銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
コツリ、コツリ。コツリ、コツリ。革靴の音、木霊する。広く、果てしない反響は何処までも。暗闇の中、誰かの足音がする。単調に、真っ直ぐ、長い間、ずっと。
その足音が、止む。間を置かず、今度は、がちゃりと錠の外れる音。続き、酷く重厚な門扉が軋みながら開く音が、来客を歓待する魔物の歓声の如く響き渡って。
薄い機関灯の明かりに照らされるのは、どこまで続くかも知れぬ膨大な書架。様々な装丁、様式。象形文字から記号文字。紙から板、果ては骨や合成樹脂の記録媒体まで。
しかし、それは全て、ただ一冊。即ち、《過ぎ去りし年月の物語》に、他ならない。全て、総て。ここに在るものは、何もかも。
長居してはいけない、正気が惜しければ。直ぐに取って返すべきだ、狂気に耐えられなければ。確かに、
例え、遍く神秘家達が夢にまで追い求める《
例え、かの雷電王すらも疎み遠ざける《水神クタアト》が。
例え、十字軍に参加した魔術師の記した《
例え、盲目の教授がセラエノ大図書館から掠め取った叡智《セラエノ断章》が。
例え、私自らが著した《
この《
──ああ、前よりも近くにその姿はある。だというのに、その道化師は、彼方の書架の影に紛れて。かと思えば、遥か彼方にあるその姿は、目の前の書架の前を
──狂っているのだ、ユークリッド空間が。歪められているのだ、あの道化師の《夢》によって。まるで、牡牛座にあるという、かの《黄衣の王》の
しかして、足音の主はすぐ脇の書架より二紙の新聞紙を取り出して。《
『全ての人民は、偉大なる同志ヨシフ・スターリンの元に集う』
──違う。これではない。
『反逆者レフ・トロツキー、メキシコの地にて誅殺される』
──違う。これでもない。
『ロマノフ王朝、悲劇の皇女達について』
ずしりと、重くなる頭。肩。蒼白の諦めと真紅の絶望が、鉛のように重く、硬く、のし掛かって────
──違う。これだ。私が探していたのは、この記事だ。間違いない。
──黙っていろ、
振り払う、蒼白の左腕と真紅の右腕。虚空に散っていく、黒い僧衣の巨躯。木霊する、反響することなく、鼓膜を揺らすこともなく、直接脳に響く嘲笑の声。
「これを記すあたって、私は、まず、読者諸君に中途にて記事を終了するやも知れぬと言う事について断っておきたい。私はしがない一介の記者であり、現ソヴィエト評議会とは何らパイプを持たぬゆえに、いつ、処断されてもおかしくないと言うことを。それを前提に、私は、一切の虚偽を記さぬことを、ロシア国民としての我が誠心に誓おう R・ゾルゲ」
それを無視して、私は記事に目を戻して。
『ロシア皇帝家ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフの血筋たるニコライ・フョードロヴィチ・ロマノフとフィンランド大公妃アレクサンドラ・フョードロヴナの間に産まれた四人の子女。長女と二女の《大きなペア》、三女と四女の《小さなペア》と呼ばれた四人の皇女達は、歳を重ねる毎に美しく成長した。四人は実に仲睦まじく、結束の証として
一家は、幸福であった。世継ぎとなる
暗い闇底の、道化師の庭。その深奥の書斎に、低く、低く。
此処にはない、このロシアでは観る事など叶わない、夜空の月の代わりのように、嘲笑が木霊して────………………
………………
…………
……
──開いた扉の向こうには、ただ、凍えるような静謐が広がっていた。しん、と静まり返った大聖堂の内側。壁面の聖人達のイコンは、いつも通りに虚空を見つめていて。
──神聖なものを思う。この冷えきった静謐こそが暖かく、柔らかな、祝福の声なのだと。わたしは、祈りを捧げて。
「…………」
──そして、気付く。隣で同じように、祈りを捧げる彼の姿。修道士服姿に違わず真摯な、敬虔な祈りを捧げるアレクセイ君の姿に。
「しかし、驚いたな────」
そして、いつも通りに。ええ、いつも通りに年代物の煙管を吹かしているハヤトさんの姿も、見付けて。
「……まさか、あのゾシマ長老の弟子とはな。世間とは狭いものだ」
「はい、長老様には良くしていただきました。貴方も、長老様とはお知り合いなのですか?」
「俺も、かつて彼に薫陶を受けたことがある。俺が知る中では、このロシアで人格者と言えるのは、彼とカサートキンくらいだ。返す返す、惜しい方を亡くした」
「ありがとうございます、極東の騎士様。そう言っていただけて、師も喜んでいることでしょう」
意外、なのだけれど。共通のお知り合いの話題でもう打ち解けているみたいで。隣り合って、笑みを交わしたりしている。
……うう、なんだろう、この疎外感。やっぱりいつも通り、夫人もいらっしゃらないし……
「あの、わたし……着替えてきますね」
「あ、はい。僕は祈りを捧げていますので」
「では、俺は────」
「────煙管だろう? 気が合うね」
と、ハヤトさんが椅子に座ろうとした瞬間。開け放たれた扉から、外気が流れ込む。
黒い雪を伴って、吹き込む、凍えた風が────
「……ここまで来ると、貴様はよもや俺に会いに来ているのかと背筋が寒くなるぞ」
「貴様────我があるじに、なんたる口を!」
矮躯の、怖気立つような。口ではあるじに令色を使いながらもわたしを見て舌舐めずりして見せた、性質劣悪な昆虫じみた従者を連れた────
「黙れ、ベリヤ────失敬。あながちそうかもしれないね、私としても友との時間は大事にしたいからね。我が友ハヤト?」
「薄気味の悪いことを抜かすな、イオセブ・ジュガシヴィリ」
怜悧な一声だけで、おぞましい従者を黙らせ、下がらせて。
いつも通りに最高級と判るスーツを難なく着こなして、最新式の機関パイプを吹かしながら薄く口許を歪める、ジュガシヴィリさんの姿があって。
「
「あ────えっと、あの」
にこりと、機械のように正確に。機械のように、精密に。あらかじめ用意していたかのような笑顔で、微笑んで。
『あぶない、アンナ。アナスタシア』
背後の《白い彼》が、そう、怯えながら。
『このひとは、きみを、きずつける』
告げる声、それをかき消すように。
視界の端に────
踊る、黒い道化師が────
嘲笑して────
………………
…………
……
───黒い。黒い。ああ、ここはなんて黒いのだ。
コツコツと、石畳に革靴の音を刻みながら。ふと思う。生まれ故郷であるサンクトペテルヴルクでも、雪は暗い灰色を帯びていたが。このモスクワの雪は、更に黒く淀んでいる。
全ての元凶は、遠く排煙の柱を立ち上らせるチェルノブイリ
──ああ、思い出すな。あの日々を。忌まわしい、おぞましき日々を。
薄暗く淀む大気に白い息を吐きながら、私は歩く。写真機を持つ生徒と約束した待ち合わせ場所の、聖ワシリィ大聖堂へと。
──だから、ああ。
「────イヴァン?」
「────!」
昔を懐かしんだところで。私は、私には、もう。
──視界の端に。
「やっぱり────イヴァン、イヴァンなのね?」
「……………………」
戻るべき場所も。迎えてくれる『兄弟』も。『愛』も、ありはしないのだから。
「────お久しぶり、ね」
「ああ────久しぶり、だね」
──躍る、道化師が見える。
「────カチェリーナ」
………………
…………
……
ああ────
「ところで、
「あ、あの……」
「受けとる必要はないぞ、
「そ、その……」
「そうかい? では、また我が温室で採れた
「あ…………ぁ」
「残念だったな、朝食は済ませている。食事の必要は、ない」
「う…………ぅ」
胃に穴が、開きそう────
──どうして、わたしは板挟みになっているんだろう。おかしいわ、わたしなんかが、どうして。昔読んだ、大衆小説のヒロインみたいに。
──リュダに借りた本で読んだときは、『意中の男の人と好意を寄せてくれる男の人との板挟みになって揺れ動くとか素敵。一度でいいから体験してみたい』とか思ってたけど。うん、実際に体験すると、胃に悪いったらもう…………
げんなりと、紫煙を吐きながら鎬を削り合う二人をどうしようもなく見詰めて。冷や汗だかなんだかわからない汗をかきながら、意味もなく両手を動かして、どうしようもなく。
今朝食べたボルシチが重たく感じるくらい、慌てて。見えない火花を散らしているような二人を、兎に角、どうにかできないかと……
──無理。できるわけないもの。
若干、そんな風に諦め混じりで。ただ、ふためくだけのわたしを尻目に。
「ああ────あの、お二方」
アレクセイ君が、ハヤトさんとジュガシヴィリさんの二人に。実に、実に。
「アンナさんがお困りのようですし、その話は一旦、棚上げしませんか?」
「…………」
「…………」
至極、簡潔に。それだけを、述べて。
「……まあ、確かにな。
「……ふむ、確かに。
──
「すまないね、修道士。君のお陰で、合理的主義と言うものを思い出したよ」
「よく言うな、紅鉄めが。貴様にはそもそも、合理的主義以外はあるまいよ」
「ハハ。流石は我が友人というものだね。良くも、私の事を解っているものだ」
「お前の本質を理解するくらいならば、星辰の戦慄きでも理解した方が
ああ────うん、なんだか、もっと面倒な事になっているような気もするけれど。気のせいよ、そう、気のせいよ、アンナ。
今は、ただ。ただ、うん、それは────
「────アンナ・グリゴーリエヴナ・ザイツェヴァ」
「え────?」
再び開かれた、聖ワシリィ大聖堂の扉から、吹き荒ぶ風と、声に遮られて。
「約束通り、写真を撮ってもらいに来たのだが────」
現れた、イヴァン先生。そして、お連れの綺麗な女性は本当に、驚いた顔で。。わたしと、ハヤトさんと、ジュガシヴィリさんを見回した後で。
「────アリョーシャ」
「────はい、兄さん」
アレクセイ君を、見て。盛大に驚いて。
「
「────はい、ごめんなさい、兄さん」
これが、本当の兄弟だと、言わしめるかのように。兄は、弟の頭を優しく撫でて。弟はそれに、快く応じて。
──素敵。うん、これが、本当の兄弟なのね。
だから、わたしは。
視界の端に踊る────
道化師の言葉を、聞き逃して────
わたしは────
「────
「え────あ」
背後から、肩を捕まれて。それにいつも通りに、困惑を返して────慌てふためきながら。それでも。
「────此処に居たか、カチェリーナ。アリョーシャ…………」
ハヤトさんの掌、その力強さを感じながら。新たに扉を開いた男性────何故だろう、ジュガシヴィリさんの付き人を思い出してしまう、剣呑な表情の男性を。
「────あなた」
「────兄さん」
イヴァン先生とはにても似つかない、その人を見て。それでも、その顔容に────
「お久しぶり、ですね────ドミトリー兄さん」
「ああ────イヴァン」
凍てつくような声で、その男性を『兄』と呼んで。同じく、凍てつくような声で返した男性に────カラマーゾフ先生の、面影を見出だして…………