オーブンに丸鳥を入れて、江梨花は満足げに額の汗をぬぐった。
歓迎会の準備を進めるうちにすっかり暗くなった窓の外。台所の明かりに照らされて白雪が舞っている。
台所を所狭しと動き回っていれば、オーブンの余熱だけでも十分暖房がわりになる。
「ねーねー」
幽香の背中にべったりくっついたままの千晃が、幽香の肩に顎を乗せた。もう幽香も慣れたもので、別段動きを緩めずに一枚ローストビーフをスライスすると、千晃の口に運んでやるのだった。
「お姉ちゃんってさ、どうしてこの町に来たの?」
「そうねえ」
千晃がうまいうまいと口を動かしている間に、幽香はわずかに考え込む仕草を見せた。代わりに包丁を引き受けた江梨花も思うところがあったのか、首をかしげる。
「幽香さん、ハジメの従姉さんなんですよね」
「そうだったわねえ」
今度は千晃が首をかしげる番だった。
「そうだったっけ?」
「そうだったことにしましょうよ」
「うん。いいよー」
しかしそこは流石の千晃だ。あまり深く考えず、とりあえず良さげな方へと突き進むあたりは兄によく似ている。
一方、掴みどころのない会話を繰り広げる二人に江梨花の頭上を疑問符が覆い尽くしていく。そんなことはおかまいなしと、千晃は幽香に頬ずりしながら次の一切れに手を伸ばすのだった。
「お腹いっぱいになっちゃうわよ。それで、なんの話だったかしら」
口いっぱいに肉を詰め込んで、千晃は体を揺すった。彼女に振り回されるようにして、幽香は微笑む。
「こっち来た理由」
「あぁ」
それはまるで、本当の姉妹のようで。
微笑ましい光景を前に、江梨花はいいなぁ、と呟いて包丁を手に取る。幽香が手入れしているのか、切れ味は抜群だ。そう力を入れずとも肉が切れていく。
江梨花は食べるのと同じくらい料理が好きだ。その腕をみんなに振るえるというのなら、もう言うことはない。だが。
「簡単に言うと故郷に居場所がなくなった。みたいなところかしら」
次の瞬間に幽香の口から転がり出てきたものは、江梨花の上機嫌を根元からへし折るような言葉だった。
思わず手を止めた江梨花がぎこちなく幽香に首を向ける。真顔の幽香と視線が交錯する。束の間、換気扇とオーブンのうなりだけがその場の音となる。
「あちゃあー」
相変わらずマイペースに、千晃は空気が読めているのに絶望的に読めていないリアクションを見せると次の肉をぱくぱくと食べていくのであった。幽香はただただ笑って肩をすくめて見せた。
「ほーんと、あちゃあ、よねえ」
「お姉ちゃん何しちゃったの?」
「その、千晃ちゃん」
おいおいお前はそこまで聞くのかよ、と江梨花の表情が物語っている。
「何も。ある日いきなり地元を仕切ってるヤツに『お前はこの土地の負債だ』って言われて殺されそうになって。いちいち相手するのにうんざりしたからひと暴れして、出てきたの」
「ふうん。大変だったんだねえ」
大変なんてものじゃない。
もし幽香の言が本当なら、とてつもない修羅場である。
別に気分を悪くするでもなく、まるで昨日の天気のことのようにあっけらかんとして答える幽香と相槌を打つ千晃を見ていると、江梨花は逆に自分がおかしいんじゃないかと思えてくる。
「いっ」
気もそぞろに包丁を動かしていると、さっそく刃先を指の上に滑らせてしまうのであった。
「あらあら。見せてみなさい」
「あ、あはは。大丈夫ですよ。大丈夫。こんなの、スグ治りますから」
とっさに指先を押さえたままの江梨花がごまかすような笑いを浮かべた。彼女の手を取ろうとした幽香を遮ったのは、やはりというか空気の読めていない千晃であった。
「お姉ちゃん。ウチにいたければいつまでだっていていいんだからね」
「ハジメが許すかどうかよね。ねぇ、江梨花、本当に平気?」
江梨花はただ、指を握り締めたままぼんやりと立ち尽くしていた。
「江梨花?」
「――えっ? あぁ、あぁ、ええと、ちょっとバンソーコーもらってもいいですか?」
幽香が場所を教えると、江梨花は慌ただしく駆けていくのだった。怪訝そうに彼女の後ろ姿を眺めていた幽香だったが、軽く首を振って千晃に向き直る。
「千晃、さっきの話、ハジメには内緒よ」
「おっけー、女の子同士のヒミツってやつだね」
曖昧に笑って見せて、幽香は調理に戻るのだった。
◆◆◆
ハジメと雪之丞と父は、リビングでダラダラとしながらテレビを見つめていた。
「邪魔だっつの」
ちゃっかりとストーブの前を占領した雪之丞に、ハジメはみかんを投げつける。ぽこんと軽い音を立てたのはみかんか、それとも彼の頭の方か。じろりとハジメを睨みつつ、それでも彼はその場を独占しつづける気らしい。
「風こねえだろうが」
二発目のみかんが直撃するのだが、雪之丞はあくまでどかないつもりだ。最高のポジションに陣取ってから雪之丞がラッパ飲みするウイスキーが、彼をより一層意固地にしているようだ。
「やだ」
幼馴染の姿にどこかいつもと違うものを感じて、ハジメはその隣に腰を降ろす。酒のにおいがぷんと立ちこめている。
「どした?」
「くっそぉ、どうしてお前が幽香さんとひとつ屋根の下でイチャコラサッサできんだよ。常識的に考えておかしいだろ。俺を見て。ホラ、ホラホラ。舐め回すように」
いろいろと弁解したいことはあるが、酔っぱらい相手に何を言ってもムダである。とりあえず言われるがまま、ハジメは雪のように白い美青年をげんなりと見つめる。
「で、何」
「どこから見てもスキのない美形だろ!? なのにどうしてもモテない。どうしても女が寄り付かない。いっつも隣にいるお前や江梨花が俺のツキをぜんぶ吸い取っ、クソ、くっそお!」
後半はほとんど嗚咽にとって代わっていた。
未成年のくせにすっかり泣き上戸が癖になってしまった雪之丞にハジメは呆れて見せつつ、それでも笑って酒の瓶をひとつ引き寄せる。
「そうだな。いつも一緒にいるからな」
ぐしゅぐしゅと鼻をすすりながら、雪之丞も大半空になったボトルを持ち上げる。
「俺たち、友達だもんな」
「わたしも混ざっていいんだよね、それ」
江梨花がオレンジジュースを片手に立っていた。
「当たり前だろ」
誰からともなくかちんとボトルを打ち鳴らし、笑い合う。思い返せばいつでも三人だった。小学校の頃に知り合って、雪之丞はずっとモテない美形で、江梨花は何年たってもチビのまま。
「メシ、そろそろできる?」
「あとは焼きあがりを待つだけってかんじ。それにしてもユキとハジメ、とうとう働かなかったよね」
平和すぎる日常はずっと続いてきた。これからもずっとずっと、それが変わらなければいいとハジメは願う。願ってはいるが、その雲行きがどうにも最近怪しい。
「おい、ちゃんと俺は買い出しとかしたぞ」
「でも幽香さんが大半やったんでしょ」
答える代わりにちびりとウイスキーを流し込んで、ハジメは黙りこくる。
風見幽香。彼の平凡で平和な生活を守るためには彼女を殺さなくてはならない。でなければハジメは死ぬ。家族や二人の友人も無事では済まない。少なくとも、彼女からはそう伝えられている。
果たしてそれは本当のことなのだろうか。
ハジメは幽香によって何度も命を救われている。しかし、実際のところ何度も死の恐怖を顔面に叩きつけられてもいる。
彼女の性格を考えるのなら、ただ単に遊ばれているだけ、とも知れず。
「は、ハジメ?」
ぐるぐると思考の袋小路をめぐるうちに、いつしかハジメのペースは恐ろしく上がっていた。目を白黒させる江梨花を見て、ようやく自分が水のように飲んでいたものが酒であることを思い出す。
「ほんと、一体誰が主賓なのやら」
彼の悩みの種は、今まさに大量の料理をテーブルに並べていくところだった。
「ですよねえ」
ちゃっかりとその隣に回って頷く雪之丞に静かな殺意を燃やしつつも、ハジメはやおら立ち上がり、ボトルを掲げる。げっぷを一発。
「風見幽香さんのゴケンコウとゴタコーに乾杯」
さっそくウイスキーをあおった青年を見つめて、幽香はやれやれと肩をすくめる。
「あんまり、飲み過ぎないようにね」
◆◆◆
「かんぱーい!」
半数以上が未成年にも関わらず、その歓迎会は一時間と待たずしてタガの外れた酒の酌み交わし合いと化していた。すっかり酔いつぶれてダウンしたハジメは床に伸びている。この場で平然としているのは真横に座った幽香くらいのものだった。
しかし彼女のニコニコ顔からはその余裕を察することができない。
よく見れば、彼女の体はメトロノームのように左右に揺れていたし、数本の空いたボトルが彼女の膝の上に転がっていた。
「お前、だいじょ」
「皆さん!」
幽香はハジメの言葉を遮り、高々と手を挙げる。全員の期待と不安の視線を集めて、彼女は焦点の合わない瞳を満足げに細めた。
「ウフフ、脱ぎます」
しかし、立ち上がってブラウスのボタンに指をかけるなり彼女はピタリと動きを止める。
彼女の顔色が一瞬にして紙のように真っ白になり、そのままぎこちなく崩れ落ちる。彼女の体が着地点して選んだものはハジメだ。
「うぐぇっ」
彼の腹に猛烈なヘッドバットを決めたまま、ついに幽香は潰れたのだった。
「お、おい。あーもう」
その場に放っていくのも気が引けたので、ハジメは幽香に肩を貸して立ち上がる。主賓が退場する段になっても、この宴会は静まるどころかより暴走の度合いを増しているようだった。
「じゃあ俺が代わりに」
と、脱ぎ始めた雪之丞を捨て置いてリビングを横切っていくと、幽香が足元をもつれさせてふらりと体勢を崩す。とっさに受け止めようと差し出したのはギプスに包まれたままの右腕。
ハジメは痺れるような痛みに悲鳴を上げ、幽香は床にごろりと投げ出されて不機嫌に唸った。
「お前、弱いならこんなに飲むなよ」
「なによぉ」
その瞳でさえ、今はいささか迫力に欠ける。
もはやへろへろの幽香は立ち上がることを拒否していたため、なんとか千晃の巣窟であるソファまで引きずっていって横たえるのだった。
ハジメが片腕一本で難儀している間ずっと、彼女は『埋めてごめん』だの『本当にやるとは思わなかった』だのと、ここではないどこかにいる何者かに謝まり倒していた。
あまりにも謝罪の文言が恐ろしすぎるので、ハジメはこの際深く掘り下げないことにする。ソファに彼女を横たえてやって、ハジメは改めてリビングを見渡した。
「一番。ウミガメの産卵」
「ぶっ――ぶはははは! ユキちゃん超ウケる。ねぇ撮っていい!? いいよね!」
あられもない姿でほふく前進する雪之丞と、爆笑しながら携帯のシャッターを切る千晃。そしていかに自分が不甲斐ない亭主であったかと滔々と語る父に真面目に付き合う振りをしながら、まきびしのようにビールの王冠を雪之丞の進行ルートに撒いていく江梨花。
「明日、大丈夫かな」
そして、今しがた全裸の雪之丞が上を這っていったのは紛れもなくハジメの学ランである。夜が明けたら一番でクリーニングに出そうと決めて、冷蔵庫にミネラルウォーターがあったことを思い出す。
「水、持ってくるから……?」
そんなハジメのシャツの裾を掴んで離さないのは幽香の白い指だ。もちろんいつもの万力のような力はすっかり失せている。振り払うのは簡単だが、掌に巻かれた包帯を見るだに邪険にすることがためらわれる。
「ハジメ。あなたはずるい」
ずるい。何がだろうか。
言われた当の本人としては、ありえない力と美貌を理不尽に振りまく幽香の方が、あまりにずるいと感じる。
そんなことはお構いなしに幽香はとろんとした目でハジメを見上げるのだった。
「私だってご褒美が欲しいのに」
ハジメには、とっさに彼女の言うところが理解ができなかった。
「悪くないって、言ってくれたじゃない。それじゃあ私も成長したってことでしょ。なら、私にだってご褒美があってもいいとは思わない?」
蓋を開けてみれば何でもないようなことだ。幽香とハジメの間に交わされた約束。お前ばっかりいい目を見やがって、と。要するに彼女が言いたいのはそういうことらしい。
「俺がなにか話してやればいいのか」
こんな化物みたいな女にも多少の可愛げはあるんだな、と。苦笑してハジメは彼女の枕元に腰を下ろした。
「違う。私のお願いを聞きなさい。一つでいいから」
幽香の命令を聞く。あまりにぞっとしない話だ。いったいどんな地獄に飛び込まされることになるのかと慄きつつも、ハジメは視線で先を促した。幽香はほんの少しだけ口ごもって、ぽつりと
「……ちゃんと、名前で呼んでよ」
派手な肩透かしをくらった気分だった。そんなハジメとは正反対に、これは幽香にとってひどく深刻な問題なのだった。
「私の名前はアンタでも、お前でもない。ましてや風見幽香なんてふざけた呼び方も気に食わない」
何かが決定的にこじれているような気がしてならない。ハジメは、頭の中で問題をシンプルに整理していく。風見幽香と鶴見ハジメの関係を。
乱痴気騒ぎを一瞥して、幽香に囁く。
「俺とあんたは殺し合う。かもしれないんだろ」
そうならない余地だけは残しておきたかった。
「かもじゃない。絶対に命の駆け引きになるわ」
にべもない。むしろそれ以外の可能性の存在を彼女は認めたくないようでもある。
「だからこそ、殺し合う時くらい名前で呼んでほしいの」
長い沈黙。
「かざみさん。じゃあ、ダメ?」
「馬鹿」
それきりシャツを手放し、幽香は腕をだらしなく投げ出した。それを取って彼女の腹に乗せてやる間、一瞬ハジメの動きが止まる。今、ハジメは幽香の体に触れている。
電撃的なヒラメキだった。
「なぁ、おい」
返事は深い寝息だった。
しばらく迷って、ハジメは思い切り幽香の額を弾いた。彼女は唸って表情を歪めたが、起き出す気配はない。完全に酔い潰れている。
それを確かめた瞬間、ハジメの瞳と指先に小さな炎が迸った。
彼女の理不尽なまでに強力な防御は、今この瞬間仕事を放棄している。
「らしくないな」
爪先を幽香のこめかみにつきつけて、ハジメは自分の声が遠いところから聴こえてくるように感じる。さんざんハジメを不運のどん底に突き落としてきた神は、この瞬間に最大のチャンスを与えてきたのである。
「隙だらけだぜ、あんた」
ふとリビングを振り返る。そこにあるのは日常だ。これから起こることを彼らは知らない。ハジメは幽香の頭に風穴をあける。彼らに気づかれる前に幽香を運び出し、そしてどこか、人の目のない場所で彼女の死体を能力で完全に破壊して殺人の証拠を隠滅する。
できる。
今の好機なら、今の能力ならできる。
ハジメの息は小刻みだった。
震える指先を見つめて、今この瞬間決断しなければいけないと思う。これはルール違反ではない。意識の中のトリガーに指をかける。瞳を燃やす炎が光量を増す。
そこで終わりだった。彼はいつまで経っても最後の一歩が出せない。
「だけど、俺はまだまだアンタを知りたいんだ。俺を助けたアンタのことを」
それは結局のところ、誰かの命を奪うという決断に踏み切れない意気地なしの言い訳に過ぎないのかもしれない。
「これから先、いくらだって機会はある。強くなって、お前をあっと言わせて、それでも分かり合えないなら、またこうして一緒に酒を飲むさ」
腰を上げてハジメは肩をぐるぐると回す。どうしようもない凝りがほぐれていくようだった。
「こないだはかっこよかったよ。千晃をありがとう」
毛布を取りにいくハジメの後ろ姿を、薄目を開いて幽香は見つめていた。
「楽しいうちに死ねるのなら、それに越したことはないのにね」
究極の盾と究極の矛。
それを持ち合わせるのが風見幽香の肉体だ。彼女が自分の意志で滅びを受け入れようとしない限り、究極の矛盾が崩れることはない。ハジメは、今しがた看過したものが千載一遇のチャンスであるとも知らずにいる。
ただ、チャンスを逃したのがハジメだけとは限らない。幽香はほうと息をついて、ハジメの背を視線で撫ぜた。
「もうちょっとだけ、私は夢を見ていてもいいのかしら」
「あぁ、そうだ。それと」
ドアノブに手をかけたハジメが唐突に振り返ったので、幽香は慌てて目を瞑る。とたんに酒のしみた頭にぐわんぐわんと響くような大騒ぎの声。
「その」
それらを縫ってなお、ハジメの声ははっきりと聞こえた。
「幽香、ようこそ我が家へ。言い忘れていたけれどさ」
それは誰が聞くともしれないままに転がりでた、何気ない一言だったのだろう。だが、寝たフリを決め込む外ない幽香にとってあまりにずるい一言でもあった。
「ずるい」
水と毛布を手にハジメが戻るまで、幽香はずるいずるいなとぼやき続けるのであった。
第一章『蝸牛の十二月』おわり