め込まれたように胸が熱く、焦げていた。出処の知れぬ雄叫びがそろそろと忍び寄る宵闇をつんざいたとき、既に給水塔の上に雪之丞はいない。
第八話『雪之丞17歳、恋を知る』おわり