銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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開幕 ―Открытие―

 

 

「ぐあっ……! て、テメェ!」

 

 

──腕をひしがれた肥満体の男が無様に、銀色の雪が積もる石畳に膝を突いた。嘘、有り得ない。腕をひしいで、どうして、膝が崩れるのか。

──人工筋肉理論を暗記してるオジモフ君なら分かるのかな、なんて、取り留めの無い事を思って。

 

 

「アーニャ! ああもうこの子ったら、怖がりの癖に!」

「リュダ! 何よ、私なんか庇って……子供扱いして、失礼なリュダ!」

「何よ、言ってくれちゃって……本当に小生意気な仔兎ちゃん(ザイシャ)なんだから……」

 

 

 走り寄ってきたリュダに抱きすくめられる。見れば、リュダを組み伏せていた痩躯の男は、変な方向に曲がった鼻から血を流して呻いている。

 あの男の人に。黒い、狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)の人。あの人に痩躯の兵士、殴り飛ばされた後で。

 

 

「お、俺達を誰だと思ってやがる、このチビめ! 極東人(ヤポンスキー)め!」

 

 

 それでも目を血走らせた肥満体の男が、泡を飛ばしながら吠える。その悍ましさたるや、正しく狂犬病に冒された野犬のよう。

 でも、でも。黒い男の人。私と比べれば、背の高い。でも、兵士達と比べれば頭一つ分小さい、墨を流したような艶やかな黒髪の。真っ直ぐに敵意を向けられて、それでも、眉ひとつ動かさずに。

 

 

「……(ヒトツ)、士道ニ背キ間敷事(マジキコト)(ヒトツ)、私ノ闘争ヲ不許可(ユルサズ)。守るべき人民、しかも無辜の婦女子を籠絡し、手篭にしようとは何事か。最後の情けだ、潔く────腹ァ切れ」

 

 

 凛と、言い放つ。鮮烈なまでに耳に滑り込む、狼の咆哮のような低い声で。小躯の怯みなんてまるで感じられない、傲岸不遜なまでの声色で。

 直接、視線を向けられている訳でもないのに。その煌めく赫い瞳の圧力に、私の息が止まりそうなくらい。

 

 

「わ────訳の分からねぇ事を言ってんじゃねぇ────!」

 

 

 危ない、と思った時には、もう遅い。肥満体の男が、左手で抜いた軍刀。ぎらりと、底冷えのする輝きを伴って、刃先は男の人の腹部に。

 

 

「真に殺したくば刀は右手で、相手の鳩尾のやや左を、刃を倒して穿つべし。肋をすり抜け、心の臓を抉るは平刺突(ヒラヅキ)の基本────その程度の事も分からんとは」

 

 

 それを、左手の親指と人差し指の側面で、易々と止めて。まるで、剣の指導をするみたいに。

 

 

「心無く、才無く。刀刃を玩ぶな、愚物が」

「な────あぎぃ?!!」

 

 

──パキン、と澄んだ音を立てて。嘘、有り得ない。兵士の軍刀がへし折れた────ううん、へし折ったんだ、あの男の人が。

──同時にべきり、と。鈍く、有機的なものが潰れる音。ああ、うん、そうよね。金属をへし折るような握力で握られた兵士の右腕、耐えられるわけ無いもの。

 

 

「こ、殺してやる────殺してやる!」

 

 

 突然の声に、忘れていたもう一人の方を男の人が眇に見遣る。右腕を抱えて蹲り、呻くだけとなった肥満体の男と入れ替わるように、さっきまで折れた鼻を押さえていた痩躯の兵士が小銃を構えていて。

 機関(エンジン)を仕込んだ、最新式の『モシン・ナガン』。直撃すれば五ミリ厚のクローム鋼でも貫徹するという、その銃弾。その暴力を、真っ直ぐに放つ────よりも早く。引き金を絞ろうとしていた兵士の人差し指、引き金ごと吹き飛んで。

 

 

「ぎっ────いぃあぁぁぁっ!!?」

 

 

 兵士の悲鳴が木霊してから、そんな神業を成した銃声は届いた。

 

 

「────隊長。お怪我は有りませんか?」

 

 

──それを成した、その人と共に。長身のロシア人。癖の強い黒髪に海色の瞳の、さっきの男の人と同じく、黒い狼の毛皮のコートを着た男性。

──懐かしい、声の人が。

 

 

「……余計な真似をしなくとも、この距離から撃たれたところで当たりはしない。狙撃手が貴様でもない限りはな」

「でしたね。失敬しました」

 

 

 男の人達二人、まるで当たり前のように会話して。そして────いつの間にか、周りを取り囲むように。

 

 

『……万歳(ウラー)

『……万歳(ウラー)

 

 

 《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》の、返り血に染まる人狼達(ヴォルキィ・クラースニィ)が、観衆を外に押し出していて。

 

 

「す、《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》……まさか!」

「ま、待ってくれ……いや、待って下さい! ほんの出来心で、俺達は、同じ赤軍でしょう!」

 

 

 その中央では、彼等が。赤軍兵士二人を拘束している。ここに来て、兵士たちは何かを悟ったのだろうか。今まで敵意を向けていた極東の男の人に、憐れみを乞うように。

 

 

「黙れ。喚くな、赤軍の面汚しが────我々には《鋼鉄の男》より、全ソヴィエト人民に対する無裁判処刑権が与えられている。無論、兵士とて例外ではない」

 

 

 だが、そんな命乞いなど歯牙にも掛けずに。シベリアの永久凍土よりも冷たい赫い瞳で見下ろしたまま、黒い男の人は吐き捨てた。

 

 

「因って────貴様らは、ここで終わりだ。

残 念 だ っ た な

万歳(ウラー)!』

万歳(ウラー)!』

 

 

 首元で、彼が平手を横に払う。万国共通の、処刑のサイン。一気に血の気を喪い、蒼白となった兵士達は、そのまま人狼達に処刑台(ロブノエ・メスト)へと引き摺られていく。

 

 

「そ、そんな……そんなぁ!」

「助けて……助けて下さい、大佐! 大佐ぁぁぁ!」

 

 

 その間もずっと、悲鳴を撒き散らして。でも、人を越えた機関人間(エンジンヒューマン)の膂力に抗う術など無い。やがてそれも、銀色の雪の彼方に響いた二発の銃声で聞こえなくなった。

 

 

「さて……申し訳ない、大事無いか?」

「──え、あ……」

 

 

──その右手が、私に差し出されている。兵士達の命の行く先をいとも容易く閉ざした、右手が。武骨な右手。

──節張った、傷だらけの、剣術胼胝(タコ)のある……お父さん(パーパ)によく似た、男性らしい右手。

 

 

 その右手から、もう一度。私を庇う白い右手がある。リュダ、優しいリュダ。リュダが、また、

 

 

「アンタ……ふざけてんの! 何が『大事無いか』よ、アンタ達のせいでしょ! いつもいつも、私達みたいな弱いものから奪うだけの癖に!」

 

 

 烈火のように怒って。綺麗で色っぽい緑色の瞳、憎しみに濁らせて────

 

 

──心臓、ばくばく、ばくばく、ばくばく。破裂しそうなくらい。忘れるように努めていた恐怖が、怯えが、纏めてやって来て。

 

 

「あ────はぁ、はっ、はっ…………!」

 

 

──呼吸も、思うように出来ない。胸が痛い。心臓が、破裂しそうで、怖い、恐い、こわい、コワイ────!

 

 

「帰るわよ! こんな奴等、放って────…………? ちょっと、どうしたの!?」

 

 

 リュダの背後でへたりこんだまま、胸を押さえて。それでも駄目、駄目。息が出来ない。私、わたし────!

 

 

「……落ち着け。俺の言葉をよく聞いて、心の中で復唱しろ。いいな?」

「はっ────は、はぁっ──!」

 

 

 その私の顎を持ち上げるように、右手が触れている。赫い瞳、三白眼の鋭い眼差し、目の前でじっと。あと少しで、唇が触れそうなくらいで。

 

 

「恐れなくていい。怖い事もない。お前の命は続く」

 

 

──恐れなくていい。怖いことはない。私の命は続く。

 

 

「息を吸え。息を吐け。呼吸を続けろ」

 

 

──息を吸う。息を吐く。呼吸を続ける。

 

 

「そうすれば。今からはまた、いつも通りだ────」

 

 

──そうすれば。今からはまた、いつも通り…………

 

 

 不思議な声、ゆっくりとした声。恐慌の坩堝にある私の耳にも、するりと滑り込んでくる声。低くて、落ち着いていて、自信に満ち溢れた男の人の声。

 その調子に合わせるように、心臓が落ち着きを取り戻す。血流に乱されていた呼吸も、だんだん、だんだん。

 

 

──ああ、そうだ。これ…………精神学(メスメル)だ。

 

 

 『軍隊の指揮官等の集団の導き手となる人には、生まれながらに心理(メスメル)作用を有する声の人が相当数いる』と、ブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)が授業で仰ってた。それが分かるくらいには、回復していた。

 

 

「落ち着いたか?」

「はっ……はい……あふっ」

「よし、いい子だ」

 

 

 答えれば、彼は笑って私の頭を撫でる。さらりと、優しく。金属や人の腕を折るような握力なんて、微塵も感じさせない優しさで。帽子、さっき、落としていたから。

 それは、人のような笑顔だったけど。口端を吊り上げた、人間らしさを廃した……狼みたいな笑顔だった。

 

 

「あの……えっと、こ、困ります」

「何がだ?」

「だから、その……」

 

 

 そして、そうなれば。今度は、今置かれている状態に気が回り出す。小さく『万歳(ウラー)』と呟きながら待機している《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》の人狼達の真ん中で、その指揮官の人に頭を撫でられている。ちょっと前の私なら、考えもできない状況。

 

 

「隊長、隊長。極東ではそれで良いのかもしれませんけどね……天下の往来で婦女子の頭を撫でるとか、封建的なソヴィエトじゃあ結婚して責任とるレベルですよ」

「《狼》しか見ちゃいない、何の問題がある?」

「あるでしょうが。隊長が小児趣味だなんて、俺達の肩身が狭くなる」

 

 

──て言うか……これ、すごく失礼よね? すごい子供扱いよね? 一応私、結婚もできる齢なんですけど。淑女(レディ)なんですけど。

 

 

 小銃を担いだ彼が苦笑いしながら告げれば、隊長さんは決まりが悪そうに手を離して立ち上がる。そう、背は高くない男の人。勿論、私と比べたら頭二つ分くらい高いけれど。

 その間に、帽子を拾い上げて被り直す。うう……恥ずかしい。顔から火が出そう……。

 

 

「さて、兎に角問題はこれからですよ、隊長。パレードを中断して《鋼鉄の男》閣下の面子を潰した言い訳を考えないと」

「チ────煩わしい事を思い出させてくれる」

 

 

 小銃を担いだ彼が、呆れ顔で隊長さんに語り掛ける。隊長さんは、咥えていた煙管を一吹きして灰を飛ばすと、新しい刻煙草を先に摘める。

 すかさず、差し出されたライターの火。副官の彼が差し出した火で煙管を炙った隊長さんは、面倒くさげに髪を掻きながら紫煙を燻らせていて。

 

 

──あー、なんだろ。だんだん頭に来た。

 

 

「そんな事より、こんな状況で私の事に気付かないんですか? 副官さん」

「え、何かな、? お嬢さ────…………」

 

 

 遂に、私の方から声を掛ける。そうして、副官の『彼』は漸く私を見た。見て、呆れ顔を驚きに染めて。多分、私は逆に恥じらい顔を呆れに染めて。

 

 

「アンナ…………アンナか?!!」

「ええ、はい。アンナですよ。小児で悪かったわね、ヴァシリ兄さん」

 

 

 憮然と、私は『彼』を見上げる。背の高いロシア人。癖の強い黒髪に海色の瞳の、懐かしい人。私の兄さん────ヴァシリ・グリゴーリエヴィチ・ザイツェフを。

 

 

「知り合いか、ヴァシリ?」

「いえ、あの……妹、です」

「何?」

 

 

 目に見えてしどろもどろになった兄さんの言葉に、隊長さん、気怠げな目を丸くして。やがて、呆れたように紫煙混じりの溜め息をこぼす。

 

 

「……ヴァーシャ。五百メートル先から小銃の引き金を撃ち抜くような鷹の目が、妹の顔の見分けもつかんのか?」

「それとこれとは、話が違うじゃありませんか。第一、ロシアの娘は厚着してて分かりにくいったら……」

 

 

──隊長さんの気持ちは凄く分かる。私も、溜め息を吐きたいくらい呆れているもの。兄さん、見た目は格好いいヴァシリ兄さん。後は、中身があれば、完璧だったのに。

 

 

「……今日はもういい。《鋼鉄の男(スターリン)》には俺が報告しておく。いつも通りに粛清を行った、とな」

「いえ、しかし────」

 

 

 そのしどろもどろのまま、隊長さんに言葉を返そうとした兄さん。そんな、兄さんに。

 

 

「中尉────指示を復唱しろ」

 

 

 煙管から灰を吹き飛ばして、反抗を赦さない赫い瞳。血の色の、狼の瞳。切れ長の三白眼が、言外の威圧を叩き付けて。

 

 

万歳(ウラー)! ヴァシリ・ザイツェフ中尉、本日は帰投致します! 御気遣いありがとうございます、大佐!」

()()まで口に出すな、莫迦が────」

 

 

 兄さんの敬礼を受けて、隊長さんは踵を返す。狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)、銀色の雪混じりの風に靡かせて。三本の刀と人狼たち、伴って。

 

 

──行ってしまう。黒い極東の男の人。まだ、お礼すら言えてないのに。

──だから、私。お願い、もう一度だけ。もう一度だけ。

 

 

「────あ、あの!」

「……何だ、少女」

 

 

──もう一度だけ、勇気を。

 

 

「あの、御名前、を……!」

 

 

 自然と震える体と声。竦み上がって、ああもう、我ながら情けないったら────

 

 

「……ソヴィエト機関連邦、《赤衛軍(クラースナヤ・アールミヤ)》客員大佐、内藤隼人義豊(ナイトウ・ハヤト・ヨシトヨ)

「────」

 

 

 でも、確かに。振り返りすら、してくれなかったけど。その声は確かに降りしきる銀雪の帳を越えて、私の鼓膜を揺らして。

 

 

「……ハヤト、さん」

 

 

『貴女の、騎士(ナイト)様だけね。アナスタシア』

 

 

 甦るのは、お母さん(マーマ)の声。暖炉の前で、夢見るように私に聞かせてくれたあの声に、つられるように。

 

 

「《騎士(ナイト)》……ハヤト・ヨシトヨ」

 

 

 私は、ばくばくと、再び脈を早めた心臓を胸の上から押さえて。火照った頬に風の冷たさを感じながら、その名前を口遊んでいた────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた皇帝(ツァーリ)の城だ。誰もが知りながら、誰もが知り得ない。漆黒と排煙に閉ざされた、この世の地獄だ。

 そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、八大地獄(カルタグラ)だ。そこは死して尚、魂を苛む八寒地獄(コキュートス)だ。

 

 

 ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。

 

 

「喝采せよ、喝采せよ! おお、素晴らしきかな!」

 

 

 声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。

 

 

「我が《最愛の子》が第一の階段を上った! 物語の始まりの時が来たのだ! 現在時刻を記録せよ、ラスプーチン! 貴様の望んだその時だ────《鋼鉄の男》よ、震えるがいい!」

 

 

 その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の皇帝(ツァーリ)が一人。盲目に、白痴に狂ったままに。従う事の無い従者に向けて叫ぶのだ。

 

 

「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。時計など、持ち合わせてはいませんがね」

 

 

 答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

 

「くっ──はは。物語、物語だと? ああ、最初で最後の《奇械》を無駄にして────悪い子だ、アナスタシア」

 

 

 堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。

 

 

「ええ、ええ。本当に」

「そうね、そうね。本当に」

「全くだわ、全くだわ。本当に」

「「「本当に本当に悪い子ね、アナスタシア」」」

 

 

 傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共にロシア舞踊(ベレツカ)を躍り、嘲りながら。

 まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる道化師(クルーン)が。

 

 

「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛の形あり!」

 

 

──それが、物語の始まり。お伽話か活動写真(フィクション)のような、男女の出逢い。

──路地の侍士(ストリート・ナイト)と、白い皇女殿下(ベールィ・インピェーラリスサ)の。

 

 

皇 帝 陛 下 万 歳(ウラー・インピェーリヤ)──────────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 

 その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けるのだ────


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