銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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怪物 ―Монстр―

 

 

 走る。走る。黒い雪に塗れた石畳に、革靴の音を響かせて。空から降り来る黒い雪を、修道服の袖で防ぎながら。黒い、黒い。ああ、ここは、なんて黒いの。

 擦れ違う人も居ない。誰も。今朝、地下鉄に乗った時も、見掛けはしなかった。駅員すら。本当に、誰も、誰も。

 

 

──居ない。まるで、このモスクワの町に、私しか居ないような。そんな、漠然とした恐怖が。

──ただでさえ『彼』への恐怖に満たされた私の心を、私の足を絡めとる。漆黒の荊棘(イバラ)の蔓ように。

 

 

 だから。

 

 

Найденный(ミ ツ ケ タ)────』

 

 

──追い縋るように、聞こえてくるこの声。それも、全部幻聴よ。そうよ、そうに決まってるじゃない、アンナ!

 

 

 必死に、破裂しそうなほどに動悸を速めている心臓を誤魔化すように、言い聞かせて────

 

 

「あっ────!」

 

 

 瞬間、足が、もつれた。強酸性の煤を孕む雪が覆う、赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)の石畳の上に倒れ込む。幸いというべきか、修道服の厚みのお陰で擦り傷の類いはできなかったけれど。

 

 

 けれど。

 

 

「痛────」

 

 

 立ち上がろうとした左の足首、鈍く痛む。じくじくと、熱を伴う痛み。酷くはないと信じたい。だって、駅はまだまだ、ずっと遠いから。手を貸してくれる人なんて、居ないから。

 薄い機関外灯の灯りを便りに、近くの建物の軒先に入り、腰を下ろす。黒い雪を避けて、目を細めて見た黒雲の天蓋。

 

 

 遠く、スパスカヤ搭、トロイツカヤ搭、ニコリスカヤ搭、ホロヴィツカヤ搭、ヴォドヴズヴォドナヤ搭、各搭の先端に輝く《クレムリンの赤い星》と、大統領官邸の天頂に雄々しく翻る深紅の御旗と、鈍く輝く《鋼鉄の星》が見える。

 

 

──今日も、スターリン閣下は、執務に励んでいらっしゃるのね。

 

 

 《鋼鉄の男》閣下、鋼鉄の指導者様、ソヴィエト議会第一書記長殿。私如きの一般市民が、姿を拝見したことなんて無いけれど。そんな事を、意味もなく考える。

 でも、何だか。それが、このモスクワに私が一人じゃないことの証のようで。心に、僅かに、安堵が生まれる。

 

 

『────Последний человек(サ イ ゴ ノ  ヒ ト リ)

 

 

 だから、その隙を縫うように。黒い雪、風と共に。私の瞳に、舞い込んで────

 

 

「────こんな場所で、こんな時間に。一体何をしている、尼?」

「────あっ…………」

 

 

──その雪を、握り潰した右の掌。力強い、傷だらけの、男の人の右手。

──掛けられた声、揺るぎない自信に溢れた男の人の。低く唸る、狼のような。

 

 

 一体、いつの間にと驚くくらい。その人は私の目の前に。黒い髪の人、黒い狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)を纏う男性。

 三本の刀を携えて、古めかしい煙管から紫煙を燻らせる、極東の……確か、サムライとか言う、職業軍人の。

 

 

「ハヤト、さん……?」

「ん…………?」

 

 

 その名前を呟けば、一瞬、訝しんだあと。私の顔を、睨むように眺めて。

 

 

「ああ────君か。昨日の、ヴァーシャの妹御前」

 

 

 ようやく納得してくれたみたいで、鋭い視線が和らいだ。それに、ホッと胸を撫で下ろす。覚えていてもらえた、嬉しさからも。

 

 

 ……兄さんの妹って覚え方は、ひどいと思うけれど。うん、ひどい。

 

 

 それが、少し不満だったけど。

 

 

「まぁ、それは良しとして。質問を繰り返すぞ、こんな場所で、こんな時間に何をしている? 感心しないな。婦女子が(みだ)りに、一人で、暗がりを歩くのは」

「あっ、あの……それは」

 

 

 直ぐに軍人、官権の顔を取り戻したハヤトさんは、腕を組んで質問を繰り返す。まるで、と言うか正に、怒られている気分。

 素直に事の成り行きを話す。嘘なんて言えないし、そもそも、つく必要もないし。

 

 

「……成る程な。教会の保全の手伝いをした帰りか」

「はい……ごめんなさい、余計なお仕事を増やしてしまって……」

「構わん、市中の警邏も俺の仕事だ。昨日、報告の後に《鋼鉄の男》に押し付けられたからな」

 

 

 それって、やっぱり昨日の、あのせい……なのかしら。ううん、きっとそう。やっぱり、私のせい。

 何でもなさそうに煙管の灰を捨てたハヤトさん。でも、内心怒ってるんじゃないかと身が竦んで。

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

 もう一度、頭を下げる。今度は修道帽(クロブーク)を脱いで、さっきよりも深く。二房の私の髪、左右に流れて。

 まじまじと、彼の視線を感じる。私の頭、つむじの辺りに。

 

 

「……ふむ。確かに、仔兎(ザイシャ)、か」

「えっ?」

 

 

 と、唐突に、聞きなれた言葉がハヤトさんの口から。余りに突然の事に、思わず頭を上げてみれば。

 

 

「いや、なに。普段からヴァーシャには君の事を聞かされていてな。聞いてもいないのに、耳に胼胝が出来そうなくらい。自分の妹は、まるで白い仔兎のようだ、とな」

「なっ、えっ!」

「小さくて、色白で、銀色の髪で、赤い瞳で。まるで、可愛らしい雪兎の仔(ザイシャ)の様なんだ、と。身内贔屓の上に誇張が過ぎると思っていたが、いやはや、何とも。然もありなん」

 

 

 幅の広い肩を揺らし、思い出し笑いのように口角を釣り上げるハヤトさんの姿が目に入る。

 

 

──に、兄さんったら……! ああもう、恥ずかしい恥ずかしい! 恥ずかしいったらもう!

 

 

 一気に、顔が熱くなる。多分、いいえ、きっと耳まで。真っ赤になってると思う。ううん、きっとなってる。

 駄目、まともに顔、見れない。見られたくない。恥ずかしすぎて。

 

 

「し、失礼しますっ…………!」

 

 

 また、逃げ出す。脱兎のように。走り去る、つもりだったけのだけれど。今回は、そうはいかなかった。

 鈍く、痛んだ左の足首。そのせいで、立ち上がることもできなかったから。

 

 

「左の足首か……見せてみろ」

「いえ、あの、大丈夫です、から」

「痩せ我慢をするな。そう言うのは、美徳じゃあない」

 

 

 一目でそれを看破されて。彼、(ひざまづ)くように、私の前に屈み込む。まるで西洋画の、お姫様に傅く騎士のように。手早く、編みブーツに包まれた私の左足、捕まえて。

 心臓、どきりと跳ねる。まるで、女性の手の甲に口付けるような、その仕草に。

 

 

『……万歳(ウラー)

『……万歳(ウラー)

 

 

 恐らく最初から彼の背後に待機していた、人狼(スペツナズ)二人。機関を内蔵する背嚢、私の左右に。更に、畏れ多くも。掲げていたソヴィエトの旗、星を戴く深紅の旗の左右を持って、雪避けの幌布に。

 

 

──あ、暖かい。こういう使い方もできるんだ、この背嚢。

 

 

 その背嚢からの排熱が、寒さを和らげてくれる。そう調節できるのか、吹き出す排煙はごく少ない。

 

 

「ふむ……軽い捻挫だな。骨には異常はない、が、関節が少し炎症を起こしている」

 

 

 その声に、ようやく気付く。私の左足首を見詰めるハヤトさんの右目、そこに灯った────薄緑色の光に。

 

 

現象数式(クラッキング)────」

「ほう、流石は碩学院生だな。良く知っている」

 

 

 現物は、初めて見た。カダスの都市、語るもの無き異形都市の技術。その内の、医療に特化した現象数式は、対象の体内まで見抜くとか。ガガーリン君が、飛空艇の整備のために是非とも習得したいと言っていた技術。でも、習得するためには、大脳が特殊でないといけないと聞いて落胆していた技術。

 私の左右の、金属の背嚢にも反射することのない光。クラッキング光。そして。

 

 

「気を落ち着けろ。この程度なら、直ぐに良くなる」

 

 

 翳された右掌、そこから、同じ色の光。同時に、足首の痛みが消える。嘘のように、魔法のように。

 

 

──数式医(クラッキング・ドク)。魔法使いとも形容される、その技術。その技。

──そう言いたくなるのも、分かる。救われた人からすれば、正に、魔法のようだもの。

 

 

 体内の他の組織を、他の組織に組み換える。狂った数字を書き換えるように。口にすれば簡単だけれど、正に神の御技。この技術の前では、癌ですら恐れるものではないとか。

 治療を終え、私の足をゆっくりと石畳に置いて。ハヤトさんが、すくりと立ち上がる。真っ直ぐ、背骨に芯鉄でも入っているのではないかとすら思える程に。

 

 

 それに合わせて、ばさりと。深紅の旗が、彼の黒い外套が翻る。纏わり付く黒い雪を、振り払うように。

 

 

「立てるか?」

 

 

 そして、差し出された右手。武骨で、筋張っていて、剣術胼胝のある、力強い、お父さん(パーパ)と同じ男性の掌。まだ、薄く、淡く、クラッキング光が残留している。その、右目にも。

 それを私が認識するのと、ハヤトさんが私から視線を外したのは全く同時で。

 

 

「……すまん」

 

 

──なぜだか、謝られた。全く、意味はわからないけれど。謝られるのはおかしいわ、だって、それなら私がお礼を言うのが筋だもの。

 

 

「いえ、こちらこそ────ありがとうございます」

 

 

 今度こそ、立ち上がる。足首の痛みは、もうどこにも。これなら、問題なく歩いて帰れる。駅までどころか、寮までだって。

 

 

「……いや、非礼は非礼だ。詫びと言う訳ではないが、送っていこう」

 

 

 それなのに、なぜか気に病んだまま。ハヤトさんは、こちらをやはり見ずに。

 

 

──なぜだろう、どんな非礼を犯したって言うの? そう、考えて。ハヤトさんの右目に残留するクラッキング光、見て。

──ふと、思う。靴の上から、私の足首の異常を見通した現象数式(クラッキング)。つまり、それは、私の靴を透過したと言うことで。

 

 

「────────!?」

 

 

 気付くと同時に、私は体を庇う。きっと意味はないだろうし、そもそもハヤトさんは見てもいないけれど。それでも、これでも、一応は乙女として。

 

 

「……すまん」

「い、いえ……こちらこそ、ごめんなさい」

 

 

──もう一度、謝罪の声。ううん、ハヤトさんは悪くない。悪いのは、私だもの。

──そうよ、そうだわ、アンナ。

 

 

 だから、お互いに謝り合って。次に出たのは、お互いに軽い息。

 

 

「ハハ……道の真ん中で、何をやっているんだろうな、俺達は」

「ふふ……そうですね」

 

 

 この、漆黒の不幸(チェルノボグ)に染められたモスクワの町中で。誰かに出会えた純白の幸運(ベロボーグ)を喜ぶように。

 

 

 だから。

 

 

Найденный(ミ ツ ケ タ)────』

 

 

──だから、黒い雪(チェルノボグ)は運んでくる。自慢の商品を携えた、悪魔が。

 

 

「「────!」」

 

 

 辺りに満ちる、異様な臭気。腐り落ちた果実のような、甘く不愉快な、鼻につく腐敗臭。濃密な闇と、肌を裂くような冷気────いいえ、これはきっと、殺意と呼ばれるもの。

 瞬間、腰を落としたハヤトさんが刀に手を掛ける。同時に、人狼二人が機関銃を構えて。三人が私を背後に、庇うように立って。

 

 

──その、ハヤトさんの背中の。その向こうから、悪魔の自慢の商品がやって来る。幸福よ、白い雪(ベロボーグ)よ、消えてしまえと。

 

 

『──И есть жизнь(イ ノ チ  ク ワ セ ロ)──』

 

 

 黒い雪と、黒い雲に包まれて────

 

 

『────Последний человек(サ イ ゴ ノ  ヒ ト リ)!』

 

 

 紅く燃え上がる、瞳が二つ────!

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「────コーバ。我が親友」

 

 

 問いかけた声は、怜悧な女の声。輝くような金髪を、薄暗がりに溶かした、碧眼の女。

 

 

「────何だ、モロトシヴィリ、モロトシュティン?」

 

 

 答えた声は、冷徹な男の声。色素の薄い灰色の髪を、薄暗がりに溶かした、青い左の瞳と黄金の右の瞳の男。

 

 

数式領域(クラッキング・フィールド)の展開を確認。彼らの悲願は成し遂げられる」

「そうか。よくよく飽きもせず、私に楯突くものだ、ラスプーチンめ」

 

 

 薄暗がりの、大聖堂の中で。神の如く振る舞う、その男。無数の歴史ある宗教画(イコン)をも稚児の絵のように省みず、傍若無人に最新式の機関パイプを燻らせる、その男。

 

 

「《凍える怪物(イタクア)》。カナダの民話に歌われる怪物。人を拐い、食らい、或いは自らと同じものとする。寒さの擬人化たる怪物」

 

 

 口を挟んだのは、女だ。無表情に二人を眺めていた、修道服の女。そこにはやはり、感情はない。在るのは、ただ。

 

 

「これは、これは。サンクトペテルブルクでは恐怖そのものでしかなかった君が、生徒の心配とは……随分と、変わったものだね、《雌獅子》?」

 

 

 男。紫煙を燻らせる、鉄面皮。その顔が、嘲笑に。正確に、嘲笑を浮かべる。面白いものを見た時の為に、予め用意していたかのように。

 

 

「人は変わるものですよ。変わらない方がおかしいのです、《鋼鉄》」

 

 

 それを、心底から見下して。修道服の女は、祈るように手を組んだ。

 

 

「────アンナ。修道女(シストラ)アンナ。アナスタシア」

 

 

 それをも、気にも留めず。男は、紫煙を燻らせながら、嗤う。誰かの名前、此処には居ない、少女の名前を弄びながら。

 

 

「君の恐怖を見せておくれ。君の輝きを見せておくれ。幾百万の恐怖も、幾百万の輝きも、このモスクワでは────この《鋼鉄》には、何の意味も、ないのだから」

 

 

 ただ、ただ、嗤うのだ────…………


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