銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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邂逅 ―Случайное знакомство―

 

 

 いつも通り、銀色の雪が降るモスクワ市街、赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)。国営碩学院からグム百貨店──ミュールとメリリズまではたった数百メートルとは言え、防寒具なしでは着く頃には芯まで凍えている。雲に覆われて太陽の光の射す事の無い、常に氷点下のこの国。

 厚い革の外套(ドゥブリョンカ)と、耳当て付帽(ウシャンカ)普段着(ルバシカ)。鼻先まで覆う防塵マフラー、手袋にブーツ。ソヴィエトに生きる人々の必需品。後は三弦洋琴(バラライカ)と……私は飲めないけど、ウォッカ。お父さん(パーパ)はよく仕事帰りに、『命の水だ』ってがぶがぶと。獲物の毛皮を剥ぐ前に飲んで。指を怪我しては、お母さん(マーマ)に怒られていたっけ。

 

 

「なぁに、いきなり笑って?」

「いいえ、別に?」

 

 

 不意に思い出した懐かしさに、マフラーの下でクスリと笑う。たったそれだけでも、白い息は外気に散らされて消えていく。それで分かったんだろう。

 鋭いリュダ、頭の良いリュダ。スタイルの良いリュダ、大人っぽいリュダ。今だってそう、同じような服装でも、私と違って人目を惹く。深緑のコート、纏っていたって分かるもの。

 

 

 良くも、悪くも。未だに封建的気風の強い、この国では。エイダ主義に傾倒する女性は、反体制派のレッテルを張られかねない。

 

 

「変なアーニャ……って、いつも通りか」

「なによ、それ。子供扱いして失礼なリュダ……って、いつも通りね」

「ほっほー、言うじゃないのさ。小生意気な仔兎ちゃん(ザイシャ)だこと」

 

 

 なんて、取り留めもない事で笑い合いながら。あと少しでミュールとメリリズ、アーケードの百貨店。あと少しでその軒先と言うところで、辺りに歓声が巻き起こる。

 

 

「うわ」

 

 

 瞬間、リュダが嫌そうな声を漏らした。その視線の先、人だかり。その先には────

 

 

「あれ、って」

 

 

 思わず、身の毛がよだつ。黒い、獣の群れ。深紅の御旗をはためかせながら行進する、黒い装備と深紅のゴーグル付きガスマスク。黒い狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)を纏い、その背嚢(はいのう)から濛々(もうもう)と黒い機関排煙を立ち上らせる異形の兵士達。

 誰が見間違えられよう、あれこそは我等が祖国の軍事力の象徴。《鋼鉄の男》スターリン同志の率いる《政府赤軍》の、鋼の猟犬三千体。全身をカダスの異常発達した機関技術(インガノック・テクノロジー)である『数秘機関(クラックエンジン)』の義肢に置き換えた、人間を越えた三千もの機甲兵士による、ソヴィエト機関連邦最強の聯隊(れんたい)

 

 

「《機関化歩兵聯隊(スペツナズ)》…………」

 

 

 他の赤軍兵士とは違い、彼等は赤い軍服を着る必要はない。何故なら、わざわざ赤い服を着ずとも、返り血に染まる人狼達(ヴォルキィ・クラースニィ)なのだから。

 

 

「……何が、政府赤軍(クラースナヤ・アールミヤ)よ。ただの人殺しどもよ、あんな奴ら」

「────────」

 

 

──前指導者ウラディーミル・レーニン氏の急逝により、内部分裂を起こしたボリシェヴィキ。レフ・トロツキー氏の後継者争いを制した我等が同志スターリン氏が、最初に取り組んだ構造改革。『五ヵ年計画』と呼ばれるその計画による軍拡、その成果。未だ脅威であり続けるオスマン機関帝国の機動要塞群(スルタン・マシーン)に対抗する為、一人でも並みの兵士百人分以上の戦闘能力を有する機関人間を量産、ソヴィエトの得意戦術である人海戦術にて運用する事を目的とした部隊。西亨において、これに勝る陸上戦力なんて何処にあるだろう。事実、バスマチ蜂起に呼応してスターリン氏に反旗を翻した旧帝政派の八万人は、彼等三千人に一人残らず鏖殺された。

──だけど。その財源の為に敷かれた、苛烈なまでの強制収奪税制。それによりソヴィエトの人口の0.1%に当たる十五万人が餓死、あるいは凍死したと言われている。だから、人々は彼等を誇ると共に憎むのだ。《忌まわしき鉄と死の兵団》と。人民局の父君と英語教師の母君、その両親を失ったリュダのように。

 

 

 低い声。感情を押し殺すような。憎しみの籠った眼差しで、ミラは彼等を見据えている。今までも何度か。こうして、パレードに行き当たった時に。毎回。

 優しいリュダ、綺麗なリュダ。駄目、止めて。お願いよ、そんな目をしないで。

 

 

「リュダ、行きましょ」

「────アーニャ……」

 

 

 思わず、引いたリュダの腕。知らず、すがり付くかのように。それで漸く、彼女は私を思い出してくれたようで。

 

 

「……ゴメン、アーニャのお兄さん、赤軍兵士だったわね。ああ、ヤメヤメ。少し早いけど、夕食でも食べていきましょ」

 

 

 ばつが悪そうに微笑んで、いつもみたいに。いつもみたいに、優しい笑顔。暖炉のように、温かな。

 

 

──ああ、良かった。優しいリュダ、綺麗なリュダ。いつものリュダだ。

 

 

 ほっと、胸を撫で下ろす。大丈夫、またいつも通りの日々。ミュールとメリリズで買い物をして、いつものようにつまらないお喋りをして、ブリヌイでも食べて。寮に帰って、寝て、起きて、碩学院に通う日々。

 そうだわ、今日は私が食事番だった。丁度ミュールとメリリズに寄るんだし、得意料理のボルシチにしよう。うん、大丈夫、大丈夫────

 

 

「──おい、お前達」

「──待て、そこの二人」

 

 

 びくり、と肩が震える。ばくばく、と心臓が震える。背後から掛かった、野太い男性の声が二つ。リュダと共に振り返れば、目にも鮮やかな深紅の軍服。小銃と軍刀を身に付けた、灰色帽子の男達が。

 赤ら顔でニタニタと、厭らしい笑顔を。獲物を見付けた、野良犬のような顔で私達を見ていて。

 

 

──止めて。お願いよ、止めて。いつものように過ごさせて。いつものように暮らさせて。

 

 

「「人民議会万歳(ウラー・ソヴィエト)! 鋼鉄同志万歳(ウラー・スターリン)!」」

 

 

 息もピッタリ、私達は敬礼と共に賛辞を述べる。それを嘲笑うように、肥満体の男と病的な痩躯の男は、値踏みするように私達を睨め回した後で。

 

 

「んん~? おかしいなぁ、そんなに熱心な同志なら、パレードに背を向けたりする訳がないよなぁ?」

「全くだ。さては貴様ら、()()()()()()じゃあるまいな?」

 

 

 その下卑た笑顔から溢れた、酒臭い言葉に、ばくばく、ばくばく、心臓が早鐘のように。『反体制主義者』、つまり『ソヴィエトの敵』と言うこと。

 つまり────()()()()()()()()()()()()()と言うこと。

 

 

──駄目、駄目、駄目。止めて。お願いよ、止めて! 怖い、恐い、コワイ。お願いだから、私達をいつものように!

 

 

「ち、違います! 私達は反体制主義者なんかじゃありません!」

「そうです、私達は国営碩学院の学生です! ソヴィエトの為に生きています!」

「口で言うのは簡単だが、証拠があるまい? そら、証拠を見せてみろ」

 

 

──その通りだ。『無い事は証明できない』、実に簡単な、『悪魔の証明』の問題だ。だから、私達は…………この濡れ衣を晴らせない。

──それを知って、この兵士達は私達を。

 

 

「証明できない、か……ふぅむ、これは『尋問』だ。久しぶりに、なぁ」

「いやはや、嘆かわしいことですな。今晩は長い夜になりそうだ」

 

 

──ああ、そうか。この人達は、ヒトじゃない。()()()()なんだ。

 

 

「待って! 私が、私だけで大丈夫ですから、アーニャは、アーニャだけは!」

「ああ、ああ。仲良く連れていってやるとも。さぁ、来るんだ」

 

 

 白くて綺麗な右腕腕を翳して、私を庇ったリュダ。それを組み伏せて、男達が揃って浮かべた好色と残虐の笑み。凄惨な、穢らわしい、野犬のような笑顔。伸ばされた右手が迫る。

 

 

『────こんにちは、アナスタシア』

 

 

──ああ、見える。視界の端に、躍り嗤う、道化師(クルーン)が。

 

 

 辺りの人々は、見て見ぬふりを。誰も助けてはくれない。当たり前だ、相手は絶対の権力を笠に着た赤軍兵士。そんな事をすれば、同じように、無実の罪を被せられる。誰が、それを攻められよう。

 

 

────では、目を覆う?

 

 

──いいえ。視界の端で、躍り狂う貴方。

 

 

────では、瞼を閉じる?

 

 

──いいえ、いいえ。視界の端で、嘲り嗤う道化師(クルーン)

 

 

────じゃあ、どうする?

 

 

──ええ、背後の貴方。だから、私はこう言うわ。

 

 

『ぼくは、みているよ』

 

 

「……最っ低…………最低よ、貴方達は!」

 

 

『アンナ、アナスタシア。きみを、みている』

 

 

 現実と幻覚と、二つの嘲笑う声に晒される中で。でも、その声は確かに。私の背中を押すように、力強く。ある種の実感が、確かに。

 

 

「強いものの影から、こそこそと────権力を笠に着て、ぬけぬけと! 大の男が、恥を知りなさい!」

 

 

──私は絶望的な恐怖からも、理不尽な暴力からも。絶対に瞳を逸らさない────!

 

 

「お? 本性を表したな、反体制主義者め!」

 

 

 でも、兵士は変わらず嘲笑うだけ。伸ばされた右腕が、私の左手を掴む。服の上からでも気持ち悪い、まるで芋虫が五匹、のたうつような感触。

 

 

遅いわ(ニーズカャ)────」

「何────貴様、逆らう気か!? 赤軍兵士に楯突くと────」

「────喚かないで(チーハ)!」

 

 

──それを力任せに振り払う。勢い余って脱げた手袋、落ちた帽子。冷たい風、でも、今は気にならない。今は、ただ。頼りなくてなよっちい、私の生白い────()()()()()

 

 

「私は、貴方達なんて────何一つ怖くないわ!」

「こっ、この……!」

 

 

 最後になしなけの勇気を振り絞った睨みと、ありったけの力を込めた左手の平手打ちを見舞う。何処かで、『くっ』、と息が漏れた。静かに、だが確かに。さざ波のように、失笑が伝播していく。それに、肥満体の兵士の顔色が深紅に染まった。

 当たり前だ。大の男が、仮にも赤軍の名を頂いた兵士が。小娘の平手打ち一つ、躱せないなんて。しかも、公衆の面前で。

 

 

「この────餓鬼が!!」

 

 

 だが、それも男達の逆上を招いただけ。市民たちは、ただ、遠巻きに成り行きを見ているだけ。そして私にももう、出来る事はない。情けなさに、恐怖に、悔しさに、視界が滲む。

 そんな思考の間にも握り困れた大きな拳、もうすんでのところまで。もう、目の前まで迫っていた赤い野犬の右腕が────

 

 

「────────随分と可愛らしい『遠吠え』が聞こえたと思って来てみれば…………」

 

 

 目にも留まらぬ速さで疾走った、紫煙を纏う黒い風に────

 

 

「馬脚を現したのは貴様らだ、莫迦め。度し難い程の莫迦どもめが」

 

 

 喉元に金属板の縫い付けられたボロボロのマフラー、銀色の雪風に靡かせて。三本の刀を腰に帯びた、黒い狼の右腕に握り止められて────

 


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