銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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夕暮 ―сумрак―

 

 

 しんしんと音もなく、誰かの光を奪おうと、足を掬おうと《黒い雪(チェルノボグ)》の降り続くモスクワ市内。肌を切るほどの零下に冷え込む都市中心地、《赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)》。南西にクレムリンの城壁と大統領官邸、レーニン廟、北東にグム百貨店。北西に国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東に聖ワシリイ大聖堂を望む、この広場

 誰もが、《赤の広場》と呼ぶ、そこ。かつては、()()()()をもって語られていた、そこ。だけどもう、その()()()()を語る人はいない。()()呼ぶにはもう、そこは、《真紅(クラースニィ)》に塗れ過ぎたから。

 

 

 あのロシア革命以降、このスターリン閣下の治世の下。その処刑台(ロブノエ・メスト)では罪の真贋に関わらず、ただ国家反逆罪の罪状をもって、幾多の市民、幾多の外国人、幾多の兵士、幾多の政治家、幾多の革命家、幾多の将校の血が流されてきたから。

 《黒い雪(チェルノボグ)》は止まない。そんな血の歴史を覆い隠すために? いいえ、むしろ暴きたてて、嘲笑うために。凍てついた真紅を浮かび上がらせ、いつまでもいつまでも、そこに染み付けるために────

 

 

「────えっと、以上が《赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)》の案内になります」

 

 

──カラマーゾフ先生のご親族を伴っての《赤の広場》の名所巡りを終えて、わたしは白い息を吐きながら、まず、当のカラマーゾフ先生達を見る。ちなみに、ジュガシヴィリさんはお仕事があるからと帰られたから、此処にはいらっしゃらない。

──うまくできたとは思うのだけれど、満足していただけたかどうかは分からないから。だから、後ろに続いて歩く五人を、振り返って。

 

 

「はい、とても楽しかったです。特に、カザン聖堂は興味深かったです」

「そうね、私はミュールとメリリズ……今はグム百貨店って言うんだったわね。噂には聞いていたけれど、あんなに盛況だなんて思ってもみなかったわ」

 

 

 そう、満面の笑顔で答えてくれたアレクセイ君とカチェリーナさん。本当に、女の子みたいに可憐な笑顔と綺麗な大人の女性の笑顔で。この過酷なソヴィエト連邦、同志スターリン閣下のお膝下たるモスクワで。

 

 

──教会の壁に描かれたイコンの、天使様と生女神を思う。見ているだけで、こっちが元気を貰えるような。こんなにも清清しい笑顔は、いつ見て以来だろう。

──それに、比べて。

 

 

「……………………」

「……………………」

「……………………」

 

 

 表情固く、むっつりと黙り込み続けている、この男性三人組。まあ、無言と煙管で二重の意味で『もくもく』としているハヤトさんは部外者な訳だし仕方ないにしても…………イヴァン先生とドミトリーさん、このお二人。ワシリィ大聖堂で短く言葉を交わして以来、一言どころか目線すら交わしていない。

 久々に会った兄弟、とおっしゃっていたのに。どうしてだろう────

 

 

 そんな風に、疑問に思った事が分かったのかしら。カランコロンと木の板の履き物……下駄、とか言うらしい極東の靴を石畳に鳴らしながら歩み寄ってきたハヤトさんが────

 

 

「……どうやら、退っ引きならない理由があるようだな。恐らくは女絡みだろう。例えば────そう」

「えっ────」

 

 

──万色の紫煙を燻らせながら耳元に寄せた唇で、そんなことを耳打ちして。鼻孔をくすぐる煙草の香り、男性らしい低い声、切れ長の三白眼の赫い瞳、端整な顔立ち、すぐ間近で。

──心臓、ばくばく。モスクワの零下の空気の中、頬が真っ赤に紅潮してしまうのをわたし自身で自覚しながら。

 

 

「────カチェリーナと言うあの女、どうもあれが()()な」

「カチェリーナ、さん?」

 

 

 口にした言葉に、一瞬、呆けて。

 

 

「────あ」

 

 

『君を、愛している』

 

 

────はい、私は、愛しています。

 

 

 そして、彼は、一人の女性を愛しました。

 

 

『君を、愛している』

 

 

────はい、私は、愛しています。

 

 

 愛した女は、焦がれたように口にします。美しい彼女、儚い彼女。愛の何たるかすら、知らぬような彼女は。目の前で愛を語る男に?

 

 

『君を、愛しているんだ』

 

 

────はい、()()、愛しています。

 

 

 いいえ、他の誰か────此処には居ない、誰かに────

 

 

『君を、愛しているんだ』

 

 

────はい、()()、愛しています。

 

 

 焦がれたように────

 

 

『君を、愛しているんだ、僕は。だから、君も────』

 

 

────いいえ。私が、愛しているのは。

 

 

 でも、それも仕方ありません。だって、彼が欲しかったものはこんなものではなかったのですから。

 

 

────()()()()()()()()()()()()────

 

 

──目の痛みと共に、地面を、天空を喪ったように。平衡感覚を喪って。

──何か、良くない『()()()』を。《黒い道化師(クルーン)》が嘲笑いながら、()()()()()()()()()()()()()()()()を、微睡みの『()()』で垣間見た気がしたのだ。

 

 

「そろそろ、いい時間だね。夕食(ウジン)を摂ろう。レストランを予約してあるんだ」

 

 

 次に口を開いた男性、イヴァン先生。その、僅かに強張った言葉と口調は、()()()によく似て、まるで()()()()()()()()()()()かのようで。

 

 

「まあ、外食なんて久しぶりだわ。楽しみね、アリョーシャ」

「はい、姉さん」

「ああ、モスクワ市内でも最高級のレストランだよ」

 

 

 それに、カチェリーナさんとアレクセイ君は素直に喜びの表情を見せて。だから、イヴァン先生も少し、固かった表情を緩めて。

 

 

「まあまあ、ますます楽しみだわ────ねえ、あなた?」

「…………ああ、そうだな」

 

 

 やっぱり、表情を固くしたままだったドミトリーさんに。夫婦らしく睦まじげに話し掛けたところで。それに面倒そうに答えたドミトリーさんに、緩めていた表情を固くして。

 

 

「場所は、すぐそこの────」

 

 

 でも、上辺だけは取り繕って。指差した先は────

 

 

──そこには、確か。ずっと向こうに。

──え、まさか、えっ!?

 

 

「……ほう、メトロポールか」

「ええ。ですが、ザイツェヴァ君は兎も角、貴方の予約は…………」

()()()()()()()()()()()

 

 

 驚きに言葉を無くしたわたしの代わりに、何でもなさげに。やっぱり紫煙混じりに呟いたのは、ハヤトさんで。

 

 

──すごい(ハラショー)すごいわ(ハラショー)! ホテル、メトロポール・モスクワ。帝政時代に建てられたホテルで、各国の要人や貴賓を招いた、当時としてはロシア最高のホテルだった場所。その四階、最上階のプレジデンシャルスイートルームは、未だに全ロシア女性の憧れの場所。

──現在は、スターリン氏の肝煎りで建てられた《モスクワ高層建築七姉妹(セブン・シスターズ)》の、ホテル・レニングラードとホテル・ウクライナにその栄誉は譲渡したものの、未だに最高のホテルと言えばここを推す人は多い。

 

 

 だから、あわわ、と後退りして。旧帝政時代の最高級ホテルと言う最低でも一食3000ルーブルは下らないだろうホテルのディナーに目眩を感じなら。月収160ルーブルのわたしは、がしりと。抗えない力強さでその肩を、ハヤトさんに抱かれて。見返した彼、不敵に。実に、いたずら小僧っぽく微笑んで。

 

 

()()()()()()()だ。行くぞ、仔兎(ザイシャ)

「えっ────えええ!?」

 

 

 笑うハヤトさんに引き摺られるように、慌てふためきながら、ホテル、メトロポール・モスクワへと進んだのだった。

 

 

 

 

……………………

………………

…………

 

 

 

 

──そうして、そこに座っている。わたしは、豪奢な赤いテーブルクロスの引かれた、三ツ又の燭台がゆらゆらと照らすテーブルに、慣れないナプキンなんかを膝の上に敷いた状態で座って。

 慣れないテーブルマナー、取り合えず試してみて。こう言うとき、マナーには厳しかったお母さん(マーマ)に感謝しながら。

 

 

「……どうぞ、ナイトウ様。そしてMs.(ガスパジャー)ザイツェヴァ。前菜の鮭とイクラとビーツのサラダでございます」

「ああ、悪いな」

「あ、あの────」

「御気になさらず。では、御用がありましたら御呼びくださいませ」

 

 

 それだけ言って、卓の呼び鈴を示した給仕の男性は引き下がる。然り気無く、ハヤトさんからチップを受け取って。ジュガシヴィリさんの付き人さんみたいに、一定の距離を保って動かなくなる。

 ううん、わたしは、何をしているんだろう。そんな疑念が、改めて湧いて出て。

 

 

「あ、あ、の────」

「うん────何だ?」

 

 

 そう、宣いながら。さっさと駆けつけの蒸留酒(ウォッカ)を嗜んでいる彼に問い掛けて。ふう、とため息をこぼす彼に。

 ホテル、メトロポール・モスクワの中の大食堂。普通なら、朝食以外は解放されていない場所で。

 

 

「わ、わたし、お金……」

「心配は要らんと言った。俺の懐から出す」

 

 

 そう、ハヤトさんはおっしゃってくださるけれど。でも、こんなどう考えても高級なお店で、奢って頂くなんて気が引けるし…………。

 

 

「で、でも、あの」

「ふむ…………メインディッシュはベフストロガノフか。あのサワークリームの味には未だに慣れんが、致し方あるまい」

 

 

──ベフストロガノフ……! 前に食べたのなんて、何年前だったかすら覚えてない。そもそも、前菜の時点で一週間分の食費が飛びそうな内容なのに!

──でも、だからって、食べないのはハヤトさんにも食材にも失礼だし…………そ、そうよね。折角のご厚意を無駄にしちゃ、ダメ、よね?

 

 

「……あの、ハヤトさん」

「……何だ?」

「い、頂きます……」

 

 

 そう、自分でも嫌になるくらい食欲に負けた結論を出して。大人しく両端のフォークとナイフを手に取り、前菜のサラダを頂く。

 久しぶりに食べた鮭とイクラ、うん、おいしい。機関工場製のものだろうか? 天然物は、機関工場から流れ出る廃液に汚染された海と川では育たないのだから、そうなんだと思うけれど。

 

 

──そういえば、最近はかなり安いお肉が出回っているみたい。2キロで1ルーブルとか言う、どう考えても怪しい機関工場製の。真っ黒いお肉で、なんでも()()()()()()()()()()()だとか。

──少し興味があるけれど。真っ黒いって言うのが、いかにも過ぎて。怖くて食べられないったらもう。

 

 

 極寒のこのソヴィエト、ロシア。旭北の寒気を和らげたのも機関なら、更に厳しくしたのも機関。青かったと言われる空を奪ったのも機関なら、同じく青かったと言われる海を奪ったのも機関だ。

 どちらも実際に見たことはないけれど。それでも、かつて、歴史上で全ロシアが目指したと言う、凍らない海。南の楽園。東の果ての、黄金の国。

 

 

「────チッ。やはり廃液臭くて敵わんな、養殖物は。本当はこんなものには、1コペイカも出したくはないんだが」

 

 

──ちら、と。盗み見たその人。黒髪の、切れ長の赫い瞳の美丈夫。器用に二本の棒で食べ物を挟んで、落とすことなく口許に持っていく。たしか、チョップスティック(ネリョザット・ポリョチキ)とか言う食器を使う男の人。

──黄金の国(ジパング)、極東から来たその男の人は、ハヤトさんはそう、鮭とイクラを食べながら苦々しげに一人ごちていた。

 

 

「────あら、まあ。何て美味しいウォッカかしら、イヴァン?」

「分かるかい、カチェリーナ。そのウォッカはヴィンテージ物でね」

「まあ、それじゃあお高いんじゃ?」

「折角の日だ、これくらいなんて事はないさ」

「兄さん、でも僕、お酒は飲めないよ」

「はは、済まないな、アリョーシャ。その代わり、食事を楽しんでくれ」

 

 

 そして、隣の席。五人掛けの席に四人で座っているイヴァン先生にカチェリーナさんとアレクセイ君、ドミトリーさん。

 本当は、わたしもそこに座る予定になっていたそうだけれど。うん、家族水入らずを邪魔するのは気が引けるし、部外者のわたしがあそこに座っても気が落ち着かないしで、こうして隣の卓に移らせてもらっている。

 

 

 事実、わたしが居たら、お互い気を使って楽しめないだろうし。今も、イヴァン先生とカチェリーナさん、アレクセイ君は和やかに談笑していて。

 そこだけ見れば、なんだか、誰と誰が夫婦なのかと頭がこんがらがりそうで。

 

 

「……それは俺に対する嫌みか、イヴァン」

 

 

 ただ一人、不機嫌そうにウォッカを飲んでいたドミトリーさんが、やにわにそんなことを言うまでは。

 

 

「……それは、どういう意味だい、兄貴」

「どうもこうもあるか。笑っているのは分かっているんだ、イヴァン。流石に教師様は俺のような退役軍人とは金回りが違うな」

「あなた────」

「五月蝿い、黙れ、カチェリーナ。これは俺とイヴァンの会話だ────女々しい奴だな、イヴァン。お前は、まだ、()()()()()()()()?」

 

 

 静かに、だけど、消えない燠火のように。お酒のせいだけじゃない、怒りに座った瞳で、ドミトリーさんはイヴァン先生を。イヴァン先生は、ドミトリーさんを睨み付ける。

 

 

「滑稽滑稽、実に頭でっかちらしい。精々、そのたっぷり詰まった頭に思い知れよ。()()()()()()()()()!!」

「────兄貴…………!」

 

 

 まるで、仇に会ったかのように。ご兄弟の、筈なのに。一触即発の空気を纏い始めたお二人に挟まれて、カチェリーナさんは、ただ二人を交互に見詰めるだけで。どうすることもできず。

 

 

──あれ? そういえば、あんな姿、最近どこかで…………

 

 

「────まあまあ、兄さん達。こんな場所で大人気ないですよ。アンナさんとナイトウさんにもご迷惑がかかりますし、折角の御馳走が冷めてしまいます」

 

 

 そこで、アレクセイ君が睨み合う二人を諌めた。にこりと、無邪気に。それこそ、本当に、天使様のように。輝くような、眩しいくらいの笑顔で。

 それに、流石に毒気を抜かれて。そして、回りでも。わたしたち以外のお客さん達も、彼らを見ている事に気が付いて。

 

 

「…………そう、だな」

「…………フン」

 

 

 互いに視線を外して、イヴァン先生は自己暗示を掛けるように一つ、息を吐いて。ドミトリーさんは、ウォッカを一気に煽った。

 

 

「……あ、そうだわ。ナイトウさんとザイツェヴァさんも、ウォッカ、いかがかしら?」

「えっ、あ」

 

 

 と、空気を変えようとか、気を使ってくださったのか。カチェリーナさんが、ボトルを抱えてこちらに。

 ど、どうしよう、ウォッカは飲めないんだけど…………!

 

 

「頂こう。貴女のような美女が酌を取ってくださるんだ。断る理由はない」

「まあ、お上手ですこと」

「思った事、感じた事。事実を言ったまでの事だ」

 

 

 なんて、ハヤトさんはさっさとグラスを差し出してるし……!

 

 

──と言うか、鼻の下を伸ばしすぎだと思うんですけど。物理的には伸ばしてないけど、うん、精神的に。精神的に、伸ばしすぎったらもう。

 

 

「ふふ、お世辞がお上手ですのね。アンナさんも苦労しそうですね」

「にゃっ!? な、なんでわたし、あの、違っ」

「あらあら、うふふ。それにしては、拗ねた顔をしていらしたようだけれど」

「うっ、うぅ…………」

 

 

──そんなことを考えたのを見透かされたみたいで、ばつが悪いったらもう。

──だから、頭を冷やそうと。なんだかモヤモヤする胸の中のわだかまりごと飲み込んでしまおうと、わたしは()()()()()を一気に飲み干して。

 

 

「あ────」

「む────」

「え────」

 

 

 慌てた顔をしたカチェリーナさんと、驚いたな顔をしたハヤトさん。そして、その『水』の燃えるような味に珍妙な顔をしたわたしが居て。

 

 

仔兎(ザイシャ)────それは」

「ご、ごめんなさい────勝手に注いでいたんだけれど…………」

 

 

──あ、これ……ウォッカ

 

 

 それに気づいたとき、わたしは、遠くから聞こえる二人の声を聞きながら、ぐるぐる回る天井を見たような気がして────

 

 

──そこで

 

 

──きおくが

 

 

 

 

 

 

 

 

──とぎれ

 

 

 

 

 

 

 

 


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