銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
──暗闇の中で。
──わたしは、《旧きもの》との対話を続ける。
『妾は、幸福だった』
目の前には、白く凍えた塊。それは、雪。それは、氷。それは、怒り。それは、嘆き。
靄のように、或いは曇った硝子のように。またはモザイク画か、凍てついた氷のように。その姿は、判然としない。ただ、白い────
『妾は、幸福の中に揺蕩っていた』
『だが、奪われた。貴様らに。貴様らの頼った《機関》に、父なる太陽は覆い隠され、母なる春は訪れなくなり、祖父なる霜は────溶けて、消えた』
胸が詰まる。喉から、溢れそうになる。
持ち合わせない。持ち合わせているはずもない。なにを言っても、それは、ただの侮辱に過ぎないから。
『────────そうだ』
そんなわたしに呆れてか、見下げ果ててか。ため息混じりに吐き捨てた『彼女』は。
『貴様らだ、貴様らが奪った。貴様らが────』
ぽつりと、最後に。敵意だけ、吹き消して。宝石じみた輝きを一度、煌めかせて。
それを、最後に。
『忌まわしき────
全てが、消えて────
……………………
…………
……
ガタン、との大きな揺れに、わたしは瞼を開く。簡素な革を申し訳程度に張られた二人掛けのシベリア鉄道の客車の椅子の、右側で。左側には、眠ったままのリュダの綺麗な寝顔。女のわたしでも息を飲むくらい、綺麗なリュダの。
対面には、オジモフ君とガガーリン君。やっぱり、眠っている。無理もないと思う、何せ早朝、五時の便に乗ったから。
そして、膝の上の鳥籠。その中で、丸くなるように目を閉ざしている《白い鳥》を眺めて。小さく上下する体に生きていることを確認して、安堵しながら。
わたしは、ぼんやりと車窓から外を眺める。先頭の機関車から流れてくる機関煤煙の煤色を。そして、それよりもなお色濃い。どこまでも遠く、低く立ち込める漆黒の雪雲と、そこから降り落ちる灰色の雪を。
わたしの顔が。二房に結わえた髪と緋色の瞳の自分と見詰め合うように、暗い、暗い……深夜と見まがう早朝のモスクワ近郊の景色に、視線を向けるのだ。
──ガガーリン君が使用許可を得た、『ツングースカ対爆試験場』に向かう道中。黒い雪の降る、安息日に。
──世界を創造なされた御主が休みたもうた最後の一日に。ガガーリン君の『
「……………………」
ああ、今日も。今日も、また。
視界の端で、道化師が踊っている事を────
意識してしまって。だから、わたしは、それを無視して。
「コーヒー、飲みたいなぁ……」
申し訳程度の暖房機関が温めきれない客車の中、白い息を吐きながら。三人と、一匹を。他の席でも同じように眠っている乗客達を起こさないように。
小さく、小さくいつも通りの言葉を呟いて…………。
……………………
…………
……
その場所で降りたのは、わたし達だけ。真っ暗な昼下がり、他の乗客達はその駅名が緊張した声色の車掌に叫ばれた瞬間、あからさまに怯えたように身を縮こまらせただけで。
早く行かせてくれ、とばかりに扉が閉じられた瞬間。高らかに鳴らされた汽笛と共に機関列車は去っていく。かつて、偉大なるヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン同志が直々に招いたと言われる碩学様によって作られた機関列車が。
「ふーん、何て言うか……見事に殺風景よね」
「当たり前だろう、パヴリチェンコ。ここは軍事施設だぞ」
「イサアークの言う通り。華やかさとは無縁、仕方ねぇよな」
──リュダとオジモフ君とガガーリン君が言う通り、殺風景で固く閉ざされた、要塞じみた場所。何でも、ロシア帝国時代の要塞を再利用した場所だとか。
──モスクワの南西、少し小高くなった丘、麓を流れるヴォルガ河。かつてはヴォルゴグラードと呼ばれた、幾度となくタタール人に侵略された都市の残骸。ロシア革命後の内戦、そしてフィンランド軍の反撃の影響で廃墟となり、手痛い敗北を喫したソヴィエト軍がフィンランドの再侵攻を睨んで築き上げた《モスクワを護る
住んでいるのはソヴィエト軍関係者。兵士と、技術者と、一部の政治家。他は、補給で訪れる商売人くらい。だからだろうか、立入検査の後の町並みは酷く陰鬱に沈んでいる。
道行く人々は誰もが工業都市故の濃密な機関煤煙に備えた呼吸器付防塵マスクを纏って俯き、足元だけを見つめて歩いていて。勿論、わたし達も。マスク代わりのマフラーや、帽子とコートに身を包んでいる。当然、鳥籠にも布を被せてある。
「だけど、面白い噂なら知ってるぜ。なんでも────」
「面白い、噂?」
わたしも、感じる息苦しさにマフラーを引き上げて。《
「そ。噂だ。あくまでも噂だけどよ────ここじゃ、なんと」
ガガーリン君、楽しげに。旧世代の軍用防塵防雪装備に身を包んだ彼、アネクドートを囁くみたいに笑いながらその顔をわたしの耳元に近づけて。
「────ここじゃ、なんと。『
──機動要塞。カダス北央帝国の、
──ロンドンや合衆国では研究が進んでいると聞くけれど、まさか、ソヴィエトでもなんて。思いもしなかった。
「噂、とは言うがな。南のオスマン機関帝国、西のドイツ帝国、東の
「ふえ?」
オジモフ君が反対側の耳に。都合、挟まれる形になって。わたし、どうしたら良いものか、分からなくて。困るったら────
「────で? あんた達、私の
そして、最後に。背後から二人の首根っこを捕まえて引き離したリュダが、二人の間でそう、地の底から響くような小声で呟いて。
「いやっ、違! 違うって、リュダ!」
「待て、パヴリチェンコ! 僕はそんな────」
その恐さたるや、お伽噺の《バーバ・ヤガー》みたいで。ガガーリン君とオジモフ君、可哀想なくらい狼狽えていて。
「あ、あの、リュダ────はぷ!?」
と、振り向こうとしたところで。前方不注意が祟り、人とぶつかってしまって。
「あ────ご、ごめんなさ」
多分、抱き止められる形になって。両肩に添えられた、二つの手の力強さから、男の人だと解って。
「全く。お前達、滅多な話は辞めた方が賢いぞ。ここは軍事都市だ。何処に憲兵の目が光っているか分からんし……何より」
──謝ろうと、言葉を紡ごうとした鼻腔に感じた香り。煙草の、紫煙の香気。
──ああ、この香りは。この、古めかしい煙管の香りは。わたしが知る限り、一人だけ。
「────ハヤト、さん……?」
「何より────例え
その予想────いいえ、直感の通りに。ソヴィエト軍の軍装に身を包んだ、漆黒緋眼の日本狼を、その腕の中から見上げて。