銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
遠い、遠い。果てしなく遠い。暗く、長い長い
届かないものを思う。見た事はないけど、水鏡に煌めく満月であるとか、蒼穹に輝く太陽であるとか。
そして、ふと、足元に目を向けた。
隧道の天井から漏れる、僅かばかりの『光』を湛えた石畳に。そこに芽を出した、ほんの些細な命を。雑草と、一括りにされるもの達だ。だが、確かに命の輝きだ。
一休みしよう、この命を眺めて。背後から吹く風に揺れる、小さな彼等を眺めて。
辺りに佇む、セピア色の、皆と共に。
『──オブジェクト記録を参照:鋼鉄都市モスクワ』
その時、声が。声、声? いいや、違う。心を震わせる『思い』が、流れ込んできた。
『西亨北部に位置する軍事国家ソヴィエト機関連邦の首都。二十世紀の訪れと共に崩壊したロシア帝国の旧副都。急速な発展と共に公害が深刻化し、時には高濃度に汚染された黒い雪の降る、鋼鉄の都市。鉄のカーテンと呼ばれる秘密主義に基づき、他の国家との交流は無いに等しい。故に、市民達は知らない。彼等を苛む鉄の掟がもたらすもの。既に各地の都市では、隙間と呼ばれる青空が見られる事。そして────黒い雪に潜み、迷い混む哀れな生け贄を食らう、《
見上げても、暗く霞んだ天井から吊り下げられた、仮面が口走る言葉。その全てを囁いて、色を失った仮面は霧のように消える。
『──《奇械》とは』
次に、吊り下げられた左腕。鋼鉄の、
『人々の背後に佇む影。人々に《うつくしきもの》をもたらすという、カダスのある都市にて語られる、最も新しいお伽噺。その正体は────』
そして、消えていく。やはり、霧か霞のように。
「私の、夢──」
色を得て、語り出したのは少女。白く、輝くような銀色の髪の。携帯型篆刻写真機を抱く、白い兎のような。
「夢、篆刻写真家とか。誰もが諦めて、疲れているこの都市で。諦めとか疲れ以外で、人々が溜め息を溢すような。そんな美しいものを見たい。見せたい。それは、永遠なんかにはほど遠いものだろうけど────それでも、誰かに。ううん、皆に。だから私は、うん、やっぱり写真家になりたい」
煌めくように、そう口にして。色を失って、代わりに。
「俺の、夢──」
色を得て、語り出したのは男。黒く、静かに燃える埋め火のような瞳の男だ。咥えた煙管から紫煙を燻らせる、黒い狼のような。
「夢、今でも焼き付いている。何処も同じだ。何処であろうと、人は争い、殺し、殺される。人類史の開闢以来、ずっと。二百年続いた我が祖国の泰平も、諸外国の資源の貪り合いに巻き込まれて崩れた。大勢が死んだ。大勢を殺した。敵も、友も────皆、死んだ。皆、俺を────置いていった」
陰るように、そう口にして。色を失った彼の代わりに。再び色を得て、少女が口を開く。
「でも────でも。そんな美しいものは、一体何処にあるのだろう。全てがくすんで、黒い雪に塗り潰された、このモスクワの…………何処に、あるのだろう」
彼の陰りに釣られたように、俯いて。全てを語り終えて色を失い、霧か霞か、或いは雪のように消えていくのだ。
「何処も、変わりゃしない。此処も、このモスクワも同じだ。殺し、殺されて。最後には全てが無くなるだけだと言うのに。美しいものなんて、輝きなんて、この世の何処にもありゃしないんだ。我が友よ、我が敵よ。
彼も、また。全てを語り終えて、得たはずの色を失って。霧か霞か、或いは雪か────若しくは紫煙のように、消えてしまった。
後に残されたのは、ただ、この日溜まりだけ。ああ、もう十分に休んだ。さあ、歩き出そう。最後に、僅かな名残を残して。
風に揺れる草を、華を。有りもしない瞳に焼き付けて────
………………
…………
……
寝ぼけ眼を擦りながら、欠伸を溢す。リュダに見られたら、『まぁ、はしたない
でも、今は大丈夫。まだ、午前六時を回ったところ。ミラに起こされるよりも早く起きたから。
──でも、やっぱり低血圧に早起きは辛い。
手早く暖房機関を起動させて、コーヒーを作るためにその上に水を入れた
それは、絵本。1907年頃に英国首都
──私のお気に入り。モスクワに持ってきた、数少ない私物の一つ。黒く変貌したロンドンの町を駆け抜けて、黒い王様を助け出した女の子の話。
──どこが良いって、黒い町って言うところ。ソヴィエトのようで、親近感。王様はもう、ソヴィエトには居ないけれど。
ぺらり、とページを捲る。二十分とかからず、直ぐに読み終えてしまうくらい読み込んだ本。最後には、作者さんの名前が。
「……メアリ・クラリッサ・クリスティさん」
──素敵な名前、綺麗な名前。まるで、鈴が転がるように可愛いお名前。まるで、体験したみたいに丁寧に綴られた文体がとても素敵な人。この本以外は見付けられないけど、同じ女流作家で著名なメアリ・シェリーさんの影に隠れがちだけど。私は、うん、大ファン。
──一度、ファンレターを出してみようかとも思ったけれど。きっと迷惑よね、縁も所縁もない私が、いきなりそんな事をしたら。第一、検閲の時に恥ずかしいし。
閉じた本を抱き締めて、白い溜め息を。疲れとか諦めじゃない、感嘆の溜め息、溢して。
──きっと、この本を正しく読めば、皆こうして感動できる。凄いと思う、心から。目で見るだけで、心が動く文章なんて。
──私も、いつか……そんな凄い事ができる大人になりたい。
そこで、部屋に響く湯気の音。気付けば、部屋の中はもう、暖かくて。慌てて取ろうとした薬缶の取手、思ったより熱くて。
ヒリヒリする手を、窓ガラスに押し付ける。外気の冷たさ、そして────
「…………《
窓の外、漆黒に包まれたモスクワの町並みを見て、浮わついた気持ちはすべて消えて。朝だと言うのに、真夜中のような。空も、大地も。全てが黒一色に塗り潰された、闇の世界。
──これが、モスクワの日常。一週間の最後、安息日に訪れる憂鬱の日。休日を前に全力で稼働したチェルノブイリ
──だから、休みの日でも外に出る人は少ない。よっぽど、大事な用がある人くらい。ごく稀に、機関街灯の下を歩く人影が居るくらい。だから、誰かが囁いた。『《
それは、何処にでもある戒めの民話。女性や子供が簡単に外を出歩かないように戒める、例え話だ。リュダはそう、真っ向から笑っていたけれど。
私は、怖い。そう言われると、そんな気がしてくる。時折、現れては消えていく人影。それらが、今か今かと鎌首をもたげている《怪物》のように見えてきて。
こちらを見るような視線を感じて、思わず身を竦ませる。心臓、ばくばくと速まって。必要以上に冷えた手を、胸元に抱き寄せて。
──大丈夫、気のせいよ。そんなもの、居ない。怪物なんて、居ないのよ、アンナ。
自分に言い聞かせるように、そう念じる。昨日、あの男の人がしたように、
男の人。極東の。刀を三本携えた、狼のような男性。ハヤトさん。昨日、兄さんの
──曰く、《鋼鉄の男》閣下……ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン同志閣下の腹心である。曰く、《
──極東の《剣術》を修めた達人で、ソヴィエトでも右に出るような者は居ない。何時からソヴィエトに居るのかは不明。でも、少なくとも前指導者ウラディーミル・イワイチ・レーニン閣下の治世の頃には、既に居たと噂されているとか。
兄さんも、そのくらいしか知らないらしい。黒髪の人、赫い瞳の人。力強い、男らしい人。
その瞳の色、私の間近に迫った赫を。その握力、私の顎を持ち上げた掌を。整った顔立ち、思い出してしまって。
──うあ、あ、駄目駄目! 顔、熱い! 心臓、ばくばく、ばくばく!
──違うから! 男の人からあんな事されたの、初めてなだけだから!
一層速まった心拍と、風邪でも引いたみたいに赤くなった私の顔。リュダが居なくて良かった、絶対からかわれるから!
ばたばたと、寝台の上で手足をばたつかせながら暴れて。暴れて。暴れて────
………………
…………
……
「……で、うっかり二度寝したと」
「うん……あのね、予想以上にその、ベッドが温かくて……ね?」
食卓の上に、リュダが大きな溜め息を吐く。午前八時、朝の食事当番をすっぽかした上に『安息日の日課』にも遅れそうになった私を起こした時と同じ、呆れた目付きで見ながら。
うう……恥ずかしいったらもう。
「…………あのねぇ、アーニャ。アンナ・ザイツェヴァ? ああいう手合いはね、どんな女の子にも同じ事を言えるの。どんな女の子にも同じ事をできるの」
──名前。私の名前、フルネームで呼ばれた。こういう時のリュダは、真面目な話をしてる時。笑ってるし、口調もさっきまでと変わらないけど、迂闊な事を言うと本気で怒る。
──本気で、怖い時のリュダ。
「分かる? あんたが特別な訳じゃないのよ。ちょっと優しくされたからっていちいち本気にしてたら、それこそあんた、本当に碩学院を寿退学よ?」
「ち、ちが……そういうのじゃ、ない、から!」
「何が違うのよ? んー? まだまだ初恋すら未経験の
ボルシチを口にしながら、リュダは小憎たらしい笑顔を見せた。それに私は、頬を膨らませて。昨日の夕飯の残り、私の作ったボルシチ。昨日は一口しか食べてくれなかったそれを、温め直した朝食を食べながら。
兄さんの
──良かった、元気、出たんだ。
だから、ちょっとだけ嬉しくなる。ええ、勿論、それ以上に腹立たしいけれど。
「なーにニヤニヤしてんのよ、変なアーニャ」
「なんでもありませんよーだ、嫌味なリュダ」
あの人が言った通り、いつも通りの朝を過ごした────
………………
…………
……
しん、と静まり返った室内。声一つ、物音一つ立てるのを憚られるような、荘厳な雰囲気。冷たい空気と雰囲気がそうさせるんだと思う。
それも、仕方ない。ここはロシア正教会の大聖堂、赤の広場の『
「……………………」
その内壁を覆い尽くすかのような様々な
──だって、素敵な場所だから。ここは、好きな場所。私が今まで篆刻写真に納められた、数少ない《うつくしいもの》の一つ。
──修道服も好き。神聖な気持ちになれるから。リュダは『あんな野暮ったいもの』って、嫌がるけど。
その時の交換条件として、安息日の朝はこうして教会の雑用を。私からお願いして、務めさせていただいてて。
……なのに、リュダに起こしてもらえなかったら遅れて迷惑を掛けてしまっていたかもしれない。うう、反省しないと…………。
「おはようございます、
「あ────おはようございます、
「今朝も来られたのですね、感心です」
「あ、あはは…………」
そんな私の内心も知らず、現在、この大聖堂を管理していらっしゃるブラヴァツキー夫人は無表情に挨拶を。うん……やっぱり、反省しないと。
そう、ここの管理者は夫人。かつての総主教ティーホン氏が前指導者レーニン閣下を、『無神論』を掲げるボリシェヴィキを批判した事でロシア正教会は弾圧を受けて、名のある修道士と修道女はほぼ
この大聖堂は辛くも難を逃れたけれど────以来、無人と化して朽ちるのみだった。それを数年前、夫人が管理されるようになったのだとか。
──しかも、嘘か真か、あのスターリン同志閣下の承諾を取り付けて。レーニン閣下と代わらず『無神論』を標榜している筈の、スターリン同志閣下の。
──……本当に、
「如何なさいましたか、
「ぅひゃい! い、いひえっ?! にゃんでもっ!!」
「そうですか。ならば、良いのですが」
突然問われ、あらぬ事を考えていたせいで思いっきり噛んでしまう。でも夫人は、特に気にした様子もなくて。ほっと、動悸を速めた胸を撫で下ろす。
その時、一陣の風。黒い雪を乗せた風が、大聖堂の中に吹き込んだ。
「──失礼するよ、
一瞬、幻覚を見た。まるで目の前に機動鎧が、いいえ、軍艦が立った幻。開け放たれた正門、そこに立つ偉丈夫。背の高い人。一目で最高級なものと分かる、並の人なら逆に着られてしまいそうなスーツを難なく着こなした、大柄な男性。
同じくスーツの、綺麗な、輝くような金髪と碧眼の女性を伴って現れた、色素の薄い灰色の髪と、青い瞳と────。
「……お久し振りですね、イオセブ」
「ああ、全くだ。二年振りと言ったところかな? 逢いたかったよ、美しい君、エレナ」
「……おや? これは」
「っ…………!」
その色違いの双眸が、こちらを見る。強い視線、まるで銃口を……いいえ、戦艦の主砲を向けられているかのよう。
知らず、震えが走る。怖い、この人は。立っているだけでも分かる、この人はハヤトさんとは違う。見られただけで分かる。本当に……本当に恐い人。
「……これは、これは。また、随分と可愛らしい
「彼女はただの手伝いです、我等が碩学院の学生にすぎません」
「そうか。まぁ、私には関わり無いがな」
でも、すぐに興味を喪って。視線、再び夫人に向かって。
「何の御用でしょう、イオセブ。まさか、今になって大聖堂を?」
「おいおい、私でも、たまにはこういう史跡を訪ねたくなる祖国愛はあるさ」
「どの口がそのような事を言えるのでしょうね。相変わらずの
「はは……敵わんね、貴女には。私にしてみれば、貴女の方が余程の皮肉屋だよ」
──そしてそのまま、夫人と会話を。もう、私なんて眼中にもない。何故だろうか、それに心の底からの安堵を感じるのは。
──……って、いけない。夫人のお知り合い、なのよね。だとしたら、私がここに長居するのは駄目。駄目よ、アンナ。
「──
「えっ────あ、はいっ!」
立ち去ろうと踵を返した、まさにその瞬間だ、声を掛けられたのは。余りに突然の事に、心臓が口から飛び出しそうになるくらい、驚いて。
「君の両親は優れた人物のようだ。よく、教育が行き届いているね。気遣いの出来る女性は、実に好ましい。ああ、好ましい」
「は、はあ……ありがとうございます」
『あぶない、アンナ。アナスタシア』
それがばれないように、必死に呼吸を落ち着ける。心臓、ばくばく。速まり続けて。背後からの『声』すら、遠くて。
「私はイオセブ。イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ。君の名は?」
「わ、私は……アンナと申します。アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァです」
「
『このひとは、きみを、きずつける』
にこりと、正確な笑み。まるで機械のように。それは、人のようではあったけれど────鮫のように、冷酷な笑顔だった。
心臓、ばくばく、ばくばく。痛いくらい。ハヤトさんの時とは違う、これは────純粋な、死への恐怖だ。
「し────失礼します!」
駄目、耐えられない。もう、一秒だって。
ほとんど逃げ出す勢いで、私は大聖堂を後にする。背中には、あの視線、まだ。そして出入口で、男性──イオセブさんの連れていた女性と擦れ違う、その一瞬。
「────今日は、《
女性の声、怜悧に。するりと耳に忍び込む、金髪の人の。それすら、振り切るように。
だから────聞き逃す。
「……哀れな、哀れな、《最後の一人》よ」
その、哀れんだ呟きを聞き逃して。私は一人、《