年明けの次郎リスペクト店、スケキヨで戦争が勃発した。
飛び交うものは油っけの強いスープのしぶきと野菜と油、それとニンニクの破片だ。それらを頭からかぶってものともせず、壮絶にしのぎを削り合うのは二人の青年であった。
片方はスケキヨのすり鉢ラーメンが果てしなく似合わない、まるで雪のように白い肌の美青年だ。彼の切り裂くような鋭い視線を真っ向から受けるのは、美青年と比べるとパッとしない風体の三白眼である。
胃袋にものを言わせることになった場合、どちらが有利に見えるかなど問うまでもない。
しょせんあの美青年は勢いだけの若造よ、と同席したラーメンの鬼たちはささやきあったものだったが。
二人の連れである少女が開戦を告げた瞬間から、その認識は覆されることとなった。
「よっく食べるわねえ」
故も知らぬ少女は感心と呆れ半々の表情というところか。
近くにいたのではせっかくの服が流れ弾で台無しである。少し離れた場所に陣取って、江梨花と少女は戦いの行く末を見守っていた。
正しくは雪之丞の奮戦っぷりを、である。
嫉妬のパワーとは斯くも人を変えるものか。まるで掃除機のような勢いで麺とスープを吸い込んでいく雪之丞。彼がじゅるじゅるると麺をすすりきる度に、小さな歓声が巻き起こる。
「ねぇねぇ、あのハリガネ、何をあんなに必死になってるのかしら?」
「それはねえ」
身内以外にそうそう言いふらすものでもないよ。
と、口にしかけて江梨花はかぶりを振った。確かに本人にとってはデリケートな話題ではあるのだろうが、あまりにもバカバカしすぎて口をつぐむ気にもなれない。
「ハリガネ、ってかユキのやつはね、あんな見た目して昔からモテないの」
「へえ。それじゃあよっぽど中身に問題があるんでしょうね」
「そうよね。当然そう思うわよね」
腐っても雪之丞は美形である。
そして、何故かは分からないが、生まれて以来非モテの呪いに苛まれてきた。たとえどれだけ好青年を演じても、いつも肝心要で意中の女にフラれてしまうのだ。
「で、この喧嘩はモテなさすぎてついに男に手を出したとか、そんな感じ?」
「…………ぜんぜん違う。ユキはね、ハジメが羨ましいんじゃないかな。きっとね」
おおお、と声が上がった。
視線を集めるのはハジメだ。彼はまったくの無表情を崩さないままに、カウンターに置かれていた銀色の容器をひっくり返したところだった。
ラーメンの上に乗せられたものは大量のにんにくである。味をプラスすることでマンネリした舌を洗ってペースを巻き返そうという魂胆なのだろう。
一方の雪之丞も落ち着き払った様子で一瞬だけそれを見守って、再び凄まじいペースで箸を運び始める。
「最近ハジメのところに従姉さんが来てさ。それがものっすごい美人なの。料理はできるし、優しいし。こないだは学校にまで弁当持ってきてくれてさー」
と、我がことのように誇らしげに語る江梨花。最初こそは幽香の完璧さに得体のしれないものを感じて距離を置いていたものの、いまでは彼女に惹かれ始めていた。
幽香はまるで花だ。そこにあるというだけで、何者かを引きつけてやまない。
「ずいぶん、嬉しそうに話すじゃない」
微笑ましげに少女が見つめていることに気づいて、江梨花は赤面した。
またまた見ず知らずの相手に熱弁をふるってしまった。ここ最近で覚えている限り、二回目。それは目の前の少女がどこか幽香に似た雰囲気を纏っていたからなのかもしれない。
「ユ、ユキのやつ、ハジメが幽香さん――あぁ、従姉さんの名前なんだけれど。幽香さんとオトナの関係なんじゃないかな、とか。そんな風に勘ぐっちゃってさ」
矢継ぎ早な言葉に、少女はただ、ふふふと笑う。
「ふうん。あんなやつがねえ」
「そう、あんなやつが。ハジメもハジメで、女の子に縁がないのは一緒なのにね」
少女の視線はハジメになど向いてはいなかったが。うつむき加減の江梨花には、それを知る由はなかった。
熱気にうかされた店内は熱い。傷だらけのカウンターに置かれたコップはすっかり汗をかいている。少女は一気に中身を飲み干して、氷を噛み砕く音を響かせる。
「あなたはそこのところ、実際どう思う?」
「ハジメと幽香さんがどうのこうの、ってこと?」
二人の言葉を遮ったものは、勢いよく二つの丼が叩きつけられる音だった。
しずかなどよめきが狭い店内所狭しと押しかけた観戦者に波及する。うなって、にらみ合う二人の青年。カウンターに仲良く並んだすり鉢は、二つともスープ一滴麺一本残さず平らげられている。
「ど、同着……」
江梨花のつぶやきをかき消す勢いで椅子が引かれ、ハジメと雪之丞はお互いの胸ぐらを掴み上げた。
「なかなか骨があるじゃねえかよ、ヘタレボーイ」
「いい準備運動だったよな。走るぜ、コラ」
胃袋の中には大量の麺と油。そして、どう考えても走りにくいこと極まりない格好にも関わらず、ふたりは疾風のように店から駆け出していった。
「さあさ、ここからが本番よね!」
愉快そうにその後を追って出て行く少女。とっさのことに反応しきれなかった江梨花が、明らかに運動慣れしない足取りで続く。
店を出ると、天窓ごしの日差しはすっかり黄色味を帯びている。
年始のおめでたいムードに包まれたアーケード街にはいつも通りの放置自転車の山。更に所狭しと門松やらのぼり旗やらに埋め尽くされた通りには買い出しの人々がひしめき合う。
「ちょ、あんたら、早っ」
器用にその隙間を縫っていくハジメたちに大きく遅れを取りながら、江梨花は少女の言葉を反芻していた。
あの二人になにかあるだろうかと問われれば、それはないよと言い切ってしまいたい。
幽香と名乗る女性とハジメはあくまでイトコであって、それ以外の何者でもない。恋とか、花とか。そんなものはないのだと。
時が経てば幽香もこの町を後にする。そして万事は変わらず回り続ける。
あくまでそう思い込みたい気持ちに気づく前に、彼女の足は少女に追いついていた。
奇しくもそこはいつもハジメが幽香との『殺し合いの練習』に通っている公園である。
「は、ハジメたちは……!?」
ベンチに腰を下ろして、少女はおかしそうに指さした。そこから聞こえてくる水しぶきと罵声。
「この野郎、いっつもそう、お前ばっかり結局いい目を見やがる!」
「ふざけんじゃねえよ。おまえが情けない恋愛ばっかりしてるのは、俺じゃなくてお前の中身のせいだろうが!」
「クソが。あったま来たぜ!」
「なんだよ、図星か。図星なのか!?」
怒り心頭の二人はばしゃばしゃと池の浅瀬で殴り合いを繰り広げていた。
買い物帰りの夫婦が、犬の散歩に訪れた老人が、イチャついた男女が、足を止めてバカ二人の戦いを観戦している。
一月となれば池に氷が張るほどには寒くなる。それでも、膝まで水に浸かった二人は意に介する様子もなく拳を振りかざしていた。
「おぶぅ」
ハジメの拳が雪之丞の顔面に叩き込まれた。それから猫のケンカのようによくわからない叫び声をあげながら両者の取っ組み合いが始まる。
「あ、あれは効いたね」
「あいつ、顔面ばっかり狙って卑怯ねえ」
相手が片腕だからといって、雪之丞も手加減はしない。ぽこぽこと殴り続ける彼に、ハジメも掟破りの噛み付き攻撃で応戦する。
それは激しくも、どこか可笑しな死闘。池のフェンスに寄りかかる江梨花は笑っている。
「止めなくていいの?」
「心配いらないわ。いつものことよ」
そう、いつものこと。
たった一人二人見慣れぬ人物が入り込んだところで、これまでの生活がどうこう変わることはない。今までの平穏が、今まで通りに続いていくだけ。
なら、彼女への答えも決まったようなものだ。
「さっきの質問だけどさ」
これまでのものはすべて杞憂に違いない。大声をあげて笑うと、江梨花は見返る。
「あれ?」
だがそこに、答えを聞き届けるはずの少女はいない。忽然と、スケキヨで出会ったときのように姿を消していた。
その奔放さにやはり呆れながらも、江梨花の背後から聞こえる水しぶきと大声が遠のいていくようだった。代わりに聞こえはじめた胸騒ぎの足音をかき消すように、江梨花は引きつった声でもう一度笑うのだった。
◆◆◆
「もうすぐ学校なんだからさ」
冬の夕暮れは釣瓶落とし。
またまた粉雪がちらつきはじめた空の下、幾分おとなしくなった男たちを背にして、江梨花は後ろ手を振った。
「新学期までに、ちゃあんと仲直りしておいてよね」
ふんとそれぞれに鼻を鳴らしながらも、ハジメと雪之丞は手を振ってくれる。満足げに見届けて江梨花が路地の隙間に姿を消すと、男たちはそのまま佇んだ。
「全部が全部俺のせいってワケじゃねえけどさ」
雪之丞が唇を開いたのはしばらくして指先が冷え始めた頃。その隣で大口を空けて、ハジメは空を見上げている。
「悪かったよ」
「そうだな。お前が悪い」
未だ冷めやらぬ怒りからか、雪之丞は白い息を盛大に吐き散らしたが、それでもハジメにはわかる。これはこれで落着だ。お互いがお互いを信じているからこそ、本気で喧嘩ができるのだ。
そうしてハジメの頭に浮かぶのは幽香のことだ。彼女はすくなくとも雪之丞ほど簡単にはいかないだろう。
今朝まではうまくやっていた。今繰り広げている不和でさえ、一日二日眠れば解決するようなものなのかもしれない。それでも、今後ハジメの一挙手一投足で六月までの平和が崩れ去ってしまう可能性は十二分にある。危うい関係だ。
ヘマをすれば、まっさきに被害が及ぶのは周りの人間だ。
「んだよ。ジロジロ見やがって」
そんなことはつゆとも知らぬ雪之丞の不機嫌な顔を見つめて、ハジメは重々しい口を開いた。
「ユキ、例えばなんだけどさ。おまえの命が知らないあいだに誰かに握られていたとするじゃん」
「お、おう」
唐突に湧いて出た例え話に、雪之丞は曖昧に相槌を打つことしかできない。
「その誰かってのが本気を出さなきゃ、お前は巻き添えをくらって死ぬ。そうだとしたらさ、お前はどう思う?」
「そうだなあ。まずは、感謝かな」
その予想だにし得ぬ言葉。いたずらっぽく笑って、雪之丞は近くの自販機に向かって歩み寄る。ハジメもその後に続く。宵闇に煌々に光を放つ自販機に硬貨を放り込んでいく間、雪之丞は自分の言葉を確かめるように何度も頷いていた。
「だって、少なくとも退屈はしなさそうじゃんか。俺、平凡ってのが嫌いでさ。あ、こういう考えも結構平凡なのかもな」
手渡された暖かいコーヒーの缶と友人の顔とを、ハジメの視線は何度も往復した。コンクリートの塀に背中をあずけて、彼は缶で手のひらを温める。
「でもマジつまんねえ学校とかさ、最近やんなっちゃって。だからお前たちが楽しそうに見えちまったのかもしれねえわ」
「なんだよ、やっぱりお前が全面的に悪いじゃねえか」
「はは。そうかもな」
大したやつである。
「羨ましい」
ハジメには自分と家族の命を背負って立つのは、あまりに荷が勝ちすぎるように思えた。幽香と戦う気持ちはまだ萎えていない。
だが、己より遥かに豪胆でいいかげんで、理不尽の荒波をいとも容易く乗りこなしてしまいそうな男が目の前にいる。
雪之丞を見ていると、どうして幽香が選んだのが自分なのか、能力というひどくわけのわからないものを託されたのが自分なのか、理解できなくなる。
褒めても何も出ないんだぜと笑う親友に、何もかもぶちまけてしまおうか。
そう心が揺らいだ刹那に、背後から鈴を転がすような、澄んだ声が響いた。
「あなたが鶴見ハジメよね」
「え?」
その姿を捉えることもままならなかった。
ただ、瞬間に感じたものは幽香との特訓で幾度も経験した浮遊感。そして、血管に針を流し込まれたような、前代未聞の痛みだった。
「はじめまして」
痛みも衝撃も、爆心地の脇腹からすぐさま全身を貫くように広がっていく。
どさりと地面に転がってハジメは悶絶した。激痛が引き起こす吐き気に息をつまらせながらも、その少女の姿をようやく認める。雪風にたなびく、紅白の装束も。
「お、おいおいおい、なんだよ、アンタ!」
両者の間には、状況を飲み込めない雪之丞。
「私は霊夢。博麗霊夢。そして用事があるのはただひとり。そこに転がってるやつ」
霊夢の歩みに合わせて雪之丞は後ずさる。
ハジメは必死に立ち上がろうとしていたが、雷に打たれたように体は麻痺していた。脇腹に張り付いていたものがぼろぼろと崩れ、地面に落ちる。それは焼けた札である。
たった一枚の紙切れが、ここまでの威力を秘めるとは。
「悪いことは言わないわ。ハリガネはそこを退いて、さっさとお帰りなさい」
「は、ハリガネ?」
「そう。あんた、細くてなまっちろいから」
霊夢は装束の袖から数枚の札を取り出す。それがすぐさま青白い電光でもってあたりを染め上げた。その激しさはトリックなんてちゃちなものではない。どれほど察しの悪いものにもこれが現実なのだと思い知らせるほどの迫力があった。
それを前に、ちらりと雪之丞はハジメを振り返る。
「い、け」
喉笛から絞り出す声が焦げ臭い。それでも何度となくハジメは雪之丞に繰り返した。俺を置いて行けよ、と。
「行けったら!」
「くっ!」
だが、結局雪之丞がハジメの意に沿うことはなかった。
持っていたスチール缶を力任せに霊夢へと叩きつけると、その行く末も見守らずにハジメを担ぎ上げる。
耳障りな金属音と、雪之丞のうめき。
なかば朦朧とした意識で必死に足を動かしつつも、ハジメにはそれだけが聞き取れた。
ぜひぜひという苦しげな呼吸音が自分のものなの友のものなのかもわからぬままに走り続けて、前も後ろも曖昧になった頃、冷たく固い地面にハジメは投げ出された。
「いってええ」
うつ伏せに倒れたまま首を動かすと、雪之丞の右膝から細い金属片が生えていた。よくよく目を凝らすと、それは針だ。菜箸ほどもあろうかという太さと長さの針を引き抜いて、雪之丞は荒い息をおさめにかかる。
「頭おかしいだろ。こんなもんをバカスカ投げてくるんだぜ」
「あいつは?」
ハジメがしばらく目を閉じていると、口を開くだけの活力が戻ってきた。
「わかんねえ。たぶん、撒いたんじゃないか」
寝かされている場所にはハジメも見覚えがある。あの蝸牛の怪物を追ううちに入り込んでしまった裏路地の世界だ。湿った壁と湿った路面。そして、静かすぎるくらいに静かな雪の夜道。
「ここ、どうやって来たんだ?」
ハジメの言葉に、雪之丞はようやくあたりの異常に気づいたらしい。わからん、と肩を竦めて見せる。
「でも、あの女に追いかけられるよか迷子の方がマシだろ」
ハジメはそのポジティブ思考が、ますます羨ましい。
雪之丞の膝は見かけよりは傷が浅いようで、彼はよろめきながらも立ち上がるとハジメに手を差し伸べた。
「もうちょっと走っとこうぜ」
体のしびれは収まりつつある。
電撃じみた一撃を加えられた脇腹の具合はひどいものだが、それでも動けないほどではない。
「お前一人で逃げろよ」
ならば、これ以上雪之丞を危険にさらす道理はない。
博麗霊夢と名乗った少女が何者であるにせよ、鶴見ハジメの名を知っているのなら、狙いが二人のどちらかなど明白なことだ。
「な、何言ってんだよ。死んじまうぜ」
「どうにかするさ。行け。お前だけならなんとかなるだろ」
無関係の雪之丞をこれ以上巻き込むことだけは避けたかった。これ以上、日常をぶち壊しにしたくない。それにはいささか遅すぎるのかもしれないが。
「できるワケねえだろ。ずっと一緒だったし、これからだってそうだ」
だが、雪之丞は強引にハジメを立たせると、肩をもたせて歩みを進める。有無を言わさぬ様子に、ハジメはますます苦い顔で呻いた。
「お前は大事な友達だ」
「…………分かった」
正直その言葉は涙が出るほどありがたい。
それだけに、ハジメはますます彼を危険にさらすことが忍びなかった。
ふと思い立って、懐の携帯を取り出してみる。路地裏の異世界といっても、電波を拾うことはできるようで、千晃から「さっさと仲直りしろ」という旨のメールがちょうど着信したところである。
「行こうぜ」
それを仕舞いこんで、立つ。
電話をかけてハジメが『助けて』と言えば、幽香は手を差し伸べてくれるのだろう。霊夢という謎めいた強敵にも、幽香をぶつければ対処できることは間違いない。
間違いないが、絶対にそれだけはしたくない。
その意固地こそが親友を危険にさらしている最たるものであるという矛盾もハジメは気づいている。
それでも嫌だ。それでもできない。
「とりあえず大通りに出よう。で、朝まで人通りの多いところで時間を潰す。あいつだって、そんなに表立ってこっちを襲ったりはしないはずさ」
どちらかといえば願望に近い言葉。あれほどデタラメな相手が人目をはばかることなどするのだろうか。しかし、今は藁にでもすがりたい。雪之丞の言葉に頷いて、ハジメは土埃まみれの服の裾を払う。
友人の肩ごしに青白い光が迸ったのは、ちょうどその時だった。
「ユキ、避けろ!」
第六話 『そろそろ喧嘩をしましょうか』おわり