銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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家族 ―семья―

 

 薄暗い機関灯の灯る室内。視覚化される程に濃密な、鋼の如き圧迫感。そこは、このモスクワで最も重厚な威圧感に満ちた一室だ。そこは、このソヴィエトで最も鋼鉄の冷たさに満ちた一室だ。

 そのただ中で、男女が二人。革張の椅子に腰掛けて最新式の機関パイプから紫煙を燻らせながら、窓の外の漆黒のモスクワを眺めていた男と、その隣で直立不動の姿勢のまま、静かに目を閉じていた金髪の女が二人。

 

 

 見下ろす広場、赤く輝く、五つの塔の頂の星。その煌めきが揺らめいた刹那に。

 

 

「────コーバ。我が親友」

 

 

 女が口を開く。金髪に碧眼の、赤い軍装に身を包む美しい女が静かに、低く、鉄の強度を持って。

 もしこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも失神は免れ得ぬほどの威圧と共に。

 

 

「なんだい、モロトシヴィリ。モロトシュティン?」

 

 

 それほどの声を受けても尚、男は揺るがない。色素の薄い灰色の髪に猫めいた黄金の右瞳と、青い左瞳の怜悧な美貌の。同じく、真紅の軍装に身を包む男が。胸元に、()()()()()()を備えた軍装の男が。

 鉄の声を上回るほどの、鋼鉄の強度を持って。男は、小揺るぎもしないまま。もしもこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも落命してしまいそうな威圧と共に。

 

 

現象数式領域(クラッキング・フィールド)の構築を確認した。彼の願いは果たされる」

「だろうね。だが、それもここまでだ。あそこには────()()には、《白騎士》と《黒騎士》が居る」

 

 

 左手のカップから、輪切りにされたレモンの浮いた紅茶を啜る。愉しげに、実に愉快そうに。

 

 

「ドーブリョ・ウートラ。愚昧にして哀れなる《黒い道化師(ラスプーチン)》。《魔女(クローネ)ババ・ヤガー》に仕える、三体の騎士の内の二体。白騎士と黒騎士、朝陽と夜闇の具現。貴様の粗雑な繰り人形如きで、どうにかできると思っているのか」

 

 

 自らの視界の端で嘲り踊る、黒い道化師すらも。子供の悪戯でも見るかのように、嘲笑いながら。

 

 

「……では、()()()傍観に徹するのだな?」

()()()だ、モロトシヴィリ。モロトシュティン。私が出ずとも、あの程度の完成度しかない《古き恐怖(アブホール)》くらいは、自力でどうにかしてもらわねば」

「了解した、コーバ。我が親友」

 

 

 全てを話終えたとばかりに、女は口をつぐむ。同じく、男も。後には、音もなく降り続ける黒い雪と、時折、排煙を噴くパイプの音だけが残って。

 もう、そこには、踊る道化師の姿はなくて。

 

 

────ああ、本当に。貴様はやりづらい────

 

 

────()()()()()()()()()よ────

 

 

────逢魔時(夕暮)の具現たる貴様よ。冷酷無慙なる《黄昏の赤騎士》よ────

 

 

 最後に、ポツリと。溜め息のような、そんな声が────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

『私の夢────』

 

 

 思い出したのは、半年前の彼の姿。モスクワ大碩学院の指導室での、その会話。

 ぽつり、と。余程、時間が経ってから。イヴァン先生は口を開いた。懐かしむように、苦しむように。

 

 

『そうか、君は、篆刻写真家になりたいんだね』

 

 

──知ってる。だって、聞いたもの、わたし。モスクワ大碩学院に入学して、二年目のあの日に。

──進路調査の日に、夢を語ったから。

 

 

『良い夢だと思うよ。このソヴィエトではまだ下火だけど、外国ではエイダ主義と言う、女性が社会進出することを尊ぶ風潮があるからね』

 

 

 暖房機関の効いた室内で、テーブルを挟んだ真向かいで。新任のイヴァン先生と一対一で。

 出されていた紅茶を、苺のジャムをたっぷりと含んで。口直しにしているわたしは、まだ慣れない新しい先生に恐縮しきっていて。

 

 

『ところで、その夢についてご家族とは相談したかい? ああ、そうか。応援してもらえたのか、それは良かった、うん、君は良い家族に恵まれているね』

 

 

 照れ隠しのように、俯きがちに笑ったわたしを見て。イヴァン先生は、出されていた紅茶を一口含んで。その視線は、近くの窓に。

 

 

『……大事にするんだよ。決して、決して。私のように────私の《家族》のようになっては、いけないよ────』

 

 

──心の底から、噛み締めるように。窓の外、どこか遠くを見詰めて。

──自分の、無力さに。心底、失望したように。

 

 

 笑って────

 

 

──目の前には、凄烈な青。青。空の色、本当の。《うつくしきもの》を思わせられる、老人達が往時を語る際には、必ず話題に上る、本当の空の色。

──本当の空の色。それを纏う、黒髪の男性。極東の。背は、それほどには高くないけれど。それでも、わたしなんかよりずっと高くて。そして、心鉄が入っているみたいに真っ直ぐに伸びていて。

 

 

「赤衛軍客員大佐、内藤隼人の名において。即時武装解除と投降を呼び掛ける。如何に?」

『───赤衛軍客員大佐、だと? ふざけるな、この極東野郎(イポーネツ)め! 黄色い猿風情が───!』

「一般人であろうと二度目はない。寄って、それを反抗と受け止める」

 

 

──崩れないものを思う。城壁のような。或いは、翻る旗のような。心強く、激励されるような。そんな。そんな彼の腰の、三本の機関刀(エンジンブレード)。その内の一振りが抜き放たれる。前に見た、確か……カネサダとか言う銘の物ではない。

──艶やかな刀身の。禍々しいほどに鋭利で、頑健な。その一振りを、白い雲のように山形に染め抜かれた袖の先の掌で握り締めて、音もなく抜き放って───

 

 

「行くぞ、我が牙───今宵の《長曾根虎徹(ナガソネコテツ)》は、血に飢えている」

 

 

 前とは違う刀、前と同じように。前後に足を開いて左の頬にくっつくくらいに引き寄せた、独特の構えで。

 流麗に。だけど、剛毅に。まるで、()()()()()()()()()()()()()。そんな、有り得ないことを思う。それくらい、雰囲気が違って見えて。

 

 

「俺には《鋼鉄の男》より、全ソヴィエト人民に対する無裁判処刑権が認められている。軍人ですら例外はない。則ち───一般人もまた、処刑対象だ」

『やって見せるがいい、極東の猿! この私をォ!』

 

 

──対して、イヴァン先生が叫ぶ。血の涙を流す双眸で、こちらを睨み付けながら。《背後のもの》も、無数の右手と真紅の瞳をぎらつかせながら。

──漆黒の、煤けた雪と同じ色を蠢かせながら。仮面の奥の()()()()()()を、ぎらつかせながら。

 

 

『この《古き恐怖(アブホール)ウピル》を、殺せるものならなァァァ!』

 

 

 瞬間。ウピルと呼ばれた怪物の───想像したままの吸血鬼の名前の───右腕が走る。ゴムのようにしなやかに、鞭のように鋭く、風を斬りながら。

 速い、目じゃ追えない。強化された反射神経を持つ《重機関化兵士(人狼たち)》でもなければ。躱せたとしても、ほんの少し。僅か半インチでも傷つけられれば、死んでしまうだろう。

 

 

 そして、塩の塊に変わる。変わって、《黒い雪》に紛れて無くなってしまう。これはそういうものだと、《背後の白い彼》が叫んでいる。

 

 

「───砂漠都市のアデプト達に唄われる《白き狂気の仮面》に、恐怖の顕現アブホール。()()()()()()全ての命を害し、機関を塩の柱に変える《盟約》の天使。ラスプーチンめ、面倒なものを持ち出してきたものだが……俺の牙には関係ない」

GYAAAAA(ギャァァァァァ)!』

 

 

──それを、斬り払って。薙ぎ払って。刀の柄のレバーを操作し、柄の先端から排煙の尾を引きながら。それは、まるで。強壮な虎が、葦の茎をへし折るかのように。なんの危なげもなくて。

──右目に現象数式の光の板を浮かべたハヤトさん、辟易するように吐き捨てて。ちらりと、こちらを見た。

 

 

──全ての《アブホール》は不滅──

 

──物理的な破壊は無効──

 

 

「だが───些か変質しているらしい。()()()()()()か、やはり取り込まれた《ルー・クトゥの魔神》のせいか」

『左様───ラスプーチンの夢に取り込まれたか、憐れな同胞よ。“闇の中の餓鬼”《シュイ=ニャルー》よ……せめて、解き放ってやろう』

 

 

──《アブホール・ウピル》の場合──

 

──その唯一の破壊方法は──

 

──朝陽を浴びせること──

 

 

 そして、いつのまにかわたしたちの隣に現れていた鋼鉄の黒狼───《ふるきもの》ヌギルトゥルさん。そのクローム鋼の顎が、懐かしむように。ううん、哀しむように、声を奏でて。

 

 

──て言うか……子供って。アレクセイ君のこと、よね? わたしはもう、子供じゃないし。うん、違うもの、もうお酒も飲める大人だし、うん。

──そう、よね?

 

 

 なんて、とりとめの無いことを。腕の中のアレクセイ君の震えを感じながら、一瞬、思って。

 

 

──しかし、永久の灰色雲に覆われた西亨では不可能──

 

──則ち、破壊方法は──

 

 

「つまり、やはり斬るしかあるまい───さて、イヴァン・フョードロヴィチ・カラマーゾフ。同じ釜の飯を食った縁だ、最後通牒くらいはしてやる」

『──────』

「大人しく腹を斬れ。さもなくば、抵抗せず頭を垂れろ。そうすれば、一瞬で全てを終わらせてやる」

 

 

 傲然と、悠然と、言い放つ。赫色の瞳を鋭く絞って、睨み付けながら。

 

 

『く───くく、はは。ハハハハハハ! まさか、まさか極東の猿如きに、ここまで言われるとはな!』

 

 

 それに、イヴァン先生は哄笑する。さも、可笑しげに。さも、笑える話を聞いたとばかりに。

 

 

「可笑しいか?」

『 可 笑 し い と も ! 』

 

 

 そして、更に濃密な憎悪と殺意を、背後の怪物と共に、新たにハヤトさんに叩き付けながら。

 

 

『《露極戦争(ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー)》で! 判定勝ちを掠め取ったくらいで! 我らロシアに勝ったつもりか、猿が!』

 

 

──《露極戦争(ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー)》。則ち、ソヴィエトの前身であるロシア機関帝国と極東帝国との戦争。帝政末期のロシアと東の果ての小国に過ぎなかった極東帝国との戦争。当初は、誰もがロシアの圧勝を信じて疑わなかった。国力としても、文明としても。既に列強と呼ばれていたユーラシア大陸の北半分を有する大帝国である我らがロシアと、数十年前に鎖国政策を解除したばかりの東の果てに張り付くような僅かな島嶼部でしかない極東帝国との戦争。

──しかし、結果は極東帝国の優勢勝ち。控えめに言っても、引き分けと終わった。口さがない人達は『米国が口出ししてこなければ』、『あのまま続けていればロシアが勝っていた』とは言うが。既にロシア革命の気運著しい時勢、あの戦争を戦い抜く団結力などなかった。例え、勝っていたとしてもグルジアやアフガン、モンゴル、バルト三国、ユーゴスラヴィア、南部のイスラーム等の各自治政府の独立を防ぐことなどできずに。現在のソヴィエトの国土は、半分に落ちていたことだろう。

 

 

「よく言う。レーニンの言葉に踊らされて君主を弑し、国を乗っ取った銀行強盗ども(ボリシェヴィキ)を手放しで称賛するような貴様らが。恥を知るが良い、俗物」

『───黙れ。貴様に何が解る、異邦人が! あの時代、あの時! 《最善》の行動はそれ以外に無かったのだ!』

「そのあたりは理解しよう。我ら極東人もまた、将軍を廃した同じ大逆人だ。だが、否、だからこそ考えは変わらぬ。どう言葉を弄したところで、天下の大逆を犯した事実は。仁義八行を犯した事実は変わらんよ」

 

 

 冷厳と、厳然と、そんな言葉を投げ掛けて。ハヤトさんは空の色の羽織を翻しながら。かちゃり、と刀を構える。先程の構えより、更に深く。更に、獰猛に。さながらそれは、獲物を定めた狼が今、今、今。まさに今、食らい付こうとしているかのよう。

 対する先生は、その言葉に俯いて。何かを堪えるように、肩を震わせるだけ。背後の怪物も、切り落とされた腕の痛みにか、同じようにしていて。

 

 

「天然理心流───」

『───な』

 

 

 もはや、その勢いを止めるなんて。誰にも不可能───!

 

 

『───() () () () 、 () () () () () () ()

「──────ッ! なん……だと…………!」

「っ───ハヤトさん!」

 

 

 そして、有り得ないことが起きる。先生の眼差しを伴う言葉と共にハヤトさんの勢い、完全に止まって。無防備と驚愕、誰の目にも明らかで。

 それに対応して、再生された怪物の右腕が振るわれる。巨大なビルディングすら打ち崩す一撃を、ハヤトさん、躱したり防御したりすることもできずに、戦車に撥ね飛ばされるように。

 

 

『ククハハハハハハ───教えてやろう、教えてやろう、アンナ・ザイツェヴァ! 我が異能(アート)を! イヴァン・フョードロヴィチ・カラマーゾフは、《教唆》する!』

「っ……《教唆》……?」

『そう、《教唆》だ! 他者の精神に固定観念を植え付ける───今、このようにな!』

 

 

 ハヤトさんの叩き付けられた壁。ハヤトさんが叩き付けられ、粉砕されて巻き上げる煙それだけの威力だ、まさか無事ではあるまい。

 

 

『《うつくしきもの》のための! 私の力だ!』

 

 

 そして、陶酔する言葉を吐きながら。その瞳は、もう一度わたしとアレクセイ君に向けられて───

 

 

「───銀行強盗(ボリシェヴィキ)どもに尻尾を振るばかりか《黒い道化師(ラスプーチン)》に与えられた力で傲る、憐れな男め。貴様に、信念の力と言うものを教えてやろう」

『何──────バカな?! 《アブホール》の一撃を受けて、無事な筈がない! 《アブホール》に傷つけられたものは、例外無く、黒く腐り果てて死ぬと言うのに!』

 

 

──立っている、その人は微塵も揺らがずに。空色の羽織を夜風にはためかせながら、二つの足でしっかりと。

──わたしたちを庇うように。気高き、漆黒の狼が。吼えて────

 

 

「如何に《アブホール》の爪が鋭かろうと、強靭であろうとも。我が大将の……勇さんの《長曾根虎徹》は、決して折れない」

『貴様ァァァ!』

 

 

 わたしの目の前に立っていた無傷のハヤトさんは、呆れたように、憐れむように呟いて。構え直した刀に、静かに息吹を掛ける。

 

 

「《大いなる渦(ルー・クトゥ)》の言葉を借りて。来たれ、我が影、我がかたち」

 

 

──刹那、確かに見えた。蠢くように歪なもの。虚空に刻まれる、大きな、大きな────忌まわしい、渦を。

──膨れ上がり、揺らめく、不気味な渦を。

 

 

「炎すら凍結する極寒の辺獄────」

 

 

──半透明に透き通ったアネモネ(アニモン)の花のような。

──或いは、この世ならざるもののような。または、捻れた音のような。

 

 

「氷すら凍結する零下の凍獄──」

 

 

──もし、背後に《白い彼》が居なければ。それだけで、精神が凍りついていただろう。

──きっと、あれは見てはいけないもの。見えては、いけないもの。

 

 

「そして、滅びをもたらす絶対零度の渦。我が声に応えて出でよ、我がかたち」

 

 

──そして、そこに潜むもの。あらゆるものを嘲笑する、二対四つの黄金の瞳を見て。『人間め、愚かな猿め。もっと惨めに、神の掌で踊って見せろ』と嘲笑う意思そのもの。

──()()()()()()()()()()。見たことなんてないけど、()()()()()()()()()()()()()()。わたしは、涙、流しながら見て────

 

 

「無情なる氷の神。《ふるきもの》、ブグヌ=トゥン!」

 

 

 閃光の速度で渦が歪む。

 瞬きの速度で氷が湧く。

 氷の怪物が、無明の黒を睨むのだ。

 

 

「汝の(かいな)は我が腕。汝の罪、あらゆる全ては我が罪。さあ、《ブグヌ=トゥン》。俺達の敵は、忌まわしく黒き闇の中の吸血鬼(ウピル)

 

 

 その機関刀(エンジンブレード)を氷が伝う。意思のある氷、のたうつ蛇のように。鋼を、氷の速度で、氷の冷たさが覆う。

 絶対の零度を纏って、辺りの黒い雪すらも揮発させながら。ハヤトさんは────

 

 

「……言っておくが、俺は。《雷電王(ペルクナス)》や《黄衣の王(ストリボーグ)》のようには甘くないぞ────仔兎(ザイシャ)

「っ────」

 

 

──わたしに、言葉を投げ掛ける。振り向くこともなく、ただ、それだけを。囁くように穏やかな声色で、でも、宣言するように冷酷な声色で。

──それだけで、分かる。ハヤトさんは、イヴァン先生を()()()()()()()()()こと。このまま────あの漆黒の怪物ごと、()()()()()()()()ことが。

 

 

『じゃあ、どうするの?』

 

 

────では、どうするんだい?

 

 

「────わたし、は」

 

 

 震える。怖い。あんな怪物の前に出るなんて。

 

 

『きみは、なにがしたい?』

 

 

────目を覆う?

 

 

「イヴァン先生、を────」

 

 

 でも、それでも。

 

 

『ぼくは、きみをみているよ』

 

 

────瞼を閉じる?

 

 

『ぼくには、からだがないから』

 

 

────それとも

 

 

 わたしは────

 

 

「────助けるわ、絶対に。イヴァン先生を」

 

 

──鋼の兜に包まれて──

 

 

『アンナ。アナスタシア。ぼくは、きみをみている』

 

 

──鋭く輝く、青が一つ──

 

 

 背後に立ち上がるもの。影、《背後の白い彼》。その存在をしっかりと感じながら。

 

 

 

 

──少女の瞳──

 

 

 

 

──わたしは、瞳を逸らさない!

 

 

 

 

──血の海原に揺蕩う、望月の黄金に煌めいて──

 

 

 

 

 視界の端で踊る、黒い道化師(クルーン)の言葉なんて聞こえない。聞こえていても、意味なんてない。わたしは、絶対に、瞳を逸らさない。

 

 

 だって。

 

 

──まだ、イヴァン先生に、伝えないといけないことがあるもの!

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた皇帝(ツァーリ)の城だ。誰もが知りながら、誰もが知り得ない。漆黒と排煙に閉ざされた、この世の地獄だ。

 そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、八大地獄(カルタグラ)だ。そこは死して尚、魂を苛む八寒地獄(コキュートス)だ。

 

 

 ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。

 

 

「喝采せよ、喝采せよ! おお、素晴らしきかな!」

 

 

 声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。

 

 

「我が《最愛の子》が第四の階段を上った! 物語の第四幕だ! 現在時刻を記録せよ、ラスプーチン! 貴様の望んだその時だ────《鋼鉄の男》よ、震えるがいい!」

 

 

 その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の皇帝(ツァーリ)が一人。盲目に、白痴に狂ったままに。従う事の無い従者に向けて叫ぶのだ。

 

 

「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。時計など、持ち合わせてはいませんがね」

 

 

 答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

 

「くっ──はは。夢、夢だと? ああ、偽りの《黄金瞳》と、最初で最後の《奇械》を無駄にして────悪い子だ、アナスタシア」

 

 

 堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。

 

 

「ええ、ええ。本当に」

「そうね、そうね。本当に」

「全くだわ、全くだわ。本当に」

「「「本当に本当に悪い子ね、アナスタシア」」」

 

 

 傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共にロシア舞踊(ベレツカ)を躍り、嘲りながら。

 まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる道化師(クルーン)が。

 

 

「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛の形あり!」

 

 

──それが、物語の第四幕。お伽話か活動写真(フィクション)のような、男女の出逢い。

──路地の侍士(ストリート・ナイト)と、白い皇女殿下(ベールィ・インピェーラリスサ)の。

 

 

皇 帝 陛 下 万 歳(ウラー・インピェーリヤ)──────────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 

 その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けて────

 

 

「────すべて。そう、すべて」

 

 

 その、軋むような音をたてる両腕────

 

 

「全ては、ただ。《愛しく遠き理想郷(アイラ)》の為に」

 

 

 深紅の右腕と蒼白の左腕、揺らめかせながら────

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

「待っていて、アレクセイ君。すぐに終わらせるから」

「あ、アンナ、さん……」

 

 

 腕の中で震えている少年に、そう微笑みかけて。震える足と、心臓を奮い立たせて。

 

 

「……はい、どうか。どうか、兄を────助けて下さい!」

「ええ────必ず」

 

 

 泣き笑いの笑顔でそう答えた彼に、頷きかえして。きっ、と。精一杯の意思を込めて、前を見て。一歩、前に出る。ハヤトさんの影から、前に。わたしの足で、わたしの意思で。涙、拭いながら。濡れた袖の()()、無視して。

 背後から、視線を感じる。ハヤトさんと、ヌギルトゥルさんの視線。受けて────

 

 

『よい覚悟だ。援護する』

「機会は一度限り。あのデカブツを、俺が斬った瞬間のみ。他では、間に合わない」

 

 

 ハヤトさんの言葉の意味、よく分かっている。あの怪物を産み出したのは、イヴァン先生の心。あれが存在する限り、あれを壊さない限り、イヴァン先生は囚われたまま。

 

 

────その通り。あのままにしていても、どうにかしようとしても、彼は死ぬ────

 

 

 そして、あれを壊せば、イヴァン先生の心もまた、壊れてしまう。つまり、助けることができるのは、その一瞬のみ。

 

 

────命、ではなくて。心が、記憶が。(スターリ)になるのさ────

 

 

 嘲笑う道化師が煩わしい。今、忙しいの。何処かに、消えろと言葉を────

 

 

「────仔兎(ザイシャ)

「ひゃ────!?」

 

 

──吐こうとした瞬間、背中側から抱き寄せるように。それに、顎、持ち上げられて。強制的に、上を向かされた。そこには、黒髪の男性の顔。極東の彼の、その狼のような赫い瞳が、覆い被さるように見下ろしていて。

──後少しで、キス、が、できそうなくらい。それくらい、近くて。わたし、きっと真っ赤だと思う。

 

 

「道化師など放っておけ。今は、目の前に集中しろ」

「あ──は、はい」

 

 

──紫煙の残り香を漂わせながら。不思議、彼の持つ刀の氷の冷たさ、感じられなくて。

──そう、一回きりの機会。失敗なんてできないんだから、あんな道化師のことなんて、気に留めてやらない。

 

 

 その事に気づいた瞬間────道化師は、肩を竦めながら。黒い雪に、景色に、融けるように消えて。

 

 

『だいじょうぶ────ぼくが、てつだうから』

 

 

 代わりに、《背後の白い彼》。その強い存在感を、確かに感じて。

 

 

「……大丈夫です、やります! だから────」

 

 

 彼の瞳、真紅の瞳を真っ直ぐに見上げながら。見つめ返しながら、言葉を。決意と共に。

 

 

「────どうか、貴方の力を貸してください。ハヤトさん」

 

 

 口にすれば────

 

 

「────承知(ダー)我が皇女(モーャ・リージィ)……アンナ」

 

 

 彼は、真摯な表情のまま。普段はしないような、軽口を述べて。

 

 

「────“差し向かう 心は清き 水鏡”」

 

 

 また、極東の言葉で。多分、詩編を詠んで。

 

 

 金属の擦れ合う音、甲高く。わたしとハヤトさんの回り、飛び交う漆黒の刃金(ハガネ)。それが、ヌギルトゥルさん────二輪蒸気機関車『サモセク』の装甲であると悟ったときには、もう。

 

 

《────行くぞ》

 

 

 背後のハヤトさんの姿、全身を鎧に包まれた────カダス北央帝国のヒュブリス帝が作り上げたと言われる《駆動鎧(アーマード・トルーパー)》を思わせる、黒い騎士の姿に変わっていて。

 

 

「────はい!」

 

 

 答えた瞬間────怪物の重厚なものを引き裂くように響いた、つんざくように警戒な蒸気機関の稼働音。ハヤトさんの背中の、二輪蒸気機関車の機関が、激しく排煙を噴いて。

 

 

『機動鎧だと────生意気な、猿の分際でェ! () () () () () () () ! 』

 

 

 それに気付いた怪物が、両腕を振るう。鉄の雨、鉄の風。わたしたちを飲み込もうと吹き荒れて。

 

 

《飛ぶぞ、ヌギルトゥル────圧縮蒸気噴出機構(スチームガスト)、作動準備。直線機動、シリンダー圧三割!》

了解(ウィルコ)!》

「は────うっ?!」

 

 

 聞こえた、その台詞。二度目だから、心構えはできている。できている────

 

 

「ひゃ────あぁぁぁ?!!」

 

 

──できていたけど! やっぱり慣れないものは慣れないから! わたし、大きな刃金の翼を広げたハヤトさんの左腕、黒い鋼鉄に包まれた左腕に抱かれるように!

──高く、高く! 黒い雪雲に届きそうなくらい、空高く!

 

 

 飛んで────!

 

 

『バカな────何故動ける! 私の《教唆》を受けて、動けるわけが!』

《教えてやろう、教えてやろう、イヴァン・カラマーゾフ。この鎧は、仕手(シテ)の精神に作用する効果を遮断する。つまり────端から、相手にならんと言うことだ、貴様など》

『 貴 ィ ィ 様 ァ ァ ! 』

《 残 念 だ っ た な ! 》

 

 

 遥か遠い地上、《赤の広場》の石畳の上で喚く黒い影がある。小さい、今のこの高さから、聖ワシリィ大聖堂の尖塔の上から見下ろせば。

 なんて、小さい。そうよ、あんなもの。怖くなんかない────!

 

 

『 () () () !  () () () () 穿() () () () () () () () !  () () () () () ! 』

 

 

 それに、イヴァン先生は黄金の右目を煌めかせながら。自分と、怪物にそう《教唆》しながら。

 無数の右手のただ中、掌に。強靭な牙を幾つも備えた、顎を作り出して。

 

 

 振るって────散弾の如く、牙を放つ!

 

 

《天然理心流────》

 

 

 でも、ハヤトさん、天の頂でくるりと頭を下に向けて。真下に向けて、更に、勢いよく。

 

 

 まるで、雹のように、最高速度で────!

 

 

《────電光剣(デンコウケン)!》

 

 

 圧縮蒸気の塊に、全てを灰燼に帰す劫火を纏った刀を真っ直ぐ、振り下ろす────!

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が眩むような閃光。意識を飛ばしそうな衝撃。普通なら、今頃、わたしの体なんて雪のように消えていると思う。

 

 

『馬鹿な……!』

 

 

 でも、生きている。わたしには、まだ────

 

 

『そんな、馬鹿な! なぜ生きている、ウピルの牙を食らって! なぜ!?』

 

 

──やらなきゃいけない事が、あるから!

 

 

『 () () () !  () () () () () () !?』

 

 

 あと、五歩の距離で。異能で造り上げたんだろう漆黒の腕、その掌の強靭な牙をわたしに突き付けて、叫ぶイヴァン先生。

 背後では、ハヤトさんに眉間から刀を突き立てられて。完全に動きを止めている黒い怪物が、全身を凍てつかせている。

 

 

『なぜ、私の邪魔をする────お前は、どうして!』

 

 

 後、四歩の距離で。ガチガチと牙を鳴らす異形の顎。放たれる牙の礫。でも、でも。

 

 

遅いわ(ニズカャ)────」

『なんだ、それは────なんなんだ、お前は! その目と言い、その化物と言い!』

 

 

 後、三歩の距離で。《背後の白い彼》が、わたしを護ってくれる。白銀の左腕で、それを打ち払って。

 

 

『 () () () 、 () () () () () ! 』

「────喚かないで(チーハ)!」

 

 

 後、二歩の距離で。《教唆》の叫びは響く。でも、《背後の白い彼》がそれを許さない。だから、それはただの人の声だ。構わず伸ばしたわたしの左腕、それに沿うように、白銀の左腕、重なって。

 

 

「わたしは決して破壊しない。わたしは決して奪わないわ。あなたに、夢を、取り戻してほしいだけ」

『私の、夢、だと?』

「思い出させてあげる。わたしは、ううん、()()()()()は、()()()()()()()()()()()()()だから」

 

 

 わたしたちになら、できる。わたしたちの、この、《善なる左手》ならば。

 

 

『何を言っている! 私の夢は、夢は!』

 

 

──思い出して、イヴァン先生。あなたの夢を。

──あなたの夢は。()()()()()()()()()()()()じゃないでしょう?

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

 後、一歩の距離で。わたしは、背後に囁く。

 

 

「背後のあなた。わたしの《奇械》イクトゥス────わたしは、あなたに、こう言うわ」

 

 

 心臓に牙を突き付けられた、後、零歩の距離で。決意と共に、白銀に煌めく左腕、彼に────

 

 

 

 

 

 

「────“薄氷の如く、溶かせ”」

 

 

 

 

 

 

 触れて────────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

──壊れていく。私の《ウピル》が。凍てつかされ、砕かれる。私の《古き恐怖(アブホール)》が。凍り腐れさせられ、瘴滅させられていく。私の、恐怖の形が。

──良かった。やはり、この世には有ったのだ。恐怖に負けない勇気が、恐怖に打ち勝つ正義が。ああ、それが知れただけでも、良かった。

 

 

「あ、あ────」

 

 

 そして、思い出す。私は、イヴァン・カラマーゾフは。ザイツェヴァと、その背後に顕現した《白い影》の手が触れた瞬間、再生されたその過去を。まるで、活動写真のように。

 青年の頃、憧れた女性。その、《うつくしきもの》を。まだ、愛は全てに勝ると信じていた、あの日。生まれた、夢を。増殖し続ける、その現在を。

 

 

『そうか、私は────』

 

 

 そう、思い出した。私の夢。私の願いを。

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

 私の、夢は────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「ああ────そう、だったな……」

 

 

 カラン、と。地面に落ちて、白い仮面が砕け散る。砕けて、《黒い雪(チェルノボグ)》に紛れて、見えなくなる。

 ぽろぽろ。ぽろぽろ。目の前で零れ落ちた、イヴァン先生の涙、右目からの涙と共に。

 

 

「私の、夢は────」

 

 

 消えた黄金の輝きと共に、流れた黒い煤と共に、失われた《教唆》の異能と共に。

 

 

「────イヴァン!」

「────イヴァン兄さん!」

 

 

 女性と、少年が────いいえ。カテリーナさんとアレクセイ君が、その右手を、彼に。イヴァン先生に、伸ばして。

 

 

「兄さん、兄さん────」

 

 

 倒れた彼の、体を抱き寄せて。ホテル・メトロポールから駆け付けたのだろうカテリーナさんと、今まで震えているだけだったアレクセイ君が。

 。

 

 

「……ごめんなさい。ごめんなさいね、イヴァン……いつもいつも、あなたにばかり迷惑を掛けてしまって────」

 

 

 倒れ付した彼に右手を、重ねて。笑顔のままで。全身から汗を、白い吐息を、涙を溢しながら。

 笑顔のままで、ぽろぽろ。ぽろぽろ。零れ落ちるのは────

 

 

「ああ、ああ────そうだ。国も、主義も、どうでも言い」

 

 

 雫、涙で────

 

 

 それは────

 

 

「私の夢は────ただ、欲しかっただけだった、な」

 

 

 力尽きた彼の吐息と共に、風に吹かれる雪のように。

 

 

「本当の…………()()が…………」

 

 

 モスクワの街並みに、消えていった────……………………

 


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