銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
いつも通り、銀色の雪が降るモスクワ市街、
「なぁに、いきなり笑って?」
「いいえ、別に?」
不意に思い出した懐かしさに、マフラーの下でクスリと笑う。たったそれだけでも、白い息は外気に散らされて消えていく。それで分かったんだろう。
鋭いリュダ、頭の良いリュダ。スタイルの良いリュダ、大人っぽいリュダ。今だってそう、同じような服装でも、私と違って人目を惹く。深緑のコート、纏っていたって分かるもの。
良くも、悪くも。未だに封建的気風の強い、この国では。エイダ主義に傾倒する女性は、反体制派のレッテルを張られかねない。
「変なアーニャ……って、いつも通りか」
「なによ、それ。子供扱いして失礼なリュダ……って、いつも通りね」
「ほっほー、言うじゃないのさ。小生意気な
なんて、取り留めもない事で笑い合いながら。あと少しでミュールとメリリズ、アーケードの百貨店。あと少しでその軒先と言うところで、辺りに歓声が巻き起こる。
「うわ」
瞬間、リュダが嫌そうな声を漏らした。その視線の先、人だかり。その先には────
「あれ、って」
思わず、身の毛がよだつ。黒い、獣の群れ。深紅の御旗をはためかせながら行進する、黒い装備と深紅のゴーグル付きガスマスク。黒い狼の
誰が見間違えられよう、あれこそは我等が祖国の軍事力の象徴。《鋼鉄の男》スターリン同志の率いる《政府赤軍》の、鋼の猟犬三千体。全身をカダスの
「《
他の赤軍兵士とは違い、彼等は赤い軍服を着る必要はない。何故なら、わざわざ赤い服を着ずとも、
「……何が、
「────────」
──前指導者ウラディーミル・レーニン氏の急逝により、内部分裂を起こしたボリシェヴィキ。レフ・トロツキー氏の後継者争いを制した我等が同志スターリン氏が、最初に取り組んだ構造改革。『五ヵ年計画』と呼ばれるその計画による軍拡、その成果。未だ脅威であり続けるオスマン機関帝国の
──だけど。その財源の為に敷かれた、苛烈なまでの強制収奪税制。それによりソヴィエトの人口の0.1%に当たる十五万人が餓死、あるいは凍死したと言われている。だから、人々は彼等を誇ると共に憎むのだ。《忌まわしき鉄と死の兵団》と。人民局の父君と英語教師の母君、その両親を失ったリュダのように。
低い声。感情を押し殺すような。憎しみの籠った眼差しで、ミラは彼等を見据えている。今までも何度か。こうして、パレードに行き当たった時に。毎回。
優しいリュダ、綺麗なリュダ。駄目、止めて。お願いよ、そんな目をしないで。
「リュダ、行きましょ」
「────アーニャ……」
思わず、引いたリュダの腕。知らず、すがり付くかのように。それで漸く、彼女は私を思い出してくれたようで。
「……ゴメン、アーニャのお兄さん、赤軍兵士だったわね。ああ、ヤメヤメ。少し早いけど、夕食でも食べていきましょ」
ばつが悪そうに微笑んで、いつもみたいに。いつもみたいに、優しい笑顔。暖炉のように、温かな。
──ああ、良かった。優しいリュダ、綺麗なリュダ。いつものリュダだ。
ほっと、胸を撫で下ろす。大丈夫、またいつも通りの日々。ミュールとメリリズで買い物をして、いつものようにつまらないお喋りをして、ブリヌイでも食べて。寮に帰って、寝て、起きて、碩学院に通う日々。
そうだわ、今日は私が食事番だった。丁度ミュールとメリリズに寄るんだし、得意料理のボルシチにしよう。うん、大丈夫、大丈夫────
「──おい、お前達」
「──待て、そこの二人」
びくり、と肩が震える。ばくばく、と心臓が震える。背後から掛かった、野太い男性の声が二つ。リュダと共に振り返れば、目にも鮮やかな深紅の軍服。小銃と軍刀を身に付けた、灰色帽子の男達が。
赤ら顔でニタニタと、厭らしい笑顔を。獲物を見付けた、野良犬のような顔で私達を見ていて。
──止めて。お願いよ、止めて。いつものように過ごさせて。いつものように暮らさせて。
「「
息もピッタリ、私達は敬礼と共に賛辞を述べる。それを嘲笑うように、肥満体の男と病的な痩躯の男は、値踏みするように私達を睨め回した後で。
「んん~? おかしいなぁ、そんなに熱心な同志なら、パレードに背を向けたりする訳がないよなぁ?」
「全くだ。さては貴様ら、
その下卑た笑顔から溢れた、酒臭い言葉に、ばくばく、ばくばく、心臓が早鐘のように。『反体制主義者』、つまり『ソヴィエトの敵』と言うこと。
つまり────
──駄目、駄目、駄目。止めて。お願いよ、止めて! 怖い、恐い、コワイ。お願いだから、私達をいつものように!
「ち、違います! 私達は反体制主義者なんかじゃありません!」
「そうです、私達は国営碩学院の学生です! ソヴィエトの為に生きています!」
「口で言うのは簡単だが、証拠があるまい? そら、証拠を見せてみろ」
──その通りだ。『無い事は証明できない』、実に簡単な、『悪魔の証明』の問題だ。だから、私達は…………この濡れ衣を晴らせない。
──それを知って、この兵士達は私達を。
「証明できない、か……ふぅむ、これは『尋問』だ。久しぶりに、なぁ」
「いやはや、嘆かわしいことですな。今晩は長い夜になりそうだ」
──ああ、そうか。この人達は、ヒトじゃない。
「待って! 私が、私だけで大丈夫ですから、アーニャは、アーニャだけは!」
「ああ、ああ。仲良く連れていってやるとも。さぁ、来るんだ」
白くて綺麗な右腕腕を翳して、私を庇ったリュダ。それを組み伏せて、男達が揃って浮かべた好色と残虐の笑み。凄惨な、穢らわしい、野犬のような笑顔。伸ばされた右手が迫る。
『────こんにちは、アナスタシア』
──ああ、見える。視界の端に、躍り嗤う、
辺りの人々は、見て見ぬふりを。誰も助けてはくれない。当たり前だ、相手は絶対の権力を笠に着た赤軍兵士。そんな事をすれば、同じように、無実の罪を被せられる。誰が、それを攻められよう。
──いいえ。視界の端で、躍り狂う貴方。
──いいえ、いいえ。視界の端で、嘲り嗤う
──ええ、背後の貴方。だから、私はこう言うわ。
『ぼくは、みているよ』
「……最っ低…………最低よ、貴方達は!」
『アンナ、アナスタシア。きみを、みている』
現実と幻覚と、二つの嘲笑う声に晒される中で。でも、その声は確かに。私の背中を押すように、力強く。ある種の実感が、確かに。
「強いものの影から、こそこそと────権力を笠に着て、ぬけぬけと! 大の男が、恥を知りなさい!」
──私は絶望的な恐怖からも、理不尽な暴力からも。絶対に瞳を逸らさない────!
「お? 本性を表したな、反体制主義者め!」
でも、兵士は変わらず嘲笑うだけ。伸ばされた右腕が、私の左手を掴む。服の上からでも気持ち悪い、まるで芋虫が五匹、のたうつような感触。
「
「何────貴様、逆らう気か!? 赤軍兵士に楯突くと────」
「────
──それを力任せに振り払う。勢い余って脱げた手袋、落ちた帽子。冷たい風、でも、今は気にならない。今は、ただ。頼りなくてなよっちい、私の生白い────
「私は、貴方達なんて────何一つ怖くないわ!」
「こっ、この……!」
最後になしなけの勇気を振り絞った睨みと、ありったけの力を込めた左手の平手打ちを見舞う。何処かで、『くっ』、と息が漏れた。静かに、だが確かに。さざ波のように、失笑が伝播していく。それに、肥満体の兵士の顔色が深紅に染まった。
当たり前だ。大の男が、仮にも赤軍の名を頂いた兵士が。小娘の平手打ち一つ、躱せないなんて。しかも、公衆の面前で。
「この────餓鬼が!!」
だが、それも男達の逆上を招いただけ。市民たちは、ただ、遠巻きに成り行きを見ているだけ。そして私にももう、出来る事はない。情けなさに、恐怖に、悔しさに、視界が滲む。
そんな思考の間にも握り困れた大きな拳、もうすんでのところまで。もう、目の前まで迫っていた赤い野犬の右腕が────
「────────随分と可愛らしい『遠吠え』が聞こえたと思って来てみれば…………」
目にも留まらぬ速さで疾走った、紫煙を纏う黒い風に────
「馬脚を現したのは貴様らだ、莫迦め。度し難い程の莫迦どもめが」
喉元に金属板の縫い付けられたボロボロのマフラー、銀色の雪風に靡かせて。三本の刀を腰に帯びた、黒い狼の右腕に握り止められて────