銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
黒い塊が蠢いている。まるで、蛆虫が蠕動するかのように。黒い塊が爆ぜている。まるで、
黒い雪と、黒い雲。その塊。酷く戯画化された人間のような、異様に長い腕と脚の、数十フィートはあろうかと言う現実離れした大きさの……でも、確かにそこに在る、悪意の塊。首筋にギリギリと、錆び付いた音を立てて回る、
『──
『────
知らず、体が震える。寒さ、ではない。それもあるけれど、そんなものは些細な話。
──肺を腐らせるかのように爛れた、凍てついた空気。肌を切り裂くかのように収斂した、渦を巻く雪雲の中から、燃え上がる二つの
──私に、私だけに向けて。なに、あれは? あれは、なに────!
「────ヒョードル、シャーニナ。彼女を護れ、掠り傷一つ負わせるな」
『『
短く言い残して、ハヤトさんが走り出る。黒い雪雲の怪物に向けて、燃え上がりながら睨み付ける紅い双眸に向けて。黒い雪に覆われた石畳、蹴って。
そして応えた人狼二人は、私の前で最新型の自動式軽機関銃を構えて────
──掃射する。耳をつんざくような銃声の連続、背嚢から連結弾帯で、銃弾の雨霰。黒い雪雲へと、ハヤトさんをも巻き込みながら。
──それに、悲鳴、上げるけれど。機関銃の銃声に、狼の咆哮に掻き消されて。
迎え撃つように振るわれた長腕、まるでゴムでできた鞭みたいに。先端に備わった鋭利な爪が五本、腕に纏わり付く黒い雪と雲、爪にこびりついた血肉から据えた空気を撒き散らしながら────
『────
でも、ハヤトさんに横っ飛びに躱されて。人狼二人が放った全弾、吸い込まれるように黒い雪雲に襲い掛かる。
その衝撃か、痛みか。狼の咆哮よりも更に大きな咆哮が、怪物の見えない口腔から放たれて。切断されていた異形の腕、ぐちゃりと黒い汚濁を撒きながら石畳に落ちる。
「行くぞ、我が牙────《
その時には既に、怪物の胴体。人間で言うなら心臓のある位置に、ハヤトさんが抜き放った刀────柄に仕込まれた
──目にも留まらない速業。時間にすれば、二秒も懸からずに。普通なら、もう、あの怪物は死んでいると思う。
──噂。噂で、聞いたことがある。確か、オジモフ君とガガーリン君が話し合っていた。『
そう、死んでいるはず。なのに、なぜ。なぜ。
「────ハヤトさん!」
こんなに、不安なんだろう。まるで、致命的な罠に掛かってしまったかのようで。
『────
「チッ────!」
振り払われる、もう一つの腕。速い、並みの人間には躱せない。全身を機関に置き換えた重機関人間の兵士か、或いは鋭い反射神経を備えた狗狼の兵士でなければ。
「────遅い!」
だから、彼は無事だ。人間離れした神経伝達速度を持つ、
暫く宙を舞い、腕、やっぱり石畳に叩き付けられて。ぐちゃりと、聞くに堪えない音と共に。
『────
「黙れ────成る程、今のが恐慌の声か。だが、俺には効かない」
再び、放たれた咆哮。心が凍りつきそうなくらいの、脳が破壊されそうなくらいの。それでも、彼は揺るがずに。
その右目に、
「…………全ての《
呟いた言葉、『太陽光』。それは、無理だ。だって、太陽は────もう、機関文明が奪ってしまったから。
だとすれば、残るは『《死の螺旋》を落とすこと』。それも、無理だ。人間の武器で、あの怪物は傷つかない。
「だが、俺は狼だ────
だから、彼には倒せる。『この世ならざる幽明を斬る』と言う
「一、士道ニ背キ間敷事────死して尚、化けて出るとは何事だ。
一歩、距離を取る。軽やかに、狼が噛み付くために力をためるように、姿勢を低くして。ハヤトさんは右手を大きく引いて、左手を刀の先に添える。
『『────────
耳を覆いたくなるような酷い雑言と共に、怪物は猛烈な黒い雪と雲、果ては汚濁を撒き散らしながら。目を覆いたくなるような、お伽噺の
「悪、即、斬────!」
だが、そんなもの。虚仮威しにも、ならなくて。
『『
貫通。粉砕。両断。
真っ向から、突き込まれた白刃。乱杭歯を貫通して、口腔を粉砕して、黒い雪雲の頭部を《死の螺旋》ごと両断して。
『『
「手向けだ。せめて、次は迷わずに地獄で待っていろ」
ハヤトさんが刀を鞘に納めて背を向けるのと同時に、霧散していく怪物。その黒い雪と雲、撒き散らして────
──消える。こんなに、簡単に。
『いけない。アンナ、アナスタシア』
──消える? こんなに、怖いのに?
その姿を、消していくと言うのに。なぜだろう、こんなにも怖いのは。なぜだろう、こんなにも────
『あいつらは』
『『
「何────」
黒い雪と、雲が消えて────
──なに、あれは。なぜ、どうして……
『あいつらは、パラディグムをはたした』
「コイツら────
まるでマトリョーシカ人形のように、怪物の中から。黒い、影のみの。四本の足と、四本の腕。その腕の内、右の
『『────
虚空に燃え上がる四つの瞳を持った、非現実的な、立ち上る陽炎のような
「う────っ!」
嘔吐しそうになるのを、辛うじて堪えきった。だって、鮮明に聞こえた怪物の声、それは────
涙が溢れる。熱い、熱い涙。まるで、血潮のような。そう、間違いない。肥満体と痩躯の赤軍兵、耳にこびりついたあの声と。
『
『
二人の人狼、全身を機関に置き換えた重機関人間の兵士ですらも、恐れの声を上げて震えている。私も、心臓、止まりそうなくらい。
怖くて、恐くて、こわくて、コワクテ────
「チッ────呑まれるな、阿呆どもが! 良いな、その娘を置いて逃げろような無様をしてみろ…………俺が、斬る!」
それでも、彼は揺るがない。まるで、魂まで鋼鉄で塗り固めているかのように。鼓舞する声、頼もしいはずの声。だけど、だけど。
『『────
「クッ────!?」
──速い、目では追えない。さっきまでとなんて、比べ物にならない。人間には躱せない。鋭い反射神経を備えた狗狼の兵士や、人間離れした神経伝達速度を持つ
──あの雪、あの雲、やっぱり。あれは、やっぱり、あの怪物を拘束していたんだ。
──決まってる。わざと、勝ち目を見せて。より、絶望を色濃く、強くするために。
──何より、あの瞳。あの、
『『
「グッ────がぁぁぁっ!?!」
──壁に叩きつけられて、血を吐いて、彼が崩れ落ちる。それを、怪物は、虫をくびり殺す子供のように眺めている。赤く燃え上がる四つの瞳を、嗜虐に染めて。その真紅の瞳に晒された彼、燃え上がるようにカタチを揺らがせていて。
──さっきまで笑い合っていた人が、今、目の前で殺されそうに。駄目、駄目。逃げて、お願い。お願いだから、ハヤトさん。
──ああ、見える。視界の端に、躍り嗤う、
私は、見ているだけ。人狼の二人も助けにいけない。当たり前だ、相手は絶対の力を誇示する怪物。そんな事をすれば、同じように、あの腕の一振りで殺される。誰が、それを攻められよう。
──いいえ。視界の端で、躍り狂う貴方。
──いいえ、いいえ。視界の端で、嘲り嗤う
『じゃあ、どうするの?』
──ええ、背後の貴方。だから、私はこう言うわ。
『ぼくは、みているよ』
「何度でも言ってあげるわ……最っ低…………最低よ、貴方達は!」
『アンナ、アナスタシア。きみを、みている』
現実と幻覚と、二つの嘲笑う声に晒される中で。でも、その声は確かに。私の背中を押すように、力強く。ある種の実感が、確かに。
進み出た、人狼二人の前。驚き、固まったままの二人の前に。足、不様なくらいに震えているけど。それでも。
「…………
『『
私を見る、ハヤトさんに微笑んで。
私を睨み付ける、怪物を睨み返して。
「強いものの影から、こそこそと────権力を笠に着て、ぬけぬけと! 大の男が、恥を知りなさい!」
──私は絶望的な恐怖からも、理不尽な暴力からも。絶対に瞳を逸らさない!
………………
…………
……
そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた
そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、
ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。
「喝采せよ、喝采せよ! おお、素晴らしきかな!」
声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。
「我が《最愛の子》が第二の階段を上った! 物語の第二幕だ! 現在時刻を記録せよ、ラスプーチン! 貴様の望んだその時だ────《鋼鉄の男》よ、震えるがいい!」
その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の
「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。時計など、持ち合わせてはいませんがね」
答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
「くっ──はは。物語、物語だと? ああ、偽りの《黄金瞳》を無駄にして────悪い子だ、アナスタシア」
堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。
「ええ、ええ。本当に」
「そうね、そうね。本当に」
「全くだわ、全くだわ。本当に」
「「「本当に本当に悪い子ね、アナスタシア」」」
傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共に
まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる
「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛の形あり!」
──それが、物語の第二幕。お伽話か
──
「
その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けるのだ────
……………………
…………
……
『『────
逆上した怪物の腕、四本が振るわれる。上下左右から、襲い来る。
速い、目では追えない。鋭い反射神経を備えた狗狼の兵士でも、人間離れした神経伝達速度を持つ
「
『『
それでも、生きている。アンナは、傷一つ無く立っている。
『『
「────
襲い来る死の視線、
「背後のあなた。名前も知らない、あなた。あなたは……優しいのね」
その彼と共に、アンナは手を伸ばす。その左腕を、白い左腕を、前に。
白く繊細なアンナの左手に重なるように伸ばされた、鋼の左腕。それは
「全ての《
機関文明が奪ってしまった太陽の光は、決して射さない。そして、既に破壊されている《死の螺旋》はもう、壊す事は出来ない。
故に、誰にも。人には決して、《
「だけど、この子は────背後のこの子は、人じゃない」
──だから、背後の彼には出来る。その実感が、私の左手にはある!
白く輝く、鋼の左腕ならば。輝くものを思う、失われた白い雪を思う、この、
「背後のあなた。名前も知らない、あなた。私は、あなたにこう言うわ」
左目が見ている! アンナの、血の色の黄金に連動するように!
「────光のごとく、埋め尽くして」
────────────────────────!
白い左腕が奔る。光のように、空間を貫いて────
『『
光に触れられた影の怪物が、断末魔を。狂乱と共に、絶叫する。
──私は殺さない。私は奪わない。いいえ、私が、与えてあげるわ。
──あなた達が、喪ってしまった、死を。過去から再生して、現在に無限増殖させる。
『『
過去に存在した死を、呼び起こされて。呼び起こされた死を、無限に増殖させられて。自らの末路を、その先の悪夢を、思い知らされて。
『『
その姿が、余りにも憐れで。
──ええ、救ってあげるわ。この《左手》で。だから。
「だから────もうお休みなさい、
『『
私の左手が触れた刹那、崩壊していく。自壊していく。自らの
跡形もなく、塵すら残さず、まるで最初から何もなかったかのように────淡雪のように。
そして、後に残るものは、四人。立ち尽くす人狼二人と、そんな彼らを見て、安心したように。血の涙を流す黄金の瞳を閉じて────
──あぁ、これ、痛いやつだ。うん、絶対。
ぐらりと、揺れた銀色の髪。黒い雪に覆われた石畳に、顔から倒れ込んで────
「全く────大した
──名前。私の、名前…………覚えてて、くれたんだ…………
まるでシベリアの雪原を駆ける銀狼のような黄金の瞳の少女を抱き留めた、赫い瞳の黒い狼の四人だけで────…………