銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
それは、黒い雪の詩編。それは、黒い雪の物語。
そこは鋼鉄の都市でした。大きな壁に囲まれた都市に、青年は居ました。大きな、大きな壁です。縁すら見えないくらいに、大きな壁に。鉄のカーテンに囲まれた都市です。大きな壁に囲まれているくせに、でんと構えた、大きなお城です。
青年には、愛した女性が居ました。とても綺麗な女性です。青年にとっては、狂おしいくらいに、愛した女性です。いつもにこやかで、だけど、最愛の女性が。
女性は、青年に教えてくれました。『愛している人がいるの』、と。彼ではなく、彼のお兄さんを愛しているのだ、と。
青年は、それを受けいれました。受けいれて、壊れました。だって、青年は、女性を愛していただったから。
受けいれました。受けいれて、そして腐れました。ぐずぐずに、どろどろに。反吐のようになっても。腐れて、崩れて、もう動くこともできません。
腐れて、崩れて、青年は嘆きます。だけど、誰も助けてくれはしません。だって、青年は、女性を愛していたから。
でも、青年は道化師と約束しました。だから、皇女さまがやって来ます。
ほら、第三の皇女さまが来ました、黒い雪の合間にふわふわ浮いて。白い光、ゆらゆら。白い皇女さま、ゆらゆら。嘲り、笑いながら、ゆらゆら。
皇女さまは青年に言いました、『時間だよ。イア・イア。思い出す時間だよ、イア・イア』。すると、青年はぐずぐず、ぐずぐず。腐れて、崩れて。
青年は嘆きます。腐れるのは別にいい。ただ、あの子に伝えたかったと。言葉にしたいことがあったと、嘆きます。
でも、皇女さまはなにもしてくれません。誰も助けてくれはしません。この鋼鉄の都市では、自分の事は、自分でしなくてはいけないから。
Q、世界とは?
どうしますか? 誰も助けてくれはしません。青年は嘆くばかり。どうすれば良いですか?
でも────
もしも────
あなたが────
………………
…………
……
あの夜から、一週間後の安息日の日。黒い雪の降る、その日。わたしは、ユーラシア大陸を横断するシベリア機関鉄道の駅舎に居た。黒い雪は天井により遮られて、寒さは暖房機関により外に追い出されていて。
そんな、モスクワ駅構内で。わたしは、三人の前に立っている。
「わざわざ見送りに来てくださって、ありがとうございます、アンナさん」
「本当に。ご迷惑じゃなかったかしら?」
「い、いいえ、そんなことありません。それに、お渡ししないといけないものもありましたから」
にこりと微笑んで、アレクセイ君とカテリーナさんが口々に申し訳なさそうに。だから、むしろわたしが恐縮してしまって。だから、慌てて、鞄の中から一通の封筒を取り出して。
「あの、これ……印刷した篆刻写真です。皆さんの」
「あら────」
頭を下げて、熱くなった頬を隠しながら。だって、気に入って貰えるか不安だから。わたしとしては会心の出来だけれども、外の人もそうかは分からないから。
受け取ってくださったカテリーナさんは、中身を取り出して。それらを眺めて────
「まあ、こんなに綺麗に撮って貰えるなんて……ほら、あなたもご覧なさいな、アレクセイ」
「はい、姉さん────わあ、すごいや」
また、さっきよりも微笑んでくださって。アレクセイ君も、同じく。同じく、更に眩しい笑顔を見せてくれて。
「兄さん、兄さんもご覧よ!」
そして、『その男性』にも、篆刻写真を見せて────
「────ああ、よく撮れている」
「あ────ありがとうございます、イヴァン先生」
穏やかに頬笑むイヴァン先生にも、見せて。イヴァン先生も、やっぱり、もっと微笑んでくださって。わたし、それに恥じ入って。
「流石は、篆刻写真家の卵だな、ザイツェヴァ?」
「う、うぅ……せ、先生。それは」
──キュルキュル、と。金属の軋む音を立てながら。動かなくなってしまった両足の代わりの、車椅子の車輪を回しながら。心因性のものだろうと医者が判断した……つまり、匙を投げた……両足の代わり。
──数日前に、療養のためにモスクワ大碩学院を辞したイヴァン先生は、微笑んで。わたしの、少し、いいえ、かなり恥ずかしい夢のことを言ったから。
「────ところで、あの、ドミトリーさんは……」
だから、話題を変えようと。ここに居ない、カテリーナさんの旦那さまのことを口にして。
「ああ、あの人なら────置いてきちゃったわ、目覚ましを三時間後にずらして。あと、財布を持ってきて、ね?」
「え、ええっ?!」
物凄く、意外な言葉を聞いてしまう。まるで、悪戯っこみたいにペロリと舌を出したカテリーナさん。今ごろはまだ眠りの壁の彼方だろうけど、この後、ドミトリーさんの経験するだろう未曾有の窮地に同情────は、あんまりしないけれど。
「まあ、いい薬でしょ、これくらいの苦労は。
「あ、あはは……」
「……はは」
それと、力なく苦笑するアレクセイ君とイヴァン先生も。もしもここにリュダがいたら、『それってすごくエイダ主義的ですよ!』なんて喜びそうな台詞に。
ポー、と。列車の汽笛の音が重なって。吹き出された排煙が、虚空に消えて。
「────ああ、そろそろ発車時間みたいね」
──発車時間。つまり、お別れの時を告げる音が、木霊して。
「そろそろ、入りましょうか。姉さん、兄さん。それでは、失礼します、アンナさん」
「ええ、そうね────じゃあ、さようなら、ザイツェヴァさん」
「……ではな、ザイツェヴァ。応援しているよ、君の、夢を」
「うん、さようなら、アレクセイ君、カテリーナさん。はい、ありがとうございます、イヴァン先生」
汽笛の告げる通り、三人は去っていく。『ウラジオストク行き』の、砲弾列車に乗って。『サンクトペテルブルク行き』では、なく。
未来に向かって。過去を振り払って。真っ直ぐに。その未来に光があるように、わたしは、祈ろう。
「────そうだわ、ザイツェヴァさん」
と、カテリーナさんは、イヴァン先生の車椅子を押しながら。最後に、また、悪戯っこみたいに。
「あのね────」
「────はい」
最後に。穏やかに、言葉を。
「好きな人には、ちゃんと、気持ちを伝えてね」
「は、い」
口にして。懐かしむように、微笑んで。釣られてか、イヴァン先生にアレクセイ君も、皆が。こっちを向いたまま、微笑んでいて。
「────しっかり、彼を、繋ぎ止めておくのよ。私達のようには、ならないように」
「────」
その言葉を、聞いて。わたしは────ますます恥じ入りながら。恥じ入りながら、それでも。
「────はい!」
負けないように、笑顔を返して。ライカ社製の、篆刻写真機を取り出していて────
シャッターを、切って────
笑顔を────